惣流アスカはさあ寝ようかと立ち上がり背筋を伸ばした。
明日は転校2日目、いや正確に言うと入国5日目で日本人の中学校に通い始めて2日目ということだ。
ドイツにいた頃、既に日本語はぺらぺらになっている。
だから言葉の心配はなかったのだが、やはり不安であることは間違いない。
国籍は日本だが容姿が白人なのだから、きっと周りから浮いてしまうのだろうと考えてしまう。
しかしそれは彼女の不安ほどのものではなかったのは事実だ。
親しくなった女子もできたが、逆に男子と親しくなりたいという願望はまるでない。
白人であろうが黄色人種であろうが、男子は世界共通だということをアスカは認識したのだ。
男子は馬鹿だ、と。
いずれ自分も恋をする時が来るのだろうが、それはまだまだ先のこと。
アスカはふふんと鼻で笑うと机の引き出しを開け、そこからいかにもチョコレートという外見の板チョコを取り上げた。
数枚の在庫の中から一番美味しいと思うのをお礼の品にしようと思ったのだ。
彼女はチョコレートを袋にも入れず、オレンジ味だと自己主張している包装紙のままの状態で鞄の中に放り込んだ。
弁当持参なのだからチョコレートくらいいいだろうと甘く考えていた。
生徒手帳の規則など読んでもいない。
もし規則違反なら次に改めればいいだけのことだ。
それに学校で食べる弁当というもの自体、彼女には未知の存在である。
ドイツでは学校は午前中しかなかったからだ。
アスカは鞄を机の上に置くとベッドに向かった。
昭和52年2月13日、日曜日、午後11時43分のことである。
ー 1977 2月 ー
2009.02.14 ジュン |
話は少し遡る。
2月12日の土曜日、午前9時30分のことだ。
アスカは教室の扉の前に佇んでいた。
教師に呼ぶまで外で待っていてくれと言われたからだ。
転校生の説明をしてからお披露目ということなのだろう。
彼女は溜息を吐いた。
何と非合理的なのだろう。
こんな風にショーアップする必要があるのだろうか。
これが日本のやり方かとアスカはもう一度小さく息を吐き出す。
見上げるとクラスプレートには1年2組とある。
よし、ラッキーナンバーの2だ。
落ち着くのよ、アスカ…、と彼女は自分に呼びかけた。
扉といっても薄い木製でガラスがはめ込まれているだけなので中の音は丸聞こえだ。
『では、転校生を紹介するぞ。男子、喜べ。舶来ものの別嬪さんだ』
今度は大きな溜息をアスカは吐いた。
舶来ものはなかろう。
しかし、別嬪さんは実は嬉しい。
ドイツでは小作りな顔立ちということで綺麗とは誰も言ってくれなかったからだ。
おおっと男子のどよめきが聞こえた。
あの声が失望に変わらなければいいんだけど…と、アスカは少し不安になる。
それは杞憂だった。
教師に呼ばれ中に入った途端に、さっきよりも大きなどよめきが教室を包んだからだ。
男子だけではなく、女子も奇声を上げたのだから当然だろう。
あまりの五月蝿さに隣の教室から女性の教師が飛んできた。
「ちょっと青葉先生。静かにできないんですか?」
「すみませんねぇ、伊吹先生。まあ、ものがものなので」
「まっ、女の子をもの扱い?失礼ね。とにかく、静かにしてください」
そう言い切ると、伊吹マヤ教諭は憤然と出て行き扉をピシャリと閉めた。
ガタピシとガラスが鳴って、青葉シゲル教諭は肩をすくめる。
「怖いねぇ、伊吹先生は」
その一言で教室がどっと沸いた。
こんなやり取りの間、アスカは教室をぐるりと見渡している。
男子も女子も彼女と目が合うと慌てて目を逸らす。
その中で二人だけにっこりと微笑みかけてくれたので、アスカも表情を緩めた。
一人はクラスの中ほどに座っているおさげ髪の女子だった。
そしてもう一人は最後尾の窓際に座っている髪の毛の短い女子だ。
その子の隣に空席が見える。
「よし、じゃ自己紹介してもらおうか」
「はい」
青葉先生が教壇の向こうに下りたので、アスカはそう答えて教壇に上がる。
すると男子の一人が「今の日本語だぜ」と驚いた。
「馬鹿だな、神田。日本語が話せないなら公立の中学校に入るか?よく考えろ」
先生に指摘され、神田という生徒は頭を掻いた。
アスカは広がった笑い声が収まるのを待って唇を開いた。
「はじめまして。惣流・アスカ・ラングレーといいます」
彼女はチョークを手にすると、まずドイツ語表記で自分の名前を素早く綴る。
そして次に“惣流”と漢字で大きく書いた。
「すげぇ、そうりゅうって日本語にあるんだ」
「惣流は日本の名前です。ママの実家が惣流。パパの方がラングレーなの。
アタシは日本とドイツの混血でクォーター。つまり1/4が日本人の血ってこと」
説明してからアスカはクラスメートとなる面々の顔を窺った。
うぅむ、どうもわかったのは1割もいないかもしれない。
そう判断したのは先生も同じだったようで、青葉先生は黒板にざくざくっと説明書きをした。
図で見るとようやくわかったようで生徒たちはみななるほどと頷く。
それを確認してから、アスカは再び自己紹介に戻った。
「生まれは日本。でも赤ちゃんの時にドイツに引っ越したからほとんど日本の記憶はないの。
いずれ日本に戻るって言われてたから、日本語の勉強はずっとしてました。
ラッキーナンバーは2。好きな色は赤。これからよろしくお願いします」
アスカは頭を下げた。
するとパチパチと拍手が教室を包んだ。
よし!と彼女はほっとした。
日本流の自己紹介というものを母親から習っておいたのだ。
いずれ乱暴者という性根は露見するだろうが、最初はこんなものでいいだろう。
母親にそう言われたものの、否定はできないアスカだった。
彼女はすぅっと息を吸った。
「やっぱり、言っとく」
アスカはぐっと足を踏みしめた。
そして、同級生となる生徒たちを教壇から見下ろすとこう宣言したのだ。
「アタシって、物凄く気が強いの。メッキが剥がれる前に自分でばらしとく」
一瞬、教室は静寂に包まれ、アスカは拙かったかなと少しばかり後悔した。
しかし、それは杞憂だった。
いかにも偉そうな態度で腰に手をやった彼女に同級生たちは先ほどより大きな拍手を贈ったのだ。
なるほどおとなしい美人もいいが、明るい方がいい。
もっと彼らが大人寄りの年頃ならば逆の考え方をする者も多くなろうが、今はまだ子供に近い13歳なのだ。
彼らの反応にかなり安心したが、それは表情に出さないようにしてアスカはにっこりと笑った。
