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◆ 社名 ◆ 設立 ◆ 代表 ◆ 事務所 ◆ 店舗 ◆ 事業内容 |
【 Pinto Japan 】 2006年01月01日 Indian Summerより変更 2001年12月14日 松本 孝 〒662-0083 兵庫県西宮市苦楽園一番町1-28-202 〒662-0951 兵庫県西宮市川西町1-15 Call / Fax 0798-33-8139 e-mail pinto-japan@m6.dion.ne.jp Native American Jewelry の輸入販売 Native American 関連商品の輸入販売 上記住所にて店舗 『Pinto』を運営 Web shop 『Pinto』 運営 Yahoo Shopping において 『A&J Pueo』 運営 |
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ネイティブアメリカンの自然界における万物に対するリスペクト(自然崇拝、自然との共生)や、代々語り継がれてきた物語に基づき制作されるジュエリーや生活雑貨。 それらには母なる大地を尊び、自然に感謝する心など様々な祈りや願いと言うスピリッツが込められております。 また それら代々継がれてきた事は決して私たちの真似ることの出来ないものであると私は考えております。 ましてや、それは当然にアジアや南米の人々にも当てはまります。 是非とも、多くの人に この本物のみが持つ目には見えない価値感を味わって頂きたく、私が厳選して買い付けてきた商品をこのHPを通して、より多くの人達に提供していきたいと考えております。 |
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【サンド・クリークの虐殺】 1864年11月29日の朝、J・M・チビントン大佐指揮によるアメリカ軍1000名の兵隊が、コロラド州サンド・クリークの河のほとりにキャンプを張っていた約500人のシャイアン一族の部落を急襲し、150人ほどを集団虐殺した事件。 殺された3分の2は婦女子並びに老人だった。シャイアン一族を率いていたのはチーフ・ケトルといい、彼が米国国旗並びに白旗を揚げたが、兵隊たちはこれを無視した。兵隊達はインディアンの局部を切り取ったり、子供の頭を棍棒で殴ったり、妊娠中の女性の腹を切り裂いて胎児を引き出したりした。 虐殺が終わった翌日にも、兵隊達は殺戮のあとから死んだインディアンの頭の皮を剥ぎ取ったり、無傷の子供を見つけて、皆で撃ち殺すことを競い合ったと記録にある。 このときに剥ぎ取られたインディアンの頭の皮50枚が、英雄とされたチビントン大佐によって、その後すぐにデンバーにある劇場で一般に公開展示されている。また大佐は虐殺事件を引き起こした直後に軍籍を離れて、軍法会議にかけられる事を免れた。 シャイアン族のチーフ・ケトルは、このとき危うく難を逃れている。 【ワシタの虐殺】 サンド・クリークより4年後の1868年11月27日早朝、オクラホマを流れるワシタ川のほとりでキャンプを張っていたチーフ・ケトルに率いられているシャイアンの平和な部落を、ジョージ・A・カスター将軍指揮の第七騎兵隊が急襲した事件。 100人とも、150人とも言われる戦士が殺された。それまで和平交渉に尽力してきたチーフ・ケトルもこのときに殺された。この虐殺以後、第七騎兵隊の指揮官であるカスター将軍は、一躍インディアン達の間で「イエロー・ヘヤー」とも「ロング・ヘア」ともよばれて恐れられるようになる。 大平原を貫いて通る鉄道がバファローの激減につながることを理由に一斉蜂起していたシャイアン一族は、この事件以後スー族との連帯を深めていく。 【リトル・ビッグ・ホーンの戦い】 ジョージ・A・カスター将軍の率いる第七騎兵隊がリトル・ビッグ・ホーン川の流れる谷でスー、シャイアン、アラバホの混成部隊によって殲滅させられた戦い。 