リンカ     2011.09.23



 




8.碇ゲンドウ


 

 いまだに理解できないのは、なぜ妻がわたしのもとを去ったのか、ということだ。
 それを知るためだけに、今のわたしは生きているといってもいい。
 碇ユイというのは奇妙な女だった。出会ったときからそうだった。京都大学の学生だったユイのもとをわたしが訪れたのは、自らの野望のためだった。彼女は財力政治力に優れた家の出で、卓越した頭脳の持ち主だった。わたしは自らの利とするため、その両方が欲しかった。
 片田舎のしがない教師だった父は、わたしが十五のころに死んだ。矮小な自らをかえりみることもせず、高い理想を息子に押し付けることにばかり執心していた父 は、わたしをよく殴った。父が要求するほど優秀な息子ではなかったからだ。だから、父が死んだときには、かえってほっと安堵したくらいだ。
 しかし、いつかこの男を見返してやりたいと腹の中に溜めていた思いは、表面上の安堵の陰に隠れて行き場を失い、暗がりでこごり、腐っていった。父の死はわたしを解放するどころか、いっそうわたしを縛り付けたのだ。生活の支えを失って苦しくなった家計を助けるため、アルバイトに励まざるを得なかった高校生のわたしは、それでもその鬱屈した思いをバネにしてがむしゃらに勉学に打ち込んだ。
 奨学金と、母が爪に火をともすようにして貯めた金とを合わせて、やっとのことで大学に入ったとき、頭にあったのは、ただ成り上がることだけだった。不公平な世の中への憎しみ、などという陳腐な言い訳はわたしの中には存在しない。わたしはただ悟ったのだ。自らを幸福にするのは自らしかいない、と。富や名誉や権力。それらを手に入れて、このみじめな境遇から己を救い、満足させるためには、わたし自身の力によるほかないのである。
 わたしの行動はすべてその目的に基づいていたし、ユイに近づいたときも例外ではなかった。
 聡明なユイがその真意に気付かなかったはずはない。だが、彼女はそんなわたしを咎めるどころか、どこか面白がっている気配さえあった。
 天才というのは奇妙な人種だ、と強く思ったことを記憶している。

「碇よ、レイのこと、どうするのだ?」

 副司令としてわたしの下で働く冬月の声で、とりとめのない回想から我に返った。執務室で書類に目を通しているうちに、つい昔のことを思い出していたらしい。

「別にどうともしない。レイはわたしの命令に必ず従う。計画に変更はない」

 机のかたわらに立つ冬月はうろんな眼差しでこちらを見た。
 白髪で長身のこの男は、ユイのかつての師だ。わたしより十ほども年上だが、誘いに乗って部下となった。正義感のある男だったが、知的好奇心という悪魔のささやきに負けたのだ。

「心配するな。何も問題はない」

「わたしにはそうは思えんがな」

 あくまで冬月はこだわっていた。いまさら臆病風にでも吹かれたか。我々にはもはや捨てるものもなければ、後戻りできる道もないというのに。サングラス越しに彼を見据え、わたしは吐き捨てるように言った。

「しつこいぞ、冬月。それより来週の国連での会議は大丈夫なのだろうな」

「自分の仕事は心得ている」

 冬月はむっとしたように答えた。
 彼は言葉どおりに自分の役目を不足なく果たすだろう。まったく優秀な男だ。さすがにユイが目を付けただけのことはある。この男なくして、わたしの計画をここまで到達させることは不可能だった。
 十年来の壮大な計画の共犯者が部屋を出て行ったあと、わたしは背もたれに体を預けて、深い溜息を吐き出した。
 実際には、レイをどうすべきか、まだ迷っていた。計画を最優先するなら、下らないぬいぐるみなど取り上げて、シンジや他の人間たちとの接触を断つべきだ。しかし……、今のレイが、わたしのそんな命令を本当に聞くだろうか。
 いや、そうではない。
 認めがたい事実を飲み込むために、襟元を何度か緩めなければならなかった。
 結局のところ、わたしは怖いのだ、レイを傷つけることが。意に沿わぬ命令をされてあの顔が歪むのを見たくないのだ。
 それは妻ユイに似た面立ちのためか?
 わたしはかすかにかぶりを振った。確かにレイの持つユイの面影は、心に訴えてくるものがある。だが、本当の理由は違う。レイを傷つけたくない本当の理由。わたしはその正体を分かっている。分かっているが、しかし認めたくない。
 執務室から冬月が出て行ってからさほど時を置かず、新たな来訪者が現れた。
 ここ最近の赤木リツコは、非常に扱いにくい人物になっていた。わたしの前に立ち、淡々と報告を行っている彼女の姿をサングラスの奥から凝視しながら、レイより先にこの女をどうにかすべきかもしれない、と考え始めていた。
 このところのリツコの振る舞いの陰には、計画に必要不可欠な人材である自分ならば、多少の無茶を通しても咎められない、というおごりがあるに違いなかった。そうでなくては、わたしに怯え、唯々諾々と従うのみだった彼女の突然の変貌を説明できない。
 気に入らない。
 わたしは心の中で吐き捨てた。リツコは今やわたしを恐れてはいない。だが、天才ともてはやされても、しょせん本性は取るに足らないひ弱な存在に過ぎない。ひとたび彼女を守っている虚勢を引きはがしてしまえば、びくびくと怯え、頼りなく震える裸の女に過ぎないのだ。
 人間は皆そうだ。例外などいない。
 リツコが報告を終えて口をつぐんだ。その眼差しには挑戦的な色が表れている。一見醒めた表情を取り繕って隠しているつもりだろうが、あいにくわたしの眼はそこまで節穴ではない。

「先日レイを市外へ連れ出したな。なぜだ」

 このために一時ネルフの保安部は大騒ぎになった。報告もなく勝手にレイを市外へ連れ出したリツコは、二泊ほどすると何事もなく帰ってきたが、ネルフ秘中の秘であり計画の要であるレイにもしもがあれば、保安部責任者の首を切るだけではことが済まない。レイをただのエヴァパイロットだと思っている保安部の連中は、彼女の真の存在意義の何たるかを知らない。しかし、何が起ころうともレイの身の安全を確保すること、これがネルフ司令が保安部に課した最上位の命令だ。そして、彼らは司令の言葉が持つ威力のほどをきちんと認識している。
 わたしが問いただすと、リツコはふてぶてしささえ感じるほど落ち着き払った声で答えた。

「祖母が会いたがっていたので、連れて行きました」

「なんだと?」

 この女の祖母がなぜレイに会いたがるのだ。いや、そもそもなぜレイのことを知っている?

