− 13 − 夢だとか希望だとか リンカ 2005.10.23(発表) |
「作文のテーマは、『夢』よ」
シンジのクラスの担任教師が、教壇でそう言って微笑んだ。
白いシャツにブラウンのカーディガンを着た彼女の姿を、
教室の窓から一杯に降り注ぐ春の柔らかい日差しが照らし出し、
優しそうなその印象を一層際立たせていた。
担任の言葉に生徒達が口々にざわめいた。
作文なんて面倒なものは皆やりたくないのだ。
しかも、そのテーマはよりにもよって掴み難い 「夢」 とかいうもの。
生徒達の不満顔を見渡して、担任教師は一層笑みを深くして、パンパンと手を叩いた。
「はいはい、みんな静まりなさーい。大丈夫よ、そんなに難しく考えなくても構わないんだから」
と言いながら、彼女は生徒達が口を噤んで自分の言葉に耳を傾けるのを待った。
新しい学年が始まってまだ一ヶ月ほどであるが、
このクラスは五年生の時からの持ち上がりで、彼女もまた同様なので、
騒がしい子ども達を静めさせるのもお手のものである。
いい意味で、生徒達も担任教師もクラスのリズムが分かっている。
周りの子達と突つき合ってこそこそと話しかけていた最後の生徒が
その自分の姿に気付いて居住まいを正すのを見てとった担任教師は、
左手で右手の肘を支え、その右手の指で頬を押さえながら、教壇から降りて
生徒達の間をゆっくりと歩き始めた。
「確かに将来の夢がある人と、まだそれがはっきりしていない人。どちらもあると思うわ。
それはみんなそれぞれ違ってたって構わないの。
先生が書いて欲しいのは、みんなの正直な気持ち。分かるかな?」
と、彼女はひとりの生徒の横で立ち止まり、その子の顔を覗き込んだ。
覗き込まれた子は、先生の微笑みに戸惑いながらもまっすぐな瞳で見つめ返してきた。
彼女は目を細め、屈んでいた身体を起こして再び歩き始めた。
「将来の夢がある人は、それに対する思いを正直に書いて欲しいわ。
あなたがなりたいもの、やりたいことがどんなに素敵なのか、どうしてあなたはそれを夢見るのか。
まだはっきりとない人も、例えばこんな仕事がいいな、こんなことが出来たらいいな。
それとか、その仕事をこんな風に役立てたいとか、色々想像してみるの」
「想像でいいの、せんせぇー?」
「ん、想像でもいいの。未来の自分がどんな素敵な人になれるか、考えてみて?
わくわくしてくるでしょう? でも、無理矢理こじつけるのは駄目」
「えー? こじつけってぇ?」
「面白おかしく書いて欲しい訳じゃないのよ。みんな、先生を笑わせようとなんてしないでね?」
教室の一番後ろまで歩いていき、そこで振り返ってそう言った先生に、
彼女を追って身体を斜めにして後ろを向いていた生徒達は笑い声を立てた。
それが収まるのを待って、再び彼女は生徒達の間を歩き始めた。
「そうね、何も大人になってからのことでなくたっていいわ。
例えば、中学生になったらやってみたいことでもいいの。
とにかく、今のみんなの気持ちを正直に書いてみて。それを先生は知りたいわ」
今度は彼女はトウジの横で立ち止まり、彼のことを覗き込んだ。
きょとんとした顔をしていたトウジは、しかしすぐに、にっと笑って言った。
「ええっ? 困るわ、せんせ。うちの全てが知りたいやなんて・・・・・・」
花も恥らう乙女もかくやと頬を手で挟んでもじもじと身を捩らせた彼の姿に、
教室中がどっと沸いた。
男の子達は囃したて、女の子達はその馬鹿さ加減に溜息をつく。
「おーい、鈴原ー! スリーサイズ言ってみろー!」
「嫌やわ、まだお天道さんも高いのに。じゃあ、上から・・・、イタッ!」
後ろから頭を張り飛ばされて、
トウジは後頭を押さえながら勢いよく振り返って下手人に向かって噛み付いた。
「何すんねん! 舌噛んだやろが」
「アンタが馬鹿なこと言うからよ。自業自得」
「この暴力女が。そんなんやと嫁の貰い手がのうなるで」
「こらこら。ふたりともそこまでにしなさい」
見守っていた先生が言い合うふたりの間に割って入った。
殴られたトウジの頭を撫でながら、彼女は窘めるように口を開き、ふたりに言って聞かせた。
「鈴原君、とっても面白かったけど、先生が知りたいのはスリーサイズじゃないのよ。
ちゃあんと鈴原君の夢が書かれているか、作文で読ませてもらいますからね。
それから惣流さん。鈴原君のおふざけを止めるのはいいんだけど、いきなり叩くのはよくないわ。
勿論、惣流さんが手加減してあげたのは先生にはちゃんと分かってるけど、
それでも彼に謝るべきだと先生は思うわ」
じっと見つけられて、トウジの斜め後ろの席に座るアスカは不満げにしながらも口を開こうとした。
しかし、トウジが半眼で彼女を睨みながら、
「何が手加減や、この怪力」
と、茶々を入れた。
「こら、鈴原君」
「いたた、抓らんといて」
トウジの耳を引っ張り―勿論優しく―ながら、先生はアスカを見た。
その視線を受けて、一度開きかけて閉じた口をアスカはもう一度開いた。
「悪かったわよ、叩いたのは」
「へっ、生意気やな・・・、せんせ、耳は堪忍して」
「ふんふん。じゃあ、鈴原君も謝らないとね」
「はぁっ? わしはなんも悪いことなんか」
「女の子に向かって、お嫁に行けない、なんてとんでもない暴言だわ?
