ー 1972 初夏 ー
2006.10.14 ジュン |
「いい、シンジ?この作戦は絶対に成功させんのよ」
「うん、わかってるよ」
惣流アスカが真剣な表情で気張っているのはいつものことだが、
それにひきかえ、彼女の幼馴染の少年が思いつめたような顔つきで鼻息も荒く昂ぶっているのは珍しいことと言えよう。
場所はアスカの部屋。
小学校3年になってからこの部屋に、いや彼女の家自体に行くことが恥ずかしくなってきた碇シンジだった。
その原因となったのは同級生の揶揄だった。
3年生になって女子と遊んでいるとからかわれてからは、よほどの用がない限り隣家に赴かなくなったのだ。
誕生日のパーティーに誘われても断ったりするようになった。
そのことでこの幼馴染の少女がどんなに寂しがっているかなど彼には想像もできなかったのだ。
もっとも彼女が両親以外にその寂しさを見せることはまったくなく、いつも強気この上ないのだから仕方がなかろう。
そんなシンジが何故彼女の部屋にいるのか。
それはある食べ物が原因だった。
碇家の主婦も、そして惣流家の主婦も、二人とも子供たちに絶対に食べさせないようにしているものがあったのだ。
新発売のカップヌードルである。
お湯を注いで3分間。
すると美味しいラーメンが出来上がる。
まさに魔法のラーメンだった。
子供たちはそういう代物の存在に敏感である。
だが、現代と違って情報の浸透には時間がかかる。
まして食べ物の広告など子供たちの読むものには掲載されない。
ところがカップヌードルの存在が日本国中に知られたのは、あのあさま山荘事件だった。
テレビで連日流れる映像の中に、機動隊員たちがカップヌードルを食べている場面が何度も見られたのだ。
子供たちの目にはそれが宇宙食のような、未来の食べ物のように映った。
カッコいい!
いったいどんな味がするのか。
100円のラーメンなど高価で親に頼んでも買ってくれるわけがない。
しかもアスカとシンジが住んでいるこの町にはまだ大手のスーパーマーケットがなかった。
市場のお店にはインスタントラーメンはあってもカップヌードルは置いていない。
だからクラスメートの中で一気に食べた人間が増えるということはなかったのである。
だが、やはり話題の新商品。
ひとり、またひとりと、それを食べたという宣言が教室で運動場でまたは体育館でされたのだ。
しかしそこは小学3年生。
表現力は多様ではない。
おいしい。変な味だった。すごい。それほどでもなかった。3個食べた。
最後の感想を述べた男子は当然みんなに「馬鹿じゃないか」と総すかん。
まだ食べたこともない者の方が圧倒的に多いのだからそれも仕方がなかろう。
総合的には食べたことのない味だ。
同じ日清のチキンラーメンとも違う。
お湯をかけないでバリボリ食べたら不味かったという証言は「おおお〜!」というどよめきをもって受け入れられた。
そんな贅沢な実験をしてのけた相田ケンスケは少なくともその一日は英雄だった。
さて、本作の主人公たちだ。
アスカは出張する父に土産としてカップヌードルをねだった。
娘に甘い父だからこの作戦は成功すると思っていたのだが、時と場所を誤った。
出張に向うその日の玄関先で甘えたのだが、そこには母親もいたのだ。
カップヌードル反対派の彼女は即行で夫に念を押した。
そんなものを買ってくれば家に入れません、と。
嘘を言わない女性だということはハインツが世界一知っている。
彼は即座に娘に謝った。
悪いがパパはお前の力にはなれない。
その一言の見返りは「パパなんか大嫌い!ふん!」という捨て台詞。
いってらっしゃいも言わずに娘はさっさと登校。
はぁと大きな溜息の彼に妻はさらに釘を刺す。
絶対に買ってきたらいけないわよ、逆らったら家に入れないから。
彼女の母親は徹底主義者なのである。
シンジも恐る恐る試したことがある。
母親と親戚の家に行って、その町の大きなスーパーマーケットで買い物をしたときだ。
買い物籠の中にこっそりとカップヌードルを忍ばせておいたのだ。
しかし、レジに向う途中で露見。
その代償は買い物籠には行っていたおやつ関係全てが陳列棚に戻されてしまったこと。
親戚に貰ったお小遣いまでも没収されてしまった。
彼の母親もまた徹底主義者なのである。
そこで二人は共同作戦をとることにしたのだ。
当時の小学校3年生にとって100円は大金だ。
アスカもシンジも一月の小遣いは300円。
カップヌードルは物凄く食べたいが月の小遣いの1/3を費やすには途惑ってしまう。
欲しいものは星の数ほどあるのだ。
だからアスカは持ちかけた。
