春休みが終わる前日だった。
惣流アスカは友人二人と映画館に行った。
フォークソング好きの洞木ヒカリと、草刈正雄好きの霧島マナに強引に連れて行かれたのだが…。
上映されていたのは『神田川』と『しあわせ』の2本立てロードショーであった。




昭和短編集


アスカとシンジの同棲時代

ー 1974 4月 

 


 2008.07.03        ジュン

 
 


 


「ちょっと、アンタ。泣いてたでしょっ」

 アスカは自分を棚に上げてマナをからかった。

「な、な、泣いてなんか…って、悪い?」

 マナは頬を膨らませて開き直った。
 何しろ、この2本立ては強烈この上ない。
 『神田川』は同棲した恋人の悲哀を、『しあわせ』は癌に冒されてしまった結婚前の娘の死が描かれている。
 思春期の女の子としては涙腺を刺激されること間違いないのだ。

「でもどうしてハッピーエンドにならないのかしら?」

 ヒカリの疑問はもっともだ。
 しかし、マナは単純明快に答えた。

「そんなの決まってるじゃない。関根恵子とずっとずっと幸せに暮らしましたって終わり方なんて、私は許さないんだから!」

「ははは、MG5がそんなにいいんだ」

 MG5とは男性化粧品の名称で草刈正雄がコマーシャルに出演していたのである。

「MG5って言うなっ!正雄様に向かって、馬鹿アスカは!」

「ぶふふっ、正雄様だってさ」

「私、MG5だったら帰ってきたウルトラマンの方がいいな」

「あっ、アタシも!」

 MG5のコマーシャルには『帰ってきたウルトラマン』に主演していた団次郎が最初に出ていたのである。
 その団次郎の方がいいと友人に言われ、正雄様大好きマナは口から泡を飛ばさんがごとく興奮した。

「な、何!馬鹿なこと言わないでよ!MG5は正雄様が一番なの!」

「じゃ、MG5でいいじゃない。ははは」

「ぐううっ!」

 さらに膨らんだマナの頬ははちきれんばかりだ。
 こんな風に異性や他人に見せられない顔を遠慮なしにできるのは、ここがアスカの部屋だからである。
 映画が終わってから、彼女たちは少しだけウィンドウショッピングをして自分たちの街に戻ったわけだ。
 映画を見るという贅沢をしたのだから、その後は緊縮財政なのだ。
 彼女たちが囲んでいるのは惣流家で買い置きしていたおやつたち。
 小枝に、アポロに、チェルシーに、カールに、かっぱえびせん。
 そして、紅茶のカップが3つ。

「ふんっ、関根恵子なんか不幸になればいいのよ。だいたい、私前からあの女嫌いなの」

 マナはからかわれた腹立ちを映画のヒロインに向ける。

「マナったら。草刈正雄の相手を誰がやっても気に入らないんでしょう?」

「知らないっ」

 マナはがぽりと掌いっぱいにおやつを掴んで口に放り込む。

「こらっ、アタシのおやつをそんなに食べるな!」

 家にあるありったけのおやつを供給したアスカはお盆をマナから離す。

「関根恵子の相手役だったら、私はジーパンの方が好きだなぁ」 

 その当時、関根恵子(現・高橋恵子)は『太陽にほえろ!』の女刑事としてレギュラー出演していた。
 そのオシンコ刑事の相方がジーパン刑事の松田優作だったのだ。

「ヒカリったらあんなにごついのがいいんだ」

「ええっ、優しいところもあるじゃない」

 アスカはにやりと笑った。

「ヒカリはねぇ。一見乱暴そうな男子が好きなんだもんね」

 わざと男性という言葉ではなく、“男子”を使ったことに他の二人はすぐに気がつく。

「そ、それは!」

「ヒカリが関根恵子っていうのはまあいいとして…」

 アスカがにんまりと笑って言うのに続いて、マナがすっぱりと言い切る。

「アイツはジーパンじゃないわよね。ジャージだもん」

「違うに決まってんじゃないっ!」

 あははと笑い合う二人に、今度はヒカリが頬を膨らませた。
 その頬が真っ赤に染まったのは、怒りの所為かそれとも恥じらいからか。

「そ、そんなことない!鈴原はっ!……」

「ん?ジャージ男がどうしたの?」

「いひひ、カッコいい?それとも、ジーパンみたいに足が長い?」

「マナ!そんな!……に足は長くないけど…」

 急にヒカリの語気が下がる。
 恋する乙女としては愛しい男の悪口を言われ頭にきたものの、そこは委員長にしていい子のヒカリだった。
 アスカやマナのようにハイテンションを維持することはなかなか難しいのだ。

「いいじゃない、別に…。私、新御三家にだって好きな人いないんだし」

 ぶつぶつと呟きに転じたヒカリに向かってマナは吹き出した。

「おいおい、鈴原君はいつアイドルになったのかなぁ」

「マナだって好きな人ができたらわかるわよ」

「うわっ、いたけどあきらめさせられたんじゃない!この鬼女に!」

 立ち上がったマナはぴしりとアスカを指差す。
 ところがアスカは涼しい顔でアポロチョコレートをひとつ口に放り込んだ。

「アタシ、鬼になるもん。誰が相手でも、さ」

 ハードボイルドに格好をつけたつもりのアスカだったが、友人二人は嘆かわしいという顔をしただけだった。

「鬼の目にも涙、だったからあきらめてあげたんでしょうが。私が優しいだけの話じゃない」

「さっさと告白してしまわないと、第2第3のマナが現れちゃうわよ」

「こら、ヒカリ!私はモンスターか!怪獣?宇宙人?」

「はは、ごめんね」

 片手で拝む真似をするヒカリを見て、マナは仕方がないなぁとばかりに腰を落とす。
 そんな二人に目もくれず、アスカはがっくりと肩を落としてしまっている。
 先ほどまでの元気はどこへ行ったものやら。

「だってぇ…」

 人差し指で畳に“の”の字を書くところなど、まったくもってアスカには似合わない。
 全世界に敵なしと豪語するアスカにも天敵はある。
 両親(特に母親)には頭は上がらないし、納豆とレバーと楳図かずおの漫画。
 そして、碇シンジ。
 隣に住む幼馴染の少年には彼女は勝てない。
 ただし、知力、体力、時の運、その他色々な分野では彼に負ける気がしない。
 自称天才、実は努力家秀才の惣流アスカはご町内では他の追随を許さない存在だと自負している。
 ところが、物心がついたときから幼馴染のシンジ少年の笑顔にはどうしても敵わないのだ。
 それは、可愛らしさ、という意味ではない。
 あの笑顔で何かを頼まれればどんなにいやなことでも承知してしまう。
 いや、即座にではない。
 いったんは拒否しておき、しばらくしてから「しかたがないわね」と渋々請け負うのだ。
 それが何故なのか、最近になってわかったのだ。
 幼馴染のシンジ少年のことが大好きだったから、アスカは彼の頼みを何でも受け入れていたのである。
 しかし、いくら恋心に気がついてもそれを意思表明などできるわけがない。
 幼馴染の恋は成功率が低いと雑誌で読んだからだ。
 趣味や癖、知らないでいいことまで知っているのが幼馴染なのだ。
 だからうまくいかないのであると、雑誌は断言していた。
 その唯我独尊な見かけに反して、アスカは弱い面を持っている。
 大切なものを失うと寝込んでしまうくらいに傷ついてしまうのだ。
 3年前におばあちゃんが亡くなった時も1週間も高熱を出して寝込んでしまったのである。
 そんなアスカだけにシンジに告白などできるわけがない。
 彼女にできることはこれまでと同様に彼と密接な関係を維持し、そして不埒な女性を排除することだった。
 その栄えある排除第一号が霧島マナだったのである。
 アスカの迫力と、そして彼女の言葉通りに涙まみれのその顔に敬意を表してマナはシンジをあきらめたのだ。
 もっともその程度の想いだったからこそあっさりと引き下がったのだが。
 その後、マナは何故かアスカとヒカリの仲良しコンビに顔を突っ込むようになった。
 この3人が仲が良いのだから不思議である。
 最も今は春休み。
 2年に進級すると、否応なしにクラス替えがやってくる。
 1学年10クラスだから、同じクラスになる可能性はきわめて低い。
 仲良しトリオもクラス編成上は解散は必至だ。
 しかし、だからといって疎遠になることはないだろう。
 この当時の都会の中学校ならば1学年に500人近くの生徒がいる。
 同じクラスになること自体が珍しいのだ。
 実際、アスカとシンジが小学校入学後に同じクラスになったのは、小学3年生のただ一度だけである。
 
