人は死の瞬間に、それまでの人生を思い出すのだという。
 楽しかったこと、嬉しかったこと、苦しかったこと、悲しかったこと。それまで辿ってきた道が刹那に凝縮されてまざまざと甦ってくるのだという。
 あたしは分厚いジャケットの上から胸に手を当てた。
 胸のあたりにかすかなしこりとなって残る衝撃の感触。それが手のひらの下で感じられる。

「うっ……」

 突然吐き気に襲われ、口を押さえてうずくまる。
 つまり、あたしは今まさに死につつあるのだ。
 本当の、現実のあたしは、エヴァ弐号機のエントリープラグ内で、使徒の攻撃で機体が受けたダメージのフィードバックによって神経を焼かれ、その負荷に耐えきれず、死にかけている。
 あるいは、もうすでに死んだのかもしれない。とすると、これは死後の世界だろうか。
 どうにか胃の中身を戻さずに済んだあたしは、ゆっくりと深呼吸をした。
 鋭利に澄み切った冬の空気に吐き出された白い息が広がって消えていく。
 そっか、とあたしは思った。
 死んでしまうものは仕方がない。
 不思議と未練はあまり感じなかった。自らの死という事実は、驚くほどすんなりと胸の奥へ落ちて行き、音もなく降り積もり町を覆い尽くす雪のように、静かにあたしを支配した。
 あたしは、死の圧力を知っている。死という現実の重さ。大きさ。硬さ。それを前に人がどのようにして押し潰されるのかを知っている。
 母の死に際して感じたのは絶望だった。そして激しい怒り。
 しかし、自らの死に感じるのはただ諦観のみだ。あるいは、虚脱といってもいい。
 何もかもがもうどうでもよかった。あれほどこだわっていたエヴァのことも、すでに遠ざかる景色の一つに過ぎない。あたしがいなくなったあとの世界を使徒が滅ぼそうがどうしようが知ったことじゃない。同じパイロットをしている、いけ好かない人形女や、同居人のあいつ……、そして父と継母がどうなるのかも、興味がない。
 だって、そんなことをあたしが気にして何になる? 今まさに死のうとしている、あるいはすでに死んだのかもしれない、このあたしが。
 この世に完全なものがあるとしたら、それが死なのだ。
 永遠に変化しない、絶対の安定。完璧な秩序。
 死は覆らない。この世のすべてのものは不安定に移ろい続けている。生や愛も例外ではない。けれど、死だけはあらゆる変化をはねつける。
 惣流・アスカ・ラングレー(あるいはアスカ・ラングレー・ミヒャルケ)の死という事実は、それが起きてしまった時から、もう決して覆ることはない。そして未来永劫、この宇宙が終わりの日を迎えたとしても、あたしの死という事実は粛々と続く。
 むろん、あたしだって死ぬのは嫌に決まっている。しかし、死という現実に太刀打ちできる人間はこの世にいない。それはこの惑星の自転を手で押さえて止め、逆回りにしようと試みるのに似ている。地面を押さえる手の数が二つであろうと、二十億であろうと、結果は変わらない。一度死の壁の向こう側へ行ってしまうと、二度と戻ってくることは叶わないのだ。
 だから、もうどうしようもない。諦めるほか選択肢はない。すべての思いも、願いも、希望も、何もかもが死という現実の前には意味をなさなくなるのだから。母が死んだ時、あたしはそれを悟ったのだ。あたしは母の死に対して何の抵抗もできなかった。同じように、たとえ母が死を前にしてどれほど娘を案じていたとしても、死後彼女が娘にしてやれたことなど何一つなかった。
 とはいえ、実際には、母は娘(と思い込んだ人形)を道連れにあの世へ旅立った。つまり、母はまずあたしを殺してから、自らの命を絶ったのだ。その意味では、彼女が死後の娘の境遇を案じることはなかったのだろう。
 いずれにせよ、事ここに至っては、状況を受け入れるよりほかにない。
 あたしは死に、すべては終わったのだと。
 しかし、これからどうすればいいのだろう?
 母と幼い自分自身には、「行かなくてはならないところがある」などと言ったけど、当てはまったくない。天国や地獄への案内標識が出ているわけでもなし、このままかすみのように消えてしまえるのなら、それでも構わないくらいだが、今のところそんな気配は感じられない。あたしの足はしっかり地面を踏みしめているし、手は寒さにかじかんでいる。
 ドイツの冬の寒さは厳しい。目に見えない氷の粒子が空気中に無数にあって、その一つ一つにまた無数の棘がびっしりと生えている。それがむき出しになった皮膚に突き刺さり、細胞の一つ一つを凍えさせる。そういう鋭さがドイツの冬にはある。
 そして今、あたしは懐かしいドイツの冬の真っ只中に立っている。身体が凍える感覚は、現実のものとしか思えない。これが死の直前の幻にせよ、死後の世界であるにせよ、とてもではないがじっと立ってはいられない。それに、いつ消えてしまうか分からないのなら、少しでもこの懐かしい町並みの中を歩きたい、という思いもあった。
 車道を横切ってエッダとオスカーの肉屋の前で立ち止ったのは、その看板に懐かしさを覚えたからだ。木製の看板には、そのままずばり『エッダとオスカーの肉屋』と彫り込まれ、店名を抱くようにコミカルな豚のキャラクターが彫刻されている。
 扱っているのはほとんどが豚肉だ。商品を陳列したカウンターのガラスケースの中では、豚の頭や足、心臓や腎臓や腸、食べ物というより動物の身体の一部と言ったほうがよさそうな、ありとあらゆる部位の肉のかたまりが山盛りで並べられていて、むっとするような強烈な血と生肉のにおいを辺りに漂わせている。天井からは金属の鉤が伸びていて、先端には子豚が無造作にぶら下げられている。もちろん、ソーセージやハムなど加工品もこの店の売りの一つだ。
 そんなカウンターの内側で、エッダが忙しく立ち働いていた。店主のオスカーはおそらく店の奥で作業をしているのだろう。
 ぽっちゃりしたエッダが手際よく客をさばいていくのをぼんやり眺めていると、急に彼女がこちらを見て、声をかけてきた。