「よしっ、静かに!質問とかはいろいろあるだろうが、まあそれは個人的にしろ。時間がないからな。
それじゃ、惣流。お前の席はあそこだ」
青葉先生が指差す先はあの空席である。
「おい、碇。面倒みてやれよ」
「はい、先生」
あの髪の短い少女が短く答える。
「ということで席についてくれや。もう1時間目がはじまるからな。どうやら伊吹先生は抜き打ちテストをするらしいぞ」
青葉先生がこっそりと秘密を漏らしたものだから、生徒たちはいっせいに非難の声を上げた。
その中をアスカは空席に向かった。
「青葉先生!何ですか!予告なしにするから抜き打ちなんですよっ」
教室の扉のところで待っていた伊吹先生が顔を覗かせて同僚教師を叱った。
引きつった笑いを浮かべた青葉先生は慌てて教室の後の扉から退散する。
その時、チャイムが鳴り伊吹先生は手を叩く。
「はい1時間目。お待ちかねの抜き打ち小テストをします」
伊吹先生が宣言すると教室中に溜息が溢れた。
空席に座ったアスカは隣の女子を見る。
すると向こうも彼女を見ていて、にっこりと微笑まれた。
「私、碇レイ。よろしく」
「アタシ、アスカ。こちらこそ、よろしくね」
つい習慣が出て、アスカは握手を求めるべく手を差し伸べてしまった。
レイは少し戸惑ったもののすぐにアスカの手をしっかりと握った。
「お〜い、碇さんに惣流さん?テストはじめるわよ。新たなる友情の儀式は終了してくれないかしら」
伊吹先生は笑いながら言うと、プリントを配りだす。
アスカはペロッと舌を出し手を引っ込めた。
レイの手の感触は少し冷たかったものの柔らかく優しげに感じた。
「漢字の書き取り25問よ。正解19問以下はせっかくの日曜日に宿題が出るわよ。制限時間は10分」
悲鳴を上げる生徒たちを無視して、伊吹先生は教室を見渡す。
もうすぐ行き渡りそうだと判断し、彼女はアスカに声をかけた。
「惣流さんは免除ね。いきなりじゃ可哀相だから」
「僕たちもいきなりですよ!可哀相じゃないですか!」
便乗しようと声を上げた男子を伊吹先生は睨みつける。
「今週までに習ったものばかりでしょう。惣流さんは日本に来たばかりなのよ」
「あ、大丈夫です。公平にしてください」
思わずアスカは声を上げてしまった。
公平という言葉が彼女は好きだった。
ドイツでは体格的にコンプレックスのような感情を抱いていたから余計に特別扱いされることを嫌うようになったのだ。
「へぇ、自信あるんだ。今の言葉忘れないでよ。よし、じゃ特別扱いなしで…テストはじめ!」
成り行きを見ていた生徒たちだったが、テスト開始を宣言され一斉にプリントに向かった。
レイはちらりと隣の席を見る。
なるほど大丈夫と言ったのは虚勢ではなく、赤金色の髪の少女はさっさと鉛筆を走らせていた。
レイは少し嬉しくなり、そして自分も問題に取り掛かった。
10分後、隣同士で交換して採点しろとの指示で、アスカとレイはプリントを交換した。
回答は先生が黒板に書いていく。
それを見ながら赤ペンでチェックするのだ。
もしこの場を利用して嘘のチェックをすればどうなるか。
以前他の組の男子が試みて、見事に伊吹先生に見破られた。
その挙句に100点になるまでテストを繰り返させられたという結末がついた。
だから彼らは正直に点数をつけるのだ。
アスカは黒板を見ながらレイのプリントにチェックしていく。
そうしながら自分の書いた漢字を思い起こした。
間違いはないはずだ。
だが、このプリントも間違いは一つもない。
しかも、物凄く綺麗な字で書かれている。
アスカは少し恥ずかしくなって、隣の席を窺った。
すると隣の女の子は赤鉛筆を微妙に揺らしている。
何かを躊躇っているようだ。
アスカは何か間違えただろうかと首を伸ばした。
その時、レイがちらりと横を向いたので二人の視線が合う。
「間違ってた?」
小声で問うたアスカにレイは間髪措かず返事をした。
「字が汚い。合ってるけど、丸をしたくないくらい」
「ぐっ!アンタねっ」
むかっときたアスカが声を荒げかけると、レイはすかさず大きく○をつけた。
そして、横に何か書き加える。
周りのことを度外視して、アスカはぐっと身体を寄せて何が書かれたのか覗き込んだ。
「げっ!」
よくできました。でも、もっと書き取りの練習をしましょう。
赤い字で、しかも綺麗に整った字で書かれているから尚更にアスカの金釘流が目立つ。
悔しくて仕方がない。
「アンタ、何様のつもり?」
爆発数秒前。
転校初日だけに必死に感情を抑えたアスカが小声で詰問する。
「私のお父さん、習字の先生の免除持ってるの」
「だから?」
「気が強いだけじゃなく、短いのね、気が」
レイはくすりと笑う。
「悪い?」
「悪くない。私も短いもの」
「アンタが?」
とてもではないが、気が短いようには見えないレイである。
短いというのは髪の毛という意味ではないかとアスカは勘ぐった。
するとレイは声を潜めた。
「この前、男子を引っ叩いたの。かっとなって」
「へぇ…」
にっこりと微笑んだレイはアスカのプリントの上の方に、ぐるぐると何十もの丸を描きさらに花びらを加えた。
「何それ?」
「花マル。とてもよくできましたって印」
「こら、碇さん。そんなに派手に丸しちゃって…」
いつの間にか二人の席近くに来ていた伊吹先生はアスカのプリントを手にした。
そして、彼女は苦笑した。
「確かに100点だけど、惣流さん?」
「はい」
「字が汚すぎるわよ。お習字も勉強した方が良さそうね」
「はぁい」
アスカは不貞腐れて返事をした。
そのやり取りを見ていた生徒たちは声に出して笑った。
そして100点は凄いななどと会話が交わされる。
やがて全員のプリントは回収され、普段の授業が始まった。
1時間目が終わると、アスカの席の周りは女子でいっぱいになった。
「ねぇねぇ、その金髪、本物?」
「馬鹿ね、本物に決まってるじゃない。それより英語ペラペラなんでしょう?」
「ヤスコも馬鹿ね。ドイツにいたんだから英語じゃなくてドイツ語でしょう」
「あ、そうか。でもドイツ語なんて…ミチルは何かわかる?」
「うぅ〜ん、バームクーヘン?」
「もう!食いしん坊っ。でも惣流さん、日本語ペラペラなのねっ」
「は、はは、字は汚いんだけどね」
さすがのアスカもいささか腰が引けるほどの勢いである。
少しだけ謙遜しながらも、彼女は隣に座ったままでいるレイを横目で睨んだ。
「碇さんと比べちゃ駄目よ。彼女、お習字2段だもの」
「段って何?」
