あら、アスカ。あのワンピースじゃないの?」
「あったり前じゃない。どぉ〜して、一番のお気に入りを着ていかないといけないのよ」
「だって、昨日の夜は…」
「はんっ、今朝までは着ていく気だったわよ。ママの嘘つきっ」
じろりと恨めしげに自分を見上げる娘の眼差しを受けても、彼女の母親はびくともしなかった。
動じる気配もまったくなしに、惣流キョウコは微笑みながら一人娘を見送る。
「いってらっしゃい。午後6時に宝塚の南改札よ」
「知らない。いってきますっ!」
運動靴を履いた惣流アスカは振り返りもせずに玄関を飛び出していった。
かなり腹を立てているのだが、それでも挨拶だけはちゃんとするあたりは躾ができている証拠か。
扉が閉まり娘の赤みがかった長い金髪が見えなくなると、キョウコはふっと表情を曇らせ、ひとりごとを漏らした。
「巧くいけばいいけど…。あなたの作戦通りに行くのかしら、ユイ?」
ー 1975 8月 ー
2008.09.28 ジュン |
「アンタが碇シンジぃ?はんっ、冴えない感じっ!」
見知らぬ駅の改札口を出たところで、いきなり外人の少女にこんな風に叫ばれればあなたならどう反応するだろうか。
おそらく、ほとんどの人が目を白黒させてしまうことだろう。
碇シンジ少年もそうだった。
東京から新幹線で新大阪へ。
そして阪急梅田駅に移動した彼は二人きりで旅行してきた母親に捨てられたのだ。
厳密に言うと少し違うのだが、少年の心の中ではまさに“捨てられた”が正しい。
彼は微笑む母親を精一杯の抗議を込めて睨みつけた。
しかし、碇ユイという女性はまったく怯む事もなければ、息子を可哀相に思い考え直すこともない。
ただ誤解しないでいただきたい。
彼女は息子を信頼しているからこそ、この試練を与えたのだ。
子供抜きで親友とのショッピングを楽しみたいというだけのことで。
あの電車で終点まで行き、そこである人に会ってその人の言う事を聞きなさい。
母親はそう告げた。
もっとも終点の駅の様子は詳しく教えている。
進行方向に向かって真っ直ぐ歩き、どんつきを左に折れ、その奥の改札に向かう。
そこを出ると、一緒に遊園地に行くお友達が待っている。
相手にはシンジの服装を教えているからすぐに声をかけてくれるだろう。
確かにそこまでは母親の言うとおりだった。
従順で頭のいい子で浮ついたところがほとんどないシンジは、道草もしなければうろうろと迷ってもいない。
ただ電車の座席には座らずに扉のところに立って、窓の外の見知らぬ風景に心躍らせていたのだ。
彼も子供だから遊園地という存在にはわくわくしてしまう。
ただ少し内弁慶なところがあるシンジは見ず知らずの相手と遊ぶというのがかなり不安だった。
“あすか”という名前の元気な男の子だと母親はにやにやしながら言っていた。
番長とかみたいな暴れん坊じゃなければいいんだけど…。
シンジは乱暴な(と感じてしまう)関西弁を喋る豪快な少年を相手だと想像していた。
彼は電車の中で「スマイル、スマイル」と自分に言い聞かせている。
胸に着けたスマイルバッジのデザインのようににっこり笑っていれば、向こうも乱暴などしないだろう。
シンジとて男の子である。
年に何度かは取っ組み合いの喧嘩をすることはあった。
しかしそんなに強い方ではないシンジとしては、できるだけ波風は立てたくない。
何しろ相手は関西弁の暴れん坊なのだ。
ところが、その相手は少年ではなかった。
女の子、である。
まして、日本人でもない。
国籍は日本人だということだったのだが、初対面の人間にそれがわかるはずもない。
その上、言葉も発さずにぐぐぐっと詰め寄ってきたのである。
シンジが眼を白黒させて反応に困ったのは当たり前だろう。
改札口を出たところで左右を見渡し立ち止まった瞬間に、突然目の前にその女の子が飛び込んできたのだ。
そして、彼の胸倉…ではなく、肘だったのだが、シンジにとっては胸倉をつかまれて引きずられていったような感覚を受けたのである。
改札から少し離れた場所まで連れていかれたシンジはそこで女の子から開放された。
ようやく彼は女の子をゆっくりと観察できた。
金髪、青い眼、白い肌(やや日焼けで赤くなっている)、ジーパン、Tシャツ、野球帽(阪神じゃない)。
顔は…不細工じゃない。いや、かなり可愛い方だと思うが、その目つきといったら…。
シンジが女の子を観察していたように、向こうも彼のことをしげしげと見ていたのだ。
それはもう意地悪そうな目つきで(と、シンジには思えた)。
そして、彼女は冒頭の言葉を吐いたのだ。
「アンタが碇シンジぃ?はんっ、冴えない感じっ!」
彼女の口から出てきたのが日本語で、シンジはまず胸を撫で下ろした。
しかし、何故自分の名前を知っているのか?
一瞬考えた彼はおそらくこういうことだろうと判断してその推理を口にした。
ポプラ社の少年探偵団シリーズの小林少年を気取って。
「こんにちは。君はあすか君の妹?」
シンジの推理を聞いた途端に、女の子は見る見る険しい表情になる。
腰に手をやって顔を少し傾げた。
「アタシが妹?」
ああ、そうか、とシンジは自分の間違いに気がついた。
女の子は自分よりも何センチか背が高いではないか。
「ごめん。お姉さんだったんだ」
「アンタ、生年月日は?」
「へ?」
「生年月日!覚えてないわけないでしょっ!」
「あ、う、うん。昭和39年6月6日」
「あ、そ」
女の子は野球帽を脱いだ。
そしてその野球帽をぐにぐにぐにと丸めたかと思うと、凄まじい勢いで目の前のシンジの身体に投げつけたのだ。
わっと驚いた時にはもう野球帽は彼のお腹にぶつかっていた。
おお、何て乱暴な女の子だろうか。
近所にも学校でもここまで乱暴な女の子は見たことがない。
まったく痛くはなかったが、いささか腰が引けたシンジに女の子は詰め寄ってきた。
「あんたねぇ、年下の女の子をつかまえてお姉さんですってぇ?」
「え、あ、ご、ごめん。じゃ4年生なんだ」
「ふんっ!日本の小学校のことなんか知らないわ。アタシの誕生日は1964年12月4日よ」
「19…」
シンジは一生懸命に計算した。
今年は1975年である。
1964年ということは…ええっと…あ、東京オリンピックの年…って、それじゃ昭和39年じゃないか!
「な、なんだ。じゃ、同級生じゃないか」
「ふんっ、それでもアンタより年下なんですからねっ」
「ごめん。じゃ、あすか君は君のお兄さん?」
シンジは自分の推理に固執していた。
しかし、女の子は鼻息も荒く、肩を上下させた。
何か投げつけてやろうかというような感じであったが、唯一の得物であった野球帽はもう使用してしまっている。
その野球帽は今はシンジの手の中にある。
路面に落ちたのを彼が拾い上げ、元の帽子の形にしてさらに砂埃を払っているところだ。
ここが舗装されていて石ころが落ちていなかったのがシンジの幸福だっただろう。
女の子は歯軋りせんばかりの表情で、ゆっくりと口を開いた。
「アタシの名前はアスカ。アンタ、アタシをいったい誰と勘違いしてるわけぇ?」
「えええっ」
その瞬間、シンジは了解した。
母親に見事に騙されてしまったことを。
彼は文字通り頭を抱えてしまった。
さすがに蹲ってしまったシンジを見て、アスカも攻撃の手を止める。
「ちょっと、アンタ。どうしたのよ」
「騙されたんだ。母さんに。男の子だって。女の子って知ってたら、僕…」
「知ってたら?」
アスカも蹲った。
平日とはいえ、夏休みだ。
遊園地にいく家族連れは多い。
その駅前で、少し脇にいるとはいっても人通りは多い。
さすがにその中で大声を出すのは憚られる。
この時点まで大声を上げていたことは、とりあえず忘れようとアスカは思った。
「どうだってって言うのよ」
「……来てない」
シンジはアスカを見ずに、アスファルトを睨みつけながらようやく言葉を出した。
少し迷ったのは、すぐ近くにいるアスカに配慮したためだ。
配慮といっても、彼女の気持ちを考えたわけではない。
暴れん坊の男の子ではなかったが、それでもかなり気の強い女の子であることは確かだ。
帽子を投げつけられたのだから、変なことを言うとビンタされるかもしれない。
だからこそ、恐る恐る言葉を搾り出したのである。
ところがシンジは意外な返答を耳にした。
「でしょうね」
びっくりして顔を上げると、そこに見えたのは外人の女の子の笑顔だった。
それは嘲笑しているのではない。
憐憫とまではいかないまでも、明らかに彼の立場に同情している微笑である。
「アタシの方は最初から聞いてたから。ま、ちょっと腹立つから、アンタにぶつけたわけよ」
「本当?」
「うそ」
「えっ!」
にんまりと笑うアスカが立ち上がって背中を向ける。
呆気にとられたシンジはその背中を見つめた。
「で、どうする?」
「え?」
アスカはこっちを向かない。
背中を向けたまま、彼女は喋り続ける。
「アタシについてくる?それとも、一人で何とかする?」
「何とか…って…」
「今日はどこに泊まるか、聞いてるの?」
「え…、知らないけど、旅館?」
「違うわよ。アタシの家。アンタとアンタのママの二人分の寝る場所をつくるの、大変だったんだからね」
「ええっ!そ、そうなのっ?」
「このまま迷子になる?東京に帰れる?どうすんの?3つ数えるから、決めなさいよ」
「ち、ちょっ」
慌てふためくシンジは待ったをかけようとしたが、彼女は待ってくれない。
それどころか、あっという間に「321」と早口でカウントしたのだ。
「はい、タイムアップ。決められなかったんだから、ついて来なさいよ。ふんっ」
「どこに?」
「ファミリーランドに決まってんでしょっ。軍資金はたんまりあるから、好きなだけ遊んでやる」
くるりとこちらを向いたアスカは顎でこっちだと示す。
「行くわよ、馬鹿」
「ば、ばかっ…!」
「関西風にアホにする?どっちがいい?馬鹿とアホとなら」
「どっちかって言われたら、そりゃあ、馬鹿の方がまし…」
「じゃ、馬鹿に決定」
「ええっ、ぼ、僕には碇シンジって名前が…」
「はんっ、うっさいわね。じゃ、特別に馬鹿シンジにしてあげる。どぉお?嬉しいでしょ、馬鹿シンジ」
「そ、そんな…ああ、待ってよ」
ずんずんと歩きはじめたアスカの背中をシンジは勢いで追いかけてしまった。
冷静に判断する余裕もなく、ただその場の雰囲気で。
ついてくる気配を感じ取って、アスカは少しだけ歩調を緩めた。
その後、ファミリーランドの入場門へ至る道を二人は無言で歩いた。
シンジとしては何を喋っていいかわからず彼女から何も話しかけてこないものだから、ただその背中を追って1mほど後をついて歩くだけである。
アスカの方はどうだったのだろうか。
実は彼女は戸惑っていた。
どうして優しい言葉(彼女としては最上級だった)をかけてしまったのだろうか。
本当は喧嘩を吹っかけて相手を迷子にしてしまってもいいと思っていたのだ。
それが何故か一緒に行動させている。
保護意識…などという言葉を彼女が知るわけがない。
まだ11歳なのだ。
もし数年後の彼女ならば「あんな馬鹿、アタシが面倒見てやんなきゃどうしようもないじゃない」で終わらせるところだろうが、
まだ初恋も知らぬ少女であるこの時のアスカは自分の心の動きに釈然としなかったのだ。
あの頭の抱え方があまりに哀れを誘ったからか。
それともからかいがいのある相手と踏んだからか。
アスカはその日の朝を思い出していた。
彼女が遊園地を案内する相手が男の子だと知ったのは朝食を食べた後だった。
それまでは「ママの親友の子供。可愛い顔してるわよ。アスカと同い年だしね」と言われていただけで、当然同性の女の子だと思い込んでいたのだ。
無論、アスカは抗議した。
しかし結局、彼女は折れるしかなかったのだ。
父親が海外赴任中で(アスカの視点ではそうなる。事実はアメリカ本社勤務中)、15年振りに会う友達とゆっくり話をしたいと言われれば、仕方がないと思わざるを得なかった。
それにいずれにせよ、母親たちが会話をしている間、自分がその少年の相手をせざるを得ない。
あの長い長い母親のショッピングの間、ぼけっとそいつと待っているというのも癪である。
となれば、ここは素直に母親から軍資金を頂戴し、遊園地に向かう方が得だ。
そんな風に判断した彼女は、一人宝塚駅を目指したわけだが…。
午後6時に宝塚の駅で待ち合わせだと約束をして、アスカは一人阪急電車今津線で北へ向かった。
だが、電車の中で彼女は次第にむかっ腹がたってきたのだ。
何故、その男の子と遊園地で遊ばねばならない。
よく考えれば、男の子と1対1で遊びに行くなど、アスカには一度も経験がなかった。
外国人学校の仲間とプールに行ったりすることは何度かあった。
しかしそれはグループであり、尚且つそれも今年は行っていない。
それは何故か。
白人や黒人の友人たちに比べると、アスカは発育が悪い。
日本人の同世代に比べるとかなりいい方だといえるが、外国人の中ではまだまだ子供体形なのだ。
友人たちの中にはもうブラジャーを着けている者も多いのである。
負けん気の強いアスカにとってはそれは大いに屈辱だった。
しかもそれまでの彼女が学校の中で目立っていた存在だっただけにその反動は大きかった。
日本語と英語を流暢に操るアスカは言語以外の学力も学年トップに君臨していた。
その上リーダーシップをとりたがるから、周囲の女生徒たちもも彼女を憎むところまではなかったが、これ幸いとアスカに対してその違いをアピールし始めたのである。
彼女たちは苛めているわけではなかった。ただ、優越感に浸っているだけ。
だが、アスカにとっては違う。
生まれて初めての劣等感は、彼女の心を大いに傷つけたのだ。
学校を休むところまではいかなかったが、それでもアスカは次第に精彩を放たなくなってきた。
本人のやる気がだんだん失せてきた、ということが一番大きかったのだろう。
そんな彼女の姿を母親はしっかり見てきている。
そもそもアスカは幼稚園は普通のものに通っていた。
日本国籍なのだから公立の学校教育をさせようと思っていたのだが、その幼稚園でアスカは異端児にされた。
ただ見た目が違うというだけで。
外国人の多い神戸だったが、それでも一般の学校にその子弟が通うということはほとんどなかった。
入園式の時点からアスカは疎外感を味わい、これまで一緒に遊んでいた近所の子供たちまでも彼女とは行動を共にしなくなったのである。
その時、アスカの母親は自分の読み違いに気がついた。
自分の子供の時はやはり普通の幼稚園に小学校と日本人の容姿の子供たちに混じって学校生活を送っていたのだ。
その違いはどこかというと、神戸は外国人が多いので逆に外国人の通う学校がある、ということに他ならない。
自分の場合は他に通うところがないから大人たちがそれを許容していたといえる。
子供は親たち、先生たちの顔色を微妙に察知できるものなのだ。
アスカが日本人の中に混じって通い、尚且つ彼女の能力がぬきんでいたから余計に浮いてしまったわけである。
結局、アスカは外国人学校に通うようになった。
そして、復活を遂げたわけなのだが、今度はせっかく溶け込んでいた外国人の中で浮くようになってしまった。
今回はアスカ自身の劣等感の芽生えが元になっているだけに、対応が難しい。
また日本人の学校に戻せばいいという問題ではないからだ。
そんな悩みをアスカの母親は学生時代の親友へ手紙に綴ったのだ。
そして、その親友が西へ向かった。
彼女曰く、特効薬を連れて。
その特効薬らしい少年はこれからどうなるんだろうかと溜息を吐いた。
目の前の女の子の髪の毛が左右に揺れている。
金髪…というより、赤茶色といえばいいのだろうか。
すると、その赤茶色がくるりと一閃した。
「アンタ、何よ、その溜息!いやいや着いてくるんなら、帰ったら?」
「ご、ごめん!もう道わからないし」
「はんっ、振り返って真っ直ぐ歩いていけば駅に戻れるわよっ。アンタ、方向音痴?」
「うん」
正直に言うと、アスカはにんまりと笑った。
「じゃあ、鏡の迷路は?アンタ、一人で出られる?」
「えっ、あ、あれ?あれは無理。絶対無理。一生出られない」
シンジはかなり慌てた。
東京の遊園地で何度か試したことがあるが、いつも誰かの背中を追いかけることになっていたのだ。
言葉だけでなく表情もかなり差し迫ったものになっていたのだろう。
彼の顔を見て、アスカは満足げに笑った。
「OK。それじゃあ…」
その後は何も言わなかった。
アスカはまた背中を向けると、ずんずんと歩いていく。
もちろん、シンジは後を追いかけた。
駅に戻れたとしても彼にはもうどうする事もできない。
彼にできることは何としても彼女にはぐれることなく着いていき、そして母親と再会することしかないのだ。
シンジはまた溜息を吐きそうになり、慌てて口を押さえる。
また彼女に叱られてしまう。
それに…。
鏡の迷路はこの遊園地にあるのだろうか。
もしあるのならば、絶対にそこに連れて行かれるだろう。
彼には確信があった。
この初対面の女の子はそういう人間だ。
迷子になっている上に、さらに迷子にならないといけないのかと彼は暗鬱たる表情で俯き、すぐに顔を上げた。
どんなに迷子になってもやはり彼女の背中だけは見失ってはならないからだ。
懐かしの我が家へ帰るために。
ほんの数時間前にその玄関から出てきたばかりだったが、彼にはそれが何百年も前の出来事のように感じたのであった。
「アンタねぇ、何か喋んなさいよ」
「え、あ、うん。えっと、動物園もあるんだね」
「そんなの見たらわかることじゃない。アンタ馬鹿ぁ?」
「ば、馬鹿…って、またぁ……」
「仕方ないでしょ。馬鹿に馬鹿って言って悪い?」
悪いと思う、とは言い返せなかった。
それは怖いからではない。
しかしはっきりとした理由はわからない。
ただ、何となく、そう思うだけだった。
「まずは立体動物園に行くわよ。ほら、いつまでもアシカ見てないの」
「あ、うん」
あれ?