先生、傷ついちゃった。惣流さんだってきっと傷ついたわ。どうするの?」
鈴原君さいてー、とクラスメートの誰かが囃したてた。
それにまた、皆がわははと笑った。
トウジは顔を赤らめて目を伏せた。
「す、すんませんでした・・・・・・」
「ん、よろしい。惣流さんも許してあげてね」
「はーい。でも、アタシはお嫁に貰ってくれるのを待つつもりはないの。自分で掴まえるから」
「あらら、素敵」
つんと顎を尖らせたアスカの姿に、先生は腰に手を当ててそう呟き、
それから隣の席の少年のぼうっとした表情を見て、くすりと笑った。
笑い声の上がる教室内で、何人かの女子がアスカの発言に溜息を吐いて小さく零した。
「惣流さん、強い・・・・・・」
「マジ分かり易い・・・・・・、けど惚れるわ」
「にしても、お前も大変だよなぁ」
と、学校からの帰り道でケンスケがしみじみとそう言った。
トウジは用事があるだとか言って急いで家に帰ってしまった。
アスカも引き受けた委員会の仕事で学校に残っている。
だからこの日は彼ら二人でレイの待つ保育園に向かっていた。
ケンスケは何に感心しているのか、親友の肩を叩きながらしきりと頷いている。
しかし言葉を投げかけられたシンジはというと、何のことだか分からず、
首を捻りながら横を歩く親友の方を見つめた。
「は? 何が?」
「いや、まあ、隣の席があんなので大変だろうなってことだ」
そう言われて、シンジはアスカのことを言っていたのかと気付いた。
彼の隣の席はアスカなのだ。
6年生になって初めての席替えで、彼とアスカは同じ班になって席も隣同士となった。
男の子はシンジとケンスケ、トウジ。
女の子はアスカとヒカリ、それから森川という女の子で、
その成立にはアスカの強力な意思とヒカリの苦笑混じりの協力が実は隠されている、
とはシンジの知らない事実である。
彼はとりあえず自分の親友二人と一緒になることだけしか考えていなかったので、
ヒカリから一緒の班になろうと持ちかけられた時には、単純に頷いてしまった。
正確には、男の子の班長になったケンスケが否も応もなく彼女の言葉を受け入れてしまい、
実際頷いただけのシンジとしては、見ている内に班が決まってしまったという印象だった。
トウジにとってもそうだっただろうが、そういえばあの関西弁の親友は
随分と不満そうな顔をしていたな、と彼は今更ながらに思い出した。
しかし、一言二言苦言を漏らしただけで結局トウジはケンスケの決定を承諾した。
きっと、今日みたいなことがあるかも知れないと思って嫌がったんだろうなぁ。
確かに今日のトウジは災難だったといっていい。ふざけすぎたとは思うけれど。
トウジの隣の洞木さんも結構口煩い、堅い人だし、今日もあの後トウジに小言を言っていた。
ぼんやりとそう思いながら、シンジは、でも大変だなってケンスケが決めちゃったんじゃない、
他人事みたいに言うけどさ、と隣を歩く親友の顔を呆れて眺めた。
「何だよ」
「ううん・・・・・・、ケンスケって意外に・・・・・・」
「ははん」
言いかけて言葉を飲み込んでしまったシンジだが、
ケンスケは人差し指で眼鏡を押し上げながら不敵に笑った。
「え?」
「そうかそうか、分かってるさ。俺は親友の為なら喜んで裏方にでもなる男だ。
気遣いと策謀はお手のものだぜ。俺に任せろ」
「・・・・・・それ、誰の真似」
「オリジナルだ、失敬だな」
むっとした顔で言い返すケンスケ。
シンジには彼が何を言っているのか、訳が分からなかった。
ケンスケ自身も、きっと自分の親友は分かってないだろうと知っている。
彼がこの班の組み合わせを受け入れたのは、
当然のことながら親友二人の事情を知っていたからだった。
トウジの場合は、何ともぎこちないヒカリとのやりとりを目撃してその後に話も聞いていたし、
シンジのことも、推測の域を出ないが恐らくアスカが彼に惹かれているのだろうと
普段の教室での姿を見て思っていた。
ヒカリが一緒に組もうと言ってきた時には、ああ、なるほど、と思ったし、
協力してやるのに別段問題がある訳でもなかったので、
親友二人にはそんな内心はおくびにも出さず、彼女達の共犯者になってしまったのだった。
今でもシンジはトウジとヒカリのことを気付いていないし、
トウジの方も後ろの席の二人組の微妙な関係は知らない。
班の中で一番後ろに森川という女の子と一緒に座るケンスケは
いつも彼らの応酬を見て楽しんでいた。
泰然として全てを高みから眺めるのはまったくもって快感だった。
癖になりそうなのだ。
ことあるごとに、彼と森川はくすくすと顔を寄せ合いながら
前に座るシンジ達に気付かれないよう小声でやりとりしてしまう。
初めは薄々という程度だったが、この森川という少女もアスカとヒカリのことに気付いていた。
彼らの愛すべき仲間の進展を温かく見守るという点において、
二人は一番のパートナになったのだった。
目下のところ、その仲間達には秘密の楽しみが彼は一番気に入っていた。
時折、森川がちらりと目配せだけしてくるその共犯者めいた笑顔を見ると
何故だかうきうきした気分になるのが最大の秘密だったのだが。
「ふっ、俺に任せろ」
「まだ言ってんの」
「おー、帰ってきた、帰ってきた」
「あれ、リツコさん」
レイを連れたシンジがケンスケと一緒に家まで帰ってくると、
玄関先でリツコが紙袋を手に待ち構えていた。
リツコの目の前まで行くと、シンジは物問いたげに彼女を見上げた。
「ん? 何かな、シンジ君」
「こんなところで何してるの?」
「まっ、つれない言葉ね。愛しいシンジを凍えながら待ってたのに」
大袈裟に頬に手を当てて真っ青に輝く空を見上げるリツコ。
彼女を初めて見るケンスケは、何がなんだか分からず唖然としていた。
そんな親友の姿に気付いたシンジは、恥ずかしいところを見られたと顔を赤らめながら
彼女のおふざけに文句を言った。
「今は春だよ。ぽかぽか陽気じゃないの。もう、変なこと言わないでよね」
「照れてるの? 可愛い子ね。それともお友達に聞かれたくなかったのかしら?」
と、そう言って彼女はシンジの隣でどうしたらいいか分からないと顔に書いてあるケンスケを見つめた。
その視線はケンスケに慌てて口を開かせるに充分な強制力を持ったものだった。
「シ、シンジの友達の相田ケンスケです。はじめまして」
