− 11 −

雪月花時最憶君


リンカ       2005.7.11(発表)

挿絵:リンカ












敷き物の上に座り込んで手ずから酒を注ぎ、口へ運ぶ。
頭上に広がる一面の花。
いっそ傲慢なまでに咲き誇り、一瞬の炎を燃え上がらせて散っていく儚い花。
風が吹いた。麗らかに薫る春の風だ。
吹雪が舞った。目にあでやかな花の吹雪だ。
見上げる空に銀の月が出ていたらさぞよかっただろう。だが、今はまだ太陽が空の主。
ゲンドウは静かに酒を口に運び、喉を滑り落ちる柔らかさに溜息を漏らして
眼前に広がる美事な桜の群を見渡した。
春なんだ。
日差しがぽかぽかと心地好い。
いい季節じゃないか。
自然、笑みが浮かぶ。何もしなくとも心が浮き立つような季節なのだ。
隣に愛しい妻がいないことだけが悔やまれた。






事の起こりはリツコの一言だった。
数日前のことだ。
手をつけていた制作に一段落がついて、娘のアイの相手をしながらも暇を持て余していた彼女は
シンジがレイを伴って学校から帰宅する時間を見計らって碇家を訪れた。
勿論、その手にはアイが昼寝をしている間に完成させた、
ふるふる震えている大きなプリンが手土産として載せられていた。
それを見たシンジは早速紅茶の用意をし、かくして子持ちの母親同士の優雅なお茶会ならぬ、
子持ちの母親と子守りの小学生の割に無邪気な3時のおやつの時間が幕を開けた。
盛り上がる話題の第一は子育ての話だった。
やはりと言うべきかどうなのか、小学生の身であまりに健気なその姿だが、
至極当たり前のようにして育児ノイローゼの話などする少年の姿は
どこか滑稽にもリツコには見えた。そしてその滑稽さが自分に見えていることに密かに安堵した。
次がリツコが6年不在にしていたこの街の話で、それからシンジの学校の話だろうか。
その中で、リツコの母校でもある小学校の桜が満開で綺麗だという話をシンジが口にした。
それを聞いたリツコが脳裏に咲き誇る桜の姿を思い浮かべて遠い目をした。
彼女がいる碇家の居間は瞬く間に姿を消し、満開の桜を見上げて心地好い風を受ける
自分と娘やシンジ達の姿がありありと浮かび上がった。


「お花見行きたい・・・」


ぽつりと、リツコは呟いた。
あまりに小さな呟きだった為によく聞き取れなかったシンジが問い返すと、
もう一度、彼女は茫漠とした雰囲気から段々と興奮して捲し立てるように言葉を繰り返した。


「お花見に行きたい。ていうか行こう。うん、絶対行くわよ、お花見に。
これはもう日本人としての義務よ。シンジ君、ゲンちゃんに伝えといて。
今度の週末、我が赤木家と碇家合同でお花見を行います。
各家庭でお弁当と飲み物と、必要な道具類を用意すること。いいわね?」

「いいわねって・・・僕はいいけど」

「レイちゃん、今度お花見行きましょうねぇ?」

「う?」


魅力的なプリンと戯れていたレイがリツコの呼びかけに顔を上げた。
そのつぶらな瞳でしばしリツコと見つめ合う。
そしてベタベタと濡れた口元を一杯に綻ばせて、彼女はこっくりと頷いた。


「あい、りっちゃ」

「レイ・・・お花見って意味分かってんの?」


どうにも妹が元気に返事をする時は怪しいと、シンジが問いかけると、
彼女は兄を見て、ふくふくした顔に満面の笑みを浮かべた。


「おはなみるのー」


どうやら基本的なことは理解しているらしい。
リツコが、偉いわねぇレイちゃん、と褒めると、くいっと首を傾けながら
満面の笑みで得意げに、ねー、と返して、再びプリンに向き合った。
レイ専用クマさんスプーンでふるふる震える大きな塊を掬い上げて、彼女はプリンを
皿の上から自分の口の中へとお引っ越しさせようとした。
が、ぱくりと咥えた口の中にはとろけるような甘味が広がってこない。
不思議そうな顔をしてレイが皿の上を見て、兄の顔を見て、リツコとその腕の中のアイを見た。
そして下を見た。
自分のぽこりと膨らんだ腹の上に、クリーム色の塊が悲しげに潰れていた。


