聖バレンタインデーの朝、碇シンジにチョコレートを渡してしまった惣流・アスカ・ラングレー。
ドイツからやってきた金髪美人転校生は日本独特の聖バレンタインデーの風習を知らなかった。
チョコレートを取り返そうとしたが時既に遅し。
シンジは帰宅してしまっていたのだ。
幕間話はその日の夕方に始まる。
ー 1977 2月 ー
2009.02.19 ジュン |
「お兄ちゃん、まさか本気にしてないでしょうね」
布団に横になっているレイがじっとシンジを見つめた。
兄は妹の視線を避けて、天井を見上げる。
「わかってるよ。からかったんだろ、僕のこと。どうせそんなことだよ」
「違う。きっと、違う」
「どう違うんだよ。もてそうもない僕にチョコを渡してからかったに決まってる」
「お兄ちゃんの馬鹿」
「どうして馬鹿なんだよ。他に考えようがないだろ」
レイは視線を彷徨わせた。
確かに現時点では他の考え方が難しい。
ドイツでも、というより、日本が西洋と同じような習慣を輸入したものだとみんな思い込んでいるのだから。
「で、食べるの?」
「僕も食べていいって言った」
「食べたい?」
シンジは妹を睨みつけた。
わかってる癖にという思いからだが、この兄は妹との睨みあいで勝った事がない。
いつも負けてしまうのだ。
だが彼は知らない。
睨みあいでは負けるのだが、優しく接すると妹は何でも言うことを聞くという事を。
そういう処世術を覚えないところが彼らしいとも言えるし、逆にもし意図的にそうしているのであればレイは言うことを聞かないだろう。
「そりゃあ…やっぱり…」
シンジは肩を落とした。
「食べたいよ」
シンジは布団から出しているレイの手に持たれたチョコレートを見た。
まだ封を開けられていないそのパッケージにはオレンジの絵が描かれている。
どうやらオレンジのジャムが挟まれているチョコレートのようだ。
「じゃ、半分あげるね」
「一欠けらでいいって」
「可愛くないわね、お兄ちゃんは」
レイは馬鹿にしたように言うと、チョコを頭の上の方に置いた。
「妹に可愛いなんて言われたくない」
「まったく。私のお兄ちゃんのとりえは可愛いってところなのに」
「ば、馬鹿にするなよ。男なのにっ」
「あら、知ってるでしょ。お母さんの口癖。あのお父さんのことを可愛いって言ってるの」
「冗談じゃないか。あんなの」
「違うわ。私も思うもの。お父さんは可愛いって」
「わかんないよ、もう…」
シンジは溜息混じりに後手を身体の支えにして天井を仰いだ。
家族の妹や母親でさえわけがわからないのに学校の女子など余計にわかる筈がない。
レイは優しげに微笑む。
こういうところは父と息子はよく似ている。
自分の鈍感さを嘆いているところなど無性に可愛いではないか。
ことにそれが無意識だけに尚更だ。
その時、闊達な足音が響いてきた。
あんなに調子のいい階段の上り下りをする人物は碇家では一人しかいない。
その家族一元気な人物が扉を開けた。
「ただいま。どう?熱下がった?」
「おかえりなさい。7度2分」
「そうか。もう一息ね。こら、息子。お母さんにお帰りの挨拶は?」
「おかえり」
「もう、この子ったら。あっ、そこに見えるはチョコレート。あらら、輸入ものとは豪勢じゃない?」
碇ユイは目ざとく枕のそばに置かれたチョコレートを発見した。
「誰の?お母さんも食べていい?」
「食いしん坊ね、母さんは。駄目。私とお兄ちゃんにって貰ったんだから。ねっ、お兄ちゃん」
レイはわざとらしくシンジにウィンクした。
こうすれば母親は確実に食いついてくる。
どこの誰がシンジにチョコレートを渡したのかと気になるはずだ。
好奇心旺盛なことにかけても家族一のユイなのだから。
しかし、ユイは真正面から食いついてこなかった
「ふ〜ん、兄妹あてにね。もしかすると贈り主はクリスチャン?」
「さあ、もしかするとそうかもしれないけど…、どうして?」
いつもと違う母親の反応にレイは不審がる。
昨日の夕食の時に父親宛に超特大のチョコレートを準備しないとと一人で盛り上がっていたユイなのだ。
シンジを好きになった女の子が出現したのかとか、どうしてレイにもなのかとかの質問が先に出るべきところだ。
それがいやに冷静な調子で言葉を発したのだから、レイだけではなくシンジもまた母親の顔を見上げた。
