「静止軌道上ラプソディ」目次へ
金曜にはヨシノちゃんのところへ泊めてもらうことになっていた。ひとまず月曜から始まった私の家出生活もこれで平日はすべてクリアできることになるのだけど、問題は続く土日だ。泊めてくれそうな友達もとりあえずこれで打ち止めだし、お金もそれほど持っているわけではない。仮に一泊分のホテル代はなんとかなったとしても、それ以前に中学生の女の子一人にすんなり部屋を貸してくれるものかどうか疑問だ。かといってお金を掛けずにどこかで夜明かししようと思うほど私は(女の子として)勇敢でも愚かでもないし、それに結局は一夜明ければ、まさしく太陽が昇るように問題は私の元に戻ってくる。でもこのまま家に帰るのもしゃくだ。
さてどうすべきかと私が悩んでいると、助け舟を寄越してくれたのはヨシノちゃんだった。
「土曜も私のうちに泊まればいい」
理科の移動教室のために教材を手に廊下を並んで歩いていると、こともなげにヨシノちゃんは提案した。
「でも二日も連続でおうちの人に迷惑じゃない?」
いまさらこの私が恐縮してみせるのもかえっておこがましいような気がするけど、ヨシノちゃんはなんでもないという風に肩を竦めて答えた。
「うちの家族ならむしろ喜ぶと思うね。根が善人で単純だから」
「もしそうしてもいいんなら私は本当に助かるんだけど」
「いいよ」
「ありがと」
「うん。私としてもそのほうが助かる」
一瞬ヨシノちゃんが何を言ったのか理解できなくて、思わず私は隣を歩く友人の横顔を見つめた。そこには学生服の広告モデルのような模範的な顔でも、剣道部副部長の凛々しい顔でも、また私やちーぽんに見せる可愛くてちょっととぼけた顔でもなく、これまでに見たこともないような表情があった。
問いかけの言葉を探そうと思った。どうしたの、何かあったの、どうしてそんな顔をするの。でも口を開こうとした途端に私は前を歩く人の背中に思い切りぶつかって尻餅をついて転んでしまった。
「いったーい」
後ろから突然ぶつかられたのにびっくりして「大丈夫か」とか言いながら振り返ったのは同じクラスの男子だった。でもぶつかった張本人がクラスメイトの私だと確認すると、気遣いの表情が消えて代わりに呆れのようなものが浮かび、それは続く彼の言葉にも如実に表れていた。
「鈍くさいなぁ、お前」
「悪かったね。あんたがでかい図体してるから」
「大丈夫か」
「うん。ぶつかってごめん」
やれやれ、これだから女は、みたいなちょっとむかつく顔で廊下に散らばった教材や筆箱を拾って渡してくれる。私はすごく失礼な態度だわ、と思いながらもぶつかったのはこちらなので殊勝にも礼を述べつつそれを受け取り、ついでに離れたところからこちらを見ている幸村が視界の端に留まったので睨みつけてやった。自分の好きな女子の転ぶ姿がそんなに面白いもんかしらね。やれやれ、これだから男は。
「気をつけなよ。アキラはそそっかしいんだから。余所見でもしてたの?」
私にぶつかられた男子が再び歩き出すと、まるで保護者みたいな口振りでヨシノちゃんに声を掛けられた。あんたのことを見てたんだよ、と毒づいてやりたくなりながらもその衝動をこらえて、いまだ廊下に尻餅をついたままの私は澄ました顔をして高飛車に手を差し出した。
「立たせて」
「偉そうに。君はどこのお大尽の令嬢だ一体」
よく分からないツッコミを入れつつ、ヨシノちゃんは私の手を掴むと力強く引っ張って立ち上がらせてくれた。さすがに剣道で鍛えられているだけのことはある。下手をするとそこらの男子よりも逞しいんじゃなかろうか。礼を言い再び歩き出してから私はさきほど訊き損ねた疑問を口にした。
「土曜日、私がいたほうがいいの?」
「別に……ちょっと土曜は暇だっただけ。だからアキラがいればいいなと思って」