「わたしが長年世話をしている女の子がいることを話すと、会ってみたいと。だから、わたしの帰省にレイを同行させました」

「お前、自分のしたことが分かっているのか?」

「もちろん分かっています。それが何か?」

「何かだと? それが何かだと?」

 わたしは知らず声を荒げていた。普段は努めて自分を抑制しているが、このところの状況の変化に対する焦りがそうさせたらしい。だが、リツコは身を竦めるどころか、かえって胸を張って真正面からこちらを見据えた。それはまるでわたしに立ち向かおうとするかのようだった。熱くなりかけたわたしも、彼女のその態度を見て冷静さを取り戻した。

「ふん。祖母に自慢のモルモットだとでも紹介したのか」
 
 今度は冷静さを失ったのはリツコのほうだった。といっても、それはほんの一瞬、瞳の中に炎の影が映る程度だ。大した自制心と言わざるを得ない。わたしは彼女の中にこれまでにはなかった手ごわさを感じて、戸惑っていた。

「祖母にはとても大切な子だと伝えました。これまで色々な誤解があったけれど、今では妹のように思っていると」

「見え透いた嘘を言うな」

 この女がレイを大切に思っているだと? あれほどまでに憎んでいたのをわたしが知らないとでも思っているのか。

「嘘ではありません」

 わたしは困惑していた。リツコの態度は確かに嘘を言っているようには見えない。だが、こんな馬鹿なことがあるはずがない。簡単に翻してしまえるほどこの女の憎しみは浅くなかったことをわたしは知っている。

「愛しているんです」

 突然のリツコの告白に、わたしは思わず間抜けな声で訊き返した。

「なに?」

「初めて会った時からずっと。それを認めるのに、あまりにも長い回り道をしてきました。これ以上ぐずぐずして手遅れにするつもりはありません」

 知らない間に組んでいた手がほどけていた。それほどリツコの言葉はわたしにとって意表を突くものだった。
 わたしは居心地の悪さに身じろぎした。これまでのリツコはこんな風に感情を言葉にして表すようなことをして来なかった。初めて見る部下の一面に意外なものを感じつつ、これ以上の追及は避けて実務的な問題に話を移すことにした。

「ダミープラグの件も最近報告が上がってきていないな。一体どうなっている」

 レイのクローン体を使用したダミーシステムが完成すれば、パイロットがいなくてもエヴァを動かすことができるようになる。しかし、あくまで理論上のものであって、現実には多くの問題が残っている。わたしはリツコにこの研究を一任していた。

「研究は停止しました」

「何だとっ!」

 リツコの平然とした言葉に、今度こそわたしは激昂して机を叩きつけた。

「どういうことか説明しろ」

「申し上げるまでもないと思いますが、ダミーシステムは不愉快で吐き気がします。もともと見込みのない研究だったことを差し引いたとしても」

「だから勝手にやめたというのか。そんな権限がお前にあるとでも思っているのか!」

「あなたにはレイの生命をもてあそぶ権限があると?」

「お前がそれをしなかったと言うつもりか、赤木博士」

「もちろんそんなつもりはありません。そして、わたしはもう彼女を傷つけることはやめると申し上げているのです」

「お前はこれまでレイを虐げてきたことへの後ろめたさから、優しく振る舞っているだけだ。自分のしてきたことにいまさら怖気づいたとでもいうのか。愛しているだと? 馬鹿馬鹿しい。そんな言葉一つで何かが変わると本気で思い込むほど愚かだったとはな」

「信じては頂けませんのね」

「くだらん。狙いはなんだ。なぜ状況を引っ掻き回す真似をする」

「わたしはただ、自らの正直な気持ちに従っているだけです」

「このわたしに逆らってでもか」

「あなたの命令がわたしの意思に反しているのであれば、そうです」

 わたしはこの言葉に耳を疑った。リツコは冬月に次いで、わたしにもっとも忠実な部下だった。むろん、彼女が心から喜んで従っていたわけではないことは先刻承知の上だ。しかし、それにしてもここまであからさまに造反してくるなど、正気の沙汰とは思えない。それがどれほど危険なことか、知らないわけでもあるまいに。

「気でも狂ったか、赤木博士」

 わたしは言った。すると、彼女の冷ややかな視線が、色の濃いレンズを突き抜けてわたしの瞳を刺した。その圧力に思わずわたしはたじろぎ、そんな自分を密かに罵倒した。
 何を怯えている、碇ゲンドウ。相手はたかが一人の女ではないか。しかも、一度ならずお前に屈服してきた女だ。どこに恐れる必要がある?

