− 5 − ウィリアムはそう言った リンカ 2005.4.5(発表) |
「あ〜あっ!やっと飯や!」
トウジが4時間目の終業のチャイムがなると同時に大きく伸びをしてそう漏らした。
仰け反ってそのまま後ろの席の人間の顔を視界に入れ、物欲しそうな表情をして見つめる。
「・・・そんなに見つめるなよ、トウジ」
「何や、何か反応してくれたってバチ当たらんやろ」
「今日はやきそばだぞ、確か」
「おほ!やきそばか〜。おかわりはたっぷりあるんかな」
「お前はいつもおかわりするだろ。首痛くないのか、それ」
「痛ないで。逆さまで見ると世の中変わるのぉ。お前もなかなか男前や」
「失礼な奴だな。いい加減前向けよ。ちゅーしちまうぞ」
そう言って、トウジの後ろの席のケンスケが唇をたこのように突き出すと、トウジも笑って唇を突き出し、
んー、とふざけて目を瞑る。
その顔をケンスケが教科書で叩くとようやくトウジは体を起こし、ぐるりと後ろを振り返った。
「痛いやないか、ケンスケ。わいはこれでも繊細なんやで。お顔に傷がついたらどないすんねや」
「そんときゃ俺がもらってやるよ。いや、そうするまでもなかったかなぁ?」
ニタァとケンスケの表情が崩れるのを見て、トウジはこの親友が自分の最大級の秘密を
握っているのを思い出し、にわかに慌て出した。
「い、いや、別にそれはええやないか。な、ケンスケはん。この話はお終いっちゅうことで」
「今日、デザート何だったかなー?」
「も、勿論お前にはデザートふたつあるで。な、ケンスケ」
「おお!それでは君が余りに可哀相じゃないか、トウジくん!自分の分は大事にしたまえ!」
「い、いや〜、はは、お気になさらず・・・」
「いいのかな?」
「お納め下さい。・・・くぅ〜」
目を細めて眼鏡を指で押し上げたこの極悪人に、トウジは泣く泣く頭を下げた。
一部始終を横で見ていたシンジは当然2人が何の話をしていたのか分かるはずもなく、
そしてこの純朴な少年はごく自然に、邪気もなく親友達に問うてみた。
「トウジ、誰かもらってくれるの?」
ぎょっとして振り向いたその眼前に、まさしく純粋な疑問のみを浮かべた親友の
少女めいても見えるその顔を確認して、トウジは泣きそうな顔でうなだれた。
「・・・シンジ。堪忍や。その話は堪忍してえな」
「だそうだ。あいにくだったな、シンジ。でもお前が今すべきはトウジの秘密を探る事じゃなくて
白衣を着て給食を用意することだと思うぞ?」
「あっ!今日から当番だった!」
慌ててシンジが立ち上がると同時に教室のドアのところから白衣姿の生徒が彼を呼ぶ声が聞こえた。
素早く着込んでそのままシンジが走っていく。
それを見送った後、ケンスケは改めてトウジを見やった。相変わらずうなだれている。
彼の肩に腕を廻し、顔を近づけて潜めた声で問いかけた。
「で、結局どうなったんだ。もういい加減聞いたんだろ?」
「いや、その・・・返事は聞いたんやけど」
「んで?」
「ほ、保留やて・・・」
「・・・もう一度言ってくれ。俺の耳はどうかしちまったみたいだ」
「せやから、待ってくれって」
「返事をするのを?」
「いや、せやからそれが返事で・・・待ってくれゆうのは・・・つまり何や、その・・・」
「じれったいな。はっきり言えよ」
「その、そないなこと、まだよう分からんし、その、もう少し経つまで・・・って」
「・・・ははぁん?大人になるまで待ってくれと?お前はそれでいいって言ったのか?」
「そないゆうたかて・・・わいかってそもそもあん時に言うつもりもなかったし・・・」
「これ幸い承知したのか。自分もどうしていいのかよく分からないから。お前って奴は・・・」
「も、もうええやろ、これで。大体考えてみ?2人してどないせえ言うんや」
「・・・デートの仕方が分からないのか」
「で、で、でえと・・・」
ケンスケはもう十分だとばかりに顔を上げて溜息を吐いた。
もう少し面白い展開になったかと思ったのにな。
いじけている親友の背をぽんぽんと叩きながらそうこっそりと思い、
この不器用な愛すべき少年に何と言葉を掛けるべきか思案した。
教室の窓に切り取られた外の景色はどんよりと薄暗く、雨の降りしきる音が聞こえている。