「そこの女の子。何か買うのかい?」

 彼女のよく通る声は、豊満な身体や鮮やかな金髪と同様、そのおおらかな気質をよく表していた。急に話しかけられたあたしは、びっくりして彼女を見た。もしかするとこの場所では、母と幼い自分以外には、このあたしの姿が見えていないのではないか、などと根拠もなく考えていたのだ。しかし、どうもそういうわけではないらしい。どぎまぎしながら周囲を見回してみると、いつの間にか、店の前に立っているのはあたし一人になっていた。

「い、いいえ、ただ見てただけで……、お金も持ってないし……多分」

 はなはだ心もとない口調で答えながら、あたしは衣服をあちこちまさぐって、自分の言葉が本当かどうかを確かめた。

「何だよ、冷やかしかい? そういえばあんた、さっきアスカちゃんたちと一緒にいたのを見たよ。知り合い?」

 あたしはかぶりを振って、エッダの質問に答えた。

「偶然そこで声をかけられて仲良くなったの。あの子、今日誕生日なんだって」

 すると、カウンターに身体を預けたエッダは、訳知り顔で頷いて言った。

「四歳のね。アスカちゃんの両親とは昔から友達なのさ。だからあの子のことは生まれた時から知ってる。本当に可愛い子なんだよ。あんたもそう思うだろ?」

 あたしはエッダの言葉にあいまいな同意をした。まさかその「可愛い子」の成長した姿が目の前に立っているあたしだとは、彼女には思いもよらないに違いない。
 幼い頃、あたしはこのおおらかな女性のお気に入りだった。母を亡くした直後も随分と気遣われた記憶がある。しかし、エリザと再婚した父が別の街へ転居し、さらには本格的にエヴァの適応訓練を始めたあたしが家を出てしまったことで、疎遠になってしまった。
 友人夫妻の一人娘がいかに可愛いかについてひとしきり熱弁をふるうと、エッダは急に切ない表情になってため息を吐いた。

「ああ、わたしにも子どもがいたらねぇ。夫婦二人の生活もそりゃあ幸せだけどさ、あの子を見てるとやっぱり欲しくなっちまうんだよ」

 そう言ってエッダは少し寂しげに遠くを見た。確か記憶ではこの当時のオスカーとエッダ夫妻には子供がいなかったはずだ。しかし、この数年後に、父が友人たちのことを話しているのを偶然耳にした時には、念願叶ってついに赤ん坊……男の子が誕生したとのことだった。

「結婚して十年、色々と頑張ってるんだけどねぇ。ま、こればっかりは神様の授かり物だって言うから」

「さっきから何をしてるのかと思えば、お客さんに何をしゃべってるんだ、お前は」

 エッダが自分の言葉に物思いにふけっていると、店の奥からエプロン姿の大柄な男性が姿を現して、妻を見るなり顔をしかめて言った。

「おや、あんた」

 父と同い年で三十代半ばのオスカーは、若々しい顔立ちをしていたけれど、若はげとしかめ面のせいか、妙に分別くさい雰囲気をまとっていた。そのためかもしれないが、あたしは幼い頃、どちらかといえばオスカーを苦手にしていたように憶えている。

「おや、じゃない。真っ昼間から子ども相手にする話じゃないだろうが」

 オスカーはあたしの背格好を見ていっそう眉をひそめると、妻に苦言を呈した。しかし、エッダのほうはいかにも呆れたという表情になって、そんな夫に言い返した。

「やれやれ、てんで分かっちゃいないね。女の子ってのはね、若かろうが、なりが小さかろうが、来るべき時が来たら一人前の女になるんだ。子どもを産むってことは、どんな女にも無関係なことじゃないんだ……たとえ現実には子を産めない身体だとしてもね。大体、気構えからして男とは違うんだよ。そうやって侮るのはこの子に失礼ってもんさ」

