もう一度ジュウシマツを

 

− 7 −

「わたしとお兄ちゃん」


 

こめどころ       2004.4.22(発表)5.21(修正補筆掲載)

 

 

 

 

輝く花片が風に乗り舞う。ちらちらと手を振ってる。暖かな春の風が誘ってるように。
一人きりで歩く春の野原に八重桜の花片が舞う。つややかな下草の中、小さなタンポポが
紛れ込むように咲いている。温やかな陽が揺れ、花の香りが融けている。暖かい風が漂い
柔らかな春の青空。新しい光、優しい祈りのような花の歌が響いてる。

本当は一人じゃなくていつもお兄ちゃんが一緒にいてくれる。まだ幼稚園にも行って無い
ころからお兄ちゃんがいつも一緒にいてくれるのが、当たり前みたいに思ってた。レイの
お兄ちゃんは特別だよと言われてやっと気付いた。私達ちょっと違うのかもって。

私はお母さんを知らない。写真でしか見た事が無いから。お兄ちゃんにどんな人だったの
か、何回も尋ねてお母さんのお話をしてもらった。あの写真の人が夢に中に出てくると、
お兄ちゃんの話のように私に話しかけてくれる。とってもいい匂いがする。それは粉石鹸
で洗って仕まってあった去年のセーターのような薫り。日向に干してあったお布団の感触。
お兄ちゃんと縁側で膨らんだお布団の上に寝っ転がり他愛も無い話をする。そんな時に聞
いたお母さんの話。何とかお母さんを私に伝えてやりたいと思ってくれている優しいお兄
ちゃん。いつの間にかそこで寝てしまうお兄ちゃんの寝顔をじっと見る。

でも私には全部が伝わるわけではない。私がそんな話で思い出すのは、リツコ姉さんとの
幼い頃の時間。私がむずがると取って置きの蒸しパンを作ってくれた。給食の残りのパン
をベランダで干して、それを砕いてパン粉を作る。それをミルクで柔らかく戻して干し果
物を入れ、四角い缶に入れて蒸しパンを作る。イーストの柔らかな薫り。濡れ布巾の薫り。
干し葡萄の甘い香り。リキュールの匂い。蜂蜜の匂い。そんな物がキッチンに立ち込める。
リツコさんのスカートにつかまって、魔法のように蒸しパンが出来上がるのを待っている。
小さくて遠い懐かしいあの時間。どんな時でも私を癒してくれるあの時間。少しだけ甘え
たいあの時間。お兄ちゃんの思い出のお母さんはそんなリツコさんとの思い出と混じり合
って、あたしだけのお母さん像になって行く。

だんだんお前はお母さんにそっくりになっていくとお父さんは言う。お兄ちゃんもそう言う。
でも、お兄ちゃんもお母さん似なんだって。私の、他の人より少し色素の足りない肌や髪や
瞳が普通だったら、鏡の中でお母さんに会えるにのにね。だから私は時々お兄ちゃんにじっ
としてもらって顔を眺める。男の子にしては優しい顔。長めの睫。優しい眉毛。これがお母
さんの顔?だんだん男の人の顔に成っていくお兄ちゃん。昔のお兄ちゃんには髭なんか生え
ていなかったし、こんなに骨っぽくなかったし、こんなに背が高くなかった。

お兄ちゃんは変わっていく。男の人になっていく。それは私からお母さんが離れていくとい
うこと。それと同時に私自身がさらにお母さんそっくりになって行くと言う事。髪を黒く染
め、黒いコンタクトをはめて見たらどうだろう。お父さんが驚くぐらい、お母さんみたいに
なるのかな?