 さて、4月8日月曜日。
 アスカは興奮していた。

「ふ、ふふふ!め、めずらしいじゃないのっ。ア、ア、アタシとア、ア、アンタが同じクラスになるなんてさっ」

「うん、そうだね。えっと、4年生のときだっけ?」

「はずれっ。3年生の伊吹学級!」

「あ、そうだった。はは、忘れてた」

 おうおう、シンジさんよ。
 このアタシと一緒のクラスになったのを忘れていたですってぇ?
 こめかみがぴくぴくとひきつきそうになるところを抑えて、アスカはふん!と鼻を鳴らした。

「まっ、幼馴染のよしみでこのアタシが面倒見てあげるから大船に乗った気でいなさいよ。あははっ」

「うん、お願い」

「よしっ。じゃ、まず手始めにアンタ生活委員でもする?」

「生活?うぅ〜ん、体育はいやだけど、どっちかというと学習委員の方が…」

「オッケ〜。じゃ、アンタを学習委員にしてあげる。仕方がないからアタシは副でもやったげるわ」

 これがとっさに考えた碇シンジ囲い込み作戦の一端だった。
 ヒカリが言った“第2第3のマナ”というのが気になって仕方がないアスカである。
 神様の仕業か、同じクラスになることができたのだから、こうなればできるだけシンジに接近して異分子が近寄ってくるのを阻止すればよい。
 その時、神様が2年2組の教室に降臨なされた。
 アスカは慌てて自分の席に戻る。

「はぁ〜い、静まれ!私が…って、私を知らないやつはモグリよねぇ。このクラスの担任の葛城ミサトです。まっ、よろしく!」

 やんやの拍手喝采を神様は気持ちよさそうに教壇で受けている。
 この葛城先生が惣流アスカと碇シンジを同じクラスにするように企んだのだ。
 何故か?面白そうで、それでいてこれといった弊害もないから。
 逆に惣流アスカのような情緒不安定な女の子で、しかも成績優秀な彼女が碇シンジに惚れ抜いていることをミサト先生は察している。
 実はアスカがマナにシンジをあきらめさせた、その場所が美術室で、ミサトはその準備室でサボっていたところだったのだ。
 誰と一緒に…ということはさておき、ミサトは恋人の美術教師の口を掌で塞いで黙っているように目顔で促した。
 準備室には大なり小なりのマジックミラーがあり、そこから二人の姿を見つけたのだ。
 そのやり取りを彼女はじっくりと鏡越しに聞いた。
 そして碇シンジの担任教師であったミサトは、その後それなりに注意して二人を見守っていたのである。
 しかし進展はない。
 進展はないのだが、二人の雰囲気はいい。
 どう見ても碇シンジの方も彼女のことを憎からず思っているようだ。
 ところがそのうちにアスカの成績が下がってきたのだ。
 アスカの担任教師は首を捻っていたが、英語教師のミサトは恋煩いだと断定した。
 惣流アスカは自称天才と豪語しているが、その実秀才の努力家であることをミサトは見抜いている。
 恋煩いにかかれば成績が落ちるのは明白なこと。
 そこで彼女はアスカとシンジが同じクラスになるようにセッティングしたのだ。
 自分がその担任になったのは、責任を負うためか好奇心かは知らない。
 ミサトは各自に自己紹介をさせた後、早速各委員の選出に入った。

「私がするのは最初だけよ。あとは委員長に任せるから。じゃあ、まず立候補……いるわけないか」

 一瞬しんと静まり返った教室が、ミサトのおどけた声にどっと沸く。

「じゃ、推薦!あいつにさせてやれ!ってない?」

「はい!」

 手を上げたアスカが立ち上がる。

「おっ、惣流、早いねぇ。誰?」

「碇シンジを学習委員に推薦します!」

「はぁ?こら、惣流。今は委員長の選出よ」

「だって…」

 と、口を尖らせて着席したアスカは心の中で文句を言う。
 先に予約しておかないと、目立つ自分が副委員長などに推薦されてしまうと拙いではないか。
 そこで早速シンジを学習委員に推薦したわけだ。
 もっともそのことしか頭になかったので、こうやって大いなるフライングをしてしまったわけだ。

「よし、じゃ仕切りなおしで委員長の推薦は?なければ、さっきの惣流を委員長にするわよ」

「ええっ!」

 がたんと椅子を転がしたアスカが悲鳴を上げる。
 しかしそれから1秒遅れで巻き起こった教室のざわめきに彼女の悲鳴の後半部分はかき消されてしまった。

「女が委員長?」

「おいおい、去年は1組で洞木さんが3期連続委員長という偉業を成し遂げたでしょう?あの子、女子じゃなかったっけ?」

 ミサトはかんらと笑いながら、前例があることを主張する。

「もし対抗馬を出すんならそれはそれでいいわよ。さあ、どうする?タイムリミットは30秒」

 女子に委員長をさせるのは癪だと考える男子もいたが、自分が立候補する気もなく別の誰かを推薦しようと考えるがそれにしても30秒は短い。
 いや実質十数秒くらいでミサトは「はぁ〜い、時間切れ!」と打ち切ってしまった。
 時計など所持している生徒はいない上に、壁の時計は秒針がない。
 つまりはミサトのいいように扱われてしまっているというわけである。

「じゃ、今の二人で決選投票ね」

 ミサトの言葉に生徒たちはざわめく。
 
「碇の名前も出てたでしょうが。ちょうど男子と女子だし、落ちた方が副委員長。それでいいわね、惣流?」

 問題なし!と叫びたいところだが、そこはアスカである。
 素直に賛同はしない。
 
「し、仕方ないわね。馬鹿シンジに委員長なんか務まらないから、アタシが補佐してあげるわよ」

「ん?ってことは惣流は副委員長希望?よし?委員長が碇で、副委員長が惣流。それに賛成のものは挙手!」

 こんな勢いで進められると手を上げないわけにはいかない。
 満場一致で、二人は正副委員長となったのである。
 その日の放課後である。
 アスカとシンジは仲良く肩を並べて帰宅していた。
 中学校から彼らの家までは徒歩15分といったところか。