扉のところに立つユイは兄と妹の視線を受けて満足気に頷いた。
「衝撃の事実!バレンタインデーにチョコレートを渡し愛の告白をするというのは、なんと日本だけなのでした!」
チョコレートにぴしりと指を差したユイはどんなものだと笑顔を見せた。
その発言を聞き、シンジもレイも当然驚いた。
そんなことは初めて聞いたのだ。
となると、アスカが渡したチョコレートの意味は明白になってくる。
シンジはそういうことかと胃の辺りが重くなってくるのを感じた。
そしてレイの方はその情報の信憑性を尋ねた。
その質問に対しユイはこのように答えた。
ユイの実家はレコード店や音楽教室を経営している。
10年ほど前にこの近辺が開発されて大きな団地ができたので、その近くに隣町に住んでいたユイの親が店を出したのだ。
それは商売のチャンスと思ったのもあるだろうが、一人娘の家計を助けようという親心もあったのは確かだ。
ゲンドウの習字教室だけでは当然一家を支えることはできない。
碇家の一人娘のユイは夕方までレコード店の店番などをして家計の足しにしているわけだ。
今日も彼女は小春日和の中、半ば居眠りをしながらレジのところで座っていた。
すると隣の赤木書房の女主人が駆け込んできたのである。
赤木ナオコはユイの手をとって助けてくれと頼んだのだ。
「今、外人が店の中を15分もうろうろしてるの。どう見ても本を探してるみたい。ねっ、相手してよ、ユイさん」
ナオコは英語がさっぱりできない。
短大に通っている娘は不在だから、開店以来初めて訪れた外人の姿を見て彼女はパニックを起こしてしまったようだ。
まさに黒船来航レベルのショックを受けたわけだ。
ギブミーチョコ世代のユイはそれなりに英語の教育を受けている。
戦中教育のナオコは敵性語ということで英語は不得意だったのだ。
もっともユイにしても英語に堪能なわけではないが、困っているナオコを見捨てるわけにはいかない。
それに好奇心もある。
わかったと胸を叩いてユイはナオコを従えて隣の店に向かったのだ。
しかし冷静になってみればわかることである。
洋書など1冊もあるはずがない町の本屋で、日本語がわからない外人が長時間探し物をするわけがない。
気負って到着したユイだったが、日本語で問いかけられて少しがっかりした。
手助けしましょうか?という英語は何だっけと考えながら赤木書房に入っていっただけに大いに腰砕けだ。
彼女は『太陽にほえろ!』が載っている本はないかと質問してきたのだ。
日本に戻ってきたばかりでテレビ番組がよくわからない。
娘とこの番組を見て面白いと思ったので、基本設定を知りたいと思ったらしい。
そのために本屋を訪問しあれこれ検分したのだがこれといった本が見当たらない。
そこで店主に質問しようとしたのだが、彼女は必死に目を合わせないようにしたばかりかついに逃げ出してしまったのだった。
「なんだ、そうだったの。だったら早く言ってくれたらいいのに。ああ、でも駄目ね。小説は取り寄せだし、明星も平凡も特集はしてないわね」
先ほどまでの逃げ腰から打って変わった様子の赤木書房だったが、目的の本がないとなれば金髪の女性は肩をすくめるしかない。
お騒がせしましたと店を出ようとした時、ユイが彼女を呼び止めた。
「そうそう、うちの店にいいのがあるわよ!」
ユイは得意気な顔をした。
「でね、レコードをお買い上げいただいたのよ。しかもLPの方。で、その時にね、いろいろとお喋りして。バレンタインのこと教えてもらったのよ」
「それって冗談じゃなくて本当に本当?」
「そうなのよ、母さんもびっくり。ヨーロッパにはそんな風習ないんだって。きっとこれはお菓子会社の陰謀ね」
洞察力が凄いのか、それともまぐれか。
日本流バレンタインの本質を見抜いたユイだったが、兄妹にとってそれはどうでも良いこと。
問題はこの部屋にある、メイド・イン・ジャーマンのチョコレートにはお礼とお見舞い以外の意味はこれっぽっちも含まれていないということなのだ。
からかいや悪戯、そんなものが少しでも入っていた方がまだいい。
シンジにすれば、自分のことは彼女にとって完全に配送人にすぎなかったということになる。
これはショックだ。
そのショックはさらに大きなショックに上塗りされる。
