I am Happy. − X − 或る少年の自覚に至った或る些細な情景 リンカ 2005.3.7(発表) |
第3新東京市、とある場所、とある家。
赤ん坊の泣き声が響いていた。
けたたましく、激しく、獰猛で、純粋で、一途で、危機感を煽る。
しかしこの少年にとってはただうるさいだけだった。
リビング。
1、2歳ほどの赤ん坊が泣いている。
リビングに置いてあるローテーブルで宿題をしていた少年は後ろを振り向いた。
「ハイハイ、どうしたの。何泣いてるんだい、レイ?」
少年―シンジは四つん這いで泣き喚くレイの所に近付いて行って彼女を覗き込んだ。
ぷくぷくした柔らかな顔を精一杯に歪め、口を大きく開いて目を閉じ、涙を落としながら
レイは叫んでいた。
シンジは一体どうしたんだと思いながら、妹の様子を観察する。
手に人形が握られていた。ただ、体が2つに千切れ掛けている。
「これの所為なの?でも、レイ、お前が振り回してたから千切れちゃったんだろう」
そう言ってみるシンジだが、赤子にそれが通じる筈もない。
尚も泣き叫ぶばかりの妹に、シンジは溜息を吐いて手を伸ばした。
「ほーらほら、よしよし。そうだね、お気に入りだったもんねぇ、リコちゃん。
ほら、泣き止みなさい、レイ。いいこ、いいこ。ね、レイ」
シンジは体中で泣くレイを優しく抱き上げ、背を擦りながら声を掛けた。
レイがシンジの腕の中で身を捩り、振り回した腕がシンジの頬を打った。
「っつ。・・・ほら、大丈夫だよ、レイ。他にもおもちゃはあるだろう?」
そう言ってシンジは手近なおもちゃを1つ手に取って、それの音を鳴らす。
ぷー、ぷぁー、と間抜けな音が、レイの愚図る声に重なってリビングに響いた。
シンジはレイを優しく抱き止めながら内心溜息を吐く。
シンジとレイに母はいない。
いや、いると言えばいるだろう。この第3新東京市の墓地に骨が埋まっている。
仏間に仏壇がある。アルバムに写真がある。家の中に残り香がある。
心の中に母はいる。
シンジは目を閉じてレイをあやした。
この状態が始まってもう数ヶ月が経過していた。
シンジとレイが玄関にいる。
シンジが靴を履き、振り返って足元のレイを見た。
玄関に座って足をブンブンと振り、笑っている。
「ほら、レイ。お靴履きましょうねー」
「あーい」
シンジがレイの小さな、本当に小さな足を手に取って、彼女に靴を履かせる。
靴を履き終わると、早速レイは立ち上がった。
ピッコピッコと靴が音を立てる。
シンジはレイが歩みを進めるのを見守り、そして彼も妹の後を追って玄関を出た。
シンジとレイの足の長さは違う。当然歩みの速さが違う。
シンジはゆっくりとレイの不規則な歩みに合わせて進んでいた。
レイはきゃらきゃらと笑いながら無邪気に歩いている。
シンジはその様子を見て、自分の置かれた境遇に思いを馳せた。
母が死んだ。
妹はまだ赤ん坊だった。
父は当然仕事がある。父は母が死んでから家族の事を酷く気に掛けている。
しかしだからと言って四六時中レイの面倒が見られる訳でもなく、
結果、当然のようにシンジは学校帰りにレイを迎えに保育園に寄り、
そして父が帰ってくるまでレイの傍にいて面倒を見ていなくてはならないのだ。
シンジはもう放課後に友達と遊ぶことも出来ない。
シンジとて少年なのだ。まだ無邪気に駆け回って遊んでいる年齢なのだ。
妹は妹だ。彼女は何も悪くはない。
だが、なりたくて兄になった訳ではないとつい心に過ぎった。
歩きながら、母の事を思い出した。
生まれたばかりのレイを抱き、シンジに語り掛けた。
シンジはこの子のお兄ちゃんよ。良いお兄ちゃんになってくれるかしら。
レイの事可愛がってあげて。
母の言葉を拒絶するつもりはない。その時は妹の事が単純に可愛かった。
しかし、母はもういないのだ。
11歳の少年に母親代わりをしろというのは酷な話だった。
とりわけ、その自覚を持てというのは。
シンジは知らず顔を歪め、苛立ちを隠せないように足を進め、唐突に気付いた。
レイがいない。
考え事をしていてレイを遥かに追い越してきてしまった。
慌ててシンジは振り返る。
振り返った先にもレイの姿は無かった。
