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円環なす波形のまにまにgoldfishは漠々たる夢を喰う


リンカ       2005.8.10(発表)

挿絵:リンカ











まいったなぁ、これ。
アスカは前歯で唇を噛んだ。
期待しなかったといえば嘘になるが、そもそも彼女の心の中はいつだって
密やかな期待に満ちているのだから、心構えなんてあってもなくても同じようなものなのだ。
それにしてもこの状況をどうしたらいいのかしら。
彼女は自分の前を歩く弟とその小さなガールフレンドのおぼつかない足取りを眺めながら
今の状況を定義付けようと躍起になっていた。
何しろ学校の帰り道を歩くのとは訳が違う。
これはやはり一種の変則型デートと言ってもいいのかしら。
何をもって変則というのか、それにはデートというものに対する一定の定義も必要なのだが、
この瞬間の彼女の思考はそこまで考えていた訳ではないし、
自分と相手の関係について冷徹な認識もしなければならない点に鋭く気が付いていたので
自己を不愉快に陥らせるであろうそれらの行為は慎重に避けた上で
単純に感覚的に“変則型”と名付けてみただけだったのだが、
それにしても隣を歩く少年のノホホンさはどうなのだろうと、
魅力あるレディとして一抹の危機感を感じながらも、右手中指にゴムで固定された風船ヨーヨーを
ぽんぽんと弾ませた。
能天気さではこれといい勝負ね。
片想いの少年に対する評価としてはなかなか酷いことを思い浮かべつつ、
アスカは真っ青な春の空に映えた桜色に燃える木々に目を移した。
想いの通じていない相手とするデートというのも、ある意味変則的と言えるだろう、
それがデートであるという前提に則った上で考えるならば。
アスカ自身の思考は、そこに行き着くことを拒否していたのだが。
だが、よく晴れた空の下、桜咲き乱れる公園でデートをするなど、今日という日を逃せば
一年は巡り合えない機会なのだ。
チャンスをみすみす逃してはいい女とは言えない。
そうよね、キョウタ兄?
現在の状況を作り出した一因である己の兄に、アスカは心の中で問いかけた。
想像の中の清々しい兄の顔は、素敵な笑みを浮かべて妹に頷いてみせた。
10分前までの想像の中の彼の顔は、ぼろ雑巾より少しましといったものだったのだが。





時は少しだけ遡る。
シンジはレイを伴って公園の端の方にある公衆トイレで用を足し、
それから気前のいい大人達のおかげで少しだけ分厚くなった財布を再びスリムにする為に
公園内の出店が軒を並べる場所へやって来ていた。
シンジ達がいるこの公園は大きな正方形の形をしていて、出店が並んでいるのは
その正方形の四辺に接するように内側にぐるりと円を描く散歩道の部分だ。
つまり、その散歩道の描く円の内側に桜の木々が植えられている訳だ。


「何が欲しい、レイ? 何でも言ってごらん」

「あいしゅ」

「アイスかぁ。うーん・・・・・・」


きょろきょろと、シンジはアイスクリームを売っている出店がないか、辺りを見廻した。
少しだけ首を伸ばし、道の先の方を見渡そうと目を眇めると、
ソフトクリームと書かれたのぼりが目に留まった。


「あ、レイ、あったよ。ソフトクリームでいい?」

「しょふと・・・くいむー」

「そうそう。ソフトクリーム。ふわふわして甘いんだよ」

「ふわっふわ〜む〜♪」

「よし、行こっか」

「あーい!」


元気よく返事をした妹としっかりと手を繋ぎ、
シンジはソフトクリームの出店へ向かって歩き始めた。
気前のいい大人達から貰った小遣いは4千円ある。
シンジとレイの二人だけなら何でも買えると言っていい。
4千円の内訳は、ゲンドウから2千円、マコトとリツコ夫婦から千円、ナオコから千円。
お年玉じゃあるまいし、何も律儀に全員が出さなくっても、と思ったものの、
ありがたいことには変わりはないので、丁重に押し頂いた。
何しろ子どもにとってこうした臨時収入は大事なのだ。
天使のようなとっておきの笑顔まで大盤振る舞いして、
多少酒に酔った大人達はすこぶる御機嫌のようだった。
無論、シンジはそれが狙って出来るほど計算高くはないので、半ばは自然な反応だったのだが。
目的の出店まで来て普通のソフトクリームと、チョコレートソフトを注文する。
そしてそれを受け取ったシンジがレイの方を向くと、彼女はわくわくとした表情で
両手を兄の方へ―正確には魅力的なソフトクリームの方へ―伸び上がるようにして差し出していた。


「はいはい。落としちゃ駄目だよ。ちゃんと両手で持って。いいかい、レイ」

「あいあい、あーい! にいちゃぁ、くいーむー!」


慌て過ぎて落とさなきゃいいけど、と心配しながら、シンジは彼女にソフトクリームを手渡した。
無論、落とした後でレイが泣き叫ぶのが心配なのだ。しかも彼女は物を落とす達人だ。
だがもはや目の前の白いふわふわを食べることしか頭にないレイは、
そんな兄の心配など何処吹く風と、しっかりと小さな両手でコーンを掴み、
意気揚揚、ぱくりとかぶりついた。
上から見おろすシンジには、レイがソフトクリームに向かってお辞儀をしたように見えた
―むしろソフトクリームに顔を突っ込んだと言った方がいいかも知れない―が、
ぱっと顔を上げた彼女は、ソフトクリームの残骸と一緒に満面の笑みを浮かべて
うひひ、と声を上げた。
どうやら相当気にいったようだ。ばくばくと息つく暇もなく、白い渦巻きを攻略していく。
ただ、やはり上から見おろすシンジにとっては、
妹が白いクリームを顔中に塗りたくっているようにしか見えなかった。


「何だかなぁ・・・、野蛮人。・・・・・・あ、これ、美味し」


ぺろりとチョコレート色のソフトクリームを舐め取ったシンジは、
舌先からじんわりと広がったチョコレート色の甘みに顔を綻ばせた。
こういう時、ちまちまと舐めるところがこの少年らしかった。
これが親友の鈴原トウジなら、一口で豪快に半分方食べようと試みるだろう。