アスカは自分に違和感を持った。
何か…、楽しい?
それは確かだった。
何度か来たことがある遊園地なのに、どうしてこんなにわくわくするのだろうか。
よくわからないままに、彼女は立体動物園の入り口へ向かった。
自分の心を分析するよりも目の前にある楽しみを採りたい。
子供としては当然の選択だろう。
「あ、あのさ、動物園なのにどうしてジャングルなの?」
「はぁ?アンタ馬鹿ぁ?アフリカっていえばジャングルじゃない。当然でしょうが」
「あ、そうか。そうだよね。でもさ…」
「でも、何よ」
立ち止まりきょろきょろと周りを見渡すシンジの目の前にアスカは仁王立ちする。
いつの間にかシンジは普通に会話ができるようになっていた。
アスカに慣れてきたというよりも、これが遊園地効果なのであろう。
初めて入場する遊園地でローテンションを維持することは子供には困難だ。
「ま、まさか、動物が放し飼いになっているってことないよね」
「はい?ライオンとか虎が?」
「へ、蛇とか、ゴリラとか」
「あのねぇ、そんなのいたら、誰も外に出られないじゃない。皆殺しってヤツになっちゃうでしょうが。アンタ、ホントに馬鹿ね」
「でもさ」
「ふんっ、ぶるってるんなら置いてくわよ。何出てきても知らないから」
アスカは順路に沿って歩いていく。
待ってよと声を上げて後続の少年は駆けてきた。
それに応じて、彼女はにんまりと笑った。
じつにからかい甲斐のある相手ではないか。
この先の夜行性の動物の部屋に行けばどういう反応をするだろうか。
怖いよぉと泣き出す?
さすがにそれはなかろうが、何かしらの反応はしてくれそうだ。
いや、してくれるに決まっている。
ああ、これは6時までいい暇つぶしができそうだ。
もしキョウコがこの場にいたならば、ほっと安心して微笑んでしまいそうなアスカの生き生きとした笑顔がそこにあった。
「君には怖いものはないの?」
「アタシ?」
へっへっへと誇らしげにアスカは笑った。
「そんなのあるわけないじゃないっ」
アスカは嘘を吐いた。
彼女の怖いもの。
怒ったときのママ、納豆(これは嫌いなものか)、それに鼠。
4歳の時にかくれんぼうをして遊んでいたアスカがここなら絶対に見つからないだろうと身を潜めようとした、その場所に鼠が十数匹いたのだ。
そこは使用されなくなった石のゴミ箱だった。
木の蓋を外し、さて中に隠れようとしたアスカの顔のすぐ前(といっても60cmは離れていたが)を突然明るくなって驚いた鼠たちが右往左往したのである。
彼女のショックは大きかった。
1匹2匹ならばそうでもなかったのだが、そう大きくもないゴミ箱の中で元気一杯に走り回る大群(に思えた)を見てしまったのだから仕方がないだろう。
それからは鼠という言葉を聞くだけで身の毛がよだつ始末だ。
もっともそれを他人に知られないように頑張っているアスカであったが。
「へぇ、凄いね。僕、ジェットコースターとかは絶対に駄目だよ」
えへへと恥ずかしげに笑う彼は、とんでもない情報をアスカに与えてしまったことを知らない。
アスカは絶対にジェットコースターに乗ろうと決めた。
もちろん、怖いというシンジと一緒にだ。
一人でなど乗ってたまるものか。
しかし、その場では彼に気取られないように「あ、そ」で済ませた彼女だった。
立体動物園を出た二人はまずは動物たちを見物し、それから大きな歩道橋を渡った。
その上に立つとシンジが小さく歓声を上げた。
「わぁ、凄いね」
「でしょう!ふふん」
アスカにとっては何度目かの見晴らしである。
しかし、初めてこの光景を見るシンジにとってはわくわく感を抑えられない。
右手には森と池。
その池の上をジェットコースターが轟音を上げて疾走している。
左手の方には急流すべりがあり、前方の遠くにはもっとたくさんの遊戯施設が見えるのだ。
そして彼らのいる近くからパノラマロープウェイが園内を巡っている。
赤や黄色、青色などの原色に塗られた円形のかごが人々の頭の上を横切っていく。
さらにロープウェイとは別に橙色のモノレールも上空を走っているのだ。
子供たちの歓声や遊戯の動く音、それに園の脇を大きな音を立てて走る阪急電車の音も加わる。
それらはこれでもかというくらいに少年の意識を刺激していた。
この時既にシンジは母親に騙されたことをすっかり忘れていた。
因みにアスカもそれは同じである。
例え彼女は見たことのある光景であっても、連れがこんなに喜んでいるのだ。
感情的に引き込まれてしまう上に、地元の人間としては誇らしく思うのもある。
「ふふん、どぉお?すっごいでしょう」
「うん!凄いや!電車だってあんな近くに」
「お!電車っていえば、いいとこがあるわよ!ついてきなさいよ、馬鹿シンジ」
「馬鹿はやめてってば…あ、待って」
馬鹿をやめる気のないアスカは一段抜かしで階段を駆け下りていく。
彼女の目的は電車館だ。
確か右手の森の連なりのどこかにあったはず。
メインロードの右手を見ていれば標識があるだろうと、アスカは見当をつけていた。
確かに標識がありその場所までは容易くいくことはできたが、標識があるだけにシンジにもどこへ向かっているか知られてしまったのは誤算だった。
電車館の前で「凄い!こんなのもあるんだ」と言わせたかったアスカなのである。
もっとも途中で知ったシンジではあったが、中に入るとアスカの期待通りの反応をしてくれた。
実物大の阪急電車の車体があり、大きな鉄道模型もある。
どこから行こうかとたたらを踏んでしまったほどだ。
「こっち!電車の中にも乗れるよ」
「うん!」
ここに来るとその喜びようがまるで男のみたいだと母親にからかわれたアスカだった。
ここ3年ばかりはファミリーランドにきても電車館に来なかったのだが、やはりいまだに面白いようだ。
電車の椅子に座ったり運転席のレバーを触ったりして実物の電車を満喫した後は、大きな鉄道模型である。
シンジは財布を取り出すと、どの電車を動かそうか目を皿にして模型を眺める。
「アタシ、あの赤いのにするっ」
赤色が好きなアスカはさっさと自分の電車を決めると硬貨を放り込む。
その素早い動作に負けてはならぬとシンジは彼女のすぐ隣のものに慌ててコインを入れた。
「ふぅん、紫色のか。ふふん、アタシの方が絶対にいい線路を走るんだもんね。あんたのはトンネルばっかりだったりして」
当然、同じ線路を走る電車はない。
自分のお金で動き出した電車を追いかけて模型のガラス越しにぐるぐると回る子供もいる。
小さな子供は全体を見られないから余計にそうなってしまうのだろう。
二人はその場に立って、目で電車を追いかける。
ああだこうだとアスカがちょっかいを出し、シンジがぶつぶつと返す。
その様子は二人が今日出会ったばかりとは思えないほどだった。
結局この電車館でシンジは5回も模型電車を動かした。
アスカは最初の1台だけであとはシンジの横でああだこうだと口を出していただけだ。
それでも楽しそうに電車を眺めていたので、シンジは心置きなく遊べたのである。
電車館にまず向かったのはアスカの作戦だった。
男子で電車に興味を持たない子供はまずいない。
だから彼が喜びそうなものを先にしたわけだ。
そして彼女は奥の方にある電車館から手前の方に戻ってきた。
アスカの乗りたいものに乗るために。
そのジェットコースターには、予想通りにシンジがしり込みした。
だが、結局彼は乗らざるを得なかったのである。
アスカが悪戯をしかけたからだ。
彼女はこんな風に切り出したのだ。
「ごめんね、アタシのために一緒に乗ってくれない?」
ジェットコースターの近くに行った時に、彼は予防処置を施したのだ。
「僕、絶対に乗らないからね」と宣言したのである。
その理由が怖いからというのは質問するまでもないこと。
だから、アスカは命令による方法を採らずに、別の作戦に出たわけである。
こんな言葉を掛けられて、シンジは大いに戸惑った。
それはそうだろう。
時間にして3時間あまり。
わずかな接触時間ではあるが、その間に知りえたアスカという女の子の性格から見てこの台詞はおかしい。
あまりにも違和感がありすぎる。
しかし冗談だろと笑い飛ばすには、まだまだ彼は相手に慣れていなかった。
そして、アスカは次の矢を放った。
「実はね、アタシにも怖いものがあったの。嘘を言ってごめんなさい」
1年のうちに片手で数えるほどしか「ごめん」を言わない彼女が30秒ほどの間に2回も口にした。
碇シンジという少年は実はかなり疑い深い部分もあるのだがそこに至るまではあまりに素直すぎる性格をしている。
だからこそ、母親に幾度となく騙されてきているのだが、この時もアスカの演技に完全に騙されてしまった。
3年前に彼女は外国人学校の劇でお芝居で涙を出すこともできるほどの芸達者だった。
今回は涙こそ出さなかったが、それはもう真剣な眼差しで、しかも俯き加減にシンジに対したのだ。
彼がすっかりその言葉を信じてしまったのも無理はない。
「ホントはね、ジェットコースターが怖いの」
「あ、そうなんだ。実はね、僕もジェッ…」
その先を言わせてなるものか。
アスカはシンジの手をとった。
肉体的に接触したのは駅の改札以来の事だ。
しかしあの時は腕を掴まれたのだから、今との比ではない。
今、アスカの手はしっかりとシンジの手を握っている。
包み込んでいると表現してもよい。
運動会のダンスで女子の手を握るのも恥ずかしくなってきた年頃である。
シンジの言葉が途中で止まってしまったのは当然だろう。
そして、自分の計算どおりにことが運びそうになってアスカは心中で大いに笑った。
「でもね、アンタに怖いものはないって言っちゃったんだもん。だから、アタシは怖いものをなくさないといけないの」
きっぱりと言い切る彼女を間近で見て、シンジとしては感心するほかない。
何しろその後に待っている自分の運命に気がついていないのだから。
「え、偉いね、君って」
「アリガト。それじゃ、えっと…あの…」
アスカはわざと口ごもった。
「シンジ君はアタシの応援をしてくれるの?」
「応援?うん、するよ」
馬鹿シンジと言われずにストレートに名前で呼ばれ、喜んだシンジはあっさりと罠に引っかかった。
罠にかけた方のアスカは勝ち誇った笑いを抑えるのに必死である。
「ホント?」
うん、とシンジは大きく頷いた。
「じゃ、一緒に乗って。アタシ一人じゃ怖いもの」
「ちょ…」
シンジとしては予想外の言葉を投げかけられ、当然彼はうろたえた。
しかし、彼に拒否の言葉を出す余裕などアスカが与えるわけがない。
「お願い。アタシに勇気を頂戴」
11歳とはいえ、碇シンジも男の子だ。
可憐な少女(という演技をしているアスカ)にこんな風に迫られれば、勇気を振り絞るしかないではないか。
こうして彼はアスカのお芝居に完全に乗せられてしまったのである。
アスカはぎりぎりまで演技を続けた。
声に出して大笑いしたいところを必死に抑え、ジェットコースターに乗り込むまではと我慢したのだ。
順番待ちの行列にいる間、爆発しそうな笑いを抑えるために彼女の身体が微妙に震えているのをシンジは誤解した。
こんなに震えて…。本当に怖いんだな、ジェットコースターが。
僕がしっかりしなきゃ。怖いなんて絶対に言えないぞ。
シンジは覚悟を決め男らしく振舞おうと決意していた。
そして、ようやく二人の順番になり運良く最前列の座席に二人が納まったときである。
「大丈夫?一番前になっちゃったけど」
アスカは震えながらこくんと頷いた。
もう言葉を出すことすらできない。
への字にした唇を開いてしまえば即座に笑い声が響き渡るに違いない。
しかしその姿も誤解されるだけだ。
「もし怖かったら…」
その後の言葉をシンジは言えなかった。
恥ずかしかったのだ。
僕の手を握っていたらいいよ、なんてどんな顔をして言えばいいのかわからない。
だからシンジは何も言わなかったのだが、その時とんでもないことが起きた。
「もう…駄目っ」
「えっ、じ、じゃ、今ならまだっ。止めてもらって!」
男らしく振舞おうとしていたがやはり怖かったのだろう。
手すりをぐぐっと握り締めていたシンジのその手が、しっかりとアスカの手に押さえられた。
物凄い力で押さえつけられ驚いたシンジが腰を浮かそうとしたその瞬間、ベルが高らかに鳴った。
それと同時にアスカがとうとう笑いを爆発させたのだ。
「ぶはははははっ!」
「き、君!」
最初は騙されたとシンジは思わなかった。
申し訳ないことだが、あまりの恐怖にアスカがおかしくなったのではないかと思ってしまったのだ。
「だ、大丈夫?」
「大丈夫に決まってんじゃない!」
「で、でも!」
アスカは笑いながら、シンジの方を向いた。
満足げに緩んだ頬。きらきらした眼差し。
その満面の笑顔を見た瞬間、彼はすべてを悟った。
「だ、騙した!」
「騙された、でしょうが。ぐふふっ、やっぱりアンタは馬鹿シンジっ。ぎひひひっ」
シンジは思わず立ち上がろうとするがシートベルトはしっかり閉められている上に、
既にコースターはぎりぎりと音を立てて急斜面を登りはじめている。
「駄目だってば。ぐぐぐっ、もう止まらないわよ」
「そ、そんなっ。と、止めてよっ」
ぎりぎりぎり。
「無理無理っ」
「助けてっ」
ぎりぎりぎり。
「大丈夫だって。ま、怖いんだったら、手くらい握っててあげるからさ」
「ひぃっ」
ぎりぎりぎり。
「アタシ、ジェットコースター大好きなのっ!」
「僕、大嫌いなんだぁっ!」
ぎりぎり。
ごっとん。
一瞬、彼らの周囲から音が消える。
しかし、すぐには滑走ははじまらない。
コースターの列の半ば当たりに差し掛からないと自然落下は発生しないからだ。
そのほんの数秒間がとてつもなく長い時間に思えて…。
だが、終末はすぐにやってきた。
ががっ。ごごごごごごごごごごごっ!
アスカが歓声を上げ、シンジが悲鳴を上げる。
きゃあああああああ〜!ぎゃあああああああ〜!