と、閃光が瞬き、暴力的な空の叫びが轟いた。
生徒達の悲鳴と歓声が沸き起こる。
騒がしい教室の只中で、眼鏡を掛けた少年は関西生まれの親友に向かって言葉を贈った。
「元気出せよ、トウジ。少なくとも3年経ちゃ3年分、5年経ちゃ5年分、ちゃんと成長するんだからさ。
そういう風に出来てるからな、ヒトの体ってのは」
「・・・体だけかい」
「後はお前とお前のお姫様の気持ち次第。ま、頑張れ」
「気楽に言うてくれるわ」
「当然だろ?俺はお前じゃないからな?」
「そらそうや」
ようやく顔を上げたトウジに向かってケンスケがニヤリと笑いかけると、トウジは彼に向かって
片眉を上げて問いかけた。いい加減この眼鏡小僧にやり込められるのには飽き飽きしていたのだ。
「偉そうに言うけどお前はどないやねんな。その仕方っちゅうのが分かるんか?」
「おいおい、俺を誰だと思ってんだよ、トウジくん」
大仰に腕を広げてケンスケは頭を振った。
給食のワゴンの中から出した大きな鍋を抱えて教室に入ってきたシンジの姿がふと目に入る。
前列にあるヒカリの席の前をシンジが通り過ぎた時に、彼女と話をしていた目立つ赤毛の少女が
彼のことを視線で追ったのに気付いた。へえ、とケンスケは面白い発見に内心で呟いてみる。
鈍いのは妹のことで手一杯だからか単純にお子様だからか。それを足すのかいやひょっとして掛け算か?
肩を竦めて外の黒雲を眺め、ケンスケはさも当然とばかりの調子で、しかし渋い顔で言ってのけた。
「分かる訳ないだろうがよ、どちくしょー」
トウジの顔に笑みが戻った。
シンジがお子様ならトウジもお子様だ。
勿論俺もお子様だよ、お子様ばんざいだ、とケンスケは認めるにはしゃくな事実に気付く。
今日はトウジよりおかわりしてやると雨空を裂くゼウスの轟きに誓った。
下校時間になり、下駄箱でヒカリと話していたときにアスカはふと違和感に気が付いた。
ごく普通の、いつも通りの会話を交わしていたのだが、そのうちに彼女はこの優しい親友が
ずっと何か言いたがっているのを感じ取り、靴の具合を確かめながら何気なく訊いてみることにした。
するとヒカリは気まずそうな、しかしどこかほっとしたような顔をして、それから一緒に帰らないかと
誘ってきたのにアスカは一瞬答えに窮した。
「駄目?」
「あ、いや、勿論いいわよ?保育園経由で構わないなら」
ニコリと笑いかけると、ヒカリも微笑んで傘を広げ、雨の下へ踏み出した。
その背を見てアスカも傘を広げ、彼女と並んで歩いていく。
今日は想い人とは一緒に歩けそうにないと思ったが、シンジとは別次元でヒカリのことも大切だ。
この数日塞いでいたので気付かなかったがどうもこの自分の親友の様子もおかしいと、
ようやくそれに思い至った自分を心の中でポカリと叩いてみて、
それから今度はこちらがヒカリの為に力になれるかしらとバタバタと傘を弾く雨音の中で考えた。
「・・・で、今なら何でも聞いたげるわよ」
「・・・ふふ、ありがと、アスカ」
「・・・・・」
「アスカは解決したようね?」
「ああ・・・そうね。とりあえずはね。おかげさまで」
照れ臭くてアスカは鼻の頭を意味もなく擦る。
「あのね、アスカ。碇君と・・・どうなりたいの?」
「へっ!?」
ヒカリの大胆な質問にアスカは思わず間の抜けた声を上げて、それから隣を歩く親友の
言葉の意味を混乱しながら考えた。
どうなりたいかとは一体どういう意味なのか。
最終的な希望はと問われれば、アスカの頭の中にはひとつ屋根の下で大人になった
自分とシンジが笑いあっているのが浮かび上がり、幼い弟妹がいるせいか、ついでに
小さいのが騒いでいるのも何となく聞こえてくるのだが、まさかそれを言えばいいのだろうかと
火照った顔に何とも複雑な表情を浮かべながらひとまず答えなければと口を開いた。
「い、い、一緒のお墓に入りたいな・・・なんちゃって・・・」
混乱のあまり変なことを口走ってしまったとアスカは堪らず傘を傾けて顔を隠してみたが、
ヒカリは親友のおかしな言葉には特別反応せず、もう一度問いかけてきた。
「あのね、アスカ。そうじゃなくて、今恋人になったとしたらどうするの?何をしたいの?」
