もう一度ジュウシマツを

 

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「鬼の霍乱て奴」


 

こめどころ       2004.4.25(発表)5.23(修正補筆掲載)

 

 

 

「あーだめだ。宿題が手に付かない!」


身体が相変わらず熱っぽくて、だるくてボンヤリする。生理はまだ先だからやっぱり風邪なんだ
ろうか。机を離れ居間に出る。
ママは朝食の下ごしらえをしていたし、弟は漫画のビデオを見ていた。もう寝る時間よと言うと
これだけこれだけ!と返事が帰ってきた。もう、いつもこれなんだから、小さな子は寝る時間よ
と思いながら柱時計を見る。まだ8時だった。おかしいな、時間の感覚まで変になってるみたい。


「ママ、この時計遅れて無い?」

「いいえ、こっちの時計も同じ時間よ。」


怪訝な顔をしてこちらを見るママ。あら、ちょっといらっしゃいと言われる。ママはあたしの
額に手を当てた。そして片方は自分のおでこに。冷んやりしてとても気持ちいい。目をつぶると
目蓋の裏をいろんな色が飛び交う。更にママの手が私の首にあてられる。


「少し熱があるみたいよ。動悸も早いみたい。早く寝たほうがいいんじゃないかしら。」

「まだ宿題が終ってないの。熱さましくれる?」

「アスピリンと葛根湯シロップしかないけど…うちの人はめったに病気にかから無いものね。」

「皆揃って元気で結構な事じゃない。無病息災が一番よ。」

「まぁ丈夫が何よりね。ほらお飲みなさい。今日はもう寝て、宿題は明日の朝起きてやりなさい。
その時点でまだ調子悪かったら休めばいいんだから。」


至極もっともな意見だったので大人しく寝ることにした。だが夜半に目が覚めたときは既に汗で
パジャマが濡れそぼる程になっていた。慌てて上半身を起こした途端、部屋の天井がぐるりと回
った。そのままバランスを崩し床に転げ落ちた。立ち上がろうとしても起き上がれない。シーツ
に手を伸ばしてやっとの思いで起き上がった。

脚が…力が入らないよ。え、なにこれ身体が動かない。背筋を中心にしてエレベーターが下りて
いくときの、ぞくりとした感覚が走った。怖い。

あたし、このまま死んじゃうの?四つん這いになったままドアまで這って行き、手を伸ばして、
精一杯叫んだつもりだった。出たのは微かなかすれ声。ああ、もう声も出ない。
背筋を恐怖が走り抜けた。
もうこのままここで死ぬんだあたし。中学に入ってからの事小学校時代のことが頭の中をダーッ
と駆け抜けた。死ぬ前に見ると言う走馬灯、こんな風に見えるんだ。


「ママ、ママーッ!」


やっと声が出た。奥の寝室からママが出てくるのが見えたけどそれがぐらぐらと揺らいで見える。
目が回って、吐き気がする。きっと凄い病気なんだ。ああ、さようならママ。


「アスカ、どうしたのっ、アスカッ!」


ママ、あたしいい子じゃなかったよね。これでお別れだけど次に生まれてくるときはもっと素直
になるよ。もっとお手伝いもするし、勝手にかんしゃく起こしたりも(なるべく)しないからね。
べそべそと涙が出て、ママに抱きしめられて安心するとそのまま気が遠くなった。




目が覚めるといつもと違う天井があたしを迎えた。見回すと白いカーテンに四方を囲まれている。
何も記憶が無い。点滴の瓶があたしの腕から横に立っているドリップに繋がっている。
その管の中にぽたんぽたんと一滴ずつ薬が落下している。
あのまま気を失って…助かったんだ。
あたし、生きてるんだ。

カーテンが揺れて、仕切られたこの狭い空間にママが入って来た。


「ママ…」


弱々しい、小さい声で呼びかけた。喉が膨れていて変な声に聞こえた。腫れてるのだろうか。
だけどその微かな声にママは気づいてくれた。あたしのほうを振り返り、にっこり笑いかけた。