「気が狂ったのではなく、正気に戻ったのだとわたし自身は考えています。といっても、今のあなたにはお分かりになれないかもしれませんが」

 リツコの言葉はあくまで穏やかだ。
 彼女のこの声。まるで……このわたしを置いて(それとも見捨ててか?)、ずっと先へ行ってしまったかのような声。
 様々な人間から投げかけられる言葉や視線に込められた軽蔑の念になら、わたしは耐えられる。そんなものには慣れっこだ。いまさらどうとも思わない。
 だが、彼女の声に込められていたのは、憐憫だった。彼女はわたしを憎むでも軽蔑するでもなく、ただ憐れんでいるのだ。
 反射的にわたしは立ち上がっていた。直立不動のままこちらを見ているリツコを睨み返しながら、彼女に近づいていく。胸が触れ合うほどの位置に止まると、低所にある彼女の顔を押さえつけるように見下ろした。

「もう一度だけ命令する。レイに不要な干渉をするな。お前は計画に従ってレイを使った実験とメンテナンスだけをしていればいい」

 間近に見下ろすリツコの瞳にまた炎が宿るのが見えた。

「返事はどうした、赤木博士」

「お断りします」

 その答えには、いささかのためらいもなかった。
 彼女の反抗的な態度の理由が自分の利用価値におごっているためだと? もはやわたしがはなはだしい勘違いをしていたのは疑いようがなかった。いまいましいが認めざるを得ない。彼女は明らかに本気なのだ。本気で、このわたしに逆らおうとしている。

「後悔するぞ」

 これが最後通牒のつもりだった。だが、彼女はあろうことか、薄い笑みさえ浮かべて言った。

「どうしたのです、司令。本当にわたしを従わせたいなら、口先で脅してばかりでなく、靴の底で踏みつけにしてでも言うことを聞かせればよろしいではありませんか」

 リツコはこれまでわたしがまさにそれを実践してきたことを揶揄しているのだ。そして、たとえそんなことをしても、自分は心変わりしたりはしないと言っている。
 わたしは手袋に覆われた手で彼女の首をつかんだ。ちょっと力を込めれば握りつぶしてしまえそうな、華奢な首だ。しかし、彼女はそれに恐れる気配も見せず、気丈にもこちらをにらみ続けている。
 よかろう。そちらがその気なら、望みどおり踏みつけにして、屈服させてやる。いくら強がったところで、お前が本当は弱い人間だということは、わたしが一番よく知っている。今度こそ、二度と逆らおうなどと考えないようにさせてやる。
 首をつかんだ手はそのまま、わたしはもう片方の手で彼女のブラウスを襟元から強引に開いた。布が裂ける音とともに、下着に守られた豊満な乳房が覗く。わたしは無言で、胸がすべて露出するよう、さらにブラウスの前を広げた。変態的嗜好の持ち主ならさぞ奮い立つであろうリツコの姿だが、今のわたしに恐怖と屈辱を与える以外の目的はない。ほとんど視線もやらず、乱暴な手つきで彼女の乳房を下着もろとも握りつぶす。さすがに痛みのためか、リツコは表情を一瞬ゆがめたが、しかしその瞳はわたしを捉えたまま揺るぎさえしなかった。

「わたしを犯すのですか? また?」

「拳銃を突きつけられるほうがいいか」

 問い詰めると、彼女は平然と言った。

「お好きなように。でも、何をされてもわたしの心は変わりません」

「殺されてもか!」

「もう決めましたから」

 これも涼しい声だった。
 さらに浴びせかける言葉を探したが見つからず、わたしは信じられない思いで目の前の女を凝視した。リツコは表情一つ変えず、そんなわたしを見つめ返している。
 わたしは彼女から離れ、足早に近寄った執務机の引き出しを乱暴に開けると、拳銃を取り出し、スライドを引いて彼女に向けた。当然、弾倉は装填済みだ。

「これでも同じことが言えるのか」

 拳銃を突きつけてリツコとの距離を詰める。黒光りする鉄筒の先端が、彼女の眉間に押し付けられ、その柔らかな皮膚を犯す。

「さあ、言え! 言ってみろ!」

 さすがにリツコの顔色が変わった。だがそれでも、取り乱す様子は微塵も見せなかった。
 わたしは硬く歯を喰いしばった。こちらは彼女に対して拳銃という圧倒的な暴力を突きつけている。にもかかわらず、追いつめられるこの感覚は何なのだろう。彼女は一体、何をわたしに突きつけている?

「わたしはあの子を愛しています。その感情に、二度と背を向けたりはしません。だから、干渉するなというあなたの命令は聞けません」

「では、死ね」

 本気だった。それはリツコにも分かったはずだ。だが、驚くべきことに彼女は、その青ざめた顔に柔らかな微笑を浮かべた。
 引き金にかけた指が、こわばってぶるぶる震える。喰いしばった歯の隙間から絞り出すような声でわたしは訊いた。

「何がおかしい。ここで死ねば、レイを変えようとするお前のもくろみもおしまいだ。浅はかだとは思わないか」

「それは違います。わたしがここで死んでも、レイの変化はもう止められない。たとえあなたでも。できればもっと長くあの子のために生きたかったのですが……」

 リツコはそこで言葉を切って、謎めいた眼差しでわたしの顔を眺めた。彼女が次に続けた言葉はこれまでの口調とは打って変わって、ひどくさばさばとしたものだった。

「でも、好きな男に殺されるというのも悪くない。このわたしの人生の幕引きとしては上々です」

 拳銃を眉間に押し付けられているその顔は、やはり微笑んでいた。
 今まさに殺そうとしている目の前の理解不能な生き物に、わたしは戸惑いを覚えた。恐れた、といってもいい。
 彼女の言葉が、思考が、感情が理解できない。
 一体これは何だ。何なのだ。
 なぜこの女は、こんな眼でわたしを見る?

「何がお前をそこまでさせるのだ」

「いつかあなたにも分かります。わたしには無理でも、レイが……あるいはシンジくんが教えてくれるでしょう」

 最後までリツコは決してわたしから目を逸らそうとはしなかった。
 足元から這い上がってくる得体のしれない感覚を振り払おうと、わたしは喉の奥から雄たけびを絞り出し、固い引き金を引いた。
 火薬の炸裂する乾いた音が鼓膜を殴りつけたあとからやって来た静寂に、耳がずきずきと疼いた。拳銃を構えていた腕をだらりと身体の横に垂らし、深いため息を一つ吐き出す。そして、わたしは目の前の女をじっと見つめた。
 リツコの気丈な瞳は赤く染まって透明な涙に揺れ、今もまだこちらを見つめていた。青褪めて震える頬を溢れた涙が流れ落ちて道筋を作った。彼女はふっくらした唇をきつく噛みしめ、わたしに破られたブラウスの前を合わせもせず、スカートの裾を握って、立ち尽くしていた。
 その頭上から、弾丸を撃ち込まれて砕けた天井のかけらがわずかに落ちてきた。
 きびすを返したわたしは拳銃を執務机の上に投げ出し、背中を向けたまま彼女に言った。