濁点がついているのといないのとでは大きく意味が違う。
アスカはしっかりと目を開け、眼前に広がるめまぐるしい景色の変化を楽しんだ。
シンジはしっかりと目を閉じ、早く終われ早く終われと心の中で神様に祈り続けた。
何も喋らずにシンジは憤然として真っ先に階段を降りていく。
しかしながら、その足元はおぼつかない。
そのすぐ後ろを歩きながら、アスカは少しだけ後悔していた。
彼女は自分の左手の甲を見つめる。
そこには赤くシンジの指の跡が残っている。
彼の右手の上に重ねていたアスカの手をシンジはもう片方の手でしっかりと握り締めてきたのだ。
おそらく無意識にしたことなのだろう。
しかし、跡がつくほどに握っていたということはよほど怖かったのに違いない。
ちょっと、やりすぎちゃったかなぁ。物凄く面白かったけどさ…。
地上に降りたシンジは振り返りもせずに歩いていく。
アスカは溜息を吐いた。
「ちょっと待ちなさいよ」
彼女の声は届いている筈だが、シンジは足を止めない。
アスカは青い目を空に彷徨わせ、小さく舌打ちをする。
そして、彼女は小走りに彼のすぐ背後まで駆けつけた。
「アンタ、どこ行くのよ」
無言。
これはかなり腹を立てているんだとアスカは察した。
しかし、彼女は謝ることを知らない。
お芝居で謝りの言葉は吐けても、本当の謝罪はできない。
この時も言葉にできず、喉元まで出かかっていた「ごめんなさい」を再び飲み込んでしまっている。
替わりに出たのは、謝罪ではなかった。
「そうだ、ねぇ、アンタ、喉渇いてるでしょ。奢ってあげるわよ。何がいい?」
シンジはしっかりその言葉を耳にしていたが反応はしなかった。
なるほど確かに喉は渇いているが、自分だってお金は持っているのだ。
飲みたければ、自分で勝手に飲む。
彼はそのように思い返事をしなかったのだ。
その思考はアスカに伝わった。
彼女は自分の頭をこつんと叩くと、別の言葉を探す。
しかし、すぐには出てこないものだ。
悪戯を仕掛けたときはあんなに簡単に浮かんでくるものなのに。
今は謝ることができないという障壁があるためにそういう状態になっているとはアスカにはわからない。
何はともあれ彼女は思いつくままに言葉を発した。
「く、クリームソーダなんてどぉ?それともお腹が減った?ホットドックって手もあるわよ」
まるで自分は食い意地が張っていますと言っているようだ。
アスカはこんな言葉しか言えない自分が情けなかった。
しかし、彼女は気づいていない。
どうして、シンジの機嫌をとろうとしているかということを。
自分を嫌う者など勝手にしていればいいと常日頃思っているアスカだというのに。
腹を立てていたシンジも少しずつ奇妙に思いはじめていたのである。
この自分勝手で悪戯好きで偉そうな態度を取る女の子は、どうしてさっきから機嫌を取ろうとしているのかということを。
彼女は色々な食べ物の名前を出してきて、その中に食べたいものはないか飲みたいものはないかと訊いてくる。
どう考えてもおやつの時間にしかならないだろうに、アスカの口にする食べ物の名前はとんでもないものに変わっていきつつあった。
おそらく軽食や飲み物の類はもう出尽くしてしまったのだろう。
「きつねうどんは?天ぷらうどんは?月見うどんは?えっと、すうどんにする?あ、そばでもいいわよ。そばがいい?
う〜ん、それともラーメンとかスパゲティとか?麺類は嫌い?コロッケとかとんかつ?ミンチカツ?まさか豪勢にエビフライ?」
だんだんシンジは気になってきた。
このアスカという名前の女の子は本気でこんな馬鹿げたことを言っているのかどうか。
ただ機嫌を取るために饒舌になっているのだろうか?
それとも自分を笑わせようとしているのか。
それもこれも振り返ってみればわかる。
アスカがどんな表情をしているかで判断できるではないか。
見たい。見て、確認したい。
シンジがそのように思っている間もアスカはずっと食べ物の名前を羅列し続けている。
優柔不断なところのある彼が迷っているうちに、背後でけほっと小さな咳払いがした。
あれ?と思ったら、アスカの口にしているメニューがまた飲み物に戻っていた。
「オレンジジュースはどう?ネクターでもいいわ。ピーチとオレンジ、どっちでもOKよ」
これはどういうことだろうかと考えていると、いきなり肩を掴まれた。
「わっ」
「アンタね、人がせっかく優しくしてんのに無視することないでしょうがっ」
眦を上げた物凄い形相でアスカが迫ってくる。
ただそこまで言うと、彼女はごほんごほんと咳き込んだ。
音だけでなく面と向かっているとさすがにシンジでもアスカの喉ががらがらになっているのがわかった。
それは当然だろう。
あんなに喋り続けていたのだから。
しかし、咄嗟にどう対応していいのかわからないところも彼らしいといえる。
戸惑って立ち尽くしていると、アスカがじろりと睨みつけてきた。
「早く答えなさいよ。ジュース?コーラ?何にするのっ?」
「え、えっと、じゃ、ジュース」
「ふんっ、早く返事すりゃアいいのに、馬鹿」
捨て台詞を残してアスカは一番近くにあった売店に走る。
彼女はすぐに戻ってきたのだが、その手に缶ジュースが1本しかないのを見てシンジは怪訝な顔をした。
喉が渇いていたのじゃなかったのかと。
もしかすると自分を振り向かせるためにやったのかともシンジは思った。
「はい、奢り。オレンジでよかったでしょ」
「う、うん。ありがとう」
突き出された缶ジュースを受け取り、シンジは無意識にプルトップを引き取り去る。
「あ、あの…君は?」
「アタシ?アタシが何よ」
少しガラガラとした声でアスカが答える。
「君は飲まないの?」
アスカは鼻で笑った。
「はんっ、何よ。一緒に飲んで欲しいんなら、最初からそう言いなさいよ。面倒なヤツ」
言うが早いか、彼女はまた売店に向かった。
今度は駆けていき、帰りは早歩きでじっと手元を見つめながらのご帰還だった。
それは彼女が買ったのが缶ではなく紙コップの飲み物だったからである。
売店の隣にあった噴水式のジュース販売機でアスカは買ってきたのだ。
シンジは自分が握っている缶ジュースを首を傾げながら見た。
そしてきっとその銘柄が彼女のお気に入りなんだろうと簡単に結論付けた。
彼はそう深く物事を考えない性質なのである。
戻ってきたアスカは乾杯と言うと、それはもう見事なくらいにごくごくとオレンジジュースを飲んでいく。
思わず見とれてしまっていたシンジは彼女が満足げに飲み干し終わったのを見て、ついこう提案してしまったのだ。
自分はまだ一口しか飲んでいないし、別にそれほど喉が渇いているわけではない。
「あ、あのさ、もしよかったら飲む?」
「ホント?アリガトっ!」
素直にアスカが手を伸ばしてきたので、シンジも自然に缶ジュースを渡す。
よほど喉が渇いていたんだなぁと微笑ましく見ていたシンジだったが、この時になって重大な事実に気がついた。
そして驚きのあまりその事実を口にしてしまったのだ。
「ご、ごめんっ。それ、僕、口つけてたっ」
しかし、彼の言葉が終わると同時に景気のいい音とともにアスカはジュースを最後の一滴まで飲み干していたのだ。
彼女はきょとんとした顔でシンジを見ると、しばらくして急に背中を向けた。
「あ、アタシ、缶捨ててくる!」
どたばたという擬音をつけたくなるほどに慌てながらアスカは駆けていった。
そんな姿を見て、シンジは何となく思った。
謝るのが苦手だったり、悪戯好きだったり、あんな安いジュースが好きだったり…。
見かけは自分より背が高いけれども、アスカという名前の女の子は結構子供なんだと。
そう思うと、さっきのジェットコースターの一件も腹は立つけれども、まあいいやと思ってしまった。
もう一度乗れと言われれば話は別だが。
「これに…乗るの?」
「あったり前じゃないっ。ファミリーランドに来たなら絶対にこれに乗らなきゃっ」
シンジは疑い深そうな眼差しでアスカを見つめた。
このアトラクションならば怖くなることはないだろう。
この雰囲気で途中からボートが急流すべりになったり、高速で走り回るなどという展開にはならない。
それはわかっているのだが、それでもできればシンジはこのアトラクションは回避したかった。
何故ならば、恥ずかしい、から。
並んでいる人たちを見てもそのほとんどが家族連れである。
しかも子供たちの年齢層は小学校低学年まで。
中にはアスカくらいの年頃の女の子もいるが、男子の姿はない。
おそらくずっと待っていても現れるかどうか。
シンジはどのように断ろうか考えた。
考えている間もスピーカーからこのアトラクションのテーマソングが流れ続けている。
ようこそお出でなさい♪……世界はひとつ、世界はひとつ♪
大人形館の前でシンジは困り果てている。
アスカはただにんまりと笑いながらじっと彼の返事を待っているのだ。
もう4時30分を過ぎていたが、夏の日差しはまだ容赦なく降り注ぐ。
シンジはTシャツの背中に汗をかきながら逃げ口上を捜し求めた。
「あのさ…えっと、ぼ、僕、人形が怖くて」
「ふぅ〜ん」
まったく信じてくれていない。
もっとも言った本人が嘘ばればれだと自覚しているのだから仕方がないが。
「乗り物酔いするんだ。うん」
「ティーカップであんなにくるくるまわっても大丈夫だったよね」
アスカが足がふらふらするくらいだったのに、もうやめようよと泣き言を言っていたシンジの方がしっかり歩けていたのである。
その時は、男らしいところを見せることができたとシンジは内心得意だったのだ。
「ああっと、だから…」
「はい、行くわよ。アタシが乗りたいんだから、アンタも来るの」
何を言っても無駄だ。
シンジは諦めた。
この女の子は何が何でも自分のしたいことをする人間なのだ。
彼は溜息を吐きながらアスカの背中に付き従った。
大人形館はそこそこ面白かった。
ジェットコースターのように最前列ではなく、一番後の席だったのがよかったのかもしれない。
前の方に座っている家族連れの子供たちがはしゃぐ姿が可愛らしかった。
人形の方は可愛いというよりも寧ろ不気味に見えたが、それでも世界の国や物語を人形たちが演じる様は興味深く見ることができたのだ。
それでもやはりアスカには敵わない。
何度もこの世界遊覧ボートに乗っている彼女は乗客がびっくりさせられる場所を熟知していた。
その地点間近までシンジの気をそらせておき、絶妙のタイミングで振り向かせる。
「嘘、万博に3回も行ったの?いいわねぇ、アタシなんか1回だけよ。1回。あ、ほら、あそこ」
自然な調子でさりげなく指さされた方向を見ると、アフリカの原住民が槍をいきなり投げてきた。
「わっ!」
思わず声に出してしまったシンジは、同乗している小さな子供たちに思い切り笑われてしまった。
お兄ちゃん大きいのにおかしい!と。
大声でそういった子供の頭を隣に座った父親がこつんと叩く。
反対側の母親が「あほ」と子供を叱り、シンジに向かって「かんにんな」と会釈をする。
いやいやと手を振ったシンジはその指先で鼻の頭をかいた。
恥ずかしいというよりも、照れくさい。
しかし、その照れくささは何となく温かみのあるものだった。
そして、笑ったのは隣にいるアスカも同じだ。
彼女の笑い声に対してシンジは脱力しただけで腹は立てなかった。
慣れたのではない。
もし嘲るように笑われていたなら怒っていたかもしれないが、この時のアスカは本当に楽しそうに笑い声を上げていたのだ。
まあ、いいか。
何故か、そんな風に思えてしまうシンジだったのである。
それでも、彼は文句を言った。
そうしないと逆にアスカは不機嫌になりそうな気がしたからだ。
大人形館を出たところで、シンジは歩いていく彼女の背中に声をかけた。
「酷いよ。笑いものにするなんて」
「ふふん、いいじゃない。みんな喜んでくれたんだしさ」
確かにそうだった。
それにあの家族。
父と母に挟まれた幼稚園くらいの男の子。
シンジは思ったままを言葉にする。
「ちょっと羨ましかったかな」
「え?何が?」
「前に座ってた家族。父さんと遊びに行ったことなんて何回あるだろ」
指を折って数えようとするシンジ。
おどけるつもりではなかったが、それだけ少ないのだと主張したかったのだ。
家業は本屋だから休業しない限りは誰かが店先にいないといけない。
だから参観日や運動会などの行事は必ず母親のみが姿を見せていた。
売れない作家(自称)の父親は店番をするのが常だった。
いや、シンジだけがそう思い込んでいたのだ。
店のシャッターを下ろし少々休憩と張り紙を残して、幼稚園や小学校に疾走していた父親のことなど彼は知らない。
しかも人ごみの後から首だけ覗かし、息子の姿を確認し満足げに去っていっていたとは。
父親が言うわけもない上に、彼が来たことをいち早く察知する母親もそのことを息子に告げない。
そんなことをすれば二度と彼が現れないことを知っているから。
事実、シンジが2年生の時の学芸会で近所のおばさんに発見されて以来、彼はそんな微笑ましい行動をすっぱりとやめてしまったのだ。
何はともあれ、シンジは父親と行楽に行った思い出は片手の指の数ほどもないのは事実だった。
そんな彼だっただけに、自分の立場を強調しようとしたのは子供らしい行動だろう。
しかし、相手の反応はシンジの予想を裏切った。
「素敵ね」
はっとして声の主を見ると、彼女は優しく微笑んでいた。
瞬間、シンジは綺麗だなと思い、そしてひどく後悔した。
彼には珍しくすべてを察知できたのだ。
逆に言えば、アスカの微笑が教えてくれたともいえる。
あんなに簡単に口から出てくる筈の「ごめん」がこういう時に限ってすぐに出てこない。
そんなシンジの状況をすぐにアスカは悟った。
「いるのよ、パパ。死んでるわけじゃないわ。ずっとアメリカなの」
こともなげにさらりと言うから余計にシンジは何も言えない。
黙って俯いてしまったシンジを見て、アスカは唇を噛みしめた。
自分にとってはたいしたことのない事実(と思い込もうとしているのも自覚している)だが、みんなさらりとは流してくれない。
言わなきゃよかったと後悔してももう遅い。
この空気をどうしようかと思っていると、シンジが顔を上げた。
そしてぎこちない、本当に強張った顔で無理矢理に笑ったのだ。
「あ、あのさ、ジュース奢るよ。飲みたいだろ」
「ごめん」が言えないなら機嫌を取ればいい。
学習したばかりのことをシンジは実行した。
そのことにアスカも気づき、こくんと頷いた。
「ありがとう」と言えと、頭では命令していたのだが口は動いてくれない。
しかし気持ちは伝わったようだ。
シンジはいくらかは自然に微笑み、そして売店目指して全力疾走する。
躓いて転びそうになったその姿を見て、アスカは拳で乱暴に目のあたりを擦った。
泣いてなんかないもん、と呟きながら。
「アンタさ」
歩きながら、アスカは隣の少年に切り出した。
「アタシのこと、アスカって呼んでいいわよ」
「え…」
驚いて足を止めたシンジは赤金色の髪の少女を見つめる。
「君…じゃだめなの?」
「アタシがさ、アンタのことシンジって名前で呼んでるんだもん。君じゃ変よ」
アスカはぐるぐる回る巨大ブランコを見上げながら言う。
きゃあきゃあという歓声が降ってくるが、彼女の声は聞き取れた。
シンジは少し笑ってしまった。
ただのシンジじゃないだろう?その頭に馬鹿をつけてるじゃないか。
でも、この子を馬鹿アスカなんて呼んだら二度と口を聞いてくれないだろうな。
……それは困るもんね、それじゃ…あれ?