「うぎゃあああっ!」


火がついたように泣く、とはこういうことだと言わんばかりに凄まじい叫び声が上がった。


「あ〜あ、レイちゃん、落としちゃったわねぇ。しかし大した泣きっぷりだこと」

「ああもうっ、レイの馬鹿! ほら、まだあるから泣くんじゃないの」


わたわたとシンジは妹に駆け寄って、零したプリンを拭き取ったり、皿に新たに載せてやったり、
彼女をどうにか宥めようとした。
これくらいで泣くんじゃないとは思うものの、ひとたび泣かれてしまうと、
どうにも狼狽を煽られてしまうのだ。
平然と腕の中の赤ん坊を揺すっているリツコのことが訳もなく恨めしかった。


「うえっ、ひっ、ひっく」

「ほら、レイ。あーん」


兄の差し出したスプーンに、しゃくりあげながらも反射的にレイは口を開けて待ち構えた。
「あーん」 と言われると、餌を待つ雛鳥の如く、ぽかっと口を開いてしまうのだ。
そして今度こそ口中に広がった甘美な味に、ぽろぽろと頬を伝っていた涙もたちどころに消え失せた。


「おいしい?」

「ぷりん、おいしーの」


ふっくらした頬を手で押さえて、うっとりとレイは答えた。
黙って眺めていたリツコは一言。


「見事ね」





ともあれ、そうして花見へ行こうという提案はシンジからゲンドウへ伝えられ、
そして赤木家でもリツコが夫のマコトと母のナオコを説得して、
週末の土曜日、彼らは揃ってこの街の桜の名所である公園へとやって来ていた。
ちょうどこの春最後の見頃を迎えた桜の木々は、
その身に一杯に咲き誇る花びらを燃え立たせて、
時折吹き抜ける風に身を震わせながら吹雪を躍らせていた。


「運よく場所が空いていてよかったな」


公園の一角、一本の桜の木の根元に敷き物を広げながら、
ゲンドウが安堵の息を漏らした。


「久し振りだわ、お花見って。ここの桜の木々は毎年花を咲かせているのにね」


ナオコが敷き物の上に靴を脱いで上がり込み、弁当の包みを置きながら頭上を見上げた。
彼女の感慨など知らぬげに、桜の花はざわりと風に揺れた。
他の者も、銘々自分が持っていた荷物を広げ、花見の準備に取りかかっていた。
そして全てが整い、皆手を止めて顔を見合わせた。


「さて、それでは乾杯でもしますか?」


と、マコト。
早速手元に置いてあった使い捨ての紙コップの束を手に取り、皆の飲み物を注いでいった。


「そうだな。まあ、騒ぐのは程々に。飲み過ぎるなよ、ナオコさん」

「ゲンちゃんじゃないんだから腹踊りなんてしないわよ」


ナオコが横目で視線を送りながら返してきた言葉に、ゲンドウはぐっと息を詰めた。


「・・・腹?」

「い、いや、何でもないぞ、シンジ。気にするな」


訝しげにしている息子に慌てて弁解しながら、彼はずっと昔、若い頃のことを思い出していた。
昔は陽気な酒に派手に騒ぐことも確かにあった。
この男らしからぬ態ではあるが、誰しも若い頃というものはあるし、羽目を外すことだってある。
そういえば、あの頃はまだ髭も生やしていなかったな。
少しだけ俯いて、手に持った紙コップの中で弾けるビールの泡を眺めながら、
胸に湧き上がった懐かしさに笑みを浮かべたゲンドウは、豊かな髭を蓄えた顎をゆっくりとさすった。
ふと視線を上げると、優しげな、そしてどこか懐かしげな目をしたナオコがこちらを見ていた。
微笑みを浮かべていたゲンドウの唇が、僅かに悪戯っぽい形を描いた。
それを見て益々彼女は目を細めた。その、かつての少年の面影に。