「はい、はじめまして。ここのお向かいの赤木リツコよ。シンジ君とは産まれた時からの仲なの」
唇を弓状に吊り上げて妖艶に笑いかけてきた大人の女性に
ケンスケは訳もなく恥ずかしくなって顔を真っ赤にした。
「正確には違うでしょ、リツコさん。少し前、6年ぶりにここに帰ってきたんじゃないの」
「あら、私は貴方のことを忘れた日なんて一日たりともなかったわ。薄情な誰かさんとは違ってね」
「何さそれ・・・・・・」
シンジは唇を尖らせた。
確かにリツコと遊んだ幼い日々の記憶は、未だ思い出してないのだ。
であるからして強くは言い返せないのだが、
かといって、冗談だと知ってはいてもこれは言い過ぎだと彼は思った。
自分だって憶えていたかった。
「拗ねないの。冗談よ。ねぇ、レイちゃん?」
「にいちゃ、ないちゃだめなの」
「泣いてないよ!」
シンジが叫ぶ。
それを見て、ケンスケが宥めるように口を開いた。
「まあまあ、シンジ。とりあえず、中に入らない? 赤木さん、荷物持ってるみたいだし」
「あ、賛成。いいわね。気配りの出来る子って好きよ」
「はは・・・・・・、どうも」
何がどうもだよ、とシンジは曖昧な笑みを浮かべている親友を恨めしげに睨んだ。
すると、リツコが身体をシンジの肩に軽くぶつけて言った。
「ねえ、早く玄関、開けてちょうだいよ。この金魚鉢が意外なほどに重いんだわ、これが」
「・・・・・・金魚鉢?」
「お〜、すごい。金魚鉢だ」
「金魚鉢だね」
「これぞ金魚鉢だって感じのやつだな」
「そうそう、もうこれしかない、みたいな」
リツコが包みから取り出した金魚鉢を見て、シンジとケンスケは口々に感想を言い合った。
その金魚鉢は昔ながらの丸いガラスの鉢で、透明なその腹には優美な絵が挿し入れられており、
青みが凝縮された縁は波を描いて涼やかな風合いを漂わせていた。
「ほぉ〜。まあるいね〜」
頬を手で押さえながらレイがうっとりとした声を上げた。
「あ、見惚れてる」
「見惚れてるな」
と、シンジとケンスケ。
皆の反応を見たリツコは得意げに胸を反らしてみせた。
「どう? 結構いいでしょ。こないだ、うちのミス・ヘップバーンが金魚鉢落として割っちゃったじゃない。
だからさ、ゲンちゃんに私が買ってくるって言ってたのよ」
「あ、そうだったの? けど前のよりずっと大きいね」
「弁償しないといけないじゃない。どうせならいいのを選んでやろうと思って。
ミス・ヘップバーンもいつもはこんな粗相しないんだけどね。
私が家に戻ってきたんで、神経が張ってるみたいなの。しかも新顔が二人増えたし」
ケンスケには当然、彼らが何を話しているのか分からない。
だから、戸惑ったような顔をシンジに向けて彼は訊ねた。
「なぁ、シンジ。ミス・ヘップバーンって誰」
「へ?」
「外人さんがいるのか?」
「あぁ、違う違う。ミス・ヘップバーンはね、リツコさんとこの猫だよ」
「は? 猫?」
「そ、猫。ミス・ヘップバーンっていうのがその猫の名前」
「な、なんだ。俺はまたてっきり・・・」
ケンスケは自分の想像が外れて、それがおかしくて照れたように笑って言った。
親友の姿にシンジは首を傾げてリツコを見ると、
彼女は笑いを堪えた表情で手のひらを上に向けるジェスチャをしてみせた。
「ミス・ヘップバーンは、うちの猫の中で今一番の古株で私が家を出るより前からいるんだけどね、
その私のこと、何だか憶えてないのか、あんまり懐いてくれなくってさ」
「ふぅん・・・・・・、確かにミス・ヘップバーンて昔からいるよね。
僕と同い年くらいだっけ。ケンスケも僕のとこ来た時に黒猫見たことない?」
シンジに問われて、ケンスケはたまに塀の上や庭先で見かける悠然としたその姿を思い出した。
どこの猫かは知らなかったのだが、なるほどシンジの向かいの家の猫ならば自分が見かけるはずだ。
「あ、あぁ! あの猫か。あの猫は綺麗だよな」
「でしょ? 分かってるわね、少年。彼女は美人なのよ」
「へぇ。いいよなぁ。俺も飼ってみたい。けどマンションだから無理だな」
羨望を込めた声でケンスケが言った。
その少年の顔を見て、リツコは目を細めた。
昔から知っているシンジの相手をしている時とはまた違う感慨が感じられた。
彼らはまだ幼い。本当に若い。
ただそれだけのことで、この先の希望に満ち溢れているのだ。
私もかつてはこうだったのかしら。
シンジもこの少年もいつか私のように大人になるのかしら。
アイも、そうやって育っていくのかしら。
「ふふん。ま、いずれ猫の飼える家に自分が住めばいいのよ。
何といっても相田君はまだ若いんだから。これから何だって出来るわ。
さて、と。お昼寝してるアイちゃんを家に残してるし、私はそろそろ戻るわ。
金魚を移し替えるのは、一応ゲンちゃんにやってもらいなさいね、シンジ君。
じゃあね、相田君。また会いましょ」
「は、はい。また・・・・・・」
「じゃあね、リツコさん。父さんにリツコさんが買ってきてくれたって言っとくから」
「りっちゃ。しゃいなら」
シンジとレイとケンスケはみんなして手を振りながら出ていく彼女を見送った。
玄関の引き戸が閉められると、三人で居間へ戻りながらケンスケが感心したように呟いた。
「赤木リツコさんかぁ。綺麗な人だなぁ」
その呟きにシンジは少し躊躇いながら答える。
「ああ・・・・・・、まあ、そうだね」
「子どもいるんだな。結婚してるんだ」
「うん」
「いいなぁ、あんな女の人とお向かいで仲良くしてて」
「う、うん。ははは・・・・・・」
父やナオコから聞いた過去の自分とリツコの話や
彼女がマコトとアイを引き連れてここへ戻ってきて以降の振舞いを見ているシンジからすれば
親友の羨望には単純に頷きがたかったのだが、特に自分の名誉の為にそれは黙っておこうと決めた。
しかしケンスケはそんなシンジの様子を怪訝に思うこともなく、
未だにリツコへの興味が尽きないようだった。
「何してる人なんだ? こんな時間に家にいるってことは専業主婦?」
「え? ううん、リツコさんは画家だよ」
「画家っ!?」
「う、うん。・・・・・・絵を描く人」
呆然とした表情をしていたケンスケの顔が徐々に赤らんできたのを見て、
そういえばケンスケって図工とか上手いし好きだもんな、とシンジは思い出した。
「うわ、画家ってあの画家? こんな身近にいるもんなんかぁ。すっげぇ」