シンジは真顔になった。
今考えていたことに違和感を持ったのだ。
どうして、『困る』のだろうか。
この女の子とは今日一日、いや一泊二日だけの付き合いになるはずだ。
シンジはゆっくりと考えたかった。
しかし、隣にいる少女は気の長い方ではない。
「黙ってるってことは嫌ってこと?」
「ち、違うよ。ただ…」
「ただ、何よ」
「女の子の名前を呼ぶのって、幼稚園以来かな?って」
「そうなんだ」
「うん。アスカちゃん?それともアスカさん?」
「ふんっ、勘弁してよ。下に変なのつけないで。身体がくすぐったくなる」
「えっ、じゃ呼び捨て?」
「できないなら、アタシだってアンタの名前に変なのつけるわよ。シンジどの、とかシンジざえもんとか」
アスカはシンジの方を見てにやにやと笑った。
彼は溜息を軽く吐いた。
抵抗しても無駄だろう。
「わかったよ。名前だけで呼べばいいんだろ」
「わかればいいのよ、馬鹿シンジ」
ほら、やっぱり馬鹿をつける。
シンジは小さく「馬鹿アスカ」と口の中だけで呟いた。
しかし、耳ざといのか隣の少女は少年のおでこをぱちんと指で弾いた。
「痛い」
「レディに対して馬鹿とはなによ」
「だって僕だけ…」
「じゃあさ、アンタ、日本語以外喋れる?」
「へ?」
何がじゃあなのかわからない。
返事に困っていると、アスカは胸をそらせた。
そしてそれはもう偉そうな態度で唇を開いたのだ。
「グッド・モォ〜ニン♪グーテン・タァ〜グ♪」
シンジは英語をまだ習っていないが、それでも最初のは英語に違いないと思った。
だが、それを言うより先に彼はずるいと感じた。
アスカも日本で生まれた日本人と聞いているが、それでも見かけは外人だ。
だから外国語を喋れても当然ではないかと思ってしまう。
そんな思いが完全に顔に出たのだろう。
アスカはぷぅっと頬を膨らませた。
「あ、そう。何よ、日本語、英語、ドイツ語の3つも話せるのは外国人学校でもいないっていうのにっ」
ああ、二つ目のはドイツ語だったんだとシンジは知ったが、それよりも肝心なことを彼はわかった。
どうやら、アスカは褒めて欲しかったようだ、と。
「ふんっ、アンタなんてどうせ標準語しか喋れないんでしょっ。おはようさん、おおきに、まいど、へっへっへ、どぉお?」
「どうって…」
「感想を聞いてるんでしょ、感想を」
「感想って…」
にやにやしているアスカにシンジは思ったままの言葉を口にしようとした。
「えっと、君には…」
うふん!と大きな呻き声をアスカが上げた。
明らかにシンジが名前で呼ばなかったことに憤っている。
彼は頬をプリポリと掻いて、彼女を呼び捨てにする決心をした。
「あの…、つまり…」
「つまり、何?」
「あのね、…アスカには標準語が合うかなって…そう、思ったんだ」
「へ…」
アスカの表情が固まった。
彼女はこんな感想を期待していなかったのだ。
凄いなどの褒め言葉か、関西弁なんてという否定的なものか。
いずれにしてもそれなりの対応をしてやろうと構えていたのだが、こんな言葉には何も用意していない。
意表を衝かれたアスカはしどろもどろになってしまった。
「ま、まあ、そりゃあ、ママが江戸っ子で…、英語は、天才だから、どんな言葉でも、アタシは、えっと」
アスカは遊歩道の小さな石ころをつま先でちょんちょんと蹴る。
しっかりしなさいよ、アスカったら!
彼女は自分を鼓舞するのだが、どうにもよく己の感情がわからない。
恥ずかしいのか、照れているのか、それとも別の何かか。
アスカは空を見上げた。
夏の空はくっきりと晴れて、六甲山の稜線もくっきりと見えている。
その時、彼女の耳には子供たちの歓声も蝉の鳴く声も何も聞こえていない。
ふと、アスカは思った。
コイツにならあの秘密を打ち明けてもいいかもしれない、と。
ずっと、彼女の小さな胸に閉じ込めてきた、あの秘密を。
「君?あ、ちがった、あ、アスカ?」
じっと空を見つめている彼女をおかしく思ったシンジが声をかけてくる。
アスカは空や山ではなく、ポールの上に立つ時計を見ていた風に装った。
「5時、過ぎちゃったか。もうそんなに遊べないわね」
「あ、そうか。6時だったよね」
「じゃ、駅の方に行きながらまだ遊んでないので何かあったらそこに…」
「あ、あのさ」
シンジがおずおずと切り出した。
「何よ、言いたいことがあるならはっきり言いなさいよ」
口調は乱暴だが、アスカは彼に何か希望があるならば叶えてやろうと決めている。
うん、と頷いたシンジははっきりと願いを告げた。
「ほら、あちこちにポスターが張ってあるだろ。僕、あれに行きたいんだ」
アスカは「げっ!」と叫んでしまった。
そして、慌てて自分の手で己の口をふさぐ。
しかし、シンジはしっかりとその叫びを聞いた。
ところが、彼は叫びの意味を誤解したのである。
「そうそう!ゲゲゲの鬼太郎だよ。えっと、ほらあそこにも張ってる。妖怪大作戦だよ」
アスカの「げっ!」は鬼太郎のゲではない。
嘘!何てこと言うのよ、この馬鹿は!そんなの絶対にいや!の、ゲである。
彼女はオバケや幽霊が怖いのではない。
ここまでお読みいただいた方は覚えているだろうか。
アスカは鼠が怖いのだ。
そして、ねずみ男という存在も。
あんなに間の抜けた風体をしているというのに、彼女はねずみ男を見るたびに背筋に悪寒が走るのである。
だからテレビマンガや特撮が好きなアスカは『ゲゲゲの鬼太郎』だけは見る気がしないのだった。
因みにアメリカ産の世界一有名なネズミも同様だ。
とにかくアスカは鼠に関するものは一切受け付けないのだ。
「アスカは怖いものはないんだろ。だったら大丈夫だよね。僕は、本当は幽霊とか怖いんだけどさ、でも鬼太郎くらいなら…」
「こわいもの見たさ…?」
「そうそう、それだよ。でも、悲鳴とかあげても笑わないでね」
「は、はは、そんなの…」
アスカはぎこちなく笑った。
シンジに怖いもの知らずと思い込まれているだけに、彼女は本当のことが言えなかった。
もしねずみ男が怖いと一言本音を吐いたなら、シンジは絶対に「じゃあ、やめておこうか」と諦めていたはずだ。
しかし、アスカは言えなかった。
虚栄心なのかどうだかわからないが、結局告白するタイミングを逸した、ということだ。
アスカはことさらに明るく振舞い、鬼太郎の妖怪大作戦だからってねずみ男が絶対に出てくるって保障はないんだと自分を励ましていた。
出てこない確率の方が思い切り低い、という現実を彼女は受け止めようとはしなかったのである。
そして、彼女は大カタストロフへ歩みだした。
それはまさにジェットコースターがぎりぎりと音を立ててレールの天辺まで上っていくようなものである。
アスカは勇気があることを示そうと少し早歩きで会場に向かった。
その背中を追いかけて、シンジは彼女には怖いものなどないのだろうと思い込んでいた。
それが思い込みに過ぎないことがわかるのはもうしばらくの時間が必要だった。
「さあ、入るわよ」
「うん。まだ明るいから残念だね」
残念ですって!この馬鹿シンジ!
外が明るくたって中は結構暗いじゃない!
ああっ!入り口んとこのポスターにアレ載ってたし!
出るんじゃないでしょうね。お願い、神様。絶対に出てこさせないで!
「そぉ〜ねぇ、どうせなら夜中にすればいいのにね。アンタなんか一歩も歩けないんじゃないのぉ」
心とは裏腹に威勢のいい言葉ばかりが口から出てくる。
虚勢を張るアスカだが、その目だけはきょろきょろと前方を窺っていた。
順路に従って歩いていくが、迷路のようになっているので勢いよく進むことはできない。
できれば一気に駆け抜けていきたかったアスカだったが、仕方なしに見物人の流れに乗って進むしかない。
作り物の人形が左右の藪に置いてあったり音響でびっくりさせたりと、基本的にお化け屋敷を鬼太郎バージョンでしているわけだ。
時には被り物をしている人間が飛び出してきて驚かせるものもある。
運良く二人が進んだ直後に隠し部屋から何かが飛び出し後続の見物人に悲鳴を上げさせた。
びっくりして振り返ると大きな頭の女の子の服を着た何者かがそこにいる。
「あ、猫娘だ」
「ね、猫?鼠じゃなくて?」
なるほど、シンジの言うようによく見れば猫に違いない。
アスカは少し…いや、かなりほっとした。
「なんだ、アスカ知らなかった?鬼太郎、見てないの?」
「う、うん。洋画劇場とかさ、そういうの見てるから」
アスカは嘘を吐いた。
人気のある子供番組の中で、鬼太郎だけ、見ていないのだ。
「そうなんだ。はは、僕ってまだまだ子供だなぁ」
「ふふん、アタシは英語もペラペラだもんね」
「凄いなぁ。この前映画館見に行ったけど、字幕を読むのが精一杯でやっぱり吹替えの方がいいや、僕は」
薄暗かったためにアスカの表情が曇ったのをシンジは見逃した。
彼女の外国映画というのはすべてテレビの洋画劇場なのだ。
ビデオや二ヶ国語放送などない時代なのでオリジナルで音を楽しむことなどできない。
映画館に行くなどという贅沢はこの当時のアスカの選択肢にはなかった。
ねずみ男は出てこない。
出るならさっさと出てきなさいよ!でも、出てこないほうがいいけど…。
アスカはどちらつかずの望みを心中で叫びながら順路を進む。
登場へのカウントダウンがはじまっている事など露ほども知らず。
「何だろ、あそこ」
「知らないわよ」
順路の脇に瘤のように膨らんだ場所があった。
そこへの入り口は幅50cmほどしかなく、その左右はずっと網状になっている。
つまり順路からは瘤の中が見通せる形になっているのだ。
そしてその瘤の中というと、小さな車1台分くらいのスペースがあり奥の方に覗き窓があるだ。
何の説明もされていないので観客は何とはなしにその覗き窓を覗きに瘤の中に入り、首を捻りながら出てくる。
「行ってみようか」
「アンタが行きたいなら、ついていってあげてもいいわよ」
「はは、じゃ、行こうよ」
アスカは外の網越しに中を検分した。
ねずみ男の存在はない。
それならば大丈夫だ。
彼女はシンジに続いて入り口を潜った。
その時、順路では猫娘が愛嬌を振りまいていたので観客の目はそちらに向き、瘤の中に入ったのはアスカたちが最後だった。
それを確認し、順路脇の隠れ場所でねずみ男はにやりと笑った。
よし、今度の餌食はあの外人娘だ、にひひひひ。
「なんだ、これだけか。つまらないの」
「何よ、代わりなさいよ」
先に覗いたシンジは不満たらたらだった。
覗き窓の中は鬼太郎がただ立っているだけだったのだ。
彼を押しのけるように覗いたアスカが見ても様相はまったく変わらない。
先に出るよとシンジが入り口を出た時、天辺まで上ったジェットコースターは一直線に奈落の底へ落ちはじめた。
彼と入れ替わるように入り口に突進してきた灰色の物体はあっという間にがらがらどしゃんと入り口を閉ざしたのだ。
檻状の扉が上から落ちる仕掛になっていたのだ。
その音にびっくりしたアスカが振り返ると、そこに立っていたのは彼女が一番恐れていたものだった。
青い瞳を最大限に見開き、アスカは立ち尽くした。
「ひっひっひぃ、俺様はねずみ男様だ」
灰色の物体はアスカと、そして順路にいる観客相手に名乗りを上げる。
「ここからはもう逃げられないぞ。ひっひっひ」
観客たちは笑い声を上げた。
この時点ではシンジもその仲間だった。
彼も笑いながら、アスカがどんな反応をするのか楽しみにしていたのである。
啖呵を切るのか、まさか殴りつけはしないだろうが、何かしらあっと驚くような振る舞いをするに違いない。
そう思い込んでいたのだ。
「どうだ?俺様の仲間になるか?なるのならここから出してやろう」
「い、いやっ」
アスカはまるで幼児のように首を左右に大きく振った。
その様子に加虐趣味が沸いて出たのか、ねずみ男はアドリブを増やす。
「ここは俺様たちのアジトだ。仲間にならないならお前を食っちまうぞ。ここにはねずみが百万匹いるんだ」
百万という途方もない数字に観客たちは大笑いする。
しかし、極限状態に入りつつあるアスカは信じた。
「身体中をかじられるのがイヤなら、お前も仲間になるのだ。これからお前はねずみ女になるのだ!」
「いやあああああっ!」
アスカは泣き出してしまった。
そこでようやくシンジは気がついた。
彼女が本気で怖がっていることを。
シンジは扉に飛びつき開けようとするが前後に揺さぶることしかできない。
「開けろ!アスカを返せ!」
シンジの怒号に中の二人は気がつく。
アスカは入り口に向かおうとするがねずみ男に通せんぼをされ、嫌悪感のために奥の方に飛びのいてしまう。
それを見届けてから、ねずみ男は大声を上げた。
明らかに観客を喜ばせようというサービス精神の発露である。
「ぐふふふ、もう遅いぞ、少年。お前の彼女はもうねずみ女になるのだ」
ひええぇとさらに泣き声を上げるアスカを見て、シンジの闘志は燃え上がる。
開けろと檻を揺さぶってもまるで開かない。
そして彼は気がついた。
地面と檻の間に20cmほど隙間があるではないか。
彼はリュックサックを放り去り、その場に寝そべった。
汚れることなど気にもせず、シンジは腹ばいになって瘤の中へ入っていく。
「おおっ!どうやってここに!」
大げさに驚くねずみ男に対し、順路の観客の子供が「あそこから潜ったんやんか」と突っ込みを入れる。
アルバイトではあるが、この前は仮面ライダーショーの経験もあるねずみ男はこいつは面白いとさらにアドリブを増やす。
「ふふふ、お前に彼女は渡さんぞ。こいつは改造手術をして、我らと共に世界征服をするのだ」
その時、順路にいた猫娘は大きな溜息を吐いた。
シゲルのヤツ、また悪乗りして。それじゃショッカーやんか。
しかし、シンジとアスカには鬼太郎であろうが仮面ライダーであろうがもうそんなことは頭になかった。
彼の頭にあったのはただひとつ。
アスカを救いたいということだけ。
そして、彼女にはシンジが希望の星に見えた。
お姫様の危機に白馬に乗って助けに来る王子様。
泣き声しか出てこない、涙で顔がぐちゃぐちゃのお姫様は助けてとばかりに白い手を差し伸べた。
この時のシンジに王子様だとかヒーローだとかという認識はない。
ただ彼にあったのは、何とかしてアスカを助けないといけないという一念だけだった。
例え火の中水の中という慣用句もあるが、この時のシンジならば溶岩の中にだって飛び込んでいただろう。
「アスカを返せ!」
「貴様、どうやってこの秘密基地に入ってきた?」
ねずみ男は完全に自分のコスチュ−ムを忘れていた。
気分は石森章太郎作品における悪の組織の首領である。
檻の向こう側からまたあの少年が叫ぶ。
「せやから、ここから潜ったんやって!アホちゃうか」
観客たちは足を止めてどうなることかと檻越しに見物を決め込んでいた。
「ふふふふ、お前を倒して、私は世界を征服するのだ」
「わっ、ねずみ男の癖にめっちゃ偉そうに言っとぉ!」
別の子が叫び、みなが沸く。
そうよそうよ、と猫娘も大きな頭で頷いていた。
「僕の事なんかどうでもいい!わあああああっ!」
シンジはねずみ男に飛びかかっていった。
ただし、このねずみ男、かなりの長身なのだ。
ごく普通の小学5年生のシンジが飛びついたのはねずみ男の右足だった。
ご承知のようにねずみ男の衣装は頭から足首までどぼんと続いているもの妙なものだ。
足に飛びつかれると姿勢はかなり揺らいでしまう。
「こ、こらっ、やめろ!」
世界征服などと大言壮語の割にねずみ男は早々に弱音を吐く。
「今だ!アスカ、逃げて!」
シンジに言われ、アスカは泣き顔を上げた。
そして彼女は逃げただろうか?