「ふふ、うふふ」


ナオコが思わずといった具合に笑い声を漏らすと、ゲンドウもくつくつと肩を揺らした。
それを怪訝そうに見ていたリツコが口を開いた。


「何よ、ふたりして見つめ合って。気持ち悪いわね」

「いや、何。ちょっと思い出したことがあっただけさ」

「・・・腹踊りを?」

「ああ、・・・それもあるな。くく」

「あんたのお父さんも凄かったわよ」


と、ナオコが娘の方を見て言うと、ゲンドウも頷いてそれに続けた。


「うむ、あれは見事だった。至芸と言ってもいいだろう」

「ええっ、やだ、父さんってもっと素敵なイメージがあったのに」

「馬鹿ね。素敵だったに決まってるじゃない」

「腹踊りのどこが素敵なのよう・・・」


今だ乾杯の音頭も取らず、既に話に花を咲かせている自分の父親と赤木母娘を見て、
シンジはマコトにぽつりと話し掛けた。


「ねえ、マコトさん」

「うん?」

「お酒って恐いね」


何しろあの父が、腹踊りという狂態―実際どういう踊りなのかシンジにはよく分からないが、
名前からして滑稽さが滲み出ていた―を演じるというのだ。
あまりの恐ろしさにぶるぶると悪寒が走った。白く凍える冬が戻ってきたかのようだった。
そんな大袈裟な少年の憂いに、マコトは微苦笑しながら答えた。


「はは、そうだね。でも、量をわきまえれば大丈夫だよ」

「そうかな」

「そうさ。程々ならいいものだよ、お酒は。まあ、シンジ君にはまだ早いけどね」


マコトがそう言うと、シンジは隣に座る彼の手の中の紙コップを疑い深げに見つめた。


「・・・泡だけ口をつけてみるかい?」

「・・・うん」


泡立つビールで満たされた紙コップを少年に手渡すと、
彼は恐る恐る―しかしどこか面白そうに―コップの淵から白い泡を吸い込んだ。
そして、捉えどころのない泡の苦味に顔を顰めて、口を離した。
泡だけでも苦いのに、何で大人はこんなもの喜んで飲むんだろう。
そういえばコーヒーも苦いな、と彼は思い起こして、
大人になるということは苦味が分かるということなのかも知れないと、
そんなことを考えながらシンジがマコトにビールの入ったコップを返していると、
ゲンドウ達の声がした。


「お、シンジ。口の上に白い髭が出来てるぞ」

「ああ、駄目じゃない、マコト君」

「大丈夫だよ。飲んだのは泡だけだから」


と、マコトが笑いながら弁解すると、彼の妻は首を振りながら言った。


「そうじゃなくて。まだ乾杯してないのよ」

「・・・突っ込むのはそこなのね」


したり顔でビールの満たされた紙コップを掲げた妻への呆れに、マコトは情けなく眉尻を下げた。
そんな青年の姿を笑いながら、ゲンドウが皆にコップを掲げ持つように合図した。
そして、乾杯、という唱和。
リツコの膝に抱えられたアイが、楽しげな声を上げながら
しっかりと手に持った取っ手付きの哺乳瓶をぶんぶんと振り回した。
その娘の無邪気な様を目にしながら、マコトがビールを口に運ぼうとすると、
兄の膝を乗り越えて彼のところまで忍び寄ってきたレイが、
彼の膝に両手を乗せてきらきらした瞳で見上げてきた。


「ねー、ねー、まこっちゃ。あわあわ、れいにもちょーだい、ちょーだい?」

「レイちゃんは駄目。オレンジジュース、飲もうね」


すげない大人の言葉に、期待に輝いていた彼女の幼い顔がショックに歪んだ。







穏やかな風が、時折通り過ぎていく。
その度に、ざあぁっ、という音と共に色付いた花びらがその身を宿す枝々から離れ、
流れに翻弄されて宙を舞い、そして地面へと静かに降り注いでいった。
そんな光景の中で、敷き物の上に座って思い思いに花見を楽しむ人々の姿があった。
静かに花を味わう者、楽しげな会話に笑いさざめいている者、酔いに任せて歌声を響かせている者。
ゲンドウは手ずから注いだ酒で舌を湿らせ、満足の溜息を吐いた。
リツコとナオコが何やらマコトをからかいながら、けらけらと笑い合っていた。
若い母親の膝の上では少し疲れてしまったのか、赤子が目を閉じて眠っていた。
彼の息子と娘の姿はそこにはなかった。
とりとめもない会話を楽しみながら彼らは弁当を突つき、酒やジュースを飲んでいたのだが、
大人達に囲まれていささか退屈したのか、トイレに行くついでに
公園の外縁部に軒を並べた出店を見て廻りたいと兄妹で連れ立って行ってしまったのだ。
大人達の方も酒が入り陽気に話も弾んでいたものだから、
人ごみや迷子に気をつけるように一通り注意をしてから、気前よく彼らを送り出した。