「馬鹿、そういうつもりじゃあない。それに男も男で色々あるんだよ」

「へえ? どの女のケツを撫で回すか考えたりとかかい? けど、あんたが自由にできるのは奥でぶらさがってる豚のケツくらいのもんさ」

「子どもの前でそういう不真面目なことを言うのはよせ。エッダ、神様は俺たちの行いをご承知だ。俺たちの祈りも、俺たちの努力も。だから、必ず良いようにして下さるさ」

「……わたしだってそんなこと分かってる」

 オスカーは妻の肩に手を乗せて優しく慰めると、気まずくなった空気を明るくするように、いかめしい顔に思いがけない笑顔を見せて言った。

「悪いな、お客さん。こいつは気立てがよくて、客あしらいも上手いし、勘定も間違えない。それに何より美人だ。俺にはもったいないくらいの女房だが、口が軽いのだけが玉に瑕でね」

 さりげなくのろけるオスカーの横で、エッダが照れて、ぽっちゃりした頬をほんのり染めた。
 悩みを抱えながらも強い絆で結ばれた夫婦の姿にあたしは知らず温かい気持ちになっていた。この数年後に彼らが念願の子を授かるのは、あるいは本当に神の思し召しなのかもしれない。そんなことさえ考えた。

「で、お客さん、何をお求めだい?」

「あ、それが……」

 あたしが答えようとすると、エッダが先回りして言った。

「今お金を持ってないんだってさ。だから、ちょいと話に付き合ってもらってただけなんだよ。キョウコたちとこの子が楽しそうに話してたのを見たもんだからさ、ついわたしも」

「何だ、そうなのか」

「ごめんなさい。お仕事中にお邪魔して。それじゃあたし、そろそろ……」

 懐かしい人たちと話すことができた余韻に浸りながら、あたしはこの場から立ち去ろうとした。しかし、背中を向けるより先に、オスカーがあたしを呼び止めて言った。

「今急いでるのかい?」

「ううん、別にそういうわけじゃ」

「それじゃ、うちの女房の長話に付き合わせた礼を持ってってくれよ。エッダ、ヴァイスヴルストを一本頼む」

「あいよ」

 夫に言われたエッダは、すぐさまカウンターの内側に置かれた金属の鍋のふたを開け、冷蔵庫から取り出した白いソーセージを一本、湯気の上がる鍋の中に入れる。

「そんな、ただでもらえないわ」

「子どもが遠慮するもんじゃない。いいから食べてくれよ。ヴァイスヴルストはうちの一番の自慢なんだ」

「でも……」

「いいってことよ。それに今は降臨節だしな。降臨節には子どもは大人からプレゼントをもらうと決まっている」

「茹で上がるまでもうちょっと待っておくれよ。それにしてもこんなしかめ面の聖ニコラウスがいるもんかね」

 鍋から戻ったエッダが夫を茶化す。

「せいぜい従者のルプレヒトがいいとこじゃないか」

「うるせえなぁ。俺はただの肉屋の親父だ。ただの肉屋の親父が子ども好きで悪いのか?」

「ちっとも。素敵だわ」

 答えたのは、あたしだった。
 オスカーはあたしがこんな反応を示すとは思っていなかったのか、少しぎょっとしたように目を丸くすると、全然怖くないしかめ面を顔に張り付けて、妻とあたしに「俺は仕事に戻る」とぶっきらぼうに声をかけて、店の奥へ戻っていった。そんな彼の様子に、あたしと顔を見合わせたエッダは、茶目っ気たっぷりにウインクをして寄越した。