それはきっと嘘だ、と思ったけれどそこでチャイムが鳴り出して駆け出したために、結局それ以上のことは分からなかった。もちろん、土曜日には自然と判明することなのだろうけど。
自分でも意外だったことに、ヨシノちゃんの家にお邪魔するのはこれが初めてのことだった。今時珍しい門構えも立派な堂々たる日本家屋で、どう少なく見積もっても我が碇家の城より三、四倍は敷地面積がありそうだ。当然、庭は別として。ちなみに我が家の入っているマンションの名称が「○○キャッスル」だというのが笑えない冗談なのだけど。それにしても果たして前世でどんな功徳を積めば生まれながらにこんな家に住めるのだろうか。後学のために是非とも知りたい。
「ヨシノちゃんってお嬢さまだったんだね」
思わず私がそう感想を漏らすと、ヨシノちゃんは目を剥いて反論した。
「人をそんな天然記念物みたいな呼び方しないでよ」
「だって私、ちょっと驚いちゃって」
門の内側に入ると外からはよく見えなかった家の様子がよく分かる。先ほどのヨシノちゃんとの掛け合いではないけど、重要文化財に指定したっていいくらいの文句なしの日本家屋だ。仮に教科書に史跡として写真が載っていてもまったく不思議じゃない。門扉から玄関まで石をはめ込んだ道がつけられていて、左右にはよく手入れされた庭がある。ねじくれた松とかちょっと登ってみたい岩とか餌に飢えた鯉が群れる池とかがあるようなやつだ。私の家はマンションで庭なんてないので、これだけで物珍しい。馬鹿みたいに口を開けてきょろきょろしているとわんわんと犬の吠える声が聞こえて、犬を飼っているのかと思っている間に中くらいのなんだかすごく可愛いのがヨシノちゃんに飛びついてスカートにじゃれつき始め、
「一応うちの番犬」
というヨシノちゃんのちょっと情けなさそうな言葉を聞いて、確かにどうもこいつは番犬として役に立ちそうにないなと私は思った。なにしろこの動く毛玉(残念ながら私には犬種は分からない。聞いてもきっと覚えられないような種名だろう)ときたら、おりゃーって感じに尻尾をぶるんぶるん振りまくり、ヨシノちゃんの脚の間に顔を通すのに夢中になっていて、私という新参の侵入者にまったく注意を払っていない。
「いつもこんなの?」
「大体」
まあ犬はともかくとしても、間近で見てみたらますますヨシノちゃんの家はすごい。まるで玄関を開けたら使用人が三つ指突いて出迎えてきそうな気配すら漂う五十嵐邸の佇まいだ。私でなくとも大概の人間は感心するだろう。
「そんなものいないよ。旧いだけが取り柄の家なんだから。物も旧ければ人も旧い」
などと自らの家と家族に対して結構なことをのたまいながらヨシノちゃんはようやくのことで飼い犬を引き剥がして玄関を開けて私を招き入れてくれた。期待に反してというべきか、残念ながら使用人の出迎えはなかった。
家にいたのはヨシノちゃんのお母さんだけだった。ヨシノちゃんとお母さんは少し似ている。親と子が似るというのは当たり前といえば当たり前なのだけど、考えてみればすごいことだ。上品で綺麗なヨシノちゃんのお母さんは私の持っていた派手でケバケバしくて宝飾品をじゃらじゃら纏っているという金持ちマダムのイメージを見事に打ち砕いてくれた。まあ私の偏見についてはどうでもいい。ヨシノちゃんのお母さんは娘の友達が泊まりに来るなんて初めてだと顔を綻ばせて私に言い、私がヨシノちゃんにそうなのかと問い質せば、そうだけど悪いかと素っ気なく返され、するとあらあらこの子ったらごめんなさいね碇さんへそ曲がりな子で、などと一体ここはいつの間にどこのメルヘン世界なのよ。めまいがしてくる。ちーぽんのお母さんはきっぷがよくて肝っ玉で(ちょっぴり太ってて)典型的日本のお母さんって感じなのだけど、こちらはどう表現していいものやら、目下のところもっとも私が疎いジャンルのことだから言葉がどうにも見当たらない。