あたしにとって降臨節の記憶はごみ箱と結びついている。
 言うまでもなく、母が死んで以後の話だ。四歳までの幸福な体験は、とてもはっきりとは思い出せそうにない。
 エヴァの訓練と学業に専念するために一人で暮らし始めたのは八歳の時だ。ネルフが用意した寮の一室は住み心地満点とはいかなかったけど、食事やその他の雑事で煩わされずに済むのが利点だった。それにもちろん、家族の顔を見ずに済むことも。
 あたしは訓練と勉学に文字どおりのめり込んでいた。コツは日々のルーチンを明確にしておくことと、それを守ること。決められた手順どおりに毎日を過ごしていれば、やがて一日一日は相対化されて、感情をいつでもニュートラルに保てる。
 一年で最も特別な降臨節も例外ではなかった。それはあたしにとって、普段の日々と何ら変わらなかった。当然、日付の上での認識はするし、町の様子を見れば一目瞭然だ。でも、あたしはそれを自分と関係のない遠い光景として切り離していたのだ。
 けれど、エリザは違う考えを持っていた。
 まず十二月四日の誕生日プレゼントだ。それに電話。アドヴェントカレンダー。手作りのシュトレン。ヴァイナハテンのカードとプレゼント。そして、また電話だ。
 あたし自身の努力にもかかわらず、降臨節の期間は一年でもっとも心をかき乱される時期だった。そうならないためにこそ家を出たというのに。だから、贈られたものをすべてごみ箱に放り込むことで、かき乱された感情をクールダウンしなければならなかった。
 ひどいことをしていたのは分かっている。罪悪感がまったくなかったとは言わない。当時のあたしは絶対に認めなかっただろうけど、今なら少し冷静に振り返ることができる。でも……あたしには他にどうしようもなかったのだ。
 電話では嘘ばかりだった。あたしを心配する言葉にも帰宅を促す言葉にも毎回同じ言い訳をした。考えてみればおかしな話で、あれほど彼女を嫌っていたのだから、いっそ正面切ってののしればよかったものを、なぜかあたしはそれを実行に移さなかった。
 継母と白々しい会話を交わすことで、あたしは一体何を守ろうとしていたのだろうか?
 降臨節は家族との絆を確認するためにこそあるという人がいる。そもそもこれは信仰と密接な関わりのある行事だが、信仰と愛とは切り離すことができず、家族とは愛のもとに結びついている。神とは愛であり、信仰とは愛を受け入れることであり、また愛を与えることである。それはつまり、家族の姿そのものでもあるのだ。
 いずれにせよ、あたしにとっても降臨節は家族の存在を否が応でも確認させられる時期なのだった。たとえそこに愛情がなく、すでに結びつきを失ったのだとしても。
 ショーウィンドウの中から穏やかに微笑みかけられて、あたしは足を止めた。
 ガラスを隔てた向こう側には、整った顔立ちに微笑を乗せ、金の冠に金の衣、大きな金の翼を持つ美しい女の子がいた。といっても、これは木製の人形のことだ。クリストキント(幼子キリスト)といって、伝統的にプロテスタントの勢力が強い南ドイツではヴァイナハテン(クリスマス)にプレゼントを持ってきてくれるのはこのクリストキントということになっている。
 ショーウィンドウにはクリストキントの他にキリスト生誕の場面を表したクリッペという飾りやくるみ割り人形が展示されている。しばらくそれらを眺めていたあたしは、誘われるように店の中へ足を踏み入れた。
 シャルロッテばあちゃんの店が扱っているのは、昔ながらの素朴な木彫り人形や木工細工、ぬいぐるみなどで、目新しいおもちゃの類は一切ない。しかし、何とも言えない木の香りが充満するこの場所にいると、不思議と懐かしいような、胸が温かくなるような気がする。おそらく、幼い頃のあたしは何度もここへ足を運んだのだろう。この店で扱っているような品々が自宅にいくつもあったことを憶えている。
 外で微笑を投げかけているクリストキントは、店の中にもいた。ショーウィンドウに飾られたものよりずっと抽象的なデザインではあるけど、同じ金の冠に金の衣、金の翼という特徴を備えたたくさんの天使像たちが、棚の上の一番目立つところで美しい笑みを浮かべていた。