お兄ちゃんは外ではわりと無口な方だけど、私といる時は良くしゃべる。それは多分、私を
可哀そうだと思っているから。寂しそうだと思ってしまうから。だから私自身もお兄ちゃん
といる時は良くしゃべるようにしているの。私は元気だよ、お兄ちゃん心配しなくてもレイ
は元気一杯だよって。ちょっと色が薄いだけで私は健康優良児だ。お兄ちゃんみたいに小児
喘息もなかったしアトピーもない。かけっこはいつも1等だったし弓道部でもレギュラーを
守っているもの。

そんな事分かってるのにお兄ちゃんは私に優しい。幾らわがままを言っても聞いてくれる。
でもそれもお兄ちゃんに恋人が出来たらどうなっちゃうだろう。少女漫画の読み過ぎって言
われるけど、あの惣流アスカさんなんかが名乗りを上げてきたら私はどうしよう。にっこり
笑って兄をよろしくというだろうか、それともお兄ちゃんを取らないでって、泣いちゃうん
だろうか。

 今日こうやって、家の近くの広い野原と森を、お兄を引っ張り出して歩き回っているのは、
もう私だけのお兄ちゃんでは無いんだという事を自分に納得させるため。
私にだってそのうち恋人とかボーイフレンドとか、できるかもしれないもの。そうしたら、
こんな感傷みたいなものは、きっとなくなちゃうはず。そうじゃなきゃ、困るし。


「お兄ちゃん、この辺でお弁当にしようよ。」


 この辺りは、まだ水が綺麗。野原の横の大きな杉とぶなの森から流れ出てくる幾筋もの水。
それがここではもう小川になっている。そしてさらに2kmほどいくと流れと、別の川の流
れと一緒になっている。こうやって川は大きくなっていく。いつかは海に出て行く。私は未
だこの小川みたいなもの。まだ森から出ていないただのせせらぎかもしれない。お兄ちゃん
や父さんに守られた、森の中の小さな流れ。まだ小学5年生、もう小学5年生。
『リツコ姉さんの秘密』はきっともうすぐ実現すると思う。お兄はぜんぜん気が付いていな
いけどね。それはまだ女同士の内緒事。お兄ちゃんにも内緒。
つまり私は悩み多き11歳というわけだ。

草原の上にシートを広げて、4隅に杭を突き立てる。その上に靴を脱いで、ごそごそ乗ると
お弁当を広げ水筒のよく冷えたお茶を飲む。こういうのってお兄ちゃん気が利くんだよね。
私は早速おにぎりを食べ始める。あぁほら、ちゃんと手を拭いてからって、お兄ちゃんが
お絞りを差し出してくれる、何かほんとにお母さんみたいなお兄ちゃん。私は笑い出すの。
そうすると止まらなくなっちゃう。お兄は困ったような顔をする。きっと最近レイはわかん
ないよ、なんて思ってるに違いない。私くらいで困ってたら、惣流さんと付き合えないよ。
あの人は多分私なんかよりずっと気難しいんだから。女の勘て奴よ。


「うわ、これ梅干じゃない。お兄ちゃんのは鮭?取り替えてよ。」


私はお兄ちゃんのお握りを奪うと意気揚々と食べ始めた。





「じゃあ、昨日ずっとレイちゃんとハイキングしてたわけ。仲いいわね。シスコンとか言わ
れた事無い?」

「う…あるよ、何回も。そんなにシスコンかな。」

「いいんじゃない?レイちゃん自身、ブラコンの気があるみたいだし。」


そういうと惣流はけらけら笑い、僕の背中を何回もバシバシ叩いた。監督がギロリと睨む。


「ほらそこ!休んでる間も膝崩さない、しっかり先輩の試合を見てっ!」


僕らは慌てて背筋を伸ばし、惣流は正座し直した。考えたら、惣流は正座できるって事自体
ちょっと凄いことなんじゃないか。


「私、日本生まれの日本育ちで、お父さんも日本暮らし20年以上だし。学科も英語よりも
古典や漢文の方が得意でも不思議じゃないでしょ。数学とか物理とかは国籍と関係ないしね。
だけど英語は…」


