by  rinker

 

「静止軌道上ラプソディ」目次へ

 

 

 

 

 私には母がいない。
 もちろん木の股から産まれてきたわけではないので、遺伝学上の母は存在する。けれど、十四年に渡る私の記憶の中に母という温もりはない。これは喪失ではなく、あらかじめの不所持。それだけのことだ。
 とはいえ、事情にまったくの興味がないというのでもない。何しろこれは私のバックボーンの相当に根深いところへ関係しており、近年とみに発達してきた自意識の作用というだけでなく、私にとってこの問題を知ることは自己理解への助けとなるはずだからだ。単なる好奇心というのもある。
 むろん私は訊いた。誰に? お父さんに決まっている。それこそ幼い頃から訊き続けている。結果分かったことには、どうやら死別ではない、らしい。お父さんは詳しいことを話してはくれない。水を向けても、母がまだ生きていることは認めるものの、あとはそうだなぁ、どうしてるかなぁと誤魔化し笑いをする。こういうとき、私はお父さんのことがとても嫌いになり、同時にとても悲しくなる。なぜなら誤魔化し笑いを浮かべるお父さんはひどく寂しそうだから。この私の主観によって成り立つ世界で誰より大きな存在がどうしようもなく心細そうにしているのを見るというのは、苦痛だ。その姿はまるで、身体に負わされた一生消えない傷痕を指先でなぞりながら、それを受け入れざるを得ない寂しさに耐えているかのようだ。私に対して甘えてくれたら、とも思うけれど、しかし私はまだそこまで大人ではない。いや、仮に私が今すぐ大人になったとしてもやはりお父さんは私に対して甘えてはくれないだろう。私はそれを知っている。だからどうしようもなくなって、秘密を作るお父さんに対して生意気な文句を一言二言吐き、これで勘弁してやるというポーズを取りながら、この件を終わりにする。そうする他に一体私に何ができる? 母はまだ生きていて、ここにはいない。ザッツイット。






1.ご破算で願いましては


「ふぇぇ、アキラちゃぁん」

 砂糖菓子みたいな甘ったるい声で呼びかけてきた友人が、教室で自分の席に座っていた私に、どういう了見だかタックルをしかけてきた。可愛らしい脳天がぺたんこの腹に突き刺さり、そのままドリル的運動を繰り返しながら胸元までせり上がって来る。私は椅子に座っているのだから、当然タックルを仕掛けてきた彼女は膝を床に突く中腰の姿勢なわけだが、胸元まで頭をよじ登らせる過程で私の膝と膝の間に強引に身体を割り込ませてきており、いくら気の置けない友人同士のじゃれあい(だと周囲は捉えてくれるだろう、かろうじて)にしても、少々居心地が悪い。昼の休憩時間で教室内に人も疎らだとはいえ、視線がないわけではない。というか本当にどういう了見なんだ。

「ちーぽん、落ち着いて。というかまず離れて」

 というか私のおっぱい(を持っているわたくしは女である)に顔をこすり付けないで。

「アキラちゃんまであたしを見捨てるのぉ?」

 何の話よ一体。

「だからアキラちゃんまで――」

 それはもう聞いた。
 どうやら何らかの事情によって思考能力がハムスター並みに減衰しているらしいちーぽんへの対処に困っていると、彼女の後ろからひょいと首根っこを引っ掴んで持ち上げた者がいた。私から引き剥がされたちーぽんは、手をばたばた振り回しながら素っ頓狂な声を上げる。

「ひょわわっ、なになにっ?」

「何はそっちだ、チナツ。一体何をしてんのあんたは」

 ちーぽんことチナツを母猫よろしく摘まみ上げたのは背の高い女の子で、私たちの友人の一人だ。彼女は聞き分けのない子猫を手にぶら提げたまま、こちらに物問いたげな視線を向けてくる。でもそんな視線を向けられたってこちらにもわけが分からない。何よそのご苦労様ねって感じの生温かい目は。

「よしのん、放してよう」

「だったらアキラにセクハラするのをやめな」

 クラスの女子の中で一番背の高いヨシノちゃん(ちーぽんはよしのんと呼ぶ)が、クラスで二番目に背が低いちーぽんを叱り付けている様子はまるで歳の離れた姉妹を見るようでどこか微笑ましい。微笑ましいのだけれど、タックルを受けた当人である私が和んでいても仕方がない。揉みしだかれた(誇張表現)胸の仇のためにも理由ぐらいは訊ねるべきだろう。