「いらっしゃい。それが気に入ったのかい」

 クリストキントの像を見つめているあたしに店主のシャルロッテばあちゃんが話しかけてきた。白髪頭のシャルロッテばあちゃんは充分に暖かい店内にもかかわらず毛糸編みのセーターの上から毛糸編みのストールを羽織り、厚ぼったいロングスカートを腰に纏いつかせている。彼女はこの時(つまりあたしが四歳当時)すでに七十歳は超えているはずで、いかにも老人然とした服装をしているけど、歳のわりに背筋が伸びていて、背丈も今のあたしより二十センチも高いくらいだから、かくしゃくとした動作や話し方も相まって、堂々たる女主人の威厳を備えていた。

「そうね。可愛いわ」

 あたしはシャルロッテばあちゃんの顔を見あげながら答えた。

「表に飾られているのが特に素敵だった。頬の柔らかさが感じられるくらい」

「若いのに見る目があるよ、あんた。何たって職人の腕がいいからね。うちに置いてあるものは皆そうさ」

 誇らしげな様子でシャルロッテばあちゃんは言い、自分の店に並べられた数々の品へ愛おしげな眼差しを向けた。あたしもそれに倣って店内を見回し、あるものに目を留めた。

「あれ……」

「ん? 何だい?」

 あたしの呟きを耳に拾ったシャルロッテばあちゃんが訊ねてきたけど、それには答えず、ふらふらとその『あるもの』へ近づき、あたしは手を伸ばした。

「ああ、それか。可愛いもんだろ。いい生地を使ってるし、縫製もしっかりしてる。それにやっぱり大きいからね、子どもや女の子の目を引くにはもってこいなんだ」

 それは人間の幼児と同じくらいの背丈のクマのぬいぐるみだった。両手で抱えてみると中身が詰まっているのか意外に手ごたえがしっかりしており、抱き締めがいがある。

「子どもにとっちゃ、抱き締めても腕が全部回らないくらい大きいってのが魅力なんだ」

 クマを抱いているあたしの後ろからシャルロッテばあちゃんが言った。

「そうなの?」

「パパの大きなおなかと同じさ。飛びつかずにはいられないんだ。若い娘が大きくて頼もしい男に惹かれるのも似たようなもんだと思うね。かく言うわたしの死んじまった亭主も大男だった。あの人の隣に立つと、わたしはまるで小娘みたいだった。この人さえいてくれれば大丈夫って思わせてくれるところがね、わたしは好きだったよ。まあ、若かったからね」

 後ろに視線を向けると、腰に手を当てたシャルロッテばあちゃんが自分の言葉に肩を竦めているところだった。気取った仕草をする肩の上にしわだらけの顔が乗っているのは、ともすれば滑稽にも見えたけれど、彼女が若い頃にはさぞや様になったに違いない。同じ仕草をする、長身で気性の激しい若い娘の姿が目に浮かぶようだ。

「つい先日も、そのクマがえらくお気に召した女の子がいてね。まだほんの子どもで、一緒にいた父親にさんざん駄々をこねてたが、結局買わずじまいだったよ。で、あんたはどうする? 買うのかい?」

 クマを抱いたあたしは、シャルロッテばあちゃんの言葉にかぶりを振ってみせた。

「そういうつもりじゃないの。ただ、その……」

「何だい?」

「あたしも昔、これとよく似たようなぬいぐるみが欲しいと親にねだったことがあるの。こんな風に大きくて……そう、確かクマだったわ。あたし、どうしても欲しくて、諦めきれなくて……」

「ふん。まあ似たようなのはよくあるからね。うちの品より上等なのはないだろうが。まあ、見るだけはたださ。好きにするといい。でも、汚さないでおくれよ。そうなったら何としてでも買い取ってもらうからね」