「ちょっと馬鹿シンジ?アンタ、寝てたんじゃないの?あん時さ」

「起きてたよ。アスカが僕の名前を持ち出すからこうなったんじゃないか。もう…」

「何よ、文句ある?こうでもしないと、アンタなんか一生人の上に立つ事なんかできないじゃない」

「別に立てなくていいよ」

 シンジはのんびりとした口調で言う。
 これは彼の本音だった。
 命令されるのも嫌だが、命令するのも気が進まない。
 
「まっ、心配しなくていいわよ。アンタのフォローくらいアタシには簡単なことだから」

 なるほどあれがフォローか。
 シンジはアスカに見られないようにしてくすくすと笑った。
 正副委員長が決まったあと、各委員の選出は早速シンジとアスカの初仕事となった。
 しかしこういう仕事に不慣れなシンジは立候補を待つだけで先に進まない。
 気の短いアスカがその沈黙の世界に耐えられるはずがなかった。
 そして彼女がはじめたのは、不幸の手紙式推薦法であった。
 まずアスカが一人の男子を推薦し(顔見知りであるという理由だけで)、誰かを推薦しないと信任投票になって決まっちゃうわよと脅す。
 するとそこから芋蔓式で推薦がはじまり5人ほど出たところで無記名投票を実施。
 結局シンジがしたことといえば、票を読み上げたことと、
委員が出揃った時に意外としっかりとした口調で「委員のみなさん、よろしくお願いします。クラスの皆さんも協力してください」と場をしめたことか。
 この時はアスカはにやける頬を抑えるので一生懸命だった。
 ともあれ、アスカは見事に場を仕切ったわけだ。
 あれをフォローとは言わない。

「ああ、そうだ。母さんたち、出かけるの金曜日だっけ?」

「そうよ。金曜日に羽田。で、月曜日に帰るってホントにできんのかしら?」

「できるんじゃないの?それでもあっちでショッピングする余裕があるってはしゃいでいたんだもん」

「でも、ドイツよ、ドイツ。しかも、バイエルンの田舎の方で、観光地でもないのに、そんなに巧くいくと思う?はんっ」

 アスカは鼻で笑った。
 確かにあの無謀な計画にはシンジも呆気にとられたのだ。
 羽田から直行便でオルリー(パリ)へ。そこから乗り換えてミュンヘン空港に。さらに鉄道でトラウンシュタインという名前の街に行く。
 アスカとかなり大きな地図帳で確かめてみたのだが、その町の名前すら記載されていない。
 そこから一番近い街が隣国であるオーストリアのザルツブルクなのだ。
 その街にアスカの父親の末の妹が住んでいて、結婚式に参列するのである。

「で、どうして母さんも行くんだよ。だいたい、母さんが行くって言わなきゃ1週間くらいの予定だったんだろ」

 珍しくシンジが悪態を吐く。
 いや、本人はそのつもりなのだが、周りから見るとただぼやいているだけにしか見えない。
 しかし付き合いの長いアスカには彼の腹立ちがよくわかった。

「仕方ないじゃない。アンタのママが留学していた時に知り合いだったんでしょ。うちの両親も喜んでたんだしさ」

「その間、父さんの料理を食べさせられるんだぞ。アスカは食べたことないだろ」

「ないわよ。……ひどいの?」

 確かにシンジの父の容貌では、天才的な料理人かその正反対かのどちらかのような気はする。

「3食インスタントを食べる方がマシ。母さんが病気したときなんか、いつも大変なんだから」

「あれ?でもユイさんはいつか惚気てたわよ。倒れたら特製の食事を作ってくれるのって」

「母さんは変なんだよ、くそっ」

 どうやら食事という面ではシンジというのんびりとした少年のスイッチが入ってしまうようだ。
 
「ふふん、じゃインスタントにすれば?」

「どうやってだよ。父さんは一日中家にいるんだぞ」

「しかたがないでしょ。小説家の会社なんて聞いた事もないわよ」

「喫茶店とかで書けばいいんだ。ほら、缶詰めっていうのもあるんだし」

「旅館とかで?ええっと、そこまで売れてるの?」

 アスカの質問にがっくりと肩を落としたシンジは大きな溜息を吐いた。

「新人賞をとった時はけっこう引き合いがあったみたいだけど…」

「それって…」

「僕、生まれてないよ」

「よね」

 アスカは苦笑した。
 それでも…、と彼女は思う。
 ユイさんは専業主婦だし、あの家はローンで購入していないと親から聞いている。
 どちらかの実家から遺産でも相続したのかとアスカは推理しているが、さすがにシンジに確かめることは躊躇われた。
 いやな女の子だと思われるのは困るからだ。
 
「アスカは…どうするの?」

「はぁ?食事のこと?」

「うん。インスタント?」

「ぶっ殺すわよ。アンタ、アタシの料理の腕知らないの?」

「知らないけど」

 ああ、なるほどそうか。
 両家の母親はともに料理が巧く、そして家事を余人に任せることなど考えもしないほど没頭している。
 アスカとしては心外だが、両親以外に彼女の料理を食した人間はいないのだ。
 家庭科の実習などよほどのことがない限り、誰も彼も同じ味になるものである。
 この時、アスカの心に新たなる野望が誕生した。
 愛するシンジに自分の料理を食べさせてあげたい。
 その野望は意外なほどに早く実現するのだが、それはもう少しだけお待ちいただきたい。

「じゃ、アスカは自分で作って食べるのか。羨ましいなぁ」

 だったら、食べに来たらいいじゃない。ご馳走してあげるわよ。腕によりをかけてね……などと言えるアスカではない。
 一瞬言おうかどうか考えたのだが、戸惑った間にシンジは別の話を始めてしまった。
 
「でも、怖くない?一人なんだろ?」

「うわっ、それ何?このスケベシンジ!」

 咄嗟に出てしまったこの言葉をアスカは数日後に後悔する事になる。
 彼女は照れ隠しに空を仰いだ。
 春の空は雲ひとつなく、どこまでも青く見えた。



 金曜日は夜になって豪雨となった。
 午前中に惣流家の夫婦と碇家の主婦はドイツへ向かい、その見送りに碇家の当主は羽田に向かったのだが、中学生の二人は当然学校に行かねばならない。
 アスカは窓を打つ雨を見つめ、その頃は殊勝にもこの雨に両親が遭わずによかったとなど思っていたのだ。
 その日、シンジは掃除当番だったのでアスカは一足先に帰宅した。
 段々強くなる雨の中、彼女は一心に考え事をしながら歩く。
 いかにして、碇シンジを食事に誘うか。
 母親からは充分な額の食費を預かっているので、家に帰り服を着替えたらすぐにスーパーマーケットに行く予定だ。
 ところが彼女の予定通りには進まなかったのである。
 服を着替え終わった時だった。
 雨の中出かけるのは嫌だなぁと思っていると、玄関のインターホンが連打された。
 そんなことはかつてなかったので何事かと窓から外を見ると、門のところにいるのはシンジである。
 学生服を着たままの彼はアスカを見上げると世にも情けない声を上げたのだ。

「父さんまで出ていっちゃったぁ…!」

 

 アスカは碇家にお邪魔した。
 そこで見せられたのは碇ゲンドウの書置きである。

『気が変わった。ドイツに行く。 父』

 原稿用紙に万年筆で書かれた簡潔な置手紙の隅にユイも一言書き添えていた。
 『というわけで後はアスカちゃんに助けてもらいなさい。 母』
 シンジの両親の書置きを読み、アスカは唖然となった。
 彼女でさえそうなのだから、置き捨てられた形のシンジの心境や如何許りであろう。
 テーブルに突っ伏しているシンジの表情は見えないが、かなりのショックを受けているようだ。
 アスカは優しい言葉をかけてあげようとした。
 しかし、彼女が口を開く前に情けない声が漏れてきたのだ。

「どうせ僕なんて…。父さんも母さんも僕なんてどうでもいいんだ」

 優しい言葉、やめ。
 アスカは即決した。
 いくらシンジのことを好きでも、あまりに情けなさ過ぎる。

 ばんっ!