「ということは、お母さん?アスカも知ったということよね。日本のバレンタインのこと」
「その人があなたのお友達のお母さんって決まってはいないんじゃない?だからあえて質問しなかったんだけど」
ユイは嘘を言った。
金髪美人客が帰ってから思い出したのである。
本当のことを言えば、子供たちにやいのやいのと言われるに決まっている。
だからすっ呆けていようと決めていたのだ。
「この町で引っ越してきたばかりの外人さんって何軒もないでしょう。気の強そうな美人だったら、アスカのお母さんに違いない」
「美人は美人ね。気は強そうだし、うん、気も短そう」
「じゃあ、アスカのお母さんよ。間違いないわ」
「あら、そう。だったら思い切ってそうですかって訊いてみればよかったわね。ははは」
ちらりと娘を見ると、明らかに疑わしげな目で布団の中から見上げている。
慌てて目を逸らすと、息子の方は何の疑いも持たずにそうだったんだと相槌を打っている。
そこで彼の方に話題を振ったユイである。
「で、うちの息子はその女の子に一目惚れしたってこと?」
「な、なに、馬鹿なこと言ってんだよ。そ、そんなことあるもんか」
いきなり飛び火してシンジは逃げ出そうとするが座っていた場所が悪く、扉の前に陣取っている母親が邪魔で再びお尻を畳につける。
「おやおや図星か。相変わらずババ抜きに弱そうね」
母親にニヤニヤ笑われ、シンジは腹が立ってきた。
他の男子に比べるとかなり微弱ではあるが、彼とても反抗期に入っているのである。
しかし碇家の二人の女性に挟まれては立腹し席を立つことは到底できない。
ううむとどうしようかと考えるものの、こういう時は彼の性格が邪魔をする。
目の前の問題から逃げて別のことを考えるのが彼の悪き癖だ。
この時もいかにして逃走するかということではなく、いつしかアスカの母親について考えてしまった。
彼女のお母さんなのだからきっと美人なのだろう。
大人だからもっと綺麗なのに違いない。
身体の方も…と意識が向かって、慌てて彼は方向を修正した。
身内の、しかも女性の前で考えることではない。
そして、大変なことに気がついたのだ。
「か、母さん!もしかしてレコードってどれ売った?」
「どれ?」
レイと話をしていたユイは面倒臭げに顔をシンジに向ける。
因みに彼女は『太陽にほえろ!』にはそれほどの興味はない。
石原裕次郎や加山雄三といった大スターは彼女の嗜好に合わないのである。
「LPなんだろ。まさか一番新しいのじゃないだろ?あれは拙いよ!」
「何言ってるのよ。拙いって何?スコッチ刑事って一番新しい人でしょう?そのテーマが入ってるのでいいじゃない」
「ああっ、駄目だぁ」
シンジは肩を落とし、ユイは息子の反応に少し不安になる。
その不安を確定したのはレイだった。
「お母さんのミス。あのアルバムは問題があるの」
「そうだよ、待ってて。持ってくるから」
ここぞとばかりにシンジはレイの部屋を脱出した。
一度は成功したとニヤリとしたものの、部屋にあるLPを持って戻らないといけないことに気がつきがっくりときた彼であった。
その頃、惣流家では二人の女性が居間のステレオの前で膝を抱えていた。
ステレオのある部屋に応接セットはないので、畳の上ではこういう姿勢をするしかないのである。
特にアスカは正座が苦手なのでこうなってしまうのだ。
LPレコードを購入して意気揚々として帰ってきた惣流キョウコだったのだが、娘がかなりの不機嫌モードに入っているのでまずはその理由を尋ねたのだ。
その話を聞いた彼女が畳を叩いて笑い転げたので、アスカはさらに腹を立てた。
そして日本が悪いという演説を彼女は行い、笑いすぎて涙を浮かべながら母親はそのご高説を聞いていた。
今夜のおかずはカレーライスなので既に準備済みだ。
だから食事の時間まで娘の相手をしようとしていたのであった。
そういった二人の様子を惣流家の男どもは離れた部屋で窺っている。
アスカの祖父のトモロヲは自分の居室で。
彼女の父にしてキョウコの伴侶でもあるハインツは食堂で。
彼らは低気圧吹き荒れるアスカには対処できないのである。
帰宅してきたキョウコはそのことを夫に聞くが、馬鹿らしいと一言言い捨て娘の部屋に向かったのだ。
そしていいものがあるから来なさいと居間に連れ込んだのである。