「もう行け。予備の制服は控室にある」

 リツコは何も答えなかったが、少しして無言のまま彼女は執務室から出て行き、扉が静かに閉まった。

「くそっ……!」

 誰もいない執務室でわたしは悪態を吐き、手袋で包んだ右手を机に叩きつけた。





 ネルフほど巨大で権限の大きな組織の長という立場について回る弊害の一つに、どこへ行くにもSPがついて来てなかなか単独行動などできないことがある。今回もそうだったのだが、職務に忠実なSPたちに幽霊団地の入り口で待つよう強権を振りかざして納得させ、わたしはレイが住む家を目指した。
 レイの正体とわたしとの本当の関係を知らない彼らからすれば、夜半に女子中学生が一人で暮らす部屋を供も連れず訪問するという行為がはなはだ不適切に思われるだろう。事実数人のSPから嫌悪の眼差しを向けられるのが感じられた。だが、わたしはいちいち説明する気にはなれなかった。
 この場所に住むことを命令したのはわたしだが、実は自分自身でここを訪れるのは初めてだ。本当に人が住んでいることが信じられないほどさびれた玄関の前に立ち、確かにレイの個人データに記載された住所のとおりの場所であることを確認する。
 呼び鈴を押すと、ごく普通のチャイム音がした。
 家の中からは気配さえしなかったが、確かにそこにレイがいるという証拠に、呼び鈴を押してからしばらく待つと、鍵の外れる音がして内側から扉が開いた。

「碇司令……」

 玄関から顔を覗かせたレイは訪問者がわたしだったことに驚いたらしく、少し目を丸くさせた。そうするとひどく表情が幼くなって、本当にただの少女のように見えた。ピンク色のプリントTシャツにクリーム色のショートパンツというくだけた格好が、さらにその印象を濃くさせた。こんな風などこにでもいる年頃の少女のような服装をレイがしているのを見るのも初めてだった。これらの服はリツコが買い与えたのだろうか。そんなことを考えながら、レイに声をかけた。

「こんな時間にすまん。中に入ってもいいだろうか」

 おそらくわたしの口ぶりが珍しかったのだろう、レイから詮索するような視線を向けられたが、拒否されることはなかった。

「どうぞ」

 レイのあとについて部屋に入ったわたしは、一瞬にして数年の時を遡ったような錯覚に陥った。
 報告では聞いていたが、レイの部屋は本当に彼女が育ったセントラルドグマの一室にそっくりだ。しかし、異なる点もいくつかある。窓には綺麗なカーテンが取り付けられ、壁際に設置されたキャスター付きのハンガーラックには中学校の制服のほかにいくつか洋服がかけられている。隅に置かれた真新しい掃除機もリツコが与えたのだろうか、レイの部屋はほとんど掃除もされていないと聞いていたが、今は埃ひとつ落ちていない。
 そして、クマのぬいぐるみだ。ぬいぐるみはベッド脇のキャビネットの上に行儀よく座っていた。

「赤木博士はここによく来るのか?」

 わたしが訊くと、レイはこちらを見て、静かに答えた。

「最近になって何度か。彼女はわたしに親切にしてくれます」

「そうか」

 わたしは改めて部屋を見回してから言った。

「少し話がしたいが、構わんか」

「はい」

 レイはこくりと頷くと、ベッドに腰を下ろしてわたしを見上げた。

「司令もどうぞ」

 促されてわたしは戸惑ったが、この部屋には椅子がない。仕方がなくレイの隣にゆっくりと腰を下ろした。

「話とは何ですか」

「うむ……」

 レイに問われて、わたしはどう切り出したものか迷い、口ごもった。
 実際、何を話そうと具体的に決めてきたわけではないのだ。ただ何となく、リツコが執務室から立ち去ったあと、ここへ来なければならないような気がした。レイと何かを話さなければならないと。
 だが、言葉は一向に出てこなかった。ベッドに並んで腰掛けて無言のまま時間が過ぎていく。
 わたしは改めて隣のレイを眺めた。彼女はこちらではなく正面を見るともなしに見ていた。その眼差しには確かに幼いころの面影があった。まだレイが幼く、セントラルドグマの研究室が彼女の知る世界のすべてであったころ。発育不良な痩せた身体を白いスモックで包み、まともな言葉一つも話せず、不思議と赤い瞳にだけは強い光を宿していた幼い子ども。
 気が付くと、わたしはレイの頭に手を置いていた。記憶にあるよりも、レイの頭はずっと高い位置にあった。わたしの手のひらの下から彼女は顔をこちらに向け、その赤い瞳でじっと見つめてきた。
 その眼差しにたじろいだわたしは手を離し、レイに謝った。

「すまん。嫌だったか」

 レイは離れて行くわたしの手を視線で追いながら、かぶりを振って言葉少なに答えた。

「いいえ」

 ずっと昔にも同じやり取りをしたことを不意に思い出し、わたしは動揺してレイから視線を逸らした。まだ幼かった彼女がセントラルドグマの一室で生活していたころにも、わたしたちはこうして並んでベッドに腰掛け、ぎこちない会話を交わしながら時間を過ごしていた。先ほどと同じようにレイの頭に手を置き、こちらを見上げた彼女が、なぜそんなことをするのかとわたしに質問した。
 今でもよく憶えている。わたしはあの時レイの質問に答えられなかった。本当は答えが分かっていたのに、口に出して認めるのが怖かったのだ。そして、それは今でも変わっていない。
 わたしがそんな風に自嘲していると、レイが静かに言った。
 その声は穏やかな波が砂浜を洗うようだった。