「ひっ!」

 アスカにテーブルを叩かれて、びっくり驚きシンジは慌てて顔を上げた。

「な、何だよ」

「うっさいわね、アンタそれでも男ぉ?」

「うるさいって…、そんなぁ」

「この前、アンタ何て言ってた?おじさんの作ったものを食べたくないって言ってたじゃない。
 アンタの希望通りになったってことよね、これ。それなのに、何っ!」

 ばんっ、ばんっ、ばんっ!
 アスカは掌でテーブルを連打した。

「しっかりしろ、馬鹿シンジ!何もホントに捨てられたわけじゃないじゃない」

「そ、それはもちろんだけど…」

「だったら、そんな顔するな。まったく、アンタって小さい時から全然成長してないじゃない」

「ごめん」

 アスカは小さく笑った。

「久しぶりよね、その、ごめんっての。ま、晩御飯くらい食べさせてあげるから、うちに来なさいよ」

「つ、作ってくれるの?」

「仕方ないじゃない。ユイさんにこうやって書かれてるんでしょ。もし、アタシが知らん顔したら後でとんでもない目に合わされそう」

 ああ、いい名目ができた。アリガト、ユイさん。
 アスカは心の中で手を合わせた。

「さっさと来る。冷蔵庫の中、調べないといけないんだから」

「うんっ」

 まあ、いい返事だこと。
 まるで幼稚園くらいの頃みたい。
 あの時のシンジはいつもアタシの後にくっついてきてたっけ。
 で、アタシときたら、いつだってシンジを扱き使っていたわよね。

 アスカはメモにさらさらと買ってくるものを書いた。

「いい?書かれている通りのものだけでいいのよ。豚の方が安いからとか、牛の方が好きだとか、そんなのはなし」

「わかった。鳥のもも肉、200gくらいだよね。くらいってどれくらい?」

「馬鹿シンジ。プラスマイナス20gってとこでいいわ。しっかし、肉魚関係を買い置きしてないってホントにママったら…」

「じゃ、行ってくるね。できるだけ急いで」

「雨降ってるんだから、気をつけるのよ」

「わかった!」

 玄関の扉が閉まる音を聞き、アスカは優しく微笑む。
 そして、ぱんと手を叩いた。

「さぁて!まずはお米を洗わなきゃ…。二合でいいかしら?」



 親子丼は自画自賛してもよいくらいにいい出来だった。
 いや、自画自賛など必要なかった。
 シンジは美味しいを連発しながら食べてくれたのだ。

「み、味噌汁も食べてよね。それから、ほうれん草のお浸しも」

「うん!これみんなアスカが作ったんだろ。凄いや」

「た、た、たいしたことないわよ。アタシは天才なんだから、何だってできんのよ。で、明日は何を食べたい?」

 富士山にだって全力疾走で駆け上がれそうなくらいに、アスカは舞い上がった。
 何という素晴らしい日だろうか。
 いっそ両親はこのままずっとドイツに永住してくれてもいい。
 ついでに碇夫婦を監禁してくれたら、アタシはシンジと二人で…今流行の同棲…!!!!
 あ、そうなれば家は2軒もいらないわよねぇ。
 そんな妄想をたくましくするアスカに、シンジがおずおずと返事をする。

「えっと、ハンバーグはいい?マルシンのでいいからさ」

「はぁ?アンタ馬鹿ぁ?ハンバーグの一つや二つ、手作りしてあげるわよ。はははははっ!」

 アスカはふんぞり返って高笑いする。
 その機嫌がいいままに、彼女は食後の洗い物に突入した。
 いつもなら母親に任せてリビングで寝転がりながらテレビというところだが、シンジの褒め言葉のおかげで身体が軽すぎるくらいに軽い。
 その後、しばらくテレビを見ながら雑談をし、すっかり忘れていた宿題をシンジがそろそろ帰ろうかという頃になって思い出した。
 一緒に宿題をしようということになり、玄関の扉を開けたときのことだ。
 その物凄い雨脚と風に二人は声を失った。
 
「アンタ、この中帰るの?」

「う、うん。ほんの10mくらいだし」

「そうだよね。すぐそこだし」

 二人の読みは甘かった。
 傘を差したがすぐに裏返ってしまい全身びしょ濡れになって戻ったシンジはしばらくして玄関先に戻って何かを怒鳴ったが、物凄い雨の音でまったく聞こえない。
 再びシンジが家の中に姿を消すと、すぐに電話が鳴った。

「はい、惣流…って、シンジ?はぁ?あっ、そう!勝手にすれば!馬鹿っ!」

 電話を叩き切ったアスカは玄関に戻って鍵をガチャンと掛け、ワイヤーロックもする。
 シンジの電話は今の雨で体中が濡れたからもうそっちには行けないという事だったのだ。
 碇家の門を開けた時と玄関先で鍵を触っていた時に傘が横になっていたからその時にびしょ濡れになったのだろうとは思ったが、
それでも期待していた楽しい宿題の時間がなくなり、アスカは頭にきてしまった。
 問題の宿題までが腹立たしくなり、アスカはさっさと風呂を作り身体を洗うとそのまま机には向かわずにベッドにダイブした。
 翌朝、目が覚めると…。
 いや、電話の音でようやく目が覚めたアスカである。
 そして、時計を見て悲鳴を上げた。
 時、既に7時30分。
 朝ご飯などとんでもない。
 宿題などできるわけがない。
 身支度するのが精一杯だ。
 歯磨きをして、顔を洗い、髪の毛をセットすれば、もう8時前である。
 鍵を閉めて道路に飛び出すと、シンジがいた。
 
「今の電話、アンタ?」

「う、うん」

「アリガト。礼は言っとく。走るわよ!」

「あ、これ。今のうちに鞄に入れておきなよ」

 シンジはばつの悪そうな表情でプリントを差し出す。
 
「ぼ、僕のはノートに答えを書いたから、アスカはそれを提出しなよ、ね」

「う、く、し、仕方ないわね。も、貰っておいてあげるわよ」

 数学の冬月先生に宿題を忘れたなどとわかれば大変なのだ。
 放課後に延々と説教をされるのだ。
 体罰の方が時間が短いだけまだマシである。
 アスカはありがたくプリントを頂戴し、学生鞄に放り込む。

「じ、じゃ、走るわよ!」

「うん!昨日はごめんね」

 くわっ!その笑顔はやめてってば!
 アスカはにやける顔を見れたくなくて、全力疾走で中学を目指した。
 そのおかげで到着したのは8時15分。
 余裕で宿題のプリントに署名もできた。
 そのプリントを見て、アスカは浮かんでくる微笑を必死に押し殺したのだ。
 何故なら、シンジは何とかアスカに似せた字で答えを書いていたからである。
 シンジの字はやや小さめできちんとした感じだが、アスカの書く文字はいささか男らしい。
 おそらくはすぐに部屋の明かりが消えたのを見て宿題をしていないことを察したのだろう。
 ということはお風呂に入っていたのもチェックされていたってことかとアスカは頬に血を上らせる。
 隣から見える場所であるということに今更ながらに気がついて、ついこの間窓を閉め忘れてお風呂に入ったことを思い出し、
まさか見られてはいなかったかと胸をどきどきさせた。
 その後、しばらく(といっても1時間目が終わるまでだが)アスカはシンジをまともに見られなかった。
 土曜日の授業は午前中までである。
 とはいえ、4時間目は12時20分までだから一週間で一番お腹が空く日なのだ。
 部活動の連中は教室以外の場所で弁当を食べるために教室をさっさと出て行く。
 誰も掃除中の埃が舞う教室で食事をしたいと思わないからである。
 さて、今更ながらだが碇シンジはかなり鈍感な方だ。
 もし彼が饒舌であったなら、かなりの混乱を周囲に巻き起こしていることだろうが幸運なことに父親に似てどちらかというと無口な方である。
 しかし、その父親がそうであるように数少ない発言が周りの者を混迷へと追いやることを彼は知らない。
 そして、アスカは付き合いが長すぎて麻痺している。
 この時。土曜日の放課後。
 シンジは爆弾発言をしてしまった。