「ええ、気を付ける」

「やたらとべたべた撫で回したり顔を押し付けるのもなしだ。買ってくれればキスしようが噛みつこうが自由だけどね」

「そんなことしないわ」

「念のための注意だよ」

「もう少しこうして抱いていていい?」

 上目遣いに見あげながらあたしが訊ねると、くちびるの端を持ち上げて顔に新たなしわを作ったシャルロッテばあちゃんは、また肩を竦めた。

「いいとも。少しならね」

 胴体の正面でしっかりとぬいぐるみの質量を確かめるのは、不思議と慰められる行為だ。たぶん人間というのは、自分でない別の存在と触れ合い、身を寄せることを本能的に求めているのだろう。子どもにとって、自分以外の他者として第一に挙げられるのは両親だ。母の柔らかく優しい温もり、そして父のたくましく大きな身体。あるいはシャルロッテばあちゃんの言葉どおり、子どもは大きなぬいぐるみからもそれと似たような安心感を得ているのかもしれない。
 母が死んで以後、あたしは抱きしめるぬいぐるみをいっさい持たなかった。それまで持っていたものは封印し、一人になってから贈られたものはごみ箱へ押し込んだ。
 抱きしめることも、抱きしめられることも拒絶したあたしは、それが強さだと思っていたのだ。その強さこそがあたしを目的に向かって奮い立たせるのだと。
 そう、あたしはそうやってすべてを拒絶していたのだ。
 でも、今となっては何が本当か、何が正しかったのか、もう分からない。
 そしてきっと、分からないままにあたしは消えていくのだろう。
 入り口の扉がベルの音とともに開いた時、あたしは店の奥でぬいぐるみを抱いて、そちらに背中を向けていた。

「いらっしゃい。何だ、また来たのか」

「客に向かって、また来たのかとはひどいな」

 シャルロッテばあちゃんのぞんざいな言葉に、入ってきた人物は苦笑しながら答えた。張りのある男性の声だった。まだ若々しい、しかし分別の感じられる声。その声を聞いた途端、あたしの心臓は早鐘のように鳴り始めた。声には聞き覚えがあった。忘れようとしても忘れられない、記憶に染みついた声だった。

「今日はおちびちゃんは一緒じゃないのかい」

「娘なら今日は妻と一緒にいるよ。実は仕事を抜け出してきたんだ」

 首だけで恐る恐る振り返ると、最後に会った時よりずっと若く快活な父が、シャルロッテばあちゃんと向かい合って立っていた。父は背が高く、鮮やかな金髪で、深い海のように青い瞳をしており、その表情はのちにあたしがよく知るような深い苦悩にかげったものではなく、屈託のない明るさを持っていた。

「呆れたね。大人になっても悪がきは直らないのかい。仕事ってのはもっと真面目にやるもんだよ」

「おばさん、ぼくはいつも真面目だよ。あなたは気付いていないかもしれないが、ぼくはもう十歳の悪がきじゃないんだ。用さえ済ませたらすぐに仕事に戻る」

 肩を竦めるシャルロッテばあちゃんの姿が、もしかすると父にはきっぷのいい中年女性の姿と重なって見えているのかもしれない。父はこの町で生まれ、両親からシャルロッテばあちゃんの店のおもちゃを与えられて育ったのだ。

「確かにこの二十年で見た目は一丁前になったようだがね。で、仕事を抜け出してまでうちにどんなご用向きだい」

「前に娘が欲しいと言っていたぬいぐるみ、あれをやはりもらおうと思って」

「ああ、あれか」

「まだ残ってるかな」

「あるよ。ただ今ちょうどあれを手に取ったお客さんがいてね。買う気はないと彼女は言っちゃいるが、交渉は自分でしてみたらどうだい」

 シャルロッテばあちゃんが立てた親指で背後のあたしを指さすと、父がぬいぐるみを抱いたあたしの存在に気付いて、こちらを見た。衝突した視線から逃れられなかったのは、金縛りにあったように動けなかったからだ。情けないことに、あまりの出来事に足が竦んでしまっていた。まさか父が目の前に現れ、さらに会話することがあろうとは露ほども考えていなかったのだ。
 あたしの怯えた表情を、父は自分のせいだと感じてうろたえたようだった。ハンサムで人当たりのいい彼にとって、何もしてないのに女の子に怖がられる経験などこれまであまりなかったに違いない。父はこちらに歩み寄り、抱いたぬいぐるみの陰に隠れるようにしているあたしに向かって、脅かさないようできる限り優しい声で話しかけてきた。