1876年6月25日の出来事。次期大統領候補でもあったカスター将軍はアメリカ独立100年記念日を目前にして功を焦り、自分達の倍以上もの数のネイティブ連合部隊を急襲したとされる。このときのスーの戦士の中にクレージー・ホースがいた。カスターの部隊はここでわずか1時間ほどの戦闘で全滅する。カスター将軍の最後の戦い。 【ウーンデット・ニー】 白人側の歴史によると、1890年12月29日の朝、第七騎兵隊の大佐であるジェームス・W・フォーシスがサウスダコタのウーンデット・ニー・クリークでキャンプを張っていたおよそ250人ほどのスー族の武装解除をしようとしたところ、何人かのインディアンが身体検査を拒否したためにごたごたが起こり、彼が誤って銃を撃ったために戦闘になったとされているが、生き残ったインディアン多くのはこの説明をはなから信じていない。 インディアンは誰ひとり銃などもっていなかったし、その銃声をきっかけにチーフ・ビッグ・フットに率いられたスー族に対する全面的な騎兵の攻撃が開始されていることからも、初めから第七騎兵隊によるリトル・ビック・ホーンの闘いにたいする報復のための無差別殺戮が計画されていたことは間違いない。 大砲や最新の毎分50発も撃てるホチキス式機関銃が使われ、最初の数分間で、正確は数は今も分かっていないが、200名近くが殺され、そのうちの62人が母親と子供たちだった。騎兵隊もこのとき60人ほど死んでいるが、大半が味方の撃った銃弾にあって絶命していた。チーフ・ビッグ・フットもこのときに死んだ。 幼児を背負ったまま殺された女達もいた。生存者を探しては撃ち殺すと言うこの大虐殺はのべ3日間にも及んだ。傷ついた者達はサウス・ダコタの厳しい寒さと吹雪のなかに捨て置かれて死んでいった。雪の中で殺された時のまま凍っていた死体は、兵隊達のお土産として写真を撮影されてから戦場に掘られた穴にまとめて投げ捨てられて埋められた。 ウーンデット・ニーにおけるこの大虐殺事件によって、古き良き昔の甦りを希求するインディアンたちの夢は完全に消し去られてしまう、ひとつの夢が圧倒的な武力を前にして、ここにはかなく終わりを迎えたのである。 |
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今回遅ればせながら、話題の映画を見ました。(レンタルビデオです(^^ゞ) クリント イーストウッド監督(白人)が作ったにしては、あんまりアメリカ側に片寄ることもなく、私達が見ても嫌悪感を抱く物ではありませんでした。 そこで今度は、Native American 側からの注釈を伝えます。 硫黄島の戦闘で栄ある名誉勲章をもらった、Native American のアイラ・ヘイズについてです。 最初にアメリカ国旗を硫黄島に上げた戦士です、彼は後に名誉勲章を与えられたが、その表彰式でインタビューを受けた時に、『私は何も誉められるような事はしていない』と言って、おめでたいムードをぶち壊してしまった。 その後は、元のように無能のインディアン扱いされて、政府の監視下に置かれたあげくに、飲んだくれて死去してしまった。 かねてよりアメリカ政府は、自分達の戦争のために、Native American を徴用してきた。第一次世界大戦、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争。そのいずれの時も、彼らのための戦争に担ぎ出された。そして撃ち合いが続いて、弾丸が飛び交っている限り、何時だってちやほやと英雄扱いを受ける。 ついでに書き足しておきます。 ハンクパパ スー族の偉大な酋長シッティング・ブルを殺したのも、実際は白人なんかではなかった。 スタンディング ロック でゴーストダンスをすれば逮捕する警告を受けたが、シッティング ブルは【兵隊をよこしなさい、そして私をどこでも好きな場所に連れ去り殺すがよい、私は恐れはしない。」と語った。 そしてゴーストダンス終了後シッティング ブルは抵抗することなくインディアンポリスによって逮捕された。その後レッド トムホーク軍曹に後頭部を撃たれた。 さらにスー族の偉大なる戦士クレージー・ホースです。 なるほどクレージー・ホースを銃剣で突き殺したのは、一人の白人の兵隊だったかもしれないが、その両腕を両脇からガッチリと押さえ込み、身動き一つできぬクレージー・ホースの身体を練習台としてその騎兵に銃剣で突かせたのは、ほかならぬスーのインディアン警察の人間だった。 いつでも白人は自分達の代わりに戦ってくれるような、腹をすかしたインディアンたちを、どこからともなく必ず見つけだしてくる。 |