不承不承居間についてきたアスカは、愛の告白と同一視されるバレンタインのチョコレートをある男子に渡してしまったのだと話した。
しかし、その結果が母親の爆笑なのだから彼女が荒れ狂うのは仕方がないだろう。
キョウコはレコード店でユイ(とは名前まで知らないが)から日本のおかしな風習のことを聞いている。
だからその風習に娘が知らずのうちに足を突っ込んでしまったのだから笑う他なかったのだ。
やがて日本誹謗の嵐が一旦収まったアスカは、今度は母親にその刃を向けた。
娘が屈辱を受けたのにその態度は何かというわけだ。
すると娘の扱いに慣れているキョウコはあっさりと「ごめん」と謝る。
謝罪されてしまうと戸惑ってしまうのがアスカだ。
言い訳を少しでもするとさらに燃え上がってしまうのだから、ただ謝るだけというのが最上の策なのである。
「それよりこれ聴かない?レコード買ってきたのよ」
「見りゃわかるわよ」
アスカは素っ気無く言った。
因みに惣流家では基本的にドイツ語を禁止している。
これからずっと日本で暮らすのだから日本語で話すのだと家族で決めているのだ。
もっともそれで苦労しているのはドイツ語歴38年のハインツ一人だけなのだが。
「ほら、『太陽にほえろ!』。最新アルバムらしいわよ。これ見ればいろいろわかるわよ」
袋から出されたのは夜明けの太陽の写真がジャケットに使われた、全体的に黄色っぽいLPレコードだった。
「ふふん、アタシもう全員の名前とニックネーム知ってるもんね。友達に教えてもらったの」
自慢げに胸を張るアスカを見て、キョウコは悔しげな表情を浮かべる。
「ふん、これを見れば私だって」
ユイ(とは名前まで知らないが)から中のライナーノーツに刑事の紹介があると聞かされていたのだ。
キョウコはレコードより先にライナーノーツを引っ張り出した。
しかし計4ページあるそれには俳優の写真は一枚もない。
曲名とバンドのメンバー、それに楽譜だけだ。
人物写真は作曲者のもののようである。
少なくともテレビで見た刑事の中にこんな顔はいなかった。
この内容を見て、キョウコは少しむっとした。
騙された、と思ったのだ。
「何も載ってないみたいね、ママ」
「畜生」
「ふふん、じゃ聴きましょうか、レコード」
母親が不貞腐れたのでアスカは少し機嫌がよくなった。
彼女の名誉のために補足しておくが、アスカが意地悪な性格をしているということではない。
ついさっき自分のことを大笑いされたので少しでも溜飲を下げようということなのだ。
勝手にすればと母親は言うが席を…ではなく座布団からお尻を上げないということはレコードを聴きたいという気持ちがあるからだろう。
アスカはステレオにレコードをセットし針を落とした。
しかしすぐに曲は始まらない。
聞こえてきたのは音楽ではなかったのだ。
「これ、波?」
「海の音?」
ドイツ南部に育ったアスカは海とは縁がない。
しかし大きな湖に休暇で行くことはあったので、さざなみの音くらいはわかった。
「みたいね。ジャケットは海も写ってるから」
キョウコはそんな事を言いながらも首を傾げる。
まさか突然俳優が喋ってくるとかそういうことになるのではないかと不安になったのだ。
サウンドトラック盤と明記されていても曲だけではなく台詞なども入っているものがあることを彼女は知っている。
その類のものかとライナーノーツを見るが、A面は“組曲”となっていた。
「組曲ということは音楽ってことね」
「あ、微かに…」
アスカが言うとおり、音楽がフェードインしてきた。
その後しばらく二人して黙って曲を聴いていたのだが、アスカが口を開いた。
「何か面白くない」
「そうね。まあ、もう少ししたら曲調も変わるんじゃない?」
しかし、ゆったりとした曲は2曲目も変わらず、3曲目も同様だった。
二人はもうレコードそっちのけで会話を始めていた。
本屋とレコード屋がどこにあるのかということや、品揃えがどうかということだ。
一番近い店がそこなのでアスカとしても気になるわけだ。
大きい店ではないが、それなりに品揃えは良さそうだと聞き、アスカは一度店を覗いてみると言った。
「あれ?終わったのかしら」
いつの間にか曲が終わっていたが、針がターンテーブルから離れた様子はない。
