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オール・ザ・プリティ・リトル・ホーシズ


リンカ       2005.3.27(発表)

挿絵:リンカ











公園での喧嘩から数日、シンジとアスカは殆ど口も聞かなかった。
アスカから見ればシンジの様子はそれほどアスカを意識していた風でもなく、むしろ無関心といった具合で
学校でも目を合わせる事もなく、保育園で出くわす事もなかった。
アスカはといえばシンジを過敏に意識しており、彼の方をいつも窺いながら
彼と視線が合いそうになると慌てて目を逸らし、そしてまた窺うといった具合だ。
学校が終われば行かなければならないカヲルの迎えも、シンジとかち合わないように
敢えてタイミングをずらして向かうようにしており、そしてそんな自分に肩を落とす日々だった。
アスカとしては、本心ではこのような事をしたくはなく、シンジと話したいのだが、
しかし一体何と話せばいいのか、自分が引っ叩いた後の気まずさに歯噛みをしていた。
カヲルなどはアスカの様子を心配しながらも、謝って仲直りすればいいじゃない、と気楽に言う。
悪い事をしたらごめんなさいだよ、と純粋に姉を見上げる弟に、アスカは盛大に溜息をついた。
そして、アスカ姉ちゃんはやっぱり臆病だ、と家への帰り道で生意気を言ったカヲルを
引っ掴まえてこめかみをぐりぐりとやりながら、その通りだわ、と一層溜息を漏らした。
アスカは隠そうとしているが、彼女の消沈ぶりはしかし明らかで、ヒカリも心配げに声を掛けてくる。
その度に何でもないと彼女に微笑み、ヒカリも無理には聞き出そうとはしないが、
優しい親友の心遣いがアスカには逆に心苦しかった。
あの時自分が叫んだ言葉自体は間違っていたとは思っていない。
いないが、その口に出したという行為は間違っていたかも知れず、
そして思わず手が出てしまったのは完全に間違いだった。
シンジにしてみれば理不尽もいい所だろう。なにしろアスカはただのクラスメートで、
シンジの家庭の内実に口を出す立場にある訳でもなく、あの場でアスカが彼を殴る理由もなかった。
少なくともシンジにとってみれば殴られる理由などなかったのだ。
レイの教育方針を言い争ってケンカだなんてまるで夫婦みたいじゃない、とアスカは自嘲する。
そう、シンジの家族であったなら口を出して喧嘩するもまたいいだろう。
だが、アスカは完全に他人なのだ。精々気心が多少知れてきて話をするくらいだ――だった。
そのアスカが何故あそこであんなにも怒るのかとシンジは思っただろうとアスカは考えて溜息を吐いた。
何故殴ったのかと問われれば、思わずとしか答えようがない。
思わずとはどういう事かと問われれば、自分にとってあの場はそのまま見過ごす事の出来ない何かが
あったのだと答えるだろう。殴ってでも自分の存在をないがしろにさせたくはなかった、と。
引っ込んでろと言われて大人しく引っ込むくらいならば自分は今頃シンジではなく誰か安っぽいアイドルでも
追いかけているかそんな事には無関心か、いずれにしろ自分の中のこの想いはそんなに脆くはないのだと
そう唇を噛み締めて、しかし今こうしてシンジを避けて回っている自分は何なのだと
情けなくて居た堪れなかった。そしてそれでも胸の中の恋心は些かも減ずる事などないのだ。

家でも家族が心配げにしている。
父のフランツなどはどこからでもかかって来いとばかりにアスカの前に正座して
悩みがあるなら言ってみろと言う。
兄のキョウタにはただ笑って頭をポンポンと叩かれた。
姉のマリアは何も言わないが、随分と久し振りに一緒に風呂に入って背を流してくれた。
カヲルはいつも保育園でのレイと迎えに来たシンジの話をしてくれる。
末っ子のカオリが、リィのおやつあげる、と小さな手に載せたチョコレートを渡してくれた。
母のキョウコは黙って微笑んでいた。
アスカはその中で涙が溢れそうになる。
自分の家。自分の家族。こんなにも温かく優しい。アスカはこの人達はアタシの宝物だと胸を張れる。
父の大きな体に飛び込んでしがみついて泣きたかった。
兄の手が温かく、手を乗せられた頭を思わず自分で撫でた。
姉の背を流す手付きが優しく気持ち良く、そして伸びやかに美しい姉の裸身が羨ましかった。
カヲルのお節介に苦笑しながらも、熱心に聞いている自分に気付いて弟に感謝した。
妹の大事なおやつを差し出すその小さな小さな手が愛おしかった。抱き締めて頬擦りすると妹は笑った。
母の微笑みを見ていると、それだけで強張った心が温かくほぐれていった。



しかしだからといってシンジと仲直りが出来た訳ではなく、ここ数日アスカはよく寝付けていなかった。
今もアスカはベッドに入ったままゴロリゴロリと寝返りを繰り返していた。
と、静かに部屋のドアが開いて人が入ってきた。
アスカは横向きになったまま寝たふりをする。
ここ数日、寝る前に両親が子供達の部屋を見回る時に、まだアスカは起きていた。
この日もアスカのベッドに静かに近付いてくる。足音からして母だろう。
いつもならそのまま掛け布団を直して軽く頬や額に口付けて出ていくのだが、
母はアスカの髪をそっと撫でた後、アスカのベッドの中に潜り込んできた。
体を横にして背を向けているアスカを包み込むようにしながら、
キョウコはそっと手でリズムを取り始めた。
そして静かに、囁くように歌い出す。


「Hushaby don’t you cry
Go to sleep ye little baby
When you wake you shall have cake
And all the pretty little horses
Black and bay dapple and gray
Coach and six white horses…」


母の歌声にアスカは瞼をギュッと瞑った。
優しく穏やかな母の歌声。いつも傍にあり、それでいて懐かしく、いつまでも忘れる事のない温もり。
ああ、自分は何をしているのだろう。こんなのらしくない。
うじうじして大好きな人の事を自分から避けて、それで一層落ち込んで。
アンタは誰?アスカでしょ?アスカっていう女の子はね、このくらいで挫けるような弱虫じゃないのよ。
アスカは口元に微かに笑みを浮かべる。
この歌大好き。昔ママが良く歌ってくれた子守唄。
ちゃんと眠ったらお馬さんをくれるの。ケーキも焼いて。
クリーム一杯のふわふわしたケーキと、綺麗なお馬さん達。黒に茶、ぶちにグレー、それと馬車に白馬。
あれはいつだったかしら。
目が覚めたらホントにママがケーキを焼いていてくれた事があった。
パパが仕事から帰ってくると大きな馬のぬいぐるみを抱えていた。
フフ、そうよ。こんなのアタシらしくないわ。
ちゃんと眠って明日になったら目を覚まして。
それから仲直りしよう。
あれくらい何よ。アタシはあれくらいで諦めたりしないから。待ってなさい、アタシの夢の人。
もぞもぞと体を入れ替えてアスカは母にしがみついた。
母の首筋に顔を埋めると、キョウコは歌いながら優しく髪を撫でる。
そのままアスカはずりずりとずり下がって母の胸に顔を埋めて腕を回してギュッと抱きついた。