「トウジ達、今日何してるのかな」

「う?」


レイが兄の呟きを聞きつけたのか、不思議という言葉をこれ以上なく体現した表情で見上げてきた。
芸術的に装飾された彼女のぷくぷくの顔は、この上なく可愛らしかったが、少し愚かにも見えた。
少なくとも、シンジの美意識センサは、速やかに現状回復が必要と認識した。
彼は妹の正面にしゃがみ込んで、ソフトクリームを持ってない方の手で
器用にポケットティッシュを取り出した。
彼はレイの為だけに、ハンカチの他にティッシュをいつも持ち歩いている。
何故なら、彼の妹はいつ鼻水を垂らすか分からない生物だったからだ。
彼は内心密かに、彼女の鼻は、鼻(仮)と呼ぶべきじゃないかと思っていた。
一度ケンスケがレイの頬を突ついた途端だらりと鼻水が出てきて、彼を飛び上がらせたことがある。
ケンスケはあれでシンジ達3人の中で一番肝が座っているのにも関わらず。
それはともかく、シンジはレイの口の周りをごしごしと拭いてやりながら、
くすぐったそうにしつつ御機嫌に笑っている彼女に問いかけた。


「ソフトクリーム、美味しい、レイ?」

「・・・・・・ホゥ」


深くて甘い、ミルク色の悩ましげな溜息がその答えだった。






「いい天気だなぁ・・・。何で俺はここで歩いてんのかなぁ・・・」


惣流キョウタは、真っ青な抜けるような空を見上げながらぽつりと呟いた。


「パパの命令だからよ」

「ママの言いつけだからだよ」


彼のすぐ近くで二つの声がその自問の言葉に答えた。
キョウタはそちらの方をぼんやりと見やった。
真ん中の妹と4番目の弟が手を繋いで彼の隣を歩いている。


「桜、綺麗だな」

「ねえ、早く頼まれたもの買って戻ろうよ」

「ええ、僕、もっと出店見たい」


言いながら、キョウタの妹と弟は、彼の方へ揃って手を伸ばした。
それに応えてキョウタが手に持っていたたこ焼きのパックを彼らへ差し出すと、
二人は無言でほかほかと湯気を上げるたこ焼きを一つずつ取り、ぱくりとそれを咥える。


「大体さ、オレは花見について来たいなんて一言も・・・・・・」

「予定、なかったんでしょ? だったらいいじゃん、別に」

「は、はふっ、はふっ・・・」

「飲み込んでから喋りな、カー坊」

「ひゃい・・・」

「オレが気に入らないのはさ、マリーが酒飲ませて貰ってんのに、オレは駄目だってところなんだよ。
これってどういうことだと思う。なあ、えこ贔屓だよな?」

「違うわよ、このバカ兄。マリア姉の方が大人だからよ」

「そうだよ。マリア姉ちゃんはオトナなんだよ。僕と戦隊ごっこしてくれないもん」

「ほぉん? じゃあ、今度から、カー坊、相手してやらないぞ」

「ええっ! だ、駄目だよう・・・・・・」

「ちょっとぉ、お兄ちゃん? 止めてくれる、こんなところで」

「冗談だ、カー坊、冗談。そんな目で睨むなよ、アスカ。可愛い顔が台無し」

「キョウタ兄に可愛いとか言われても嬉しくないわ」

「・・・・・・キョウタ兄ちゃん、肩車」

「ええ? 仕方ないなぁ・・・・・・」


キョウタはたこ焼きを一つ、ひょいと口の中に入れ、それからパックをアスカに手渡した。
そしてカヲルの両脇の下に手をやって抱え上げ、肩の上に乗せてやる。
カヲルは、雲の上のように高い視点から人並みを見渡して、
兄の言葉に傷ついて曇った表情を日が差し込んだように一転して輝かせて、楽しそうな歓声を上げた。


「頭、掴んでろよ。あ、アスカ、残り、食っていいぞ」

「1個しかないじゃない。言われなくたって貰うわよ」


何かオレって兄として尊敬はされてないなぁ、とそこはかとなく感じながら、
キョウタは肩から突き出されている弟の細い足を手で掴んだ。
カヲルは目に付いたものの名を片端から呼びながら、出鱈目な歌を口ずさんでいる。
もうじき16歳になる少年として、少しだけ―いや、かなり―周囲の視線が気になって
恥ずかしかったのだが、ひとまず運命を呪うことにして
キョウタは己の身の境遇を甘んじて受け入れることにした。


「オレってさぁ、空飛ぶ夢を見たこと、あるんだよ」

「ふーん、それがどうかした? あ、いい匂い」

「カー坊ってさ、今、空を飛んでんのかな」

「・・・・・・どうしたの、キョウタ兄。そういうお年頃?」

「空飛ぶ夢は赤ん坊の頃の記憶なんだって。知ってるか、アスカ」

「ねえ、お兄ちゃん。アタシ、あれ、欲しい」

「・・・・・・さ、焼きそばとたこ焼き2パックずつとリンゴ飴とべっこう飴といか焼き3本、買って戻るぞ」

「ねえってば〜。お願い、ね、ね?」

「自分で買いなさい」

「アタシ、お財布持ってないもん」

「今度にしなさい」

「今日しか売ってないもん」

「諦めなさい」

「あ、ほら、きっとさ、低い視点から見上げるイメージが空を飛ぶという言語のカクトクを・・・」

「もっと整理して喋れ。ていうか、今更遅いぞ。さっきは無視した癖に」

「けちんぼ!」

「恋人に買って貰え」

「あ・・・・・・、それ、最低・・・・・・」


兄の服の裾を引っ張っていた手を放し、アスカはしゅんと項垂れた。
キョウタとしても、言ってしまってから失言だったと思ったのだが、
既に口から放たれてしまった言葉は取り消しようもない。
遡ってなかったことにすることは出来ない。
だから、大袈裟な溜息を吐き出しながら、妹の手を取り、
先ほどまで彼女がつま先で小刻みに身体を揺すりながら指差していた出店へ向かって歩き出そうとした。
自分って立場弱いなぁ、と思いながら。
と、その時、キョウタの頭の上でカヲルが突然甲高い声を上げた。