珍しく自分の事を私なんて言う。ちょっと気になる事を話すときは急に私って自分の事を呼
ぶ癖があるみたいだ。まあ僕自身も自分の事を俺と言ったり僕といったりするけどね。惣流
のこともその時の雰囲気で色々呼ぶし。それはこの惣流がその日によって全然別の子みたい
に思えるから、というのも理由の一つ。


「え、そうなんだ。惣流って英語嫌いなんだ。」

「別に好きじゃないわね、ただ向こうの親戚と話せないと困るから喋るのは何とかしてる。
でもそれもあんまり英語とは関係ないんだ。」


その容貌で英語すらすら話せない、書けない読めないは詐欺みたいなもんだと思うよ。でも
語学なんて家の中で使う言葉なんだから、お母さんがいなくて、例えばテレビばかり見てた
ら、日本語になっちゃうよね。


「もしかして、君の新しいお母さんは日本人?」

「うん。今のママは純粋な日本人よ。でも私のママは向こうの人だったの。つまり私の母国
は、英語圏じゃないってことなの。死んだママは日本人とのダブルってやつだったわけ。」

「え、それってフランス系とかイタリア系とかってこと?」


そういうと惣流はちょっと顔をしかめた。


「ちょっと、あたしのどこにあの浮世離れしたキリギリスみたいなイタリア人の血が流れ
てるなんて思えるわけ?それに気取り屋のフランス人がこの汗臭い武道なんてやると思う?」


いつも細かいことは気にしないのに、この件については意外とこだわりが有るみたいだ。


「ドイツよドイツ。質実剛健文武両道。日本人なら直ぐドイツって出てこない?アメリカ
以外の国の好感度調査では、No.1がダントツでドイツだって聞いてたけど。」

「僕もそういうの聞いたことあるけど、その割にはドイツって余り現実的な情報ってないよな。
ビールとかソーセージとか、ワインとか、ジャガイモとか、農業国なんだと思ってたよ。
でも本当は最先端の工業国なんだって習って、混乱した事があるんだ。」

「そうね、――確かに観光会社の宣伝でも、お城と田舎の街と石畳の街道って感じが売りだも
んね。そう思ってる人は多いでしょうね。でも、あんたはちゃんと知ってるべきだと思うよ、
なんせ――」


惣流は言い澱んで、急に話を変えた様に思えた。


「いまはWebで何でも調べられるんだからちょっと調べてみたらって事よ。」

「うん、まあそうだよね。」

「ミュンヘンとシュツットガルトの間のウルムって街があるの。そこ調べてみて。」

「え、なんで?」

「うん。まぁいいからさ。明日にでも感想聞かせてよ。」


感想って言われても…変な奴。いいけどさ、女の子の気まぐれとか訳わかんないのは、レイで
十分慣れてるから今更驚かないさ。
そのあとは自由打ち込みと約束稽古。30分以上しごかれてくたくたの汗だくになった。
冷たいシャワーを頭から被るのが気持ちよい。こういう時は男に生まれてよかったって心底思
うね。女の子は洗いざらしのままって訳には行かないから。そう思いながら水を蛇口からごく
ごくと飲む。


「ヤッホーッ、お兄ちゃん早く帰ろうよ。」


痺れを切らせたのか、レイが男子シャワー室の前に迎えに来ていた。



第8話へつづく

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 いいなぁ、私もシンジみたいなお兄ちゃんがほし…。
 
うっ!やばいっ!危うく作戦に引っかかるところだったわ。
 シンジと兄妹になっちゃったら、結婚できないじゃないのよっ!
 まあ、それくらいこの二人が羨ましいってことよ。
 ここでの私の故郷はあそこなのね。
 気になる人は調べること。これを読んでるってことは十姉妹アスカが言うようにWEB環境があるってことなんだからさ。
 ま、てことでシンジに私のこと教えちゃった。興味持ってくれたかな?
 ホントに素晴らしい作品をありがとうございました、こめどころ様。

 

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