年号が平成になってもう18年ほど経過した頃だった。
碇シンジは関西への出張に妻を誘った。
宝塚ホテルで開催されるコンベンションに出席するのだという。
もっともそれは出ずっぱりではなく、名刺を出してしばらくその空間にいればいいだけのことらしい。
妻は少し考え、自分たちが家を空けても大丈夫かどうか算段する。
子供たちのことは義母に頼めばOKの筈だと徒歩10分の場所に住む姑に電話で確認し、そして夫に微笑んだ。
関西に行くのはもう20年振りである。
しかも、宝塚は夫と出逢った、懐かしき場所なのだ。
彼女の心が躍ったのは当然のことと言えよう。
「休み扱いって酷いわねぇ」
「仕方がないだろ。そうしないと一緒に行けないんだし」
「本当に生真面目なんだから。黙っていればわからないでしょ」
「そういうわけにはいかないよ。それに出張扱いなら休みもとりにくいからね」
「はいはい、まあ、日帰りよりも有馬温泉の方がいいのは確かだし」
「だろう?」と得意げにハンドルを握る夫に向かって、碇アスカは顔を顰めて見せた。
あの当時、有馬温泉は近すぎて泊まりに行くような場所ではなかったのだ。
それに夫婦水入らずで温泉旅行など新婚の頃以来だった。
「ほら、カーステ、替えるわよ。このためにCD作ったんだから…」
アスカはにんまりと笑うと、CDポーチからCD−Rを取り出す。
やがて車内に流れ出すは懐かしき歌謡曲やフォークソングにアニメソング。
喉を嗄らし歌う妻につられるように夫も声をあげ、二人の車は高速道路を快調に西へ西へと向かっていった。
まだ夜も明けぬ、ある冬の日の午前3時過ぎのことである。
アスカは大いに落胆していた。
無論、宝塚ファミリーランドが閉鎖していることは遠く離れた関東の地でもよく知っている。
しかし、実際にニュース等で見たのはその閉鎖の映像だけだ。
従って、その目で跡地を確認した時、彼女はかなりのショックを受けたというわけだ。
実はシンジの方も少なからず胸を締め付けられたのだが、妻の様子を見ると自分の気持ちを吐露する気にはなれない。
二人の車が入った駐車場は国道沿いにあったのだが、それは宝塚ファミリーランドの跡地にあったのである。
コンベンションの会場であるホテルにも駐車場があるのだが、アスカの希望でそこにしたのだ。
夫が職務を果たしている間、近くの喫茶店で暇をつぶしていてもよかった。
しかしその時間で昔を懐かしみたいと考えたアスカである。
だから、跡地にある駐車場に車を入れ、そのあたりを散策しようと思ったのは当然の成り行きだ。
ところが中国縦貫道路の宝塚インターチェンジを降りて、バイパスを北西へ車を走らせているうちに胸の中にわずかながら不安が生じてきたアスカだった。
彼女が知るこの辺りというのはもう30年も前になる。
しかもアスカが宝塚ファミリーランドへ遊びに行った時は常に阪急電車を利用していた。
電車の窓からは国道近辺の風景は見えない。
そのために彼女としては未知の場所である筈なのだが、何故かしら不安感が胸の奥に浮かんできたのだ。
綺麗な片側二車線の太い道路を車の流れに沿っていくうちに、窓から見えてきたのは背の高い建物。
そんなものは彼らの記憶にはない。
マンションなのか何だかわからないが、その建物が時代の流れを示している。
アスカは次第に言葉が少なくなってきた。
「ここ…、ファミリーランドのあった場所だよね」
「うん、多分。そう、思う」
大きな駐車場だったが、その奥の方に見えるのは森のような木々である。
はっきりと覚えているわけではないが、植物園のあった辺りではなかろうか。
「大丈夫?」
ホテルに向かわねばならないシンジが心配そうに妻に問いかけたのも無理はない。
それに対して負けず嫌いのアスカは当然さっさと行って来いとばかりに夫の背中を押し出した。
遊園地の昔ならばいざ知らず、現在の駐車場の姿では時を超えてきたような二人では身動きがスムーズに行くわけがない。
従って、駐車場から中を通って行けばよいのがわからず、車の入り口の方に回った。
その時である。
アスカは思い出した。
すぐ近くにある建物が何であるかを。
「ほらっ!あれ!あなた、わかる?」
まるで少女のように声を上げる妻の指差す方を見て、シンジは首を捻った。
そこにあるのは古ぼけたコンクリート製の建物である。
「さて…?何だっけ?」
「ふふ、宝塚音楽学校じゃない。歌劇の」
「あ、そうか。あれか」
おそらくその瞬間、二人の頭に浮かんだ風景は同じだっただろう。
小さな橋を潜った場所。一番南のゾーンへ向かうそこから見える風景の筈だ。
そこで幼きシンジはアスカに教えてもらった。
左手に見えるあの場所で歌劇のお姉さんが勉強しているのだと。