「ぶきっちょな男で悪いね。おかげでプロポーズさせるのにどれだけ苦労したことか!」

 おどけた調子で言うと、エッダは空を仰いで目玉をぐるっと回した。

「女心ってのがからっきし分からない人でね。あんたも気を悪くしなかったかい? 花盛りの娘さんをつかまえて子ども子どもって、まったく気が利かないったら」

「ううん、いいの。実際子どもなんだもの」

 これまでずっと、あたしは自分がもう子どもではないと、もう一人前の大人なのだと周囲に認めさせようと躍起になっていた。でも、ここでは、なぜかそんな気が微塵も起こらなかった。オスカーから子ども子どもと連呼されるのも、ちっとも不快ではなかった。それは、肩ひじ張っていたのがなくなったからということもあるけど、何よりオスカーから感じられるのが侮りではなく、大人としての、年少の者に対する純粋な好意だからだろう。多少無骨なところがあるにせよ、彼は大人としてごく当たり前の態度を示しているに過ぎない。
 オスカーだけでなく、あたしがこれまで係ってきた大人たちの中にも、そういう人物は、きっと大勢いたのだ。しかし、生前のあたしは、そのことさえ分からないほど、怒りによって目を曇らされていた。
 今この場所でなら、それが少し分かる。
 あたしは、とにかく、自分の怒りだけしか目の前に見えていなかったのだ。あたしの世界は、常に鮮血のような真紅の怒りによって覆いがかけられ、その中で、それこそ必死になって、一点の染みもなく鮮やかに晴れ渡る空みたいに真っ青な、あるいは冬のドイツを一面覆い尽くしてしまう雪のような純白の、愛を探していたのだ。
 ……見つかるわけがなかった。
 けれど、すべてはもう手遅れだ。
 店に訪れる客をさばきつつ、他愛ない会話をしながらおよそ十分ほど経つと、エッダが鍋のふたを開けて茹で上がった白ソーセージを取り出した。包丁で手早く先端を切り落とし、甘口のマスタードを添えて、細長い厚紙のトレイに乗せて差し出してくれる。

「お待たせ。オスカーの言うとおり、うちのヴァイスヴルストの味は折り紙つきだよ。ぜひ味わっておくれ」

「ありがとう」

 礼を言って受け取ると、エッダは誇らしげに笑った。

「こちらこそ。話に付き合ってもらったからね。これから家に帰るのかい?」

 家に帰るのか、とエッダが訊いたのは、お金を持たずに出歩いているのはこの近所で暮らしているためだ、と考えたからだろう。

「うん、そうね……」

「夜の間、ヴァイナハツ・マルクトにも出店を出してるんだ。もし見かけたら、寄っておくれよ」

 ドイツでは降臨節の間、町の広場に出店を並べて食べ物や土産物を売るヴァイナハツ・マルクト(クリスマスマーケット)が開かれる。夜になるとライトアップされて、とても綺麗でにぎやかなイベントだ。あたしもおそらく三歳か四歳の時だろう、両親に連れられてマルクトに行ったおぼろげな記憶がある。もちろん、母の死後はそんなところに寄り付きもしなかったが。

「ええ、必ず行くわ」

「きっとだよ」

 エッダに笑顔で見送られ、こちらも自然と笑顔になって、その場を立ち去ろうとした。
 が、一つ思いついたことがあったあたしは、足を止めて、振り返ってエッダに言った。

「そうそう、エッダ。あなたにはいつかきっと可愛い坊やが産まれるわ。だから、オスカーといつまでも仲良くしてね」

 エッダは一瞬きょとんとした表情になってから、豊満な身体を揺らしておおらかに笑い声をあげた。

「ありがとうよ。わたしとオスカーもそうなるといいと願ってるよ。あれ……、でも、どうして産まれてくるのが男の子だと思うんだい?」

 不思議そうな顔をするエッダに向かって、あたしは笑いかけると、秘密めかして答えた。

「ただの勘」

 手を振って、エッダとオスカーの肉屋の前から立ち去る。
 将来エッダがオスカーとの間に産み落とす、男の子の赤ん坊。きっと可愛らしいに違いない。
 名も知らぬ彼は今、現実の世界のどこかで、両親の愛情に包まれて、少年としての時を過ごしているのだろうか。
 歩きながら、まだ湯気を立てているヴァイスヴルストを手で掴んで、切り落とされた先端から中身を吸う。

「美味しい……」

 変な感じだわ、とあたしは思った。
 もう死んでいるのに。





 どうせ行くあてもないのだから、とあたしは白ソーセージに舌鼓を打ちながら、雪の舞う道をゆっくりと歩く。
 あるものを見て幼いころの記憶が甦ることもあれば、まったく憶えていないものもたくさんあって、意外に面白い。
 もっとも、これが死後の世界、あるいは死の直前の幻であるかもしれないことを考えると、こののん気さを自分でもどうかしていると思うのだけど、もしかするとオスカーとエッダがくれたヴァイスヴルストの温かさと美味しさがこんな気分にさせているのかもしれない。
 少し歩くと、ショーケースの中にさまざまな色や大きさの、カーリングの石みたいな形をしたチーズをいっぱいに並べたチーズ屋があって、その先にカフェがあった。コーヒーカップを円で囲み、下側に『カフェ』と書かれたプレートが付いた、シンプルな真鍮製の看板が壁から通りに向かって突き出している。さすがにこの寒さと雪のため、外のテーブルは並べられていない。
 あの犬はいるかしら、と探してみると、店の入り口のすぐそばに寝そべった黒い大きな犬を見つけた。ジャイアント・シュナウザーという、長く垂れ下がった眉毛や口ひげが特徴的な、大型の犬だ。
 あたしはじっと寝そべっている犬のそばにしゃがみ込むと、優しく賢げなおじいさんみたいな顔を眺めながら、なめらかな毛並みに覆われた首筋をごしごしと撫でた。