「もしきみがそれを買うつもりなら、無理を言う気はないんだ。でも、そうじゃないなら、ぼくに譲ってくれないだろうか。今日は娘の誕生日なんだ。娘は前にここへ来た時もそのぬいぐるみを欲しがっていた。ぜひプレゼントしてやりたい」

 あたしはすぐには答えられなかった。だって、無理もないだろう。もし目の前にいるのが父でなく母で、彼女が同じ台詞を言ったのなら、ここまでショックを受けることはなかったはずだ。あたしはあまりに長い間、父の裏切りに怒っていたせいで、彼がかつて正真正銘娘のことを愛していたという事実をつい忘れていたのだ。
 父は目の前で硬直している少女に少なからず戸惑っている様子だった。彼はこちらを安心させるように微笑み、ゆっくりとした口調で言った。

「ごめんよ。気を悪くさせたかな。駄目なら、一言そういってくれればいいんだ。首を横に振ってくれるだけでもいい。そのぬいぐるみの他にも、娘の喜ぶものを思いつくことはできるはずだからね」

 ここで何か言わなければ、本当に父が諦めてしまいそうだと気付いたあたしは、今にも逃げ出してしまいそうな自分を叱咤して、ぬいぐるみの陰からか細い声で答えた。

「どうかお子さんにプレゼントしてあげて下さい。きっとあたしよりあなたのお子さんのほうが、このぬいぐるみを必要としていると思うから」

 差し出されたぬいぐるみとあたしの顔とを交互に見て、父は顔を輝かせ、しかしすぐに気遣わしげに言った。

「ありがとう。でも、本当にきみはいいのかい?」

 あたしはかぶりを振って答えた。

「いいんです。もともと買うつもりはなかったから。昔よく似たぬいぐるみを持っていたのを懐かしんでいただけなの」

「小さいころ?」

 あたしの手からぬいぐるみを受け取りながら父が訊いた。

「ええ、小さいころ。父がプレゼントしてくれたんです」

 きっとこんな風にして。
 心の中であたしは言葉を付け加えた。

「いいお父さんだね」

 父のその言葉をあいまいな表情で受け流し、あたしはぬいぐるみを受け取った彼から一歩後ろへ離れた。父の混じりけのない笑顔にこれ以上耐えられる気がしなかった。

「お子さんの誕生日、おめでとうございます」

「ありがとう。何度言われても、誰に言われても、嬉しいものだね」

「やれやれ、そういうのを親ばかっていうんだよ」

「そのとおりかな。でも、ぼくは一向に構わない気分なんだ。おばさん、綺麗に包装して、でっかいリボンを巻いてくれるかな。赤いリボンがいい」

 シャルロッテばあちゃんにプレゼント包装を頼む嬉しそうな父の姿を横目で捉えながら、あたしは再び金の翼を持つクリストキントの人形を手に取った。
 今にして思えば、再婚した父への怒りは、彼が母を裏切ったことより、このあたしを裏切ったということへ向けられていたのだ。
 あたしは、自分が男女の愛の何たるかを知っているとは思わない。父が母、あるいはエリザに向ける愛情と、このあたしへ向けられるそれとが性質を異にするものであるということは、理屈でなくごく自然なものごととして理解できる。しょせん娘は妻とはなり得ないのだ。その分かり切った道理を吹き飛ばすほどに、しかしあたしの嫉妬は激しかった。
 父とエリザとの恋を否定する権利が自分にはあると、あたしは信じていた。
 彼はそのようなことをしてはいけない。彼が愛するのは、母とあたしだけでなくてはならない。それは決して破られてはならない約束なのだから。
 家族という約束。神の下で交わされた、一つの固い誓いだ。
 ところが父はそれを破った。あたしの願いにもかかわらず、あたしをかえりみることもなく、母への愛すらもかなぐり捨てて、エリザとの幸せを築こうとし、事実彼はそれを実行した。
 少なくともあたしにはそう思われた。
 どうして父が、母亡きあとただ一人の家族となったこのあたしだけを愛することができないのか、あたしには理解しがたかった。愛する妻を失った彼の絶望、そしてエリザとの恋に見出したであろう救いをおもんぱかることもせず、ただひたすら娘への愛のみに奉仕することを父に求めていたのだ。
 父とシャルロッテばあちゃんの気安い会話を背に、あたしは父への感情と格闘していた。
 綺麗に包装されたぬいぐるみをシャルロッテばあちゃんから受け取る父の表情が胸に突き刺さった。年若い父の笑顔は思いがけないほどあけっぴろげで、少年じみてさえ見え、あたしのよく知る彼の表情とはまるで異なっていた。
 この顔を押し潰され、決して消えないしわを刻み込まれるほどに父が傷ついていたのだと、娘と同等、もしくはそれ以上に彼の傷は深かったのだと、果たしてあたしは知っていただろうか。
 誰かが、父を癒し救わねばならないと、その必要があるなどと考えたことがあっただろうか。