歌劇というものすら知らない少年は充分に理解できないままに、もっと魅力的な光景の方に目がいったものだ。
それは目の前に広がる迫力のあるアトラクションたち。
当時はアトラクションという言葉自体認識していなかったが、そんな遊戯器具を見て心を躍らさない子供がいるだろうか。
アスカも彼と同じように目を輝かせて、その光景を見たのだ。
そんな記憶が蘇り、いささか鬱モードに入りかけていた彼女にも笑顔が甦る。
「ほら、さっさと行ってきなさいよ。私はここらを散歩してるから」
「わかった。終わったら携帯に電話するから」
「了解。早めにね」
そそくさと国道沿いを歩いていく夫の後姿を見送り、アスカはさてとと腰に手をやった。
まずは、あの音楽学校を見に行こうかと。
ようやく気分が高揚したアスカだったが、ほんの数秒後に彼女は哀しくなってしまった。
音楽学校が完全に放置されているのを知ったからだ。
建物の裏側に見えたのは、伸び放題に伸びた雑草である。
冬だから建物に這っている蔦が枯れた色合いを示しているのもさらに哀れみを誘う。
アスカは胸が締め付けられるような気分を抑えながら道を歩いていく。
音楽学校の門は開かれていた。
しかし、それは工事関係者が出入りするためのもののようで、建物の玄関は木製の塀で固く閉ざされている。
それを一瞥したアスカは少し俯き加減にとぼとぼと歩む。
そして数秒後、彼女は思わず目じりに涙を浮かべてしまった。
果てしなく広がる荒野。
アスカの目にはそう見えた。
それは何かを作るために整地された空き地である。
そしてそこに見える筈の光景は、その昔二人が小さな橋のトンネルを潜った場所で眺めた景色だった。
アスカは胸を押さえ、唇を噛んだ。
しばらくして、彼女はぼそりと呟いた。
「夏草や、つわものどもが……夢のあと…」
昭和短編集 ー 2006 1月 ー
2008.09.28 ジュン |
アスカは駐車場に引き返した。
泣き顔を他人に見られたくなかったのだ。
子供のように泣く事はなかったが、それでも目の周りは赤くなっている筈だ。
近くに車があってよかった。
彼女はスペアキーを使って後部座席に乗り込んだが、さすがに真冬、ほんの10分ほど前にエンジンを切ったばかりだというのにもう車内は冷えている。
しばらくの間、前のシートにおでこを押し付け、アスカはショックを抑えようとした。
涙はすぐにおさまったが、悲しみはまだ持続している。
芭蕉の句を連想したのは何故だったのか。
あの句は夏の句。今は1月。
それに遊園地ならば兵ではなく子供たちである筈だが、それでもあの有名な俳句は哀しいほどにあの情景に一致する。
まさにあそこは夢の址。
ここに来なければよかった。
アスカは後悔していた。
あんな光景を見なければ、子供の時の夢を汚されることもなかったのだ。
無論営利事業であることは重々承知していたが、それでも遊園地を壊すということは物凄い犯罪のように思える。
聞けばUSJが大阪に開業したために来場客が激変したために閉園したということだが、その実前々から廃業するタイミングを計っていたのではなかろうか。
悲しみから憤りへと意識を転じたアスカは少しばかり気が晴れた。
そして、腹に力を入れる。
こうしてばかりはいられない。
何故ならば、そのうちに夫が戻ってくるからだ。
泣き顔を見られたくはない。
それに、感受性が強いのは彼女以上の夫の悲しむ顔を見たくないからだ。
こうなれば、あの強烈な光景を彼に見させないに限る。
そして、何か見つけるのだ。
あの日を思い出すようなものを。
何か少しくらい残っているだろう。
ささいなものでもいい。
それを見て、ああ無くなっちゃったんだねと笑いあえるような…。
アスカは頷いた。
車のドアを閉めたときの彼女の表情には翳りはなかった。
シンジが初めて出逢った時の様な、自信たっぷりでやる気満々といった感じのアスカであった。
寧ろその顔には笑みが浮かんでいる。
そういえば「よかった探し」なんてものがあったわよねぇと心の中で呟きながら、彼女は歩き始めた。
まずは昔の面影を残す植物園らしきものの方向へ。
その場近くに立ち記憶の古池を攫ってみたが、おそらくこんな感じではなかったかと思うだけだった。
彼女は苦笑した。
あの頃、植物園などにまったく興味はなかったからである。
あそこで記憶にあるのはワニくらいなもので、正直に言うと建物の外観もよく覚えていない。
熱帯植物園という名前だったかどうだか。
その近くにジェットコースターが走って…。
アスカは目を閉じ、必死にあの頃のことを思い出そうとしていた。
確かこのゾーンには急流すべりとか…サファリパーク…だっけ…、あれ?鬼太郎はここだったかしら?