「何って・・・えっと、そりゃあ、デ、デートとか・・・」
「映画見に行ったり、遊園地に行ったり?」
「う、うん、そ、そんな感じかしら。・・・多分」
ヒカリの言葉にアスカは何となく俯いて答える。
具体的に答えろと言われればそうなるのだろうか。
だが改めて問われると何とも曖昧なイメージしか沸いてこず、実際どうすればいいのだろうと
不意に疑問が沸き起こった。漫画やドラマのようなことをすればいいのか、と考えるが、
どうにもしっくりこないというのが正直なところだ。
アスカはちらりと隣の親友を窺った。
何故突然このような質問をするのだろう。ただそれが気になったというには態度がおかしい。
となると今ここでヒカリが自分に向かって投げかけた疑問はヒカリ自身に向けられた疑問だ。
ああ、ひょっとして、と彼女は感付いた。
「それで、ヒカリはどう思ってるの?」
ヒカリを悩ませているその真相を直接問い質すのはとりあえず避けることにして、
無難な質問をして会話を続けることにした。
「・・・うん。私は、ちょっと分からないなって。その時になって実際にはどうしたらいいのかしら」
「ん〜・・・アタシなら・・・その時になってから考える」
「なってから?」
「一緒に考えて、一杯試してみる。そうしたら恋人ってどういうものか分かるんじゃない?」
言いながらアスカは胸がドキドキしてきた。
自分が今思いついたこのアイディアがとても素敵なことに思えてきたのだ。
訳もなく飛び跳ねて水溜りを避けながら彼女は笑ってヒカリに振り向いた。
「それでいいじゃない。まだまだ時間は一杯あるわ?うちのチビどももその日出来なかったことが
次の日には出来るようになったりするわ。アタシ達は立ち止まってなんかいられないのよ。だから大丈夫」
アスカの笑みにつられるように、ヒカリも笑ってピョンと水溜りを飛び越えた。
「で、で、誰なのかな〜?ヒカリはアタシの秘密知ってるのに、アタシは知らないなんて不公平!」
「えっ!?そ、それは・・・」
ヒカリの顔が燃え上がるのにアスカはニンマリと口の端を吊り上げて彼女を覗き込んだ。
何としても訊き出してやるわ、こんな楽しいこと見逃せるもんですか、と意地悪に笑いかけ、
なおも問い詰め続けたこの少女がその後程なくして親友の秘密を訊き出せたのは言うまでもない。
「アスカの奴、何してんだ?」
リビングのソファーでコーヒーを啜りながらアスカの兄キョウタが隣に座るカヲルに問いかけた。
カヲルは兄の問いかけに視線を廻らせてから、さあ、と素っ気無く答える。
それを聞いてキョウタは肩を竦めてマグカップを口につけた。
「また新しい悩みか?」
「色々あるんでしょ、アスカ姉ちゃんも。あ、そういえば・・・」
「お、何だ。知ってんのか?最近事情通だな、カー坊」
笑って弟の髪をくしゃくしゃと掻き混ぜると、キョウタはマグカップをローテーブルに置いて
ゆったりとソファーに凭れかかった。
カヲルはぼさぼさになった頭のままこのいつも遊んでくれる大きな兄を見上げて、
自分の知るアスカの悩みのひとつを言ってみることにする。
別に口止めされてないし、と考えながらカヲルにとってはどうにも理解しがたい姉の悩みをを口にした。
「あのね、お兄様のことを名前で呼びたいんだってさ、アスカ姉ちゃん」
「え?オレ?」
「・・・レイちゃんのお兄様だよ。何でキョウタ兄ちゃんがお兄様なのさ」
「分かってるよ。まじに突っ込むな、弟よ。でもお兄様と呼んでもいいんだぞう?」
ふざけてそう言うと、カヲルは肩を竦めて溜息を吐いた。
その生意気な弟の態度にカチンときたが、キョウタはひとまず真ん中の妹の話題に戻ることにした。
「で、名前って、ファーストネームのことか。そりゃなかなか難しいな」
「どうしてさ。簡単じゃん。こないだの時だって、公園で仲直りしたのにそれまで通り名字を呼ぶし。
せっかくなんだから下の名前で呼べばいいのに」
「簡単なのはお前がガキンチョだからだよ。アイツの乙女心を責めてやるな。わはは」
「おとめごころ?」
「アイツのペタンコの胸の奥でドキドキいってる不思議な奴のことだよ。オレにもさっぱり理解できん。
いいか、カー坊。女ってのはな、男にとっちゃ不思議生物だぞ?