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今回は、久しぶりに私が感じ入った文章です。 朝日新聞2011.10.29版にあった、「野遊び大全」 子供がとった魚は食わせる 作家 阿部 夏丸 さんのコラムをご紹介いたします。 釣った魚をその場で逃がすのをキャッチ&リリースという。だが逃がす理由の多くは、魚に触りたくないとか、魚がかわいそうといったもので、いずれもいただけない。そんな行為は不健全で、子供の教育上、よろしくない。 近所の小学生2人を連れ、川へと魚とりに出かけた。ひと夏を越えると、彼らの腕は見違えるほど上達する。日焼けした顔でMちゃんが言った。 「テナガエビとったよ」、「俺は、でっかいギギ」T君は初めて捕まえたギギを手に興奮気味。そして、不意打ちの質問をしてきた。「あのさ、これ食える?」ギギはナマズの仲間で、魚屋にこそ並ばないが、なかなかおいしい魚だ。 「食えるさ。煮付けもいいし、つみれ汁もいい」 「じゃ、今、食べたい」 「私のテナガエビも」 せっかく盛り上がった気分に水を差してもつまらない。僕は河原で焚き火をおこし、2人を竹拾いに行かせた。「これでいい?」2人が拾ってきた竹をナイフで割って串にする。断面を長方形に平たく仕上げるのがコツだ。そうすれば、刺した魚が回らずに安定する。 「さあ、魚を刺そう。そしたら、焚き火で塩焼きだ!」しかし、子供たちは串を手に困惑の表情を見せた。 「げげっ、生きている魚に串を刺すの?」 「刺したら、エビが死んじゃうじゃん」 「えっ、食べるんだろ?」 「でも、かわいそう〜っ」魚を殺すのも、串を刺すのも初めてのようだ。でも、笑ってはいけない。彼らの両親だって、生きた魚を台所でさばいたりはしていない。「見てろ。左手で魚を握り、口から串を刺す。背中を縫うようにすると、カッコよく仕上がる。さあ、やれ」 2人ともおっかなびっくりだったが、そんなのは初めのうちだけだった。 「げぇ〜、残酷〜」 「きゃ、ぴくぴく動く〜」 「へへっ、でも、面白い」 もう、笑っている。でも、その目は真剣そのものだ。 「よし、塩を振ったら焼こう。T君は料理長。たき火の番をしてくれ」 T君はうれしそうに魚を火にかざすと、たき火をつついた。Mちゃんも手を伸ばす。 「あ、あ、あっ。。。。。」 「どうした?」 「エビが赤くなった!」すかさず、T君がいう。 「そうだ、母さんが揚げたエビの尻尾も赤くなった」 「きれい」 「いただきま〜す」 「うま〜い!」 こうしていただく「命」がまずいはずがない。 獲物を捕まえた「やった」が、「かわいそう」 「残酷」になり、「面白い」 「きれい」に変わり、最後に「うまい」にたどり着く。このつながりこそが、「命とは何か」を感じとるうえで重要なのだ。ポイ捨てリリースや言葉の教育からは、命の大切さは学べない。子供に殺生を教えるのは、大人の大事な勤めである。 |
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今回は、また私が感じ入った言葉です。 朝日新聞の特集版です、今回は高木沙耶さんでした、彼女が『LOHAS』について書いておられました。(彼女は日本人フリーダイビングでの第一人者である) その中で自然での生活について書かれておりました、ここでも気になるええ言葉を、おっしゃってました。 それは【自然の中でアースする】という言葉です、自然の中で精気をチャージすると言う事の表現ですな「上手いこと言うもんですなぁ、まったく」 確かにその通りだと思うんです、僕もテントで地面の上に寝転んでいると、地球のエネルギーを直接身体に受け止めているように感じます、まさに地球と一体化する『アースする』なのです。 これはホテルのベッドでは決して感じることの出来ない感覚でしょう。これもパクらさせてもらおかな。 |