「えっと、何だっけ。ヒカリ、よろしく」
「えっ、私?」
話を振られたレイの席の向こう側に立っていた女子が驚いた顔をする。
その場所にいるということは、この二人は仲がいいのだろうとアスカは推察した。
ヒカリと呼ばれたおさげ髪の少女は微かに首をかしげた。
「習字とか算盤とか剣道とか柔道とか、そういうものの強さを表す物差し…かしら。
段の数が多いほど強いの」
その説明に周囲の女子はおぉぉぉっと感嘆し手を叩く。
「さすが委員長ね。見事な解説」
「あ、ほら。将棋とか囲碁とかにも段があるわよね」
「でも惣流さん、わかった?どんなものか」
おずおずと尋ねた洞木ヒカリにアスカはにっこりと笑う。
「アリガト。ソロバンっていうのだけわかんないけど、後のは全部わかった」
「そっか、算盤はさすがにドイツにはないわよね」
「はは、ドイツにあったのは柔道だけよ。あとのは覚えただけ」
答えるアスカは内心悔しい思いをしていた。
字が汚いという指摘は彼女のプライドをかなり傷つけている。
もっともドイツにいた時からその指摘は母親からも受けていたのだが、アスカはそんなもの構わないと黙殺してきたのだ。
くそぉ、書き取りの訓練をもっとしておくのだったと彼女は後悔した。
休み時間の10分などあっという間だ。
すぐに2時間目がはじまった。
「終わったぁ…」
教室に戻ってきた碇シンジは自分の席に着くといきなり机に突っ伏した。
2時間目の1年9組は10組との合同で体育の授業だったのだ。
「ホンマにセンセは体育苦手やのう」
「シンジじゃなくてもきついぜ。マラソンなんて勘弁して欲しいぞ。やっぱり」
「何言うとんねん。マラソンやないやろ。たかが3kmやないか」
「お前と違って、俺やシンジは頭脳派なんだよ」
シンジの頭越しに二人の友人が言葉を応酬している。
それを聞きながら、シンジは息を整えていた。
関西弁の鈴原トウジは運動部に入っていないものの運動神経はすこぶるいい。
頭脳派を称している相田ケンスケは写真部だが、芸術派と自称しないのは何故だろう。
そんなことをシンジは何とはなしに思っていた。
「ほほぉっ、頭脳派ねぇ。センセはわかるで。せやけどケンスケはちゃうやろ」
「うるさい。シャッター押すのは体力じゃなくて知力なんだよ」
「この前は感覚や言うとったやないか」
「感覚を磨くのは頭だ。うさぎ跳びや腕立て伏せで鍛えられるかってんだ。その証拠に写真部が合宿しても身体なんて鍛えないぞ」
「そやからもてへんねや。なよなよっとしたヤツにはチョコレートはあらへんな」
「お前もな」
「わかっとるわい」
その段階でようやくシンジは顔を上げた。
「僕もないよ」
「うぅ〜ん、まあな。センセが一番可能性はありそうやけどなぁ」
「そんなことあるわけないじゃないか」
シンジは朗らかに笑った。
その笑顔を見て、友人二人は苦笑した。
碇シンジの顔は不細工ではない(カッコよくはないが)。
性格は悪くない(かなり鈍感で優柔不断だが)。
成績はいい(トップとはいえないが)。
運動神経は悪くはない(良くもないが)。
そう、すべてに但し書きがついてしまうのだ。
目立つ男子がもてるというのは思春期創世期の特長だ。
どちらかというとその他大勢に埋もれがちなシンジの花が咲くのはもう少し後だろう。
二人だけの時に、トウジとケンスケはそんな風に友人を評したことがある。
そして、いずれはシンジが自分たちの中で一番最初にチョコレートを貰う事になるであろうとも。
自分たちはいつになるか見当はつかないが。
ああ、チョコレート欲しいなぁと、二人は肩を落としたものだ。
終戦直後とは違い、店に行けば好きなだけチョコレートを買えるご時世だ。
二人はチョコレートを食べたいのではない。
あの日にチョコレートを貰うという事を体験したいのだ。
あの日。
2月14日。
「ま、まあ、そやな。1年で貰えそうなヤツは…」
「森田に石橋、篠田か?」
「そんなとこやろ。クラスに1人おったらええとこちゃうか」
「そうだね」
シンジは明るく同意した。
「何だ、シンジ。お前、全然悔しそうじゃないな。欲しくないのか?」
「僕だって欲しいよ。でも…」
シンジは言葉の後を濁した。
その続きは二人も了解している。
「だな。それが問題だ」
「貰ろうてから考える…ってなわけにはいかへんもんな」
「まあ、正式な返事はホワイトデーなんだろ。でもなぁ」
「うん。その気もないのに貰えないよね」
トウジは腕組みをして溜息を吐いた。
「まあ、あれや。わしらには縁のない話やけどな」
「寂しいこと言うなよ。もしかしたらトウジに影ながら惚れてる女子がいるかもしれないぜ」
「おっ、そりゃええ話や。是非とも別嬪さんでありますよ〜に!」
大仰な仕草で拝む真似をするトウジの背中をケンスケは叩く。
「ないない。絶対ない。俺たちにチョコレートはな」
「だな!」
3人は少しだけ悔しげに笑った。
そうしているうちに隣のクラスで着替えをしていた女子がちらほらと帰ってくる。
バレンタインの話をしているなど、彼女たちの耳に入れば笑われてしまう。
彼らは違う話題に切り替えた。
ここまでの展開に違和感を覚える方はまだまだお若い人なのだろう。
聖バレンタインデーに女性が男性にチョコレートを贈るという風習はまだ40年ばかりのものだ。
製菓会社が売上アップのために目論んだ作戦に日本中が挙って乗ってしまった。
しかし当初はなかなか作戦通りに行かなかったのである。
好きな男性に愛情を訴える、ということをイベントとして消化できるというのは乙女にとっては勿怪の幸い。
日本式聖バレンタインデーはまず若き乙女に受け入れられた。
ところがそれは意中の男性にのみ向けられるもので、いくらこの祝日が普及してもチョコレートの売上は微増である。
そこで続いて広められたのが、義理チョコを贈るという行為だった。
これもまた大いに広まり、現在に至っている。
このお話は、義理チョコと言う言葉がまったく広まっていない時代である。
従って本命も糞もない。
この日に女性が男性にチョコレートを渡せば、すなわち求愛行為とみなされる。
そして1ヵ月後、ホワイトデーにマシュマロを彼女に返せば求愛は受け入れられカップル誕生というわけだ。
随分気の長い話に思われるだろうが、この聖バレンタインデー過渡期とも呼ぶべき時代はそのように進んでいったのである。
だが、贈られる男子にとっては渡されるということは大事なのだ。
もし意中の女子でなければ?