「まだあるみたいよ、えっと4曲目っぽいから、次は“逃走と追跡”ですって」
「でも何も…。ん?鳥の鳴き声?」
「わかんない。大きくしてみよ…」
アスカはボリュームをあげた。
その瞬間だった。
いきなり、左右のスピーカーから悲鳴が飛び出してきたのだ。
『ギャアアアッ!』
そしてアップテンポの曲ががんがんと響いてきた。
慌ててアスカがボリュームを落とすと同時に、惣流家男性陣が部屋に飛び込んでくる。
悲鳴はレコードからだとわかり、ハインツとトモロヲは安心した。
が、キョウコはじろりとレコードジャケットを睨みつけている。
「これって罠?」
「へ?」
「人が外国帰りだと思って、あのアマ、随分と舐めてくれたわね」
やばい、とアスカは感じた。
彼女の喜怒哀楽の振幅がやや激しいのは母親譲りなのである。
しかもアスカほど簡単に発動しないだけに一旦発動するとその幅はかなり大きい。
「えっと、ママ…?」
「年の割りに可愛らしい顔して結構やってくれるじゃない。番組の情報なんて全然載ってないし。
こんなわけもわからない曲の入ったレコードを売りつけやがって…」
「ママ…?あ、あのさ。そうだ、パパ?」
父親に助けを求めようとしたアスカだったが、いつの間にかハインツだけではなくトモロヲまで姿を消している。
何ということだ。
こんな状態の母親と二人きりにするなんて!
おお、神様、お許しください。
これは聖バレンタインデーの祝日にとんでもない日本の風習に身を染めてしまったことへのお怒りなのでしょうか。
でも違うのです。
あれは知らないでしたことですから、このアタシをママの巻き起こす嵐の中からお救いください。
お願いします。
「アスカ、電話帳持ってきなさい」
「は、はい!」
キョウコはレコードの入っていた袋を掴み店名を睨む。
居間を飛び出したアスカは電話帳がどこにあるのかわからなかったが、トモロヲが廊下の電話台の下から取り出しこれじゃと手渡す。
がんばれよと孫を突き放した薄情な祖父を恨めしげに見るとアスカは居間にとって帰す。
「遅い」
「そ、そんな」
「さっさと調べなさい。あの魔女め。読めない漢字を店名にするなんて!ほら、とっととあなたが調べる!」
「ママが知らない漢字をアタシが読めるわけないじゃない!おじいちゃんに…あ、これ」
母親に突きつけられた袋を見ると、そこには“碇レコード店”“碇音楽教室”とある。
「ふふん、ママ?これはね、イカリって読むのよ。へへ、凄いでしょ、アタシ」
「イカリ?怒ってるのは私の方よ!」
「あ…と、もしかして…」
アスカの頭に碇レイの顔が浮かんだ。
続いて碇シンジの顔も浮かんだが、そっちは掴んで引き千切って足で踏んづけてやった。
「友達の家?かも」
「なんですって!アスカ、あなた、魔女の娘と仲良くなったの?私はあなたをそんな娘に育てた覚えはありません!」
「いや、違うかも…」
と言ったものの、こんなに珍しい苗字はそう再々ないだろう。
「いいわ。電話する。思い切り怒ってやる。アスカ、電話番号!」
「や、やめとこうよ、ママ」
アスカは電話帳を背後に隠した。
母親の怒りはよくわかるが、できたばかりの友人を失くしたくはない。
しかし、その兄貴の方ならば我が母親の怒りに巻き込まれてしまえばいいと思った。
彼だけを呼び出して、彼がすべての責任を負って、この世から消えてしまえばいい。
惣流キョウコならばそれくらい可能だ。
だが、そんな都合よくできるわけがない。
とりあえず、母の怒りを静めようと方向性を決めたその時だった。
ピンポン。
玄関のチャイムが鳴った。
腰を浮かしたアスカだが、母親に睨みつけられているのでそこから動けない。
電話帳を調べろと低い声で命令するキョウコにもう閉店時間だろうといい加減なことを言う。
まだ6時前だし閉店時間かどうかは電話をしてみればわかることだと母親は合理的に切り返す。
「おい、キョウコ。碇レコード店さんからお詫びに来たぞ」
顔を覗かしたトモロヲがそんなとんでもないことを告げた。
「誰が来たの?」
祖父に問いかけたアスカは一瞬レイではないかと思ったのだ。
シンジの顔は先ほど掴んで引き千切って足で踏んづけたので頭に残っていなかったのである。
「うむ、お前と同じくらいの年恰好の…」
「あっ、じゃレイだっ。アタシ、出る!」