お前の大好きなレイちゃんとかいう女の子も今に不思議で一杯になる」
兄の言葉にカヲルは小さな手で自分の胸を押さえてみた。
確かにドキドキいっている。レイにもこいつがいるのだろうか。
こいつは一体何者なのだろうとそう思い、でも男の子の自分の胸の中に何で“おとめごころ”がいるのか
頭が混乱してきてカヲルは小さな顔を必死に歪めた。
それを見ながらキョウタは笑いを零す。ここでからかってみてもいいのだが、
後で母か姉に怒られるのは目に見えていたので心臓の存在を教えてやることにした。
それを聞いたカヲルの表情がはっきりと安堵したものになるのにくつくつと笑いながら、
再びアスカの話に戻っていった。
「で、お前が言ってるそれが原因でアイツはさっきからへらへらしたり、
この世の終りみたいな顔したりしてんのか」
「そう・・・なのかなぁ」
2人はこの惣流家の人間にとっての世界の中心であるリビングに敷き詰められた
ふかふかのカーペットの片隅で両手をついてうなだれているアスカを見ながら暢気に言い合う。
しばらく見ていると声が聞こえてきた。
「ああ・・・アタシのバカ。あの時呼んでもいいかって訊けばよかったのに・・・。
でもあの時は舞い上がって何が何だか・・・えへへ、いやん」
ぶつぶつと零しながら今度は片手でクッションを抱き締めて顔を埋め、カーペットにその細い指を突き立てて
くねくねとのの字を書き始めた妹の謎めいた姿に、キョウタはカヲルを見下ろして訊いてみた。
「あの時って?何であんなに身をくねらせてもじもじしてんだ、アイツ」
「お兄様と仲直りした」
「どうやって」
「手、繋いで・・・それから何かお話して・・・えっと」
思い出そうとするが、カヲルもレイと遊んでいたので正直なところ居合わせた彼にもよく分からない。
だがキョウタは弟の始めの言葉に面白そうに反応して言った。
「手を繋いだ?おいおい、やるじゃないか、アーちゃんは。それでしばらく自分の手を撫で回して
にやけてたのか。何事かと心配したぞ、お兄ちゃんは。手繋ぎはトキメキイベントだぞ?」
「・・・ときめきべ、んと・・・?」
「お前もそのうち分かるようになるさ、カー坊。して、その王子様の名は何と申すのじゃ、大臣よ?」
「・・・シンジ」
ふざける兄にカヲルは律儀に答えを返す。
「シンジ君、ね。うちの親父殿に打ち勝つだけのガッツがあることを祈ろうか」
どんな子かなと考えながらキョウタがコーヒーを飲んでいると、不意にアスカが問いかけてきた。
「ねえ、キョウタ兄。経験者として教えて。ファーストネームで呼び合うって大事?」
キョウタには一年ほど前から恋人がいる。アスカよりもやや背が高いというくらいの
可愛らしい小さな女の子で、一緒に合格した高校にこの春からふたりで通うことになっている。
国公立より一足早い私立校の合格発表の日の夜、この兄がどれだけ機嫌がよかったかは
アスカの記憶に新しい。
「まあ、人によるんじゃないの?オレは違うけど、名字で呼び合うのがしっくりくる奴もいるだろうし」
彼が真面目に返すとアスカが顔を上げ、それから四つん這いでキョウタのところまで這ってきた。
そのまま兄を見上げて目を輝かせる。
「お兄ちゃんがまともに答えるなんて珍しい。もっと教えて?」
「オレも教えて欲しいな、アスカちゃん?シンジ君はどんないい男なのかとか、な?」
悪戯っぽく訊き返されてアスカは絶句して兄を見つめ、それからその隣で自分の胸を押さえて