何故シンジだったか。
彼女にも友人はいる。
だが、秘密を絶対に守ってくれるかどうか自信がなかった。
しかしことシンジには自信がある。
自分の命令には逆らわないし、約束は守る男だ。
問題は幼稚園の時に交わした約束で、それを彼が覚えているか、そして約束を果たすつもりだったかどうかだ。
「大人になったら結婚しよう」といきおいで言ってしまったアスカにシンジは軽く「うん」と頷いた。
それを覚えているのかいないのか。
しっかりと覚えている彼女の方はどうするか決めていない。
とりあえず、その話を蒸し返すつもりも別の男子と婚約する気はなかった。
それだけは確かだ。
余談はさておき、今回の作戦の目的はカップヌードルを食べることだ。
まずは作戦立案。
そのためにシンジを部屋に招きいれたのだ。
彼も必死だった。
親友の二人はもうカップヌードルを食べているのだ。
前述したお湯をかけないで食べてみたというケンスケもそうだが、
あまり食べ物にこだわっていないように見える鈴原トウジまでもが関西に帰省した時に食べていたのである。
時には二人にからかわれてしまうのだ。
買い食いもできないお子様だと。
そんな汚名を一気に返上したいシンジなのだ。
「目標はわかるわよね、とぉぜんっ」
「うん。バス停の隣にある自動販売機だよね」
「正解っ。あれがあそこにできた時にはアタシは神様に感謝したわよ」
因みに惣流家の面々はこぞって白人の容姿をしているが、何故か浄土真宗である。
したがってここは仏様が正しい。
「そうだよね。僕もびっくりしちゃったよ。僕らの町にあんなのができたんだもん」
「うんうん。あれはね、アタシたちにカップヌードルを食べなさいという天からの声」
「食べたいよね、一日も早く」
「はんっ、焦っちゃダメよ、馬鹿シンジ。壁に耳あり障子に目あり」
因みにアスカの部屋に壁はあるが障子はない。
宗教は浄土真宗だが、家のつくりはモダンな洋風家屋である。
「だよね。うちの母さんもよく立ち聞きしてるもん」
「も、って何よ。も、ってのはっ。アタシのママが立ち聞きするっていうのっ?」
がちゃり。
タイミングよく入ってきたのは噂の主、アスカの母親である。
「いらっしゃい、シンジ君。久しぶりねぇ。はい、ジュース」
「ありがとうございます」
「まあ、礼儀正しいわね、いつものことながら」
そこでぎろりと娘を横目で睨みつける。
すでにトレイからジュースをいち早く手にしてストローで飲みはじめていたアスカは目を逸らして知らぬ顔。
「おばさん、買い物に出るからね。もしアスカに乱暴されそうになったら逃げてね」
「ば、馬鹿っ。アタシがそんなことするわけないじゃない!」
「どうだか?これまでの数々の悪行を忘れたとは言わせないわよ。
ほんの1年前に改造手術をするってシンジちゃんをベッドに縛り付けたのは誰でしたっけ?」
アスカ、素知らぬ顔でジュースをずずず。
シンジは忘れてしまいたい過去を思い出して蒼い顔。
あれはちょうど一年前のことだった。
その日も母親二人は連れ立って買い物に行っていた。
そして二人は仲良く人生ゲームやらトランプやら家庭内かくれんぼや家庭内おにごっこで走り回っていた。
賢明なる読者諸君なら察しがつくと思うが、常に追いかけているのは女性で男性の方は逃げ惑っているのであるが。
遊び(逃げ)疲れてシンジは床にごろんと横になった。
そこに珍しくアスカは優しい言葉をかけたのだ。
「眠いんならアタシのベッドを貸してあげるわよ」
シンジの家は布団で眠る。
ベッドの感触は彼にとって心地よいものであった。
今なら恥ずかしいとアスカのベッドは借りることはないだろうが、
去年のシンジは何も考えずに彼女の言葉にあっさりと乗って、そしてすぐにすやすやと眠ってしまったのだ。
彼女の名誉のために言っておくが、悪戯を思いついたから優しい言葉をかけたのではなく、
シンジの寝顔を見ているうちにとある特撮番組のオープニングの場面を連想したのだ。
アスカはそっと部屋を抜け出した。
さすがに服を脱がすほどの暴挙は為さなかったが、
彼女は素早く父親のネクタイやタオルを使って彼の手足をベッドの四隅のポールに結びつけたのである。
団子結びで。
身体の異変に気付いて目を開けたシンジは手足がまったく動かせないことに驚いた。
そして、ベッドの傍らにニンマリ笑って立っている幼馴染の姿にも。
彼女は喋り始めた。
「碇シンジ。お前は今から改造人間になるのだ。ぐふふふ」
「えっ、ち、ちょっとまってよ。何するんだよ」
「だから、お前は我がショッカーの改造人間となって仮面ライダーと戦うのだ」
アスカは思った。