しかし渡されたことが周囲に露見すると、ホワイトデーを待たずしてカップル成立と認定されてしまうことが間々あった。
それを狙って渡したことをわざと広める女子もいる始末。
だから、もてる男子はそれを避けるためにチョコレートを渡そうとする女子から逃げることもある。
下駄箱に入っていたものを贈り主の下駄箱に返したり、渡されたその時に「ごめんなさい」をするなど…。
女子の立場からすれば随分と冷酷非情なことだろうが、男子としても網にかかるわけにはいかない。
このように過渡期、黎明期の聖バレンタインデーは様々な悲喜劇を繰りなしていたのだ。
3時間目が終わった。
トイレに立ったケンスケはなかなか帰ってこなかった。
ようやく戻ってきた彼は友人に向かって息せき切って告げたのである。
「おい!金髪美人が2組に転校してきたらしいぞ!」
「何やて!」
食いついたのはトウジだけではない。
周囲の男子がみんな食いついた。
転校生は珍しいことではないが、美人となれば話は別だ。
しかも何故かそこに金髪という扇情的な単語がついている。
中学生の男子が食いつかないわけがない。
晩生のシンジでさえも「へぇ…」と気持ちが動かされたのだから。
「7組のやつらがトイレで話してたんだ。2組を覗きに行ったヤツなんか興奮してたぞ」
「ホンマか!行くか?」
「おおっ!」
トウジの呼びかけに男子一同は賛同した。
「で、でも、あと3分しかないよ」
「シンジ!3分あれば充分じゃないか…って、お前、妹が2組にいるだろ!妹を使え!」
「おおおおお!」
ケンスケの提案に男子一同は目を見張った。
なるほどそれは魅力的な提案だ。
「つ、使えって、レイを何に使うんだよ」
「アホか。呼び出してもらうんやないか!」
うんうんと男子一同。
「でも…。呼び出してどうするのさ?」
「そりゃあ…」
男子一同は顔を見合わせた。
そこまでは考えていなかったのである。
まさかその金髪美人転校生を9組に略奪するわけにはいかない。
ううむと考えているうちに4時間目開始のチャイムが鳴った。
がっくりときた男子たちを女子一同は冷たい目で見ていた。
シンジたちは2組に赴かなくて正解だった。
何故ならその頃、2組の面々はすでに美術室に移動していたのだから。
美術の教諭は担任教師の青葉だ。
今日は静物画のクロッキーで、アスカはレイにクロッキー帳から一枚破ってもらった。
さすがに教科書以外のものはまだ準備していなかったのである。
ついでに2Bの鉛筆も借りた彼女は机の上に置かれた花瓶と花を睨みつけた。
クロッキーとは早く書くという意味合いがあるはずだが、これでは写生ではないかとアスカは思った。
まあそんなことを質問するものではないと彼女も了解はしている。
最初は先生の指示通りに黙って写生していてもそのうちに小声で話が始まるのはいつものパターンだった。
アスカとレイたちのグループは女子ばかりで6人である。
「そうなんだ。で、どうだった?」
そう訊かれたのは、アスカが見たテレビ番組のことを口にしたからだった。
アスカと父親が日本に到着したのはわずか4日前のことである。
2週間先行していた母親が元々住んでいる祖父を手伝って家の片づけをしておいたから、彼女は自分の部屋のことに専念できた。
それに転校の事務手続き等もすべて母親が終えている。
だから来日間もなく中学校に通えることになったのだ。
昨日、2月11日は建国記念日の祝日だ。
明日はいよいよ学校だと不安と期待を胸にしながら、アスカは食後のテレビを楽しんでいた。
ドイツにいた頃はもちろん日本のテレビ番組など見たことがない。
新聞のテレビ欄を見たが、役者の名前を見ても何もわからないので適当にチャンネルを合わせたのだ。
11日、金曜日の夜にたまたま見たのは『太陽にほえろ!』だった。
そのことをこの時に喋ったのである。
「面白かったわよ。日本のテレビもけっこういけるじゃない」
「誰がよかった?私はスコッチ」
「スコッチって…、ああ背の高い?」
「みんな高いわよ。一番ハンサムなの」
「ヤスコったら。ハンサムなんて個人の感覚でしょう?殿下の方がハンサムっていう人もいるわよ」
「うぅ〜ん、1回しか見てないから…ゴリさんはしっかり覚えたけど」
アスカが見た話が石塚刑事の主役の回だったのでまず先に彼を覚えたわけだ。
話は自然に彼女の記憶力テストになっていった。
ニックネームを覚えていたのは、7人中4人。
但しキャラクターの方は七人の刑事すべてを記憶していたのである。
そして花瓶を描いた紙の端のほうに刑事のニックネームとキャラクターを整理していった。
部屋にいる人→ボス。
背が高くバリッとした身なりの若い刑事→スコッチ。
といった具合に、アスカは同級生たちに七曲署の刑事たちの名前を教えてもらったのだ。
「私は山さんが好き」
そんなことを言ったのはレイだった。
「レイはおじさん好きだものね。私は…」
「スコッチでしょ。わかってます」
「もうっ、言わせてよぉ」
「私は断然ジーパン」
「え、ジーパンって誰?」
アスカは刑事たちの名前を見たがそんなニックネームはいない。
「ああ、ジーパンはね、2年ほど前に殉職した刑事なの」
「えっ、殉職って死んだの?」
「そうよ、マカロニ、ジーパン、テキサスって、もう3人死んでるの」
「へぇ…」
説明したヒカリは紙に3人の名前を書き加えた。
「私はボンかな?」
「あの一番若いのね。洞木さんはああいうのがいいんだ」
アスカがヒカリの発言に頷くと、レイがくすりと笑った。
「関西弁だから好きなのね。ヒカリは単純」
「れ、レイっ」
「そうだっ、ヒカリはチョコレート用意するの?」
南野ヤスコがクロッキー帳を机に置いて問いかける。
いきなりチョコレートの話題が出てきてアスカは面食らった。
「そ、それは…」
「当然、準備してるよねっ。買うの?それとも手作り?」
「だ、だ、だから…」
アスカ以外の女子は、レイも含めて興味津々にヒカリの言葉を待った。
みんな身を乗り出しているのだが、アスカだけは完全に取り残されている。
説明してもらいたくとも、この面々の中での説明役はヒカリが受け持っているようなので今回はどうにもならなさそうだ。
仕方がないのでみんなの会話から情報を得ようとしたアスカだったが、その願望は叶わなかった。
「こらっ、そこの女子ども!完全に手が止まってるぞ!」
突然怒鳴られ、きゃっと悲鳴を上げた6人の女子は「すみません!」と再び写生を始める。
いきおいアスカの疑問は解消されることなく、まあいいかと彼女は思った。
逆に周りの女子たちは『太陽にほえろ!』の話題が共通だったので、アスカもバレンタインのことは知っていようと思っていたのである。
何といっても聖バレンタインデーは外国からの輸入文化のひとつなのだ。
舶来品であるアスカが知らない訳がない。
バレンタインとチョコの取り合わせが日本だけとは知らない彼女たちがアスカに確認しなかったのは当然といえよう。
これが後にアスカが不用意な行動をとってしまう素となったのだ。
1年2組の前は繁華街と化していた。
明らかに金髪美人転校生の噂が校内を駆け回った結果である。
1年生だけでなく上級生までもが廊下をうろうろしている。
もちろんすべて男子だった。
3階の美術室から降りてきた2組の生徒たちは廊下の混雑具合に目を丸くした。
アスカたちは授業終了後に青葉に小言を言われていたので、少し遅れて階段を降りていたのだ。