「あら、ゲンちゃん。そんなもの持って来てたの」


ゲンドウの手の中にあるものに気付いて、ナオコが話しかけてきた。
それに応えて、彼は軽く肩を竦めてみせた。
彼の脇には明らかに市販の酒とは違うと分かる瓶が置かれていた。
それから彼は自分のコップに注いで飲んでいたのだ。
リツコが瓶を覗き込みながら質問した。

「なあに、それ。・・・梅酒?」

「ああ」

「ご自分で漬けたんですか、これ」


マコトの問いかけに、ゲンドウは口に含んだ酒をゆっくりと飲み下してから、
いいや、と低く答えた。


「ユイの奴がな」


ぽつりと答えたその言葉は彼らの間に投げ出されたきり、沈黙をもたらした。
マコトとリツコが気まずそうに顔を見合わせた。
喪失は決して癒えることはない。
たとえ、その疵が時間や他のものに埋もれて見えにくくなったとしても。
そしてゲンドウの場合、まだ充分に時間が経っている訳でもないのだ。
だがこのまま黙り込んで、沈黙に身を浸している訳にも行かない。
そう思い、とにかく何か声を発さなくては、とマコトが口を開こうとしたが、
その前にナオコがゲンドウに向かって語りかけた。


「それ、ゲンちゃんとこのお庭の梅の実?」

「うむ、そうだ。いつだったか、ユイが持っていかなかったか?」

「ああ。貰った、貰った。初めは実の方を貰ったんだけどね、
結局ユイちゃんの漬けたものの方が美味しいって言って瓶を何本か貰ったことがあるわよ」

「ふん。いい加減な分量で漬け込むから不味いんだ。大体あんたの料理は全部大雑把だな」

「計算ずくの芸術なんてつまらないわ」

「思いがけない奇蹟の味に出会うまで、延々付き合わされてた旦那は災難だったな」

「泣いて喜んだに決まってるでしょ?」


したりと言い切られたその言葉に、皮肉げな笑みを浮かべてゲンドウがナオコを見やり、
その視線を受けて彼女の方もくつくつと肩を揺らした。


「このおばさんはこう言ってるが。実際どうだ、リツコ、マコト君」


急に声を掛けられて、若い夫婦は揃って慌てながら彼に答えた。


「え、いや、私は母さんの料理の味に慣れてるから・・・」

「その、お義母さんの料理、リツコちゃんの作るのと味が似てますよ」


ふたりの答えを聞いて、ゲンドウは肩を竦めた。


「やれやれ、飼い馴らされてるな」

「失礼ね。自分だって私の作ったお弁当突ついてたじゃない」

「いつも不味いとは言ってないぞ。ただ時々胃が全力で逃げ出すようなシロモノが
混ざる時があるんだ。そこを忘れては公平とは言えないだろう?」

「はいはい。どうせ私はユイちゃんみたいには出来ないわよ」


このやり取りを聞きながら、リツコとマコトは居た堪れなさに身が竦む思いがしていた。
別にゲンドウは憐れんでくれとも気を遣ってくれとも言ってはいない。
特別不幸ぶった素振りなど見せないし、実際、後に続いたナオコとの会話はどうだろう。
勝手に彼の言葉に身構えて、自分達だけで気まずい思いをしてしまったのだ。
年かさのふたりに比べて、自分達の至らなさが身に沁みるようだった。
とりわけリツコはその辺りのことが自分ではよく分かっているつもりだっただけに
一層情けなく感じられて、自分を勇気付けるように腕の中のアイを抱え直して、
彼女の産毛のような髪の毛に唇を当て、頬擦りをした。
その仕草に反応したのか、眠っているアイが
きゃっ、と声を上げて笑いながら母の胸元を握り込んだ。
それを見て、マコトはそっと微笑み、幼い娘の頭を指先で優しく撫でた。