「あらあら、アーちゃんは甘えんぼさんね」


キョウコが歌うのを止めて笑い含みに言う。
それにアスカは答えず、母の胸に埋めた顔をぐりぐりと動かした。
ふわふわと柔らかく、温かくて良い匂いがする。
キョウコは甘える娘の背に手を回して優しくリズムを取った。


「ねえ、ママ」

「なあに?」

「仲直りしたいの」

「そう。このままじゃイヤなのね」

「うん。もっと一杯お話したいの。一緒にいたいの」

「そうね。アーちゃんはその子の事が大好きなのね」

「・・・うん」

「ウフフ・・・」


キョウコが優しくアスカの背を叩いている。
アスカは母の胸に顔を埋めてまどろみ始めていた。
トクントクンと穏やかな音が心地良い。
キョウコは娘を優しく抱き締めたまま薄暗闇に浮かぶ壁を見つめた。
こうやって大きくなっていくのね・・・でももうちょっとは甘えていて欲しいなんて母親の我侭かしら。
とりとめもなく考えながらキョウコは目を閉じた。
アスカの規則正しい寝息が胸元から聞こえてくる。
寝ちゃったのね。
キョウコは目を開いて微笑みながらアスカの体をずらして頭を枕まで戻す。
そして掛け布団も直してアスカの髪をそっと整えて、彼女の横で再び目を閉じた。
今日はこのまま一緒に寝ちゃいましょ。
何だかとても素敵なアイディアに思えて口元が緩んでしまう。
悪いけど、フランツ。貴方は今日は独り寝よ。

その夜、母娘がどんな夢を見ていたのか。
戻って来ない妻を探しに来たフランツは、穏やかに微笑んで眠っている妻と娘に
仕方ないなと苦笑して静かにアスカの部屋から出ていった。











「レイ、ご飯だぞー」

「あーい」


ゲンドウがエプロン姿で夕食を運びながら,リビングで遊んでいるレイに声を掛けた。
シンジがテーブルを拭きながらおもちゃで遊んでいるレイを見る。


「レイ、おもちゃ片付けなさい」

「ぶーぶー」


聞いているのかいないのか、レイは人形を並べておもちゃの車を動かしている。


「どーん」


レイが車を人形にぶつけた。ころころと転がった小さなぬいぐるみがシンジの足元に転がってくる。
シンジが妹を見やると彼女は車を持って四つん這いになったまま兄を見上げた。


「・・・レイ」

「あい」

「早く片付けなさい!」


シンジがいつまでも遊ぶのを止めないレイに些かきつい調子で注意すると、
彼女はたちまち泣き叫んで父の元に駆けていった。


「のわっ!?レイ、ちょっと引っ付くな、零れる!」

「えぇ〜んっ!ぱぱ〜!」


ゲンドウが足にしがみついたレイを引き摺りながらどうにか食器をテーブルに置いて、
ようやくレイを宥め始める。
父の足にしがみついて顔を埋めている娘に、ゲンドウは笑いながら彼女を抱き上げた。
シンジがその様子を眺めて軽く眉を顰める。


「何だ、レイ。シンジに怒られたのか?でもレイはいい子だからお片付けするよな?」

「うぇっ、ひっく・・・あい」


レイがゲンドウの胸元でコックリと頷く。


「はぁ・・・もういいからご飯にしよ、父さん」


そう言ったシンジを苦笑して見やり、ゲンドウはレイにおもちゃを片付けさせ、
そして3人は食事を始めた。
レイが幼児用の椅子に座ってフォークを握って笑っている。


「今日はコロッケだぞー、レイ?」

「こおっけ!」


嬉しそうに繰り返してコロッケにフォークをズブリと突き刺し、ぐしぐしとコロッケを割ろうとしている。


「・・・相変わらず下手だね」

「ああ・・・だが流石にコロッケでそのまま犬食いは難しいと見える。口に収まりきらんからな」

「だからって潰す事・・・」

「いや、切ってるんだろ、あれは。・・・まあ、結果として潰しているが」


食事しながらシンジとゲンドウはふたりしてレイの様子を眺めて言い合う。
シンジがコロッケを箸で口に運んだ。
ゲンドウが味噌汁を啜る。


「レイ、美味しいか?」


ゲンドウが一生懸命に口におかずを掻き込んでいる娘に問うと、
レイは顔を上げてニッコリ笑って返事をした。
ゲンドウがそれに微笑んでいると、シンジが手を伸ばしてレイの口の周りを拭った。


「もう少し上手く食べられるようにならないかなぁ・・・」

「まあ、今はもう手掴みをする訳じゃないし、その内上手くなるさ。なあ、レイ?」

「う?あのね、れいね、こおっけしゅきなの。ほくほくでね、おいしーのー」

「そうかそうか」


嬉しそうに頬を紅潮させる娘を見て、ふっふっふ、と笑う父にシンジは親ばかなんだからと頬を膨らませる。
大体潰しておいてほくほくもないだろ、と味噌汁を口につけた。
レイはまだ食べるのが上手くない。
箸は言うに及ばず、フォークやスプーンもまだ正しい持ち方が出来ない。
よってレイが最も食べやすい体勢はご飯を掻き込む犬食いとなる訳だが、
これに関してはシンジもある程度はまだ仕方ないと余り煩く言わない。いや、言わなくなった。
以前に散々練習させたが上手く行かなかったからだ。なにしろ指が短い。
無論放っておくつもりもないし、余りに食べ方が汚ければ注意する。とりわけ外では。
だがそれよりも、とシンジはレイの皿を見た。
食事を始めて暫く経つなかで、レイのぐちゃぐちゃとした皿の中に目立つ色がちらほら転がっている。
というより、選り分けられている。
シンジは自分を落ち着かせるように大きく息を吸って吐いた。