何やら思案顔をしている弟が目に留まった。
兄にシンジの名を話したことはない。となると当然それを知っている人間が漏らしたのだ。
「カー坊、どこまで話したの」
「・・・え?手を繋いだこと?」
「・・・フフ、アンタの今日のおかず、一皿徴収ね」
「太るぞ、アスカ。チビスケから取ってやるな」
「・・・もう!で、どうなの、彼女持ちとしては。嬉しいの、名前で呼ばれるって?」
アスカは弟のことは置いておくとして、兄から教えを乞うことにした。
学校からの帰り道にヒカリと話しているうちに呼び方の話題になって、
その時自分の失態に気付いたのだ。
すなわち、仲直りしたあの公園で、その場の雰囲気に任せてファーストネームで呼ぶことを
言い出せばよかったと。だが実際はその時彼女はそれどころではなかったので仕方がない。
前途多難だわ、とアスカはヒカリに言った自分の言葉を思い出しながらも、
それでもやはりどうしたらいいのか悩んでしまう。
「まあ、嬉しいっていうか・・・始めは恥ずかしかったな。けどそのうちそれが当たり前になってくる。
なんつうか、ま、これがずっと続くことを祈るよ。気付いたら顔も思い出さなくなったなんて
ことにもなりかねないからな。好きだの嫌いだの、告白しただの別れただの、世の中は賑やかだ」
どこかおかしそうにそう言ったキョウタの顔を見て、やはりアスカは珍しいと思い、
いつも何かとふざけているこの兄だが意外と冷静に捉えているらしいと、その新しい一面を知った。
と同時に、兄の語った言葉の後半部分に彼女は頭が冷えていく。
今彼はごく当たり前の、ありふれたことを言っただけだ。
が、その意味するところはいつだって当事者にとっては重大事だろう。
無論アスカ自身考えたくもないことだ。
「ふぅん・・・」
「お前のシンジ君はどんな奴だ?お兄ちゃんが納得できる奴だろうな?」
「えっ?そ、それは・・・その・・・」
「ちょっと、アスカ。何四つん這いになってるの。邪魔よ」
アスカが兄の質問を受けて頬を朱に染めて答えに窮していると、背後から声がした。
それに首を捻って振り向くと姉が腰に片手を当て、もう片方の手には湯気の立っている
マグカップを持って自分を見下ろしていた。
ごそごそと体を入れ替えてアスカは姉の足元から彼女を見上げる。
「何?どうしたの」
「マリア姉はお付き合いしたことないの?」
「・・・ほっといて」
面白くなさそうにマリアは零した。
アスカは持ち上げていた首が疲れてきたので姉の顔から視線を下げて、
首を回してみてもう一度持ち上げた。
すらりとした白い足を上がっていってその先の暗がりに柔らかく丸みを帯びた
レースの縁取りつきのペパーミントグリーンの三角が見える。
「・・・マリア姉、可愛いの穿いてる。ぎゃあっ!」
「覗くんじゃない!全くこの子は・・・」
不届きな妹の頭を踏みつけてマリアは嘆息するが、それを見ながらキョウタが呆れたように言った。
「姉貴こそミニスカートで足を振り上げるなよ。おしとやかにしないと男は皆逃げてくぞ」
「ハッ、軟弱者なんてこっちから願い下げよ。アンタの小さなお姫様はおしとやかかも知れないけどね。
アタシはそういう流儀じゃないの。それと弟とはいえ乙女のパンツ見たんならうろたえてみせなさいよ。
可愛げがないわね」
言い捨ててマリアは自分が踏み潰して絨毯の毛の海へ沈めたアスカを、邪魔ね、と思いながら避け、
テーブルを回り込んできてソファーに座った。