ヨシノちゃんの少しぶっきらぼうな性格はこの環境の反動かもしれない。そうだとしたらもしもヨシノちゃんのお母さんがちーぽんのお母さんみたいな感じだったら、きっと今いるヨシノちゃんとは少し違った女の子になったに違いない。するとつまり、もしも私の身近にずっと母親がいたとしたら(あの嫌味女がそれというのは大いに不満だけど)、今の私はいなかったということだ。仮定の話をしても仕方のないことなのは分かってはいても、私は考えずにはいられない。もしあの女がいなかったら(あるいはお父さんと結婚しなかったら)私という一切はあらかじめ存在していなかった。オーケー、じゃあ産んでくれたことを感謝しろとでも? 答えは、とても難しいよ。とても難しい。
夕飯の準備のできる少し前にヨシノちゃんのお姉さんが一人の男性を伴って帰宅した。この私以外の二番目の客人の存在はヨシノちゃんたちにとってどうやら既知の事柄だったらしく、どうも私がいたら助かるとはこのことだろうかなどと勘繰ってみたりなどする。お姉さんの彼氏が家にいる状況が落ち着かないのだろうか。本人に直接問い質すことはしなかったけど。
ヨシノちゃんのお姉さんはびっくりするくらいの美人で、まるで精巧な人形が生命を吹き込まれて動き出すのを見守るような、畏怖さえ感じさせる容貌をしていた。あとで二人になった時にあんなに綺麗な人は生まれて初めて見たとヨシノちゃんに感嘆を込めて告げると、ただ一言「分かってる」と返された。なるほど規格外の美女の妹をやるというのも並大抵ではないのかもしれない。だから反動でヨシノちゃんはひねくれて、というのは冗談だけど。半分は。
それで、そのとんでもない美人のお姉さんが連れ帰ってきた男性についてだけど、こちらのほうは釣り合いという側面から見れば凡庸そのもの、際立って容姿に優れているわけではなかったけど、見るからに好青年という印象だ。眼鏡をかけた頭の良さそうなお兄さん。清潔で、誠実で、物柔らかで礼儀正しい。そして何よりヨシノちゃんのお姉さんを見る時の、レンズの奥から向けられる眼差しの優しそうなことといったら! 正直に白状しよう。私は少し(いやかなり)ときめいていた。ほとんど恋に落ちようとしていた、といってもいい。しかしもちろん私は落ちなかったし、正確には憧れと表現したほうがよさそうだ。そりゃあ、憧れもする。女の子はいつだって年上の男に憧れる準備ができているのだ。そして与えられる機会は一瞬で構わない。しかも勝算ははなっから計算外だから、これ以上手軽なものもない。
まあそれはともかく、聞けばこの男性はヨシノちゃんのお姉さんであるマリコさんの許婚なのだそうだ。今時そんなものが、と完全無欠の一般庶民である私からすれば呆れ返るほかないけれど、事実そうなんですと言われれば、はあそうなんですか、としか返しようがない。ようするにこれもヨシノちゃんの零す「旧い」ところなのだろう。つまりは私の(あるいは誰であろうと)抱いた憧れなり恋心なりは吹けば飛ぶような他愛ないもので、いくら素敵だと小さな胸を焦がしてはみても、もうずっと以前から外堀も内堀も隙間なく埋められてしまっている状況は今日が初対面の私にだって分かりすぎるくらいに分かることで、初めから勝負が成立していないのだ。とりわけマリコさんの世に二人といないだろう空前絶後の美女ぶりには完全に白旗を揚げるしかない。しかも(そう、しかもだ)夕食の席でいくらか言葉を交わし、また観察した結果分かったことには、どうもマリコさんはいい人らしい。好きか嫌いかと問われれば、私はマリコさんのことが好きだと答えるだろう。あるいは好きになれそうな人だと。だから、恋のようなものをしずしずと引っ込めて憧憬の眼差しで年上のカップルを眺めるということはとても簡単なことで、むしろそれがほとんど最善にして唯一の採るべき道に違いない。