彼女は溜息を吐いた。
もう30年以上も前の話なのだ。
彼女が宝塚ファミリーランドで遊んだのは十数回である。
シンジと出逢う前の数回の記憶はあまりない。
それにひきかえ、あの夏の夜以降ははっきりと覚えている。
ところがその記憶はシンジと二人で何かをしたということばかりでアトラクションの位置関係などは断片的なのだ。
ここに来ると決めてからあれやこれやと思い出していたのだが、浮かんでくるのはシンジとのことだけであった。
何に乗ったかとか何を食べたかとか。
あ〜らら、駄目ね。
今度の苦笑は限りなく微笑みに近いものだった。
それは夫との思い出がぎっしりと詰まっているからに相違ないからだ。
彼女はゆっくりと歩を進めた。
歩いていくのは遊歩道。
庭園の中をわずかに左右へ形をくねらせながら、その脇には小さな溝が配置されている。
平日のためか駐車場は1/3ほどしか車は埋まっていなかった。
庭園を歩いている人も目的があるというよりも散歩といった風情である。
碇夫妻は名神自動車道のサービスエリアで早めの食事を済ませていたので、もう午後1時過ぎになっていたが小腹も空かないし喉も渇いていない。
ただ風が吹きっさらしなので、アスカはコートの前をしっかりと閉めた。
マフラーを車に取りに行こうかとも思ったが、それよりも早く何か探し当てたい。
あの頃を思い出すような何かを。
そう思いつめて歩いていると、何のきっかけもなく彼女の目にある光景が浮かんだ。
あ…。
なんだ、この道……。
遊歩道にしては巾が広すぎる。
この道は遊園地のメインストリートそのままなのではないか?
そう考えてみると、道の曲がり具合にも何となく覚えがあるような気がしてきた。
眼前の風景を目に焼き付け、目を閉じてみる。
瞼の裏に残っている記憶とつき合せてみようとしたのだ。
その結果は正解だという答えだった。
道の色までは思い出さない。
しかし、確かにこの道に違いなかった。
彼と初めて手をつないで歩いたのはこの遊歩道の筈だ。
あれは中学2年の夏休み。
ああ、そういえばあの溝にも記憶がある。
どのあたりでかは判然としないが、小学校の時にはしゃいで何度も飛び越えながら前へ進んでいった。
その時、一緒にいた少年に同じ真似をさせて、その結果溝に転落させ靴を濡らし脛に擦り傷をこさえさせてしまった。
アスカは一瞬舌を出す。
あの時はたいそう母親に叱られてしまった。
意地でも泣くものかと頑張ったのだが、最後には泣き声を上げてしまったのである。
それもこれも今となってはいい思い出だった。
「あったじゃない。ちゃんと…」
小さく声を出すと、アスカはうんと頷いた。
もっとある。
きっとある。
きっかけとは凄いものだ。
今歩いている場所が間違いなくあの懐かしい遊園地のあったところだと認識できた途端に、気持ちに張りが出てきた。
挙動不審者に思われない程度にきょろきょろと周りを見渡す。
するとある建物が目に入った。
しかし、それは過去の記憶にあるものではない。
ついこの間、インターネットで見た建物が左手に見えた。
虹色に輝くドームが人目を引く。
アスカは夫がここに寄りたいんだけどと力説していたことを思い出す。
それは手塚治虫記念館だった。
昭和が終わったその年、冬の日に亡くなった漫画家のことはシンジだけでなくアスカも好きだった。
あの日、カーラジオで訃報を知ったシンジは公衆電話からアスカに連絡をしてきた。
彼はかなりショックを受けたようで、しばらくは手塚漫画を読みふける毎日だったのだ。
因みにアスカは彼の出勤中にやはり手塚漫画を読んでいた。
鉄腕アトム、ジャングル大帝、リボンの騎士にワンダースリー。
亡くなったという事の影響だろうか、できるだけハッピーエンドのマンガばかり読んでいた碇夫妻だった。
そんな二人だから、この機会に記念館を訪れようと思ったのは当然だろう。
今は『鉄人28号VS鉄腕アトム展』が企画展示されているとのことだった。
その建物はシンジが向かった宝塚ホテルの道すがらにある。
おそらく夫はわくわくした気分で記念館を横目に歩いていったに違いない。
そのことを考えると、アスカはついにやついてしまった。
そしてその笑顔のまま、彼女は何度か瞼をばたつかせる。
記念館の手前に見える池に見覚えがあったからだ。
あの池のほとりにレストランがなかったっけ?