「えっと、話とか聞きたい?」
シンジの問いかけに、ケンスケはぶんぶんと首を縦に振った。
「ひょっとして、リツコさんともっと話とかしてみたい?」
首を縦に振る勢いが益々激しくなった親友を見て、シンジは頬を指で掻いた。
「描いてる絵を見てみたいとか・・・・・・」
「いかりん」
「わっ、その呼び方久し振り」
呼びかけたきり黙り込んだケンスケに、シンジはやれやれと髪を掻いた。
「じゃあ、ケンスケが持ってきたゲームは」
「すまん、それはまた後にして」
「分かった。じゃ、行こっか。レイ、おいで」
「うおー、緊張するー!」
「さっき会ったばかりじゃん・・・・・・」
「こ、こんにちは!」
「はい、いらっしゃい・・・・・・どうしたの?」
玄関先から直立不動で挨拶を叫んだ少年の姿に、
リツコは首を傾げてその横に立っているシンジに訊ねた。
先ほど会ったばかりなのに何か用でもあるのだろうか。
それとも遊び場にうちを選んだのか。
弟に等しいシンジとその友人なので、彼女としてはそれはそれで構いはしないのだが。
「あのね、リツコさんが画家だってことをケンスケに言ったら、
もっとお話が聞きたいって。それで」
「あらそう。ま、上がんなさいな。そんなとこで固まってないで」
「は、はい。お邪魔します!」
リツコに案内されて、シンジ達三人は赤木家の居間へと入っていった。
するとそこには、座布団の上でタオルケットを掛けて眠っている赤ん坊の姿があった。
碇家の前に立っていた時は、そろそろシンジとレイが帰ってくる頃合いかと見計らって、
娘がぐっすり寝ている内に外に出てみたところ、ちょうど彼らが帰ってきたのだった。
「あ、そうか。アイ、眠ってたんだね」
と、シンジが言うと、リツコは頷きながら娘の横に膝をついて、
彼女の額に掛かる髪をそっと掻き分けた。
「そうよ。もう、ほんと赤ちゃんは寝るのが仕事って言うけど。
けど起きてる時はまた動き回るし、騒ぐし、泣くし。
寝てくれてた方が楽だわ。今日は母さんいないしね」
「あはは、レイもそうだったよ」
「う?」
リツコとシンジは赤ん坊を前にして余裕のあるやりとりをするが、
まだ一歳ほどにしかならないような赤ん坊を間近に見るのは初めてだったケンスケは
眠りこける彼女を少し遠巻きにして珍しげに眺めていた。
リツコはそんな少年の姿を見て微笑みながら、再び腰を上げた。
「さて、飲み物でも出しましょうか。相田君、コーヒー飲める?」
「えっと、俺は大丈夫ですけど」
「あ、リツコさん。僕、ブラックコーヒーはやだよ」
「ふぅん。じゃ、ココアにしましょうかね。それでいい?」
「あ、それでいいです。すいません」
と、軽く頭を下げるケンスケ。
「はいはい。じゃ、ちょっと待っててね」
ぱたぱたとリツコが居間から出ていくと、ケンスケが部屋を見回して溜息を吐いた。
赤木家の居間は広々として、その柱や壁が使い込まれた風合いに輝いて
情緒のある佇まいを見せていた。
マンション暮らしのケンスケからすれば、こうした屋敷は物珍しい。
よく訪れるシンジの家も、家そのものからも置かれている家具からも
降り積もった時間の沈殿が感じられるこの屋敷に比べたら遥かに馴染みやすい庶民的なものだった。
「でかい家だなぁ、ここ。外から見て前から知ってはいたけど」
「うん。何か古いだけが取り柄の家だってリツコさんは言ってたけどね」
「いいじゃないか、古くてでかくて。味気ないマンションなんかよりずっといい」
うんうんと自分の言葉に頷いている友人を見てシンジが笑った。
「そうかなぁ。まあ、猫は飼えるよね」
「そうそう。あれ、でも猫いないな」
ケンスケはこの家に入ってきた時から猫の姿も見かけなければ
その鳴き声も聞こえないことに気付いて言った。
「あぁ、みんな外に出てるんじゃない? 猫って結構ふらふらするから」
シンジがそう答えると、ケンスケはなるほどと呟いて
今度は赤ん坊とそれを覗き込んでいるレイを眺めた。
「にしても、赤ちゃんって小っさいなぁ」
「いつの間にか大きくなるけどね」
「レイもこんなだったか?」
「こんなだった、こんなだった。
で、寝てる時だけは静かなの。まあ、そこは今でもそんなに変わらないけど」
畳に手をついて眠っている赤ん坊の顔を上から覗き込んでいる妹を見てシンジが言った。
すると、どうやら兄に批判されていると感じ取ったレイが頬を膨らませて抗議した。
「れい、いいこだもん」
「お、不服らしいぞ」
「みたいだね。レイ、顔を触るのはやめなさい。アイが起きちゃうでしょ」
「ぶう」
しかし兄の注意をレイは無視してアイの顔を触り続けた。
「ふ、ふぎゃ」
「鼻を塞ぐんじゃない、アホ!」
顔を触っている内にあろうことかアイの鼻を手で押さえて塞いでしまった妹に驚いて
シンジはべちりと彼女の頭を叩いてから抱き上げて赤ん坊から離した。
「うえ〜ん、ごめなしゃ〜い」
泣きながら自分の腹に顔を埋める妹をシンジが背を叩いて宥めた。
自分の世界に新たに現れたこの小さな生命に、
おっかなびっくりしながらも興味津々と触れたくなる気持ちは分かるが、
加減を教えなければ赤ん坊は容易く傷つくものなのだ。
しゃくりあげながら謝る彼女の顔を上げさせて目を合わせ、
鼻を塞いでは息が出来ないから危ないということを彼は言い聞かせた。
赤ん坊はおもちゃではない。興味があってもそんなことをしてはいけない。
そうやって説いて聞かせると、レイは泣いたせいで赤らんだ顔で頷いた。
「分かったね」
「あい」
「よし、いいこ」
妹の頭を撫でて微笑むシンジの姿を見て、ケンスケがぼそりと呟いた。
「何つうか、手馴れてるな」
「あ、そ、そう?」
友人に見られていたことを今更に思い出したシンジは、何となく恥ずかしくて頬を染めた。
レイは相変わらずシンジの腹にしがみついて甘えている。
それを見てケンスケは言葉を続けた。
「お前の将来が見えるみたいだな。結婚して子どもが出来てからとか。
はっきり言ってお前は絶対親馬鹿になるぞ。いっそ作文にそう書いたら」
「もう、うるさいな。作文にそんなこと書く訳ないだろ。大体結婚なんて・・・・・・、あ、アイが」
友人に向かって言葉を続けようとしたシンジの視界に、
ぱちりと目を開けてこちらを見ているアイの姿が映っていた。
どうやら先ほどの騒ぎで目が覚めてしまったようだ。