「それでちーぽん、どうしたの」

 ヨシノちゃんに首根っこを掴まれてぶら提げられたままのちーぽんは、私の問いかけで大変なことを思い出したかのように、みるみると涙を浮かべて顔を歪め、ぐずぐずと泣き始めてしまった。これには私も驚く。ヨシノちゃんの顔を見れば、彼女も驚いているらしく目を丸くしながら、どうしようと視線で問いかけてきている。どうしようと訊かれても私にも何がなにやら。で、とりあえず顔がひどいことになっているちーぽんにハンカチを差し出した。でもこの子は涙で目の前が見えておらず、受け取ろうとしない。差し出した手をそのまま収めるのも格好がつかないので、直接私がちーぽんの涙を拭いてやることにした。まあ、友人のこういった小動物的な姿を見せられると男だろうが女だろうが世話のひとつも焼きたくなるものだ。でももし勘違いして自分がちーぽんをどうにかできるんじゃないかなんて考える馬鹿男がいたら前に出て来い、この私がぶん殴ってやる。

「ほらほら、泣かないの」

 私に顔を拭かれるがままのちーぽんは鼻水をずびずば言わせながらしゃくり上げている。ぎゃっ、手に鼻水ついた! 汚ねっ。

「あのね、さっきね、委員の用事で職員室に行ってたの」

 ふんふん。

「それでね、その帰りに中庭でね、加納さんを見かけたの」

 ほお、それで?

「でね、あたし、失恋しちゃったの……」

 失恋?
 対面のヨシノちゃんの顔にまるでぶつけられたパンケーキみたくいっそ見事なまでに間の抜けた表情が張りつく。そして私のほうもそれを鏡で映したようになっているに違いない。失恋したというその一言だけでもう充分に私たちは驚いていたのだけど、この子の言葉だけではあまりにも事情が掴めない。隣のクラスの女子生徒で生徒会長でもある加納さんが、どう関係があるっていうの? 話を端折りすぎのちーぽんに、始まりから終わりまでに存在するポイントをひとつずつ順々に押さえながら進んでいく各駅停車精神の尊さを説いて聞かせたかったのだけど、私よりもヨシノちゃんのほうが行動が早かった。

「チナツ、悪いけどそれじゃ何がなんだか分からないよ。加納を見かけたのとチナツが失恋したのと何の関係があるの」

 問いかけられたちーぽんはいまだに首から吊り下げられたまま、首をねじってヨシノちゃんの顔を見上げる。唇をぎゅっと結んでこらえてはいても零れてしまう涙がりんごみたいに染まった頬を伝っていく。こんな時になんだけど、とても私たちと同い年には見えない。鼻水垂れてて不細工だけど、可愛い。こんなふわふわした綿菓子みたいなちーぽんを泣かせる馬鹿なんて、どこの誰だか知らないけど死んじゃえばいいのに。

「だからあたしね、あたし……」

 それきり言葉が続かなくなったのか、口をパクパクさせるちーぽん。それを見たヨシノちゃんは片方の眉を吊り上げ(どうしても私には同じ真似ができない)、それから眉間に薄く皺を寄せてから、私に視線を送ってきた。何よ。

「……分かったよ、チナツ」

 へっ、分かったの? マジで?
 あなたは一体どんなエスパー少女ですかと私がこれまでとは異なる眼差しで見つめると、ヨシノちゃんは私の背後、教室の前方の壁へすっと視線を向けて言った。

「とりあえず」

 壁に面白いものでもあるのかしらと私も振り向いてみても、黒板とスピーカーと時計があるだけだ。
 あ、そうか。

「保健室で休んでな」

 ずっとちーぽんの首根っこを掴みっぱなしだった手をヨシノちゃんがひょいと私のほうに差し出すと同時に予鈴が鳴った。もうじき昼休みが終わって五時間目が始まる。クラスメイトたちも戻ってくる。今からじゃ話がしにくいし、こんな泣き虫が教室にいたんじゃ先生も私たちも授業がやりにくいだろう。じゃなくて、こんな状態ではちーぽんも勉強にならないだろう。で、私に差し出してるこの手の意味は?