「じゃあ、おばさん。ぼくは急いで戻らなくちゃ。きみもありがとう。本当に恩に着るよ」

 戸口の前で振り返りながら、父がこちらに向かって再度声をかけた。そのせいで、彼はちょうどその時扉を開けて店内に入ってこようとする人影に気付かなかった。身体を後ろにひねったまま戸口のほうへ数歩踏み出した父は、あたしやシャルロッテばあちゃんが声を出して注意する暇もなく、そのまま入ってきた若い女性と正面から衝突してしまった。

「きゃっ」

「うわっ。申し訳ない。ちゃんと前を見てませんでした。お怪我は?」

 戸口でお互いに体勢を崩しつつ、赤いリボンを巻いたぬいぐるみの包みだけはしっかり抱えた父が、ぶつかってしまった女性に恐縮した様子で声をかけた。

「いえ、大丈夫。こちらこそごめんなさい」

 乱れた金髪を払いながら顔を上げた若い女性は、はっとするほどの美人だった。あたしは思わず息を呑んだ。なぜなら、それが知っている顔だったからだ。
 女性はエリザだった。父が彼女と再婚するのは、母の死からわずか数か月後のことだ。二人の恋は早急で、激しかった。あるいは、それほどまでに急がなければ、父が絶望から救われることはなかったということなのだろうか。
 品のいいコートに身を包んだ彼女は、父が大事そうに抱える大きな包みを目に留めて、気遣わしそうに言った。

「わたしのせいで大事なプレゼントを傷つけてしまったりはしなかったかしら」

「しっかり持ってましたから大丈夫ですよ。いえ、もちろんぶつかってしまったのは、ぼくの不注意ですが」

「よかった。お子様へのプレゼント?」

「ええ、まあ。今日は娘の四歳の誕生日なのでね」

 今日という日の意味を他人に告げる時の、父の誇らしげな様子に、あたしはやはり戸惑いを覚えた。しかし、エリザにとっては、それはごく普通の、好ましい父親の姿と映ったらしい。微笑ましげな表情を浮かべた彼女は、打ち解けた調子で父に言った。

「まあ、おめでとう。それじゃ、パパは責任重大ね。大切なプレゼントを無事に届けなくちゃ」

「ドイツ中のどの配達員より安全確実に届けますよ。少なくともこれ以上プレゼントのぬいぐるみで他人をはね飛ばしたりしないことは誓ってもいい」

 腕に抱えたぬいぐるみの包みをぽんぽんと叩き、父はおどけて答えた。エリザはおかしそうに笑い、それから急に気が付いたように言った。

「やだ、ごめんなさい。わたしったら道をふさいでるのね。さあ、どうぞ」

 扉の脇によけたエリザが促すと、今度は父は誰にもぶつからずにそこを通り抜け、最後に振り返って店内のあたしたち三人に軽く目礼して扉を閉めた。あとは小走りに駆けて立ち去っていく様子が窓の外に見えた。
 三人ともが何となくそれを見送っていたのだけど、気を取り直すようにシャルロッテばあちゃんが言った。