いいや違う。
アスカはごしごしと手の甲で涙を乱暴に拭くと、うわあああ!と奇声を上げながらねずみ男めがけて突進したのだ。
バランスを崩していたねずみ男はもう一方の足をぐっと掴まれればもう倒れるしかない。
どさんと前にぶっ倒れ、ぐひゅうと珍妙な悲鳴を上げる。
そのタイミングを見計らって、猫娘がかぶりもの越しに大声を上げた。
「ねずみ男の負けぇ〜!みなさん、拍手を!」
おおとばかりに、観客は子供も大人も拍手に加え歓声を上げた。
ヒーローショーとはいかないまでもそれなりの寸劇であった。
ねずみ男はまるでテレビ漫画そのものの姿のように地面に横になり肘枕で己の不運を嘆いている。
「どうしてこうなんねん?俺が何をしたいうんや」
そんなねずみ男には目もくれず、アスカとシンジは何となくばつの悪い思いで向かい合っている。
少年は相手の上空1mほどを見つけ、少女は彼の足元の地面を睨みつけていた。
シンジは「大丈夫?」の一言が。
アスカは「ありがとう」が口に出せない。
ようやくシンジが唇を開いた。
どうしても自分が助けたんだと主張しているようで、労わりの言葉が言えない。
だから彼はただ「よかったね」と声をかけようとした。
その時だった。
アスカがぷぃっと横を向き、ぼそりと言ったのだ。
「無理しちゃって…」
その呟きはしっかりとシンジに届いた。
何故かそれは彼に感謝の言葉よりも喜びを与えてくれた。
おそらく彼の持てる力とすれば大いに無理をして助けたのだと自覚できたからなのだろう。
だからこそ、彼はにこりと笑った。
そして、大きく頷いたのだ。
「うんっ」
そのあまりに素直な反応にアスカは驚いた。
しかし、こちらは素直ではない彼女ときたら、ぶつぶつと言葉にならない何かを口の中で呟くだけだ。
そしてようやくアスカは頬を真っ赤にさせてシンジの顔を見た。
その時になって初めて、自分を助けに来てくれた彼の惨状に気がついたのだ。
ジーパンとTシャツは泥塗れ、顔も手も土がこびりつき、急いで這ったためか右の肘には擦り傷まである。
「馬鹿。何て格好してんのよ。泥だらけじゃない。ホント、馬鹿なんだから……痛くない?」
労わりの言葉を引っ張り出すためにどれほど前置きが必要なのか。
しかしそれでも、彼女は言った。
そして、それはちゃんと彼に伝わった。
「うん……、あれ?いつの間に?いてててて。わっ、どうしよう、母さんに叱られる」
自分の姿に気がついた途端に慌てはじめたシンジの姿を見て、急にアスカの胸にこみ上げてくるものがあった。
それは嬉しさや悲しみなどという枠にははまらず、胸の奥の方が暖かく感じ、頬や耳のあたりがやたら熱く思える。
もしここが原っぱならば大声を上げて駆け出したいくらいの気持ちだった。
だがここは夕方の遊園地。しかも鬼太郎の妖怪大作戦会場なのだ。
しかもまだ檻で閉じ込められたままだ。
アスカは大きく息を吐き出し、それから腹に力を入れた。
声が上ずってしまいそうだったからだ。
「アンタ、馬鹿ぁ?ほら、これ…」
と、ハンカチをポケットから出したものの怪我に使ったものか、服の汚れを拭ったものか迷った。
瞬きをするくらいの間、迷いに迷ったアスカだったがそのどちらにも使わなかった。
彼女は手を伸ばすと、ハンカチでシンジの頬についた土を拭ったのだ。
乱暴な自分を充分に意識して、できるだけそっと、そして…。
優しく、優しく、優しく…すんのよ、アタシ。
アスカは無意識に自分へと語りかけていた。
シンジは頬に当たるハンカチがくすぐったくて仕方がなかった。
しかし、払いのけたいとは少しも思わない。
彼の胸もまた未知の感情に溢れていたのである。
それは大いなる満足感の中に僅かに見える不満感だった。
アスカを助けることができ、そして不器用ながらも感謝もしてもらっている。
ところがどうだろう。
何かしら心の中で叫びを上げているものがあるのだ。
これはいったい何なのだろう?
顔の汚れを拭いてもらいながらシンジは考えていた。
だが、結局彼はそれが何であるのか見つけることはできなかった。
異性に対して憧れすら抱いたこともない11歳の少年なのだ。
ここでそういう類の感情に目覚めることは困難であろう。
「こらっ、シゲ…じゃなかった、ねずみ男!」
「痛いっ」
と、悲鳴を上げたのは地面に横たわるねずみ男が猫娘に蹴られたからではない。
猫娘は檻の扉を引き上げ中に入ろうとしていたところで、彼の臀部を蹴ろうとは考えていたもののそこまでには至っていない。
「ねずみ男」というフレーズを聞いて、アスカがびっくりしてハンカチを持つ手が大きく動いたのである。
彼女はねずみ男の存在を一時忘れていたのだ。
大急ぎでアスカはシンジの背後に回った。
ついでに彼の肩と二の腕をしっかり掴んでいる。
かなりしっかりと掴まれているので正直に言うとシンジはかなり痛かった。
しかし、突然の痛みには過剰反応する彼なのだが、不思議と忍耐強いところも兼ね備えている。
ここは我慢のしどころだと何故か思った彼は、状況をよく考えた。
そして誰にでもわかる答を導き出したのである。
「あ、あのさ、もしかすると、アスカって、ねずみ男…ううん、ねずみが怖いんじゃないの?」
その問いかけに対して、アスカは2種類の返事をした。
「うっさいわね、そんなことあるわけないじゃない」
文字にすると傲慢だが、実際の声音はたどたどしく、鈍感なシンジでも本音ではないことがわかった。
それよりも彼女の手の動き、息遣い、そして何よりも背後の空気が教えてくれた。
空気を読む、という言葉があるが、まさしくこの時、シンジは空気を読んだ。
「そ、そうだよね。あっ、えっと、今何時?」
「へ?」
問われたアスカは一瞬何のことかと頭を捻った。
そして思い出した。
6時に母親と待ち合わせをしていたことを。
さらにここに入ったのはもう5時15分くらいであったことも。
「と、時計!」
アスカが叫び、二人は周りをきょろきょろするが教室ではあるまいし、鬼太郎の妖怪大作戦などという会場の中に時計があるわけがない。
「何や、時間か?えっと…」
間延びをした声を出したのは、未だに横たわったままのねずみ男だ。
よく見ればこのねずみ男、ブルジョワなのか何と腕時計をはめている。
袖が長いので見えなかったのだが、この扮装に似合わない事この上ない。
「5時45分になるで。どうしたんや?」
下から差し出された腕にはまった時計をアスカとシンジは顔をくっつけるようにして覗き込む。
確かに彼の言うとおり、長針は9のところを指している。
二人の表情が見る見る険しくなり、同時に叫び声を上げた。
「母さんに殺される!」「ママに殺される!」
そして二人は顔を見合わせた。
互いの母親がどれくらい怖いのか、その表情で思い知らされる。
それはそうだろう。
あの母親(母さん、またはママ)の親友なのだ。
並の人間でいる筈がない。
シンジはゴジラとキングギドラが協力して向かってくる修羅場を想像し、
アスカの方はウルトラマンとウルトラセブンに両側から必殺光線を浴びせられる光景を思い描いた。
いずれにしても、無事でいられる自信はない。
言い訳が効くとも思えない。
とにかく1分1秒でも遅れないことが最優先だ。
会話は一切しなくとも、今後の方針が完全に一致した二人だった。
「急ぐわよ!」
「うん!」
急ぐといってもここは所謂お化け屋敷の中。
戻ることはできず、進むといってもどれほど行けばよいのかもわからない。
シンジが檻へ潜り込む前に放り去ったリュックサックはどこへいったかときょろきょろ見渡すと、猫娘がはいとばかりに差し出す。
「あ、ありがとうございます」
「急いでるの?」
かぶりもの越しのいくぶんくごもった声で猫娘が問いかける。
柔らかな関西弁にシンジが答えようとすると、アスカがぐいっと前に出てきた。
「はいっ、6時に駅です。母と待ち合わせで」
こういう場合は“ママ”ではないんだ、とシンジはふと思った。
随分としっかりしてるんだとも。
大人の人と喋り慣れているような感じを受けたのだ。
「あら、じゃ急がないとあかんね。こっち来て」
猫娘は手招きして檻から出て行く。
その背中を…というよりも、その大きな頭を二人は追いかけた。
檻から出た猫娘は中のねずみ男に向かって怒鳴る。
「ちゃんと働きや、ねずみ男!」
うぉ〜いとやる気のなさそうな返事をするねずみ男はまだ地面に横になったままだ。
働けと言われてはいるが、そうやっている姿はいかにもねずみ男らしい。
シンジはそんな事を思ったが、アスカの方はやはり嫌いなものは嫌いなようでちらりともそちらを見ない。
二人は猫娘に誘導されて順路の途中にある非常口から外に出た。
「あっちに行けばメインストリートだから」
ここぞとばかりに猫娘は大きな頭を取り去った。
ショートカットの女性の可愛らしい顔が出てきて、少なからず二人は驚いた。
汗びっしょりになっていて髪の毛が額に張り付いている。
外に出ると夏の日の夕方だから陽の光はまだ満ちていて、シンジの服の惨状はさらに際立って見える。
「かなり汚れちゃったわね。かんにんね、シゲルには私から叱っとくから」
「ありがとうございました」
アスカより一拍遅れてシンジも頭を下げた。
「ううん。懲りずにまた遊びに来てね」
タオルで顔を拭きながら猫娘は微笑んだ。
二人はもう一度頭を下げて、「さようなら」と言う。
それがあまりにぴったりと息が合っていて、猫娘はくすくすと笑いポケットから出した時計を見た。
「ほら、もう50分過ぎたわ。じゃあね」
「はい!」
二人とも火傷したかのようにびくりと飛び上がり、メインストリートめがけて駆け出した。
その後姿を見送って、にっこりと笑った娘は大きなかぶりものを頭にすっぽりと入れる。
「さぁて、ねずみ男をいたぶりに行きましょか。ふふ、この役って最高やわ」
彼女は手首をくねらせて猫の真似事をする。
そして、非常口を開けると「にゃあ」と一声、暗闇の中に帰っていった。
二人は懸命に駆けた。
しかしながら、ゲートを出る時点ですでにそこの時計は6時を過ぎている。
「ああ、もう駄目だ」
「こらっ、あきらめたら駄目でしょうが!たとえ遅れてもちょっとでも早い方がましってもんよ!」
「そ、そうだね!」
鬼太郎を呼び物にしてナイター営業をしているから、午後6時を過ぎても人通りは多かった。
小学校のグラウンドを駆けるようなわけにはいかない。
人ごみを縫うようにして二人は駅に向かった。
午後6時8分。
できればいてほしくなかった二人の女性の姿が改札口の近くに見えた。
だが、一喝されると覚悟していた母親の表情は柔和そのものだった。
怪訝に思ったアスカだが、心臓がばくばくいっているためにすぐに質問ができない。
隣にいるシンジは母親の顔を見るのが怖いので、アスカの母の方を見ていた。
髪の毛は金髪だがショートカットなので印象は違うが、全体の雰囲気は親子そっくりだ。
何よりもアスカに対している態度が、仁王立ちだからそう見えるのだろう。
そんなことを考えていたシンジだったが、キョウコと視線が合い、慌ててぴょこんとお辞儀する。
「こんばんは、シンジちゃん。あ、もう君の方がいいわね。まあ、アスカに酷いことされたの?その格好」
「いえっ!僕が…転んだんです」
「転んだ…ね」
シンジはびくりと背筋を震わせた。
さらりと呟いた母にはすべて見通されているような気がする。
遊園地での出来事はみんな知っているのだと言いたげな一言に思える。
気になるがちらりとでも母親を見ればそのまま俯いてしまいそうだ。
すると碇ユイが溜息を吐いた。
「それにしても盛大に転んだものね。そうだわっ」
ユイの言葉の語尾が僅かに上がった。
それを聞きつけ、シンジは悪い予感がした。
明らかに母親は浮かれ始めている。
これは悪い兆候なのだ。
「ねぇ、キョウコ?このあたりに写真館はないかしら?」
「あったはずよ。ほら、あそこに」
キョウコが指差す先にはいささか古びた写真館があった。
鈴木写真館と看板が上がっているその店を見て、ユイは満足げに頷いた。
「さあ、では写真を撮りましょう」
「え?」
シンジは驚いた。
今回の旅行に確かカメラを母親は持ってきているはずだ。
写真を撮りたいのならば、何故そのカメラを使わないのか。
「ユイ?わざわざそんな贅沢…」
「キョウコは黙ってて。この子の母親としては、こんな記念をしっかり残しておかないといけないの」
碇ユイは息子を上から下まで眺め、そしてある一部分を見てにんまりと微笑んだ。
「こんなに仲良く手を繋いでいるのよ。初めてのガールフレンド。素敵じゃない?」
母親に言われ、シンジはその右手が隣にいる赤金色の髪の少女と繋がっていることに気がつく。
それはアスカも同様で、二人はタイミングを合わせたかのように手をさっと離した。
「こ、これは!」
「ち、違うのっ。シンジが巧く走らないから、アタシが引っ張って…」
「そ、そうだよ。アスカに誘導してもらって…」
二人が慌てふためき頬を赤くして言い訳をすると、ユイはパンと小気味よい音を立てて手を叩いた。
「あら、呼び捨てにしちゃって。仲がいいのね」
子が母親に敵うはずがない。
キョウコは少し戸惑ってはいたのだが、ユイに引きずられるように子供たちごと写真館の扉をくぐる事になった。
蛍光灯に照らされた店内にはシンジたちと同じくらいの年頃の少年が一人カメラを触っている。
「あ、いらっしゃいませ」
「写真を撮ってもらいたいんですけど…」
「ちょっと待ってください。おじいちゃぁ〜ん!」
黒ぶち眼鏡の少年は奥の方に向かって叫び声を上げた。
しばらくするときっちりと燕尾服のような礼服を着込んだ老人が出てくる。
ユイがこの二人の写真を撮って欲しいと依頼すると、老店主はふむふむとシンジとアスカを眺めた。
「わかりました。で、どんな写真を?」
「お任せいたしますわ。ああ、出来上がりは手札サイズと…ええっと、大きいのと」
サイズの名称がわからなかったユイは手で大きさを示す。
「四つ切ですね。仕上がりは明日になりますが、よろしいかな?」
「はい。お願いします」
「では…」
と、老店主は子供たちを店の右手の方に誘った。
シンジはこんな格好で恥ずかしいと思いながらも素直に従う。
文句を言いそうな感じのアスカなのに、その彼女はシンジの前をふてくされたような表情で歩いていた。
「おい、ケンスケ。仕事やから奥に行ってなさい」
ケンスケと呼ばれた眼鏡の少年はうんと頷きカメラを持ったまま奥へ向かう。
その時にシンジの汚れた服を一瞥する。
その視線を受けて、シンジは自分の姿をもう一度しげしげと眺めてみる。
泥汚れは乾いたがジーパンもTシャツのどちらにも白茶けた跡がはっきり残っていた。
このままの格好できちんとした写真に写らないといけないのかと思うとシンジはがっくりきてしまう。
どうせアスカと並んで写るのなら…。
彼女の隣に立つなら、もっといい格好で…。
そういう気持ちには気がついていたがそれが何を意味するか、シンジはまだ知らない。
「奥さんたちも席を外してもらいましょか。その方がええ写真になる」
老店主はユイたちに向かってきっぱりと言い切る。
母親たちはその命令に対し機嫌よく応じた。
15分ほどで戻ってくると二人は写真館を後にした。
残されたのは子供が二人と老店主のみだ。
老店主はカメラの準備に余念がなく、シンジとアスカはぼけっと立ち尽くしているだけである。
「アンタ、こういうとこでいつも写真とってるわけ?」
シンジはぷるぷると首を左右に振った。
「まさか。うちは父さんが機械オンチだから、いつも母さんが小さいカメラで撮ってる」
「そ…」
アスカは危うくその後に「素敵」と付け加えそうになったが危うく喉の奥に押し込んだ。
しかし、シンジの耳にはその言葉が確かに届いていた。
彼は少し俯き、「ごめん」と心の中で呟いた。
「アタシは初めてっ。緊張するわ」
「ぼ、僕だって」
二人は顔を見合わせて笑った。
その笑いで少し緊張がほぐれたような気がする。
それを見計らっていたかのように老店主が声を上げた。
「さあ、ぼんにお嬢。こっちに来てや」
最初の一枚はわざとカラ打ちした。
フラッシュだけを焚いたのである。
それは緊張しきっている二人をほぐすためだ。
フィルム(ではないのだが子供相手なので彼はそれで済ませた)が入ってなかったからもう一度だと告げられると、アスカが抗議の声を上げる。
都合2枚。
型通りのポーズをつけた「気をつけ」の姿勢で並んでいる二人の写真。
自然な笑顔で腰に手をやり少し偉そうな態度の少女と、からかわれて不満気だが子供らしく笑っている少年の写真。
どちらがいい写真だか、シャッターを切った瞬間にわかる。
「ねぇ、おじさん」
「じいさんやで、もう」
鈴木老店主はそう前置きしてから、何かと問う。
アスカは記念写真を取るのはいくらかかるのかと聞いた。
サイズによって違うと返され、彼女は普通のサイズと手で示した。
それならこれだけだと金額を聞いて、アスカは腕組みをして考える。
もっともそれは数秒に過ぎず、ポケットから財布を取り出して彼女はその金額をカウンターに並べた。
「なんや、もう一枚撮ってほしいんか?」
「ううん。アタシたちじゃなくて。母たちを。久しぶりに会ったんだもの。同じのでいいから、3枚欲しいの」
あ…、とシンジは口を挟もうとして、やめた。
カメラをユイが持ってきているということをアスカに告げてどうする?