がやがやと騒がしい廊下が静かになったのは、階段を降りきった赤金色の髪の毛の女生徒が見えたからである。
波が引くようにざわめきが徐々に収まっていく。
その中を教室に向かったアスカは真っ直ぐに前を向こうとしたがどうしてもできなかった。
これほどに自分の容姿が日本人の男子に関心を持たれるとは思わなかったのだ。
気持ちがいいという部分もあるが、それよりも気恥ずかしい。
アンタたち、あっちに行きなさいよ!と怒鳴ってしまいたいのだが、それも躊躇われた。
あまりの人気振りに我を忘れたといっていいだろう。
母親からその注意は受けていたものの、ドイツでの不人気振りにそんなことはないだろうと高をくくっていたこともある。
天狗になる前に戸惑ってしまったという方が正しいかもしれない。
普通のアスカならば先頭を切って人ごみを突き抜けていくところだが、今日は少し気後れしてしまう。
しかし、今日親しくなったばかりのグループの中には頼りになる女子がいる。
「もう!男子はこれだから!」
ヒカリが憤然として言い放ち、「行くわよ」と背後のアスカたちに宣言する。
するとアスカの隣にいたレイがすっと彼女の手を握った。
「大丈夫」
小さく囁くレイにアスカは大きく頷いた。
それから彼女たちは足を進めた。
十戒の紅海の如く左右にさっと分かれた男子の中をヒカリを先頭にして歩いていく。
そして2組の教室まであと少しのところまで来た時だ。
「ほらセンセ、はよ行かんかいな」
「で、で、でも。あ、やめてよ」
そんなやり取りが聞こえてきて、開けた道の真ん中に学生服の少年が押し出されてきた。
顔を真っ赤にした彼は一瞬女子たちを見てすぐに顔を伏せた。
するとアスカの手を握っている少女が溜息を吐き小さく呟く。
「もう…、お兄ちゃんったら」
「お兄ちゃん?」
「そう、お兄ちゃん。私の」
シンジの前で女子たちの足が止まった。
彼が通せんぼをしているわけではないのだが、レイの兄だけに通り過ぎるというわけにはいかなかったのだ。
そしてヒカリがある男子を睨みつけるために立ち止まったことも理由の一つだった。
彼女の視線を受けてトウジは頭をかいて顔を逸らす。
同じ小学校出身なので顔馴染みなのである。
もっともそれは表面的なもので、ヒカリにとっては特別な男子なのであるが。
レイは兄に素っ気無く言った。
「何?用があるんでしょ」
「え、えっと、つまり…」
「用もないのに来たの?まったく…」
「あ、あるよ。用なら。えっと、だから…」
シンジは天井を仰いだ。
そんな彼の姿を見て、アスカはおかしくてたまらなかった。
「知ってる?今晩のおかずを」
必死に考え出した質問がそれだった。
あっという間に周囲は爆笑に包まれる。
「馬鹿」
レイは吐き出すように言うと、アスカの手を引っ張ってさっさと教室に向かう。
ちらりと振り返ったアスカの目に友達に頭を小突かれているレイの兄の姿が見えた。
情けないヤツ。
それが彼女の持ったシンジの第一印象だった。
教室に入るとレイはアスカの手を放し、これでもかというくらいに大きな溜息を吐き出す。
「あの人、碇さんのお兄さん?2年?」
自分より2年も年上にはとても見えなかったので、アスカはそのように質問する。
するとレイはううんと首を振り、「1年生」と答えた。
「双子なの?」
「違うの。私は早産の未熟児。3月31日生まれで、6月生まれのお兄ちゃんと同じ学年になっちゃったの」
「あ、日本ではね、4月2日生まれから翌年の4月1日までが同じ学年になるのよ」
ヒカリの補足説明はアスカにとって非常にありがたい。
「レイのお兄さんは9組なの。きっと鈴原の馬鹿にそそのかされたんだわ」
「そうね、お兄ちゃんにそんな度胸ないもの」
「ふぅ〜ん、そうなんだ」
確かにそんな感じだった。
頼りない雰囲気が全身から出ていたような気がする。
しかしそれを口にするのはできたばかりの友達に悪い気がする。
だからアスカは社交辞令を使うことにした。
「でもさ、うぅ〜ん、優しいんでしょ。そんな風に見えたわよ」
するとどうだろう。
レイはにっこり笑って、アスカの手を取るではないか。
「ありがとう、そうなの。お兄ちゃんは優しいの。この前もね…」
「わっ、惣流さんがレイのスイッチ押しちゃった」
「し〜らないっ。もう止まらないわよ。ご愁傷様」
「あのね、レイはブラコンなの。お兄さんが大好きなのよ。
でもね、お兄さんの前ではつんけんしてるの。まったく素直じゃないんだから」
説明してくれたヒカリに礼は言えなかった。
レイに手をとられ逃げ出すこともできず、アスカは授業が始まるまで彼女の兄礼讃を聞く羽目になってしまったのだ。
甚だ迷惑ではあったが、それでもレイの気持ちはよくわかった。
情けなさそうなヤツだが、妹にこれだけ愛されているということは結構いいヤツでもあるのだろう。
兄弟のいないアスカは少し羨ましく思った。
さてそのシンジは未だに胸の動悸が治まっていなかった。
実際に噂の金髪美人転校生を見たのはほんのコンマ数秒だった。
しかしその一瞬、自分のことを愉快そうに見て笑っているその表情がシンジの網膜に焼き付けられていたのだ。
雑誌などで白人女性を見たことなど何度もあるが、あんなに至近距離で実物は初めてだ。
大阪万博へ家族で見物に行ったときはまだ7歳だ。
外人がいっぱいいることに気がついていたが、それよりもパビリオンの面白さに目を奪われていて記憶に残っていない。
映画などで見た白人女性を綺麗だと思うようになったのは小学校の高学年からだが、それを友達に言うようなことはしていない。
妹にも知られていない彼の秘密なのだ。
因みにそれは彼の思い込みにすぎず、妹どころか両親までもが彼の嗜好を認識していたのである。
テレビの洋画劇場を見る彼の姿を見ていれば一目瞭然なのだ。
そんな彼にとって、あの金髪美人転校生は衝撃的だった。
ハートのど真ん中を射抜かれてしまっている。
「おい、トウジ。あいつ一目惚れしたみたいだぜ」
「おお、わかっとる。相変わらずわかりやすいヤツやなぁ」
そんなことを小声で友人が言い合っていることも当然耳に入らず、数学教師に当てられてもそれも聞こえていない。
廊下にまでは出されなかったが、自席で10分ほど立たされたシンジだった。
放課後になった。
土曜日の放課後は全体的にバタバタしている。
帰宅部の者は早々に掃除を終えて家で昼食を食べたい。
部活動の連中も清掃後に早く弁当を食べないと部活開始時間に間に合わない。
その両者の思惑がぶつかるから平日よりも慌しくなるのだ。
アスカが仲良くなった5人のうち、レイ以外は部活動と委員会で早々に姿を消した。
また月曜日にねと口々に言われ、アスカは心から嬉しく思った。
不安に期待の方が勝ったのだから当然だろう。
掃除を終えた教室でアスカはレイと喋っていた。
さすがに兄への賛美の言葉はもう終わっていて、レイのことが話題になっている。
身体はそんなに強い方ではないので、時々熱を出して学校を休むこと。
母親が外に働きに出て、父親は習字の教室を開いていること。
その父親は一見武道の先生に見えて、小さい子供は怖がっていること。
そんなことをアスカは楽しく聞いていた。
「うぅ〜ん、そんな感じだったら字を習うの怖いわねぇ」
「惣流さんが?」
「アスカでいいわよ。名前で呼んで」
「じゃ、私も。レイにしてね」