「こんにちは、アイ。うるさかった?」
とシンジが自分を見つめる赤ん坊に声を掛けた。
「あー、あんば、まんわー」
「はいはい、今ママは台所だよ。すぐに戻ってくるからねー」
「お前、よく分かるな・・・・・・」
シンジの言葉を聞いて、うきゃきゃ、と笑ったアイを見ながら、
ケンスケが呆れたような声を漏らした。
飲み物を飲みながらリツコと話をした後、
アトリエを見せてもらえるとのことでシンジ達は彼女に案内されて
屋敷の離れへ向かった。
アイを腕に抱いたリツコの前方に建つ一見して倉庫のような外観をした建物を見て、
ケンスケは思った通りの感想を漏らした。
「倉庫みたいですね」
「そうよ。初めは倉庫だったの。けどそれを改装してアトリエに仕立てたって訳」
扉を開け、入りましょうと促したリツコに従って彼らは中に足を踏み入れた。
アトリエの中は、明らかに生活の為に供されていないと分かるがらんとした印象で、
しかしあちこちに石膏像や静物の為らしき花瓶、クロッキーや沢山の資料の束、
イーゼルや描きかけのキャンバスがあって雑然と散らかっていた。
油絵の具の強烈な臭いに彼らは顔を顰める。
「意外と広いんだね」
「まあね。基本的には私はここで創作するの。別の場所を借りてやる時もあるけどね。
ここ、二階もあるのよ。そっちはほとんど物置になってるんだけど」
「ああ、あの階段」
「そうだ、置いてあるものに触らないでね。動かしたりしたら駄目よ」
「は、はい。分かりました」
リツコが注意すると、ケンスケが背筋を伸ばして返事をした。
その友人の横でシンジが、物珍しげに辺りに手を伸ばす妹の腕を慌てて掴んで、
この場所の主に苦笑いを寄越した。
「駄目よ、レイちゃん。シンジ君、ちゃんと見ててね」
「ははは・・・・・・、気を付けます」
「にいちゃぁ、くしゃい」
「我慢しなさい」
文句を言うレイにぴしゃりとシンジが返す。
確かにここは居心地がいいとは言いがたい。
独特な絵の具の臭いは鼻を刺すし、床や壁は絵の具によって様々な色に汚れていた。
中には意図的に汚したと思われるような模様が壁に描き込まれているところもある。
そこをシンジが眺めていると、リツコが溜息混じりに呟いた。
「そこは母さんがやったのよ。あの人、壁もキャンバスも関係なしなんだから」
「赤木さん、お母さんも画家なんですか?」
ケンスケが驚いたように訊ねた。ナオコのことならば何度も会ったことがある。
まさかあの快活そうなおばさんが画家だとは、今まで思いもしなかった。
しかしリツコは首を横に振る。
「昔はね。昔はそうだっわ。けど今は違うの」
「違うって?」
「やめたのよ。今は大学で非常勤講師をしてるわ。講義の内容は美術史」
「へえ・・・・・・」
何故やめたのか、という問いが喉元まで出かかったが、
ケンスケはそれを飲み込んで違う質問をした。
「こういう絵、どうやって売るんですか?」
「なかなか直截的な質問ね。ま、色々よ。買い付けに来るバイヤもいるし、
画廊に置いて、展示料を貰ってる絵もあるわ。言わばディスプレイの為のレンタル。
勿論、そういうところに置いてれば欲しいと言い出す人間もいるから、
私が相手に不満を感じなければ売る。すると画廊はマージンを取る訳ね」
「マージン?」
「ま、手数料よ。画家と買い手の間に入って売値の幾らかを受け取るの」
「ふぅん。ビジネスなんですね」
「そうね・・・・・・」
リツコは少年の感想に苦笑いを零した。
ビジネスといえばビジネスだ。
自分だって食べていかなければならない。
純粋な芸術を独りで為し得ることは美しい理想だが、
そうはいかないのが現実の社会というものなのだ。
それに絵を描くにも金が掛かる。
本当に、かつての巨匠達がどれほどの貧困の中で名画を生み出していったかと考えると、
リツコは気が遠くなる思いがした。
自分は幸運だった。
一定の評価を得て認められるのが早かったからだ。
しかしこの世の多くの芸術家は、過去も現在も含めて、必ずしもそうではない。
どれほどの才気に溢れていようと、それが認められなければその絵もただの紙くずにしかならない。
勿論、描いた本人にとってはそうではないが、世間は認めないものに価値を与えない。
その点では、自分の描いたものが取引されるということは重要なことだった。
勿論、重要ではあっても全てではないが、いい環境で創作するということは大事なことだし、
その意味で彼女は恵まれていた。
「ここの市立美術館にはまだないけど、他の場所の美術館になら何枚かあるわよ。
画廊でも個展なんか開いてもらったり。
確かにお金がないと絵は描けないし、それは必要なことだけど、
やっぱり観てもらえて、認めてもらえるのが大事だし嬉しいわ」
「そうなんですか」
ケンスケは自分の発言が不用意だったかと一瞬思ったが、
当のリツコがさほど気にした素振りも見せないので、謝罪の言葉を口に出すのは躊躇った。
「けどね、やっぱり一番大事なことは、私が絵を描くのが好きだっていうことなのよね。
認められたいとか、お金が欲しいとか、そんなことは本当はどうでもいいの。
私は私が大好きな絵を描いて、それを本当に見せたい人がいる。それだけでいいの」
「見せたい人?」
「そ、見せたい人。その人さえいてくれたらそれでいいのよ。私は描き続けることが出来る」
リツコは話しながら、かつての自分を思い出していた。
認められたい。世界中に、この世の全ての人に。
下らない理由から母が捨てたもので自分が成功してみせるのだ。
それだけしか考えていなかった。
才能も素養もそれなりにあった。だから、それなりのものは創ることが出来た。
けれどどうしても上手くいかない。何かが足りない。
人からもそう指摘され、また自分自身でも自覚がある為、
焦燥は募り、苛立ちは膨れ上がって、自暴自棄になることもあった。
絵を捨てようともし、しかし捨て切れず、この家に独り暮らしているはずの母を想えば、
そしてそんな母を孤独にして死んでしまった父を想えば、
ますます意固地に絵にしがみついた。
アルバイトで生活費と絵を描く費用を稼ぎながら、
インスピレーションを得る為と理由をつけて、溜めた金で海外に度々出かけた。
見知らぬ土地の風景は彼女を刺激したし、その土地の美術館や画廊で色んな画家の作品に触れもした。