「いい子ね」

 犬は、あたしに撫でられても、身じろぎ一つしない。
 昔、両親に犬が飼いたいと駄々をこねたことがある。母が死ぬ少し前、ちょうど今くらいの時期だった。結局、突然の母の死によってそれどころではなくなり、犬を買ってもらうことはできなかったが。

「お前、何ていう名前だったかしら」

 あたしが訊ねるともなしに呟くと、答えは思わぬところから返ってきた。

「トーマだよ」

 声のしたほうへ顔を向けると、しゃがんだあたしとさほど変わらない高さに、三角の毛糸帽の乗っかった生意気そうな男の子の顔があった。
 その顔を見て、あたしはハッとした。この子はクヌートだ。かつてあたしと同じ幼稚園に通っていた、意地悪なクヌート。

「……トーマっていうのね。ありがとう。……きみは?」

「クヌート。トーマはぼくのともだちなんだ」

 そう答えると、かつてあたしと同じ幼稚園に通っていた(そして今この世界で、四歳のあたしと同じ幼稚園に通っているのであろう)クヌートは、あたしと犬の間に身体を割り込ませて、両手で抱きつくようにしてトーマを撫で始めた。大人しい犬に抱きつく彼の、カラフルな原色の防寒着に包まれた小さな背中が、まるで「お前なんかにぼくの友達はやらないぞ」と訴えているようで、あたしはしばらく声をかけることができずにいた。
 クヌートとは、特に仲がよかった記憶はない。彼が意地の悪い男の子だったからだ。彼は気に入らない相手には誰彼かまわず突っかかるたちで、あたしもまた彼から標的にされたものだ。だから、あたしは彼があまり好きではなかった。
 でも、今目の前にいる小さなクヌートは、かつての生意気で性格の悪い男の子とは、どこか印象が違っていた。
 この食い違いの正体は一体何だろう?
 一心不乱に犬のトーマを構っている幼子の背中を眺めながら、あたしは考えた。そして、ある一つの感情に思い至った。
 これは、寂しさだ。あたしにとっても、非常に馴染みのある感情。なぜなら母が死んで以来、怒りの裏側に隠されてもう一つあたしの心を大きく占めてきたのが、寂しさだったから。

「クヌート。きみ、ここへ一人で来たの? お母さんは?」

 あたしが訊ねると、クヌートはトーマの毛皮に顔を埋めたまま、拗ねたような声で答えた。

「ママはおしごとだよ。パパも。おみせがいそがしいんだ。まいにちそうなんだ」

 彼の両親は雑貨屋を営んでいる。にこやかで感じのいい女性が、いつも店にいたのをおぼろげに覚えている。あれがクヌートの母親だろう。
 ドイツでは普通、夜遅くや休日は店を閉める。が、平日は朝から夜までずっと店にいなければならない母親に幼いクヌートを構う暇はない。雑貨屋の店内が子どもにとって長時間遊んでいられる遊び場になるかも疑問だ。ベビーシッターがいたとしても、やはり本当の母親とは違う。

「そっか……」

 母親が忙しくて構ってくれない。それはなるほど、四歳の子どもにはこたえられない寂しさだろう。
 でも、それくらい何だ、というのがあたしの正直な気持ちだった。
 忙しい母に構ってもらえなかったのは、あたしだって同じだ。いや、忙しさの度合いでいうなら、クヌートの母よりあたしの母のほうがずっと多忙だったに違いない。しかも、あたしがわずか四歳の時、母は亡くなってしまう。先ほど見送ったばかりの四歳のあたしには、あとわずか三カ月の時間しか残されていないのだ。しかも、多忙な母が、それでも娘のためとどうにかやりくりしてくれたわずかな時間……。
 甘ったれるな、と叫びたかった。できるものなら、幼子の胸ぐらを掴んでわめき散らしたいくらいだった。あたしはもっともっとつらかったんだ、と。
 けれど、あたしがクヌートの小さな背中に投げかけたのは、激しい言葉ではなく、静かな眼差しだった。
 しょせん、これは過去からの木霊だ。本物のクヌートは、十四歳の少年としてドイツで暮らしている。今ここでトーマの温かな身体にしがみ付いて寂しさに耐えている幼子は、死の寸前の、あるいは死後の世界が見せる幻影でしかない。そこに意味などない。
 第一こんな小さな子にむきになるなんて、どうかしている。子どもというのは、わがままで、弱くて、感情のコントロールができない生き物だ。たかだか母親が構ってくれないというだけで、拗ねて他人に当たるような弱い……。

「はるになると、あかちゃんがうまれるんだ。パパとママがいってた。ぼく、おにいちゃんになるんだって。そんなものなりたくないって、ほんとうはおもったんだけど、パパとママはあかちゃんができてすごくうれしそうにわらうんだ。それで、あかちゃんがうまれるまで、おみせをたくさんがんばらなくちゃって。だから、ぼく、がまんしなくちゃいけないんだ。わがままいっちゃいけないんだ」