「あら、気が付いた。」


あたしの下着とかパジャマをロッカーにしまっている。


「あなたね、はしかですって。今時珍しいわね。」

「は、はしかって…赤ちゃんの予防注射にある、あれの事よね。――赤ちゃんの病気じゃない。
あたし赤ちゃんの病気で。」


そんな病気で死ぬ死ぬ言ってたのあたし。ああぁ恥ずかしい〜っ。
2,3日前にほっぺたにぶつぶつが出来たって、弟をお医者さんに連れて行ったけど、あの時
ハシカの子がいたんだろう。そこでうつっちゃったんだ。


「びっくりしたわよ急に倒れて動かなくなっちゃうんだから。お父さんなんか出張中の癖に車
飛ばして戻ってきたのよ。1時間前までこの椅子にずっと据わって、あなたの顔をずっと睨む
みたいに見つめてたんだから。お医者様がもう100%大丈夫ですって言ってるのに。」

「パパ…来てくれてたんだ。」

「そうよ、すごい熱だったんだから、はしかだって大きくなってから掛かると馬鹿にできないのよ。」


枕元にどこから買ってきたのかリンゴジュースの箱がドンと置いてあった。あたしの好きな
バヤ社の奴。その箱の横っ腹に太いマジックで『心配させるな、元気だけがとりえの娘へ!!』
って書いてあった。
ごめんねパパ。そう言いながらその箱に触れると途端に鼻の奥がつんとして泣きべそをかきそう
になっちゃった。ほんとにまだまだあたしって、パパの小さなアスカのままなんだから。
冷蔵庫で冷やしたつめたいジュースを出してもらって吸い口で少しずつ飲んだ。
良く冷えたジュースが喉に広がりながら落ちていく。美味しかった。





「じゃあ惣流は、はしかで暫く休みかい、いつもなま言っとる割には他愛ないのぅ。」


何時も黒いジャージばかり着ているので、惣流にジャージジャージとからかわれてるクラブの
仲間が、呆れたように呟いた。


「餓鬼の病気や無いか。なんだってそんなもんに掛かるンや?精神的に餓鬼やからそういう
ことになるんやなきっと。ざまぁ無いわ、かっかっかっ。」

「またそんなこと言って、惣流に誰かが御注進に及んだらどうするのさ。」


彼はぎくりとすると周りを見回し、なあ碇、黙っててくれるよな。とこっそり言った。全く
もって情け無いこと夥しい。レイもやってきて、聞いたわよ〜と言い、ちゃんとお見舞いに
行きなさいよとしつこい。


「惣流のお見舞いに? なんで僕が。」


柔道部の方でも男女一人ずつで見舞いに行く事になり、結局僕と女の子がもう一人選ばれて
しまった。たまたま一緒に帰るからって別に僕と惣流が親しいと言うわけではないと言った
のに、じゃあ誰かお前以上にあいつと話してる奴がいるなら言ってみろと言われた。改めて
考えるとあいつは僕以外の男子とは口なんかきかなかったし、なんて事だろう女子部員の間
では碇くんはアスカのお気に入り、と言う事にさえなっていたらしい。
1年たつと付き合ってる人たちなんかもいて、そこを通じてそういう情報は男子部にも流れ
込んでいたと言うんだ。知らぬは僕ばかりなりってこと?


「ほら、碇くん。行くよっ!」

「え、あ。うん。」


一緒に行く事になった女の子は週に2回だけ顔を出す準部員で、お下げで細身の気の強そう
な子だった。


「君はどうして選ばれたわけ?」

「私?うーん、やっぱり私がアスカの親友って事になってるからかなぁ。でも本当はそんなに
親しいって訳でもないのよね。ただどうも孤立してる子を放っておけないタチなもんだから。
それにクラス委員だから、先生にも頼まれてるのよ。あ、この事アスカには絶対内緒よ。
あの子プライド高いからこんな事が耳に入ったら下手すりゃ学校に来なくなっちゃうわ。」