「なるほど。いや、おおきに。では、戻ってきたら早速撮らせてもらいましょ」
アスカはいいことを思いついたでしょうとばかりに、シンジの方を見てにっこりと笑った。
その笑顔を見てシンジは自分の馬鹿さ加減に呆れてしまった。
よく考えればいくらカメラがあっても母親二人を写すということは自分かアスカがシャッターを押さないといけないではないか。
アスカのことはわからないが、彼自身はまったく自信がなかった。
いや、ぎゃくに手ぶれさせる自信ならたっぷりある。
そんな大事な写真など絶対にミスしてしまうだろう。
ということは、これでいいのではないか。
結論が出て、シンジはうんと頷いたのだった。
その動きを見てアスカは若干誤解して、「何よ、偉そうにさ」と吐き捨てる様に言いそっぽを向く。
しかし、その頬の赤みは隠しようもなく、老店主は知らぬうちに微笑んでしまった。
しばらくすると母親たちが戻ってきたので、彼はアスカの希望を伝え二人の女性をカメラの前に誘う。
お化粧大丈夫かしら?などと慌てて鏡の前で二人は顔を並べたりして、子供たちはくすくすと笑ってしまった。
当然その声を聞きつけて、ユイは憤然とシンジに紙袋を突き出す。
中に入っていたのは、近くの洋品店で買った綿パンとTシャツだ。
さすがに母親で、息子の服のサイズは頭に入っているようである。
今のうちに着替えなさいと言われたが、老店主が少し待ってほしいとシンジに告げた。
そして子供たちをカメラの横に並べて立たせたのである。
「ほな、撮りまっせ。ああ、カメラ見んと、ぼんとお嬢を見てもろたら…、はい、それでええ」
言うが早いか、フラッシュが焚かれた。
今度はカラ打ちではなく、ちゃんとシャッターが押されている。
この写真も明日には仕上げますと老店主は言い、お願いしますとアスカが頭を下げた。
それを見て、シンジは何となく寂しさを感じたのだ。
アスカがその写真を受け取る時、自分は新幹線の中にいる筈なのだ。
「こら、シンジ。早く着替えなさい。置いていくわよ」
ユイに言われ、彼は紙袋を見るがどこで着替えようかときょろきょろしてしまう。
そんなに広くもない店内で、アスカもその母もそこにいるのだ。
小学校低学年ならば気にもしないだろうが、もう小学校5年生ともなればいささか気が引けるというもの。
すると、ユイはさりげなく言うのであった。
「ごめんね、キョウコにアスカちゃん。うちの息子が一人前に恥ずかしいんですって。先に出ていてくれないかしら」
その言葉を聞き、キョウコはほんの一瞬だけ微笑が遅れ、そして娘の背中を押すように店の外に出て行った。
それを確認してから、シンジは隅の方で着替えを始める。
そして、ユイは老店主を相手に清算をした。
シンジの着替えは惣流母子を店の外に出すための手段に過ぎない。
そのことに気がついていたのは大人たちだけだ。
老店主は速やかに清算を済ますと、ユイに引換書を二つ手渡した。
「明日の3時には仕上がってます。店は7時までですのでそれまでに」
閉店時間を聞かれて老店主はにこやかに返事をした。
その間にシンジは着替え終わり、汚れた服を紙袋の中に押し込んでいる。
それを横目で見て、ユイは微笑みながら老店主に告げたのだ。
「ではお店が閉まるまでにこの子たちが取りに来ますので、よろしくお願いします」
この子たち?とシンジが疑問に思ったのは、既に店の外に出てしまってからだ。
複数形であったことに気がついた彼は母親に疑問をぶつけた。
「ど、どういうこと?もしかして、僕もってことなの?でも、僕は明日…」
「何を言ってるんですか。私はこんな格好の子供と一緒に帰れません。大きな字で平常心だなんて恥ずかしいったらありゃしない」
買ってきたのはあなたでしょうが!といった突っ込みはシンジの頭には浮かばなかった。
真っ白な生地に真っ赤な文字で大きく“平常心”と書かれた真新しいTシャツを着た少年は、明日の自分の動向を考えることで精一杯だったのだ。
「じ、じゃ、僕は」
「あなた、男でしょう。大阪から東京くらい一人で帰りなさい」
「ええっ!」
突拍子もない叫び声をシンジが上げると、少し離れたところで待っていたアスカがたたたっと駆け寄ってくる。
「どうしたの、シンジっ」
「か、か、か、母さんが僕を置いてけぼりに」
「はぁ?」
「馬鹿ね、この子は。ちゃんと切符代も置いていくし、新大阪まではアスカちゃんが送ってくれるわよ。ね?」
優しく微笑まれて、アスカは即座にうんと頷いてしまった。
「東京に着いたら後は地下鉄1本じゃない。駅から家までは徒歩3分。それで迷子になるかしら?どう、アスカちゃん?」
「全然大丈夫!何だ、アンタ、すっごく便利なところに住んでるんじゃないっ」
「そ、そういうことじゃなくて。えっと、ということは、僕は」
「どうしてこんなに血の巡りが悪い子なのかしら。絶対にあの人に似たんだわ」
ユイは腕組みをして空を見上げた。
近くのパチンコ屋から軍艦マーチが響いてきて、彼女の勇姿に花を添える。
その姿にアスカは憧れを覚えたが、その時こつんと頭を叩かれる。
「アスカ。変な女性に憧れるんじゃありません」
「あっ、キョウコったら。私のどこが変?」
ぷぅっと頬を膨らませる母の表情がシンジには新鮮で、慌てふためいていた気持ちがふとどこかに飛んでしまう。
まるで子供のような顔をするということはそれだけアスカの母親と仲のよい友達なのだと彼は了解した。
「策を弄しすぎるところ。随分とあれこれしてくれたけど、見え見え」
「ふふ、ばれてた?」
「お店の中で一番変なTシャツを選んだところで確定したわ。まったくあなたって人は…」
ユイはぺろりと舌を出した。
「強引なのか、気を使いすぎてるのか…。まあ、いいわ。私、甘えちゃう」
「いいのよ、それで。そのうち大変なもので返してもらうことになるかもしれないんだから。ね、キョウコ」
キョウコはにっこりと笑った。
「気が早いんじゃない?少し」
「ううん、決まり。私の勘に狂いはないわ」
言い切るユイの肩をキョウコはぽんと叩いた。
「たいした自信ね。それじゃ、それまでの間、じっくり育てて借りを返させてもらいましょうか」
「うん、そうして」
女学校の親友同士はその当時と同様に語り合う。
その足元、いや胸元の辺りでシンジはアスカに問うた。
「ね、アスカ。わかる?」
「わかんないわよ」
「つまり…僕は明日もアスカのところに…泊めてくれるの?」
「そんなの全然構わないわよ。あ、じゃ、一緒に来る?ここに。ほら、写真を受け取りに」
「あっ、うん、うん!」
大きく頷いたシンジはにっこり微笑んで、それからあることを思いついたのだ。
それは運良く、誰の気持ちにも障害のないことだったので他の3人も大賛成したのだ。
西宮北口で乗り換えて数駅。
そこで降りた4人は浜側に向かって歩いていく。
15分ほどで到着したのは2階建ての文化住宅だった。
「ふふん、小さい?でも、何とお風呂付きなのよ、凄いでしょっ。うちは2階の一番奥」
シンジは山の手の育ちではない。
だからアパート住まいの友達もいるのだが、この時は何となくアスカの外見とのギャップを感じた。
それが顔に出てしまったのだろう。
アスカは明るく笑った。
「馬鹿シンジ。外人がみんな大邸宅に住んでいると思う?まっ、アタシは日本人なんだけどね」
「え、そうなの?」
「アンタ馬鹿ぁ?アタシは…」
と、続けようとしたアスカは母親に頭を叩かれる。
「この子は!ごめんね、シンジ君」
「いいの、いいの、この子は馬鹿なの。ねっ、アスカちゃん」
「ねぇ〜、ユイおばさん」
「ユイっ。アスカを甘やかさないでって、もうっ」
鍵を開けたキョウコは、中に入り蛍光灯のスイッチを引っ張る。
奥に6畳、手前に3畳の二間に台所がついていた。
「さてと、お腹空いたでしょう?シンジ君、もう少し待っててね」
「シンジはアスカちゃんに相手してもらってなさい」
荷物を置くと、母親二人は台所に向かった。
アスカは「暑い!」と大声を上げながら奥の部屋に行き、窓を開け網戸にする。
「シンジ、扇風機つけて。ほら、そこにあるから」
うんとばかりにシンジがスイッチを入れると唸りを上げながらモーターが回りだす。
「あ、それ年代ものだからさ、指突っ込んだら大怪我するわよ」
「鉄の羽根なんだ」
「そうよ!でもいい音するわよ」
にんまりと笑ったアスカは扇風機に顔を近づけると、「あ〜」と声を出す。
その声が震えて奇妙な音に変じて、ねっとアスカが笑った。
確かにプラスチックの羽根とは違う趣がある。
しかし幼児ではない二人がずっとそんな遊びをし続けるわけがない。
とはいえ、女の子の部屋を不躾に眺め回すような真似をシンジができるわけがない。
従って、彼にできることはアスカに案内されるがままにそこを見ていくことだけだ。
まるで田舎から出てきた観光客がバスガイドに案内されているような雰囲気だ。
「ふふ、これ見て。これがアタシのパパ。ハンサムでしょ?」
確かにハンサムだった。
白黒写真だったが、キョウコと並んだツーショット写真はまるで映画の一場面のように見えた。
「これね、ユイおばさんが撮ってくれたんだって」
「あ、そうだ。あのさ、もしかして、アスカって母さんと初めて会ったんじゃないの?」
宝塚で母親のことを“ユイおばさん”とアスカが言ったのを聞き流していたシンジは今それを思い出していた。
彼女は少しばかり間の抜けた表情になり、へへへと笑った。
「言わなかった?何度か会ってるよ。万博にも一緒に行ったし」
「えっ、そうなんだ」
思い返せば、一年に一二回母親が家を空ける夜があった。
その時は父親の料理ではなく店屋物だったので実は嬉しかった記憶がある。
とすれば、その時に母は神戸まで来ていたのだとシンジは直感した。
「楽しかったな、万博。遠足であとでもう1回行ったけど、あの時の方が断然よかった」
アスカはこれこれと小さなアルバムを出してきた。
昔風の糊で貼り付けるタイプのアルバムをアスカはめくり、そのページを開いてシンジに見せた。
ユイがカメラを持っていっていたのであろう。
他のページよりも圧倒的に多い分量で、しかもカラー写真である。
太陽の塔やソ連館などをバックに写っているアスカはどの写真を見ても楽しそうで、見ている方がつい微笑んでしまうほどだ。
まだ3月だというから彼女が外国人学校に入る前である。
つまりシンジで置き換えるならば、卒園して入学するまでの間になる。
その当時に母親が不在であったかどうかの記憶はない。
しかし、見ているうちにシンジは気になった。
アスカがユイと写っている写真は何枚もないのに、何故か知らないおじいさんとアスカが一緒に写っている写真が何十枚もある。
「この人、誰?アスカのおじいさん?」
「さあ、知らない人。ユイおばさんと一緒に万博見物に来たの。あ、浮気とかじゃないわよ、心配しないで」
「あ、そうか。そういう心配しないといけないのか」
シンジは照れ笑いをしてしまう。
テレビドラマや映画などで浮気という言葉の意味を知っている彼であったが、それを身近な者に当てはめるという考えはまだ頭をもたげていない。
「だから、心配するなって言ってるでしょ。でも…」
「でも、何?」
「アタシのおじいさんに見えた?」
その時のアスカの表情は何故か真剣に見えて、シンジは少し考えてから「うん」と答えたのだ。
その返事がよかったのか、彼女はにこっと笑うとアルバムの他のページをめくった。
しかし、学校行事の写真を見ると、何故かしらシンジは不機嫌になってきた。
それはアスカの周囲にいる男の子たちの存在が彼をそうさせていたのだが、恋心を知る前のシンジは気がつかない。
そのうちにアルバムは終わり、母親たちが晩御飯に二人を誘った。
その2時間後である。
どこで寝るかで一揉めした。
キョウコとアスカはお客様が布団に寝るべきで自分たちは座布団の上で寝ると主張し、ユイはそれに反対した。
そして3人の中でああだこうだと意見が交わされたのだ。
シンジはどうかというと、彼には発言しようがなかったのである。
この時の彼には4つの選択肢があった。
@ユイと一つの布団に寝る。
Aキョウコと一つの布団に寝る。
Bアスカと一つの布団に寝る。
シンジは溜息を吐いていた。
どれも勘弁して欲しいのだ。
もっと小さい時であれば、母親と一緒でも構わないと思っただろうが11歳ともなればどうにも身体がむず痒くなる。
キョウコでもそれは同様だ。
何しろアスカの母親は自分の母親と同い年にはどうしても思えないが、それでも大人の女性と添い寝をするなど恥ずかしいのである。
そして、アスカの場合は。
照れくさい。
11歳といえども男は男。性的に成長していないだけ余計にそういうことを気にしてしまうのだ。
そして追いつめられかけた彼はようやく折衷案を思いついたのである。
おずおずと切り出してきたその意見を拝聴し、女性陣ははたと膝を打った。
布団を横置きにし、足の部分を座布団で代用する。
これならば全員公平だし、横置きだからくっついて眠らなくてもよい。
冷房といえば扇風機だけのこの家だから、ある程度離れてないと寝苦しくなるのは必定なのだ。
そのように決定すると、アスカとシンジのペアで眠ることが勝手に決定され、二人は奥の6畳に放り込まれた。
親二人は夜遅くまでお喋りをしたいからだと言われれば応じる他ない。
真っ暗になった部屋でシンジは見えない天井をじっと見つめた。
「シンジ、寝た?」
「今、横になったばかりじゃないか」
「はは、そうよね。あのさ…」
アスカはこの時をずっと待っていたのだろう。
暗闇の中ならば話しにくいことも話せる。
もちろん、ここで話している事は襖を隔てた向こう側の母親たちに筒抜けになる。
そのことも承知でアスカは喋り始めた。
「アタシのパパ。ホントはね、脱走兵なの。わかる?脱走兵」
「だっそう…。大脱走?」
「それは第二次大戦のお話。わからないところがあったら質問してね」
そう前置きをして、アスカは父親のことをシンジに語った。
徴兵される前から戦争に疑問を持っていた彼は日本でその思いがどんどん強くなった。
そして彼は失踪し、脱走兵として追われることになったのだ。
当てがあって姿を消したわけではない彼は日本語もほとんどわからず、東京をうろうろしている時にキョウコと知り合ったのだ。
「ねっ、映画みたいじゃない?」
アスカの明るい声に誘われるかのようにシンジは横を向いた。
豆球も点けていないので真っ暗な部屋だが、話がはじまってもう30分は経過している。
暗闇に眼が慣れたので、50cmほど向こうに彼女の白い顔が微かに見える。
「うん、そうだね」
心からシンジは同意した。
確かにそうだ。
彼の返事に気をよくしたアスカは話を続けた。
大胆にも脱走兵と駆け落ちをしたキョウコは関西に向かった。
横浜では基地に近すぎるので、やはり外国人の数が多い神戸を選んだのだ。
彼女たちはそこで3ヶ月暮らした。
そして彼は大阪のアメリカ総領事館を訪れた。
「えっ、捕まりに行ったの?自分から?」
「そうよっ。偉いでしょ。罪を償って、それからきちんとママと結婚したいからだって」
「罪?で、でも、戦争をしたくないからってどうして罪なのさ。戦争って人殺しだろ」
「アンタ…」
馬鹿、とアスカは続けなかった。
確かにシンジの言うとおりだからだ。
「仕方ないでしょ。アメリカは兵隊にならないと罪になるの。日本だって昔はそうだったんだから」
「そんな…」
11歳のシンジにとって第2次大戦は教科書の中の出来事で、ベトナム戦争はテレビの中のものだった。
それはシンジが特別なわけではない。
幸運にも彼らは戦争を知らない子供として育ってきたのだから。
「パパは軍の刑務所に入って5年間重労働の刑をつとめたの」
「5年って、じゃ、もう」
「パスポートが出ないの。不名誉除隊ってのになったから。わかる?」
パスポートですら名前しか知らないシンジだ。
アスカに簡単な説明を受けて、アスカの父親がアメリカから出国できない理由をようやく理解できた。
「だから、仕事でアメリカじゃなかったの。ふふ、そういうことにしてるってこと。脱走兵って白い目で見られるからね」
「そう…なんだ」
「アンタが初めてよ。パパのこと話すの」
シンジは横になっているのに背筋がしゃきっと伸びたような気がした。
こんな重大な秘密を話してくれたのだ。
「パパとママはね、最後の前の日に遊園地に行ったんだって。
そこで一日遊んだんだってさ。それがどこかってところまでは教えてくれないけど。
アタシはファミリーランドじゃないかなって勝手に思ってんの。
だって、温泉があったって言うんだからあそこしかないわよ。
阪神パークや王子動物園には温泉なんかないもん」
「教えてくれないの?」
「酷いでしょ。覚えてないアタシが悪いってママは言うのよ。お腹の中のアタシがどうやってわかるってのよ」
しかし、その口調は少しも怒った調子ではなかった。
寧ろ温かい印象を受けたのだ。
「あ、そうだ。パパはね、ずっとアタシが産まれたことを知らなかったの」
「えっ、そうなの?」
「そうよ。でも、アタシのことを知ってたら逃げ続けていたかもしれないってママが。どっちがよかったんだろ?」
シンジに答えが出てくるわけもなく、う〜んと唸っているとアスカはけたけたと笑う。
その後もアスカの話はしばらく続いた。
シンジはずっと聞き役だったが眠気などまったく催さず、突然アスカが「大変!もう寝ないと!」と言った時は逆に物足りなく思ったくらいだった。
しかし、「おやすみ」と言われてしまってはどうしようもない。
シンジは今日の出来事をあれやこれやと思い出していたが、そのうちに眠ってしまった。
彼にとっても、そしてアスカにとっても、今日の午後は色々なことがあったのだ。
気持ちは高揚していても、身体は疲れていたのだろう。
しばらくしてキョウコがそっと襖を開けた時には、二人はすやすやと寝息を立てていた。
「手くらいつないでる?」
「まさか。それともシンジ君ってそんなに手が早いの?」
「どちらかというとアスカちゃんの方じゃない?あの時はシンジの手をしっかり握ってたわよ」
「そうかしら?私にはシンジ君がしっかりと握ってたように見えたけど?」
宝塚駅の改札の前に手をつないで現れた二人を見たときのことを肴にユイとキョウコは笑いあった。
「ねっ、シンジって私が言ったように特効薬だったでしょう?」
「確かに。でも、麻薬かもよ。一生薬なしで生きていけない身体になったらどうするのよ」
「誰かさんみたいに?まあ、私も似たようなものだけどね」
一度恋に落ちれば一途に思い続ける性格の女性二人はくすくすと笑う。
「ねぇ、どうやらアスカちゃん、おじいさんのこと気がついてるみたいね」
「こら、ユイ。子供たちの楽しい語らいを盗み見してたわね」
「タイミングよく、ちょうどいいところを見られたの。日頃の良い行いの賜物ね。アーメン」
カトリック系女学校に通っていたユイは神妙に十字を切る。
その同級生だったキョウコははぁと溜息を吐いただけだ。
「悪いわね、いつも。時々顔を見に行ってくれてるんでしょう」
「ええ、何しに来たっていつも怒鳴るのよ。だから言ってやるの。生存確認のためだって」
ユイはにんまりと笑った。
「こんなに親身にしてるんだから全財産は私に譲ってくださいねって言ったら、馬鹿もん!お前に譲るくらいなら孫にでもくれてやる!ですって」
「また、策士してる。そのうち、自分の掘った穴にはまるわよ」
キョウコの嫌味にユイはまったく動じない。
「で、私言ってやるの。可愛い、が抜けてるんじゃありませんの?って。アスカちゃんは可愛かったでしょう?てね。
そうすると、あの頑固爺さん、絶句しちゃうのよ。可愛いったらありゃしない」
「勘弁して。あなたの美的感覚って不思議だから冗談に聞こえないのよ」
あからさまに亭主のことを言われ、ユイはまるで女学生のようにぷぅっと膨れた。
「うるさいわね。私から見たらキョウコの趣味の方が変よ。
線の細い、優しそうで、それでいてしっかりしてて、でも突拍子もない行動をとったり…」
あげつらうつもりでユイは言っているのだが、相手は嬉しげにうんうんと頷くだけだ。
自分でもあまり悪口になっていないことに気づき、彼女は口を閉ざした。
「好みって遺伝するのかしらね」
しみじみと言うキョウコにユイは微笑む。
「私はそんな風に育てたつもりはなかったんだけどね。
ゲンドウさんと私が混ざると、惣流家の女どもに好まれる男が出来上がるってこと?