「碇くんの頭には手を置かないのですか」

 視線を向けると、それに応えるようにレイもこちらを見上げた。

「……シンジか」

「かつては碇くんにもそれをしていたはず。でも、あなたはやめてしまった」

 レイに言われて、わたしは考えた。一体、最後にシンジに触れたのはいつのことだろう。五年前の墓参りの時はどうだったか。七年前はどうか。十年前、あの駅のホームで別れた時、わたしはシンジの頭を撫でてやっただろうか。
 クマのぬいぐるみを抱き締め、別れを嫌がって泣きじゃくっていた幼い息子。
 キャビネットの上に置かれたクマのぬいぐるみに視線をやり、わたしは独り言のように呟いた。

「昔、家族三人でデパートに出かけた時のことだ。シンジは四つになったばかりだった。ユイの買い物が終わるのを待つ間、二人で時間をつぶしていたら、おもちゃ売り場でシンジがこのぬいぐるみを見つけたのだ。ショーウィンドウに飾られたこのぬいぐるみにあいつはすっかり虜になっていた。欲しいかと訊くと、あいつは頬を赤くさせて頷いたよ。だから、買ってやった。あとでユイに一言いわれたがな、シンジを甘やかし過ぎだと」

 そのころはまだセカンドインパクトの影響で物資が充分になく、決して安い買い物ではなかったのだが、シンジが喜んだことを思えばあとからユイに怒られても気にならなかった。
 あの時のはちきれそうな喜びを満面にたたえたシンジの顔と、怒ったふりをしながらもどこか笑っていたユイの顔を今でも昨日のことのようにはっきり思い出せることに、自分自身驚きを感じた。

「碇くんはクマタローのおかげで寂しさに耐えられたと」

「クマタローか。確かにそんな名前で呼んでいた。もうすっかりそんなことは忘れたと思っていたのに……お互いにな」

 離れ離れになっていれば、やがてはこの気持ちも薄れ、いつか消えてなくなるものと期待していた。いっそ本当にそうなっていたら楽だったのだ。

「碇くんは、クマタローを誰に買ってもらったのか憶えていないと言っていました。でも、本当は分かっているのだと思います」

「だが、いまさらだ。あいつはわたしを恨んでいるし、もう昔のように戻ることはできん。結局、わたしたちには一つしか道は残されていないのだ」

 手袋に覆われた右手に視線を落とし、わたしはそう断言した。
 この右手にはアダムという使徒の大元になったものが移植されている。このアダムと、人間の祖であるというリリスから生み出されたレイを使って、わたしは初号機の中に囚われたユイを解放する。これがわたしの計画だ。これによって世界の脅威となる使徒やエヴァはすべて消えるだろう。アダムと融合したわたし自身もおそらく消滅するだろうが、ユイの魂と再会を果たすことさえできれば、そんなことはささいな問題だ。使徒もエヴァも、そしてわたしもいない世界で、今度こそシンジは自分の人生を歩むことができるだろう。
 そこまで考え、こみあげてきた自嘲にわたしはくちびるを歪めた。

「どうかしているな。お前にこんな話をするとは」

 別にレイの返答を期待していたわけではなく、どちらかというとその言葉は独り言の類だったのだが、彼女は手袋に覆われたわたしの右手にそっと触れて、静かだが確信のこもった声で言った。

「あなたはどこもおかしくありません、司令」

 わたしが問いかける眼差しを送ると、陽射しに胸を開く花のように、彼女の小さくて尖ったくちびるが柔らかくほころんだ。
 
「誰もいない部屋で独り座って、じっと壁を見つめていると、誰かと何かを話したいと強く考えるようになります。誰かに話を聞いてもらいたい。誰かの話を聞いてみたい。そんな風に」

 唖然としているわたしに向かってレイは続けた。

「それが寂しさなのだと、わたしはクマタローのおかげで、クマタローをくれた碇くんのおかげで知ることができました」

 手袋越しとはいえ、アダムを移植されたわたしの右手にレイが触れるのは危険な行為だ。しかし、なぜかそれを振り払うことができなかった。しょせんただの華奢な少女の手に過ぎないというのに。

「司令はわたしと同じです。寂しいのです。だからここへ来た」

 レイの指摘は、鋭くこの胸を突いた。
 むろん、内心では彼女の言葉を否定していた。このわたしがいまさら寂しさなど感じるはずがない。そんな感情は擦り切れるのを待つまでもなく、とっくの昔に捨て去った。
 だが、それは違う、と彼女に言うことはなぜか躊躇われた。結局、わたしの口から出てきたのは否定の言葉ではなく、質問だった。

「お前は寂しいのか?」

 もしそれが事実だとするならば、衝撃的なことだった。レイの情緒がそこまで育っているとは思いもしなかったのだ。

「クマタローは話してはくれませんから」

 理解できないというわたしの顔を見てもう少し説明が必要だと感じたのだろう、レイが言葉を補った。

「この部屋でクマタローをじっと眺めていると、クマタローをくれた碇くんのことを考えてしまうんです。碇くんがどんな風にクマタローと接していたのか。クマタローと遊ばなくなってからの彼がどうやって過ごしていたのか。そして今、この街で、彼がどんなことを思っているのか。
 それを訊ねようと思っても、クマタローはぬいぐるみなので答えてはくれません。だからわたしは、さらに考えます。考えがどんどん膨らんで、大きくなって、頭から溢れそうになる。そういう時にはクマタローに話を聞いてもらいます。でも、彼はいつもと変わらずただにっこり笑っているだけ。
 それでわたしは気付いたんです。碇くんの言っていたことはこういうことだったんだと。わたしは確かに、寂しさがどういうものか知らなかった。でも、今はもう違う。わたしは碇くんと話をしたい。この寂しさを埋めてくれる人と一緒にいたい。碇くんや、赤木博士、そして司令、あなたとも」

 リツコが執務室から立ち去ったあと、いてもたってもいられなくなり、レイのもとを訪れてしまったのは確かに事実だ。むろん、この衝動が寂しさに起因するものでないことは分かっている。しかし、寂しさでないなら果たしてどういう感情に基づいていたのかと問われれば、わたしには答えられない。
 一体わたしはレイに何を話したかったのだろう?
 だが、すぐにその危険な疑問を打ち消した。わたしのような人間は自らの心を深く覗き込むべきではない。そこに何を隠しているのか、改めて確認するような真似をすべきではないのだ。
 長年の抑制心はまだわたしのもとを去ってはいなかった。そのことに安堵さえした。
 ところが、好奇心が思わぬ形でわたしの口を滑らせた。……いや、実際のところ訊かずにはいられなかったのだ。