「よく言うよ。マリーのパンツなんて見飽きてるよ、昔っから。
いいかい、リィ。お前はこんなマリアお姉ちゃんみたいなお転婆になったら駄目だぞ?」
カヲルとは反対隣に座って先ほどからこくこくと頷きつつ一心不乱に絵本を読んでいる末の妹のカオリに
キョウタが言い聞かせているのを耳にしながらマリアは顔を顰めてコーヒーを口に含んだ。
カオリが反応を示さないのでそれをつまらなく思ってキョウタが彼女の顔を自分に向かせようとするが、
3歳の妹は一字一字丁寧に拾って行かなければ絵本の物語が読めないので、
迷惑そうにしながら片手を振り上げてくすぐる兄の指をつれなく払った。
先ほど頷いていたのも勿論文字を理解していくのにそうしていただけで、
この大きな兄のありがたいのだかどうなのだかよく分からない薫陶など聞いてはいない。
それでなくとも読めない字もまだまだあるのだし、集中が途切れると話が分からなくなるのだから、
目下の所、この惣流家で一番ちいさなお姫様にとって
大きな兄の存在は魅力溢れる物語世界よりも遥かに慎ましやかな価値しかなかった。
「やれやれ、カオリに振られた」
「アンタにはあの小さな恋人がいるでしょ。それで満足してなさい」
キョウタの恋人を知るマリアは彼女のことを、小さな、といつも呼ぶ。
もうじき180センチに手が届こうとしている弟と並べば本当にその小ささが際立つのだ。
「へいへい。アイツは姉貴に比べりゃおしとやかだからね。大変満足してますよ」
「・・・アタシだって外じゃこんなじゃないわよ」
「足振り上げない?」
「当然でしょ。アタシのパンツを有象無象に見せて堪るもんですか。たったひとりでいいのよ」
「御立派。淑女の鑑だ。何でこれで相手がいないかねぇ?この春からの高校生活最後の一年で
その“たったひとり”さんが現れることをお祈りしてますよ。何せレディ・マリアは絶世の美女だ」
2つ年下の弟キョウタの忌々しい言葉に歯軋りしながらも、マリアがそれを堪えてカーペットに潰れている
真ん中の妹の小さな尻を眺めつつマグカップを傾けていると、キョウタとマリアに挟まれて座っている
小さなカオリが顔を上げて姉を不思議そうに見た。
「なあに、リィ?分からない字があった?」
「おねえちゃん、それなに?」
「これ?コーヒーよ」
「リィもこーひーのみたい」
物欲しそうにマグカップから立ちのぼる湯気を見つめる一番小さな妹にマリアは苦笑して答える。
「駄目よ。アンタにはまだ早過ぎるわ。もっと大人になってからにしなさいな」
「リィ、おとなだもん。ごほんがよめるもん。だから、おとな」
言いながら誇らしげに今しがた彼女がついに征服し終わった絵本を掲げて見せる。
キョウタが妹の偉業を祝すために、笑いながら飲ませてみろと言うと、
マリアはそれをたしなめてカオリのさらさらしたニンジンのような色の髪を撫でた。
「駄目だったら。どうせ飲めやしないんだから。吐き出すのが落ちよ。
それで将来嫌いになったらどうすんの。コーヒーのない人生は味気ないわよ?」
「のみたいのみたいのみたい!」
魔法の物語の次は芳しくも不思議な黒い飲み物に魅せられたカオリが足をばたつかせて繰り返すと、
潰れていたアスカがそのままの体勢で声を出した。
「ミルクたっぷりに砂糖たっぷりで飲ませたら。それならちょうどいいでしょ」
「そんなのコーヒーじゃないわ」
「それがリィのコーヒーなのよ、今んトコ。そうは思わない、キョウタ兄?」