けれど何が自分に足りないのか分からない。
ただ単に日々の閉塞から逃れたくてさ迷っていただけなのかも知れなかった。
しかしそんな折り、彼女はマコトに出会ったのだった。
「あ、見せたい人ってマコトさんでしょ」
シンジがにっこり笑ってそう言った。
「マコトさん?」
とケンスケが訊く。
「リツコさんの旦那さん」
「おぉ〜」
歓声を上げ、にやけた顔で見つめてくる少年達の姿にリツコは顔を赤らめて言い返した。
「何よ、悪い?」
「いや、別に悪くは・・・・・・、ねえ?」
「あ、うん、そうだな、シンジ。全然悪くない」
まさか大の大人に惚気られるとは思っていなかったケンスケは
シンジに調子を合わせながら、彼女のことを羨ましく眺めた。
やりたいことをして、それを認めてくれる特別な人がいる。
こういう大人になりたい。彼はそう思った。
「あの、赤木さん・・・・・・」
「何?」
「今日、作文の宿題が出たんです」
「ん?」
「内容は将来の夢」
「あぁ、なるほど。そういうの、書かされるわよね。懐かしいわ」
ケンスケの言葉に、リツコは子どもの頃を思い出して目を細めた。
「赤木さんって、子どもの頃から画家になりたかったんですか」
「いや、貴方達よりももう少し大きくなってからね。画家になろうと具体的に思ったのは」
「俺、風景とか人の姿とか見るのが好きなんです」
「うん、それで?」
リツコが先を促すと、ケンスケはつかえながら喋り続けた。
「だから、赤木さんが画家だってシンジから聞いて、その、一度でいいから
そういう本物の画家ってどういうものなのか見てみたいなって。
どんなところで描いているのかとか、えっと、どんな人なんだろうとか。
それとか、どんな絵を描くんだろうとか」
「実際見てみて感想は?」
「ああいう人達って、もっと変わり者なのかと思ってた、けど、
赤木さんはすごくいい人で、アイちゃんのただのお母さんで、それで・・・・・・」
と、ケンスケは言いながら、リツコの腕の中のアイに視線を送った。
彼女は母に抱かれて眠っている。
それからシンジへと視線を送ると、彼は眉を上げて視線の意味を問いたそうな顔をした。
彼と手を繋いでいるレイを見ると、そろそろ退屈してきたのか、
この絵の具臭い場所が嫌なのか、兄の手を引っ張ってしきりとぐずり始めていた。
「ねぇねぇ、にいちゃ。おんも、いくの。れい、くしゃいのきらい」
「こら、今ケンスケとリツコさんがお話してるから我慢しなさい」
「いやーん。もういくのー!」
「いいこだから、もう少し我慢して。ね」
しゃがみ込んでシンジがレイの肩に手を置いて覗き込んだ。
しかし彼女は膨れっ面で兄の目を見ようとせず、いやだいやだと繰り返した。
そんな妹の駄々に慣れているか、シンジは彼女の頬に指を掛けて自分の方を向かせ、
根気よく言い聞かせる。
自分の想いを語る言葉を途切れさせられたケンスケはその光景を眺めながら苦笑いした。
「ね、あと少しだから。ほら、二人がお話出来ないでしょ」
「うわーん!」
「しー。静かに。レイ、しー」
口の前に人差し指を立てて、シンジは優しく語りかけた。
「ほら、お口にチャックして。いいこだから出来るだろ?」
と、唇を内側に巻き込むように閉じて、端からチャックを閉めるような動作をしてみせた。
すると、レイも口元を兄と同じ形にする。
「む〜」
「そう。お口チャック!」
ようやく静かになったレイの頭を撫でて、にっこりと笑い合い、
それからシンジは申し訳なさそうに親友の方を振り仰いだ。
するとケンスケは構わないとばかりに彼に手を振ってみせた。
「悪い、シンジ。外に出てたっていいんだぜ」
「ううん、こっちこそ。けどもう大丈夫だから。それに僕も聞きたいし」
シンジの言葉にケンスケは苦笑いしながら、参ったな、と呟いた。
勢いでリツコに向かって話を始めてしまったが、親友とはいえ人に聞かれるのは
どこか恥ずかしかった。
だが、シンジは年来の親友ではあるし、
自分からリツコへの訪問を頼みこんだのだから仕方がないと肩を竦めた。
リツコが口を噤むレイの前でしゃがみ込んで慰めるような声を出した。
「レイちゃん、あとでケーキあげるから、もうちょっと我慢してね?」
その言葉にレイはにっと歯を剥き出して満面の笑みを浮かべ、
それから慌てたように口を元のように戻した。
「うふふ、美味しいわよう。待っててね」
と、そう言って彼女は立ち上がってケンスケの方を向き、
彼もその視線を受けて軽く咳払いした。
「えっと、どこまで話したっけな。そうそう、それで、さっきもココア飲みながら、
シンジやレイとも楽しそうに話して、赤木さんって結構普通の人なんだって。
けど、ここに入ってみると、やっぱり本当に画家なんだ。
絵の具でぼろぼろに汚れた白衣とかツナギとか、缶に一杯ささってる絵筆とか。
本当に絵の具臭いし、そこら中が汚れだらけで。
描きかけの絵が何枚も立ててあって、それに、これ」
ケンスケは言葉を切って、ほぼ完成間近のキャンバスの前に立った。
「こんなに綺麗だ。すごい。見てみろよ、シンジ」
振り返った親友に、シンジもリツコの絵を見つめた。
すごいとは思う。きっとこれを描くリツコは大したものなのだろう。
けれど、彼には絵はよく分からないし、彼自身絵があまり得意でもない。
だから何も答えないでただ黙って絵を見つめていると、
ケンスケは振り向いていた顔をもう一度絵の方に戻して、言葉を続けた。
「これだけのものを創り出せる人がいるんだって。
それが目の前の赤木さんなんだって」
「それを確認したかったの?」
リツコが問いかけると、ケンスケは肩を落として答えを返した。
「将来のことなんてよく分からないよ。何をしたいかなんて、何が出来るかなんて。
スポーツ選手になりたいとか、宇宙飛行士になりたいとか。
それがどれだけ大変なことかなんて、いくら俺達がガキだからって分かる」
「そうね。男の子は大抵一度はそんなこと言うわよね」
「でも、俺には好きなことがあって・・・・・・、そんなこと無理だって思いたくない」
「画家になりたいの?」
「まだ分からない。ただ、そういうのが好きなだけなんです。
綺麗な風景とか人を見たら、それを切り取ってみたくなる。
ずっとそれを見つめていたくなる。追ってみたくなる。
まっさらな白に自分で色をぶちまけて何かを創ってみたくなる。
