リンカ 2010.06.15 |
7.バルトロメウス、ふたたび
青空を見上げるのはもうずいぶん久しぶりのような気がする。
記憶にしまわれたミュンヘンの空より色濃く眩しい青色を見上げるわたしの思いは、しかし昔と変わるところはない。
今わたしは、日本という国でアスカが暮らしている家のベランダにいる。水分を含んで重たくなった身体を外気にさらして乾かされている最中だ。
断っておくが、別にかんしゃくを起こしたアスカによって浴槽の中に叩き込まれたりしたわけではない。
驚くべきことに洗濯してもらったのだ。といっても残念ながら、わたしを洗濯したのは持ち主のアスカではない。彼女の同居人のシンジという少年だ。
わたしがシンジ少年の世話を受けることになったのは、まったくの偶然からだ。というより、まあいつものアスカのかんしゃくが原因ではあるのだが、そこのところはいまさらわたしがいっても仕方があるまい。
その日は学校から帰ってきたときから、ひどくアスカの機嫌が悪かった。学校で面白くないことでもあったのだろうか。大方シンジ少年絡みだろう。どういった機微によるものか、彼女はこの国で知り合い一緒に暮らすようになった少年のこととなると、激しく機嫌が乱高下するのだ。
友情というにはもの足りず、恋というには辛辣で、かといって敵意というには臆病に過ぎる。そんな彼女の感情を表現する言葉をわたしは知らない。
だが、その一挙一動を見るにつけ、これはよい兆候かもしれない、とわたしは考えるようになっていた。母親が死んで以降、自らの身体を道具のように酷使し、精神にやすりをかけるように抑えつけてきたアスカには、感情のぶつけどこが必要なのだ。悪感情であれ、好感情であれ、己の内部に溜め込んで膿んでしまうより、よほどいい。
果たしてシンジ少年がその役目を担うのかどうかはまだ分からないが、いずれにせよアスカには、もっと他人との係わり合いが必要だ。そして、もし真に彼女が感情をぶつけ合うことができる存在が現れたときには、これまでささやかながらわたしが果たしてきた役目は、終わりを迎えることだろう。
むろん、それはまだ先の話だろうけども。
機嫌の悪いアスカから八つ当たりされて、これでもかというほど力を込めて廊下に投げ出されたときには、さしものわたしもため息の一つも吐きたい気分だったが、偶然通りがかったシンジ少年は、そんな哀れなわたしを見過ごしにできず拾い上げてくれた。
まあ一緒に暮らしている家の廊下で偶然通りがかるも何もないが、案外アスカは、廊下に転がるわたしを見たシンジ少年が何らかのアクションを起こしてくれることを本心では半ば期待していたのやもしれない。
とはいえ、とことんまで素直でない我が持ち主のことである。仮にシンジ少年からアプローチされても、内心とは正反対の言動を返してしまうことは想像にかたくない。あるいは、彼女自身わざと心にもない言動をしている自覚はなく、ミキサーでかき回されたような混沌とした心の中で、自らの本当の気持ちを見失っていることも大いにあり得る。
いずれにせよ、わたしを拾ったあとのシンジ少年とアスカとのやり取りが上手く行かなかったことだけは確かだ。なぜならその日以降、何日もわたしは持ち主のもとへ帰ることができなかったからである。
自室で頭を抱えてベッドに寝転がる少年の姿には同情を禁じえない。
確かにアスカは手強い相手だ。わたしの知る限り、彼女を上手く扱えた人物は亡くなった母親しかいない。遠慮がちな継母はいわずもがな、父親でさえ再婚後は娘を持て余しているところがあった。
だがしかし、シンジ少年よ。気難しくかんしゃく持ちなのは確かにアスカの欠点だろう。が、考えてみて欲しい。たとえ性格上いくつかのきずがあるとしても、だからといって彼女が愛すべき人間であることまで否定してしまえるものではないのだ。
そもそもこのきずは彼女の罪だろうか。いいや、断じて罪ではない。こんな欠点の一つや二つ誰だって持っている。どこにでもある、ありふれたものでしかない。それに彼女は自ら進んで他人に害をなそうとしたことなどない。悪意から傷つけようとしたことなどない。