「あ、そうだ。アスカ、お昼は何を作ってくれるの?」

 掃除当番でないアスカは一足先に帰ろうとしていた。
 その背中に能天気な声がかかる。
 当然、アスカはじゃれ付きたい気持ちを抑えて、不機嫌そうに振り返った。

「何よ、馬鹿シンジ。お昼までアタシにつくらせるつもりなの?」

 既にこの時点で、教室の中にいた人間の耳は総ダンボ化している。
 そのことに二人とも気がつかない。
 シンジは鈍感だから。
 アスカは夢の世界に旅立っているから。

「えへへ、だめ?」

 だめじゃないわよぉ〜と尻尾を振りたいところだが、尻尾がない上に素直じゃない彼女は素っ気無く言う。

「ありあわせのもので我慢してよね。そのかわり晩御飯は腕を振るっ……はんっ、さっさと帰ってきなさいよっ。スーパーで荷物持ちさせたげるから!」

 照れ隠しのためにいささか上ずり気味の言葉は教室中に響く。
 そして、8人の生徒はその耳に断片的な情報を聞きつけていった。

「うん、わかった」

「わかればいいのよ、わかれば。じゃっ、アタシは行くからねっ、ばぁかシンジっ」

 くるりと踵を返してしまうと、もうシンジには顔を見られない。
 そう思うとつい表情が崩れてしまうアスカだった。
 何とか教室の扉までは普通を装っていたが、廊下に出てしまうともう限界だった。
 嬉しさと早く家に帰って素晴らしい昼食を用意したいという思いで、彼女は疾風の如く走っていったのである。
 8人のクラスメートは見た。
 アスカの表情の変化を。
 まだ1週間しかこのクラスで時間をともにしていないが、学校でもかなり有名な生徒である惣流アスカは噂に違わず相当の変人だ。
 顔が綺麗でスタイルもよく頭もよい。それだけなら十分学校のアイドルと化してしまうところなのに、彼女を知れば知るほど触らぬ神に祟りなしという風に思ってしまう。
 確かに言葉は乱暴だが、別に暴力を振るうわけではない。
 しかし女心と秋の空とは言うが、アスカの場合はせめて秋空くらいには一定して欲しいものだと誰もが思う。
 喜怒哀楽が激しく見えることもある上に、リーダーシップをとる気もないのに存在感がありすぎる。
 つまり遠目で見ているだけならば恋焦がれてもよいが、実際に交際しようという勇気はなかなかわかないというわけだ。
 男子という本能的に女性を求める立場のものだけでなく、友人レベルである女子でさえそうなのである。
 従って、アスカと普通に話ができる生徒たちは実は一目置かれているのだ。
 洞木ヒカリはその面倒見の良さからアスカの友人が務まる人材であることは誰の目にも明らかだが、問題は霧島マナだ。
 成績は普通よりやや下、容姿は普通よりやや上(但しスタイルは子供に近い)、運動神経はいい方だが上背がないのでバレーやバスケでは目立たない。
 草刈正雄がいいと今は主張しているが、その前は萩原健一で、さらにその前はにしきのあきらである。
 つまりごく普通の女子中学生の霧島マナが、何故か惣流アスカと友人をしている。
 現在は2年5組に在籍しているが、そこでアスカについて問われたことがあった。
 アスカの友達をしていてどうか、と漠然とした質問をされ、マナは数秒腕組みをして首を捻った。
 その挙句に出てきた返答が「普通」。
 ここで世間の評価は二つに分かれようとしたのだ。
 惣流アスカが実は見掛け倒しで普通の女子中学生なのか。
 それとも、霧島マナがその実大物で普通ではないのか。
 本来ならば前者に傾くところなのだが、それが後者が定説になりつつあるというところで如何にアスカが近寄りがたい存在なのかがわかってもらえるだろう。
 その影響で、2年5組の副委員長に任命されてしまった“実は大物”マナは生涯初めての世話役に右往左往しているのは余談。
 さて、男子でアスカと普通に話ができる人間も限られている。
 幼馴染として有名なシンジはともかくとして、残りの二人はどうか。
 鈴原トウジと相田ケンスケは1年の林間学校でシンジと喧嘩をしたことが縁で友人となった。
 宿舎を抜け出してコーラの自動販売機まで遠征しようとしたのを同部屋だったシンジに邪魔をされ喧嘩になったのだ。
 しかもそれはシンジが正義を振りかざし注意をしたわけではなく、行くのか行かないのか煮え切らない態度のままに同行しその結果彼が原因で教師に捕まったからだ。
 女子の宿舎の脇を抜けようとした時に窓から外を見ていたアスカに見咎められ、シンジがアスカと会話をしているところを女の教師に発見されたわけである。
 当初痴漢行為を働くつもりだったのではないかと邪推され、結局コーラを買いに行くつもりだったことを白状させられた。
 その結果、男子の宿舎に送還されそこで正座を2時間した上に、反省文を書かされる羽目になった。
 当然、トウジとケンスケはシンジに悪意を持ち、制裁を加えようとしたのだ。
 そこに窓ガラスがこつこつと鳴り、窓を開けると金髪に青い瞳の少女がにやりと笑いながら立っていたのである。
 彼女は手にコーラを3本持っており、これで許してくれと頭も下げずに言う。
 コーラは脱走して買ってきたというので、トウジはこれでチャラにしてやると男らしく(?)受け取った。
 アスカはすぐに闇に消え、3人はこっそりと乾杯を…。
 缶の蓋を開けた瞬間、中からコーラが飛び散った。
 アスカが渡す前に缶を散々振っていたのだ。
 大騒ぎをした3人はまたもや教師に説教を受けたのだが、何故かトウジとケンスケはアスカの名前を出さない。
 後で何故かとシンジが訊ねると、男として当然だと二人は胸を張り、その時からこの3人が仲良くなったのである。
 そして後日、学校帰りに待ち伏せされたアスカはあの時の礼だとトウジから缶コーラを渡された。
 一緒にいたヒカリが絶対に仕返しだからやめておいた方がいいと言うのに、アスカは平然として缶の蓋を開けたのだ。
 炭酸は飛び散らなかった。
 その男らしい(?)態度にトウジとケンスケはアスカを認め、何故かこの時を経緯にヒカリがトウジに関心を持ったのである。
 現在、アスカと普通に会話ができるのは、この5人だけであった。
 会話というのは、所謂馬鹿話のことだ。
 学校内での授業や行事に関する会話でもアスカとするのは気後れする生徒が多いのに、好きなタレントがどうこうと言うような話などできるわけがない。
 そんな生徒たちの動きにもちろん教師たちも気がついている。
 いくらアスカが日本生まれで日本育ちであっても白人そのものの容姿であることがこの問題の根底であろうと。
 しかしミサトが自分に任せて欲しいと主張するのでまずは英語教師の彼女に任せたわけだ。
 だからこそ、彼女の主張通りにアスカとシンジを同じクラスにできたのだが…。