「お前はシンジに何を話したいのだ?」

 質問されたレイは、その大きな赤い瞳で長々とわたしを見つめた。
 わたしは血の色に透き通る虹彩から彼女の感情を読み取ろうと試みた。そして、とたんに恐るべき矛盾に気づいた。この十年間、彼女の感情が育たないように仕向けてきた張本人であるわたしが、いつの間にかその存在を認めてしまっている。まるでそれが当たり前のことであるかのように、今の今まで疑問さえ抱かず。
 内心ショックに打ちのめされているわたしに向かって、レイはささやくような声で打ち明けた。

「碇くんが好きなんです」

 その口元には相変わらず微笑みが浮かんでいた。彼女の微笑みは亡き妻によく似ていたが、まったく同じではないということにわたしは気付いていた。

「それをわたしは彼に話したいんです。思いつく限りあらゆる言葉を使って、この気持ちを伝えたい」

 レイの頬は赤らみ、その表情は自らの告白に誇らしげに輝いていた。
 わたしはそれを無言で見つめた。
 綾波レイはわたしが生み出し育てた、ある意味では娘といってもいい存在だ。普通でない方法で誕生させ、飼育される実験動物のような扱いをしていたにもかかわらず、なお心の片隅では彼女を自らの娘として認識していた。わたしはそれを自覚しつつ、努めて目を逸らし続けてきた。
 これこそがわたしが恐れていたものなのだ。
 目的のために利用するつもりで生み出した存在を娘のように思って大事にしている。この矛盾が自らの悲願にとってどれほど都合の悪いものかは百も承知だ。にもかかわらず、わたしにはこの気持ちを捨てることも殺すこともできなかった。
 なぜレイの頭を撫でるのか?
 彼女の疑問への答えは分かり切っていた。それは、わたしが彼女を愛しているからだ。

「赤木博士のことも好きです。彼女にそれを伝えたら、彼女もそうだと言ってくれました。赤木博士もわたしを好きだと。わたしはそれが嬉しかった」

 本当に嬉しそうなレイの表情は、まるで無邪気な子どものようだった。
 不意にわたしは、目の前の少女と幼いころの息子の姿を重ね合わせた。わたしがぬいぐるみを買ってやった時、あるいは頭を撫でてやった時でもいい。幼かったシンジのころころとめまぐるしく変わる表情の一つ一つをはっきり思い出すことができた。……いや、正確に言えば、思い出す必要さえなかったのだ。片時もそれを忘れたことなどなかったのだから。
 これまでひた隠しにしてきた自分の感情が突如として溢れ出そうになっていることにわたしは狼狽した。
 止めることは不可能だった。抑え込もうとする努力をあざ笑うかのように、隠されていた感情は心の蓋をこじ開けて表へ出ようとしていた。

「司令のことも好きです。たぶん、ずっと長い間、わたしはそれを伝えたかった。でも、これまで好きという言葉を知らなかった。この気持ちを伝える方法を知らなかった」

 右の手のひらに潜り込んでしっかりと握ってくるレイの細い指が、彼女の意思を雄弁に伝えていた。
 その感触にわたしはまた、最後にシンジの手を握ったのは一体いつだっただろうか、と考えた。

「今はもう知っています。わたしは司令が好きです。初めて司令から碇くんのことを教えられた時に感じたことが、今になって分かります。わたしはたぶん、碇くんがうらやましかったんです。わたしもあなたの子どもになりたかった。あなたにわたしの父親になってほしかった。司令と碇くんとの間にある特別な絆と同じものがわたしも欲しかった」

「……そうか」

 言葉少ななわたしをレイは責めなかった。
 だが、彼女の言葉はわたしの犯した最大の罪を指摘するものだった。動揺を悟られまいと、低く抑えた声でわたしは言った。

「お前を作り出した時、もう人の親には戻れないと思った」

 レイは一途な眼差しをこちらに向けたまま、わたしの言葉を聞いていた。

「もともと父親にふさわしくない人間だったのだ。ユイと結婚した時、そこにあったのは愛情ではなく打算だった。彼女もそれを知っていた。なぜユイがわたしの意図を知りながら受け入れたのかは本人に訊くほかないが、少なくともわたしにとっては当初結婚は野心を叶えるための手段に過ぎなかった。それが一変したのはシンジが生まれてからだ。息子の存在はわたしを、わたしたちを変えた。たった四年間ではあったが幸せだった。……ユイが消えるまでは」

 わたしは言葉を切り、レイに握られた自分の右手を見つめた。

「わたしはシンジを捨てた。ユイともう一度会う、そのためにすべてを犠牲にすると自らに誓った。シンジもその犠牲の一つだ。そして、どうせ傷つけるなら最初から突き放して遠ざけるべきだと考えた。そうすればせめて傷は浅くて済むし、いずれわたしのことを忘れてしまえば傷も癒えるだろう。……いや、すべていいわけだ。結局わたしはあいつを疎んじて父親という立場から逃げ出したのだ」

 本当はシンジがそばに居続ければユイとの再会という目的を見失うのではないかということも恐れていた。
 わたしはユイとシンジとを秤にかけ、妻のほうを選んだ。しかし、息子の存在は常に「自分の選択はこれで正しかったのか」とわたしに問い直させるだろう。繰り返される自問の果てにある答えが決して変わらないという確信はなかった。
 そもそも息子をこの街に呼び寄せたのも不本意なことなのだ。この街でのことにシンジを係わらせる気はなかった。もしもレイが使徒が現れる直前に零号機の事故で怪我を負っていなければ、そんなことはしなかっただろう。やむを得なかったとはいえ、わたしは運命を呪った。
 あくまで万が一のための「予備」であったシンジの存在が、参加するはずのなかった使徒との戦いにおいて奏功していることは皮肉としか言いようがない。一度引き込んだ以上、今さらシンジを元の場所へ帰すわけには行かない。すでに初号機はシンジ以外を受け付けようとしない。理論上はすべてのエヴァと同調することができるレイでさえ拒絶される。これもまた皮肉ではあった。
 いずれにせよ、十年以上も前に賽は投げられたのだ。