「そういう大事な事なら、僕になんか喋るべきじゃないんじゃない?」


その子のものの言いように腹が立って、ついきつい返事をしてしまった。


「だって、碇はアスカのボーイフレンドって言うか、仲良しなんでしょ。少しはあの唯我独尊
な所に綱をつけてくれないと、私だっていつまでも庇いきれないもの。あの子のためを思って
言ってるのよ。あんなわがままを赦して置くなんて、碇にだって少しは責任を感じて欲しいわ。」


あ、この子も誤解してる。


「あのさ、どこでどうなってんだか知らないけど、僕は惣流のボーイフレンドでもなければ恋人
でもないぜ。たまたま家が同じ方向にあるから、妹と一緒に3人で帰ってるだけだよ。弓道部と
は同じ日にクラブがあるだろ、だからさ。」

「あ〜、あなた弓道部の『白い真』の碇レイの兄貴だったの!」

「なんだよその白い真って。」

「『真』と言うのはね、弓には誤魔化しは通じないって言う事よ。矢って狙った的に真っ直ぐに
飛ぶから的中にも偽りはないでしょう?偽りの無い弓はどのように射る事ができるかと言う事が
とても重要なのよ、
わかる?つまり偽りのない射はどのようにあるべきかという真実を探求するって言う、まぁ哲学
みたいな物なのね。そのことは、弓の冴え、弦音、的中によって証明されるのよ。それが弓道っ
て物なの。
碇レイの弓はその3つ真が誠に美しいって事でとても有名なのよ。幼くして良くぞここまでって
ことかな。天性の物といってもいいのかもしれない。あなた兄さんなのに、彼女の弓を見たこと
無いの?」

「う、うん。無い。」

「弓道を目指す人は、彼女の射の中に完全なバランスを見るらしいの。彼女の弓を見た後では
最高の射が出来たって言う高段位者が大勢いるわ。いわば弓道の女神みたいなもんね。」


そんな事ぜんぜん知らなかったよ。だってあいつ弓道の大会に僕や父さんが来るのをとても嫌
がるから。そんな事を話し、僕の知らないレイの一面を教えてもらった。惣流の孤立癖とか、
そういうものも。


「確かにアスカは一種天才的なところが有ると思うの。でもそれがあの子にとって決して良い
方に働いていないのね。あの子の格闘技には何か悲壮なところがあるのよ。戦って何かをもぎ
取ろうとでも言うような、丁度、碇レイが弓によって年に似合わない何か全能感の様なものを
人に与えるのと全く逆なものなの。もし碇が、アスカに自分には何か大切な欠落があると気づ
かせかけていて、それであの子が碇に拘って、魅かれているんだったら――」


そう言い掛けてその子――洞木さんは苦笑した。


「でもそう簡単には行かないわよね。碇にとって、アスカは何でもないんだから。」


洞木さんは最初あんな事を言ったくせに、惣流の事を本当に心配してるように思えた。
もしあいつに何かが足りなくてそれを無意識に僕に求めているんだとしたら。そう、僕にとって
本来守るべき対象であるレイや、十姉妹が本当は拠り所だったように、惣流にとって大事な問題
なら。――僕は友人として何かしてやれることがあるんだろうか。





「わはははは―――っ!」


僕らが惣流の病室を見舞ったのはもちろん病院に問い合わせて許可が下りてからだったけど、
その時病室に入った途端、洞木さんは大声で笑い出した。僕も下を向いて必死で笑いを堪えた。
だって彼女の顔は、見事に発疹が浮いて斑模様みたいだったからだ。