「・・・レイ」

「あい、にーちゃ」

「ニンジンも食べなさい」


レイに向かって静かに言うと、彼女は気まずそうに唸りながら味噌汁の椀を掴んで口をつけた。
シンジはそのレイの態度を見て静かに怒りが溜まっていく。
フォークの持ち方はとりあえずはいい。
以前に散々練習させて無理だったからだ。その事でレイとケンカもして父に諌められもした。
だが、好き嫌いはただの我侭だ。
しかもレイは注意された事が自分で分かっていて、なお避けようとしている。
レイが椀から顔を上げた。テーブルに汁が零れている。
そのままそーっとコロッケを口に運んだレイの様子にシンジは自分の箸を置いた。


「お、おい、シンジ・・・」


息子が堪忍袋の限界に来ている事を悟り、
ゲンドウが宥めるように声を掛けるがシンジはそれには応えない。
バンッと大きな音が響いた。
レイが驚いて顔を上げる。口元からコロッケの芋がぼろぼろと零れ落ちる。
シンジがテーブルを叩いた姿勢のまま幼い妹をきつく睨み、
その兄の視線を受けてレイの瞳に見る見るうちに涙が溜まっていく。


「レイ」

「ふぇっ・・・」

「いい子だから食べなさい」

「ひっく、・・・いや」

「レイ!」


なおも拒否するレイにシンジが大きく叱責すると、とうとう彼女は大声で泣き始めた。
フォークを握ったまま顔を上げて叫んでいる娘のその泣き声に、
ゲンドウは仕方ないなと思いながらもシンジを窘める。


「まあ、シンジ。いいじゃないか、少しくらい。まだ小さいんだし、ちょっときつく言い過ぎだぞ」

「また父さんはそうやってレイを甘やかす。後々困るのはレイなんだよ?
こんなのただの我侭じゃないか!」

「だが好き嫌いくらい大した事じゃないだろ」

「そんな風に我侭許してたらきりがないじゃない!・・・レイ、いい子だから頑張って食べなさい」


シンジがレイを見て言うが、レイはいやだと泣き叫ぶ。
その様子にシンジがレイの横に座って彼女のフォークを握る手を取ろうとすると、
彼女はその手を振り回してシンジの手を打った。
そしてそのままフォークを放り投げてしまい、
椅子から飛び降りて背後のクッションにうつ伏せになってしまった。
シンジは叩かれた手を押さえてその様子を見る。


「レイ・・・」

「うぇ〜ん!にいちゃのばか〜!きらい〜!!」


しゃくりあげながらレイが叫ぶ様にシンジは呆然と凍り付いてしまう。
ゲンドウは子供達の様子を見て静かに立ち上がりレイの元へ歩いて行き、
うつ伏せになったレイの傍に膝をついて、そっと彼女を抱き上げた。
そのままレイはゲンドウの服を握り顔を埋める。
しゃくりあげる娘の背をそっとさすりながらゲンドウは優しく声を出した。


「なあ、レイ。レイはニンジンが苦手なのか?」

「ひっく・・・」

「そうだな、苦手なものくらいあるよなぁ。でもな、レイ。そうやってちゃんと食べないでいるとな、
大きくなれないんだぞ?それにニンジンだけ残してたら、ほら、見てみなさい」


そう言ってゲンドウはレイの顔がテーブルの上の皿に向くように体を動かし、背を撫でる父の手に
励まされるように、レイがしがみついていたゲンドウの胸元から顔を上げてそれを見る。


「ニンジンさんだけ残っちゃったら寂しがってるだろ?な、レイ。ちゃんと食べてあげないとな。
レイに食べて欲しくてお皿の上に載ってるんだぞ?」


ゲンドウが背を撫でていた手をレイの頬に持って行き、指でその柔らかい頬を軽く撫でた。
それにレイがくすぐったそうにし、父を見上げた。
まだどこか不貞腐れたような顔で涙を浮かべているが、
ゲンドウはそれに笑いかけてポンポンと背を叩いて更に語りかける。


「レイはいい子だよな?いい子だったらパパのお願い聞いてくれるか?
お皿に載ってる半分でいいからニンジン頑張って食べような。そうするとニンジンさんも喜ぶぞ?
後はパパが食べてやる。パパの口は大きいからな、何でも入るんだぞ」


そう最後におどけてゲンドウがぐわっと口を開いて歯を剥いて見せると、
レイの顔が思わずといった具合に綻び、それを見てゲンドウがもう一度レイにニンジンを
食べるように言うと、彼女は口を尖らせながらもきちんと返事をして頷いた。



シンジはひとり考えていた。
レイは父との約束通りニンジンを食べた。
もう眠ろうとしているが、今夜はレイは些か寝付きが悪く、そのため父がついている。
母が死んで以来リビングの隣の部屋を寝室として使っており、
微かに父の声がシンジの耳にも届いていた。


「・・・ねんねんころりよ おころりよ ぼうやはよい子だ ねんねしな・・・」


低く腹に響くような、渋く穏やかな残響を漂わせる父の歌声。
幼い頃母が枕元で歌ってくれた歌と同じ、そして母の歌声とは違う、その歌声。
母はレイにも歌ってあげていた。
シンジはリビングでボンヤリと座っている。
レイは父の言う事は素直に聞いた。
あの公園でも、日頃からでも、そして先程も。自分があんなに必死になって言い聞かせたのを
泣き叫んで嫌がったというのに、どうしてなのだろう。
レイの為をこんなにも想っているというのに。
ゲンドウの歌声が聞こえなくなった。ようやく眠りについたのだろう。
そして静かに襖が開き、父がレイの寝ている部屋から出てきた。
そのままシンジを見下ろしながら彼は口を開く。


「何か飲むか、シンジ」

「・・・・・うん」

「紅茶でも淹れるか」


そう言ってキッチンに歩いて行った父を、シンジは見送るでもなくただ座っていた。
薬缶を火にかけたゲンドウがカップなどをテーブルに持ってきてシンジを見やる。
悄然と肩を落とした風なシンジにゲンドウは片眉を上げ、そしてシンジの肩にその大きな手を
ポンと置いて多少乱暴に押さえてから立ち上がり、再びキッチンに向かって行った。
シンジは今度は父に反応し、その後姿を見送る。
半ば無意識に父が手を置いた肩に触れた。
夕食の時も、レイを宥めた後フォークを取りに行った時にゲンドウはシンジの肩を叩いていった。
父さんはどうしてあんなに大きいんだろう。
唇を噛んだ。でないと何かが零れ落ちてしまいそうだった。
暫くして父が入れた紅茶を淹れたティーポットを持って戻って来、
そしてテーブルについてカップに注いだ。
シンジの方にカップを渡すが、彼は俯いたままそれに手をつけない。
ゲンドウは何も言わず、紅茶を口に運んだ。
うむ、俺も結構上手くなったな。
ゲンドウが紅茶の淹れ具合に満足してカップを置き、シンジを見た。