部屋から飛び出していったアスカを見送り、トモロヲは独り言のように呟いた。
「アスカのやつ。いきなりできた友達が男か…?」
玄関先に駆けつけたアスカはそこに立っている者をみて急ブレーキをかけた。
そうだった。
レイは病気で学校を欠席していたのではないか。
となると、ここに現れるのは彼女の兄であっておかしくない。
その碇シンジは引きつった笑顔を浮かべていた。
「ご、ごめんっ。母さんが失敗して変なレコード売りつけちゃって。あ、その前に、ごめんなさい!」
ここまでの道すがらどのように話をしようか考えに考え抜き、結局支離滅裂になっている。
それがシンジそのものといったところだが、彼のことをほとんど知らないアスカにとってはいらいらするだけである。
「ちょっと、アンタ。それより、アタシん家どうして知ってんのよっ。まだ、レイとは住所の交換してないのよっ」
「あ、そ、それは、レイが友達に聞いて。住所を知ってる人がいたから、それで」
ああ、そういえば親しくなった5人の中にこの家を見たことがあると言っていた女子がいたっけ。
なるほどそういうことか。
「そんなことよりもどうしてアンタがっ」
「レイはまだ熱があるし、母さんは晩御飯の準備しないとって。
ぼ、僕だってき、君とどんな顔して話したらいいかわからないからいやだって言ったんだけど」
「アタシの顔なんか見たくないってことぉ?」
言葉尻を捕らえるのではなく、微妙に誤解した風を装って話を進めるのだからシンジが当惑するのは当然だった。
玄関に近い場所に移動して事の成り行きを窺っている、惣流家の大人たち3人はそれぞれ溜息を吐く。
アスカのああいう性格は母親似だなとトモロヲが呟き、キョウコは小声で「何ですって!」と噛みついた。
姑の一言に頷きかけたハインツは妻に横目で睨まれ慌てて顎を上げる。
「ち、違うよ」
「嘘ばっかり。アンタ、アタシの顔を見たくないって言ったじゃない」
言ってません。
キョウコたちは心の中で突っ込みを入れた。
しかし、言われた当人は素直に自分がそんな失礼なことを言ったものだと信じ込んでしまった。
「ご、ごめん。そういう事じゃなくて…えっと、つまり」
「つまり、何?さっさと言いなさいよ!ぐずぐずしてる男なんて大嫌い!」
好かれていないことは承知しているものの、嫌われるのは困る。非常に困る。
シンジは危機を回避するため咄嗟に本音を吐いた。
「つまりっ。惣流さんの顔は綺麗だから、見たくないなんて事は絶対にないですっ」
あらま!
キョウコは廊下に顔を突き出した。
どうしても二人の様子を見てみたかったのだ。
すると案の定、アスカの背中は硬直してしまっている。
可愛い、ならともかく、綺麗、という言葉はドイツでは無縁だった娘だ。
ああ、顔を見てみたい。
好奇心旺盛な母親はそろりと廊下に身体を滑らせた。
その行為がアスカとシンジの関係をこじらせるようになるとは思いもよらずに。
シンジはとんでもない言葉を吐いてしまったと後悔していた。
彼女は怒っているに違いない。
その証拠にちらりと顔を見るとアスカはくわっと目を見開いて自分を睨みつけている。
うわぁ、もう駄目だ。
本格的に嫌われてしまった。
ど、ど、ど、どうしよう!
アスカは信じられなかった。
日本に来てからドイツにいた時とまったく違う自分の容姿についての評判にいささかハイテンションになっていたのだが、
それでも面と向かって同世代の男子にはっきりと「綺麗だ」と言われた事はない。
思い切りシンジを叱りつけてやろうと決めていたのに、今は身体が言うことを聞いてくれない。
頭の中は彼の言葉が飛び交っている。
綺麗だ、綺麗だ、綺麗だ、綺麗だ、綺麗だ………。
こいつ、もしかしたらけっこういいヤツかも…。
レイのお兄さんで、しかも兄妹仲がいいらしいから…。
そもそも今回のことは日本の風習が悪いわけで、こいつとは関係がないんだし…。
そ、そうよね、許してやっても…。
「こんばんは。私、アスカの母親なの」
身体が硬直していたアスカは母親がすぐ隣に現れたことにすぐ気がつかなかった。
逆にシンジの方は話を逸らせるとばかりにキョウコの出現を喜んだ。
「あっ、こ、こんばんは!あの、ごめんなさい!母がとんでもないことをしてしまって」
「まあ、そうだったの?」
おい!