「かもな。お前も今だにそれだけど。そろそろステップアップしたらどうだい、おチビちゃん?」
「そうしたらいい女になれる・・・?」
「安心しろよ。お前は世界一のレディになれるさ。お前の大事な誰かさんにとっての世界一にな」
兄の言葉にアスカはすこぶる心を動かされた。
「・・・・・飲もうかしら」
「随分お手軽ね、おふたりさん。それじゃアスカ、寝てないでリィの特製コーヒーミルク作ってやって。
自分も飲みたいんならそうなさい。カー坊は欲しいの?」
「ジュースがいい」
「だってさ。アスカ?」
「待ってて、シンジ・・・くん、アタシ、頑張るから。頑張っていい女になるわ。苦いコーヒーくらい何よ・・・」
アスカが柔らかいカーペットにうつ伏せに埋もれたままブツブツと喋っている姿を見て、
マリアは怪訝そうな、キョウタは苦笑したような表情をそれぞれしながら顔を見合わせた。
「ちょっと、アスカ?聞いてんの?さっさと起きなさい」
姉の言葉にようやくアスカは体を動かして起き上がる。
「はいはい。それじゃステップアップの儀式の準備に取りかかるとしますか」
アスカは苦いブラックコーヒーの味を思い出して顔を顰めるが今は兄の言葉が効いているため
絶対に飲んでやると立ち上がって歯を食い縛った。
ところでシンジもブラックコーヒーが飲めないという事実は今のアスカには知る由もない。
行くわよアスカ。いい女になってやるのよ。見てなさい。
こうやって大人になっていくのね、と大袈裟に感動しながらアスカはキッチンに歩いていく。
キッチンには姉が淹れたコーヒーがまだ置いてあるはずだ。
そういえば家族の中で姉は一番濃いコーヒーが好きだった、と思い至って渋面で拳をぎゅっと握り、
それからその握った拳がついこの前、自分の体で今一番好きな場所になったことを思い出して
ふにゃりと顔がにやけた。えへへ、と笑いを漏らしながら愛おしそうに手をさすりつつ遠ざかる妹を見て
マリアは気味が悪そうに零した。
「どうしちゃったの、あの子は。悩みが解決した途端、また変になったわね」
「ま、乙女心なんだろ」
「何よそれ?で、シンジって誰のこと?」
「アスカちゃんの王子様だってよ」
「ああ、例の。やっぱそうなの。大きくなったわねぇ、アスカも」
「婆くさいな。大体な、姉貴、妹のアスカに先を越されそうだぞ?」
「・・・ペッタンコの胸してるくせに生意気な。アタシは理想が高いのよ。アスカとは違うの」
「レイちゃんのお兄様は優しくてかっこいいよ」
カヲルが妹のカオリと一緒に兄の膝の上に広げた絵本を読みながら口を挟んだ。
「・・・今日もお風呂で裸の付き合いしようかしら。じっくりお話しなくちゃ」
「いいねえ、姉貴は。手頃な相手がいて。オレがそういうのを楽しむにはまだまだ時間が掛かりそうだ」
11歳差の幼いカヲルの頭をくしゃくしゃと掻き回しながらキョウタが羨ましそうに言った。
ついでにカオリも撫でてくれとばかりに頭を差し出してきたので盛大に掻き混ぜてやる。
「明日、また明日、また明日」
キョウタが静かに言葉を紡いだ。
「時は小刻みな足取りで一日一日を歩む」
「どこかで聞いたセリフね」
「シェイクスピア。ママに押し付けられたんだよ」
しかめ面で彼は零した。
「ああ、そういえば。アタシ、あの手の気取り屋は好きじゃないわ」
「舞台作家なんだ。何を言うにも気取らなきゃいけないのさ。後は受け取る方の、お気に召すまま」
「自分は童話作家なのに何故にシェイクスピアを勧めるかしらね、ママは?