「あー! あー! あれ、あれ、アスカ姉ちゃん!」

「どうした、暴れんなよ、カー坊。キャベツが転がってきたのか?」

「レイちゃん、見っけ!」

「えっ!!」


俯いていたアスカがぱっと顔を上げて、きょろきょろと周りを見まわしてから、
ジョークを無視されて面白くなさそうな顔をした兄の肩に乗って騒いでいる弟を見上げた。


「どこ? ホント? 一人?」


勿論、レイが一人でこんなところにいる訳がない。
アスカはカヲルが指差している方向に振り向いて、つま先立って背伸びをしたり、
ぴょんぴょんと飛び跳ねたりしながら、自分も弟が見ているものを見つけようとした。


「ああん、どこよう・・・」

「お兄さまと一緒!」

「ああ、ええっ、嘘ぉ! どどど、どうしよう」

「何、ピンクの子豚みたいな声出してんのさ。ねえ、行って、キョウタ兄ちゃん」


巻き毛ぎみの髪に覆われた兄の頭をぺしぺしと叩きながら、カヲルが催促する。


「おいおい、お前なぁ・・・・・・」

「もう、のろまだなぁ。じゃあ、降ろして!」

「こいつ・・・、一遍しばいたろうか・・・・・・」


食い縛った歯の隙間から物騒な呟きを漏らしながら、ゆっくりとキョウタはしゃがみ込んで
弟を地面に降ろした。
すると、再び自分の足で地面を踏んだ彼は、一目散に目的の人物目掛けて駆けていく。
するすると人込みの中を掻い潜って視界から消えてしまった弟の後から、
慌ててアスカも、「待ちなさい!」 と既に聞こえないであろう声を掛けながら追いかけていった。


「あー・・・・・・、オレを置いていくなよ、なあ、子豚ちゃん」





碇レイは機嫌が悪かった。
ソフトクリームを食べ終わった頃には、最高の気分だったのだ。
だがその後、食べ物ではなくゲーム性を有する出店を数軒、経験したところ、
それが酷く彼女のお気に召さなかった。
具体的に言えば、彼女はゲームの結果として獲得した景品が不満だったのだ。
プラスチックの何だかちんちくりんのキーホルダより、
クマの人形がついた大振りのキーホルダの方がよかったし、
ゴム製の何だかぐねぐねと骨のない骸骨の人形より、
ウサギのふかふかしたぬいぐるみの方が遥かに魅力的だった。
が、現実は彼女の夢を容易く破った。
実のところ、これらのゲームを経験する人間のほとんどが彼女と同じ境遇を囲うと知れば、
彼女はその現実の理不尽さに呆然とするだろう。息をすることすら忘れるかも知れない。
そして今、兄が買ってくれたチョコレートのおかげで少しだけ機嫌が上向きになった彼女は、
ヨーヨーすくいという名のギャンブルに挑戦していた。


「レイ、そーっと、やるんだよ。あんまり水に浸けちゃ駄目・・・・・・」

「まあまあ、お兄ちゃん。見守ってやんなって」

「あう」


それにしても釣り金具の頼もしさに比べて釣り紙の情けなさはどうだろう。
あっという間に、それは破れてしまった。
レイの年齢を鑑みれば、ほんの一瞬ゴムの輪に針を引っ掻けることが出来ただけでも
上出来と言うべき―あるいは偶然と―だろうが、そんなことで彼女が満足するはずもなく、
限界位置までまなじりを下げた顔で兄を見上げた。つまり、泣きそうな顔で。


「あー、残念だったなぁ。どうする? 今度はお兄ちゃんがやってみるかい?」


ヨーヨーすくいの出店の主人が仕方なさそうな顔をしてシンジに話しかけた。
きっと、この兄妹が立ち去る時には、自分はひとつずつ彼らに風船ヨーヨーをあげているのだろうと
考えたのだ。いつものことと言えばいつものことだが。
と、その時突然、シンジ達がしゃがんでいた背後の方から突進してきた小さな影が、大きな声を上げた。


「僕がやるー!」


驚いてシンジとレイがそちらに振り返ると、息を切らせた小さな少年が立っており、
更にその背後の人並みの中から真っ赤な髪の少女が転がるように出てきた。


「ハァ、ハァ・・・・・・、コホン。アタシもやるわ、おじさん」


一体何事だろうとシンジは、その見知った顔に目を丸くした。
狩り出されたイノシシじゃあるまいし。変なの。


「何でい、何でい。わざわざ走ってくるほどヨーヨーすくいがやりたかったのかい」

「別におじさんの為に走ってたんじゃないわ。それより道具貸して」

「そうだよ。僕達、ヨーヨーすくいが目的じゃないんだよ、ホントは。ナイショだけどさ」


弟の言葉にアスカはぐるりと目を回転させた。やれやれ、というサインだ。
そしてようやく、彼女はシンジ達の方へ顔を向けた。たった今気付いたとばかりに。


「あら、碇、偶然ね。アンタもお花見?」


シンジの隣にしゃがみ込んで、あくまでさりげなく、彼女は言った。
上出来だ、と思った。
少なくとも彼の目の前に出てくるなり固まって、「コンニチハ」 だとか口走らなかった。
しかも、ごく自然に、肩が触れるくらい接近して腰を下ろすことが出来た。
誰が何と言おうと、これは上出来なのだ。
それにしても、アタシ、偶然っていう言葉、よく使うわね。
そこのところは今後の課題だろうか。彼女は頭の中にそれを書き込んだ。