「今年は梅の花はどうだった」


リツコが赤子に頬擦りをしながら、小さな声で訊ねた。


「ああ、よく咲いたよ。毎年ちゃんと咲いてくれる。お前が家を出る前より枝も伸びた」

「そう」

「桜もいいがな、俺は梅の方が好きだな」

「そうなの?」

「ああ。桜は確かに綺麗だけどな。梅の方が趣がある」


ゲンドウが梅酒を舐めながらリツコに答えると、
ふたりのやり取りを聞いていたナオコが呆れたように口を開いた。


「昔からそれ、言ってたわね。どうしてなの?」

「さあ? 何となくさ。何となく、そう感じるんだ」


と、肩を竦めるゲンドウ。
果たしてこの男がとぼけて誤魔化しているのか、それとも本当に自分でもよく分かっていなくて
何となくと言っているのか、その場の三人には判じかねた。
ただでさえ、あまり表情豊かな男とは言えないのだし、それにどう考えても、
もじゃもじゃと顎に生えた髭が彼の心中を詮索することを邪魔していたからだ。
これでポーカーフェイスになられると、本当に何を考えているのか分からない。
だがそんな三人のことにはまるで構わず、ゲンドウは手の中の梅酒で喉を潤し、息を吐いた。
甘く薫る梅酒を、ゆっくりと味わう。
毎年ユイが梅の実を回収して何やらしているのは知っていた。
だが、実際どれだけの量の梅の実で何を作っていたのか、それは知らなかった。
知ろうともしなかったと言ってもいいかもしれない。
梅酒を作ってみただとか、梅干を漬けてみただとか、コンポートにしてみただとか。
自分がそれを知るのは食卓に出てきた時なのだ。
出されたものを、旨そうに平らげる。それが自分の役目だと思っていた。
ユイが死んで、ゲンドウは彼女が仕舞っていた梅酒の瓶を幾本も見つけてほとんど愕然とした。
彼女はいなくなったのに、彼女が作っておいてくれたものが自分の目の前にある。
何を思って彼女がそんなことをしていたのか、考えたことがあるだろうか。
梅酒を見つけた夜、彼はそれを静かに飲みながら独り泣いた。
妻が死んで、まだ一月と経っていなかった。


「私は桜の方が好きだけどねぇ。マコト君はどう?」

「え、そうだなぁ。でも趣があるっていうのは分かるかも。
桜って、ほら、盛大に咲くじゃないか。でも梅はこじんまりしてて」

「情緒があるってこと?」

「うん。桜よりも控えめなところがあるね。それでいてぽっと色付いた姿が何とも・・・」

「・・・何だか女の話みたいね」


じろりと睨みつけてきた妻の視線に若い夫は、あはは、と乾いた笑いを浮かべて
義理の母親に助けを求めた。
そんな光景を壁一枚向こうに隔てたように遠く眺めながら、
ゲンドウはユイのことを想っていた。
彼女は、確かに大胆で意思のはっきりした女性だったが、決して派手でもうるさくもなかった。
むしろ普段は落ちついていて、本当に自分よりも十も若いのかと思うこともしばしばだった。
物腰は柔らかで上品。無駄な装飾など一切なく、最低限のもので自分が輝くことを知っている女だった。
年と共に洗われていくその美しさには、目を見張る思いだった。
この人は決して老いたりしないのではないか。
そんなことを半ば本気で考えてしまうくらい、彼女はいつでも若々しかった。精神と相貌と、共に。
ゲンドウには彼女の老年というものを想像することが出来なかったのだ。
結婚してシンジが産まれ、そして更に月日が経っていく中でも、
彼女には老いというものが一切忍び寄って来ないのだった。
「君は年を取ったりしないのか?」 と、そう訊ねると、
彼女は笑って、「貴方と一緒に年を取るわ。毎日、同じだけ、貴方の傍で」 と答えたことがあった。
「決して老いては駄目だ」 と、戯れに言ってみたこともある。
美しいままであってくれ、と。
すると彼女は目を丸くして、それから、「年を取らなかったら貴方に置いていかれてしまう」
と、少し悔しげに彼の背中を抓った。
今にしてみれば皮肉なものだと、ゲンドウは思う。
何故なら、彼女の命は、老いによってではなく、
突然降りかかった巨大な手によってもぎ取られ奪われるようにして、失われてしまったのだ。
いとも簡単に、唐突に、無意味に。