「飲まないのか」

「ああ、うん・・・飲むよ。・・・・・ん、お砂糖欲しい」


シンジが紅茶の渋みに僅かに顔を顰めてポツリと言うと、ゲンドウは口の端を僅かに上げ、
砂糖を取って息子の方へ寄越した。
カチャカチャと掻き混ぜる音が響く。
再びゲンドウはカップを口元に運んで、静かにソーサーに戻した。カチャリと音がする。
シンジもひとしきり掻き混ぜて満足したのか、スプーンを置いて紅茶を口に含んだ。
父子がふたり、静かに座って紅茶を飲む。
チッチッチ、と時計の針の音が聞こえる。
ゲンドウはシンジが切り出すのを待っていた。
以前にもシンジとレイがケンカをした事は何度もあったが、今回はとりわけシンジはショックを受けたようだ。
ゲンドウが視界の端にシンジを収めながらも、ただ待つ事にして紅茶を飲んでいると、
次第にシンジが何度か顔を上げたり口を蠢かせたりしながらそわそわとし始めた。
この辺は俺に似たんだな、とゲンドウが可笑しみを覚えながら内心苦笑していると、
ガチャ、と音がし、その音にゲンドウがカップを置いて息子の顔をまっすぐに見る。
シンジも目線を泳がせながらも父の方を向いて、そしてようやく、躊躇しつつも口を開いた。


「父さんは・・・やっぱり父さんなんだね・・・」

「んん?・・・ふふ、何だ、それは」


ゲンドウが息子の言葉に面白そうに頬を緩めて訊き返すと、
シンジは紅茶のカップを指で弄びながら再び口を開く。


「レイは父さんの言う事なら素直に聞いたもの。僕が言っても嫌がったのに・・・」

「そうか?」

「そうだよ・・・。そう、だ・・よ」


シンジの唇がわなわなと震え始めた。
ゲンドウは笑みを収めてシンジを見つめる。


「だって・・・僕だって、レイの為に言ったんだ。いつだって、・・・でも、僕じゃ父さんみたいに
言う事聞かせる事は、出来ない・・・。あんな風に・・・。
僕・・・何か・・・まち、間違えてたのかなあ・・・」

「・・・・・」

「嫌いって、レイが言ったんだ。初めて、・・・言われたん、だ・・・」


シンジが時折息を詰まらせるようにしながら言葉を紡ぐ。
ゲンドウはただ静かに聞いていた。


「僕だって、父さんが頑張ってるみたいに、僕にだって、出来る事があるんだって、頑張ったんだ・・・」

「・・・レイは本気で言ったんじゃないよ」

「うん・・・。でも、あんなに嫌がってた。僕、頑張ったんだけど、間違えてたのかなあ・・・」


赤らんだ頬を雫が滑り落ちた。
シンジは必死で堪えようとギュッと唇を噛んで、瞬きもせずゲンドウを見つめていた。
しかし溜まりきった涙でもう父の顔も見えない。
すっと顔を落とすと、パラパラと零れ落ちた。堪らず目を閉じると、もう抑える事は出来なかった。
ポロリポロリと涙が零れていく。
震える唇が僅かに開き、喘ぐように息を吸い込み、そしてそれが嗚咽となって吐き出された。
シンジがそれに歯を食い縛って抑え込もうとするが、震えるばかりで上手くいかず、
一層大きな嗚咽が零れた。
テーブルの上に乗せられていた拳をギュッと握り、その上をポタリと涙が弾く。
テーブルに点々と雫を落とす。カップの中に吸い込まれてポチャリと撥ね上げた。
鼻を啜る音が響き、そして息を詰まらせ、吐き出した嗚咽が悲鳴のように空気を裂いた。
ゲンドウが静かに立ち上がり、シンジの横に座る。
そしてしっかりと肩を抱いた。
シンジは抱き寄せられて父の胸に顔を半分埋め、震えながら嗚咽を漏らし、
ゲンドウはその息子の頭をしっかりと押さえて目を閉じた。
暗闇に息子の泣き声が響く。抱き寄せた肩はまだこんなにも細く頼りない。
ゲンドウは何と言っていいのか言葉を捜すが、いたずらに思考は錯綜するばかりで
ただ抱き寄せる腕に力を篭めるしか出来なかった。
涙を流しながら自分をしっかりと包む父の力強い温かさを感じ、シンジは少しずつ気持ちが落ち着いていく。
まだ言いたい事がある。抑え切れず涙を零してしまったが、まだ父に言わなければ。
シンジは埋めていた顔をずらして震える唇を叱咤しながら声を出した。


「父さん・・・」

「・・・落ち着いたか、シンジ?」

「うん・・・っく、あ、あのね・・・」

「ほら、鼻をかめ」


シンジの言葉を切ってゲンドウはテーブルの上のティッシュに手を伸ばしてそれを取り、
彼に差し出した。シンジはずるずると気持ち悪い顔の感触に気付いて決まり悪く思いながら
差し出されたティッシュを受け取り鼻をかんだ。
その何でもない行為で不思議と込み上げる涙も収まっていく。
鼻をかみ終わったシンジを改めて抱き寄せながらゲンドウは先程から考えていた言葉を
何とか纏め上げようとしながら口を開いた。


「なあ、シンジ。レイはまだ小さい。言い聞かせようとしたって中々言う事は聞かない。
言葉もまだ・・・そうだな、語彙が少ない。語彙って分かるか?」

「うん・・・」

「そうだな。だから嫌な事を拒否するのにも、泣き叫ぶか、癇癪を起こすか、そんなもんだ。
さっきも・・・、シンジ、手は何ともないか?」

「うん・・・フォークで刺された所がちょっと赤くなってるけど、別に何ともないよ。もう・・・痛くはない」


シンジが手をそっとさすりながらそう答えた。そう、手はもう痛くはない。


「そうか・・・。で、レイの自己主張なんてあんなものなんだ、まだまだ。
だがレイだってシンジが意地悪しようとして注意してるんじゃないって分かってるさ。
ただ・・・そうだな、真っ直ぐの正論じゃ中々幼児には通用しないって事があるんだよ。
父さんの言ってる事が分かるか?」