 トーマの身体に頬を寄せたクヌートが、ぽつり、ぽつり、と独り言のようにこぼした。もしかすると、それは犬のトーマへ聞かせた言葉だったのかもしれない。でも、彼の言葉は、トーマのぴんと尖った耳だけでなくあたしの耳にも届き、静かな水もに投じられた小石のように、あたしの心を波立たせた。
 かすかにかぶりを振り、知らぬ間に深いしわの刻まれていた眉間に指を当てて解きほぐす。
 この子の寂しさは本当につまらないものなの? 取るに足らない小さなもの? この子自身の幼さのように?
 いや、そうではない。
 あたしは心の中で呟いた。そうではないのだ。
 子どもがいつも明るくて楽しくて笑いに満ちた人生しか送っていないなんて、そんなことは決してない。
 子どもだって様々な思いがあって、身体が小さいからといって、悲しさやつらさや寂しさが、大人よりも小さいということはない。
 四年しか生きていない幼子の思いが、十四年生きたあたしのものよりも小さく卑しいだなんて、そんなことは誰にも言えない。
 あたしはそれを身を以て知っているはずだ。
 昔嫌っていたはずのクヌートへ向ける眼差しが和らぐのが、自分でも分かった。

「あたしにも、弟がいるわ」

 ほとんど無意識に打ち明けていた。こんなことは同居人の少年にも話したことがない。あたしにとって、家族のことはできるだけ避けたい話題だからだ。
 弟はあたしとは母親が違う。つまり、継母のエリザと父との間に生まれた子で、現在四歳のはずだ。
 クヌートはもぞもぞと振り返ると、つぶらな青い瞳でこちらを見つめてきた。

「今、四歳よ。アロイスというの」

「ぼくとおないどしだね。……ねえ、ぼくのなまえはおしえてあげたんだから、そっちもおしえてくれなきゃだめだよ。アロイスのおねえちゃんはなんてなまえ?」

「エリィよ」

 生意気なクヌートの言葉に苦笑しつつ、ここでもあたしは継母の名を名乗った。

「エリィは、おねえちゃんになってよかった?」

 クヌートの問いかけは、驚くほど単純で、ストレートだった。それだけに、あたしは嘘で誤魔化す気にはなれなかった。それにたぶん、彼はあたしの嘘を敏感に嗅ぎ分けてしまうだろう。

「実は、弟にはほとんど会ったことがないの。ずっと離れて暮らしていたから……。彼が何を好きで、どんな風に笑うのかも知らない。自分がお姉ちゃんだということも、普段は忘れているわ」

 本当のことだ。あたしは弟のアロイスに数えるほどしか会ったことがない。それも、会ったのは彼が赤ん坊の時だけだ。向こうはあたしを憶えていないだろうし、こちらも彼のことなどほとんど何も知らない。知りたいと思ったこともない。半分同じ血が流れているという事実以外には、何一つ繋がりを感じたことがない。

「じゃあ、エリィは、わるいおねえちゃんなんだね」

 あたしと家族に関する事情とか、複雑な感情とか、そういったものをいっさい斟酌せず、ただ青い空を青いと言うように、クヌートはあたしを評した。

「……そうね」

 本当にそのとおりだ。
 怒りや否定する気持ちは微塵も湧いてこない。不思議なのは、それを疑問にさえ思わない自分がいることだ。
 一体、実の弟を愛さない姉を他に何と表現できるだろう?
 姉から疎まれるようなことなど何一つしていないアロイスにしてみれば、あたしの態度はあまりに一方的で理解しがたいものだ。まだ四歳の彼がどこまで事情を理解しているかは知らないが、それこそ先ほどのクヌートの場合と同じで、幼いからといって何も感じないというわけでもない。少なくともほとんど会ったこともなく、愛してもくれないあたしが、彼にとって「いいお姉ちゃん」ではないことは間違いない。
 あたしは想像する。クヌートが愛する父や母からかけられたであろう、「いいお兄ちゃんになってね」という言葉を。その時のクヌートの気持ちを。意図しない残酷な言葉に傷つけられた彼の寂しさを。
 かつて、産まれたばかりの赤ん坊を抱いたエリザはあたしに言った。

「あなたの弟よ、アスカ。新しい家族よ」

 エリザの胎から出てきた小さくて醜い生き物へ向けるあたしの眼差しは、冷たく、不愉快なものだった。
 なぜこんなものとあたしが家族などと呼ばれなければならないのだろう。エリザは父の伴侶かもしれないが、あたしの母ではない。当然、彼女から生まれてきた赤ん坊も、あたしの弟であるはずがない。
 父が再婚してからずっと、あたしはエリザとの表面上の対立を避けてきた。しかし、新しい家族とかいうふざけた生き物を前にして、並みの十歳よりよほど明晰なはずのあたしはいささか判断力を失い、一線を踏み越えてしまった。
 こう言ったのだ。