「う、うん。そうなんだ。あ、こら、レイ。手で掴んじゃ駄目!」


水槽に身を乗り出して手でヨーヨーを掴むという反則技を行おうとしたレイの腕をぱっと取って、
シンジは困ったような、照れたような顔をアスカに向けた。
その圧倒的な破壊力に彼女も思わず笑みを返しそうになった―更に言えば、
少し首を伸ばせばキスが出来る、と馬鹿なことを考えた―が、どうにか踏みとどまって、
水槽越しで呆れ顔を浮かべている主人に顔を向けた。


「おじさん、二人分ね」

「あ、ああ・・・。それはいいけど、お嬢ちゃん達、お金は?」

「アタシ、持ってないわ」

「はぁ?」

「心配しないで。もうすぐ来るから」


ちらりと後ろを振り向いたアスカにつられて、シンジ達が彼女の背後の人込みを見ると、
そこから背の高い栗色の巻き毛の少年がにゅうと現れた。
シンジとレイ、出店の主人、それから先ほどから彼らを遠巻きに見守っていた人々の視線が
その少年に集まった。


「そこの兄ちゃん、つう訳でよ、一人二百円なんだけど払ってくれるかい」

「あー・・・・・・、実はオレもそうなるんじゃないかと思ってたんだ」


キョウタは大人しく、出店の主人に四百円を支払った――自腹で。






「なるほどねぇ。君がシンジ君か。なるほどねぇ・・・・・・」


キョウタはじろじろとシンジを眺め廻しながら、同じ言葉を何度も繰り返した。
あまり注目されることに慣れていないシンジは居心地が悪い思いをしながら、
この初めて出会ったアスカとカヲルの兄に上目遣いで問いかけた。


「なるほどって、何ですか」

「納得の言葉」

「はぁ・・・・・・」


どうも噛み合わない。
シンジは一体どうしたらいいんだろうと、思い悩みながら
人込みを眺めたり、指で頬を掻いたりしてみた。


「ふむふむ。・・・・・・フッフッフ」

「あの・・・」

「にいちゃあ! ぽんぽん! ぽんぽん!」


不気味な笑いを零したキョウタとそれにうろたえるシンジが向かい合っていると、
彼らの足元でレイが御機嫌な声を張り上げた。
見ると、手に持った風船ヨーヨーをむちゃくちゃに振り回している。
下降していたはずの彼女の機嫌は、アスカとカヲルと、それからよく知らないのっぽの登場と
風船ヨーヨーを出店の主人からプレゼントしてもらったことで急上昇したらしい。
そんな暢気な妹の姿を見て、シンジは溜息を吐いた。


「まあまあ、シンジ君。そう疲れた顔をするなよ。
じろじろ見たのは悪かった。妹がいつも言ってた男の子がどんな子か、気になったんだ」

「はぁ、惣流さんが?」

「あ、いや、弟や妹が、な」


シンジの肩をぽんぽんと叩きながら、キョウタは口元を斜めにした。
妹の秘密―それはいつか明るみになることを期待された秘密だが―を、
兄の自分が口にしてしまうのはまずいだろうと思ったのだ。


「惣流さんのお兄さん、あの・・・・・・」

「キョウタでいいよ」


と、見上げてきたシンジににやりと笑いかけて、キョウタは彼の肩に腕を置いた。
身長差がかなりあるので、シンジにとっては抱え込まれるような形になってしまう。
シンジはそれに戸惑いながら、改めて声を掛けた。


「あの、キョウタさん。惣流さん達と三人でお花見に来たんですか?」

「いんや、家族全員。強制参加。オレ達三人は今お使い組」

「えっと、僕達、お使いの邪魔、しちゃいました?」


気遣わしげにシンジが言って、妹の方を見た。
カヲルと一緒になって風船ヨーヨーを振り回して遊んでいる。
本当ならシンジはヨーヨーすくいが終わった時点で彼らと別れるつもりだったのだが、
レイがカヲルと遊ぶことに熱中して彼から離れなくなってしまったので、
こうしてシンジも大人しくそれを見守っていたのだ。
しかし彼は折角の家族の時間を邪魔しているだろうかと考えたのだ。
彼にとって何より大事なのは家族と過ごす時なので、自然とそのような思考になってしまう。
キョウタは彼の言葉を聞いて、一瞬目を丸くし、そしてふっと笑った。
この日初めてシンジと会ったキョウタが彼の考えを読めるはずもなかったが、
肩に廻していた腕を上げて彼の頭をくしゃくしゃと掻き混ぜた。


「あ、ちょ、ちょっと・・・」

「気にすんな、気にすんな。少なくともアイツはそんなこと、まるで考えちゃいない」


と、自分の弟を指差すキョウタ。
その指差した先では、カヲルがレイに向かって得意げに風船ヨーヨーの技術を伝授しようとしていた。
カヲルは一応手のひらでヨーヨーを弾ませることが出来ているが、レイにはそれが出来ないらしく、
腕ごとぶんぶんばたばたと振り回して、ついでに足も屈伸させて踊っていた。
それに合わせてびよんびよんと夢見るマーブル模様の風船が彼女と一緒に舞い踊る。
必死に、そして嬉しそうにガールフレンドの小さな手を取って遊びを教えようとしているカヲルの姿と、
そんな彼の好意も何のその、ひたすら我が道を行く妹の姿にシンジは笑った。


「ま、あれだな。ところてんみたいなもんだ」

「ところてん?」


キョウタの言葉の意味が分からず、シンジは物問いたげな表情で彼をじっと見上げた。
そして少年のその反応を見て、謎の言葉を発したキョウタは口元を上げた。


「え? え、えっと、ところてん?」


堪え切れず、くつくつとキョウタは肩を揺らした。
腕を置かれている肩から伝わった振動でシンジも一緒に身体を揺らしながら、
ようやくからかわれたことに気付いた。
彼の言葉にそもそも意味なんてなかったのだ。
会心の手応えに、キョウタは痛く満足していた。
シンジの方も可笑しくなってきて、キョウタと二人、にやにやと表情を崩した。