「ううん・・・よくは・・・分からない、かも。でも、僕も思ったんだ。レイの為に言ってたんだけど・・・
でも、強引過ぎてレイを傷付けちゃった・・・って。僕、父さんみたいに教えてあげる事が出来なくて、
だから結局叱りつけちゃう事になって、でもそれだとレイには納得できないよね・・・」


だからレイはあんなにも頑なに拒んだのだ。彼女に打たれた痛みが甦る。
手はもう痛まない。だが胸の奥がどうしようもなく痛かった。
レイの嫌いという声が繰り返し頭の中で木霊する。
どうしてレイの為にしている事でレイを傷付けてしまうんだろう。
言葉を紡ぎながらシンジは再び涙が込み上げてくるのに気付き、それを堪えようと顔を伏せた。
ゲンドウもその様子に気付いて息子の頭をクシャクシャと掻き混ぜる。
自分に身を寄せ震えている息子の心の内を、この不器用な父は理解した。
シンジは必死だったのだ。妹の事を想って、一生懸命になり過ぎて、
でもレイはまだ幼児なので兄の要求に応え切れない。我侭だってそれは言う。嫌だと泣き叫ぶ。
シンジならば我慢する事も出来るだろう。じっと堪えて押し殺して。
そう、そうだったんだ、とゲンドウはとうに分かっていた筈なのに今また息子に甘えていた事を自覚した。
妻が死んで暫くはシンジはずっと何かを我慢して過ごしていた。
それは母がいない悲しさや寂しさだけではなく、レイの面倒を見なければならないが為に
我慢せざるを得ない様々な事柄についてもだ。
シンジはレイの兄だ。そしてもう自分で考えて行動できる年齢だ。
しかし子供なのだ。
いつも叱りつける役目はシンジが担って、自分はそれの抑えに回る甘いだけの父親のようだった。
日常の中でシンジとよく夫婦のような会話を交わしていると思う事がある。
しっかりしてきた?兄の自覚が出てきた?
それはそうだろう。
シンジはそうせざるを得ず、そしてその為にこの年頃の少年が持つ何かを取り零して来たのだ。
確かに母の不在はどうしようもない事実だ。ゲンドウとてユイの死後、可能な限り子供達を見てきた。
本当に愛しているから。自分にとって子供達は生き甲斐だから。
だが、そうやってひとりを欠かしてしまっても、なお笑いあって日々を過ごす中で
自分はシンジの存在に甘えていなかっただろうか。
シンジに問えば、当然だと言うだろう。家族なんだから父さんだけで抱える事なんてない、と。
事実この子は震える声で言ったではないか。父さんがするように自分だって出来る事がある、と。
だが、息子に頼る事と、息子に甘える事は違う。
面倒見のいいシンジに甘えて自分はまだ11歳の息子に母親代わりをさせていたのだ。
好き嫌いくらい大した事じゃないだろ?そうやっていつも甘やかすんだから?
ユイが相手ならどこもおかしくはないやり取りだ。
そう、似たような事をいつも言い合っていた。困った人、といつも彼女は笑っていた。
だが相手はまだ子供のシンジで、自分はシンジの父親なのだ。
幼いせいで自然とレイ中心の生活になるが、シンジもまだ幼い子供なのだ。
それくらいいいだろ、と父親が言う言葉に納得が出来る筈もない。
とりわけシンジのように真っ直ぐで真面目な性格ならば、ただもどかしいだけだろう。
そしてじゃあ自分が、となった時に、しかしシンジは親でも大人でもない少年なのだ。
レイに言い聞かせようともまだ自分自身が人間的に子供である彼が採れる方法も限られてくる。
結果、想いだけが空回りして泣き叫ぶレイを叱責して自分も傷付く。
まだ構わないだろ、それくらいいいだろ、と言う度に、自分は息子に対して期待をしていたのだ。
勝手な期待をかけていたのだ。妻に対するように。
シンジは勝手にそれを背負わされて、しかし背負い方が分からず、どうしていいかも分からない。
子供はそんな事考えなくていい。そんな心配しなくていい。
そう言えばシンジを傷付ける事になる。ないがしろにする事になる。
しかしだからといってユイと同じだけの事を要求していい筈がない。出来る訳がないのだ。
ゲンドウはまだ震えている息子を抱く腕に力を篭めた。
空いていたもう片方の腕もシンジの体に廻して強く抱き締め、
それに応えて彼も父にしがみついて顔を埋めた。
なあ、ユイ。俺もまだまだだよなぁ。君はこれを見ているのかな。
そう心の中で亡き妻に呼びかけて、ゲンドウがふたりきりのリビングに視線を廻らせていると、
シンジが父の胸元でもぞりと動いた。


「ねえ、父さん。レイ、怒ってるかな」

「そんな事ないさ。食事の後も何か言いたげに、不安そうにお前の方を窺っていた。
レイもお前の気持ちは分かってる。だから・・・大丈夫だ」

「うん・・・そっか。・・・あのね、クラスの子にも言われたんだ。
まだいいじゃないって。一度に言ったって出来ないって。
その時はすごく腹が立った。分かりもしない癖にって。レイなら出来るんだって。
でも・・・結局その子が正しかったのかな・・・」

「正しいとか正しくないとか、そういう事は決め付けられないけどな。
だが例えば、そうだな・・・。夕食の時レイに父さんが言ったろ、ニンジンさんが寂しいだとかどうとか」


そう言ってゲンドウが息子を覗き込むと、シンジも父を見上げる。
その息子の顔を見てゲンドウはどこか可笑しそうに続けた。


「あれもな、まあ子供騙しもいいとこだ。食い物が寂しがるも何もないんだが、
そうやって小さな子を言い包めるんだよ。残すと勿体ないお化けが出るだとか、
おもちゃを手放さなかったら少しは休ませてあげないと可哀相だろとか。
そうやって少しずつ躾ていくんだ。
馬鹿みたいな話だが小さい子ならそれで納得してくれる。
そうやって何をすべきで何をすべきでないのか生活をしていく上で必要な事を覚えていくんだ。
勿論、躾ってのはそれだけではないけどな。
頭ごなしにそれは駄目だとか何で出来ないんだとか、そう言われたって幼児は困るよな」

「うん・・・」

「あ、いや、別にお前を責めた訳じゃないぞ?まあ、・・・確かにシンジはまだ子供で、俺とは違う。
だが、シンジがレイに教えられる事だってある。シンジでなければ伝えられない事もある。
だから・・・それでいいんじゃないか」