「まるで不細工なサルそっくりだわ」

 エリザの表情が凍りついたのを見て、やってしまった、とくちびるを噛んだ。
 しかし一方で、自分が彼女を傷つけるのは当然の権利だ、という気もした。あたしはさんざん彼女に傷つけられてきたのだから。
 ずうずうしく母親面をするだけに飽き足らず、言うに事欠いて「新しい家族」だって? いつあたしがあんたなんかの家族になったって言うのだ。
 たとえ口に出さずとも、あたしの本心はエリザに伝わったはずだ。しかし、それまでの六年間であたしの扱いにくさを知っていた彼女は怒り出すこともせず、凍りついた顔をぎこちなく和らげて言った。

「産まれたばかりはみんなこうなのよ」

 エリザが傷つかなかったはずはない。実際、彼女はあたしに憎しみさえ抱いただろう。
 それなのに、なぜ彼女は怒りをこらえることができたのか。それほどの自制心が一体どこから湧き出してくるのか。怒りを我慢したところで、このあたしが殊勝な態度を見せるわけでもないことは分かり切っていただろうに。
 物思いに沈んでいると、カフェのドアがカランカランと音を立てて開いた。内側にベルがついているのだ。
 顔を覗かせたのは、真っ白な口ひげをたくわえた初老のカフェの主だった。外に出た彼は店内に寒気が入り込まないようすぐにドアを閉め、犬のトーマに抱きついているクヌートを見下ろして、白い息を吐きながら、しわがれた声を出した。

「また来たのかね、クヌート。そんなところへいたら寒いだろう。中へお入り」

 どうやらクヌートがこうしてここへ来るのはいつものことらしい。彼は犬のトーマを友達だと話していたが、もしかすると仲のいい友達が他にいなかったのかもしれない。思い返せば、幼稚園でもクヌートは孤立しがちだった。もちろん、それは彼自身の態度も一因ではあったのだが。
 クヌートは答えようとしなかったが、カフェの主の声はあくまで柔らかく、しわがれていた。

「お前さんのためにホットミルクを作ってあげるよ。中でそれを飲んで温まるといい」

 しかし、クヌートは頑なにかぶりを振った。

「ファーレンハイトさんのおしごとのじゃましちゃだめって」

「パパとママがそう言ったのかね?」

 クヌートはこっくりと頷く。

「ふむ」

 ファーレンハイトという名らしいカフェの主は、白い口ひげを撫でつけ、飼い犬のトーマに抱きすがる小さな男の子と、彼にされるがままになって時々ぱたぱたとしっぽを振っている自分の飼い犬をしげしげと見つめてから、穏やかな口調で言った。

「邪魔にはならないよ。お前さんはうちの客で、客に温かい飲み物を出すのは、わしの仕事だ」

「でも、ぼく、おだいはらえない。おかねもってないもの」

 いかにも商売をする家の子らしい心配をするクヌートの発言に、あたしは少なからず驚いていた。幼児の頃の短い付き合いしかなかったとはいえ、彼はあたしの知らないさまざまな顔を隠し持っていた。いや、別に隠していたわけではなく、あたしが単に知らず、また知ろうともしなかったというだけなのだ。
 一人の人間のすべてを知ることは、実際にはほとんど不可能なことなのかもしれない。たとえそれが……家族であったとしてもだ。ましてや、ただ一緒に暮らしているだけの人間や、仕事や学校で係わりがあるだけの人間のことなど、ほんの一側面しか知ることはできない。そして、上っ面のほんの一部分を見ただけで、好悪を決めつけてしまう。
 浅はかといえばそうだし、一方で人間とはそんなものだという気もする。
 けれど、一度感情を決めつけてしまえば、あとは何も見ず、何も聞かず、相手のことをそれ以上知ろうともしないというのは、怠惰というものだ。傲慢といってもいい。
 あたしは、エヴァで一番になることにしか興味がなかった。なぜなら、それこそが亡き母の愛情を人形から取り戻す唯一の方法だったから。そして、この世で最愛の母がいなくなり、父もまた娘のあたしではなく後妻のエリザに一番の愛情を注いでいる以上、引き換えにあたしには、『それ以外のすべての人たち』の愛情が必要だったのだ。両親の愛情と釣り合うだけのものは、他に考えられなかった。母と父を除くこの世のすべての人々の関心と愛情をこの身に捉えるにはどうすればよいのか。答えはやはり、エヴァで一番になることだ。その意味するところが世界を救うことならそうするし、そのために殺すのが使徒だろうと人だろうと構わない。
 だから、目的を果たすまで、あたしはそのことだけを考えていればよかった。
 その過程であたしがどんな人間であろうと、ひどい振る舞いをしようと、他人からどう思われていようと、最後には結果がついて来る。
 たとえあたし自身から誰一人愛さずとも、たとえ他人に怒りと敵意しか抱いていないのだとしても、たとえ愛とは何かをとうの昔に忘れてしまったのだとしても、浴びるような愛を得ることができるのだ。
 傲慢は愚かさから生まれる。
 この世で唯一無二の存在になりさえすれば、無条件で、あらゆる人々からの尊敬と愛情を一身に受けることができる。あたしは自らの思いつきを盲目的に信じていた。いや、信じたかった。信じなければならなかったのだ。それ以外に、あたしには縋るものなどなかったのだから。
 だから、あたしは根拠のない思いつきに固執し、この世には他に確かなものなど何一つないと、すべてを思考から追い出した。
 人の心はそれほど簡単なものではないと、愛とはそんな方法で得られるものではないと、疑うことさえ放棄した。
 自分には何一つ間違いなどない。思い込みはやがて愚かしい妄執へとすり替わっていった。
 四歳の幼女の自己防衛がその始まりとはいえ、十年経ってもそこから抜け出せずにいるうちに、自己防衛の堅固な殻は、傲慢な愚者の衣に変質してしまったのだ。
 そして、ついにあたしはその衣を脱ぎ捨てる機会を得ぬまま、死を迎えた。