「・・・・・・何笑ってるの、二人とも」


訝しげな少女の声がした。
シンジとキョウタがその声の方に顔を向けると、五本のジュースを抱えたアスカが
眉を顰めて立っていた。
彼女はキョウタに面倒を掛けた罰として、一人でジュースを買いに行かされていたのだ。


「よう、妹よ。御苦労だったな」


普段よりずっと低い彼女の声を察して、わざとキョウタは鷹揚に片手を上げて声を掛けた。
さすがは兄弟といったところで、キョウタは正確に妹の心理を見抜いていた。
彼女はまさしく不愉快だったのだ。
何が不愉快かというと、兄とシンジが二人仲良くにやけていることが、だ。
大体あの腕は何よ!
アタシが必死になって乗り越えようとしている壁を簡単に跨ぐんじゃないわよ。
男同士なんて卑怯だ。一瞬で友達になって。


「オレが言ったヤツ、買ってきたか?」


ホントふざけてるわ。キョウタ兄なんて最悪。


「惣流さん、ありがとう。ごめんね」


ううん、全然気にしてないよ、どういたしまして。


「よしよし、丸く収まったな」


何と己の妹の分かり易いことか。
ここで遠慮なく大笑いできないことが口惜しい、とキョウタは心の中で思った。
唇を噛んで片目を細くした兄の表情に気付いて、
アスカは真っ赤になってジュースのペットボトルを投げつけた。





ペットボトルのジュースを持って、五人はぞろぞろと散歩道を歩き始めた。
麗らかな春の陽気に気分も軽くなって、楽しげに笑いさざめきながら
出店が軒を並べる様子と集まった人々の姿に目を楽しませる。
シンジとキョウタもすっかり打ち解け、アスカの機嫌も兄の存在を意識しなければ上々だった。
カヲルとレイは言うまでもない。
と、そんな平和な一時に水を差す電子音が聞こえてきた。
キョウタのジーンズの尻ポケットからだ。
彼は、母親からかな、と思いながら携帯電話を取り出した。


「お? あれ、嘘。・・・・・・もしもし、ああ・・・・・・、うん。
うん、今、中央公園に・・・え? マジで? あ、ちょっと待った、それじゃさ・・・・・・、ああ。
ああ、いいよ、そうしよう。・・・勿論。うん、じゃ、後で」


電話を切って、立ち止まってキョウタは長い息を吐いた。
顔を上げると、怪訝そうな顔をして自分を見ている妹と少年の姿があった。
彼は素早く頭の中で言葉を考える。


「いやはや」

「何が、いやはや、なのよ」

「シンジ君」

「あ、はい?」

「急用が出来た。うちの可愛い妹と弟のこと、頼む」

「へ?」

「まさか・・・お兄ちゃん・・・・・・」

「アスカ、オレは行かないといけない。頼まれた物はオレが買って持って行っといてやるから、
お前とカヲルはまだしばらく出店を見て廻っていいぞ」


言いながら、キョウタはごそごそと財布を取り出し、アスカに札を一枚渡した。


「彼女ね、彼女さんのところに行くつもりね?」

「これで旨いモンでも食いな。シンジ君、こんな妹だけど、末永くよろしくな」

「は、はあ・・・」

「え! ちょ、何言い出すのよ!」

「ちなみにコイツは結構食うんだ。適当に食べ物与えときゃ機嫌いいから。忘れるなよ」

「な、いい加減なこと言ってんじゃないわよ、バカ!」

「じゃあな! アスカ、オレに感謝しろよ! シンジ君、確かに頼んだぞ!」


そう言い残して、パッと手を上げると、キョウタは反対方向に走っていった。


「ちょっ、待ちなさいよー!」

「えっと・・・・・・」


既に遠ざかって小さくなりつつあるキョウタが振り向いて、腕を上げた。
親指を立ててみせているらしい。


「も〜! バカ〜!」

「どうしよう・・・・・・」


アスカは拳を握り込んで地団太を踏みながら勝手な兄に向かって叫んだ。


「あれ、キョウタ兄ちゃんは?」

「かけっこなの。びゅーん」






その後、機嫌の悪いアスカに遠慮してシンジが一緒に歩いて廻るのをやめようかと
提案したところ、彼女は目を剥いて駄目だと叫び、
それから、シンジが自分の兄から自分と弟の護衛を仰せつかったこと、
それは非常に重要な役割だということ、
約束を破るなど男のすることではないということ、
今日はとても天気がいいということ、
しかしシンジが去ってしまえば、その行為は今日の陽気にも関わらず自分を陰気に陥れるということ、
すなわちそういう興醒めなことをされては桜が台無しだということ、
そして食べ歩きをするには一定の人数が必要だということ、
従って以上の理由からシンジには自分と共に過ごす義務があるということを
一つずつ指を折って数えながら大仰に述べ立てた後、
彼女は少しだけ控えめに、「一緒に楽しみましょ」 とシンジに向かって微笑みかけた。
果たしてアスカのどの主張が少年の気持ちを動かしたのかは、
彼女自身には分からなかったが、とにかくその慎ましい努力の結果として
立ち去ろうとする彼を翻意させることには成功した。
そうして、彼女は自力で釣り上げて獲得した風船ヨーヨーを手で弾ませながら、
麗らかに桜舞い散る散歩道を恋しい少年とちょこんと並んで歩く時間を獲得したのだ。


「次は何を見ようかしらねぇ」

「スーパーボールは、アスカ姉ちゃん?」

「あれは駄目。前にアンタ、家の中であれ投げて遊んで、紅茶のカップ、割ったでしょ。
うちはスーパーボール禁止よ。危ないから」

「へぇ・・・、うちも気をつけよ。レイなんて大暴れなんだから」


アスカとカヲルの会話を聞いて、シンジは目の前を歩く妹の後姿を見ながら呟いた。
彼女は相変わらず風船ヨーヨーを振り回しながらスキップしていた。
喉から漏れる呼吸音と、口ずさんでいる意味のない―あるいは彼女以外は
その意味を忘れてしまった―独り言とで二重奏を奏でながら、楽しげに、軽やかに。