それはそれで納得できないなぁ。あなたたちのために子育てしてるみたいで」
「ありがとうね、ユイ。私がアスカを連れて、頭を下げればいいんだろうけど」
「まさかっ。あの頑固親父がそれで家に入れると思う?」
「許さないってこと?」
「そうよ。まあ、もう一人連れて行けば、絶対に許すと思うけど」
「彼を?」
「そう、アメリカ陸軍脱走兵の彼」
「帝国海軍中尉惣流トモロヲが?」
「そう。敵国の人間でしかも軍隊から逃亡したという、頑固親父さんからは信じられない行為をした彼を許すの」
「そうかしら」
ユイは鼻で笑った。
「私、訊いたことがあるのよ。それじゃ、上の命令通りに一般人を問答無用で射殺するような軍人の方がいいの?ってね」
「父は何て答えたの?」
「黙っちゃった。ずっと黙り込んでいて、私が帰るときにね、玄関で一言だけ言ったの」
キョウコはその光景を思い描いた。
21歳まで過ごしていた古い家。
空襲の被害も運良く逃れ、優しい祖父母と一緒に父の復員を待っていた幼い頃。
キョウコを産んだものの産後の肥立ちが悪く、異国の地で息を引き取ったドイツ女性の母は写真でしか知らない。
ようやく帰ってきた父親は無口で妻の墓の前でも涙ひとつこぼさなかった。
4歳になっていたキョウコは抱き上げられもせず、ただ頭を撫でられただけであった。
しかし、彼女はそんな父親を決して嫌いはしなかったのだ。
その頑固を絵に描いた様な顔つきの父親が薄暗い玄関でユイを前にして突っ立っている。
イメージはできた。そして、父親は何と言ったのだろうか。
キョウコはユイの言葉を待った。
「戦争はいかん。それだけよ。親父さんが言ったのは」
「戦争はいかん、か……」
「そう。その後は口をへの字にしちゃってもう何も言わないの」
キョウコは定期入れを出した。
毎日元町の職場に向かうためにつかうそのパスケースの中に、彼女は3枚の写真を入れている。
アスカと自分の写真。内縁の(と法律的にはなってしまう)夫の写真。そして最後の一枚はアスカとトモロヲが写っている。
「おやおや。全部私が撮ったものばかりじゃない。私ってキョウコの専属カメラマン?」
「報酬はないけどね」
「ああ、先を越されちゃった。まあ、いずれアスカちゃんを頂戴するからいいか。人の命は地球より重いもんね」
おどけた風に言う親友の顔をキョウコはまじまじと見る。
精神的にも物質的にも彼女には迷惑をかけている。
職には就いているものの、親子二人で暮らしていくにはぎりぎりなのだ。
負い目を感じないように色々と策を打ってくれてはいるが、それが見えてしまうキョウコは内心ユイに頭が上がらない。
だからこそ、彼女に対して堂々と胸を張った態度で接しているのだ。
そうしようと努めている。
ユイが傷つかないためにも。
「本当にそうなるかしら?アスカはシンジ君を好きになる?」
「もうなってるんじゃないの?あの時のキョウコの眼とそっくりだったわよ。まるで獲物を前にした猛獣!」
「ちょっと!恋する乙女の眼差しをそんなものに例えないでよ。……で、そうなの?一緒?」
「たぶんね。まあ、それもこれもシンジ次第でしょうけど」
「シンジ君はアスカみたいな女の子嫌い?」
「わからないわ。あの晩生、まだ初恋もしてないみたいだし」
「晩生って、まだ11歳でしょう?」
「さぁて、どうなることでしょうね。ねえ、もしそうなったら、私たちの関係ってどう表現されるのかしらね」
「馬鹿なユイ。親友、に変わりないでしょ。それ以上のものはないわ」
「そうね。そうよね。生涯の友。赤毛のアン」
「あなたがアンで、私がダイアナね」
「酷い。黒髪の私がダイアナ。どうして私が…」
親友同士の他愛もないお喋りは日付が変わっても続いていた。
アスカがパッチリと目を開けた。
目覚まし時計がなくともこの時間になれば自然に眼が開く。
彼女はそっと身体を起こすと、布団の脇に立ち上がった。
いつものようにパジャマを脱ぎ散らかそうとして、はっと息を呑む。
そうだった。
この部屋にはもう一人いたのだ。
しかも、異性が。
アスカはその異性を見下ろした。
仰向けになっているシンジはすやすやと眠っている。
まあいいか、大丈夫よねと心の中で呟いて、彼女はパジャマのボタンに指をかけた。
しかし前をはだけた段階でアスカは悩んだ。
前を向いた状態で脱ぐべきか、それとも背中を向けて?
このままならもしシンジが目を開けたならまともに見られてしまう。
まだまだ小さな膨らみだが、恥ずかしがるには充分だ。
それならば後ろを向けばいいものだが、それはそれでシンジが目を開けたとしてもまったくわからないではないか。
もし彼が自分を見たならば即座に成敗しないといけない。
結局、彼女が選んだ選択は背中を向けて首だけはぐいっと後に曲げておく。
随分と不自然な体勢でアスカはパジャマからTシャツとジーパンに着替えた。
着替え終わった後、一度も目を開けなかったシンジのことが腹立たしくなり、それが何故かしら腹立たしかった。
アスカは眠れるシンジに向かって、いぃ〜としかめっ面をして見せる。
午前5時25分のことだった。
シンジが目を覚ましたのはそれから1時間30分ほど後のことだ。
どんな夢を見たかも覚えていないほど熟睡した彼は、足元の違和感と見知らぬ天井を見てここがどこかを思い出した。
そして隣を見たが、そこに眠っていた筈の赤金色の髪をした少女の姿はない。
まさかそんな朝早くに起きたとまでは思わなかったが、寝坊しちゃったとシンジは苦笑いしたのだ。
枕元に置いてあった服を手にすると、ズボンはそのままだったがTシャツの方は違っていた。
平常心という文字が書かれたものは恥ずかしかったが、背中に大きくスマイルマークというのも勘弁して欲しい。
何年前に流行ったものの売れ残りではないのか?とさすがのシンジでも勘ぐったくらいのものである。
それでも着ないわけにはいかない。
不承不承にTシャツも着たシンジは襖を開けた。
「おはようございます」
そこにはアスカはいなかった。
何時間眠ったかわからないが、すこぶる元気な母親二人がそこにいる。
「おはよう、シンジ君」
「おはよう、今日はまた丁寧なおはようね」
一言多い母親に膨れ顔をして見せたシンジはアスカの姿を探す。
しかし、その狭い空間に彼女は見えない。
「アスカならもうすぐ帰ってくるわよ」
「え…、あ、はい」
どこに行ったのかと不思議に思いながらも、ユイのにやにや顔を見てシンジはそっぽを向いた。
この顔の火照りは何なのかと奇妙に感じながら。
「ごめんなさいね、うちは朝はご飯なのよ」
シンジの家は朝はパンである。
但し、ご飯といってもご飯に味噌汁と漬物に味付け海苔だけという質素なものだ。
しかしながら、アスカから惣流家の事情を聞いていた上に、健啖家ではないシンジは不満はまるでない。
その時、玄関扉が開いた。
「ただいま!あっ、おはようございますっ!」
元気よく入ってきたのはアスカだった。
ユイとシンジが起きていることを確認すると、彼女は明るく朝の挨拶をする。
二人は挨拶を返すが、アスカのテンションにはまるで及ばない。
彼女は手にしてきた新聞を卓袱台に置くと、座っているシンジににっこり微笑みかけた。
「おはよ、シンジ」
「おはよう」
改めて挨拶をされ、シンジはこそばゆいような嬉しいような気分になる。
それが特別扱いされたからだと了解できるような自己分析力は彼にはなかった。
「へへん!もらってきたわよ、ほらっ」
シンジの前に置かれたのは小さな券が2枚だった。
見ると、特別招待券、宝塚ファミリーランド、こども券、と書かれている。
「アスカ、無理言ったんじゃないでしょうね」
「全然!配達員用の枠があるんだもん。みんなも欲しいんなら俺のもやるぞって言ってくれたし」
話についていけないシンジにユイが小声で言った。
「アスカちゃんはね、毎朝新聞配達をしてるの。自分のお小遣いは自分でってね。どう?」
どう?と言われてしまうと、シンジは立つ瀬がなかった。
毎月800円のお金を親から貰い、欲しい本やレコードがあれば時にはお小遣い以外で買って貰えることもある。
周囲の友達たちも同じようなものだったので、お小遣いそのものを自分で捻出しているというアスカに対し敬意にも似た意識を覚えた。
となれば、昨日の遊園地で使ったお金もそうだったのか。
それで疑問が氷解した。
何故模型の電車を一回しか走らせなかったのか。
何故自分の分の飲み物は一番安いものを買っていたのか。
けちだという訳ではないと、シンジは感じていた。
そこにも何か理由があるはずだと、彼は思ったのだ。
食事が終わると、キョウコとユイはさっさと家から出て行った。
キョウコは仕事に、ユイは東京へ。
残された子供たちだったが、アスカは当然といった顔で食後の洗い物をしている。
手伝おうかとシンジは言ったのだが、狭い流しなので彼女は明るく断っていた。
暇だったら本でも読んどいてよと言われ、シンジは素直に奥の6畳間に行った。
カーテンが開けられさんさんと陽の光が降り注いでいるが、そのため余計に部屋が狭苦しく感じてしまう。
彼は小さな本棚に向かった。
本屋の息子であるシンジにとって友達たちの家庭の本棚はどうしても小さく感じてしまうが、アスカの場合も同様だ。
読んでもよいと言われたが、読むものはないのではないかと思っていた。
ところがどうだろう。
漫画にしても小説にしても、どれもこれも男の子向けのものではないか。
怪獣図鑑やプロ野球教室などという本までが並んでいる。
逆に女の子向けのものはないのかと探してしまう始末だ。
あえて言うならば『リボンの騎士』くらいなものか。
実は手塚治虫の漫画はシンジにはポピュラーすぎてほとんど読んだことがなかった。
テレビ漫画で見ることで充分だと勝手に思い込んでいたのだ。
彼は何の気なしに『リボンの騎士』の第1巻を手にしたのである。
最初の数ページは立ち読みをしていたが、やがて本を手に座り込む。
洗い物を終えたアスカは顔を覗かせたのはそのあたりであった。
洗濯か掃除を手伝えと言おうとしたアスカだったが、一身に漫画を呼んでいる彼の姿を見て口をつぐんだ。
手にしているのが『リボンの騎士』だったから尚更だ。
彼女はそっと襖から離れると次の家事に取り掛かった。
お風呂場に同居している二層式の小さな洗濯機で洗濯をしている間に、アスカはお弁当作りに取り掛かった。
この時ほど母親に家事を教わっていてよかったと思ったことはない。
いつしか彼女は鼻歌交じりに料理をしていた。
何を唄っていたかというと、当然この歌だった。
「アタシの見る夢、ひっみつぅなのぉ♪」
ご機嫌のアスカは手塚治虫アニメメドレーを歌いながら、玉子焼きをつくり、ソーセージをたこさんに変身させ、ちくわの中にキュウリを通した。
彼女の鼻歌をBGMにして、シンジは漫画に夢中になっていた。
こんなに面白いものをどうしてこれまで読まなかったのだろうか。
彼は2巻目を本棚から取った時に一緒に第3巻も畳に下ろした。
まさに読む気満々といった風情だ。
時々襖越しにアスカが様子を窺っていることにも気がつかず、彼は漫画の世界に没頭していた。
彼が3巻目を読み出した時に、アスカは残り時間を算段した。
シンジの読むスピードが早めでよかったと思いながら、洗い終わった洗濯物を籠に放り込む。
そっと部屋を横切り網戸を開け、左右に張られたロープを緩め、慣れた手つきで洗濯物を通す。
但し今日はシンジのジーパンとTシャツなどが加わっているので、干す配分がいつもと違った。
それに彼女の人生初めての洗濯物、男物の下着、所謂ブリーフという類の代物がそこには混じっている。
もっともそれは新品といってもいいくらいに汚れていないものだったが、彼女にとってはそれは問題ではない。
アスカは鼻息も荒く大きく頷くと、それをロープに洗濯バサミで固定した。
大きな仕事をやり遂げたという高揚感が生まれたのか、その後はさっさと手際よく干し終えた彼女である。
そして部屋の中を顧みると、シンジの手にある漫画の残りはもう1/4程になっていた。
彼女は衣類タンスに向かうと自分の引き出しを開け、それから3畳の方に出て襖をしっかりと閉めた。
一旦そこで考えたアスカはトイレに入り、そこで着替えを始める。
着替えといってもTシャツとジーパンを脱ぎ、ワンピースを着るだけのことだったが。
トイレから出てきた彼女は玄関のところにある縦長の鏡で自分の格好をチェックした。
そんなに大きくない鏡なので、背中側を確認するのは結構大変だ。
得心がいったのか、アスカはにやりと笑うとその場でくるりと回った。
黄色いワンピースの裾が大きく膨らみ、身体が軽くなったような気がする。
彼女はそっと襖を開けると、ちょうどシンジが読み終えた本を本棚にしまうところだった。
「ちゃ〜んすっ」
アスカは襖を一気に開いた。
その音にびっくりしたシンジが見ると、襖のところに立っていたのはアスカだった。
アスカではあったのだが、第一印象は“黄色!”である。
取って置きの黄色いワンピースを着たアスカは仁王立ちしたままシンジを睨みつけた。
「ばぁ〜かシンジ、アンタ、アタシの手伝いもしないで何してんのよ」
「えっ、だ、だって、アスカが読めって…」
「はんっ、覚えてないわ」
白を切るアスカを相手にしても駄目だということをこの一日でシンジは学習していた。
「おかげで出発時間が大幅に遅れちゃったでしょ。罰としてアンタが荷物持ちね」
「荷物持ち?」
「おべんとに水筒。アンタのリュックサックに入れてよね」
「あ、うん」
そんな罰なら全然OKだとシンジはまず思い、そして弁当の存在が気になった。
リュックサックを手に3畳間の方に行くと、これを見よとばかりに卓袱台の上にはお弁当が蓋を開けて置いてある。