「OK。じゃ、レイ。だって、アンタにも言われたでしょ。字が汚いって」
「ごめんなさい」
「いいのよ、事実だもん。でも、実はさ、アタシ正座苦手なの」
「ああ、そうね」
外国育ちの彼女に習字の練習は難しかろうとレイは思った。
何よりあの父親は姿勢を重視するから、足を崩すと叱りつけるに決まっている。
「わかった。じゃ、いいものあげる」
「いいもの?」
聞き返したアスカにレイは微笑んだ。
「私が使ってた手習いの本。筆じゃなくて、ペン習字の。あれで練習すればいいと思う」
「アリガトっ。助かる。正直に言うとさ、そういう本を本屋さんで探すの恥ずかしくて…」
「じゃ、月曜日に持ってきてあげる」
「お礼は何が欲しい?世の中、ギブアンドテイクだからね。何かお礼したいのよ」
「ん…」
レイは首を捻り少しの間考えた。
「ドイツ製のチョコレート、持ってきてる?」
「あるあるっ!アタシのお気に入りの何枚か買ってきたの。日本にドイツのがあるかわかんなかったから」
「それじゃ1枚頂戴」
「1枚でいいの?」
レイはこくんと頷いた。
それで充分だ。
アスカから貰ったチョコレートと言えば、兄は絶対に喜ぶだろう。
さっきの挙動不審振りは明らかにアスカに心惹かれたに違いない。
碇家の男はみんなわかりやすいのだ。
タイミング良く月曜日は14日、聖バレンタインデーではないか。
だが、アスカには黙っておこうとレイは考えた。
そのチョコレートを兄に食べさせるということを彼女が知ったらいやがるだろうから。
しかし、もしレイがそのことを明かしてもアスカは鈍い反応しかしなかっただろう。
復誦するが、ドイツではバレンタインデーに女性が意中の男性にチョコレートを贈り愛の告白をするなどという風習はないのだから。
日本だけの風習であることをレイは知らなかった。
アスカも知らない。
日本を離れている間に生まれたイベントだから彼女の母親も知らなかった。
この当時はテレビなどで取り上げるようなイベントにまで成長していないのである。
だから日曜日の夜、アスカは実に無頓着にチョコレートを鞄に放り込んだのである。
昭和52年2月14日月曜日。
アスカは午前8時前に登校していた。
レイが登校してくればすぐに取引をしようと思ったのだ。
もしチョコレートが校則違反なら彼女に迷惑をかけてしまうからである。
教室には数人の生徒しかいなかった。
扉を開けて入ったアスカはその中にヒカリの姿を認めた。
「おはよっ!洞木さん」
「おはよう、惣流さん」
ヒカリはすぐに挨拶を返してきたが、その表情にアスカは違和感を持った。
笑顔がどことなく強張っているのである。
「どうしたの?顔色悪いわよ」
ううん!とヒカリは大きく首を左右に振った。
「そう?あ、レイはまだか」
隣の席に鞄がないことを目にして、アスカはそう呟いた。
「名前で呼ぶようになったの?」
「うん。あ、そうだ。洞木さんも名前でいい?アタシのこと、アスカでいいから」
「いいよ。名前覚えてる?」
「ヒカリ。覚えてるわよ。新幹線と一緒だもん」
「はは、やっぱりそれか」
「あ、ごめん。イヤだった?」
「ううん。それどころか、私のお姉ちゃんコダマっていうのよ。もう笑うしかないでしょ」
「えっ、そうなの!偶然、よね?」
「当然よ。うちの両親、別に鉄道ファンじゃないもの」
そうして笑うヒカリだが、やはり笑顔がぎこちない。
心配になったアスカがもう一度質問しようとした時だった。
彼女以上にぎこちない動きをする人間が2組の教室に現れたのだ。
「そ、そ、そ、惣流さん!い、いますかっ?」
その素っ頓狂な叫び声を聞き、教室にいた生徒はみな前方の扉を注目した。
そこに立っていたのは碇シンジである。
彼は扉を開けた時、すでにアスカの存在を目の端で確認していた。
しかし、普通に呼びかけることなど到底彼にはできなかったのである。
ひっくり返った声で叫んだ彼はアスカを見ることができず、首を斜め上45度に傾け天井を見上げている。
身体はアスカの方向に正対しているので、いかにも挙動不審者である。
「あれって、レイのお兄さんよね」
「うん。碇シンジ君。私が相手しようか?」
あまりに挙動がおかしいのでヒカリはそんな風に持ちかけた。
だが、アスカはにんまりと笑って大丈夫だと彼の方に歩き出した。
彼女を見ていなくても接近してくることは雰囲気でわかる。
シンジはごくりと唾を飲み込もうとしたが不可能だった。
残念ながら彼の喉には湿気は皆無に近かったのである。
「アタシに何の用?というか、名乗りもせずに人を呼ぶなんて失礼よね」
どうしてアタシ、こんなに?
アスカは自分が不思議だった。
自分が決しておとなしい女の子でないことくらいは承知している。
だがいじめっ子ではないし、寧ろいじめなどには体当たりで立ち向かってきた。
東洋人の血が混じっているアスカとしては毅然とした態度で他人と接するのが一番だったのである。
しかし、この時の自分は少し変だった。
からかう(?)のが楽しい(?)。
はてなマークをつけずにはいられないほどに自分の感情が意味不明だったのである。
「ご、ごめん!第壱中学校1年9組出席番号3番、碇シンジです!」
な、なに、こいつ、面白い!
「で、そのシンジさんとやらがこのアタシに何の用?」
「れ、レイが!」
「レイって誰?」
「えっと、碇レイです。僕の妹です。誕生日は3月31日」
「知ってるわよ、それくらい。習字が2段っていうのを忘れてない?」
「あ、そ、そうだ。えっと、それから…」
「はいはい、もう結構」
アスカは肩をすくめた。
すると教室のあちこちでくすくすと笑い声が上がった。
そろそろ登校の混雑時間なのか急に生徒の数が増えてきている。
二人は扉から少し中に入った場所で話をしていて、そのやりとりをみんな興味深げに見物していたのだ。
「で、レイのお兄さんがアタシの何の用?」
「レイは今日、休みなんだ。風邪で」
「えっ、大丈夫?熱が高いの?」
「微熱なんだけど、無理したら結構引きずるから…。で、あ、あの、レイから預かってきたんだ」
シンジは手に持っていた学生鞄から大きな封筒を取り出した。
それを受け取り、アスカはちらりと封筒の中身を確認した。
約束のペン習字の練習本のようだ。
「アンタ、中身見た?」
シンジは物凄いスピードで首を左右に振った。
「OK。それじゃ、先生に休みって伝えればいいのね」
「あ、それはもう職員室で言ってきたから」
「わかった。じゃ、レイによろしく。アリガトって言っといて」
「うん。それじゃ…」
「あ、待って」
待ちます。
シンジは踵を返す途中で急停止した。
自席に戻ったアスカは鞄からあるものを取り出した。
一瞬、アスカの席の周りからざわめきが消えた。
それが何故消えたのか彼女は意識していない。
まさか自分が鞄から取り出したものを見てのこととは思いも寄らなかったのだ。
静寂はアスカが移動するに従い教室中に広がっていった。
生徒たちの視線は彼女の持つものに集中している。
あれって、まさか。
あれはあれだよな。
色鉛筆のセット…じゃないわよね。
日本製じゃないぞ、あんなの見たことない。
舶来のチョコか?そうなのか?
チョコレートよね、あれ。
まっ、大胆!やっぱり外国の人って大胆!
でも…。
最後の“でも”だけは全員に共通していた。
生徒たちは唖然としてアスカを見送っている。
でも、どうして碇の兄貴なんだ?
そう、シンジでさえそう思ったのだ。
どうして、僕なの?