「そんなこと言って、碇。アンタもちっちゃい頃は大暴れだったんじゃないの?」


悪戯っぽくアスカが言った。


「そんなことしちゃ駄目でしょ、シンジ! とかさ」


にっと口元を上げて、彼女はシンジに顔を向けた。
そして、ぎくりとした。
一瞬、彼が泣いているのかと思った。
それくらい、哀しいほどに透き通った微笑みを少年は浮かべていた。


「あの・・・・・・、シン・・・、碇。ごめんなさい」

「ううん」

「あのね、アタシ、すぐ口が滑っちゃうの。だから、いつもすぐケンカ。その、アタシ・・・」

「ううん。そうじゃなくってさ」


首を振りながら、シンジはアスカの弱弱しい自嘲の言葉を遮った。


「そうじゃなくってさ、何か、母さんのこと、思い出した。あんな感じだった」

「うん・・・・・・」

「女の子・・・」

「え?」

「ううん。何でもない」


ゆるゆると首を振って、シンジは言いかけた言葉を静かに飲み込んだ。
アスカは俯いて一歩一歩踏み出される自分の足元を見つめる。
そっと、その隣の少女をシンジは窺った。
――女の子って不思議だね。
何という馬鹿げた台詞!
一瞬だけ、隣を歩く少女が母親になる未来の姿を垣間見た気がした。
それこそ馬鹿馬鹿しい妄想というものだ。
目の前を過ぎった桜の花弁が白昼夢を見せたのだ。
膝を抱えて孤独に震える子どもが一人、彼の心の中で浮かび上がって掻き消された。
弱弱しい自分の幼さが忌々しかった。
彼は、そう思い込んだ。


「あー! 金魚すくい、見っけ! あれ、しようよ」


シンジ達の前を歩いていたカヲルが突然、前方を指差しながら大きな声を上げた。
そしてぐるんと身体を回転させて、姉とシンジを見上げて笑った。
その笑顔に抗うことは誰であれ不可能だ。そう思わせる表情だった。
見上げた二人の顔が綻ぶのを確認したカヲルは、
再びぐるんと回転して、隣でその華麗な動きに感心していたレイのぽちゃぽちゃした手を掴み取った。


「行くよ、レイちゃん」

「あーい!」

「あっちへゴー!」


そうして一目散に駆けていく幼い二人を見て、
シンジとアスカは顔を見合わせた。そして噴き出す。


「アタシ達も行く?」

「そうだね」

「じゃ、金魚すくい、どっちが勝つか勝負よ」

「僕とレイ、惣流さんとカヲル君?」

「ええ、そう。・・・・・・でも、年上チーム対年下チームでもいいわよ?」


笑いを噛み殺すように首を竦めて、
それからアスカはシンジの腕に自分の白い腕を素早く絡めて、駆け出した。


「ホラッ、行くわよ!」


引っ張られていたシンジもやがて彼女と並んで走り出す。
真横に感じた少年の体温にアスカは、目を細めて息を吸い込んだ。


「ゴーゴー!」






有り体に言って、それは勝負とは成り得なかった。
どういうことかというと、シンジは覚束ない手許のレイにすぐ手を貸そうとするし、
アスカは不器用なシンジの手を取って、こうやるのよ、と少し大胆に二人の共同作業を始めるし、
カヲルはアスカが掬い上げようとする金魚をいつも追い立てて、姉に向かって舌を突き出して見せるし、
レイは忍び寄り掬い取るという極意が理解できず、じゃばじゃばと大波を立てて皆の邪魔をしたからだ。
結局、戦果としては、シンジが一匹、カヲルが一匹。
碇兄妹対惣流姉弟という図式としても、年上カップル対年下カップルという図式としても、
引き分けであるという、何とも締まらない幕切れとなった。
そして金魚を掬うことが出来なかったアスカとレイは一匹ずつ、出店の主人から金魚を貰い、
シンジの手とアスカの手には、同じように二匹の金魚がゆらゆらと泳ぐ水の詰まった袋が提げられた。
カヲルとレイが手を繋ぎ、並んで前を歩き、
シンジとアスカはその後ろからゆっくりと歩みを進めた。
彼らが出会ったヨーヨーすくいの出店から、すでに散歩道の円周の半分程進んできていた。
前を歩く幼い妹達に気を配りながら、シンジはアスカに向かって語りかけた。
お互いに公園の中で家族が待っている。
あまり長い時間遊んでいる訳にもいかないし、後は立ち並ぶ出店を冷やかしながら歩いて行って、
初めに出会った場所からそれぞれの家族のところに戻ろう、と。
アスカとしても反論は出来なかった。
可能ならば、ずっとこのまま、日が暮れるまででも一緒に歩いていたかったが、
それはやはり出来ない。
彼女はシンジが戻りたがっているのを感じた。
それが何故なのか、疲れているだろう妹の為なのか、それとも純粋に彼自身の為なのか、
アスカには分からなかった。
自分と一緒にいて楽しくなかっただなんて言わせない。
きっと、純粋に彼は楽しんだはずだ。
それでもやはり、ふと気が緩んだ拍子に家族が恋しくなるのだろうか。
それが子どもというものなのだろうか。
父親と母親の顔を思い起こして、彼女は早く彼らに会いたいという強烈な衝動に襲われた。
子どもだけの無邪気で楽しい時間の中ですっぽりと抜け落ちたエアポケットのようだ。
両親の顔に次いで、姉の顔、それから兄の顔が浮かんできた。
そう、兄の顔だ。
どうして兄は、それなのに嬉々として家族の元から飛び出して恋人の胸を求めるのだろう。
もう彼は子どもではないのだろうか。ならば姉は?
ひょっとしたら、両親は恋人の存在に心を奪われている息子を見て、
いつも喪失感を覚えているのかも知れない。
そんなことを考えながらぼんやりと歩いていると、人込みで擦れ違った誰かの肩にぶつかって
身体がよろけ、隣を歩くシンジに抱きすくめられるように支えられた。
彼が何かを言っている。
だがそれは、雑踏のざわめきに掻き消されて聞き取ることが出来なかった。
両足で身体を支え直し、彼女はしっかりと立ってシンジに礼を言ってから、
ゆっくりと目蓋を閉じ、そして開いた。
自分はこの少年の温もりと家族の温もりと、どちらを欲しがっているのだろう。
唇を噛んだ。
答えは彼女の奥から聞こえてこない。
けれど今は、帰ろう。
それだけ決めると、足は自然にまた踏み出した。
少女のそのか細い足のすぐ脇で、金魚が閉じた世界の中を無限に飛翔した。