そうだ、池はもっと大きくて…、足こぎボートとか浮かんでて、それから…それから…。
ちょうどその時、飛行機の爆音が響いてきた。
大阪空港の飛行機に慣れている住民にはたいした音ではないが、街中でジェット機の音などこのところ耳にしていなかったアスカはびくりとしてしまった。
そしてその音で思い出したのだ。
そうだ!ジェットコースター!
この池の上を走ってたんだ。
嫌がるシンジを強制的に乗せて…。
あれは初めて会った時の…。
アイツ、アタシにすっかり騙されちゃって。
あ…、私、シンジのことを“アイツ”だなんて…。
久しぶり。
あの頃は私は自分のことを“アタシ”って言ってったっけ。
よし!何かいい調子!
あ!あれ!
反対側を見たアスカはグリーンに塗られた小さな橋を見て顔を輝かせた。
あれは急流すべりのボートが潜った橋ではないか。
とすれば、この周囲がコースになっていて…。
アスカは少し早足に先を進んだ。
右側はこの遊歩道から外れていて何かの商業施設になっているようだ。
もし時間があれば後で夫と二人で入ってもよい。
身体を前に向けると、遊歩道の先、赤茶けた葉が茂る木々の向こうに見えるのは大きな階段だった。
アスカはふらふらとした足取りで前に進んだ。
横幅10m以上はあろうかという大きく広い階段。
それは間違いなく、ファミリーランドに来た時に必ず通る大階段だ。
道路を跨ぐためにかなりの大きく作られている。
こちらから向かっているならば、橋の向こうには大観覧車やメリーゴーランドにスリラーハウス、そして動物園がある。
いや…、あった。
過去形だということに、アスカはすぐに気がつく。
何故ならば、階段の向こうに見える青空に何も見えないからだ。
あの堂々と聳え立つ大観覧車がそこには見えない。
真夏の熱い時間に係りのおじさんにやめといた方がいいと言われながらも、意地を張って強引に乗ったあの大観覧車。
アスカは寂しげに笑った。
「全部なくなっちゃったんだ。ふふ」
さっきはつい駆け出しそうになってしまったが、すぐに現実に気がつきアスカは普通に歩いていく。
そして、右側に見えたものが何であるかを知り、自嘲するように顔を歪めた。
それは遊戯施設の名残を示すものだったのである。
「これって…えっと、あ、サファリランド。いや、サファリパークだっけ?」
車に乗り射的のように猛獣狩りをするアトラクションだ。
アスカの騒ぎ声がうるさくて集中できないと、シンジはぶつくさ文句を言っていたわよね、あの時。
ここは降りる場所だっけ?それとも乗るところ?