「やれやれ、そそっかしいのは子どもの頃からだよ。あんたも文句の一つも言ってやりゃいいんだ」

「そう言わないでよ、おばあちゃん。不注意はお互い様じゃない。それに感じのいい人だったわ」

 エリザが入ってきたことで、店を出ていくタイミングを逃してしまったあたしは、二人の親しげなやり取りに隅のほうで耳を傾けていた。
 のちのヴァイナハテンでエリザから贈られたプレゼントの中には、シャルロッテばあちゃんの店の品と思しきものもあったように記憶している。あまり考えたことはなかったが、彼女もこの町の住人であったのなら、シャルロッテばあちゃんと知り合いである可能性が充分にあるどころか、母の事故以前にどこかで父と出会っていたことさえもあり得るのだ。もし父が母より先にエリザと知り合っていたとしたら、あたしの存在は……、いや、これも意味のない想像だ。

「おやおや。あんたがそんなことを言うとは」

 エリザの言葉を聞いたシャルロッテばあちゃんは大袈裟に驚いてみせた。

「変な意味じゃなくてよ」

「どんな意味でもいいさ。ところで今日はどんな用だね。まさか世間話をしに来てくれたのかい?」

「もちろん世間話もするけど、目的はお買いものよ。もうすぐヴァイナハテンですもの。小児病棟の遊戯室に新しいおもちゃをと思って」

「それでわざわざあんたが? 別の人間を使いに出すことだってできたろうに。大体いくら同じ病院といっても、あんたは小児科じゃなくて精神科の医者だろう」

「小児科にも時々顔を出すの。それに今日は非番だし」

 いかにもエリザのやりそうなことだ、とあたしは心の中で皮肉っぽく呟いた。悪意からではないにせよ、彼女のおせっかいは決まってあたしをいらだたせた。しかし、彼女は一向に懲りるということを知らなかった。あたしがいらだっていることが分かっていても、だ。あたしたち二人ときたら、表面上は和やかなやり取りをしているふりをして、その実どちらが先に折れるか競い合っているようなものだった。

「立派だとは思うがね、あんただっていつまでも若くはないんだ。非番なら男とデートでもしたらどうなんだい。わたしがあんたくらいの歳には、もう二人目の子どもを産んでたよ」

 シャルロッテばあちゃんの小言にエリザはおかしそうに笑い声を漏らした。

「そのうち何とかなるわよ」

「病院の子どもたちだって、しょせんはあんたの子じゃないんだ」

「言わずもがなね。でも、わたしはあの子たちが好きだわ」

 その一言で何もかもが説明できる、とばかりのエリザの言葉に、シャルロッテばあちゃんはそれ以上議論する気を失ったようだった。

「……まあ、わたしがとやかく言うことじゃなかったね。さて、それじゃお客様、本日は何をお探しで」

「そうねえ、新しい積み木なんてどうかしら。できればみんなで遊べるものがいいと思うの」

 単に勤め先の病院に入院しているというだけの、赤の他人の子どもたちに対して、臆面もなく好きだと言えるのが、エリザの不思議さだった。つらい病気や怪我を負い、家族からも引き離され、不安や恐怖、あるいは憎悪や怒りにさいなまれているはずの子どもたちが、この無遠慮な好意を素直に喜んでいるものか、本当は心の中で何を考えているのか、知れたものではない。心の底でどう思われているかも分からないのに、なぜ彼女はいとも簡単に子どもたちを好きだと言えるのだろう。その言葉が彼らの傷や病を治癒させるわけでもなく、単なる独りよがりな感情に過ぎないというのに、それでもなお、与えることを躊躇わないのはなぜ……。

「なぜあなたは……」

 シャルロッテばあちゃんとエリザの視線がこちらを向いたことで、あたしは自分が思わず声を出してしまったことに気付いた。しかし、もう言葉を止められるものではなかった。

「怖くはないの? その気持ちはまったく通じないかもしれないのに。それどころか嫌われさえするかもしれないのに。なのに、どうしてそんな風に簡単に好きなんて言ってしまえるの?」