それは決して気紛れではなかった。
シンジにとってはとても素敵な思い付きに思えたし、
実際に他に代わりとなるようなことも考えつかなかった。
アスカの様子がおかしくなったことには気付いていた。
初めは疲れてしまったのか、それとも人込みで気分が悪くなったのかも知れないと
考えたのだが、一緒に歩いている内にどうも違うらしいと思い至った。
シンジは隣を歩く少女をそっと横目で窺った。
彼女は綿菓子を舐めていた。カヲルと二人一つで買ったものだ。
食べ物を与えておけば機嫌がいい。
それは確かにそうかもしれなかったが、折角のこの時間の幕切れに
すっきりと気持ちよく別れられないのはあまり望ましいことではなかった。
シンジは彼なりに彼女達との時間を目一杯楽しんだし、
彼女達と一緒にいてよかったとさえ思っていた。
もう家族のところに戻らないといけないが、それが残念に感じられるほどだ。
出来ればもっと遊んでいたかったし、そしてこの先こんな機会が何度もあればいいとも考えるように
―もしそれをアスカが知れば、先ほどまでの彼女の悩みも吹き飛ばしてしまうだろう―なっていた。
彼女はシンジにとって風変わりで少し強引な女の子だったが、
なおかつ―あるいはだからこそ―シンジにとって心地いい、特別な友情を感じる存在となっていたのだ。
彼女のような存在は他にいない。
トウジやケンスケとも、他の友人達とも、それからクラスメートの女の子達とも違う、唯一の印象。
彼の世界、人間関係を構築する網の目の中に、確かにアスカの存在は繋がりを刻み込んでいた。
他に埋没されない、統合もされない個性的な位置。
それが以前シンジが学校の保健室で眠りに落ちようとしながら分からないと考えていた、
自分にとって彼女は何なのか、という問いに対する答えだった。
彼女は惣流アスカだ。彼女は彼女なのだ。それ以外説明がつかなかった。
少なくとも現時点では。
そしてそんな彼女が、別れの場所まで近づいてきた時、
あ、と声を上げて一瞬立ち止まってある場所を見つめた。
同じように彼女が気を取られたものを見たシンジは、とても素敵なことを思いついた。
彼は彼女に今日のこの時間の礼がしたかった。
何かを考え込んでしまっていた彼女のことを元気付けたかったし、
そう、きっと、彼は目の前の少女が笑うところを見たかったのだ。彼女を喜ばせたかった。
財布の中にはまだ父親達に貰った小遣いがかなり残っている。
そして自分にはその気があるし、彼女が視線の先のものに惹かれているのは間違いない。
状況はまるで問題ないのだ。
立ち止まっていたアスカがシンジを振り返った。
それが合図だった。


「ごめんごめん。さ、行きましょ」

「ううん。見てってもいいよ」

「え?」

「急いでる訳じゃないし。ほら」

「え、え? ちょっと?」


そのままシンジは目的の出店の前まですたすたと歩いて行ってしまう。
そしてお前は来ないのかとばかりに、さっと振り返ってみせた。
アスカはそれを見て、どうしよう、と思った。
彼女が気になっていたものは、どう考えたってシンジにとって面白いものではない。
それに自分はもうあまりお金を持っていないのだ。兄から貰った千円はほとんど使ってしまった。
見たところで仕方がない。
あの時、兄のキョウタが言ったように、諦めるしかないのだ。
そんなことを考えていたアスカの足元を、レイとカヲルが手を繋いで通り抜けていった。
そして彼らが通り抜けるその瞬間、アスカもぱっと手を取られた。
弟に引っ張られて、早足でシンジが待つ場所へ向かいながら、
どうせ欲しかったものは買えないのだけど、仕方ないから見るだけだ、と彼女は考えた。


「こういうのって、僕、よく分からないなぁ」

「そうでしょうね。分かったらアタシ、逆に嫌だわ」

「きらきら」

「あ、こら、レイ。触っちゃ駄目」


仕方ない、とは思ったものの、どうやらそれは強がりだったようだ。
そんなことを、自分の綻んだ顔を意識しながらアスカは考えた。
見るだけでも楽しめるものだし、この状況は理想的と言えなくもない。
彼女は自分の隣でやたらと感心しながら―何が何だか分からないから感心するしかないのだ―
きょろきょろと出店に並ぶ商品を眺め回している少年をちらりと見た。
ホント、悪くないわ。だからもう少し待っててね。
彼女は少年の気遣いに感謝した。


「ふぅん・・・・・・、女の子って皆こんなの好きなのかなぁ」

「レイちゃんも今に欲しがるようになるわよ。男の子がプラモとか欲しがるのと一緒」

「でも大人になったらプラモなんて欲しがらないよ。女の子とは違う」

「同じよ。実物が欲しくなるだけ」

「ふぅん・・・・・・いやはや、だね」

「プッ、それキョウタ兄の真似?」


アスカはシンジの言葉に噴き出す。


「そうだよ」

「よしてよ。大体、いやはや、なんて普通言わないわ。ホント、キョウタ兄はおかしいんだから」

「あの電話ってさ・・・・・・」

「キョウタ兄の彼女よ。まったく、浮かれてるの。彼女が出来てからずっと、浮かれ続けてるのよ」

「そうなの。大人だねぇ」

「さあ・・・・・・、どうかしらね」


肩を竦めて、少年から顔を逸らした。
自分がどんな表情をしているか、分からなかったがあまり見せたくはなかった。


「ねえ、惣流さん、どれか気に入ったのがあったの?」

「へ?」

「この中で」

「ああ、うん・・・・・・。アタシはね、これ、かなぁ。やっぱ」

「ふぅん」


それは、アスカにとってとても魅力的に映った。
どちらかといえば控えめな感じだったが、
そのラインは上品で少女染みた趣味の悪さは感じられなかったし
色合いも決して派手ではなく、輝くものでもなかったが、そこが悪くないと思った。
サイズも何気なく手に取って確かめてみたところ、ちょうどいい具合だった。
結局はそこで終わりなのだ。
しかし、それでも構わない。
アスカは一通り眺め回して、満足げな息を吐いた。