それにしてもねぇ・・・あ〜あ、おチビのアーちゃんが恋かぁ。あんなちっちゃいお尻してるくせに。
まったく何で一番の美人のアタシに浮いた話がないのかしら。アタシのロミオはどこにいるの?」
面白くなさそうに口を尖らせる姉の姿にキョウタはふっと笑いが零れた。
姉は確かに綺麗だろうと弟の彼でさえ素直に認めるが、恐らくはきつい性格と身に纏う雰囲気の
近寄りがたさに男が敬遠するのだろう。自分にとっては生まれたときからの当たり前の存在なので
別に美人だろうがパンツが見えようが何てことないのだが、とおかしく思う。
自分が割合に大人しめの恋人を選んでしまったのはきっとこの姉と妹のせいだとキョウタは思っている。
最近益々アスカがマリアに似てきたような気がして兄としては心配しながらも勘弁してくれと
いつも思わず考えてしまう。何しろ惣流家の男性陣は母キョウコと長女マリアに頭が上がらないのだ。
この上妹の尻にまで敷かれることになっては兄としての沽券に関わる。
それはともかくうちの妹は上手く憧れの男の子を掴まえられるのかな、と彼は考え、
そしてマリアと同じように、大きくなりやがって、と心の中でそう呟いた自分に気付いて苦笑した。
外ではまだ雨が降りしきっている。微かに聞こえてきた遠雷にカオリがビクリと小さな身を竦ませた。
膝の上の絵本をカヲルに渡し、ヒョイと隣のカオリを持ち上げて自分の膝に乗せてみる。
昔はアスカもこんな風に小さかった。しかし自分も彼女を軽く膝に乗せられるほど大きくはなかった。
掻き混ぜてぼさぼさになった妹の髪を梳きながら彼はキッチンの方を振り仰いだ。
「ま、人それぞれだろ。オレならタイツ男との悲恋なんかお勧めしないけどね、ジュリエット?
なあ、アスカー!何かお菓子なかったっけー!?」
「同感ね。あ、アスカー!クッキーも持ってきてー!チョコチップの奴ー!」
「アスカ姉ちゃーん!僕のジュースまだー!?」
「あーちゃーん!リィのこーひー!こーひー!!」
にわかに騒がしくなったリビングに向かって、キッチンからも大声で返事が返っていた。
「はーい!!待ってて、今行くから!ていうか誰か手伝ってよー!!」
「立ってる奴の義務よー!」
「アスカー!?お菓子何があるんだー!?ケーキなかったけー!?」
「あ、バカキョウタ。あれは駄目よ。パパが帰ってくるまでは駄目ってママが言ってたもの」
マリアがキョウタの言葉にすかさず注意した。彼女はそのケーキを母が何の為に焼いたのか知っており、
そしてきっと父が帰ってきた時にはその手には大きな荷物を抱えているはずだ。
恐らくは、4本足で鼻面の長い、動物を模した可愛らしいふかふかした奴を。
だからそれまで待たなくてはならない。
「そうなの?アスカー!今のはなしー!他持ってこいー!」
「ってこいー!!」
「こいこいー!」
「もうー!こっちに取りに来てよー!」
その大声の応酬はしばらくの間、惣流家に響いていた。
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惣流家のアルバムより 撮影:惣流アスカ |
後書き
ジュン様、読者の皆様、こんにちは。
リンカと申します。
今回で「Are You Happy?」も第5回となりました。
実ははじめはこれくらいの話数、つまり5話分くらいで終了するはずでした。
が、今ではもう、いつ終わるものやらちょっと分からなくなってきました。うん、いい加減ですね。
この先シンジとアスカの身に果たして何が降りかかるのか。
ハラハラは、まあしないでしょうけど、ドキドキくらいはしていただけると嬉しく思います。
今回は惣流家の兄弟達に色々喋ってもらいました。
が、あくまでこのお話のメインはシンジとレイ、アスカとカヲル、加えてゲンドウですので、
他のキャラクターの出番はそんなに多くはないんですけどね。
次回は美少女戦士アスカと熊男魔人ゲンドウが対決です。多分。
ま、ともあれこれからも私の拙いお話にお付き合いいただければ幸いです。
このお話をお読み下さる読者の方々と、掲載下さるジュン様に最大限の感謝を。
ではこれで失礼。
リンカ様の連載第5話です。
仲直りしたというのにアスカの悩みは尽きません。
そう、恋する乙女の悩みは尽きないものなのです。
二人の距離が近くなればなったでその距離感をどう扱えばいいのか。
そして、もっと近くなるためには?
周りで見ているものからすれば幸せな悩みなのですが、
本人からすればそんな余裕は皆無です。
しばらくはそういうアスカの姿にこちらも一喜一憂させていただくことにいたしましょう。
さて、今「しばらくは」と言う言葉を使わせていただきましたが、
こんないいお話を駆け足で進められてはたまりません。
ドキドキとしながら次の話を待ちましょう。
願わくはできるだけ長く彼らの話を読みたいものです。
本当にありがとうございます、リンカ様。
続きをお待ち申し上げます。
(文責:ジュン)
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