「任せたよ、保健委員」

 ん、という感じでヨシノちゃんがまるで風呂敷包みか何かのように私にちーぽんを突き出してきて、そのたびにちーぽんはあっちへふらふらこっちへふらふらとたたらを踏んでいる。同級生の友達をここまでぞんざいに扱える根性は見上げたものだ。ついでに言えば、同い年でしかも同性の腕力にここまで翻弄されてしまうちーぽんのことが私は心配でならない。というわけで、頼りなくて仕方がないちーぽんを丁重に受け取ると、保健室まで連れて行くことにした。手を繋ごうか、と私が言うと、ちーぽんはすぐ子ども扱いすると頬を膨らませながらも私の手を取った。小さくて温かい手だった。
 結局、事情を聞くことができたのは学校の帰りに立ち寄ったファーストフード店の中でだった。ヨシノちゃんと私が騒がしい店内で知ったことは、中庭に植えられた木陰に人目を忍ぶような風情で立つ隣のクラスの女子生徒で生徒会長の加納さんをちーぽんが見かけたとき、そこにはもう一人の人間がいたということ。もう一人の人間とは男子であり、正体を明かせばそれは書道部に所属している私たちと同学年の樋口くんだったということ(ちーぽんも書道部所属)、私とヨシノちゃんはその樋口くんなる男子のことをよくは知らないのだが、どういうわけだか樋口くんとはクラスも部活も委員会も、ついでに言えば出身小学校も違うはずで、まったく接点のないはずの加納さんが何やら彼と額をつき合わせて真面目な顔で話し込んでいたということ。それだけならまだちーぽんとしては不思議に思うだけで終わったのだけど、何と驚くべきことにしかつめらしく話し込んでいた加納さんと樋口くんが口を噤んで見詰め合ったかと思うと突然握手を交わし、あろうことかさらにキスまで交わしてしまったということ。
 さて、件の二人に関してちーぽんが知っているのはここまでだ。何故なら二人の顔が今まさに重ならんというその時、ちーぽんは脱兎の如く駆け出し、驚いて道を譲る周囲の視線も何のその、二段飛ばしで階段を駆け上がって(私の想像だけど)、教室の自分の席でヨシノちゃんとダベっていた私のお腹にうりぼうのように突進した上「アキラちゃぁん」と腑抜けた泣き声を発したというわけだ。そういえばお弁当を食べたばかりであのタックルは少々こたえた。もちろんそんなことはおくびにも出さなかったけど。ところでおくびってどういう意味なのかな。
 もちろん、ここまでの話ではまだ謎は半分だけしか解明されていない。いや、回りくどいことはやめよう。ようするに登場人物の片割れ樋口くんのことを実は三年も前から恋焦がれていた(完全に初耳だそんなことは)ちーぽんは、彼の加納さんとの密会現場をそれ以上見るに忍びず、廊下を駆け出さずにはおれなかったということのようだ。ま、そりゃそうだよね。キスなんてもう決定的だもの。疑う余地なし。かくしてちーぽんはその小さな胸に育んできた恋心を儚く散らせてしまいましたとさ。ちゃんちゃん。
 友達なのに冷たいって? とんでもない。私とヨシノちゃんは当然ちーぽんの話に大いに共感し、沢山の励ましと慰めと生徒会長のくせに男子をたぶらかす加納さんへの止め処もなく湧き出す悪口に首まで浸かってあっぷあっぷと溺れかけ、そのままカラオケに雪崩れ込んで歌っているのだか叫んでいるのだか分からないような有様で喉を酷使し、午後九時過ぎにようやく帰宅して、こちらからは一言メールを入れたきりになっていて、仕事が終わって帰宅するなりご飯を作ってじっと待っていたらしいお父さんにはきつぅいお叱りを押し頂いて、それから冷めてしまったご飯をレンジで温めてお父さんと二人向かい合ってがつがつと平らげた。お腹がぱんぱんに膨らんで、私は風船になって宙に浮かび出してしまいそうだった。せっせと自分のお腹をトノサマガエルのように膨らませている最中、お父さんの問いかけ(夜遅くまで何をしていたのかという)に応じて、チナツちゃんを慰める会を開いていたのだという甚だいい加減な答えを返した。慰めってなんだ、女の子には色々あるの、そうか色々か、そう色々だよお父さんには分からないだろうけど、あの、なあアキラ、ケーキ買ってきたんだけどあとで食べるか、うんケーキ、やったぁ、じゃ私お風呂入ってくるからそれまで食べちゃわないでよあ待って待ってやっぱ先に選ぶどんなの買ってきたのかなぁ〜っと。
 やっぱり私って冷たいのかも。ケーキはとても美味しかった。ついでだけどお父さんの作ったご飯もまあまあだった。甘ぁい甘ぁいケーキにふわふわ溶かされて、屋根よりも高くふわふわ、ふわふわ。ちーぽんから貰ったほろ苦さは甘い幸せに太った私のポケットからころんと転がり落ちましたとさ。

 

 

 

2.三万六千キロメートルの憂鬱 へ

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