 さて、土曜日の放課後に話を戻そう。
 シンジに見えないようににんまりと笑ったアスカの顔が、邪悪なものに見えたのが5人、残りの3人は角度の所為か幼児のように見えたと証言している。
 しかし彼ら目撃者にとってアスカの表情など問題ではなかった。
 “お昼には何を作ってくれるか”、“昼は有り合わせで夜はちゃんと作る”、“一緒に買い物に行く”。
 二人の会話を要約すると、この3つにまとめられる。
 そこからはじき出される答えは?
 学校内有名人である惣流アスカの幼馴染を碇シンジがしていて、二人の家は隣り合わせである。
 これは中学校内ではかなり知られている事実だった。
 隣り合わせなのだから、食事や買い物に一緒に行くこともあるだろう。
 だが、しかし!
 彼らは男女問わず中学2年生の13歳から14歳なのである。
 恋だの愛だの性だのという事象に、憧れや関心や興味を抱くお年頃なのだ。
 そしてそういう目で見るから現実にフィルターがかかってしまう。
 8人の目撃者すべてが“同棲”という単語を頭に浮かべてしまった。
 『同棲時代』という言葉が流行したのは昭和48年、昨年のことだ。
 漫画が原作で、映画になったのがその昭和48年。
 『同棲時代 −今日子と次郎−』というタイトルで結構ヒットしたのだが、見ることができた生徒の数は限られている。
 何故ならばその映画の売りは、由美かおるのヌードだったからだ。
 ポスターの彼女は上半身裸だが乳房は見えない。それでも青少年にはかなり扇情的なものなのだったが、問題はそのポスター以上に露出したピンナップだった。
 露出というのは目にする絶対量という意味だけではない。
 そのピンナップはオールヌードの由美かおるが後姿で立っていて、こちらを振り向いているという男性にとっては生唾を飲むどころではないインパクトを与えるものであった。
 大人はともかくとして、中高校生の男子はそれこそ何とかして見たい、手に入れたいと嘱望していたものだ。
 だから、中学生にとっては“同棲”という単語が由美かおるのヌードに直結してしまう、言わば生々しいセックスそのものというイメージになっていたのは否めない。
 もっともこの段階でそういう部分まで妄想したのは8人のうち1人だけであったが。
 それでも残りの7人(女子が4人)全員が“同棲”というイメージを抱いたことは間違いない。
 そして、シンジと同じ班の男子が一人、勇気を奮って声をかけた。

「碇?あのよ、ちょっと聞きたいんだけど」

「ん?何?」

 屈託のない笑顔をシンジは向ける。

「つまり、あれだよ。お前、昼に何を食うんだ?」

「さあ?わかんないや」

 惚けているのかどうか、質問した男子にも見当がつかなかった。
 
「俺はラーメンだ。たぶん、サッポロ一番。みそ味だ、おう」

 うんうんと頷く質問者にギャラリーが失望の色を濃くする。
 これでは駄目だと別の男子が挑戦する。

「俺のところはお袋が共働きだからさ、土曜日は弁当を作っておいてくれてるんだ。碇んとこはどうだ?」

「僕んとこ?いつもは母さんが作ってくれるけど?」

「今日は?」

 第一質問者が鼻息も荒く問いかける。
 これじゃ警戒されるだろうと第二質問者があきれたのだが、シンジはあっさりと核心の返答をしたのだ。

「ああ、今日?今日はアスカが用意してくれるみたい。助かるよ、本当に」

「そ、そ、惣流が?どうしてだよ」

「家が隣だからに決まってるだろ。ほら、早く終わらせようよ。お腹が減ってさ、たまらないんだよ。ね、早く帰ろうよ」

 言いたいことを言ってしまうと、シンジは机の移動を始めた。
 そうなると班のメンバーも動かざるを得ない。
 腹が空いているのは彼らも同じだからだ。
 しかし教室の反対側で動いている女子4人はこそこそと話をしていた。

「ねぇ、隣に住んでいるからってそんなことしないわよねぇ」

「当たり前よ。私、隣に住んでるの浪人生よ。あんなのに食事を作ってあげるなんて絶対にやぁよ」

「よねぇ。絶対、碇君と惣流さんって何かあるわよ」

「やっぱり、同棲?息もぴったりみたいだし」

「そうよそうよ。ねぇ、1年のときはどうだったのかしら?」

 4人はお互いの顔を順番に見渡す。
 残念なことに全員が別のクラスで、しかもアスカたちの小学校出身ではない。
 そうなると情報量が少なすぎる。
 仕方がないわねと彼女たちは週明けに期待することにして掃除に取り掛かった。



 アスカたちの家に一番近いスーパーマーケットは、第一中野センターという名前だった。
 スーパーマーケットといっても市場の集合体のようなもので、将来的に出店してくるであろう大手のスーパーに対抗するために作られた店舗だ。
 従って、そこでの購入方法は少し独特なものになる。
 各店舗で選んだものをレジに運んで清算するシステムである。
 バーコードリーダーなどない時代だから、それぞれの場所で包んだ袋に店員がマジックで¥120などと書き入れる。
 つまり市場的なやり取りが必要なわけなので、それが苦手な人間は結局新しいスーパーに流れていってしまうのだがそれは当分先の話。
 アスカはそんなやり取りが気にならない性格をしている。

「おじさん、合い挽きのミンチ頂戴。200gでいいわ」

「はいよ。おや、今日はお母さんじゃないのかい?」

「ママはお隣とおでかけ」

「へぇ、でお隣の坊やに荷物持ちってことか」

「そ〜ゆ〜こと。アリガトね」

「毎度!」

 こういうやり取りをしていくアスカをシンジは驚いた顔で見ていた。
 同い年の彼女が急に大人びて見えたわけだ。

「アンタ、ブロッコリーは食べられるようになった?」

 八百屋でアスカに問われたシンジはとんでもないとぷるぷる首を横に振る。
 アスカは鼻で笑って、彼を睨みつける。

「そんなことでいいと思ってんの?大人になったら困るわよ」

「え、どうして?」

「アンタ馬鹿ぁ?子供に好き嫌いしちゃいけませんって言えないでしょうが」

「はは、そんな…」

 冗談だと思ってるシンジにアスカは溜息を吐いた。

「うちのパパはね、一生懸命蛸を食べる練習をしたのよ。外人は蛸だめなんだからっ」

「アスカのために?」

「とぉ〜ぜん!ママのお腹の中にいた赤ちゃん…アタシのことね、その子のためにがんばったんじゃない」

「うぅ〜ん、そうなんだ。でも、ブロッコリーは…」

「はんっ!今日は許してあげる」

 アスカは機嫌がよかった。
 まるで夫婦のように買い物をしているということで心が躍っているのだ。
 だから、当然饒舌になり、スーパーの中をお喋りしながら移動していく。
 壁に耳ありというが、スーパーには壁ではなく買い物客がたくさんいる。
 その中に同じ中学に通う者がいてもおかしくはない。
 かくして彼女のお喋りの断片を聞いた、証言者その1であるKさんは月曜日に早速情報をもたらせた。
 『碇と惣流がまるで夫婦のように買い物をしていた。
  お腹の子供のために好き嫌いはしてはいけないと惣流が説教していた』
 彼女の得た情報を要約すればそうなる。
 無論、そんな情報が独り歩きすることは火を見るより明らかなことだ。
 
 さて、買い物から帰る途中、やはりアスカは機嫌がいいままである。
 シンジを後ろに従えてのしのしと歩いていくのだが、時折シンジが鼻を鳴らす。

「どうしたの?風邪?」

「ううん。なんでもないよ」

「あ、そ。ああ、そうだ、マナがね、副委員長になったって話したでしょ…」

 楽しさのあまりシンジの体調が悪いということをアスカは見過ごしていた。
 昨晩、雨でびしょ濡れになった彼はよく乾かしもせずにアスカの家の灯りを確認しながら宿題をしていたのだ。
 暖かくなったとはいえ、それで風邪を引き今は微熱がある。
 しかし、彼はしんどいとは口にしなかった。
 せっかくの楽しい時間をふいにしたくない。
 大好きなアスカとの時間は何物にも変えがたいのだ。
 しかも今日は二人きりなのである。
 肉体的な接触まで高望みはしていないが、精神的な距離を少しでも縮められれば…と彼は熱望していたのだ。
 彼が一言本音を吐けば、そんな距離などあっという間に零になるのだが。

