「静止軌道上ラプソディ」目次へ
「アキラちゃぁん。うちに帰んなくていいのぉ?」
心配しているのか寝ぼけているのだか分からない間延びした喋り方はちーぽんのものだ。現在の時刻は午後九時半。場所は森家、そう、我が友ちーぽんこと森チナツの居室である。さきほど風呂を先に頂いてきて、今度はちーぽんが替えの下着やらを手に向かうところだ。小柄な友人のちんまりした顔からは彼女がもどかしさを感じていることが伝わってくる。
「いいのいいの。あ、もちろんちーぽんの家が迷惑だったら」
「うちは迷惑なんてことはないけど。あたしもアキラちゃんが泊まりに来てくれて嬉しいし。でもアキラちゃんは」
「私のことなら百パーセント問題なし。もうっ、いいから早く入ってきなよ」
半ば強引にちーぽんを部屋から追い立て、一人になった私はため息を吐き出した。両手を腰に当てドアのところに立つ私は主のいなくなった部屋を見渡す。他人の部屋で独りきりになるというのはやはり手持ち無沙汰なものだ。しかしだからといって友人のプライバシーをあれこれと勝手に漁る趣味もないので、ベッドを背もたれに床に腰掛けた。しんとした部屋。壁の向こうからテレビの音と人の話し声がかすかに聞こえてくる。
ところで友人宅に泊まりに来ただけの私がどうして当の友人から帰ったほうがいいのではなどと心配されているのだろうか。実は私が嫌われているからだとしたらとても悲しいけど、それはないはずだと私は信じている。信じたいと思っている。
では答えはどこに? 真相は単純明快。私が外泊に利用している友人宅はこの森家で四軒目であり、同時に私が家に帰らなくなって四日目の夜なのだ。つまり家出中なのである。
とはいえ、どこに泊まっているかは一応お父さんに伝えてあるので家出といっても大したものではない。一言メールでも連絡は連絡だし、この四日間お父さんと一切口を利いていないけど無事にしていることくらいは報せておこうと考えたのは、私がこの家出に求めているものがスリルでも冒険でも、また娯楽でもないからだ。学校にもちゃんと行っている。
人間というものはやることがないと余計なことを考えたり、あるいは思い出したりする。今も私は思い出していた。ちーぽんの部屋の静けさの中で、もう四日前になる日曜の出来事を。
派手な女。
それが第一印象だった。その時点の私には目の前の派手な女が実は自分を産んだ母親だとは思いも寄らない。ただ嫌な予感だけはあった。第六感というやつだ。この女は私にとって望まざる相手だ。そういう予感。
状況を説明すると、今から四日前の日曜の午前中、私はお父さんから一緒に出かけるから用意をするよう言われた。目的を問えば、ちょっとしたドライブだという。特に予定もなく退屈していた私はたまにはそれも悪くないかと考えて了承の意を伝え、ボーダータンクトップにカットオフジーンズという至ってラフな格好に着替えた。けれどお父さんは私の格好を見て何が気に入らないのかしきりと首を捻るのだ。
「どうかした?」
私は訊いた。
「なあ、アキ。別の着ないか。あれあっただろ」
とお父さんが差し出してきたのは、白の半そでのフリルブラウスに黒い膝丈のタックスカート。どちらもすっごく女の子っぽくて可愛らしくて、だから滅多に着たいとは思えないようなやつだった。お父さんが買ってくれた高級でお上品なお洋服。はっきりいってあまり私の趣味じゃないし、ドライブごときで袖を通すものでもない。
「ドライブに行くんだよね」
「……そうだよ? いいじゃないかこれで。このほうが可愛いし」