彼女はただ愛情に飢えているだけの子どもだ。最愛の母を最悪の形で亡くし、そのせいで父親ともぎくしゃくし、継母にも心を開くことなく、友の一人も作らず、遊ぶことも笑うことすらも忘れてしまったのが、アスカという少女なのだ。
この飢餓が彼女の心を歪ませている。愛情を求めながら得られず、誰の助けも借りず孤独な戦いを続けるうちに、無邪気で素直だった彼女の心は、自らを守ろうと疑り深く攻撃的な鎧をまとったのだ。
愛することを知るには、まず愛されなければならない。人間という不器用な生き物は、愛情を与えられることにより、初めて自らが他人に愛情を与える術を知る。
この役目はぬいぐるみであるわたしには果たせない。わたしはもちろんアスカを愛しているし、この愛情が人間のものより劣るなどという馬鹿な話は断じてないが、ぬいぐるみの愛情と人間の愛情は、優劣と係わりなく、少しばかり性質が異なるのだ。
シンジ少年よ。頭を抱え、ため息を漏らすお前には、わたしにできないことができる。その一点において、お前はこのわたしよりもはるかにアスカの救いとなりうるのである。
などということを懇々と諭すことができるなら、喜んでしてやりたいくらいだが、あいにく一介のぬいぐるみでしかない身の上のわたしとしては、変わらぬ不細工面をさらしてシンジ少年の部屋に転がっているほかなかった。
アスカと違い、シンジ少年はわたしを抱き締めもせず、蹴飛ばしもしない。ただ邪魔にならない部屋の隅に置き、ときおり視線を投げかける程度だ。
彼に関する噂は、独り言をいう癖があるアスカから、これまで散々に聞かされてきた。ときにはこのわたしをシンジ少年に見立てて、悪口雑言をぶつけてきたこともある。
今回わたしが観察したところ、少なくともシンジ少年が物静かで、控えめな性格だということは確かだった。アスカ自身はもっと積極的で多種多様な表現を用いたが、あえてそれを明らかにする必要はあるまい。彼女の言語表現の多彩さにはときおり舌を巻く。まったく、どこであんな言葉を覚えてきたのやら。
ともあれ、わたしを拾ってはみたものの、持ち主に返し損ね、シンジ少年は持て余している様子だった。
「きみの持ち主はどうしてああなんだろうね」
彼はぽつりとわたしに漏らしたものだ。
が、どうしてもこうしてもない。あれがアスカなのだから。
できることなら彼女のあのような性格を形成するに至った、過去から現在に及ぶ様々な出来事をつまびらかにしてやりたかったが、言葉を話すことができないわたしは、ただ心の中で深いため息を吐き出すほかなかった。
それから何日か経ち、シンジ少年の部屋にもう一つのぬいぐるみが現れた。いささか古ぼけたクマのぬいぐるみだ。彼はわたしとそのクマめを机に並べ、何かを考えているようだった。
「こうしてみると」
シンジ少年は腕を組んでいった。
「アスカのぬいぐるみ、汚いな」
失敬なとは思ったものの、わたしはその言葉を否定できなかった。アスカは愛すべき持ち主だが、とにかく扱いが乱暴なのだ。加えて確かに、隣のクマめは古ぼけているくせに小奇麗な身体をしていた。
「勝手に洗ったら怒られるかな。そもそもぬいぐるみってどう洗うんだろ」
仮にシンジ少年がアスカにわたしを洗ってもよいか訊ねたとして、彼女がどういう返答をするか目に浮かぶようだ。きっと、いや間違いなく勝手にしろというに違いない。本心とは裏腹に。
シンジ少年はわざわざぬいぐるみの洗い方を調べた上で、翌日にアスカの了承(実際には「好きにすれば!」という呆れるほど予想どおりのわめき声)を得て、わたしを風呂場で洗った。
洗剤を溶かしたぬるま湯を洗面器に満たし、その中にわたしを浸して押さえるように洗うと、湯はみるみるうちに茶色い色に染まっていった。シンジ少年は驚いて声を上げたが、何しろ十年分の汚れだから仕方がない。
考えてみれば、こんな風に汚れているわたしの身体を抱き締め、顔を擦りつけて、よくもアスカは平気でいられると不思議なものだが、これも我が魅力と愛情のなせる業だろう。