どうして貰えるんだ、この僕が。
シンジは全身の神経が硬直してしまったように感じていた。
あと5m…3m…2m…。
「はい、これ。アンタも食べていいよ」
アスカは小声で言った。
その言葉を近くにいたものは確かに聞いた。
だが伝言ゲームは間違って伝わるものと相場が決まっている。
他のクラスにこの情報が伝わった時には、「はい、これ。あなたが食べてよ」となってしまっている。
ただシンジはさすがに聞き違えていない。
しかし、身体は動かない。
アスカは眉を顰めた。
「何してんのよ」
気の短いアスカは彼の手をとった。
その時、彼女以外の人間はすべて息を飲んだ。
ただシンジだけは喉が渇ききっていたために、しゅうぅと奇妙な音が出ただけだ。
アスカは彼に無理矢理チョコレートを握らせた。
「ちゃんとレイに渡してよね。お見舞いなんだから」
この声はシンジ以外には届かなかった。
何故なら二人の距離が接近していたからだ。
意図的なものがない限りその近さでギャラリーに聞こえるほどの声を出すわけがない。
そのギャラリーたちは何を喋っているのか、それこそ耳をダンボにしていたのだがもちろん断片的にしか聞き取れなかった。
しっかり聞き取った唯一の人物であるシンジは何とか言葉を振り絞った。
「う、うん。ありがとう」
「よしっ。ほら、早く自分の教室行かないと拙いんじゃない?」
確かに拙い。
予鈴が高らかに鳴っている。
「あ、わわわっ」
急にスイッチが入ったおもちゃのようにシンジは動き出した。
くるりと背中を向けて扉から飛び出していく。
あの勢いでは自分の教室も通り過ぎていまうのではないかというくらいの勢いで。
「ははは、馬鹿みたい。ねぇ、ヒカリ」
明るく笑ったアスカはまるで彫像のように自分を見ているヒカリと、その他大勢のクラスメートを見たのだ。
「な、なんですってぇ!」
アスカが日本における聖バレンタインデーの風習を知ったのは遅かった。
何と6時間目が終わった時である。
つまり放課後だった。
まさかアスカがチョコレートの意味を知らないなど、誰も考えていなかったからだ。
朝一番早々にみんなが見ている前で堂々とチョコレートを渡すなどとは、さすがに外人は凄いとみんなは唸っていたのである。
ただその相手が碇シンジという点だけが引っかかっていたのだが、そこはアスカが彼の妹といち早く仲良くなっていたということで納得せざるを得なかった。
もしかすると土曜日の午後や日曜日に交流があったのかもしれないと思うしかなかったのだ。
もちろん、シンジのクラスでは彼に集中的に質問の砲火を浴びせている。
しかし、碇シンジ。
朝からずっと心はあっちの世界に旅立ってしまっている。
トウジやケンスケに詰問されても生返事しかしないのだ。
ただチョコレートの入っている学生鞄を肌身離さず持っているというところは呆れを通り越し微笑ましくもあったのだが。
何しろトイレにまで鞄を持参していたのだから。
そんな彼を見て、いや見ずとも噂を聞いて第壱中学の男子はみな夢を抱いた。
まったく目立ったところのない男子が金髪美人転校生にチョコレートを貰ったのだ。
金髪美人転校生は残念ながら現在独りしかいないが、美人、若しくは可愛い女子中学生ならば何人もいる。
もしかすると自分にも幸福が訪れるかもしれない…。
彼らが甘い夢を抱いたのも当然だろう。
このアスカの行動は男子だけではなく女子にも勇気を与えた。
チョコレートの準備はしたものの渡せずに済ませてしまうというのは多々あることだ。
義理チョコという制度がある時ならそれに紛れる事もできようが、この時期は本命しかないのである。
チョコを持っているということはすなわち誰かに愛の告白をするということに直結するのだ。
しかし、予鈴前に堂々とチョコレートを渡したという情報はチョコを持って登校した女子を勇気づけた。
この日、例年よりもチョコ授与件数は大幅にアップした。
それにもかかわらず、ここに一人、未だに足を踏み出せないでいる女子がいた。
彼女、洞木ヒカリは思いつめた表情でアスカに話しかけた。
担当場所だった理科室の掃除も終わり、二人きりになった時だ。
チョコレートを渡したい相手がいるのだがどうすればアスカのように渡せるのだろうかと彼女はようやく質問した。
するとアスカはけろりとした顔で相手に突きつければ受け取るではないかと答えた。
それができないから訊いてるのではないかと言われ、アスカは怪訝な顔をする。
何か、どこかが食い違っているような気がしてきたのだ。
そしてヒカリに訊いてみた。
もしかしてチョコレートには特別の意味があるのか、と。
その答を聞いて、あのように叫んだわけだ。
アスカは慌てた。
チョコレートにそんな意味を込めるなんて日本人は何ということをするのか!
聖バレンタインデーはそんな日ではないとヒカリに力説するが、彼女はきょとんとした表情で逆に呆気に取られている。
外国から入ってきたイベントだとみんなが信じ込んでいたからである。
「それじゃ…、もしかして、アスカが渡したチョコレートって…」
「あれはレイへのお礼とお見舞い!アイツには!あの馬鹿には!あの馬鹿はただの配達を頼んだだけじゃないっ」
「でも、食べていいって」
「い、い、言ったけど、それはっ、あくまでっ、配達のっ、そのっ、えっとっ、何だっけっ、ああ、日本語が出てこない!」
「お駄賃?」
「それ、それっ!」
ボイディーランゲージも凄まじく、彼女から半径1m以内には近づけないヒカリが助け舟を出すとアスカはぴしりと人差し指を突きつけた。
「で、でも、絶対に彼、誤解してるわよ」
「ど、どうしてよ。お礼だって言ってるじゃない」
「だって、相手がアスカだもん。あなたみたいな女の子からチョコ貰ったら無理矢理にでもいい方に考えるわよ、普通」
「い、いい方って?」
「ええっと、例えば、照れてしまってお礼を言い訳にしたとか」
「照れた人間が衆人環視の中でそんな意味のあるものを渡すかってのよっ!」
アスカは肩で息をしていた。
生まれてこの方14年。
未だに初恋をしたことがない彼女である。
それなのに今朝、彼女は愛の告白をしたことになってしまった。
これは拙い。拙すぎる。
何とか名誉回復をしないといけない。
しかも、今すぐ!
そして彼女は思いついた。
「ヒカリ?あんた…」
アスカはにやりと笑った。
まさに肉食獣の笑みである。
ヒカリは一歩足を引いた。
アスカは一歩前に踏み出す。
逃がしてなるものか。
自分の陥った窮地を脱するには協力者がいる。
証言と、そして…。
「あんた、チョコ持ってるわね?」
頷くしかない。
嘘を言えば喰われる。
チョコではなく、自分が。
ヒカリは頷くと同時に制服のポケットを無意識に押さえてしまった。
そこに入ってますと自白したも同然だ。
アスカはさらに笑みを深めた。
「OK。で、渡す相手は誰?何年何組?」
「そ、それは…」
「時間がないの!早く言ってっ!」
「1年9組14番鈴原トウジくん!」
言ってしまってから、ヒカリは自分の口を押さえて頬を真っ赤に染めた。
その返事を聞き、アスカはこれは幸いとにんまりと笑う。
同じクラスとは都合がいい。
「行くわよ、ヒカリっ!」
がしっと手をつかまれたヒカリは慌てふためく。
「ど、どこに?」
「はんっ!1年9組に決まってんでしょ!」
「ええっ。ま、待って!」
「待つもんですか。名誉回復しないといけないのよ!」
アスカはずんずん歩きはじめた。
左手にヒカリの手を引っ張り、右手で理科室の扉を開ける。
「9組はどっち?」
「2階っ」
すかさず答えてしまい、ヒカリは慌てる。
恥ずかしい。
恥ずかしくてたまらないが、足は前に進むし行き先を答えてしまっている。
行くのがいやだったらその場に座り込んでしまえばいいのだ。
それもせずにアスカに同行しているということは…。
心の底ではヒカリも覚悟を決めたということなのだ。
いざ行かん、小学校6年生からの想いを告げに。
教室の前でヒカリは思わず足を竦めてしまった。
覚悟は決めているのだが、やはり目前に迫ると躊躇してしまう。
しかし、アスカはそんな事を言っていられないのだ。
「何してんのよ、行くわよ」
「も、もしかして、もう帰ってるかも?」
「じゃ、急がないといけないじゃない!」
確かにそうだ、もう放課後なのである。
シンジに帰られてしまったら名誉回復ができないではないか。
もうヒカリのことを気にしていられない。
アスカは勢いよく9組の扉を開けた。
瞬間、9組の教室から音が消えた。
扉を開けたのが噂の金髪美人転校生…誰も惣流という名前で記憶していない…とわかり口を噤んだからだ。
教室の中には十数名の生徒が残っていた。
いつもよりもこの人数は多い。
何故なら今日は聖バレンタインデーだから。
もしかしたら…という希望を込めて、帰宅し損ねている男子とチョコを渡すタイミングを計っている女子と、そして野次馬たちである。
彼らはアスカを見て大いに驚いた。
しかも感情的になっているアスカは吼えてしまった。
「馬鹿シンジ!出てきなさいよっ!」
彼らは顔を見合わせた。
一緒に帰ろうという誘いなのか?