「…夢にまで委員会のことがでてきたそうよ。で、ベッドから転がり落ちたんだってさ」

「へぇ、ベッドなんだ。女の子ってみんなベッドなのかなぁ」

「何それ。アンタ、女子を研究してんの?みんなって誰のことよ」

「え?アスカのことだけど?他は今霧島さんがベッドだってアスカから聞いた」

「あのね、たった二人でみんな?はんっ、ばっかみたい」

 まさか他の女の部屋のことまで知っているのかと疑い、アスカはかなり動揺したのだ。
 動揺すると声が大きくなるのが彼女の習い。
 この時も少しばかり大声になっていった。
 近道をしようと二人は児童公園の中を抜けている途中だった。

「だいたい、アンタだって前はベッドだったじゃない」

「そうだよ。でも誰かさんが壊してからはお布団になったからね」

「ちょっと馬鹿シンジ。聞き捨てならないわね。誰かさんってまさかアタシ?」

「決まってるだろ。ベッドの上で暴れてそこの板が割れちゃったんじゃないか」

「何言ってんのよ。アタシが優しくこそばしてあげたのに、アンタが我慢できなくて騒いでさ」

「何が優しく、だよ。やめてって泣いて頼んだのにさ。あんなの初めてだったよ」

「ふん!泣いて喜んでいたじゃない」

「喜んでなんか!痛いくらいだったのに。それでもやめなかったんじゃないか」
 
 膨れるシンジはそう言った後にくしゃみをして、アスカに笑われる。
 その児童公園には友人と待ち合わせをしていた、1年生の証言者その2がいた。
 二人は彼のことなど眼もくれずに言い争いをしながら公園を抜けていったのである。
 その1年生が学生服を着ていればまだ声のトーンを落としていたのかもしれないが、
 彼は私服になるとまだ小学生に見えるくらいの容貌だった。
 証言者その2はやがて現れた友人に先ほど見た二人のことを何の気なしに話す。
 『惣流先輩とその幼馴染がベッドの上で暴れていた。
 初めてとか、痛いとか、泣いたとか色々言っていたが、惣流先輩は喜んでやめなかったらしい』
 彼の断片的な情報がその友達を通じて扇情的な内容に変化していったのは当然の流れだろう。
 


 ハンバーグは見事な出来だった。
 シンジも凄い、美味しそうだ、などと褒めてくれた。
 が、食事がはじまるとすぐに彼女はシンジがおかしいことに気がついた。
 箸の進みが遅い。口に含んだものをいつまでももごもごしている。そしてお茶で流し込んでいるではないか。
 アスカはじっと向かい側のシンジを睨みつけた。
 そういえば、顔色が悪いような気がする。

「シンジ、アンタ、体調悪いんでしょ。無理して食べなくてもいいわよ」

「そんなことないよ。こんなに美味しいんだもん」

「アタシの料理はいつだって美味しいのっ。だから今無理して食べてもらわなくていい」

 睨みつけるアスカからテーブルの上に目線を移し、シンジは情けなさそうに笑った。

「ごめん。本当にごめん」

 はぁっと息を吐くと、彼は持っていた箸を静かに置く。
 アタシはどうして優しくできないんだろうと自分を責めながら、アスカは椅子から立って向かい側に歩く。
 そして、シンジのおでこに手を当てると、彼女はさっと顔色を変えた。

「アンタ!馬鹿!ホントに!かなりあるじゃない!」

 よく見ればポロシャツの背中がぐっしょりと濡れている。

「寝てれば下がるよ。きっと…」

 ぼそりと呟くその言葉もどことなく弱弱しい。
 アスカの脳細胞はめまぐるしく活動を開始した。
 どうする?どうする?どうする?
 アタシのベッドを提供?馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿アスカ!
 客間のお布団を敷いてそこに?ということはシンジの着替えを持ってこないと。あ、でも、パジャマはアタシのでもサイズは合うじゃない。
 ああ、駄目駄目駄目!アタシの下着をシンジが使える?やっぱり着替えを持ってこないといけない。
 でもアタシの家でいいんだろうか?こういう時は自分の布団の方がいいわよね。アタシならそうだ。
 そうだ、聞いてみたらいいんじゃない。こういうのは病人の意思が最優先よ!

「シンジ、アンタどこで寝る?うちの客間と自分の部屋と」

 質問してすぐに自分の馬鹿さ加減に気がつく。
 こう問われて、身体を動かすのが辛いから客間でお願いしますなどとシンジが言う訳がないではないか。
 こいつはそういう馬鹿なのだ。
 見た目と違って、強情で頑固で鈍感で…、大好きなシンジ。
 アスカが予感した通りの返事を彼は口にした。

「うん。帰る」

 当然の答にアスカは唇を一瞬噛み締める。
 
「わかった。じゃ、鍵寄こしなさいよ。アタシ、先に行ってお布団敷いてくる」

「はは、敷いたままにしとけばよかった」

 ポケットから出した鍵をもぎ取るようにしてアスカは走った。
 そのまま待ってなさいよと言い残したものの、彼の性格から考えると少しでも迷惑をかけたくないと家に向かうはずだ。
 となれば、こっちとしてはその負担を減らさないといけない。
 アスカは隣の家に飛び込むと玄関の鍵を開ける。
 まるでずっと無人であったかのように静まり返っている碇家。
 物音一つ聞こえず、灯りも見えない。
 玄関の照明スイッチの場所はアスカは考えるまでもなく承知している。
 ぱちんとつけたその足で彼女は二階への階段を駆け上がった。
 勝手知ったるシンジの部屋に突入すると、押入れを開け放ち中から布団を出す。
 敷布団を敷き、シーツをかけ、枕を置く。
 そして彼女は階下へとかける。
 その間、2分も経っていないが、シンジはようやく惣流家から出てきたところだった。
 足元がふらついているので、ブロック塀に右手をかけ身体を支えながら歩いている。
 やっぱりとアスカはすぐに彼の左側に身体を寄せた。

「馬鹿。無理しちゃって。ほら、アタシにつかまんなさいよ」

「ごめん」

 余程身体が辛いのであろう、シンジは素直にアスカに身体を預けた。
 その瞬間、アスカは予想以上の負荷を身体に感じた。
 コイツ、いつの間にこんなに重たくなったのよ。
 くそっ、冗談じゃないわ!負けてらんないのよ!
 何に負けるのかは不明だが、アスカは自分を奮い立たせてぐっとシンジの身体を支えた。
 はぁはぁと彼の苦しい吐息がすぐ傍で聞こえる。
 気持ちの上ではシンジを肩に担いでさっさと隣の家まで進んでいきたいのだが、そんな洋画で見るようなたくましい動きはまったくできない。
 アスカにできることはそろりそろりと歩くことだけで、こんなことなら自宅の方で寝かせればよかったと後悔しきりである。
 そんな時に一台の自転車が無灯火で走ってきた。
 そのペダルを踏んでいた証言者その3の少年は遅刻した塾に急いでいるところであった。
 彼は道路の右側を走ってきてしまい、アスカたちの背後にかなりのスピードで突っ込んでいきそうになったのだ。
 しかし直前で気づいた彼は急ブレーキをかけ、あわやのところで止まることができた。
 だが、もちろんのことながら証言者その3はアスカの罵声を浴びることになった。