洗い終わったあとはベランダに出された。この日本という国の陽射しはアスカの故郷よりずっと眩しく暖かい。ドイツのころは完全に乾くまで丸三日以上かかっていたが、ここでならもっと短くて済むはずだ。
ぬいぐるみを乾かすときは陰干しをすべしという指示を考慮し、生真面目な顔をしたシンジ少年は、ベランダに設置されたテーブルの足下にわたしを置いた。ベランダに常時日陰になっている場所などないが、ここでならかなりの程度直射日光をさえぎることができると考えたのだろう。一仕事終えて満足げな表情を浮かべ、彼はわたしをベランダに残して部屋の中へ戻っていった。
そして今、テーブルの作る影の中から青空を見上げ、わたしは持ち主のアスカのことを考えている。
初めてアスカと出会った日の、あの青空に似た大きな瞳。身体全体で抱き締められる感覚。母親から洗濯して乾かし終わったわたしを受け取ると、決まってお日様の匂いがすると喜んでいたこと。
どこへ行くにもわたしを連れ回したアスカ。しっかりとわたしを掴む小さな手。公園でのピクニック。おままごとの相手役をいつもさせられていたこと。
寝相の悪い彼女にどつかれてベッドから転がり落ちたこと。朝、目が覚めると、一番にわたしの腕を掴み、寝ぼけまなこを擦りながら、母親のところへ行くのが日課だったこと。そして、大抵はキッチンにいた母親が、アスカの次に必ずわたしにも朝のあいさつをしてくれたこと。
優しかった母親の死後もむろんいうまでもない。苦痛に満ちた日々は今なお続いている。
一体いつになれば、わたしの持ち主が真実笑顔を取り戻す日が来るのだろうか。
十年に及ぶ長い夜が終わり、アスカの人生がこの光溢れる青空のように晴れ渡る日は、いつ訪れるのだろうか。
その夜、街明かりに照らされて薄ぼんやりとした、星の見えない夜空を眺めていると、窓が開いてベランダに誰かが出てきた。それはこの家の主である葛城ミサトという女だった。彼女はベランダに置かれている椅子の一つに腰掛けると、テーブルの足下にいるわたしに気付いて手を伸ばしてきた。
「なんでこんなとこにぬいぐるみがあるのかしら。ありゃ、湿ってるじゃない、これ」
彼女はわたしを掴もうとした手をすぐに引っ込めた。
「ああ、そっか。洗って干してるのか。アスカのかしら、このおサルさん。あの子がこんなマメなことするなんて意外だわぁ」
アスカによれば、葛城ミサトという女はたいそうずぼらなそうだが、そんな女にまでアスカがぬいぐるみの洗濯なんてするわけがないと思われているというのは、いささか複雑な気分だった。大切な持ち主のことなので当然弁護したいのだが、現実にアスカはわたしを洗濯したことがないのだから反論しようもない。これでわたしを洗ったのがシンジ少年だと知ったら、葛城ミサトはどんな顔をするだろうか。
実際にはアスカの場合、ずぼらというよりぬいぐるみを洗うという発想自体が頭にないのだろう。亡き母親がそうしていたことなどすでに憶えていまい。
葛城ミサトは手に持っていた缶ビールのプルタブを開け、喉を鳴らして飲んで、満足げな息を吐いた。テーブル下にいるわたしのすぐ頭上で彼女の長い素足が組まれ、ぶらぶらと揺らされている。
「ペンペーン。ベランダに出ておいでー」
彼女が部屋に向かって大声を上げると、寸胴短足で妙ちきりんな白黒の鳥が、よちよち歩きでベランダに出てきた。翼は鳥のものというより魚のひれのようだ。呆れたことには、鳥のくせにひれの先には鉤爪が生えていて、そこに上手い具合に缶ビールを引っ掛けている。
生きているペンギンという奴を見るのは十数年ぶりのことなのだが、この生き物が人間の作ったビールを好むとは知らなかった。
十数年前に見たのは、アスカたち家族三人と一緒に動物園へ行ったときのことだ。水を満たした堀に囲まれた場所でペンギンたちは群れてよちよち歩いたり魚を食べたりし、水中では陸上での愛嬌ある姿が嘘のようにすいすい泳いだりしていた。小さかったアスカはその姿に大興奮し、わたしの腕(それとも足だったか?)を掴んだまま、その場でぴょんぴょん飛び跳ねて歓声を上げたものだ。わたしなどは、よちよち歩きは我が持ち主といい勝負だな、などという感想とともにその不恰好な鳥たちを眺めていたものだが。