とりあえず気持ち悪いので可愛いとかやめてほしいのだけど、それはともかくとして大人しくお父さんの希望を受け入れてやるべきか、自分の主張を通すべきか、私は考えた。また何か隠し事をしていることは分かっていた。けれど結局、私を伴って誰かに会う用事でもあるのかもしれないとその程度に考え、折れることにした。この時の私の予想は決して間違ってはいなかったが、まさかその誰かが母だとは夢にも思っていなかった。ただピアノの発表会みたいな自分の格好が滑稽で居心地悪く、顔をしかめてスカートについているリボンを引っ張ったりなどしていたら、調子に乗ったお父さんがカチューシャを差し出してきたので投げ捨ててやった。
こうして私はどこか釈然としないながらも地元から車で一時間半の距離にある風光明媚な避暑地(ていうか山の中)まで揺られ続け、展望ラウンジのある小奇麗で結構大きな建物に到着すると、そこのレストランで金髪の派手な中年女と対面させられたのだった。
軽くウェーブした長い金髪に真っ青な瞳。白人の顔立ち。スタイルのいいスーツ姿で、ヒールの分だけ高くなっている目線はお父さんのそれと同じくらいだ。年齢もおそらくお父さんと同じくらいだろうという印象を受ける。華やかな雰囲気を発散していて、それが化粧が濃いからなのかもとから派手な造作なのかは知らないけど、若くはない。まあでも公平にいえば充分美人というべきなのだろう。
どこかで見たような顔だ、と思いながら、この白人のおばさんはお父さんの何なのだろうと私はいぶかしむ。彼女と正面から向かい合うと、お父さんは隣に立った私の肩に手を置いた。
「えーと」
と長い息を吐き出してから白人女が日本語で言った。
「いつまでもこうしてられないわね。久し振り、シンジ」
ぎょっとした。多分目を剥いて彼女を凝視していたと思う。お父さんが名前を呼び捨てにされるところなんて初めて聞いたし、目の前の女の気安さは気持ちの悪いものだった。だけど、どうやらお父さん本人にとってはなんら不自然なことではないらしくまったく気にも留めていなかった。
「そうだね」
お父さんが頷いて答える。
「六年ぶりくらいだったかしら?」
「それくらいだ。六年か、七年」
謎の女とお父さんとの間で言葉がやり取りされる。それから言葉以外の何かも。
混乱する私の肩の上でお父さんが手を動かし言った。
「アキラ、この人はアスカ・ツェッペリン。アスカ、この子がアキラだ」
挨拶するよう促されてそれに従う。お父さんもこの女のことを呼び捨てにしている、ということに引っ掛かるより先に、ある映像が私の脳裏に浮かんでいた。ずらりと並んでフラッシュを浴びる人たち。ぴかぴかの宇宙ステーション。ツェッペリンという聞き覚えのある名前。見覚えのある顔。
「あなたのこと、テレビで……」
何を言っていいか分からないまま口をついて出た私の言葉に『ツェッペリン博士』は目を細めてこちらを見、しかし私には答えずお父さんに向かって言った。
「この子がそうなの?」
口紅で彩られた口元が皮肉げに歪んでいた。この子、とは私のことだろう。お父さんが頷く。でも私には分からない。何が「そう」なの?
「ということは今年で十四歳?」
「そうだ」
今度は口に出してお父さんが答えた。ふぅん、とツェッペリン博士は相槌ともため息ともつかない反応を返し、私のことをじっと見つめた。ひるむような青い眼だ。
私の名をお父さんが呼んだ。肩をぐいと引かれて向き直らされ、私はお父さんのひどく真剣な顔を見上げた。お父さんが何か打ち明けようとしている。それは悪いことだ。予感のようなものが閃いた。いつもは余り当てにならない予感だけど、この時ばかりは違っていた。
唇を湿らせて、ゆっくりとお父さんは言った。
「アキラ、よく聞いてくれ。この人は、アスカは、お前のお母さんだ」
あとになって考えてみてもどうしても分からないのは、この瞬間私はどんな顔をすればよかったのかということだ。誰か教えて欲しい。誰でもいいから。神様とか悪魔とか、そんな連中でも構わないから。お願いよ。
私はどうすればよかったの?