今の今までレコードが原因で荒れ狂っていたのは誰だ?
惣流家の男二人は顔を見合わせ苦笑した。
キョウコは白々しくも満面の微笑でシンジに対している。
その微笑みはシンジを大いに安心させたのだ。
しかし、安心すると失敗するのがシンジの常である。
それを自覚しているからこそ、彼はいつも安全主義なのだった。
その安全主義がキョウコの登場で緩んでしまった。
アスカが怒っているものと誤解したシンジはここぞとばかりにキョウコだけを見て話を始めた。
「母は『太陽にほえろ!』にそれほど詳しくなくて、僕たちみたいに見てないんです。時代劇の方がいいって」
「まあ、若く見えたのに随分と渋いものが好きなのね」
「ええ、そうなんです」
母親がいないのをいいことにシンジは大きく頷いた。
「あの新しいLPには刑事の紹介とかないのを知らなかったんです。それに曲も変な感じで…」
「きゃあ!とか?」
「あ、もう聴いちゃったんですね。ごめんなさい。B面の方はそんなことないんですけど。あ、だから…」
シンジは手にしていたレコード袋からLPを1枚取り出した。
「これは前のなんですけど、これだったら大丈夫です。
ちゃんと写真つきで刑事の紹介もあるし、曲もいい曲ばっかりです」
なるほどジャケット写真からまったく違う。
七人の刑事が並んでいる写真と『太陽にほえろ!ベスト』という題名を見て彼女はなるほどと微笑む。
そして 献上品のように差し出されたLPをキョウコは優雅に受け取った。
「そ、それは僕の…じゃないや、僕と妹のなんですけど、とりあえずこれを聞いてください」
「まあ、ありがとう。貸してくれるの?あなたって優しいのね」
「い、いえ、そんなことないです」
シンジの頬はもう真っ赤っか。
それはそうだろう。
彼が映画の白人女性に憧れていたことは前に記したが、だからこそアスカにノックアウトされたのだ。
しかしアスカは彼と同世代である。
彼女の母親は大人の女性だから、アスカ以上に出るところは出ていて、色気ももちろん娘よりは遥かに強い。
その上、彼に対して優しく微笑んでいるのだから堪らない。
シンジが逆上せあがってしまうのも無理はないだろう。
何しろこの時点では彼とアスカの関係は妹のクラスメートという域から出ていないのだから。
「ありがとう。遠慮なく貸して貰うわね。買ったものはそのままでいいわ。お母様、知らなかったんですものね」
「本当ですか!ありがとうございます!」
シンジは心から感謝した。
何しろ家を出る時に母親からくれぐれもと釘を刺されてきたのだ。
開封してなかったら返品可。
開封していたら何とかして返品がないようにしなさい。
そんなの僕にはできないと、シンジは抗議したのだが聞く耳を持つユイではない。
もし開封しているのに返品を受け付けたなら晩御飯抜きだとまで言われたのだ。
キョウコが開封したレコードをそのまま引き取ると言ってくれて、彼は本当に助かったのである。
だから、彼の快心の笑顔が出てしまったのである。
彼本人だけが知らない、彼の最大の武器が。
碇シンジは鏡に向かって笑顔を出すような男ではないのだ。
しかも快心の笑顔はそう再々出てこない。
その極めてレアな価値のある笑顔が炸裂したのだ。
その笑顔を間近で見たのはアスカとキョウコの母娘だった。
まあ、可愛い!とキョウコは母の眼で見た。
そして、アスカは…。
絶句してしまった。
彼女は何も喋っていないのに絶句とはおかしいではないかと思われるだろう。
しかし、この時アスカ、心の中で母親に対して罵詈雑言を浴びせていたのである。
レコードを聴いている時にあれほど荒れ狂っていたのは誰だ。
その誰かさんのすぐ傍でそれを聞かされていたのは誰だ。
溢れんばかりの憤りを言葉にすれば母親から制裁が下ることは間違いない。
従って食事前で腹が減っているアスカは我が身可愛さに心の中で叫びまくっていたのだ。
その叫びが止まったのだから、まさに絶句したという表現が正しいのである。
な、な、なに、こいつ、こんなに朗らかに笑う?こんな機能がついてるの?嘘、信じらんない!