でも、私はこうも思う。私たちは一度本気になってしまうと、かくも容易く自らの想いを殺すことなどできはしないんだ、と。私たちは時として望みのない道を、可能性すら見出せない選択肢を、誰に指摘されるまでもなく自らが一番深く理解していながらもなお選ばずにはいられない。ヨシノちゃんを見ていて私はそう思ったのだ。
「秘密のひとつも打ち明けなきゃ『腹心の友』とは言えないから」
ヨシノちゃんはそのように切り出した。
初めて彼に会ったのはヨシノちゃんが六歳の頃だったそうだ。ちょうどヨシノちゃんが小学校に上がり、そして現在二十二歳の彼が十四歳の頃。今の私たちと同じ年齢だ。もともと旧い一族同士付き合いはあったのだという。でも急接近したのはヨシノちゃんたちの父親の代だった。この辺りの詳しい経緯はヨシノちゃんいわく「耳タコの話」として披露されたけど、省くことにする。とにかく彼は十四歳の時、両親とともに初めて五十嵐邸を訪問し、そこで二人の姉妹と出会った。すなわち十三歳のマリコさんと六歳のヨシノちゃんに。
それから年に数回お互いの家を行き来するということがしばらく続いたらしい。一年に数回のこのイベントはヨシノちゃんにとって(このくだりで、それまで淡々と語るのみだったヨシノちゃんは過去の幸福に目を潤ませ劇的に表情を変えた)何よりの楽しみだった。これ以外の三百数十日はおまけのようなものだ、とは言い過ぎだけど、実際にそう思うことすらあった。理由はむろん彼にある。ヨシノちゃんはそれと気付く以前から彼に恋をしていた。彼を想うだけで胸は温まったし、実際に会えば天にも昇る心地だった。付け加えれば、現実的な意味で彼は優れた遊び相手としてヨシノちゃんを楽しませる天才だった。マリコさんがいるから独り占めはできないけれど、それでも幼いヨシノちゃんにとってはひとまずは充分だった。
しかしささやかな幸福の時代は過ぎ去り、ヨシノちゃんが十二歳の時に彼女の与り知らないところで勝手に審判は下された。当時二十歳の彼と十九歳のマリコさんが以後許婚として付き合うことに決まったという。そこにはヨシノちゃんの意思が割り込む余地など髪の毛一筋ほども残されてはいなかった。初めからそんなものは用意されていなかった。
ことの次第はこうだ(とお母さんから語り聞かされた時のヨシノちゃんの屈辱を、私は想像する。あるいは今私たちがいるヨシノちゃんの居室でお姉さんと彼との関係を推し量る彼女の孤独を)。マリコさんと彼とは許婚と定められる以前から密かにお互いに惹かれ合っていた。一年に数回顔を合わせるたびにヨシノちゃんがその小さな胸を躍らせたように、マリコさんもまた無邪気な妹よりもずっと自覚的な恋心をいつの頃からか育んでいたのだろう。そしてそれは彼もまた同様。やがて二人はお互いの家族の目を盗んで二人だけの時間を持つようになり(ヨシノちゃんはその事実にまったく気付かない)、一年に数度の逢瀬では到底足りなくなった彼らはこっそりと連絡を取り合い、電車で二時間という両者の間に立ち塞がる壁も乗り越えて会うようになった。これがお互いの両親の知るところとなるのはもちろん時間の問題で、すぐに親たちは話し合い、ひとつの結論を出した。いずれにせよ好ましからぬ事態とは必ずしもいえなかった。もしそうなら初めから会わせたりはしないからだ。だからいっそのこと両家公認ということにしてしまおうと結論したのだ。そのほうが色々と面倒がないのだろう。子どもの恋愛に親が揃って首を突っ込むのも野暮の極みだけど、ようするに両家ともそういう家だった。マリコさんと彼にとっても悪い話ではなかったので、プライドを見せるために飛びつきはしないものの内心嬉々としてこの提案(または命令)を受け入れたのは言うまでもない。
かくして、これら諸々の事情が推移したあとになってようやく、まるで夕飯の献立を伝えられるようにヨシノちゃんは何が起きたのかを知った。あるいは終わったのかを知った。じゃ、そういうことだから、という風に。