「わたしは息子を捨てて父親であることをやめた。しかし、それだけならまだ引き返せたかもしれん。シンジはいつもわたしのもとで暮らしたがっていたし、わたしとてまったく心を動かされなかったわけではない。やり直すチャンスはいくらでもあった。しかし、それから目を逸らし、耳に蓋をした。
 そしてお前を……ユイの遺伝情報とリリスを掛け合わせた生命体であるお前を生み出した時、さらにそんなお前を自分の計画のために利用し尽くそうと決心した時、もう人の親には戻れないと思った。それどころか、自分が人の道を完全に踏み外したことを思い知った。決して引き返せない一歩を踏み出してしまったのだと」

 培養槽の中で産声もあげず、血のかたまりのような瞳でこちらをじっと見つめていた小さなレイの姿を思い出し、わたしは身震いした。人間の赤ん坊は生まれてしばらくは目が見えない。だが、あの時まっすぐにこちらを見つめていた赤い瞳には、本当に何も見えていなかったのだろうか? とてもそうは思えなかった。

「わたしを生み出したことを後悔しているのですか? それはわたしがヒトではない化け物だから?」

 そう問いかけてきたレイの表情は悲しげだった。だがそれ以上にわたしへの気遣いが込められているように思えて、わたしは思わず彼女の小さな手を強く握り返した。

「化け物はわたしだ。お前ではなく」

 わたしはまた自分の右手を見下ろした。手袋に隠された手のひらには移植されたアダムのグロテスクな姿が今でもはっきり浮き上がっている。互いにとって本来異物であるアダムをこの身体に移植しても拒絶反応を抑え込んでいられるのは、十年に渡ってレイの身体を研究してきた成果だ。レイの肉体は人間と使徒、双方の形質を備えているが、実はこれは非常に微妙な均衡のもとに成り立っていて、常に細胞レベルでの様々な拒絶反応によるせめぎ合いが起きている。彼女がばらばらにならずこうして生きていられるのは奇跡に近い。リツコによるその治療と研究の結果が、アダムを移植されたわたしにフィードバックされている。こんなところでもわたしはレイを利用しているのだ。

「司令」

「何だ」

 呼びかけに答えたわたしの手をレイが引っ張った。顔を向けると、赤い瞳がこちらをまっすぐに射抜いていて、わたしは少しひるんだ。

「わたしは後悔していません。生まれてきてよかった、心からそう思います。そのおかげで司令や、赤木博士や、碇くんに会えたのだから」

 心から、という表現をレイは意図して使ったのだろうか、とわたしはぼんやり考えた。

「人でなしから道具のように扱われてもか? そんな人生でも感謝できるというのか?」

「そうです」

「このわたしを許すとでも?」

「許さなければならないような仕打ちをあなたから受けたとは思っていません。でも、もしそれが必要なら、何度でもわたしはあなたを許します」

 自分の顔が歪むのが分かった。

「自らの行いが許されると思ったことはない。なぜなら、わたしの犯した罪は決して許されることがないからだ。お前は許すと言ってくれるが、レイ、それによって救われるのはお前自身なのだ。このわたしへの恨みや憎しみから解放されて、お前の心が穏やかでいられるように。だが、わたしには救いなどないし、それを求めることもしない」

 生まれたばかりのレイの目にわたしの姿が映っていたのかどうか気になったわけが急に理解できた。
 わたしは自らが作り出したヒトではない生き物の視線に怯えていたのではない。自らの罪に真正面から覗き込まれることが恐ろしかったのだ。
 永遠に許されることがないことを知って、心を竦ませたのだ。
 今もまだこの心は竦んでいる。だが、もはやこの足を止めることはできない。

「だから、司令は死にたいのですか?」

 レイの静かな指摘にわたしははっとした。
 彼女はわたしの奥底に隠された真意を正確に探り当てていた。どうしてそんなことが可能なのか、見当もつかない。まさか誰もいないこの部屋でぬいぐるみ相手にしゃべっていたおかげというのではあるまい。

「レイ、お前は……」

「わたしは」

 レイは、彼女らしくもなくわたしの言葉を遮って、断固とした口調で言った。

「わたしは、あなたがいてくれたから生まれてこられた。あなたが好きです。感謝しています。そばにいて欲しいんです。それなのに、どうして死にたいだなんてことを考えるの……あなたの代わりはどこにもいないのに」

 どうやら叱責されているらしいと気付くのに少し時間が必要だった。
 あのレイがわたしを叱責?
 亡き妻の顔がふっと脳裏に浮かんで消えた。
 リツコがこのレイの姿を見たらどんな顔をするだろうとわたしは何となく考えた。

「わたしはただ……ユイに伝えたかったのだ、愛していることを。一度も口にして伝えたことがなかったから。そして、彼女にも訊ねたかった。なぜわたしのもとを去ったのか、本当にわたしを愛してくれていたのか、わたしたちの結婚が幸福なものだったのか、それが知りたかった」

 そして、それさえ果たせば死んでしまって構わなかった。何よりもう置いて行かれたくなかった。そのために十年もかけて未練をすべて振り切ろうとしたのだ。

「でも司令、本当は最初から分かっているはずです。彼女にはあなたの心は伝わっていた。あなたにも彼女の心は伝わっているはず。たとえ彼女が去ったことが事実だとしても、そこに何か理由があるのだとしても、彼女のあなたへの想いが本物だったことを知っているはず。だからこそ、あなたは彼女のことが忘れられない。……碇くんがあなたのことを忘れられないように。本当に司令と碇くんは似ています。分かっているはずなのに、なぜ二人とも自分の心が信じられないんですか?」