もしそうなら何と大胆な訪問だろうか。
やはり外人は日本人とは違うのだ。
アスカは教室を見渡す。
しかし、肝心の彼の姿は見えないではないか。
「ちょっと!アンタたち!シンジはどこっ?隠すとためになんないわよっ!」
仁王立ちして叫ぶ彼女の前に歩み寄ったのはトウジだった。
もし彼女の背後にいるのが誰だかわかっていれば、今日の彼の場合は躊躇ったはずだが。
「すまんけどな、センセ…いや、シンジは帰ったで」
「帰ったですってぇっ!アタシの許可もなく!」
興奮しきってしまったアスカは言葉の選択を大いに間違えている。
事実、これ以降、碇シンジは金髪美人転校生=惣流アスカの所有物というイメージが植えつけられてしまったのだ。
「お、おう。チョコの入った鞄抱きしめて突っ走って帰ったぞ」
「くぅっ」
アスカは顔をしかめた。
これで取り返すことはできなくなってしまったのである。
レイへのお礼とお見舞いという意味でのチョコレートを引っ込めるつもりはない。
それは日を改めて渡せばいい。
今日のこの日、聖バレンタインデーの祝日に、男子の手に渡さなければそれでよいのだ。
それがアスカの考えていたことだった。
しかし、もうどうにもできない。
例えレイの家に行きチョコを取り返したとしても意味がないのだ。
みんなの見ている前で誤解を解かないといけないからだ。
証人がいないところで何をしようが無駄である。
取り返してきたと言い触らしても言い訳にしかならないことをアスカは察知していた。
もう駄目だ。
既成事実、というものが重く彼女の肩にのしかかってきた。
アスカは超特大の溜息を吐いた。
とにかく今日はもう何もできない。
明日から誤解を解いていくしかないわけだ。
仕方がない。
彼女は気持ちを切り替えた。
「ところで、鈴原って男子はいる?」
「へ?」
狐につままれたような顔でトウジは呆気にとられた。
「聞こえなかった?鈴原って名前の男子。いるの?いないの?さっさと答えなさいよ」
言い募るアスカの袖を引く者がいる。
背後にいるのはヒカリのはず。
ちらりと振り返ると、真っ赤な顔をしたヒカリの唇が動いた。
か、れ、と。
えっ、こんなヤツを?
瞬間そう思ったものの、アスカはまあいいかと思い直した。
きっとヒカリにだけわかる、そんないいところがこの男子にあるのだろう。
「アンタが鈴原?自分の名前もわかんないわけぇ?ま、いいわ。アンタに用だってさ」
アスカが身体をずらすとトウジの目が大きく見開いた。
後にもう一人女子がいるとは知っていたものの、まさかそれが洞木ヒカリとは思いも寄らなかったのだ。
何故なら絶対にそんなはずはないと諦めていた女性だからっである。
アスカは彼にだけ聞こえる声で言った。
「アンタ、突っ返したらぶっ殺すわよ」
すると、トウジはこわばった顔のまま、大きく頷いた。
その表情を見て、なんだそういうことか、とアスカはがっかりした。
何のことはない。
カップル成立…。
アスカは振り返った。
「ヒカリ、じゃあね。アタシ、帰るから」
「あ、アスカ、ありがとう…」
ヒカリの感謝にアスカは微笑みで答え、二人で来た廊下を一人で歩いていった。
よかったじゃない、ヒカリ。
彼女は心の中で呟いた。
温かい気持ちが心に満ち溢れる。
アスカはゆっくりと廊下を歩いた。
教室をひとつ通り過ぎてから肩越しに後を見ると、顔を真っ赤にした女子と男子が向かい合っている。
そして二人の間には小さな包みが見えた。
なにやら二人の周りが淡くピンク色に見えてくる。
何と気持ちがいいのだろう。
アスカは再び歩き出した。
聖バレンタインデー。
殉教した聖人は、その祝日が遥か極東の地で奇妙なイベントに摩り替わっていることをどう思うだろうか。
日本人というものは何といい加減で、それでいてロマンティックなんだろうか。
自分もいつの日か…ああ、違う。
何年後かの聖バレンタインデーに、好きになった男の人へチョコレートを…。
アスカの足がぴたりと止まった。
そして右足を廊下の床にじりじりじりと押し付ける。
そこに何かがあるかのように。
いや、今日碇シンジにチョコレートを渡してしまったと言う事実を彼女は踏みにじったのだ。
何ということだろう。
初恋の味も知らぬうちに愛の告白をしてしまった。
許せない。
こういう場合は、彼の方から今日はこういう日なのだがそれでいいのかと言うべきではないか。
彼は日本人で日本生まれの日本育ちなのだから。
聖バレンタインデーの日本独特の風習について、外国から来た自分に説明する義務があったのだ。
うんうん、その通りだ。
悪いのは、碇シンジ。
この名前を絶対に忘れない。
アスカは廊下の前方を睨みつけた。
彼女はシンジのことを思い出そうとした。
会ったのはたったの2回。
いずれも記憶にあるのは、おどおどぐずぐず、情けなくて頼りなくて、いい印象は欠片もない。
とてもレイの血を分けた兄とは思えない。
ええいっ!憎らしいヤツ!
この屈辱、この汚名、この誤解、みんなまとめて絶対に晴らしてやる。
待ってろ、馬鹿シンジ!
廊下の向こうに築いた彼のイメージを彼女は睨みつけた。
「はんっ!」
一声高く気合を漏らすと、憤然たるアスカは廊下をずんずんと歩いていった。
<あとがき>
少しだけ。
今の若い人たちには本命チョコしか存在しないバレンタインデーを想像できますか?
その結果、2月14日の学校という空間がどんなにデンジャラスだったか。
誰でもいいからチョコを頂戴!なんて絶対に考えられないのですから。
好きなあの子からのチョコでないと、ね。
ですから事前リサーチで○○さんが△△にチョコを渡すらしいとわかった時には、△△は逃げ惑います。
でも中には家まで追いかけていったりします。
男も女も本当に一生懸命でした。
両思いになってハッピー!なんて本当にごく一部です。
あ、それは今も同じでしょうかね(微笑)。
後編はホワイトデーが主たる舞台になります。
感想などいただければ、感激の至りです。作者=ジュンへのメールはこちらへ 掲示板も設置しました。掲示板はこちら |