鉛筆と紙さえあれば、手が勝手に動く。
具体的に何かになりたいとかそういうんじゃなくて、でも、ずっと捨てたくなくて。
だから、それを捨てずに大人になった人のことを見てみたかったんだ」
「ふぅん・・・・・・」
ケンスケの言葉を聞いて、リツコは黙り込んだ。
随分と真剣に考え込んでいるものだ。
自分は大体、この手の作文はある程度は手を抜いて済ませていたものだった。
別に成績にさほど関係ある訳でもないし、結局のところ小学校程度で自分の将来を
しっかり見据えることの出来る子どもなんてそうそうおりはしない。
彼に何と言えばいいのか、リツコは計りかねたが、しかし自分と同じように美を好む少年には
好意を感じたので、なるべくきちんと答えたいとますます頭を悩ませた。
そうして考えていると、兄の言いつけを守って一生懸命に口を固く結んでいるレイと、
守るように彼女と手を繋いだシンジの姿を見てふと訊ねてみたくなった。
「ねえ、シンジ君は将来何になりたいと思う?」
その彼女の質問にシンジはきょとんとして、それから眉を寄せ、うーん、と唸った。
「何って・・・・・・、何だろう。特になりたいものっていうのは」
「ない?」
「うん・・・・・・、ご、ごめんなさい」
「謝ることはないわよ」
申し訳なさそうに俯いたシンジを見て、リツコは笑って慰めた。
そして、今度はレイに向かって訊ねた。
「レイちゃんは? おっきくなったら何になりたい?」
「・・・・・・んむ」
口を塞いだまま、レイはリツコの質問に答えるべきか、
それとも兄の言いつけをやはり守り通すべきかと困惑した表情を浮かべ、
兄とリツコの間で視線を行ったり来たりさせた。
そして何度目かの答えを求めるような妹の視線に、シンジは苦笑混じりに言った。
「・・・・・・喋っていいよ、レイ」
「んちょねー、れいね、くましゃんになるの」
「くまさんか。レイちゃんはくまさんが好きなのね」
「あい!」
ぶんっと大きく頷いて、レイは瞳を輝かせながらリツコにはちきれんばかりの笑みを浮かべた。
そのあまりに無邪気な様子にケンスケは小さく噴き出してシンジと顔を見合わせると、
この兄もやはり笑みを顔に浮かべながら、彼女の頭を優しく撫でた。
そして勿論、シンジはもう一度妹に向かって口にチャックをするジェスチャをしてみせることを忘れず、
レイも慌てたようにその仕草をしてみせて、確認を求めるように兄を見上げて胸を逸らした。
「そうよね、まだまだ将来のことなんて分からないわよね。
でも、だからこそこれから何だって目指すことが出来るんじゃない?
サッカー選手だって宇宙飛行士だって、勿論、私のように画家だって」
「そう?」
「そうよ。だからね、相田君。難しく考えることなんてないわ。
ただ、素直な気持ちを持っていればいいの。
今日出された作文だって好きなことを、素直にそのまま書けばいい。
もし、大きくなってもずっとその気持ちを持ち続けていたいとあなたが思うんだったら、
それはきっと素敵なことだわ」
そう言って、ケンスケに向かって微笑みかけると、彼は顔を赤らめて頷いた。
リツコの腕の中で眠っていたアイが目を覚まし、身じろぎしてから手を伸ばして
母の顔をまるで確かめるようにゆっくりと触った。
その感触にリツコは優しい母親の表情で微笑んで、娘に頬擦りをし、
抱いている腕を軽く揺すりながら彼女に話しかけた。
母の柔らかな声が心地好いのか、揺すられる優しい振動が眠りを誘うのか、
小さな口で一杯に欠伸をしてから彼女は母の頬に当てていた手を伸ばし、もぞもぞと動かして、
それから再びとろとろとまどろみの中に落ちていった。
リツコはそれを見届けてから、ぼんやりとその光景を見つめていた少年達の方に
視線を戻し、また話し始めた。
「私にだって貴方達みたいな頃があったわ。
やりたいことも沢山あったし、夢は一杯見た。
それから大人になっていって、色んな経験をしたわ。
悩んだりもしたし、上手くいかなくって癇癪も起こしたり、全部投げ出したくなったり。
それで、今の私はどう?
全部が全部、夢見た通りにいった訳じゃないわ。
けど、優しい旦那さんがいて、可愛いアイちゃんがいて、母さんやシンジ君達がいて、
私は好きな絵を描いて過ごしてる。
だから私は、こんなに素敵でしょ?」
リツコは白い歯を見せて、にっと笑った。
「素敵な大人になりなさいね。貴方の前に広がる世界は果てしなく広大だわ」
屈み込んで視線を合わせた彼女の言葉に、ケンスケはもう一度頷いた。
その光景を見ながら、シンジも何となく頷いてしまった。
アトリエに充満した匂いのせいか、その雑然とした埃っぽさのせいか、レイが一度くしゃみをし、
それからまた口を見えないチャックで閉ざしてから声を出すのを我慢したまま、
繋がれた手を辿ってその上にある兄の顔を仰いで不思議そうに首を傾げた。
「シンジー。もうすぐご飯出来るぞー」
台所から聞こえてきた父の声に、シンジは、「はーい」 と大きく返事をして
書きかけの原稿用紙を二つに折り畳んだ。
テーブルの上に置かれた鉛筆や消しゴムを筆箱の中に仕舞っていると、
父がひょいと顔を出して、布巾を投げて寄越した。
シンジは慌ててそれを両手で受け取る。
「テーブルの上、拭いて。それからその上のもの」
「今片付けるよ」
「レイはどうしたー?」
再びキッチンへ戻っていった父の声が間延びして耳に届いた。
レイなら先ほどから散々に宿題をする自分の邪魔をしてくれていたので、
録画していた朝のアニメのビデオをセットして、テレビの前の座布団の上に彼女もセットしてきた。
それきり自分の方へは寄ってこないので、まだ夢中になっているのだろうとシンジは思った。
途中まではアニメに合わせて、ぎゃあぎゃあとうるさかったのだが、
気が付いたら静かになっていたなと、そう考えながら彼女の様子を見てみれば、
彼女は座っていた座布団を枕にしてすやすやと眠りこけていた。
「父さーん。レイ寝てるー」
「何ー? 起こせ、シンジー。ご飯が冷めるだろー」
父の言葉を受けて、シンジは改めてレイの顔を見た。
彼女は幸せそうににやけながら眠っており、何の夢を見ているのか、
涎の垂れた口元からもごもごと不明瞭な寝言が聞こえた。
「お前は宿題もなくて気楽だな」
話しかけてみるが、当然返事はない。
「将来、何になりたいかなんて考えもしない?