まったく覚えていないが、その時の二人の様子だけはすぐに思い出す。
彼女は微笑んだ。
シンジの声が聞こえてきそうだ。
今のように落ち着いた声でなく、ボーイソプラノといってもいいくらいの高い声だった。
「やめてよ」とか「勘弁してよ」とか「放っておいてよ」などという発言の何と多かったことか。
それに対して私は「うっさいわね」の一言で片付けていた。
アスカはそんな昔のことを懐かしく思い出し、落ち込みそうになっていた心を奮い立たせる。
さぁて、動物園の方はどうなっているんでしょうねぇ。
心の中でわざと明るく言った後、アスカは階段を上っていった。
そして最上段に辿り着き、歩道橋の向こう側を見た瞬間、彼女はその場に立ち尽くしてしまった。
そこに見えたのは、メリーゴーランドだったのである。
幻ではない。
その周囲には遊具の欠片もないが、確かにそれは宝塚ファミリーランドにあったメリーゴーランドに違いない。
アスカは息を呑んだ。
何度も眼を瞬かせたが、メリーゴーランドは消えてなくなりはしない。
彼女は第一歩を躓きかけたが、すぐに体勢を立て直しどたばたと威勢良く歩道橋を走った。
運良く通行人がいなかったので、白人女性が血相を変えて走るという姿は誰にも見られていない。
もっともそんなことを気にするアスカではない。
子供の運動会では父兄参加種目の常連の彼女なのだ。
恥ずかしがって嫌がる夫を強引に連れ出すその姿には子供たちも毎度頭を抱えているのだ。
しかしながら、息子の方は父親に毅然として参加して欲しいという気持ちであり、娘の方は純粋にお父さん可哀相なのだ。
いずれにせよ、母親の行為を迷惑がっていないということは碇家が順風満帆であるという証明だろう。
ともかく、父兄参加障害物競走に出場しているような勢いでアスカは歩道橋を駆け下りていった。
彼女はメリーゴーランドの手前、10mばかりのところで立ち止まった。
「あるじゃない。動いてないけどさ」
まるで少女の時代のような物言いをし、アスカはしげしげと巨大な遊戯器具を見渡した。
これが動かないモニュメントであるとしてもとにかく嬉しい。
やっと過去の記憶と現在の情景が繋がってくれた様な気がする。
アスカはうんうんと頷いて、それから周囲を見渡す。
メリーゴーランドの周りの建物を確認して、彼女は思わず吹き出してしまった。
駆けてきた時はメリーゴーランドしか目に入っていなかったのだ。
「何よこれ。住宅展示場?」
まさしくそこは住宅メーカーの展示場だった。
例の大きな歩道橋のあたりからメリーゴーランドの手前まで、綺麗な家が並んでいる。
ふぅ〜んとアスカは腕組みをする。
こちら側が住宅展示場で、メリーゴーランドの向こうは大駐車場。そしてその向こうには…。
トイ…、いや、ベビーの方だ。
海を渡ってきた特大量販店のマークを確認して、アスカはにやりと笑った。
なるほどよくできている。
赤ん坊も新築の家も、どちらも家族の夢ではないか。
その夢の真ん中にメリーゴーランドがあり、しかもそれは何年もの長い間子供たちを楽しませてきたものだ。
うんうん、よくできている。
これを考え付いた人間に表彰状をあげたい気分。
アスカはすっかりご機嫌になった。
その機嫌はメリーゴーランドの周りをぐるりと回っていくとさらによくなったのである。
何故ならば、歩道橋の反対側に券売機があったからだ。
それは遊戯器具とセットで保存されていたものでもなく、そしてレプリカでもない。
その券売機は実働していたのだ。
つまり、メリーゴーランドに乗りたい者は券売機でその自動販売機で券を買えということ。
すると、実際にこのメリーゴーランドは動くということになる。
雰囲気づくりのためにではない。
アスカは券売機に書かれた注意の最後の一文を見て、にんまりと笑ったのだ。
『係員のいない時には運転いたしません』
遊園地で稼動していた時にこんな文章はありえない。
メリーゴーランドは遊園地の花形である。
機械の点検でない限り、馬や馬車が足を止めることはない。
それらが停止するのは、子供たちが乗り込むその時だけ。
今もそうなのだ。
大観覧車やスリラーハウスが近くにいた時よりも、遥かに長い待機時間ではあるが。
しかし、それはあくまで“待機”なのだ。
休止でもなく停止でもないのである。
アスカはふっと息を吐いた。
白い息が少しだけ広がり、そして消える。
その時、ポケットの携帯電話が鳴った。
着信音やディスプレイを確認するまでもない。
アスカには誰からのコールかすぐにわかった。
「もしもし、あなた?すっごいの見つけたわよ。今、どこ?ホテルを出たところ?
遅い!さっさと私のところに来なさいよ。どこかって?ふふん、それはね…」
彼女はまるで少女が恋人に語りかけるように、息せき切って喋り続けていた。
アスカの青い瞳はきらきら輝いて…。
そう、あの頃のように。
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