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実は数ヶ月前の話になるんですが、清水邦明氏が新聞の特集版に書いていたアウトドア生活に関する特集でした。 清水さんはアウトドア生活に相当はまっておられる方で、『芸能人はええな〜』と羨ましく思っておりました。 その特集の中で、非常に ええこと言うてはりました。 よう色んな人から「キャンプなんか行って、何がおもろいねん!」とか「不便なだけやろ?」と言う事を言われます、その時に明快に自然の中の良さ、アウトドアでの生活の良さなんかを的確に応える言葉を持っていませんでした。 この清水さんの記事を読んだとき、『まったく、その通り!!』「上手いこと言うもんやなぁ」と感心しました。 僕らはいつもバイクで行きます、ですのでこの感覚はより一層、研ぎ澄まされて感じます。 その言葉とは次のような物です、ご参考あれ!! 僕はパクらさせて貰います。 【キャンプに行くために、都会から郊外に向かって行くと、街の明かりを通り過ぎ自然の中に入って行くに従って、自分の中の感覚(五感)のスイッチが、パチッ!、また自然に深く入ると、パチッ!とドンドン入ていく。そして街では聞こえない自然の音、風の音や木の音、虫の声などが、ドンドン耳に入ってきます、ドンドン動物としての機能が戻ってきます。 これは多分、都会の騒音、雑踏の中では、自然といやな物が耳に入らないように身体の保護回路が働き、スイッチを切っているんでしょうね・・・】 という感じでした、このくだりの身体のスイッチ等は、まったく言いえていると思います、僕もテントサイトでは普段の生活では絶対に聞こえないような色々なことが徐々に聞こえ、また星はよく見え、遠くも見渡せるようになっていきます。 |
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気になった映画の話。 |
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私の最近気になった事。(朝日新聞 11.Apr. 2003 より) | |
ひとりの戦死者のことが気になっている。捕虜救出作戦で話題をさらったジェシカリンチさん(19)の陰に隠れてほとんど報道されなかったが、彼女の友人だったローリ ◆二人は米テキサス州の陸軍の兵舎で同室で、イラク攻撃でも同じ部隊にいた。南部のナーシリヤ付近でイラク側の攻撃を受けた。負傷して病院に収容されたリンチさんは救出されたが、ピエステワさんは遺体で発見された。女性兵士としては初の戦死者だった。 ◆彼女はアリゾナ州に居住区をもつアメリカ先住民のホピ族出身だった。地元紙などによると、二人の幼児をかかえるシングルマザーで、出発前には「二人を置いていくのはつらいけど、新しい体験をしたい。いろいろ学んできます」と語っていたそうだ。 ◆彼女がまだ行方不明だったとき無事を祈る集会が開かれた。彼女の兄は「平和とイラクの人々のために祈ってください」と呼びかけた。なぜイラクの人々のためなのか? イラクにも傷ついている人がいるでしょう。そして私たちが今感じていることと同じことを感じているでしょうから」 ◆米国防総省は米軍の死者を102人、捕虜7人、行方不明11人と発表した。イラク側の数字はわからない。チェイニー副大統領は「歴史上最も驚くべき作戦だ」と自賛した。とはいえ、かけがえのない個々の命を代償にしての作戦であることに変わりはない。 ◆ピエステワさんの戦死が伝わった4日の翌日、彼女の故郷に雪が舞った。ホピ族では、魂がお別れに来る知らせだという。 |