「何してんのよ!自転車は左でしょうが!シンジにもしものことがあったら許さないわよ!」

「ご、ごめんなさい!大丈夫ですか?」

「大丈夫じゃないわよ!さっさといきなさいよ、馬鹿!シンジ、もう少しだからがんばってよね」

 言いたいことだけ言うと、もうアスカは証言者のことなど眼中になかった。
 そんなことよりも少しでも早く目的地に到着しないといけない。
 彼女はそれだけを考えながら、シンジの身体を支えながら進んだ。
 証言者その3は見ていないことを承知で頭を下げるとその場から走り去った。
 そして塾が終わった時、友人にこう漏らしたのである。
 『2年の惣流さんが例の幼馴染を抱き合うようにして運んでいた。
 どうも彼の方は体調が悪いみたいで、自転車で突っ込みそうになった僕は惣流さんに滅茶苦茶怒られたんだ』
 そこから3人目くらい伝言ゲームが進むと、もう残っていたのは暗がりでアスカとシンジが抱き合っていたということだけ。
 おまけにその目撃者にはこのことを言い触らしたら殺すと脅したという尾ひれまでしっかりつくようになったのである。
 
 
 
 そんな話がひろがっていくとは夢にも思わないアスカはシンジを一生懸命に看病していた。
 当然、碇家の看病グッズはどこにあるかよくわからないので、自宅の方から体温計や水枕などを運び込んでいる。
 まず熱を測ってみると38度3分。
 冷蔵庫を見てみたが碇家では氷はまだ作っていないようだ。
 仕方がないのでまずは水枕にする。
 それを持っていった時にバファリンを飲ませようとしたが、熱が高い割りにシンジは自分でちゃんと飲むことができた。
 その姿を見てかすかな期待をしていたアスカは少しだけ残念に思った。
 もし、彼が飲めないとか言うようならば、漫画などにあるように口移しでしようかと決意していたのだ。
 それをネタにしてシンジを脅すということも考えられたのになぁと不謹慎な自分をアスカは戒めた。
 まずは熱を下げないといけない。
 パジャマに着替えさせてあげるというイベントも彼が自分で着替えてしまったので発生することがなく、
しかしその時背中の汗を拭くという仕事をアスカはしっかりこなした。
 お湯を含ませしっかりと絞ったタオルでシンジの背中を彼女は拭う。
 少しはエロチックな反応を自分も相手もするのではないかと若干の期待と不安を抱いていたのだが、冷静に行動できたのには意外であった。
 身体を拭きパジャマに着替えると、解熱剤が効いてきたのか、シンジは眠ってしまった。
 だが、アスカは眠らない。
 平熱に戻るまで看病をする。
 彼女は自分に誓ったのだ。
 それは願掛けという意味もあったことは事実だ。
 看病をがんばれば、この恋は成就する。
 アスカは自分を奮い立たせた。
 自宅に戻って氷を作るケースとクノールのスープ、そして牛乳と食パンを手に再び碇家へ。
 もしスープを飲みたいと言えばスープ、パンを食べたいと言えばパン。
 準備は怠りなくしておきたい。
 しかし、シンジが要求したものはアスカの準備していたものではなかったのである。

 翌朝、熱は37度3分まで下がっていた。
 だが、逆にシンジの表情は昨日よりも辛そうであった。
 食欲がないという彼はあえてと言うならと口に出した料理は、卵粥だった。
 お粥類が嫌いだったアスカは作り方をよく知らない。
 しかし、愛するシンジにそんなことは言えなかった。
 彼女は胸を張ってこう言ったのだ。

「任しといて!ユイさんには敵わないけど、アタシ得意だから!」

 大嘘を吐いてしまったアスカは食材を買ってくるとの名目で10時になると碇家を飛び出した。
 愛車を引っ張り出してスーパーまで突っ走る。
 しかし目的の地はスーパーではない。
 その近くにある渚屋書店だ。
 いつもならばそこで彼女が物色するのは推理小説や映画の本。
 だが今日は近寄ったこともないブースにアスカは足を進めた。
 家庭の奥様(若しくはその候補生)向けのその場所には、ずらりとその類の書籍が並んでいる。
 もちろん彼女が欲しているのは料理の本だ。
 卵粥の料理方法ができるだけ詳しく載っているものをアスカは選んだ。
 ようやく1冊の分厚い『新婚の奥様への家庭料理のすべて』という本に決めると、
それをレジに持っていく前に別の本を立ち読みしようとした。
 まず間違いなく風邪の症状だと思うのだが、もしかすると…と気になったのだ。
 『家庭の医学』を手にしたアスカはぺらぺらとめくってみる。
 しかし風邪の諸症状などにたいしたページ数を割り振っているわけがない。
 音にならない舌打ちをして、アスカは重い本を書棚に戻す。
 熱のあるシンジをいつもでも一人になどしておけない。
 碇家の玄関を出てきてからまだ15分と経過していないが、アスカにとってはかなり時間が経過してしまったような感覚を覚えていた。
 だから、早足で彼女はレジに向かったのである。
 ところがレジにいたのは顔見知りの人間だったので、清算に少し時間が掛かってしまった。
 
「おやおや、惣流さん。朝から買い物かい?」

「ただで持って帰っていいんだったらそうするけど?はい、3200円」

「これはまた重い本だねぇ。それに3200円は高くないかい?」

「うるさいわね」

 アスカはいつもの「うっさい」という言い方をしなかった。
 元より彼女は相手により微妙に喋り方を変えている。
 よく思われたいというような理由ではない。
 単に嗜みというだけの話だ。
 書店の息子である渚カヲル君は3年生で、昨年の文化祭の委員会で顔を合わせたことがある。
 気取った物言いをする先輩でなれなれしい態度を示すので、最初は自分に気があるのかと思えばすぐに誰にでも同じように接していることを知った。
 自意識過剰の自分に苦笑したアスカだったが、やはりシンジとは正反対の口から先に生まれてきたようなこの先輩とは馬が合わない。
 しかし、渚先輩は女生徒から人気がある。
 だから渚屋書店にはレジに座る彼を鑑賞しに立ち読みに現れたり、雑誌や文庫本を買いに来る女の子が結構な数見受けられるのだ。
 それを見越して、彼の親はレジに座らせるわけで、小遣いにバイト料を上乗せしてもらえるのでカヲルは喜んでそこに座っている。
 また、人間鑑賞も彼の趣味のひとつなのだ。
 女の子たちに見られたり、囁きあったりされても彼は動じない。
 さて、日曜日の朝だというのに、彼目当ての女子が一人、文庫コーナーの陰からレジを窺っていた。
 彼女が最後の証言者。証言者その4であった。
 憧れの渚先輩が惣流先輩と親しげに話をしている。
 この二人を先輩というからには、彼女は1年生。
 翌月曜日には早速1年の教室で前日の経験を友人たちにお披露目した。
 ただしそれは遠くから見ていただけで、しかも断片的で且つ無声映画的な情報である。
 @惣流先輩が日曜日の開店早々に『新婚の奥様』がどうこうという書名の大きな本を買いにきた。
 A渚先輩に声をかけられ迷惑そうな顔をしていた。
 B『家庭の医学』を真剣な表情で立ち読みして首を傾げていた。
 たったこれだけの情報がはたまた伝言ゲームを経て独り歩きを始めたのである。
 因みにアスカが購入した本の名前がわずかに見えたのは本が大きすぎ本屋の紙袋に入りきらなかった所為である。
 頭がはみでた袋を抱えたアスカが証言者その4の傍を通り過ぎた時に、タイトルの一部だけが彼女に見えたのだ。
 
 かくして、不揃いな証言は出揃い、その証言が絡み合い噂として校内に広まるには3日もかからなかったのである。



後半へつづく



 

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