褒めて欲しいというアスカの意思がありありと見えていたが、シンジは別にそれを読み取ったわけではない。
そこまで人間が成長するにはさらに数年の修行が必要な11歳だからだ。
ただ彼は思ったとおりの事を口にしただけである。
「へぇ、これ全部アスカが?」
この後の展開を考えて上ずる気持ちを抑えて、アスカはずっと決めていた台詞をそれとなく口にする。
「まあね。でも、ご飯だけはママが炊いたんだけどね。朝のご飯炊きはママの担当なの」
ご飯だけ、というところに力を入れすぎたが、そのおかげかどうかシンジに意図は伝わった。
「じゃ、このおかずは全部アスカ?凄いや、おいしそうだ」
元来、褒められると天狗になる性格のアスカだったが、この時ばかりは過去に見ない舞い上がりようを自覚した。
「はっ、ははっ、て、天才だもん、アタシっ。勉強だって、お料理だって、何だってできるもん!ははははっ、凄いでしょっ!」
凄いでしょう?と問われれば、うんと答えるしかない。
シンジの反応にアスカはさらに舞い上がり、それでも決して支離滅裂ではない命令を彼に下し続けた。
お弁当を新聞で包め、に始まって、靴を履きなさい、に至るまで一挙手一動作にわたってあれやこれやと口を出したのだ。
うるさいなぁと思いながらも、わずらわしさはなかった。
母親に言われた時はあんなにわずらわしく、「放っておいてよ」と文句を言うシンジであったのに。
それはアスカが遊園地に行くということでハイテンションになっていると理解していたからか。
自分の言動で彼女が舞い上がっているとは露ほども知らず。
アスカは報復を果たした。
鬼太郎の妖怪大作戦の、あの会場、あの場所で。
黄色いワンピースのアスカは仁王立ちして、「出てきなさい!ねずみ男!」と連呼したのだ。
呼ばれて飛び出たわけでなく、猫娘に背中を押されて、腰が引けた姿勢で彼は現れた。
それは本来のねずみ男にぴったりの雰囲気で、他の観客の笑いを取った。
彼女の傍らのシンジは苦笑しながらも、怖いはずのねずみ男に果敢に立ち向かうアスカのことを偉いと思った。
怖いものを怖いままにせず、克服しようとするその姿勢に。
もっともアスカの動機は違っていた。
シンジに泣き虫の女の子だと思われたままでいたくないという思いだけが彼女を突き動かしていたのだ。
背筋に悪寒を感じながらも、彼女はねずみ男に「昨日はよくも云々」と悪態を吐き続けた。
そして、猫娘の協力により、今度はねずみ男を檻の中に閉じ込めることに成功したのである。
アスカは猫娘を握手をし、満足気な笑顔を浮かべた。
ただし、檻の中には巻き添えを食ったシンジが「出してよぉ」とぼやいていたのだが。
昨日とは違い、お昼前から入場していたので時間の余裕はかなりあった。
それにすでに乗ったアトラクションは外せたので、二人は大いに遊園地を楽しんだのだ。
ジェットコースターは勘弁してあげると恩着せがましくアスカに言われたが、彼女とは違って報復など考えられないシンジだった。
係りの人に「めちゃくちゃ暑いで。ええんか?」と注意された大観覧車では大丈夫と乗り込んで二人で汗びっしょりになった。
それでも遊園地で一番高い場所から、ファミリーランドだけではなく周りの風景もたくさん見ることができたのだ。
ねずみなど出てこないモンスターハウスではアスカは無敵だった。
仕掛に脅かされるシンジを笑い飛ばし、自分が驚かされた時は仕掛に向かって毒づいたりしたりする。
表情がころころ変わる彼女がシンジにはまぶしかった。
ロープウェイにも乗り、モノレールにも乗った。
ゆっくりと動く乗り物の中では、二人は色々なことを喋りあった。
アスカは新聞配達で得たお金をすべてお小遣いにしているわけではなく、ある目的のために貯金をしているのだという。
それは母親の渡米費用だった。
自分も会いたいとは思っているがそれよりも母親が好きな人に会ってもらいたい。
幾程かかるのかわからないが、郵便局で貯金をしているのだと。
そんなことを眼を輝かせて言うアスカを見て、シンジはこれまで受けた事のない感情に胸を高鳴らせた。
それがどういう種類の感情なのか、自覚するまでにはもう数ヶ月必要なのだが、ここではそれには触れない。
ただ、ここで言える事はただひとつ。
自分も協力したい、とシンジは心の底から思ったということだけだ。
アスカには何も言わなかったが。
今日は昨日のように遅い時間まではいられない。
母親が帰ってくるまでに晩御飯の準備をしないといけないからだ。
おかずの用意は帰宅時に甲南市場に寄ってくる母親の担当だが、晩のご飯を炊くのはアスカの役目なのである。
それに洗濯物を取り入れてたたまなければならない。
今日も夏の陽射しが強かったので、洗濯物は乾きすぎるくらいに乾いていることだろう。
4時30分には帰宅していたいので、ファミリーランドは3時前に出ないといけない。
メインストリートに立つ時計が2時40分を示した時、あと一つだけ何かに乗ろうかと二人で決めた。
しかし、それを何にするか決めたのはアスカの独断だった。
「えっ、そ、それは!」
「じゃあさ、ジェットコースターにする?それだったら、そっちにしてあげてもいいわよぉ」
アスカはにんまりと笑った。
それはあまりに見え透いた、シンジがジェットコースターを選ぶ筈がないという計算の上での提案だからこそ、彼は憤然とした。
憤りのあまり、だったらジェットコースターでいい!と叫ぶ寸前までいったが、冷静なもう一人のシンジが一生懸命に阻止したのだ。
改めて考え直すと、やはりジェットコースターは避けたい。
機能の恐怖感を思い出しただけで足ががくがく、背中がぞくぞく。
二つに一つ。どちらも嫌なものに違いないが、恥ずかしさよりも恐怖の方がシンジを打ちのめしたのだ。
「メリーゴーランドでいいよ」
「あ、そ。じゃ、さっさと行きましょ」
さりげなく言うアスカだが、その表情は勝利に酔いしれている。
黄色いワンピースに麦藁帽子で歩く少女の背中を追いかけながら、シンジは溜息を吐いた。
どうして楽しい遊園地の最後がメリーゴーランドなのだ、と。
メリーゴーランドの発車ベルが鳴る中、シンジは最後の抵抗を試みた。
こっちの馬車に乗ると主張したのだが、アスカは絶対に駄目だときかない。
とうとうシンジは押し切られて、白い馬にまたがった。
それを確認してアスカはその隣の馬に急いで乗る。
音楽が鳴り、風景が回りだす。
馬に乗る我が子に手を振る親たちの姿がぐるりと続いていく。
あまりの恥ずかしさにシンジは顔を伏せた。
そうしているうちにアスカはどうしているのだろうかと気になった。
そこで横を見ると、彼女の青い瞳と真っ向からぶつかったのだ。
つまりアスカは彼をじっと見ていたわけである。
するとどうだろう。
彼女は急にそっぽを向くと反対側、メリーゴーランドの軸の方へ顔を向けた。
どうしたのだろうかとシンジはしげしげとアスカを眺める。
その耳や頬の辺りに赤みが走っていた。
それは日焼けとは違う、明らかに恥ずかしさで発生するものだ。
そして、彼は誤解した。
メリーゴーランドに乗っているのは、付き添いの親を除いては大抵幼児か小学校の低学年あたりだった。
アスカとシンジが最年長の子供の様だ。
だからシンジはアスカの恥じらいを見誤った。
彼は自分を恥ずかしがらせるためにアスカがメリーゴーランドに誘ったのだと思い込んだ。
そしてその結果、自分も恥ずかしい目にあった、とシンジは結論付けたのである。
それは大いなる見当違いだった。
アスカはシンジを白馬の王子に見立てたかったのだ。
あの恐ろしいねずみ男の恐怖から自分を救ってくれたシンジ。
それだけではなかったが、彼女は自分の心をはっきりと認めることができたのである。
あれは、大観覧車に乗っている時だった。
汗だくになり、周りの景色を説明し、観覧車が頂上から降りていくうちに、ふとお喋りがとまった。
その時シンジは腰を浮かし気味にして動物たちを眺めている。
その横顔を見つめている自分にアスカは気がついた。
いや、見つめているのではない。見惚れている、のだ。
自分の顔がにやけているのがわかる。
その瞬間、コレはアレに違いないと彼女の本能が雄叫びをあげたのである。
つまり、コレもアレも恋に他ならないということを。
アタシがコイツに恋をした?
アスカはその解答に一瞬だけ戸惑い、そしてすぐにそれを受け入れたのだ。
何が悪い?どこが悪い?
そして思いついたのである。
人生最大のピンチに泥だらけになって助けに来てくれたのがシンジだった。
即ち、彼こそは白馬に乗った王子様に違いない、という見立てが成立することを。
そう自覚した途端にどうだろう。
あんなに冴えなくて情けない風にしか思えなかったシンジが光り輝いて見えだした。
外国人学校や近所で知る実在の人物や映画やドラマに出てくる登場人物など比ではない。
アタシはコイツのことが好きなんだ。
それは素晴らしい事実だとアスカは認めた。
シンジとの時間はあと何時間だろうか。
今晩はまた自分の家に泊まる。
そして、明日の午前中に彼は新大阪から東京に帰る。
制限時間はもう24時間を切っているのだ。
その短い時間をできる限りシンジを見ていたい。
そのようにアスカは思っていた。
だから、彼女はシンジをなんとしてもメリーゴーランドに乗せたかったのだ。
彼は白馬の王子様でなくてはならないのだから。
その姿を己の瞼に焼き付けておきたい。
メリーゴーランドはくるりくるりと回る。
舞台が回りながら、馬は上下に動き、明るい音楽をBGMに子供たちは笑顔で手を振ったりしている。
その中でアスカの耳には音楽も歓声も届いていない。
彼女はそっと視線を動かした。
シンジはまだ自分を見ていた。
慌てて視線を違う場所に移動させる。
そこには天使の顔があった。
馬や馬車が並ぶその間にポールが立っていて、その天辺に天使がいる。
天使はみなを見下ろしているようだ。
チンク?
朝方にシンジが読んでいた漫画の影響か、アスカの頭にその名前が浮かぶ。
漫画のチンクは愛のキューピットではなかったが、彼女はそこにいる天使に願った。
ねぇ、アンタ。シンジに愛の矢を射てくんないかしら。もちろん、アタシに恋するようにね。
天使は知らぬ顔。
アスカは天使に向かってしかめ面をして見せ、それから小さく笑った。
そっか、これが初恋ってヤツなのね。
10歳と8ヶ月で初恋って早いのかしら、普通なのかしら。
まっ、そんなのどうだっていいわ。
彼女は無意識に馬の頭を撫でた。
嬉しいことにこの馬たちはずっと同じ間隔で走ってくれている。
自分とシンジはずっと隣りあわせで、もしその気になったら手を繋ぐ事だってできる距離だ。
アスカは意を決して再びシンジの方を見た。
絶対に視線を逸らさないと心に誓って。
シンジは背を丸くして、その視線は床の方を見ている。
見るからにいやいや乗ってますと自己主張しているようだ。
アスカは彼の格好を見て吹き出した。
「こら、馬鹿シンジ!背筋を伸ばしなさいよ!」
急に声をかけられ、びくりとしたシンジは「これでいいよ」と首を左右に振る。
ああ、どうしてこんなに情けない男の子を好きになっちゃったんだろう、このアタシは!
「ちゃんとしないともう1回乗るわよ!」
今度はあからさまに顔を歪め、いやいやながらも背中をピンと伸ばすシンジだった。
もう一度だなど冗談でも嫌だ。
背中は伸びたが、その目線はメリーゴーランドの屋根に飛んでいる。
まったく、この馬鹿は!
アスカの王子様は全然格好良くなってくれない。
せっかく白馬に乗っているというのに…。
アスカは苦笑した。
しかし、彼女は幸福だった。
昨日までの鬱屈した感情はどこに行ってしまったのだろう。
いくら頑張っても父親には一生会えないに違いない。
学校でも馬鹿にされ続けるのだ、きっと。
そんな気持ちがアスカを覆っていた。
ところがいつからだろう。
シンジと会ってしばらくは時折負の感情が頭をもたげる事もあった。
それがいつの間にか忘れてしまったのである。
しかもずっと隠していた秘密を自分の口から告白したのだ。
その所為か、気持ちも身体もすこぶる快調だ。
最近は惰性のようになってきていた新聞配達も今朝はあっという間に終わった感じがする。
学校の連中が何を言おうが何を思おうが、もうどうでもいい。
すべてうまくいくように思ってしまう。
まるで夢の中にいるようだ。
夢?
アスカははっとした。
これは夢なのではないだろうか。
お願いします、神様。
夢ではありませんように…。
アスカは決めた。
メリーゴーランドを降りたら、手を抓ってみよう。
それで痛ければ、これは現実だ。
もし、痛くなければ?
彼女は不敵に笑った。
それでもいいわ。
もし、これが夢の中の出来事ならば、ずっと永遠に夢を見続けてやる。
その場合の対応策をアスカは考えた。
シンジの手をずっと繋いでおけばいいのだ。
彼と手を繋いでいれば、ずっと一緒にいられる。
一緒に夢を見続けていられる。
そうよ、アタシは魔法にかかったかもしれない。
神様なのか、魔法使いなのか、誰の仕業かはわからない。
しかし、夢か魔法のいずれにせよ、今のアスカは幸福だった。
メリーゴーランドはアスカの夢を乗せて回り続けた。
くるりくるり、くるりくるり、と。
そして、彼女は彼の横顔に心の中で呼びかけた。
シンジ、あなたはアタシを好きになってくれますか?
アスカははっとした。
運命か、偶然か。
シンジがこちらを向いて恥ずかしげに微笑んだのだ。
これが返事だ。
彼女はそう決め込んだ。
そして、彼女もシンジに微笑む。
この夢よ、いついつまでも。
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