それとも、なりたいものは沢山ある?
お前が夢中になる絵本やアニメや、色んなものを見て。
まだまだ毎日不思議なものが一杯か。
お兄ちゃんはね、まだなりたいものがよく分からないよ。
けどさ、今みたいに・・・・・・、今みたいに家族で一緒に笑って暮らせるような、
そんな当たり前の毎日で楽しくてたまらないような、そんな大人になりたいよ。
僕がお父さんで、お母さんがいて、子どもがいて。
父さんも年を取ってるけど元気で、お前も大きくなっていて。
それだけでいいんだ。本当に、それだけでいいんだ」
シンジはレイの頭を撫でた。
柔らかな髪が指をくすぐって、そういえばお向かいの猫達とこの子の髪と
どちらが触り心地がいいだろうと意味もなく連想してみた。
「シンジー、レイー。もうお皿を運ぶぞー」
再び父の声が聞こえる。
「はーい! さ、てと。レイ、起きなさい」
「うにゃん・・・・・・、いやにゃ」
ごろりと寝返りを打って、レイはシンジから顔を背けた。
当然、妹の態度にシンジはむっときた。
「こらっ、起きろ、レイ!」
「やーん! ねむちゃいのー!」
「ご飯もう出来てるんだぞ! さっさと起きなさい」
「ねるの、ばかー」
「誰が馬鹿だ!」
妹の暴言に叫び返しながら、シンジは無理矢理彼女の脇の下に手をやって
抱え上げてから、ぐずる彼女に構わず食卓まで連れていった。
「何やってるんだ。レイ、起きようとしないのか?」
「そうだよ。ほんとに寝汚いんだから。ていうか日に日に口が悪くなる」
幼児用のチェアにレイを座らせながらシンジが零すと、
ゲンドウは盛大に噴き出して言った。
「まあまあ、今は何事も吸収の時期だからな。お前もそういう頃があったぞ」
「僕は絶対にこんなじゃなかったよ」
「いやいや、父さんに向かってハゲと口走った時はさすがに固まった」
わははと笑う父と対照に、シンジは羞恥で顔を赤らめて硬直した。
「俺は禿げてないけどな、禿げはデリケートな問題だ。あまり言うなよ?」
「い、言わないよ!」
「よしよし。まあ、昔のことだ。それで、この紙はなんだ? 汚れるぞ。どれどれ」
「あ!」
慌てて手を伸ばしたが、すでにゲンドウはテーブルの上から
シンジが作文を書いていた原稿用紙を手に取って、
ひらりと二つ折りにされていたそれを開いてしまっていた。
「駄目ー!」
「僕の夢? 学校の作文か」
「わーん! 見ちゃ駄目だってばー!」
家族三人で穏やかに、にぎやかに食事をとる。
妹がはしゃぎながら満面の笑みでおしゃべりし、それに自分が言葉を返す。
父はその光景を見ながら優しそうに笑っている。
自分が父に話しかけると、父も言葉を返してくれる。
妹が対抗するようにしきりと父に向かって話しかける。
三人で一緒に笑い合う。
父の作った料理は美味しい。
野菜の大きさがまちまちだったり、形がいびつだったりするけど、
カレーライスは少しだけ甘過ぎるのだけれど。
母の作った世界で一番美味しい料理とは違うけれど、
不器用な父の作った料理も、それと同じくらいに堪らなく美味しく感じられる。
日が落ちて暗闇に包まれた世界の中で、
我が家の食卓は明るく照らされて、ぽかぽかと心も温かくなってくる。
食事が終わり、空腹が満たされれば、少しだけ眠たくなって
幸せな欠伸が口から漏れる。
妹のカレーで縁取りされた口を綺麗に拭うと、
文句を言いながらも気持ちよさそうな顔をして小さなその身を委ねてくる。
なりたいものはまだ分からない。
したいことはまだ分からない。
けれど、こんな穏やかな幸せがいつまでも続くといい。
こんな幸せな家族に囲まれている大人に、自分はなりたい。
それを創れる大人に、自分はなりたい。
素敵な大人になりなさいと、彼女は言った。
そう言って微笑んだ彼女は確かに素敵で、
自分とレイを支えながら笑っている父も確かに素敵で、
早くに逝ってしまった母もきっと素敵な大人だった。
だから、僕は、そんな大人になりたい。
「シンジー。電話だぞー。惣流のアスカちゃんからー」
「はーい!」
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碇家のアルバムより 写:碇シンジ |
あとがき
読者の皆様、ジュン様、こんにちは。
前回から少々間が空いてしまいました。
申し訳ありません。
お待ちになられていた方はあまりいらっしゃらないのではと思ったりもしますけど。
将来の夢って、必ず書かされましたね。
このお話の夢見るケンスケはきっと素敵な大人になるのでしょう。
それはそうと、このお話でようやくとあるフレーズを使うことが出来ました。
やや無理矢理押し込んだのですけど。
その懐かしい言葉を思い出させてくれた方は、ひょっとしてもう見ていないかもしれませんけどね。
でも、使ったよ。
さて、今回もつたないお話にお付き合い下さった方には感謝致します。
それでは、この辺で失礼致します。
リンカ
リンカ様の連載第13話です。
「将来の夢」。
私は何を書いたかなぁ。少なくとも夢のあることは書いてなかったような気がします。
もっとも会社員とか公務員とかは書いてませんでしたね。怪獣映画を作る人だっけ?
怪獣映画を見る人にはなりましたね。いや、そういう昔の事を思い出させていただきました。
このおはなしでのケンスケはまだ写真に目覚めてなかったようです。
ただ漠然と、今のこの時の時間を切り取ることに喜びを感じていただけ。
もちろん、リツコは写真に誘導しているわけではありません。
彼女は自分に語れることを語っているだけです。
夢は自分で気づく(築く)ものですから。
それにしてもシンジ君は家庭的な子供です。
いいご主人になることは間違いありませんね。
本当にありがとうございます、リンカ様。
続きをお待ち申し上げます。
(文責:ジュン)
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