「さて、行こっか。全部見たし」

「買わないの?」

「お金、ないもの」

「そっか。じゃ、僕が買うね」

「ああ・・・・・・、ええっ!?」


目を剥いてアスカは叫んだ。


「ななな、何言ってんのよ!」

「これ下さい」

「ちょ、ちょっとぉ・・・・・・、駄目だったら・・・・・・」

「七百円だよ。いいのかい?」

「はい」

「やだ、嘘ぉ・・・・・・」

「ほい、三百円のお釣。まいどあり、彼氏くん。偉いぞ」


出店の女主人の不適当な呼び方が少し気になったが、シンジは品物を受け取って、
そしてうろたえ切っている少女の方を向いて、それを差し出した。


「はい、あげる」

「あの・・・・・・」

「今日のお礼」

「でも・・・・・・」


でも、と言いながらも、アスカは素直に小さな袋を受け取ってしまった。
お礼って一体何のことだろう。
掴んだ指先に、硬い感触が感じられた。
兄に強請って買って貰えなかった時に、すでに諦めていたのだ。
だがそれを、兄ではなくシンジによって自分は手に入れてしまった。
恋人に買って貰え、という兄の言葉を思い出した。
現実なんて、何てあっけない。
息をすることを思い出した頃には、すでにカヲルと二人、家族の待つ元へと向かっていた。






カヲルは心ここにあらずといった様子で歩いている姉を見上げて首を傾げた。
プレゼントを貰ったのがそんなにショックだったのだろうか。
それとも本当は別のものが欲しかったのか?
足取りは確かだが、それでも何だか危なっかしいし、
そもそも普通、プレゼントを貰ったらもっと喜ぶものなのではないのか。
心配になって彼は声を掛けてみることにした。


「ねえ、アスカ姉ちゃん」

「・・・・・・何よ」

「どうしたの。それ、開けてみないの?」

「それ・・・・・・?」

「せっかく貰ったのに。何か機嫌、悪くない?」

「そんなんじゃないわよ。そんなんじゃない・・・」


そう言いながら、アスカはカヲルと繋いでいた手を離して、
もう一方の、手首に金魚の袋をぶら下げている手に持っていた小さな包みを開いた。
中から、ころりと小さな指輪が彼女の手のひらに転がり出てきた。
所詮イミテーションで、子どもの玩具といえばそれまでだ。
値段も安い。あの出店の中でも安い部類に入る指輪だったのだ。
細身の金属の指輪で、蔓草のような模様が掘り込まれていて、
真ん中に小さな乳白色の丸い石かガラスが嵌め込まれていた。
それだけの、ちっぽけな指輪だった。
手のひらからそれを摘み上げて、アスカは自分の指に嵌めてみた。
薬指にほぼぴったりとサイズが合う。見ている時に確認したのだから、当然それを分かっていた。
左手につけたのは、摘み上げた手が右手だったから。
指輪を嵌めた手のひらを、目の前で裏表にかざして見て、そしてだらりと腕を垂らして彼女は俯いた。
金魚の袋がちゃぷりと音を立てた。


「ねえ、アスカ姉ちゃん。気に入らなかったの?」

「違うわ」

「じゃあ、何で泣いてるの」

「泣いてない」

「だって、頬っぺた、濡れてるよ」

「嬉しいの」


そう呟いて、彼女は屈み、自分を見上げている弟を抱き上げた。
しっかりと彼の身体を支え持って、その丸い滑らかな頬に思い切りキスをした。
唇を離す時、大きな音がした。


「夢みたいだよう・・・・・・」

「変なの。嬉しいのに泣いたりしてさ。僕、分かんないや」

「えへ、パパ達のところに帰ろ。このままだっこしていってあげる」

「ええ? いいよう」

「子どもは遠慮しないの。行くよ」


首にしっかりと廻った弟の腕を確かめて、彼の尻を支えるように腕を廻して、
よいしょ、と言いながら抱え直した。
カヲルは猿の子どものようにアスカに張りついている。
片手を上げて、ごしごしと濡れた頬を拭った。
ちゅっ、と頬が鳴った。カヲルがキスをしたのだ。
アスカは可笑しくなって、高い笑い声を立てた。


「アンタ、結構重いわね」

「おんぶにしとく?」

「まあ、すぐそこだから、大丈夫よ。パパ達、向こうの木が一杯のところらへんだったよね。
あっちの禿げたおじさんのいる木から右に5本目の木のところにいる髪が長い女の人、見覚えがある。
それとも自分で歩きたいの?」

「やだ」

「アタシがこんなに優しいのは今日だけよ。大人しくだっこされときなさい」

「何で今日だけなの?」


弟の問いかけに、アスカは口元を上げた。
答えは分かっていた。
彼女の奥から、それは聞こえてきた。
今度こそ・・・・・・。









サスペンダ・ガール





描:リンカ

第13話へつづく

惣流家のアルバムより 写:惣流キョウコ




 



リンカ様の連載第12話です。
ついに来ました。
二人の距離が縮まりました。
しかも、シンジ偉い!
よくやりましたよ、シンちゃん。
きっとこの指輪は家宝となることでしょう。
いや、本当にいいものをいただきました。
本当にありがとうございます、リンカ様。
続きをお待ち申し上げます。
(文責:ジュン)

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