言い切ってシンジを再び覗き込むと、彼は目を伏せてゲンドウの胸に顔を埋めてしまった。
その様を見てやはりとゲンドウは思う。やはりまだこの子は子供だ。
そう、確認するまでもない。遊びたい盛りでお菓子も大好きで苦いコーヒーは苦手で、
泣き虫で恐がりで甘えん坊で不貞腐れると頬を膨らませる癖があって・・・俺の息子だ。
ゲンドウはシンジを抱き締めたまま手を伸ばして紅茶を取り口に運んだ。
冷めてしまったな。
長話をしている内に冷め切ってしまった紅茶を飲んでいると、
シンジが顔を埋めたままくぐもった声で何事か言った。


「ん?何だ、シンジ」

「子守唄が聴こえた」

「む、何だ、聴いてたのか」


ゲンドウは些か尻がこそばゆくなる。別段恥じる事でもないがやはり聴かれていたのかと思うと
どこか恥ずかしい。誤魔化すように熱くもない紅茶を啜って飲む。


「聴こえたんだよ。・・・父さんって意外と歌上手いんだね」

「ぬう・・・意外とは何だ。これでも母さんに褒められてたんだぞ?貴方は歌が上手いって」

「母さんが?・・・ふふ、どうせそうやっておだてて父さんを煽ってたんでしょ」

「む、む、・・・否定は・・・出来んな・・・」


ゲンドウが口をへの字にして厳めしそうな表情を作る。
確かにユイがそう褒める時は決まって歌をせがまれた。
いつも微笑んで嬉しそうに聴いていたその心の中では何を思っていたのだろうか。
心地良いとでも思っていたのだろうか、この無粋な男の歌声を。
ゲンドウは目を細めて表情を緩めた。
シンジが身動ぎして紅茶に手を伸ばす。


「母さんが昔よく歌ってくれたんだ」

「ああ・・・そうだったな」

「レイにも歌ってあげてた」

「そうだな。いつも気持ち良さそうに眠りについた。レイも、小さい頃のお前もな」

「きっと、優しい気持ちが伝わるから、すっと眠れちゃうんだね・・・」

「そう・・・かもな。・・・ふっ、お前にも子守唄歌ってやろうか?」


ゲンドウがからかうようにシンジの頭を掻き混ぜると、シンジは頬を膨らませて紅茶に口をつけた。


「もうそんな子供じゃないもん」

「く、そうか。・・・くっく、そうだな」

「もう、何さ、父さん」


恨めしそうに睨む息子にも構わずゲンドウはくつくつと肩を揺らす。
母さんもそうだったけど父さんも結構人をからかうのが好きなんだよな、とシンジは
朱が注した頬を冷やすように紅茶を一気に飲み干した。
ひとしきり笑って落ち着いたのか、ゲンドウもカップを手に取って紅茶を飲み干す。
ソーサーの上に戻すカチャリという音が響いて、それきり暫し静寂が下りた。
ゲンドウとシンジは身を寄せ合っている。ゲンドウの腕は今だ息子の肩に廻され、
シンジも父に凭れかかっている。
父子がふたり、静かに、穏やかに座っている。
チッチッチ、と時計の針の音が聞こえる。
まだまだ小さい。だが、温かいな。
ゲンドウは息子の体温を感じてそう思う。シンジは温かい。
シンジは小さくなどなく、途方もなく大きいのだ。その存在は。
なあ、ユイ。シンジの奴、兄貴らしくなってきただろ。背も伸びた。最近は料理も出来るんだ。
休みの日は布団乾さなきゃなんて所帯染みた事言ったりするがな。でもまだまだ可愛いもんだ。
なあ、ユイ。レイも日に日に大きくなっていくよ。言葉も段々と達者になってきて、よく動き回る。
日々色んな事が出来るようになっていくんだ。泣き虫で、でもよく笑って、シンジにべったりだ。
なあ、ユイ。俺も少しはましな父親になってきたかな。俺のエプロン姿を見たら君は笑うだろうな。
君はこれを見てくれているんだろうか。伝えたい事が沢山あるんだ。本当に沢山。
ゲンドウは静かに、優しげに目を細めた。
シンジもまた父の温かさを感じていた。
父は温かく、力強く、大きい。父に包まれていると実感すると安心できる。心が安らいでいく。
頭を摺り寄せるようにして父の体に頬を当てた。
目の周りが何だか腫れぼったい。久しぶりに大泣きしてしまったとシンジは今更思い、
気恥ずかしくなるが、それも父の前なら構わなかった。
母さんだったらきっと仕方ないわねって笑っておでこを突つくんだ、と母の顔を思い出す。
明日の朝になったらレイに謝ろうかな・・・。レイはどんな顔をして起きてくるんだろう。
そう考えながら、段々と眠気が襲ってきた。自然と目を閉じてしまう。
ゲンドウがそれに気付いたのか、何か話しかけてきたが、シンジにはよく聞こえない。
そしてそのままふわりと穏やかな眠りに落ちていった。












アスカが目覚めると目の前に母の顔があった。
しかも目を開けて自分の顔を食い入るように見つめていた。
ママったら悪戯好きなんだから、と恥ずかしさを誤魔化すように起き出して身支度をし、
朝食を食べながら数日ぶりの目覚めの良さに何となく気分が晴れるのを感じながらも
昨夜の決意を思い出し、気合を入れて家を出た。
しかし、いざ学校に着いてみると段々と不安が込み上げてくるのを抑えられず、
これまでと同じようにシンジの方をこっそりと窺いながら、いつ仲直りを切り出したものか
膨らみ始めの小さな胸の奥でぐるぐると想いが渦巻き、ヒカリに怪訝そうな顔をされつつ
時間が過ぎていった。
幾度か機会はあった。声を掛けようと手を伸ばしかけては引っ込め、口を開きかけては閉ざした。
昼休みも過ぎ、その後の授業も終わり、掃除の時間になった。
シンジが掃除を担当しているのは校舎裏で、人目に付かない絶好の機会だ。
そう思い、今度こそとアスカがそこへ向かうと、シンジとケンスケが何やらじゃれあいながら
笑いあって掃除をしているのを見つけ、自然足を止めて物陰に隠れてしまい、
そのままシンジの様子を窺いながら立ち止まってしまう。
この日、シンジの事を見続けて彼がどこかここ数日よりも明るい顔をしているような気がしていた。
そしてやはりそれは勘違いではなさそうだとアスカは思う。
今なら落ち着いて聞いてもらえるかも知れない。でもシンジが1人ではないとは考えていなかった。
アスカはキュロットをギュッと握った。心臓の音がうるさい。体が揺さぶられているようだ。
どうしよう。何してるのアスカ。普通に出ていって、少し話があると言えばいいのよ。
お願い、動いてアタシの足。あの人ともう一度笑い合えるようになりたいの。そこから始めるの。
そしてアスカがようやく足を踏み出した時、シンジはケンスケと共に掃除を終えて去ろうとしていた。
数歩前へ出て、そのまま彼の後姿を見送る。
バカアスカ・・・アンタ、カー坊が言う通り臆病よ。
零れそうになった涙を無理矢理振り切ってアスカはカヲルの迎えの為に学校を出た。






