リンカ 2009.12.06 |
4.惣流・アスカ・ラングレー
シンジがあたしのバルトロメウスを持ち出してから数日が経った。
バルトロメウスというのはあたしが持っているサルのぬいぐるみだ。まだ赤ん坊のころに両親から誕生日のプレゼントとして贈られた。記憶にはないが、名付けたのはあたし自身らしい。もちろん、今となってはぬいぐるみに名前で呼びかけることなどあるわけがないけど、一応は名前を持っているのだから、この場ではあれとかそれとかではなくバルトロメウスと呼ぶことにする。
それはともかくシンジだ。あのいまいましい同居人が、あたしがかんしゃくを起こして部屋の外に放り出したバルトロメウスをいちいち拾い上げたのが、そもそもの面倒の始まりだった。
大体あのバカは肝心なときはてんで気が利かないくせに、いらないときに限ってお節介をしてくる。今回のこともそうだ。あたしがあたしの所有物に当り散らしたからって、それが一体シンジに何の関係があるっていうの? 廊下にぬいぐるみが転がっていたとしても、それを無視して素通りしてくれればいいじゃない。なのに、あいつはご親切にも哀れなバルトロメウスを拾い上げ、二人きりの夕食の席であたしに向かって澄ました顔でいってきた。
「廊下にぬいぐるみが落ちてたよ。あれ、アスカのでしょ?」
ええ、ええ、そうよ。あれはあたしのよ。わざわざ確認してくれるとは何て優しいのかしら?
でもね、バルトロメウスは落ちてたんじゃないの。あたしが廊下に向かってぶん投げたのよ!
あたしは歯軋りするのに忙しくてシンジの言葉には答えられなかった。当然だ。だって、何て答えればいいの? 「ええ、あたしのよ。ありがとう。拾ってくれたのね。感謝するわ」といえとでも?
冗談じゃない。大体放っておいてくれたら、そのうち自分で回収するつもりだったのだ。バルトロメウスはあたしが確かにみっともないかんしゃくを起こした証拠として然るべきときまで廊下に転がっていなくてはならなかったというのに、それを勝手に拾い上げるお優しい王子さまのせいで何もかもがややこしくなってしまう。
分かるかしら? こんな風にされると、みっともないかんしゃくを起こした馬鹿な女の子としては立つ瀬がなくなるのよ。シンジには分からないでしょうね。きっと一生かかったって。
「ねえ、アスカ。今僕の部屋に……」
「ごちそうさま!」
シンジが作ったしゃくに障るご飯(だって美味しいんだもの)の残りを一気に口の中にかき込んで強引に飲み下すと、あたしはグラウンドの端から端まで届くような大声で食べ終わったことを告げて立ち上がった。
さっと耳を押さえたシンジは馬に踏んづけられたカエルみたいな顔をしていた。
ふん。バッカみたい。
あたしはさっさと自分の部屋に下がった。といっても、実際には困っていた。正直に白状すれば、バルトロメウスを返してもらいたいのだ。
別にバルトロメウスが赤ん坊のころにもらった(正真正銘の)パパとママからのお誕生日プレゼントでとても大切なぬいぐるみだから、というわけではなくて、あたしの所有物があたしの手元にあることは当たり前のことだからだ。
あたしのバカでかい「ごちそうさま」で遮ってしまったけれど、最後のシンジの言葉から、バルトロメウスはどうやら彼の部屋にあると分かった。
これには笑ってしまうほかない。シンジはよりにもよって勝手に取り戻すのをあたしにためらわせる一番の場所にバルトロメウスを連れて行ってしまったのだ。
確かにあたしはそれほどお上品な女の子というわけじゃない。それは自分でも認めよう。でも、同居しているとはいえ他人の(それも異性の)部屋に勝手に立ち入らないくらいのデリカシーは持ち合わせている。
これでどうしたってシンジの了承を得てバルトロメウスを返してもらうしか方法がなくなったわけだ。あのバカの部屋から勝手に持ち去るなんてあたしにはできない。そんなことをしたら、あたしがこそこそとあいつのプライバシーに立ち入ったのが丸分かりになってしまうのだし、そんな屈辱は到底見過ごせない。
かといって下手に出るのも嫌だ。そもそも勝手なことをしたシンジが悪いのだし、夕食の席でご親切なあいつの鼻面をぴしゃりとやってしまった手前、いまさらそんな風にへりくだった態度に出るだなんて、あたしのなけなしのプライドを粉々にしたってまだ足りないくらいだ。
あたしは勝手に奪われてしまった自分の所有物を取り戻したいだけなのに、まったくどうしてこんな面倒なことになるのよ?