よちよちと葛城ミサトの正面まで回りこんできたペンギンめが、テーブルの足にもたれているわたしに気付いて小首を傾げた。
このバルトロメウス、たかが鳥ごときの好奇の視線にさらされたとて、何ら気後れするところはないが、しかし布とわたでできている柔なこの身体を硬く鋭いくちばしで啄ばまれてはたまったものではない。あっという間にわたしの表面は破られ、中のわたが辺りに飛び散り、使い物にならない身体にされてしまうことだろう。アスカのものであるわたしが、彼女の与り知らぬところでそんな憂き目を見るわけには断じて行かない。
つぶらな瞳に溢れんばかりの好奇心を浮かべたペンギンめの不躾なくちばしが、今まさに迫ってくるのを前にして、わたしは心の中で悲鳴を上げた。しかし、いくら張り上げたとて心の悲鳴は誰に届くでもなく、もはや我が命運もここに尽きるかと観念しようとしたそのとき、わたしを救ってくれたのは葛城ミサトだった。
「駄目よ、ペンペン。その子を突っついちゃ。アスカの大事なものなんだから」
なにげなく『大事なもの』という表現を使ったのは、わたしを洗濯したのがアスカだと誤解しているせいだろう。己の飼い鳥に注意しながら、葛城ミサトは横からひょいとわたしを掴み上げた。
「クー?」
よほどわたしを弄びたくてたまらなかったのか、ペンギンめはいかにも切なそうな声で鳴いて、飼い主がさらっていった獲物(つまりわたしのことだが)を見上げた。
「我慢なさい。じゃないとアスカに焼き鳥にされて食われちゃうわよ」
「ク、クェーッ」
飼い主の恐ろしい言葉を聞いたペンギンめは、悲鳴を上げてぷるぷるぷるぷるっ、と首を横に振った。
さもありなん。葛城ミサトの言葉どおり、アスカならば必ずやわたしの仇を取ってこのペンギンめを成敗してくれることだろう。さすがに焼き鳥にして食ったりはしないと思うが。
それにしても、このペンペンとかいう鳥は、わたしの知るペンギンとは少し違うようだ。そもそも翼に爪が生えた鳥など聞いたこともない。相当特別な種類の鳥なのだろう。
実際こやつは鳥のくせにかなり知能が高いらしい。葛城ミサトの忠告をきちんと理解して、わたしを構うのをやめたペンペンは、さかしらな顔を上げ、ひれみたいな翼をバンザイの形に持ち上げてみせた。
まるで抱っこをねだる昔のアスカのようだ、とわたしが考えていると、手に持っていたわたしをテーブルの上に置いた葛城ミサトは、当然のようにペンペンの翼の下を掴んで持ち上げ、向かいの椅子の上に降ろしてやった。
彼(彼女かもしれないが)は礼の代わりに一声鳴くと、器用な鉤爪でプルタブをこじ開け、魚を頭から咥えるようにくちばしで缶を挟んで上を向き、盛大に流れ落ちるビールをさも美味そうに喉を鳴らして飲んだ。えらく人間じみた鳥もいたものだ。
「あのアスカがぬいぐるみをねぇ」
テーブルに乗せたわたしを見つめながらの葛城ミサトの感慨深げな言葉に、ペンペンが賢げな声で鳴いた。
「クルルル」
エヴァのためにすべてを投げ打ってきたアスカが、子どもじみたぬいぐるみを後生大事に持っている、というのはいかにも奇妙なことのように思われるかもしれない。
むろん、アスカが強くなるためにさまざまなものを捨ててきたのは事実だ。幸福なはずの彼女の子ども時代は、絶え間ない訓練と勉学とによって犠牲にされてきた。
いつも不機嫌に顔をしかめ、笑顔など忘れてしまった少女。それが母を亡くしてからのアスカだ。
しかし、時が経つにつれ、彼女は徐々に対人関係において自らを取り繕う術を覚え始めた。様々な声音を使い分け、巧みに表情を変化させて、ときに媚を売り、ときに腹を抱えて笑い、ときに怒りを露わにして、彼女は周囲の人間を操ろうとした。
むろん彼女の思惑どおり簡単に利用される者ばかりではないが、それでもほとんどがアスカという人間を見誤ったのは確かだ。
実際のアスカはいつも疲れていて、無表情で、無口な子どもだった。だが、彼女の巧みな仮面に騙された人々には、その事実は想像もつかないだろう。利口で高慢、表情豊かでわがまま、というのがそうした人々にとってのアスカ像だったはずだ。