「そ、そんなに笑うなんてひどいわ!」

「ごめんごめんアスカ、ついよ、つい。」

「その上、碇がくるなんて一言も言ってなかったじゃなーいーっ!」

「といっても今更どうしようもないでしょ。いいじゃん、アスカだって碇に会いたかったんでしょ。」

「な、な、なんでこんな奴にあたしが会いたがってなきゃいけないのよっ!」

「だって。碇帰っていいわよっ。」

「え、そ、そうなの?じゃあ、帰ろうか…?」


惣流は明らかにうろたえた。


「まっ、待ちなさいよ。誰も帰れなんていって無いでしょっ。折角ここまで、来てくれて、
ま、来ちゃったものはしかた、ないし。」


そのうつむいた惣流の顔が、なんとも可愛いと僕はその時思った。
どうしてでもいいだろっ!そう思っちゃったんだよっ。
僕はそっぽを向いて、窓の外を見た。病室に入るなんて母さんの時以来だった。あの時も空は
何時も青く澄んでいたように思う。だけどその青は少しも僕の心に響かなかった。暗く沈んだ
冷たくて暗いずっと北の海のように心を凍えさせるばかりだった。
でも今の空の青は暖かく、まるで南のさんご礁の海のようにその中で戯れる魚たちが目に浮か
ぶような、そんな生命達を感じさせるような青だった。その青が、惣流の青い瞳に溢れてる、
そんな青だった。


「もう、すっかりいいの?」

「足が細くなっちゃったし、まだちゃんと力が入らなくて。」


そう言って惣流はパジャマの袖を肘までたくし上げた。長く細い指に続く白く弱々しい腕が現れた。
それはいかにも病気を感じさせる、惣流らしくない腕だった。点滴や注射の跡らしい内出血の痣が
何箇所もあった。僕は思わずその手を掬い上げ、パジャマを元通りに引き降ろした。


「出てこれる様になったらまた一緒に練習しよう。惣流なら直ぐに元通りになるよ。またすぐ背も
伸びだすさ。」

「そうかな。へへへ。」

「サーキットとか、筋トレ。練習、――つきあうよ。」

「ほんとに。」


僕は大きく肯いた。気が付くと洞木さんは部屋からいつの間にかいなくなっていて僕らは二人きり。
惣流が僕の手を握った。そしてその発疹が治りきらない頬はジュースの缶のリンゴのようになった。


「約束。」

「うん。」


僕が肯くと、惣流はにっこり笑った。僕もつられた。ああ、こいつホントに可愛いのかも。


「冷蔵庫にリンゴジュースあるから、飲んで。」

「うん。」


言われたとおりにプルトップを上げ、一口飲んだ。冷たいジュースがいつの間にかからからになって
いた喉にゆっくりと染み渡った。僕らは何も言えずにベッドとイスの上に黙ったまま座って時間だけ
が経っていった。ふと顔を上げると惣流と目が合った。惣流の目が震えたように弱気になっていた。
何か途惑ったように、眉をかすかに顰(ひそ)めて。

その時、バタンとドアが開いて、レイが元気よく飛び込んできた。


「お兄ちゃん、惣流先輩、私もお見舞いに来たよっ!」


僕らはドキンと跳ね上がった心臓を抑えるわけにも行かず、とっさにそっぽを向き合った。


「うん?うん? なんでしょうか、この雰囲気は?」


テレビのレポーターかお前は。


「レイ、お前、ドアの外で中をうかがってたなぁ?」

「そんな事してませんわ、お兄ちゃん。」




目が笑ってるぞ、レイ。これのどこが弓道の女神だ。

 

 

 

 

第10話へつづく

『もう一度ジュウシマツを』専用ページ

 

 


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 く、くぅぅ…。
 
タイトルだけならまだしも…。
 わ、私の顔を…。全世界の至宝と言われている、私の顔を…。
 その上、はしかだなんて…。
 ま、でも…おたふくよりはましか。
 とりあえず、自己完結しといてあげるわよ。もうっ!
 これでシンジが見舞いに来なけりゃ大荒れってとこだけどね。
 それよりびっくりしたのは、ヒカリの発言よ。読んでてどきどきしちゃったもん。
 でも、よく考えたら初対面じゃないけど初めて喋るような男の子に全部本音を言うはずないもんね。
 照れもあるし、シンジのこともよくわかんないんだし。
 こうやって表面だけで判断しちゃうのは私の悪い癖だわ。ごめんね、ヒカリ。
 ホントに素晴らしい作品をありがとうございました、こめどころ様。

 

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