「では、こうしよう、クヌート。わしはお前さんに温かいミルクを差し出す。その代り、お前さんには、わしからの注文書をママへ届けてもらおう。店で使う消耗品をいくつか補充したくてね。これは正当な取引というものだよ。これなら気兼ねはいるまい」

 ファーレンハイトさんの提案をしばらく吟味していたクヌートは、やがて気難しいふくれっ面をやわらげて、おずおずと頷いた。

「けっこう。では、お入り。今日は一段と冷えるからね、よく温まらなければ。トーマもおいで」

 立ち上がったクヌートがジャケットの雪を手で払うと、それに倣うかのようにトーマも全身をふるって雪を落とした。ファーレンハイトさんがドアを開いて促すと、一人と一匹は並んで店内へと入っていった。あたしがその一部始終を無言のまま見届けていると、年老いたカフェの店主はこちらに顔を向けて、白い息を吐きながら話しかけてきた。

「お嬢さんもどうかね。中で熱いコーヒーでも」

 正直なところ、それはかなり魅力的な申し出だった。何といってもこの寒さだし、コーヒーも大好きだ。クヌートと一緒に暖を取りながら、美味しいコーヒーを味わうのも悪くはない。
 けれど、あたしはゆっくりとかぶりを振って立ち上がった。

「いえ、せっかくだけど。あたしはもう行かなくては」

「そうかね。では、ごきげんよう、お嬢さん。よいヴァイナハテンを」

「ええ、あなたも、ファーレンハイトさん。……あの、クヌートに優しくしてくれて、ありがとう」

 あたしの言葉を聞いて、ファーレンハイトさんは不思議そうな表情になった。でも、それ以上に面食らったのはあたし自身だ。一体、あたしは何を言っているのだろう?

「ごめんなさい。変なことを言ったわ。忘れて」

 あたしは手を振って弁解した。クヌートが受けた親切をあたしが恩に着る道理なんてどこにもないはずなのに、まったくどうかしている。
 ファーレンハイトさんは、しばらく詮索するような目をこちらに向けていたけど、やがてその真っ白な口ひげの下から、しわがれた声でしみじみ言った。

「わしはね、あの子が好きなのだよ」

 それはほとんど雪に吸い込まれてしまいそうなほど静かな告白だった。
 けれど、あたしにはその言葉の肌触りまで感じられるような気がした。

「……あの子もあなたのことが好きなんだと思うわ」

 返事の代わりに深い笑みを残し、ファーレンハイトさんはクヌートとトーマの待つ店内に戻っていった。
 この十年、あたしが切望し続けてきたものはただ一つだけだ。
 でも、自分が求めているものがどういうものなのか、本当に考えたことはなかった。
 しかし、今初めてそれを考えようとしている。
 十年間まとい続けてきた愚者の衣に手をかけ、この胸に問いかけようとしている。

「あたしの欲しかったもの……」

 カフェから離れていきながら、あたしは舌の上で言葉を転がした。
 なぜ、あたしは愛されなかったのだろう?
 誰よりも優れた存在になることがとうとう叶わなかったから?
 それとも、愚かだったから?
 いや……そもそも本当に愛されていなかったのか?
 周りの人々、同居人の彼……、そして父の、エリザの本当の心を知っていたのか?
 もちろん、今となってはもはやそれを知る術もない。
 すでに死んでしまったあたしにはどうでもいいことであるのも確かだ。
 にもかかわらず、疑問は胸の下、致死の衝撃があたしを貫いたまさに同じ場所で、しこりとなって硬く凝り、存在を主張していた。

 


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