 ここでレイはおかしそうに口元をほころばせた。

「わたしは、わたしの心を信じます」

「お前の心……か」

 今わたしの隣で微笑んでいるレイの姿を見て、誰が彼女を心のない人形だと思うだろうか。
 むろん、わたしもすでに疑ってはいなかった。彼女の心が育たないよう仕向け続けてきたわたしこそが、あるいは誰よりその存在を信じていたのかもしれない。

「情けないな」

 急に呟いたので、レイが不思議そうな顔をした。

「わたしのことだ。今こうしている間にも、お前なしに計画を達成するにはどうすればいいか必死になって考えている」

「それで、何か思いついたのですか?」

 レイは恐る恐る訊いた。

「いや」

 わたしはかぶりを振った。

「駄目だ。どう考えてもお前なしにサードインパクトを望みどおりコントロールするのは不可能だ。もっとも、今のお前ではいずれにせよ手遅れかもしれん。わたしの意思どおりに従う存在が計画には不可欠だった」

「今でも、あなたのためならわたしは死ねます」

「だがシンジが死ぬなと言えば?」

 言葉に詰まったレイを見て、わたしは笑って彼女の頭に手を置いた。

「そんな顔をするな」

「あなたのためなら死ねるというのは本当です。でも、わたしはそれよりもあなたと一緒に生きたい」

「それにシンジや赤木博士とも一緒にか」

「そうです」

 何というわがままなのだろう、とわたしはほとんど感心していた。
 レイはわたしの進むべき唯一の道をこなごなに壊しておきながら、さらに自分の要求を突き付けることまでしたのだ。こちらの都合などお構いなしに。
 おそらくそれが生きるということなのかもしれない。人であれ何であれ、生命というものはたくましい。子どもというものはこうやってわがままに生きていい。なりふり構わない愛情で大人を振り回していいのだ。
 わたしは大きな深呼吸をし、膝に手をかけて立ち上がった。
 いずれにせよ、一つだけはっきりしたことがある。予定していた計画は修正せざるを得ない。修正がどのようなものになるかはともかくとして、予定どおりに事は運ばなくなったのは確かだ。
 最後の手段として今のレイを殺し、クローン体の一つに魂を引き継がせてもう一度やり直すという方法もあるが、リツコがそれを許さないことは間違いない。わたしは心のどこかで、脅されて執務室を立ち去ったあとのリツコがその足でセントラルドグマへ向かい、培養槽にいるクローンたちを処分することを疑っていた。にもかかわらず、彼女の動向を確認しようという気さえ起きなかったのは我ながら奇異というほかない。レイの部屋を訪れるよりそちらのほうがはるかに重要であることは疑問を差し挟む余地もないというのに。
 結局、最初の疑問がわたしの目の前にぶら下がっていた。
 そうまでしてわたしはレイに何を伝えたかったのだろうか?

「お父さん」

 突然の呼びかけを受けたわたしは弾かれたように振り返った。
 視線の先には、紛れもなくわたしが生み出した少女が、ベッドに腰掛けたまま一途な眼差しをこちらに向けていた。

「ずっとそう呼びたかったんです。わたしも……碇くんも」

「シンジも?」

「知っていたはずです。お父さんという呼びかけにあなたが応えるのをいつも碇くんが待っていたことを。あなたを好きだと、一緒にいたいのだと、いつも碇くんがそれを伝えようとしていたことを」

 レイは膝の上でクマタローを抱いていた。駅のホームで別れた時、腕の長さ全部を使って同じぬいぐるみを抱きかかえていた息子の姿がそれに重なった。

「わたしたちはあなたが好きです。そして、今度はあなたの言葉も聞かせて欲しいのです」

 くちびるがわなないた。自分が言おうとしている言葉が恐ろしかった。しかし、言葉はそれ自らに意思があるかのように、とどめようとする力を振り切って、ついに表に出てきた。

「わたしもお前が好きだ」

 進む道も戻る道もなくなったわたしが、今さらこんなことを認め、口に出したからといって、一体どうなるというのだろう。
 愛しているという言葉一つで何もかもが変わるというなら、とっくの昔にそうしていた。それができなかったからこそ、わたしはこの感情の上に重石を載せて封印したというのに。
 結局、わたしはすべて間違っていたのだろうか。
 その答えはまだ分からないが、いずれにせよレイはわたしの言葉に満足したようだった。
 頬を染めた彼女ははにかむような笑顔を浮かべ、一言礼をいった。

「ありがとう」

 もしシンジに同じことを伝えたなら、あいつはどんな顔をし、どんな言葉を返すだろうか。
 いつか本当に伝えられる日が来るのだろうか。
 自らの心を、そしてまた息子の心を信じられるのだろうか。
 もう一人の我が子が暮らす部屋をあとにしながら、わたしはそんなことに思いを巡らせていた。










− 続く −

 

なかがき

ここまで読んで下さり、感謝いたします。

 一年くらい前に半分までは書き進んでいたのですが、そこから筆が進まず今までかかってしまい、ようやくできました。
 にもかかわらず、ふたを開ければこんなひげ親父の地味なお話で申し訳ありません。
 もしよろしければ、気分を出すために、ちょっと投げやりな感じのぼそぼそ声で朗読してみてください。あのポーズで。付けひげがあるとよりベター。
 
 リツコ編に引きずられる形で、ゲンドウ編も長くシリアスなものになりました。
 そもそも最初に書こうとしていたものから少しずれてきているのですが、そのきっかけがリツコ編でした。
 しかし、ラストは当初思い描いたとおりの内容になるはずです。
 問題は、それがいつになるのかということですけど。
 いずれにしても、過度なシリアスはここまでになると思います。たぶん。
 LASサイトに載せて頂いているのにまったくその気配のないお話で恐縮でしたが、最後にはLASっぽくなるはずですので、もしよろしければ、いつになるか分からない次回からもお願いいたします。

 では、皆様。掲載して下さったジュン様。
 本当にありがとうございました。


 rinker/リンカ

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