不幸にも様々な才能に恵まれていた結果、彼女は己を偽ることにも秀でていた。
あえて不幸という。いっそ彼女がこれほど才能に恵まれていなければ、彼女の人生はもっと心安らかだったのではないかと思うからだ。
もし人並み以上の知力がなければ、毎日目を血走らせて机に向かい、年上しかいない学校に通う必要もなかった。エヴァンゲリオンのパイロットに選ばれなければ、つらい訓練など受けることもなく、普通の子どもと同じように学び、遊びながら成長していけた。
たとえ最愛の母がいないとしても、穏やかな暮らしの中でなら心安らぐ瞬間はあったはずだ。父親や継母、年下の兄弟たちの愛情を感じる瞬間はあったはずだ。友人とともに遊んだり、心の底から笑ったり、泣いたりできたはずだ。
それこそが子どもらしく、人間らしい成長に必要なものだった。
だが、現実にアスカの歩んだ道はそうではなかった。ありふれてはいても幸福な人生を送るという選択肢には目もくれず、彼女はただ一つの道を走り続けた。
体力の限界まで訓練と勉学に明け暮れ、何の楽しみもない一日の終わりに、ねじの切れた人形のようにベッドに倒れ込んで、気絶するように眠りに落ちる。アスカはそれを十年間毎日繰り返した。
まだ母親が生きていたころ、アスカが母親の真似をして、ベッドでわたしを寝かしつけてくれることがあった。わたしの胸で不器用にリズムを取る小さな手。精一杯背伸びしてもまだ舌足らずな子守唄。わたしを抱き締めて眠りに落ちたアスカの高い体温。
しかしそれも、母親がいなくなってからは、疲れ切ったアスカの孤独な眠りを見守るわたしの中で、ただ反芻されるだけの思い出となった。
アスカはわたしに話しかけてくれない。
どこへも連れて行ってくれない。
愛情を込めて抱き締めてくれない。
アスカにとっても、わたしにとっても、もっとも幸せだったあのころの記憶は、打ち捨てられ、はるか遠ざかってしまったように感じられた。
だが、それでもわたしはいまだ信じている。アスカがすべてを捨ててしまったわけではないことを。
このバルトロメウスこそ、その証拠なのだ。
わたしはしょせん薄汚く古ぼけたぬいぐるみに過ぎない。捨てるのは簡単なことのはずだ。
しかし、彼女はこの十年わたしを手放さず、部屋を移るたびに必ず荷物の中に加えてきた。故郷から遠く離れたこの日本にさえわたしを連れてきた。
もしわたしへの愛情を失っていたなら、本当に必要ないのなら、そんなことをするだろうか。
たとえ今はもう抱き締めるより、暴力を振るうことのほうがずっと多いのだとしても、アスカがこちらを見つめてくる瞳の中に、怯えたように震えているいびつな愛情が、確かに宿っていることをわたしは知っている。
誕生日プレゼントとして両親から贈られたわたしへの愛情。そして、このわたしを通して両親へと向けられる愛情。
虚勢を張り、そっぽを向きながら、心のどこかでそんな態度を悔いてこちらを窺うその眼差し。まるで嫌われることに怯える子どものように、不安げに曇った青い瞳。
彼女を見守り続けてきたわたしは、それを知っている。
ベランダへ干されてから三日目の朝、連日の青空のおかげで完全に水分が抜け出て乾いたわたしをシンジ少年が取り込んでくれた。
もしかすると、ベランダにいるわたしに気付いたアスカが連れ戻してくれるかもしれない。そのようにも期待していたのだが、残念ながら彼女はそうしてくれなかった。とはいえ、我が持ち主の意地っ張りは今に始まったことではない、とわたしの達観はさながら修行僧のごとしだ。
シンジ少年がわたしを手にベランダから戻ると、ちょうどアスカが起きてきたところだった。きちんと身支度を整えた制服姿のシンジ少年に対し、我が持ち主は寝起きそのままの格好だ。パジャマ代わりのしわくちゃのタンクトップと短パン姿で、自慢の長い髪の毛は寝癖のせいでわら束をかぶったように見える。