本来ならシンジのTシャツを脱がして上半身裸にさせないといけないのだが、
そんなことをすると幼稚園時代のお医者さんごっこの再来となってしまう。
あの時、散々叱られたのだ。
学習能力の高い彼女は理不尽だとは思いながらもここは仕方なしにTシャツを着せたままで改造手術を行うことにしたのだ。
「お前は…」
アスカはニヤリと笑った。
「こうもり男になるのよ」
「えええええええっ!」
吸血怪人こうもり男。
「いやだ、いやだ!あんなハゲはいやだっ!」
「ぐふふふ、そう言うと思ったわよ。じゃ、ゲバコンドルで勘弁してあげる」
どっちも血を吸う怪人だが、少なくともハゲではない…たぶん。
シンジは後者を選んだ。
だが、改造手術は凄惨なものであったのだ。
少年の悲鳴が家中に響き渡った。
「ひっひっひゃあああっ、や、やめっ、ひひひひっ、へへっ、ぐがぐがぐげえええええっ!!!!!」
隣の奥さん飛んできた。
アスカは不満だった。
くすぐっただけである。
殴ったり叩いたり手術をしたりしたわけではない。
腋の下や腰や足の裏をこそこそこそこそくすぐっただけではないか。
それなのに、正座は3時間に及んだ。
もとよりくすぐるつもりもなかったのだ。
それはシンジが挑発したのだ。
アスカはただ悪の組織の科学者を演じていただけで、適当に手術の振りをするだけにして、
その後は仮面ライダーごっこ(当然彼女が主役)へ移行する手はずだったのだ。
ところが耳元で「ふふふ、まずはドラキュラの血をお前に輸血してやる」と囁いた時に彼が過剰な反応を示したのである。
「や、やめっ、くすぐったい、ひゃははは」と身をよじったシンジを見て、アスカの悪戯心に火が点いた。
耳に息を吹きかけ腰に指を当てられ、涙を流して喜ぶ(ように見える)シンジの姿に彼女の行為はエスカレートしていったのだ。
その結果、シンジは吐く寸前まで大騒ぎし、ご近所を巻き込んだ騒動となったのである。
碇家に赴いて土下座をして謝り、帰ってきてからは廊下で正座。
3時間後にシンジが「もう許してあげてください」とお願いし、ようやくアスカは開放された。
ただし、足が痺れて立てないアスカはシンジに腰を数回モミモミされて涙を流して喜んだ(ように見えた)。
無論それはシンジの意志ではなくキョウコの強制だったのだが。
そんな1年前の悪事を持ち出されてアスカが殊勝な態度に出るわけがない。
「うっさいわねっ。早く買い物に行ってきなさいよっ」
「はいはい。こんなお転婆だけど、シンジ君、ずっとよろしくね」
アスカに素早くウィンクしてキョウコは部屋を出て行った。
シンジは胸を撫で下ろした。
「ああ、びっくりした。本当に立ち聞きしてたのかって思っちゃったよ。あれ?どうしたの?顔が赤いけど」
「アンタもうっさいわね!関係ないわよ」
関係大有り。
キョウコはアスカとシンジの婚約を知る数少ない人間の一人だ。
もっとも他に知るものは碇ユイだけだった。
亭主どもは騒ぐから教えないそうだ。
母はアスカの淡い思いを知るからこそ、ふざけるような顔で力づけている…のかもしれない。
「よし、悪魔は去ったわ。きっとそっちの魔女と一緒にだからしばらくはゆっくり作戦を立てれるわね」
懸命にもシンジは異議は唱えなかった。
少なくとも自分の母親の方は魔女と呼ばれても差し支えないと思ったのは確かだ。
「うん。えっと、まずカップヌードルは割り勘で買って、半分づつにするんだよね」
「そこで男らしく全部僕が出すって言えない?」
「うん。言えない」
「そ〜ゆ〜とこだけははっきりしてんのよね、アンタってヤツは」
えへへと頭を掻くシンジを見て、褒めたつもりではなかったのだがと呆れるアスカであった。
「どっちが先に食べるかは…それは後で考えましょ」
「あ、それはどっちでもいいよ」
シンジはあっけらかんと言う。
そんな彼の背中を思い切り蹴飛ばしてしまいたいアスカだった。
間接キスとなることを何とも思っていないことは明白だった。
「はんっ、このお子様が」
「え?」
お子様であるアスカにお子様だと言われて、何のことだかわからないシンジは立派な小学3年生だった。
<あとがき>
この話はあと2回だと思います。
合計で40kbそこそこでしょうから短編ですよね(笑)。
次回もまだ作戦の計画になります。
はじめてカップヌードルを食べた時はどきどきというよりも、
びくびくだったことは秘密です。
もうちゃんとした食べ物として認知されている時代の人はわかりにくいでしょうねぇ<びくびく。
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