その夜、あたしはいらいらをぶつける相手も抱き締めて眠る相手も不在のまま、ひどく不愉快な気分でベッドに入った。
それから一日が経ち、二日が経ち、三日が経った。
バルトロメウスはいまだシンジに奪われたままだ。
そういえば、とあたしはふと気付く。思い返してみれば、パパとママがあたしの腕にバルトロメウスを握らせたそのときから、あたしとバルトロメウスが離れ離れになるなんてほとんど初めてのことじゃないだろうか。
記憶にも残っていないまだ赤ん坊だったころから、このサルのぬいぐるみは常にあたしのそばにいた。ママが亡くなり、パパと新しいママとともにミュンヘン郊外の新居に移ったときも、学校や訓練が忙しくなってネルフが用意した宿舎に一人で移り住んだときも、訓練を始めて十年後にようやく倒すべき敵が現れて地球の反対側にある日本へ派遣されることになって、この葛城ミサトの家で碇シンジと三人で奇妙な同居生活を始めたときも、あたしのそばにはいつもまるで当然のような顔をしたバルトロメウスがいた。
といっても、当然バルトロメウスが自分の足で歩いて勝手にあたしのあとを付いて回っているわけではない。あたしがいつもバルトロメウスを手放さないのだ。
なぜ、と問われてもあたし自身その理由はうまく説明できない。
物心つく前から常に自分の身の回りにあったものだから、なくなってしまうとどこか落ち着かないという、その程度の理由かもしれない。
実のところ、バルトロメウスがいない部屋というのがあたしにはうまく想像できない。それはあたしの部屋ではない、という気さえするほどだ。
もっとも、現実には今こうしてあたしの部屋からあの不恰好なサルはいなくなってしまったわけであり、その違和感に馴染むのにあたしは四苦八苦している。これでは手持ち無沙汰なときに腕に抱くこともできないし、いらいらしたときに好きなだけ気分の発散に使うこともできない。それこそがバルトロメウスの役目だというのに。
シンジが不在のとき、あたしは彼の部屋をそっと覗いてみた。もちろん中へは入らない。扉を開けて廊下から中を覗くだけだ。
明かりが差し込む窓がなく薄暗い室内に目当てのものはすぐ見つかった。あたしのバルトロメウスは部屋の片隅で壁にもたせかけられていた。
さて、どうしたものかしら。
あたしはため息を吐き出した。ただ取り戻すだけなら簡単なことだ。このままシンジの部屋に入り、バルトロメウスを拾い上げて出て行けばそれで済む。しかし、勝手に部屋に入ったと彼に知られるのは嫌だし、「意地を張っていたけどやっぱり返して欲しかったんじゃないか」と思われるのはもっと嫌だ。
悶々と考えながら、あたしは暗がりの中にいるバルトロメウスを睨んでいた。なのに、不忠者のバルトロメウスときたら、こちらを見もせず、それどころか申し訳なさげな顔さえせずにいつもの間抜け面で壁にもたれている。それがまた憎らしかった。
もちろんいうまでもないことだが、バルトロメウスがただのぬいぐるみだということはちゃんと分かっている。彼が勝手に動いたり表情を変えたりしないことは百も承知だ。
つまり、あたしがこんな馬鹿なことを考えなけりゃならないのも、すべてあのバカシンジが悪いのだ。
それからというもの、何となくバルトロメウスの様子を確かめるのが日課になってしまった。当然シンジも保護者代理のミサトもいないときを見計らって行わなければならないのだけど、それは案外簡単なことだった。ミサトはそもそも不在にしていることが多いし、四六時中一緒にいるように思えるシンジについても、気付かれないよう部屋を覗く隙を見つけるのは意外に容易かった。
バルトロメウスはときどき場所を移動していたけど、大抵は部屋の隅にぽつんと置かれていた。いくらなんでもシンジの奴がバルトロメウスを相手に遊んだりするとは思っていない。でも、せめて床ではなくてもう少し高いところに置くとかそれなりの対応をしてもらえないだろうか、とあたしはやきもきした。もちろん、あたし自身がバルトロメウスをどう扱うかはまったく別の問題だ。けれど、たかがぬいぐるみとはいえシンジにとっては他人様のものなのだから、それ相応の丁重さを求めたって不当とはいえないはずだ。
シンジの部屋はもともと納戸だ。つまり物置である。当然窓はない。狭いし暗いし、置いてあるものといえばベッドと机、それに若干の本とチェロケースくらいのものだ。チェロケースが唯一の彩りを加えているにせよ、味もそっけもない部屋だといってしまっていいだろう。
そんな部屋に、ぽつんとバルトロメウスがいる。いつもどおりのあの間抜け面でものもいわず壁にもたれかかっている。
「あんまりいじめたから逃げ出したくなったってこと?」
当然バルトロメウスは御主人さまのほうを振り向きもしやしない。
ふんだ。あたしから引き離されて寂しがってるんじゃないかだなんて、そんなこと考えちゃいないわよ。
ある日、シンジ宛に宅急便が届いた。あいにくと家にはあたし以外誰もいなかったので、仕方がなく受け取ってリビングに置いておいてやった。それほど大きくも重たくもない荷物だ。送り主はあたしの知らない名前だった。もちろん、あたしがシンジについて知っていることなんてほんのわずかであり、あたしの知らない過去や人間関係があるのも当然のことだろう。
夜になってシンジが帰ってくると(たぶん友達とゲームセンターで遊んだりしていたのだろう)、親切なあたしは荷物が届いていることを彼に教えてやった。
「リビングに置いてあるわ」
「あ、届いたんだ」
珍しく顔を輝かせたシンジは足早に荷物のもとへ向かった。
何よ、あたしへのお礼はないわけ?