「ああ、惣流さん」


保育園の玄関で、カヲルの手を引いたアスカと、レイの手を引いたシンジがばったりと鉢合わせした。
アスカはこの日の仲直りをもう半ば以上諦めていた所で降ってわいたこの偶然に呆然と固まってしまった。
シンジも声を掛けたはいいがそのまま何と言葉を続けていいか思い浮かばず、
レイの手をにぎにぎとしながら視線をさ迷わせる。
するとレイが声を上げた。


「あー、かをーとおねちゃ」


レイがニッコリと笑う。
それを見てカヲルもニンマリと笑った。
姉の様子で大体今日の状況は分かっていた。要は上手くいかなかったのだ。
ここはひとつ、“ひとはだぬぐ”って奴をしなきゃ。
カヲルはちらりと姉を見上げ、そしてカヲルが大好きなレイの愛らしい笑顔を見ながら口を開いた。


「ねえ、レイちゃん。これから公園で遊ばない?帰る途中にあったよね、公園」


アスカが弟の突然言い出した事にぎょっとして足元を見下ろすと、カヲルはふてぶてしい程の笑顔で
シンジを見上げて言葉を続けた。


「レイちゃんのお兄様、いいよね。一緒に帰る途中で遊んで行っても」

「え、ああ・・・そうだね。でも遊びたいんならここで遊んでいったら?」


シンジがごく当然の指摘をする。保育園ならばまだ遊ぶ子供も他にいるし楽しいだろう。
だが、カヲルはシンジの言葉に肩を竦めて答えた。


「駄目だよ、お兄様。僕は“レイちゃんと”遊びたいんだ。人の多いここじゃむーどってもんがないの」


頭を振る幼児の姿にシンジとアスカは呆れてものが言えない。
何か・・・カヲル君ってホントに変わってるなぁ・・・。
シンジはこんなのに言い寄られてレイは大丈夫なんだろうかと心配になってきた。
まだ幼児の筈なんだけどなぁ。今時の子って進んでるのかな、とシンジは見当違いの事を考えつつ
レイと繋いだ手に少し力を篭めた。思わず篭めてしまった。
レイは遊んでくれているのだと思ったのか可笑しそうにぎゅうと握り返してくる。
一方のアスカはカヲルの考えが読めて頬が紅潮していくのを感じた。
ホント生意気なんだから。でも許してあげるわ、ハン。
心の中でそう結論してアスカは顔をキッと上げて一歩を踏み出す事にした。


「しょ、しょうがないわね、カー坊。アンタがどうしてもって言うならアタシはいいわよ。
その、えっと、・・・碇が構わないって言うなら・・・」


最後の一言はどうも尻窄みになってしまったと内心歯噛みしながらアスカはシンジの方を
上目遣いに窺うと、シンジはアスカからカヲルへ、そして果たして話が分かっているのかどうなのか
ニコニコと笑顔を浮かべているレイを見下ろして、再びアスカに視線を戻した。


「・・・そうだね。それじゃ一緒に帰ろうか」

「う、うん!帰りましょ!一緒に!」


思わず力んでシンジに迫ってしまったアスカに、シンジは何となく気圧されながらも、
足元でカヲルがレイと手を繋いで自分とアスカを促すのに微笑んで、彼女と共に歩き出した。
暫く歩いて公園へと到着し、そのままレイとカヲルは走って砂場へと向かっていき、
その様子にシンジとアスカは微笑んで、そしてふと顔を見合わせる。
アスカはここで言い出さなければと拳を握りしめて言葉を考えるが、どうにも思い浮かばず、
そうしている内にベンチの所まで来てシンジが腰を掛け、彼女もその隣に座った。
隣といっても人1人分くらいの間隔が空いているのだが、それがアスカの精一杯だった。
レイとカヲルが砂場で何やら声を上げながら楽しそうに遊んでいるのをシンジとアスカは見守る。
ここは前にふたりが喧嘩をした公園だ。
アスカが焦燥に苛まれている間、シンジの方は何も考えていなかったのかというとそうでもなく、
彼もまたこの間の件をどう切り出したものか思案していた。
別にアスカに対して腹を立ててはおらず、しかしこの間の出来事を全くなかったものとして
このままでいる訳にはやはりいかないだろうと、そうは思うのだが一体どうやってそれを伝えたら
いいのだろうと、シンジは胸の内で自問を繰り返していた。
まずはひどい事を言ったと謝るべきか、ただ単に気にしてないと言えばいいのだろうか、
それとも昨夜の事でも話すべきなのだろうか。
シンジは昨夜のレイと父との事を思い出しながらそう考える。
なまじ生真面目に過ぎるためにこうして色々と考え過ぎてしまうのだが、
その辺は意外にゲンドウと似ている所だった。
母ならばお尻を叩いてシャキッとしなさい、と叱咤するのかなとふと思考が脇へ逸れる。
そうしてふたりして思い悩みながらもじりじりと沈黙が続き、手をそわそわとさせたり、
上を向いたり下を向いたり鼻を擦ったりつま先で土を蹴ってみたりとひとしきりやってみた後で、
アスカが意を決してシンジの方に顔を向けた。
それに気付いてシンジも落ち着かなげな挙動を収めてアスカの方に向く。


「あ、あのね、アタシ・・」

「にいちゃにいちゃー!きてきてー!」


アスカが口を開いた途端にレイの大声でそれは遮られた。
口を開いたまま彼女は固まり、シンジが何とも言えない顔で視線を動かして呼び声の方を見やると、
レイとカヲルが砂の山を挟んで地面に張り付いており、レイは満面の笑顔で嬉しそうに自分を呼んでいる。
アスカもそちらをちらりと見て、それから深呼吸をしてからもう一度言葉を出そうとしたのだが、
またしてもレイの大声がそれを遮った。