「ごめん、お父さん。言ってることがよく分かんない」
これはもちろん私の台詞。お父さんはすっと眉をひそめ、それから取り繕ったような笑みを浮かべて言った。
「突然のことでお前も驚いたかもしれない。でもお母さんが生きていることは前から知っていただろう。お前がさっき言ったようにアスカは宇宙ステーションの開発の仕事をしててな、その関係でこの度来日することになって、それでたまたま連絡が取れたんでお前にも一度会わせたいと思って今日ここで待ち合わせることにしたんだ」
大体このようなことを言っていたけれど私はお父さんの言葉をほとんど聞き流し、ツェッペリン博士を見つめていた。睨んでいた、といってもいいかもしれない。
彼女は目を細めにやりと笑って言った。
「久し振りね、アキラ」
「会うのは初めてだと思いますけど」
私の記憶に間違いはない。しかし彼女は忌々しいにやにや笑いを収めず。こう答えた。
「そんなことないわよ。あんたが産まれた時に『初めまして』は済ませたでしょ。……憶えてない?」
初見から嫌な感じはしていたが、けれどこれで確信に変わった。
こいつは嫌な女だ。
産まれたときに会ったのを憶えていないかなどとぬけぬけと訊ねて首を傾ける態度に私がむっとしたのは察しただろうが、彼女はお構いなしに私の頭の先からつま先までを眺め回し、言うに事欠いて次にようにほざいた。
「可愛い服ね」
最悪だ。
あまりに回想に没入していたせいで、しばらくの間私はそれに気付かなかった。かたんという物音がしてそちらに顔を向けてみると、少しだけ開かれたドアの隙間から小さな身体と好奇心に溢れた小さな顔が覗いていた。ちーぽんの弟だ。
「どうしたの?」
一体いつから覗いていたのだろうと思いながら訊ねたけど、彼は答えず、そのふっくらとした顔に照れ笑いのようなものを浮かべた。小学校の一年生だと聞いているが、まだまだあどけなくて可愛いものだ。アジア系らしくない私の顔が面白いのだろうか、じっと見つめてくる様子もなんとなくいじらしい。もっとも実の姉であるちーぽんなどは、弟はうるさくて生意気だと言ってはばからず、今は小さくてもいずれクラスの男子たちのようにバカでエッチでむさ苦しいニキビ面になるのかと早くも嘆いている。お姉ちゃんって大変なのよう、と。
その見かけによらず苦労人のお姉ちゃんはというと現在入浴中で、きっと弟くんはお姉ちゃん目当てで部屋を訪れたものの、客人である私しかいなかったものだから面食らってしまったに違いない。
「お姉ちゃんなら今お風呂に入ってるよ」
今日が初対面ではないのだけど、一緒に遊んであげたことがあるというわけではないし、私は年下の子どもの扱いに慣れていないのでどうしたらいいか困ってしまう。こういうのが地域内の交流を持たない現代社会の弊害なのかと社会科の教師が喋っていたことを思い出しつつ、自分でもぎこちないと分かる笑みを顔に貼り付けて努めて優しく問いかけた。
「たっくん、お姉ちゃんが帰ってくるまでこの部屋にいる?」
しかしたっくんは(本当の名前は知らない。ちーぽんの家族が皆たっくんと呼んでいたので私もそれに倣っただけだ)またしても何も答えず、ふるふると首を振ってみせた。
「あ、そうなの……」
さて、どうすればいい。私が誘い、たっくんが断った。普通はそこで終わりだけど、何しろ相手は六歳児だ。私には行動の予測がつかない。今もまだ扉の隙間にはまり込むようにしてこちらをじっと見ている彼をさらに構ってやったほうがいいのだろうか。それとも無視していてもいいのかしら。というかちーぽん早く帰ってきて。
ところが私が気まずさを感じながら態度を決めかねているうちに、どうやらたっくんのほうがどうするか決めてしまったようだ。彼はその幼い顔に不可思議なはにかみを浮かべたままそろりそろりと後ずさりし、静かに扉を閉めて去ってしまった。
ちーぽんが戻ってきてからまず私が口にしたのは、もちろんたっくんのことだった。彼が部屋に来て何も言うことなくまた立ち去ったと話したら、ちーぽんはなんだか変な顔をした。訳知り顔でやれやれとばかりに笑ったのだ。
「あの子、アキラちゃんのことが好きなんだよ」
「え、そうなの?」
わお、と私はなんだかよく分からない驚き方をしてちーぽんと顔を見合わせた。
「かーわいい」