あたしが腰に手を当て口をへの字にしてその背中を見送っていると、急にくるりと振り返ったシンジが、
「ありがとう、アスカ」
と輝かせた表情をこちらに向けてお礼をいった。
「う、まあ、別に」
なんでどうしてこいつってばワンテンポずれてるのかしら。あたしが腹を立てることを決めてしまったあとになって、その原因を失くすようなことをしないでよ。対応に困るじゃない。
などと考えているうちにシンジはもう宅急便の箱に飛びついているところだった。これじゃまごまごしているあたしがまるで馬鹿みたいだ。こういうのをきっとペースを乱されるというのだろう。事実、彼はあたしにとって扱いにくい存在なのだ。
送り主を確かめて中身が何か合点したらしいシンジは、そのまま箱を開くこともせずに抱えたまま自分の部屋に向かおうとした。
「ねえ、何なの、それ?」
「ん、まあちょっとね。頼んでたもの」
あたしが質問すると表情を緩ませたシンジははぐらかそうとした。
生意気だわ。まったく生意気だわ。
秘密にしようとする彼にあたしは歯噛みしたが、しつこく食い下がって強引に聞きだすほどあたしが彼宛の荷物に興味を示すというのも妙な話だ。第一あたしたちはそこまで馴れ馴れしい仲じゃない。
宅急便の一つや二つが何よ。あたしには関係ないわ。
あたしは威厳を持って引き下がることにした。
でも、引き下がる前にせめて一太刀くらいは浴びせても罰は当たらないはずだ。
「ま、何でもいいけど。エッチな買い物でもしたのかしら?」
「そ、そんなわけないだろ」
あたしの言葉にシンジは顔を赤くしてうろたえた。
「あら、あたしは気にしないわよ。あんただって男なんだもの。でも、これだけは覚えておいてね。この家はあんた以外女なんだし、夜中だからってみんな眠ってるとは限らないのよ。ときどきあんたの部屋から『すごく興味深い』物音が聞こえてくるけど……」
あたしの意味ありげな視線を受けたシンジはいまや真っ赤に染まっていた。あたしが口にしたでたらめに多少心当たりがあるらしい。
しかし、あたしは構わず訳知り顔で頷いて、彼が真夜中秘密にしている行為をあたしが許していることを示すため、微笑んでみせた。
「気をつけてくれたらそれでいいのよ。お互い気まずくなりたくないものね?」
「だから、これは違うんだって。本当だよ、アスカ」
「いいのいいの」
そそくさと部屋へ去っていくシンジの背中をあたしは小さく手を振りながらにっこりと目を細めて見送った。
そして、彼の姿が室内に消えるのを確認するなり、くるりと回れ右してリビングのクッションに飛び込んだ。
心臓がどきどきする。顔はきっと真っ赤だ。耳まで熱い。
くそう。慣れないことをするとこのざまだ。
もちろん、あたしは世事に疎い十四歳の女の子に過ぎない。シンジの部屋から洩れてくる物音なんて知るもんか。想像したくもない。
同い年の男の子から優位に立つために、どうしてとっさにあんな選択をしてしまうのか、自分でもよく分からなかった。あたしはシンジより知的にも身体的にも勝っているはずだ。エヴァの操縦技術だって負けているつもりはない。何を盾に取ろうと彼の上に立つのは簡単なはずだ。
それなのにどうして、と考え、あたしはクッションの上でぐったりとした。
からかうつもりでこちらも同じくらいダメージを受けているのだから、つくづく馬鹿らしい。だからあいつは扱いにくいというのだ。
「まったくもう……」
ところで、シンジ宛の宅急便の中身はその日の夜のうちにあっさり判明した。
シンジがお風呂に入っているところを見計らって、このところ日課になっているバルトロメウスの所在確認のために彼の部屋の扉を開けると、珍しいことにあたしのぬいぐるみは床ではなく机の上に座らされていた。
あたしがおや、と思ったのは、バルトロメウスの隣にももう一つ見慣れないぬいぐるみが置かれているのを見つけたからだ。
それは茶色い毛色の可愛らしいクマだった。
「テディベア? これが今日の荷物の正体?」
でも、どうしてシンジがテディベアなんか?
あたしは思わず首をひねった。
まさか本当にぬいぐるみ遊びにでも目覚めたんじゃ……。
あたしは静かに扉を閉めると、あまり想像したくない可能性を頭から追い出すためにかぶりを振り振り、アイスクリームを取りにキッチンへ戻った。
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