「そんな風に誤魔化したって無駄よ。
あなたが金髪の派手派手女に見惚れてたのを私は知ってるわよ。何が控えめよ」

「えっ!? な、何のことだいっ?」

「あなたの可愛いジェニーのことよ。忘れたとは言わせないわよ」

「あら、もう浮気?」


ゲンドウの目の前で、ナオコが自分の娘に責められる若い婿殿を肴に
けらけらと笑いながらビールを飲んでいる。
ユイは、家庭的な女性だった。
いや、家庭を大事にしていた、と言い直すべきだな。
ゲンドウは僅かに顔を歪めた。
彼女は自分で家族を築くことに喜びを見出しているようだった。
その為に、自身の嘱望された未来も魅力的で将来有望なボーイフレンド達も捨てて、
十歳も年上の男の妻になった。
裕福な家に育った彼女だったが、しかし必ずしも幸福な家庭ではなかったと
後々になってからゲンドウは聞いた。
大学に入ってから両親が死んだが、遺してくれた遺産と奨学金で彼女は大学に残ることが出来た。
優秀で教授の覚えもよかった彼女には、いつも友人達が周りを取り巻いていた。
実家と付き合いのあった家の子息達や、彼女と同様に将来有望な若者達。
いずれその中の誰かが彼女を射止めるだろうと、周りの人間は勝手に想像していた。
彼女にはそんな気などまったくないにも関わらず。
確かに彼らは一緒にいて楽しいボーイフレンド達だったが、
どこか自分とはずれていると思ったのだと、妻がそう言うのをゲンドウは聞いた。
ずれている、とはどういうことかと訊ねてみても、よく分からない、と彼女は笑った。
ただ、彼らとは恋は出来ないと思ったのだという。まして結婚するなんて。
そんな彼女がどうして、自分などと一緒になる気になったのか、
それは今もってゲンドウには定かではないのだが、彼女はゲンドウとの結婚によって
自分の家庭を築くことが出来るということに深い喜びを抱いているようだった。
そして、つまるところ、彼女はその為に家庭的な人間に“なった”のだった。


「マコト君の前の女よ」

「あらあら、まあ」

「だからあれは違うって散々言っただろう?」

「それなら何だってあんなにあの娘はしつこかったのよ。
我物顔でマコト君にべったり引っ付いてさ。私のことなんて泥棒呼ばわりよ」

「知らないよ。あれは彼女が勝手に言ってただけだよ」

「どうだか。あの娘に爆弾みたいな胸、擦り寄せられて喜んでたじゃない」

「そんなこと・・・」

「なかったなんて言ったら蹴り上げるわよ」

「こら、リッちゃん。はしたない」


ユイは、様々なことを我慢していた。
今ならば少しだけそれが分かる。
彼女は自分の家庭というものをこよなく愛していた。
必死に家庭を築こうとしていた。
その為にならどんな努力でもしたし、傷ついても涙を堪えていただろう。
料理だって初めから得意だった訳ではない。最初の頃は、本を見ながら、という程度だった。
子育て? それこそ彼女はぼろぼろになりながらシンジを育てていた。
夜、仕事から帰ってきて、彼女の話も碌に聞かず、「疲れてるんだ」 と一言。
その時の彼女の表情。
何で自分はそれをいつも見落としていたのだろう。
彼女を最も傷つけていたのは、自分の無神経さだったと、ゲンドウは思う。
彼女を愛し、子ども達を愛していたことには堂々と胸を張れるが、
果たして自分は、そこまで彼女のことを慮っていただろうか。
愛している。それは分かっているだろう?――それが甘えだったのだ。
そして、あの時。
突然彼女がこの世から消え去って、ゲンドウは現実を受け止められなかった。
待ってくれ! まだ話したいことが沢山あるんだ。したいことも見せたいものも、まだまだ沢山。
なあ、ユイ。答えてくれ。目を開けてくれ、笑ってくれ。
これから一緒に年を取っていくんだろう? そう言っていたじゃないか!
シンジやレイが大人になって、俺達は一緒にしわくちゃのじじばばになって。
なあ、ユイ、まだだ! 君とまだ一緒にいたいんだ!
だが呼びかけも叫びも、もはや彼女には遠く届かなかった。
彼女の虚ろな死に顔に、彼の言葉は跳ね返って霧散した。
車に撥ねられほぼ即死だった彼女が搬送された病院から自宅へ戻ると、
学校に連絡があったのだろう、シンジが青褪めた顔でレイを抱いて待っていた。
一言だけ、ようやく絞り出した言葉で母親の死を息子に伝え、
言葉も何も失って震えながらぼろぼろと涙を流すその小さな体を強く抱き締めて
ゲンドウも身を震わせながら啜り泣いた。
息子の前で泣いたのは、後にも先にもその時だけだった。
それからの日々は、眠っている体を無理矢理動かしているようなものだった。
まるで現実感というものがないのだ。
にもかかわらず、現実は常に彼を追い立てた。
遺された息子と娘を守る為に、妻が欠けてしまった、この自分達の家族を守る為に、
ゲンドウは必死に現実と戦っていた。
約一月後、彼はユイの遺した梅酒を見つけ、味わい、そして静かに泣いた。涙が溢れて止まらなかった。
彼女はもういないんだ。
ようやくそれに気付いた。