「にーちゃー!!」


アスカの口元がひくつくのを見ながらシンジは恐る恐る口を開く。


「・・・えっと、ちょっと待ってね、惣流さん。・・・レイ、今お話してるから後にしなさい!」

「いやーん!こっちくるのー!」

「いやーんじゃないの!」

「くるのー!!」


レイが足をばたつかせてなおも呼んでいる。
シンジは数度アスカとレイの間で視線を動かした後、軽く息を吐いてベンチに両手をついた。


「もう、しょうがないんだから!ごめんね、惣流さん。ちょっと待ってくれる?」

「え、ええ・・・うん」

「ホントに我侭なんだから。父さんが甘やかすからだよ、やっぱり」


言って、シンジは立ちあがってレイとカヲルの元に歩いて行き、アスカはそれを呆然と見送った後で
カヲルが小さく手招きするのが目に入り、跳ねるように立ち上がってシンジを追った。
シンジがレイとカヲルの周りを回るようにして2人を見下ろす。
そしてレイに話しかけた。


「で、レイ。どうしたいんだい」

「にいちゃもおててつなぐの」


無邪気にそう言った妹にシンジは苦笑して、それからカヲルの隣に膝をついた。
そのままシンジも砂の山に開通されたトンネルに手を通し、レイの手を探って握る。
カヲルはシンジが手を差し入れるとともに自分の手を引き抜き、ただシンジの横で寝そべって
面白そうに事態を見守っていた。
砂山に穿たれたトンネルは意外に大きく、顔を覗き込ませれば手の間から向こうの顔が見えそうだった。
シンジがレイの小さな手を握ると、彼女は嬉しそうな歓声を上げて足をばたつかせ、
それにシンジは笑いながらも幼い妹のぷくぷくとした手を弄びながらカヲルと顔を見合わせて
お互いに笑い合う。
アスカはその様子をじっと見ていた。
ふとカヲルと目が合い、ニンマリと笑いかけた生意気な弟に自分も負けじとニッと笑い返した。
そしてレイの隣に腰を下ろす。
こっそりとレイに話しかけ、自分の手も彼女の腕に重ねるようにして差し入れていった。
シンジはカヲルの方を向いていてアスカに気付いていない。
アスカは目を閉じた。
そして指先が触れる。初めはおずおずと、そして試すように伸ばして滑らせていく。
シンジが突然の感触に驚いて正面を向くが、彼も半ば寝そべっている為に砂の山が邪魔で
向こう側が見えない。ただ、アスカがレイの傍にいるのが見えたのでこの自分の手に触れたのは
彼女の手だと分かった。
アスカの手はレイの小さな手を包むようにしてゆっくりとシンジの手に重ねられ、そして待った。
シンジが応えるのを、アスカは待った。
寝そべったレイが嬉しそうな声を上げているのが耳元で聞こえる。
だがそれ以上に自分の心臓の音が大きく響いて、破裂して弾けてしまいそうだとアスカは感じた。
レイが隣ではしゃいでいる。自分の手がシンジとアスカの手に挟まれているのが面白いのだろうか。
一体どれほどの時間が経ったのか。瞬きする間でもアスカには永劫に感じられた。
自分の指先が今触れている温もりが離れていくのだろうか、自分を繋ぎ止めてくれるのだろうか。
もう自分が何を考えているのかもよく分からなくなり、そしてアスカは息を飲んだ。
その瞬間叫ばなかった自分を褒めればいいのだろうか、いっそ大好きだと叫んでしまえばよかったのか。
シンジの手がレイの手を包みながらアスカの手を握り返した。
アスカは目を開けて、目の前の砂の粒をぼんやりと見つめた。
口元が綻んでいく。同時に顔が熱くて火を吹きそうなのが堪らなく恥ずかしくて誇らしい。
その瞬間にシンジがどんな顔をしていたのか知りたかったと思い至ったのはずっと後の事で、
今はただ、自分の中で暴れまわる気持ちを抑える為に隣のレイの頭に自分の頭を寄せてコツンとやった。
それから頬をくっ付けあってぐいぐいと押すと、彼女も大はしゃぎでそれを押し返してくる。
レイと頬を押し合い圧し合いしながらアスカは顔中に笑いが零れるのを止められなかった。
きゃあきゃあとレイが声を上げている。


「ねえ、レイちゃん?」


小さな声で囁くように問いかけた。
それにレイが元気一杯で答える。


「あい!」

「お兄ちゃんの事、好き?」

「れいね、れいね、にいちゃのことしゅきなのー!」


足をばたつかせながらレイが叫ぶとカヲルがひときわ大きな笑い声を上げた。
レイの楽しそうな笑い声が耳元で響いている。
幼い妹達につられるようにシンジも何やら笑って喋っているのを聞きながら、
アスカはこの恋して止まない少年の手をギュッと強く握った。
アタシも大好きなのよ、コイツの事。だからまずは仲直り、ね。
相変わらずレイと頬をくっ付けあいながら、
そしてシンジの手がレイの手を挟んで自分の手をしっかりと握り返しているのを感じながら、
アスカは今度こそ仲直りを切り出す為の言葉を考え始めた。







父さんのおなかでお昼寝





描:リンカ

第5話へつづく

碇家のアルバムより 撮影:碇シンジ






リンカ様の連載第4話です。
どうやら二人は仲直りできそうです。
子供のころ、いつの間にか疎遠になっていった友達がいます。
喧嘩の理由が何だったかもわからないまま、謝る気まずさに時間だけが流れていく。
そして喧嘩を続けているわけでもないのに、いつしか口も聞かないほど心が離れてしまう。
そんな経験はありませんか?
そういう少し苦い過去を思い出しました。
この二人がそうならなくて良かった。
しかも二人とも喧嘩をする前より成長しています。
家族の愛を受けて。
しかしいい父親です。碇ゲンドウ。
この世界で、そしてこの状況で、本編のような父親であれば、もうどうしようもないですね(笑)。
ただこの世界のゲンドウでもどこかで歯車が狂ってしまえばどうなるか…。
そういうことが起こりえる可能性はゲンドウに限ったことではありません。
リンカ様の描く小説の世界はエヴァ本編からかけ離れているわけではありません。
あらゆる可能性が起こりえる世界。それがエヴァだと思います。
だからこそ、この世界ではみんな幸せであれと祈ってやみません。
本当にありがとうございます、リンカ様。
続きをお待ち申し上げます。
(文責:ジュン)

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