「えー、あいつうるさいだけだよぅ」
「私もっと構ってあげたほうがよかったかな」
「いーよいーよ。どうせ邪魔なだけなんだから」
ひらひらと手を振っているちーぽんの、こういう遠慮のなさはきっと兄弟ならではのもので、一人っ子の私にはよく分からない感覚だ。余所の格好いいお兄さんや優しいお姉さん、可愛い弟妹を羨ましいと思ったことはあるけど、母がおらずお父さんと二人で暮らしていた私は、兄弟というものがどうやってできるのか理解する以前から、うちの家に兄や妹が増えることはないのだと感覚的に知っていた。そして兄弟ができる仕組みを理解して以降は、そのことを考えるのを極力避けるようになった。何故ならその頃すでに母がどこかで生きていることを知っていた私は、自分に兄弟がいないという確信を失ってしまったからだ。世界のどこかに私の異父兄弟、私と血の繋がった子どもたちがいるかもしれないと考えた時の気持ち悪さ。だからそういう可能性を私は頭の中から締め出したのだ。もちろん母もお呼びじゃない。バイバイ・ブラザー。バイバイ・マザー。
そのあとちーぽんと私は取り留めのないお喋りをして夜を過ごし、十二時ごろにちーぽんのお母さんがもう寝なさいと注意に来て、私たちはちーぽんのベッドに枕を並べて潜り込んだ。まるで姉妹のように。
豆電球だけがつけられた部屋のオレンジ色がかった暗闇の中で、ちーぽんと私の息遣いがやけに大きく聞こえていた。
「アキラちゃん、起きてる?」
友人の呼びかけに私は閉じていた目を開き、のっぺりとしたくらいオレンジ色の天井をじっと見上げた。そして答えた。
「うん」
暗闇によく響く分、私たちはまるで内緒話をするように声を潜めて囁きあった。
「アキラちゃん、本当に大丈夫?」
私と反対側の壁を向いたまま(目は閉じているのだろうか?)ちーぽんが静かに私に問いかけた。
家を飛び出して四日目にして私は初めて他人に日曜の出来事を(簡略ではあるが)打ち明けた。つまりちーぽんに初めて話したのだ、私の母のことを。それ以前の三人には申し訳ないけど、お父さんと喧嘩したとしか説明していない。それでも彼女たちは大いに同情してくれたのだけど。
ちーぽんが私の話を聞いて正確にはどう思ったのかは定かでない。ただ仲のよい友人として変わらず接してくれたことがありがたかった。日曜からずっと自らの神経を張り詰めさせていた手にそっと触れられたような気がした。少し休んでいいよ、と。
だから私は正直に答えられた。
「分からない」
突然現れた母を私は嫌な女だと思ったけど、しかしそれはどちらかといえば些細なことで、むしろお父さんの裏切りによほど衝撃を受けていた。つまりお父さんの私に対する無理解に。もちろん親子とはいえ何もかも理解し合えるわけではないということが分からない歳ではないし、所詮口に出さないことは伝わらないものだ。口に出してさえしばしば誤解があるのだから。だけど、それでも私はお父さんの勘違いに腹が立ったのだ。私が母に会いたがっている、あるいは母に会えば喜ぶだろうという、はなはだしい勘違いに。私には分かっていた。母に会いたかったのは、あの女に会って喜んでいたのは、他でもないお父さんだ。その気持ちを勝手に娘の私に押し付けて勝手なことをしたのに腹が立ってしょうがなかった。
「ただ、会いたくなかった」
「うん」
「どんな形でも、私の前に現れないで欲しかった。死ぬまで放っておいて欲しかった」
「うん」
話していると知らないうちに涙が溢れてきて、私は止めようと頑張ったんだけどどうしても止まらなくて、ぼろぼろと泣きながら天井を見上げて途方に暮れていた。きっと独りだったら大声を上げてみっともなく取り乱していたんじゃないかと思う。隣で私に背を向けて寝ているちーぽんの存在がとても心強くて、まるで小さな女の子になったような頼りない気分に陥ってしまっていた。
「私……わたし……」
「うん」
ぐずぐずとしゃくりあげる私とそれに相槌を打つちーぽんがいつ眠ったのか分からなかったけど、この分では明日の朝は顔がひどいことになっているなと泣きながら思ったのは覚えていた。そして翌日、その通りになった。赤白のパンダみたいになった私はちーぽんに心配されつつ笑われ、たっくんには怖がられた。私のこと好きなくせに、男ってのは現金だと思う。