「ゲーンちゃん。何たそがれてんの?」


その声にはっとしてゲンドウが顔を上げると、ナオコが笑みを浮かべて顔を覗き込んでいた。
リツコがマコトの頭を抱え込んで頬を引っ張りながら、一方でその夫の髪に頬擦りをしていた。
マコトの方は大人しくされるがままになっているが、
下から見上げる娘の無垢な視線に何とも言えない表情をしている。


「リツコ、酔ったのか」

「はしゃいでるだけよ。じきに落ちつくわ」

「そうか。あんたのストリップ癖が移ってないといいけどな」

「やあね。覚えてたの」

「残念ながら。あんたの旦那は青褪めて止めに掛かってたよ」

「懐かしいわね」

「そうだな」

「・・・やっぱり人数、足りない?」

「・・・ああ・・・いや、どうかな」


口に付けた紙コップを勢いよく傾けて、中に残っていた梅酒を一気に飲み干した。


「旨いな」

「あの娘も梅が好きだったわね」

「そうだな。なのに桜みたいにあっという間に散ってしまった」

「・・・・・」

「こうしているとあいつのことを思い出す。
日常の何気ない一瞬にも、あいつの面影が浮かび上がってくる」

「そうね。・・・私もそうよ」

「一緒に見たかったな」


言ってしまってから、ゲンドウはこれほど素直に自分の感情を漏らしてしまったことに驚いていた。
横でナオコが微笑んでいる気配がした。
何故か気恥ずかしくて、彼は取り繕うようにして脇に置かれた瓶を掴み、
こう問いかけた。


「飲むか、梅酒」


可笑しさを多分に含んだ、優しい声が返ってきた。


「そう言い出すのを待ってたのよ。勿論、三人ともね」












今朝の世界は広かった





描:リンカ

第12話へつづく

碇家のアルバムより 写:碇ゲンドウ




 



リンカ様の連載第11話です。
ゲンドウとユイの話でした。

なるほど、この二人の間には赤木母娘の入る余地はありませんね。
桜の花舞うその下での花見。
碇家の3人と赤木家の4人。
そこに惣流家の…1,2,3…7人が加わる日はいつのことでしょうか?
まずは碇家か赤木家の人間と婚姻しないと。
となると…がんばれ、シンちゃん(笑)。

さて、そのシンちゃんとレイはお小遣いを貰っているのでしょうか。
出店となるとやはりたこ焼き(関西人ですから)。
そのたこ焼きの出店の前には中の人が関西人の金髪の娘がいたりして。

因みにタイトルの「雪月花時最憶君」は白楽天の詩です。
「雪月花の時最も君を憶ふ」と読むそうです(byリンカ様)。
花見の席のゲンドウにピッタリだと思いました。
本当にありがとうございます、リンカ様。
続きをお待ち申し上げます。
(文責:ジュン)

 作者のリンカ様に感想メールをどうぞ  メールはこちら

SSメニューへ