十二歳だ。こうしてヨシノちゃんの恋は終わった。けれど本当はまだそれは始まってさえいなかったのだ。だから終わることもない。終わらない恋なんてほとんど最悪といっていい。
以上がヨシノちゃんの秘密。私は思い出す。「私は恋をしない」というヨシノちゃんの言葉を。もしもヨシノちゃんが慰めを求めているのだとしたら、明け方までずっとそれを与えられただろう。でもヨシノちゃんはそんなもの求めていなかった。ただ打ち明けてくれた。だから私もただ受け取ることにした。言葉をどう尽くそうとも、きっとこの想いを支えきれないから。
さて、もちろん次は私の番だった。ちーぽんに対してしたのと大方同じ説明をする。
ここでひとつ断っておかなければならないのが、所詮私たちはいい加減な具合に脱力した現代っ子で人生を通してシリアスになれる場面というのはそう多くはなく、今この場での私たちはかなりそれに近かったけど、深刻さや真剣さを本当に味わうにはまだ足りなかった。私たちはまだ気が散り過ぎている、といってもいい。顔の右側で泣きながら左側で笑うことができる年頃なのだ。
閑話休題。そういうわけで、私たちはそれなりに真剣にそれぞれの秘密を打ち明けあったわけだ。私の番になると、ヨシノちゃんもまたちーぽんと同様に多くの反応を返さなくなった。多分迂闊なことは言えないとでも考えているのだろう。こういう家庭の問題という奴はちょっとヘビーだから。私だって友達から似たような話を突然打ち明けられたら困ってしまう。振り返ってみれば私はこの一週間で色んな人に迷惑を掛けているような気がするけど、まあそれはいい。基本的にちーぽんと同じく黙って聞くというスタイルだったヨシノちゃんなわけだけど、ひとつだけ違ったのは私の話が一通り終わったあとで、はっきりとこう言い切ったことだ。
「アキラ。明後日は家に帰りな」
できればずっと忘れていたかったというのが本音だけど、実際問題としてこれ以上家出を続けることが難しいというのも事実ではあった。というより物理的不可能という障害はほとんど私の気持ちなんてお構いなしに目の前に横たわっていた。
「アキラのお父さんが心配してるよ」
「どうだか。あの女がいりゃそれで満足なんじゃないの」
こういうのは自分で言って傷つく言葉だ。
「心配してるよ」
ヨシノちゃんはそう繰り返した。まるでそれが一番重要なことだとでもいうように。でもそんなの知ったことじゃない。心配するなら勝手にすればいいんだ。私は私で好きにやらせてもらう。お父さんのように。そうするだけの権利が私にはある。
「それはわがままだ」
「違う」
ヨシノちゃんの言葉に反射的に私は言い返す。
「アキラはお父さんに仕返ししてるんだ。お母さんとのことが気に入らなかったから。その仕返し」
「違う」
「違わない」
「違うッ!」
ヨシノちゃんはひどい。友達なのに。
「違うもん……。何よ、ヨシノちゃんなんて私のこと全然分かってくれない」
悲しくて悔しくて涙が出る。
「分かってる。少なくとも今のアキラが逃げてるってことは分かってる」
「私、逃げてなんか」
逃げてなんかいない。ただ今はお父さんの顔を見たくないだけ。だからこれは違う。逃げてなんかいない。かぶりを振るけど言葉は続かなかった。酸欠の魚みたいに口を開け閉めする。
「私は」
ヨシノちゃんが言った。まるで自らに言い聞かせるように。宣言するように。
「逃げないことにした。もう逃げるのはやめた」
「ヨシノちゃん……?」
「だってこのままじゃあまりにも惨めだ。私は惨めなのは嫌だ」
翌日、ヨシノちゃんは自らの言葉をまさしく実行した。昨晩から五十嵐邸に宿泊している例の彼を人目を忍んで離れまで連れて行って二人きりになり、告白してしまったのだ。おお、なんてこと!