アスカの母親は身なりのきちんとした、美しい女性だった。娘であるアスカもその母から容姿を受け継ぎ、充分に美しいといっていい。それなのに、これではあんまりだ。わたしを抱えたシンジ少年は、目の前で猫みたいに身体を伸ばしながら大あくびする、奔放なアスカの姿をほとんど呆れ顔で眺めていた。
多少なりとも彼に気があるのなら、どうしてもっと慎みのある格好ができないのだろうか。可能なら、わたしは目を覆ってしまいたかった。
「ちょうどよかったよ、アスカ。はい、これ」
シンジ少年からわたしを差し出され、途端にアスカはひねくれた顔になって彼を見た。
「これが何?」
この期に及んで彼の意図が理解できないはずもあるまいに、アスカの意地っ張りはまことに筋金入りである。だが、シンジ少年はそれを気にした風でもなく、むしろ母親が子どもをあしらうような優しささえ漂わせて、彼女にいった。
「持っていって。洗濯して乾いたから」
白状すれば、このときほど奇妙な表情をしたアスカは見たことがない。
ここ何日にも渡って意地を張り続けてきた彼女は、おそらく大変な葛藤の末に、シンジ少年の手からわたしを受け取ったはずだ。シンジ少年は無事にアスカがわたしを受け取るや、すぐに次の用事を片付けるために彼女から離れていった。
アスカは汗ばんだ指をわたしの身体に食い込ませ、そんなシンジ少年を上目遣いにうかがいながら、もごもごと口ごもっていた。我が持ち主は非常な意地っ張りではあるが、礼の一つもいえぬほど礼儀知らずではない。事実いおうと努力したのだろう。が、このときは結局アスカはなにもいうことができなかった。あるいは、彼もアスカの葛藤を察した上で、あえて気を利かせてそっけない態度を取ったのかもしれない。
いずれにせよ、これでようやくわたしは持ち主のもとへ帰ってくることができたのだ。
部屋へわたしを連れ戻ったアスカは、珍しく柔らかい仕草で、わたしに頬をすり寄せた。彼女は部屋の中央に立ったまま、しばらくそれを続けていた。ときおり、わたしの腹に顔を埋めて、鼻で大きく息を吸い、匂いをかいだりした。
なんともこそばゆいが、これこそぬいぐるみの本懐である。アスカがこのような態度を見せるのは本当に久しぶりのことだ。
そういえば、昔母親がわたしを洗ったときにも、乾かし終わったわたしを受け取った幼いアスカは、今と同じ行動をしていた。案外彼女は、そのころの自分の行動や、洗って干されたわたしがどんな匂いがするのか、ということをきちんと憶えているのかもしれない。
ひとしきりわたしを抱き締め終えると、アスカは優しい手付きでわたしを枕元に座らせ、自らは学校へ行く準備のため、着替えを持って部屋を出て行った。久々に間近に見た彼女の表情は、心なしか気分がよさそうな様子だった。それはやはりわたしを取り戻したためだ、と思うのは決してうぬぼれではあるまい。まあ……シンジ少年と喧嘩せずにすんだためかもしれないが。
夜、ベッドに入ったアスカは、枕元に座っていたわたしを取り上げ、その青い瞳でじっと見つめてから、わたしの平らな鼻面に心のこもったキスをしてくれた。わたしはおごそかに彼女の行為を受け入れた。
くちびるを離し、再びわたしを枕元に戻したアスカは、やがて安らかな眠りに落ちた。
静かな暗がりの中、わたしはこれまでずっとそうしてきたように、穏やかな寝息を立てるアスカを愛情を込めて、見守り続けていた。
夜が明けるのを待ち望みながら。
なかがき
皆様。ジュン様。
ここまでお付き合い下さり、誠にありがとうございます。
7でようやくお話がバルトロメウスへ戻ってきまして、折り返しに入りました。
何ヶ月も前からほとんど出来てはいたのですが、忙しかったりほかのお話へ浮気したり。
申し訳ありません。
ところで、翼に爪のある鳥など聞いたことがない、とバルトロメウスは言いますが、実際にはツメバケイのヒナやサケビドリ科に属する鳥などが、現生鳥類としてはきわめて珍しく、翼に爪を持っているそうです。
これから先はペンギンの歩みのようによちよちと進めて行くことになるかと思いますが、どうかよろしくお願い申し上げます。
rinker/リンカ
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