レイはまだ幼い。一人歩きなど出来ない。何があるか分からない。
シンジは体が冷えていくのを感じながら来た道を駆け戻った。
レイがいた。
泣いている。顔をボロボロと歪め涙を流し、それでも歩みを進めようとしている。
服があちこち汚れ、乱れている。
何度も転んだのだ。
レイは泣きながら歩きながら母を呼んだ。
シンジはそのレイの姿に衝撃が体を走り、そして一瞬の硬直の後、レイの元に駆け寄った。
赤子のレイの小さな体が、少年のシンジの小さな体に包み込まれる。
そのまま道に座り込んでしまったシンジの腹に、レイが懸命にしがみ付く。
まんま、と母を呼んでいる。
シンジはレイを抱き締め目を瞑った。
母は心の中にいる。
しかしレイはどうなのだろう。
今はまだ温もりを憶えているかも知れない。しかしレイは赤子だ。
母の想い出を言葉にする事も出来なければ、明確に思い起こす事も難しいだろう。
レイはいずれ母を忘れる。
レイに温かい温もりを与えてやれるのは、シンジと父しかいないのだ。
腕に包み込んだレイが身動ぎした。
「にーちゃ・・・」
縋る様に赤子が自分を呼んだ。シンジを、兄を求めて泣いた。
レイの小さな手がシンジの服を放すまいと懸命に掴んでいる。
シンジは目を瞑ったままそれを感じた。レイの呼ぶ声を聞いた。
鼻がツンとした。
閉じた瞼に何かがせり上がってきた。
そのまま頬をポロリと零れ落ちた。
シンジはレイを強く抱き締める。何故レイが自分を求める姿に気付かなかったのだろう。
「大丈夫。ここに・・・いるよ、レイ」
「・・・にいちゃ」
「帰ろうか」
「・・・あい」
シンジはレイを抱き抱えたまま立ち上がり、涙も拭わず家へと戻り始めた。
もうじき夕食時という時間。
「帰ったぞー」
玄関から男の声がした。
男は返事がないのに、玄関に突っ立ったままいぶかしむ。
はて愛しの子供達は寝ているのかなと少し寂しく思いながら男が靴を脱ぎ、
リビングへと歩いて行くと、シンジとレイが眠り込んでいた。
シンジはレイを抱き包む様にしており、レイはシンジに子猿のようにしがみ付いている。
男―彼等の父ゲンドウは、その様子を見てふっと笑みを零した。
そのまま静かにリビングを出て行き、ラフな格好に着替えて戻ってきた。
シンジ達の傍に座ってテーブルに頬杖をつき、息子と娘が眠る姿を眺める。
「ふっ、・・・腹が減ったな」
こうして眺めていたいが夕食の準備をしなければならない。
取り敢えず食事の準備が出来たら2人を起こそうと決めた。
だがその前に。
「・・・カメラ取って来よう」
彼は意外と親馬鹿だった。
いそいそとカメラを取って来て、シンジ達に向けて構える。
そこで2人に泣いた跡があるのに気付いた。
ゲンドウはカメラを構えていた手を少し下ろして2人を見詰める。
シンジとレイは穏やかに眠っている。
レイがもぞりと身動ぎし、その寝顔に笑みが浮かんだ。
「・・・ふ、問題ない」
構え直してシャッターを切った。
夕食の準備をしながらゲンドウは考える。
あの2人は母親を失った。
自分はなるべく彼らと共に在ろうとしているが、どうしたって時間が足りない。
しかし、シンジとレイを置いては自分は何処へも行かないと心に誓う。
キャベツをザクリと切った。
包丁をまな板に付け、ゲンドウは暫し静止する。
正面を見るその目は、優しげに細められていた。
妻を愛していた。今でも愛している。
そして子供達も愛している。シンジとレイがいるから自分は生きていられる。
あの子達は俺の全てだ。
ゲンドウは再びキャベツを刻み始めた。
Fin
リンカ様から第一話と同時に頂戴した掌品です。
シンジだって最初から“できたお兄ちゃん”のわけがないんです。
こうした妹との日常を通して兄としての自覚が芽生えていった。
母の姿はこの世になくとも、レイはきっとその姿を兄と父の向こう側に見ることができるでしょう。
ああ、いい話だ。
あの無愛想で短い「問題ない」の影には色々な思いが込められていることを
再確認させていただけました。
本当にありがとうございました、リンカ様。
(文責:ジュン)
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