――小さな頃からあなたといられるだけで嬉しかった。子どもだからって馬鹿になんてされたくない。私は本気だった。でもあなたは鈍感な人で、その目には姉さんしか映っていなかった。あなたに夢中になっている女の子がここにもいるってことを、これっぽっちも気付いてはいなかった。平気な顔して姉さんと肩を寄せ合って笑っているあなたのことが恨めしかった。でもそれはもういい。あなたと姉さんはいずれ結婚する予定で、そこには私が入り込む余地なんてまったくなかったというのは本当なんだから。ただ、私のこの気持ちまでこのまま消えてしまって初めからなかったのと同じことになってしまうのは我慢できない。それだけはどうしても我慢できない。
だから私は言う。あなたのことが好きだった。好きだった。本当に好きだった。
そしてあなたはこう言う。君の気持ちには応えられない。僕が好きなのはマリコなんだ。応えられない。
はっきりと言葉に出してこの私を拒絶して。それだけが今の私には必要だから。
――僕はマリコを愛してる。だから君の気持ちには応えられない。
――そう。
――ごめん。ありがとう。
この直後に頬を引っぱたくものすごい音がして、私が離れの脇ではらはらとしていると、せいせいしたという表情のヨシノちゃんが足取り確かに現れて、
「おまたせ」
と見張り役(兼盗み聞き)を果たし終えた私に向かってさばさばと言った。
ヨシノちゃんはすごい。私は圧倒されていた。感動していた。叫びだしたいくらいだ。私の友達を見てよ。最高にいい女でしょう?
この瞬間、私のヨシノちゃんに対する友情はほとんど崇拝の域に達していた。だから、告白の行われた離れから庭伝いに母屋へと戻る途中、突然に立ち止まったヨシノちゃんが泣いていることを発見した私はハルマゲドン級の衝撃に見舞われた。かける言葉を考える暇もなく私まで何故だか泣けてくる。なんでアキラまで泣いてんの、とヨシノちゃんがつっかえつっかえに言えば、うるさいな私だって知らないよ、と私が言い返して咳き込む。なんだってこんなことに、あーあもう本当にしょうがないなぁ、と。私たちは不細工な泣き顔をお互いに見せ合いながら、とにかく泣いた。泣いて泣いて、もう一生分の涙を使い果たすくらいに泣いた。少なくともそう思わせるくらいにこの涙は大事な涙だったのだと思う。不思議なことに庭の真ん中にいるというのに誰にも見咎められることなく私たちは泣き続けた。まるで私たちのためにこの場所と時間が特別な計らいで与えられたかのように。誰も私たちの邪魔をしない。唯一そばへ寄ってきたヨシノちゃんの番犬以外は。しばらくの間彼は私たちの周りをぐるぐる回りながらへっへっへ、とか言っていたのだけど、そのうちに痺れを切らして散歩へ連れて行ってくれ、と訴え始めた。もちろん私たちはそれどころじゃない。でも彼が自分でリードまで咥えてきて早くしてくれとヨシノちゃんを急かすので、とうとう私たちは涙を引っ込め、準備をして二人と一匹で散歩に出かけることになった。
「じゃあ行くぞ、ケプラー」
ヨシノちゃんが声をかけると五十嵐ケプラーくんはわわんと鳴いた。この馬鹿犬め、私たちのことなんて本当にお構いなし。待ちに待ったお散歩に一気にトップギアに切り替わったケプラーに引っ張られて私たちの頬に残る涙の痕跡は速やかに消し去られ、代わりに散歩が終わって家に帰りつく頃には汗をかいてくたくたになって、出迎えてくれたヨシノちゃんのお母さんからは優雅に驚かれ、その後ろから顔を出したマリコさんによって強制的にシャワーを浴びさせられて、そのあと着せ替え人形にされた。ヨシノちゃんは迷惑顔だったけどマリコさんは楽しそうにしていたので、こういうのもいいんじゃないの、と私は誰にも聞こえないように呟いて笑う。でもメルヘンは勘弁。ちょっと私の柄じゃない。
そういえば、愛してるなんて言葉を生で聞いたのは初めてだった。