「気持ちというのはままならないものよ。目に見えるわけでも、手に触れられるわけでもない。だから、わたしは怖がるのをやめたの」

 エリザの微笑みはまるで金の陽射しのようで、もしもクリストキントが目の前に舞い降りたとしたら、こんな表情をしているだろうか、とあたしは考えた。しかし、現実の彼女は決してあたしのクリストキントとはなり得なかった。

「あなたは怖い? 通じなければ、どんな気持ちにも意味はない? あらかじめ結果が分からなければ、他人を好きになることはできない?」

「あたしは……」

 答えられずにいるあたしの瞳をエリザはじっと覗き込んだ。

「そうでなければ、あなたはきっと愛情そのものを恐れているのね。自分自身が嫌い、そんな顔をしている。純粋で強い眼差し。でも、ひどく脆い。あまりに深く自分を憎んでいるせいで、あなたは傷ついてぼろぼろになっているわ。だから、自分を愛してくれる人をも憎まずにはいられない。自分自身の中にある、誰かを愛する心でさえ、いとわずにはいられない」

 これはしょせん、死んで肉体を失ったあたしの魂とやらが見ている、都合のいい夢でしかない。目の前のエリザは幻でしかない。
 そう自分に言い聞かせても、彼女の言葉の与える衝撃から逃れることができなかった。
 エリザはあたしの心の奥底深くに隠されていた真相を鋭く突いていた。これまでずっと愛を求め続けていながら、実際にしてきたことといえば、彼女の言うとおり、ひたすらに愛を拒絶することだった。
 なぜなら、あたしは自分自身を憎んでいたから。たとえわずかであっても、自らが愛に適う人間ではないと考えていたからだ。
 これまでずっと振り払うことのできなかった思いがある。振り払おうとしてどうしてもそれができず、代わりにこの心の奥深くに沈めて隠していたもの。
 それは、母を殺したのは他ならぬこのあたしだ、という罪の意識だ。
 もしもあたしがもっといい子だったなら、母が死ぬことはなかった。だが、現実には彼女を狂気から引き戻す手助けをすることもできず、あのような無残な死から救うことができなかった。さらには父の絶望に気付き、癒してやることもできなかった。あたしたち家族の幸いが壊れていくのを前にして、まったくの無力だった。
 何かができたはずなのだ。しかし、何もしなかった。自らにかかずらっていたあたしは、取り返しのつかない過ちを犯したのだ。
 だから、あたしは自分を許せない。犯した過ちの大きさゆえに、何よりこのあたし自身が、自らを許すわけにはいかない。
 そのためにあたしは愛を求める以上の強さで、それを拒み続けなければならなかった。

「あなたにどんな事情があるかは知らない。でも、お嬢さん、これだけは知っておいて。この世に愛に足らぬ人間は一人もいない。愛に適わぬ魂などありはしないのよ」

 たとえ許されない罪を犯したのだとしても?
 このあたしもそうなの?
 愛してくれる人を受け入れてもいいの?
 あたしも誰かを愛していいの?
 干上がった喉から言葉が音となって出ることはなかった。それでも、エリザはあたしの思いを汲んだように、頷いて言った。

「わたしも、あなたも、あなたの大切な人たちも。皆そうよ。愛し愛される資格など問う人は誰もいない。なぜなら、最初から誰もが資格などなくても、愛に適う存在だからよ。あとあなたに必要なのは、ほんの少しの勇気だけ。自分の中にある自然な感情に素直になるだけ。それが簡単か難しいかを決めるのはあなた自身。でも、どのみち人は愛とは無縁に生きてはいけないわ。空気や水や土と切り離されて生きられないように。それが生きるということなのだから」