アスカの中で無意識にシンジの好感度が急上昇しかけたその時だった。
シンジがとんでもない言葉を口走ってしまったのは。
「あ、あ、あの…えっと、映画の仕事をしてたんですか?じょ。女優さんとか」
「まあ、わかった?」
キョウコは少しばかり身体をくねらせポーズを作った。
「や、やっぱり!す、すごく綺麗だから!き、今日はありがとうございました!」
シンジは最敬礼して、玄関から飛び出していった。
きちんと玄関のガラス戸を閉めたのは溜息いっぱい憎悪いっぱいのアスカである。
彼女は向き直ると、未だにポーズをとっている母親を冷たい目で見上げた。
「女優ですってぇ?この大嘘つき」
「あら。映画の仕事はしていたじゃない」
「スタジオの事務でしょうが。現場でもなかったくせに」
「出たわよ、何度も。アスカも見たでしょう?」
「ハイハイ。エキストラでね。人が足りないって時に手伝わされたんでしょう」
「是非にって言われて仕方なくじゃない」
「で、一番長い間スクリーンに出たのはベッドで眠る患者役。
その隣でお医者様役の役者が看護婦と話してて、その間ずっとママが映ってたのよね。
画面の端で顔も見えずに」
「見えたでしょう。最初にちょっとだけ」
「一瞬でしょうが。その後、3分間は首から下だけ。で、確か本当に眠ってしまったんですってね」
「くだらないことを覚えてるのね、アスカったら」
「その患者役の誰かさんに何度も聞かされてますから」
「まあ、えらく突っかかってくるじゃない?」
母と娘は睨み合った。
「子供と同じ年のヤツに綺麗だなんて言われて鼻の下伸ばしちゃってさ。ああ、情けない」
「ふんっ、生まれて初めて綺麗って面と向かって言われて固まっちゃったの誰でしたっけ?」
「アタシ、そんなことしてない!」
「嘘ばっかり。声も出せなかったくせに」
人間、本当のことを言われると怒るという説もある。
この時のアスカはまさしくそうだった。
「ママの馬鹿!」
つっかけを脱ぎ散らかすと、アスカはずんずんと廊下を進んでいった。
廊下に出ていたトモロヲとハインツを邪魔よ!と押しのけて。
その後姿を見て、キョウコは腕組みをしてにんまりと笑った。
「へぇ…。あの子ったら」
「おい、キョウコ。アスカは怒ってるぞ。いいのか?」
「大丈夫よ、パパ」
「キョウコ。あんな子供にお世辞を言われていい気になるんじゃないぞ」
「まあ、あなたまで嫉妬?ハインツ、私が愛しているのはあなただけよ」
「こら、父親の前でなんだ」
「子供の前でキスしてたハイカラな夫婦はどちらさんでしたっけ?」
「昔のことを言うな」
「さあさあ玄関先でごちゃごちゃ言ってないで食事にしましょう。あなた、カレーのお鍋に火をかけてね」
「かける?火を?」
「ガスコンロのスイッチを入れるということじゃ。キョウコ、戸締りを頼む」
トモロヲとハインツは台所へ向かい、キョウコは玄関扉の鍵を掛けた。
そして、アスカが散らかした突っ掛けなどをきちんと調える。
「ふぅ〜ん、そういうことか。アスカにも春が来たみたいね」
今頃自分の部屋でアスカはあの少年への憤懣を何かにぶつけているに違いない。
クッションを投げまくるか、演説をしているか。
この時、アスカに芽生えた想いを正しく察したのは、惣流キョウコただ一人であった。
<次回予告>
昭和52年3月14日。
その日、ほしのあきが生まれ、前日には神戸地下鉄の新長田名谷間が開通している。
そして、アスカにとっては初めてのホワイトデーだ。
シンジは彼女にマシュマロを渡すのか?
そもそもタイトルにあるマシュマロとは何だ。
ホワイトデーとマシュマロに何の関連が?という若い方々のためにも後編ではきちんと説明させていただきます。
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