 最後の言葉に、あたしははっと顔を上げた。血の気の引いたあたしの顔をいぶかしげに見ているエリザとシャルロッテばあちゃん。だが、あたしは二人を尻目に、たまらずその場から逃げだした。
 雪道に転がり出たあたしは、道行く人たちを避け、避けきれずにぶつかりながら、脇目も振らず雪を蹴散らして走った。町の風景が飛ぶように過ぎ去って行く。限界まで走り続けて、これ以上は本当に心臓が破れるというところで、やっと走るのをやめた。しばらくはまともに息もできない。噴き出す汗で身体から湯気が上がる。ふらついてまともに立っていられず、かたわらの石垣に腕を預けるけど、それでも駄目で、あたしは地面に膝をつき、最後には冷たい雪の上に這いつくばった。
 身体がガタガタと震えていた。寒さのせいではない。確かに噴き出した大量の汗が体温を急激に奪いつつあったが、この震えはそんなところから来るものではなかった。
 母が死んでからあたしを支配していたものは、絶望ともう一つ、怒りだ。
 この身体を食いつぶすほどの激しい怒りだ。
 それは、他ならぬあたし自身へ向けられたものだった。
 もっといい子になれば、誰よりも優秀になれば、エヴァに乗ることができれば。そうすれば、母はあたしを見てくれる。そうすれば……、母は人形とともに自殺することもなかった。
 母の死に対して何も抵抗ができなかったなどというのは卑怯な誤魔化しだ。できなかったのではなく、あたしは抵抗しなかった。あるいは、するのが遅すぎた。あまりにも力が足りなかった。
 あたしは間に合わなかったのだ。そしてすべての思いも、願いも、希望も、自ら手放した。
 雪に額を押し付け、正体の知れないうめき声を上げる。両こぶしで地面を叩く。何度も、繰り返し。
 いつもそうだ。あたしはいつも間に合わない。あの時も、今回も。
 母の死後、あたしを愛してくれる人がいなくなったなどというのは、嘘だ。父からもエリザからも愛されていることは分かっていた。分かっていて遠ざけていたのはあたしのほうだ。彼らの愛に応える資格がないと心の底で思い決め、さらにはプライドのために彼らへの憎しみでその事実を覆い隠した。
 しかし、たとえごみ箱へ捨てたつもりになったとしても、この心は常に愛情を欲していた。
 彼らの愛情を受け入れたいと心から願い、その罪深さにさらに絶望した。

「違う……違うの……」

 本当は謝りたかった。
 愛していると伝えたかった。
 最初から愛していたのだ。世界で一番大切な人たち。誰よりも大切なあたしの……家族。

「イヤ! イヤよ!」

 でも、もう間に合わない。
 あたしは、死んでしまったのだから。

「イヤイヤ! こんなのイヤぁ!」

 何の未練もないなんて、大嘘だ。自らの死に対して何の感慨もないなんて、真っ赤な嘘なのだ。
 あたしはよろめきながら立ち上がり、わめいた。何ごとかと眺めている見知らぬ通行人に縋り付き、必死になって訴えた。

「お願い! あたしを元の場所に戻して! あたしを殺さないで!」

 だが、縋り付かれた相手は、気味悪げにあたしを見て、乱暴に振り払った。誰に訴えても皆狂人でも見るかのような眼差しをあたしへ向け、舌打ちをしたりののしったりしながら、縋り付く手を振りほどいて足早に離れて行った。誰一人としてあたしを助けてくれようとはしなかった。
 何度も転び、そのたびに立ち上がって、あたしはもはや相手もなくただ虚空に向かって叫び続けていた。

「まだ駄目なの。まだ死にたくない。まだ何も伝えていないのよ。あたしをあそこへ帰して。お願い、誰か……」

 いつかその日が来る、と心の底では期待していた。
 彼らの愛情を受け入れられる日が来る。
 伝えたかった思いを伝えられる日がきっと来る。
 幼かったあの頃のような幸せな日々がいつか必ず訪れる。
 思いは秘めておくびにも出さず、そんなことは夢のまた夢、そもそも望んですらいないとつっぱっていた自分。
 血のにじむような思いで愛情を探し求めずにはいられず、差し伸べられた手にはことごとく背を向けざるを得なかった二律背反。
 今こうして取り返しのつかないところへ来て、初めてあたしは己の過ちに気付いた。
 ごみ箱へ捨てられた愛情を取り戻す術は、もはやないのだ。

「助けて……パパ……エリザ、お願いだから……」

 顔を上げ仰いだ空は白く雲に覆われ、純白の天使の羽根のような雪片が音もなく舞い落ちる。

「ママ! あたしを助けて!」

 その瞬間、巨大な暗幕が音もなく滑り落ちてきて、すべてが暗闇に押し潰された。

 


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