もう一度ジュウシマツを
− 32 − 「試合に到るまでのありさまと想い」
こめどころ 2004.9.25(発表)28(微修正) |
<今までのお話>
高校一年の9月。僕と惣流、そして尾鷲さんの三人は県大会に進出。これで勝ち進めば全国大会だ。
ところが新しく僕らのコーチになった葛城ミサト先生が最初に命じた事は大会直前のこの時期に練習を休む
事だった。僕らは自分で気づかないうちに完全に練習過剰の状態になっていて、疲労で本来の動きを失って
いたんだ。最初、休む事に激しく反対していた惣流はミサト先生との賭けにあっさり負け、僕らは自分達の
状態を思い知った。そして言われたとおりゆっくり休んでそのあとの調整を念入りに受けることにした。
「それでは3人の今日から試合当日までのスケジュールを発表します。よく聞いて!
明日(日)、明後日(月)はせいぜい軽いランニング、柔軟体操程度以外は禁止。
3日目の火曜日に武道場に集合してもらって色々やる事があるけど練習は多分無し。4、5日目(木)に
試合当日のための練習をします。6日目(金)は練習後そのまま会場近くのホテルへ移動します。
そして土曜日に試合という段取り。いいかしら。」
「いいかしらって、もう決まってんじゃないの。はっ!」
両手を広げて参った参ったのジェスチャーをするアスカ。
「それより練習禁止なんてめちゃくちゃだよ。こんな直前になって。」
「くっそーどうして負けちゃったんだろう。なんかうまく丸め込まれたような気がするっ。」
「会場まで電車とバス乗り継いで一時間掛からないのに、なんで宿泊するんだろ。最後の調整でもあるのかな。」
「それもあるかもだけど、自分が寝坊しそうだからじゃないの〜?」
「それにしてもいいのかなあ、こんなことで。」
「いいわけないじゃにのっ!みんな、あのバスト女のいうことに丸め込まれただけじゃないよっ。」
たった一週間前、突然現れたミサトさんにそう言われた時、帰る道々僕らはそう言ってぼやいた。
だけど事はすっかり彼女の思惑通りに進んだ。
意外と名コーチなのかもしれない。僕はちょっと感心した。
X X
「今回の事では、ホントにミサトにしてやられちゃったわね。」
「してやられちゃったって、またそんな言いかたして。」
「まぁ、さすがに専門家は違うわねってこと。あたしにしちゃ珍しくみとめてんのよ、これでも。」
「あはは、そうだよな。こんなに身体が軽くなるなんて思ってもいなかった。あのサプリメントも効果的
だったってことなんだろうね。」
「そうそうっ、最初はびっくりしたけどさあっ。」
そういった途端、アスカはしまったという表情をしてむこうを向いてしまった。耳たぶが赤い。つい笑いそうに
なる。あのサプリを飲みだして次の日くらいから汚い話だけれど熟した柿の色の様な濃いおしっこが出たんだよ。
つまりあれが身体に溜まっていた疲労素ってことなんだと思う。同時に身体中がみしみし痛んでたまらなかった。
デートした日曜の夜辺りから僅かな身体の動きが辛くて辛くて。月曜もランニングが出来る状態じゃなくって、
アスカと呻きながら柔軟体操をしただけ。学校に行くのも辛いくらいだった。ご飯を食べる気力も無かった。
さすがに月曜日は練習が無いのを感謝してしまった。筋肉や骨が悲鳴を上げるって、ああいうことなんだね。
家に戻ってサプリと水をがぶがぶ飲んでばったり眠って、目が覚めるとトイレ行ってまたサプリ飲んでばったり。
一日中夜までその繰り返し。辛かったー。
火曜日。学校の道場にミサト先生達は大学の研究室から色々な器材を運び込んで来た。くりくりした真っ黒な瞳の
可愛らしい感じの人、若手研究者というより保母さんみたいな優しい眼差しの先生――伊吹さんていうんだけど、
その人がやってきて僕らから血を取ったり心拍を測ったり、呼吸を測定したり、尿を取ったり、呼気を測ったり。
生化学的検査?っていうのをやっているようだった。今はスポーツも科学なんだなぁ。
その日はそれだけで終って、難しい顔で話し合っているミサト先生と伊吹さんを残し、また這いずるようにして
いつもの3倍くらいの時間を掛けて家に帰った。アスカとも別れ際、明日の朝のランニングは中止って決めた。
「一体何なのよ、この痛みは。いつまで続くのよぅ。」
「僕だっていい加減勘弁して欲しいよ。小鳥の世話すら出来ないよ。」
「あたしも〜。今日はママにやってもらおーっと。」
それどころじゃないって感じでアスカも鞄を引きずるようにして階段を上っていった。見上げるとちょっとスカート
の中の綺麗な腿が見えたんだけど、どきどきするとかそんな気にすらならなかった。ああ、疲れた。身体、痛い。
また一晩中痛みにうなされるのかと思うと気が重かった。家に帰って直ぐぬるいお風呂に入ってマッサージ。
お風呂の後は少しだけ楽になる。御飯を食べる時箸を使うのが痛い。水を飲むのが痛い。深呼吸すると痛い。
くしゃみなんかしたら気が狂いそう。いてていててと繰り返してるんでレイが不安そうな目で見る。
それでも学生の義務だからと予習をしていたらだんだん痛みが引いてきたような気がした。あれ?本当かな。
サプリを定期的に飲んでも、そんなにトイレが近くならなくなった。その代わりに眠気がさして来たみたいだ。
早めに寝ることにした。その夜はしばらくぶりに熟睡できた。
そして水曜日の朝。きらきらした朝日が僕の部屋に満ちていた。あれっ、痛みが無いような気がする。
手を伸ばしてベッドの頭の上の窓を開く。早朝の爽やかな空気がまるで渓流の流れみたいに流れ込んできた。
思いっきり手足を伸ばして深呼吸。おおっ?全然身体が痛くないや。ピョンと飛び跳ねてみても全然平気だった。
風邪引きの後に熱が下がった朝みたいに身体に元気が出た感じがする。洗顔も爽快。感覚も戻ってきてる。
朝ご飯もやたらとお腹がすいて、ばくばくと2杯おかずで食べた上に、生卵を御飯にかけてもう一杯食べてしまった。
しかも大きな丼で。
「よくそんなに入るもんだな。」
父さんが呆れたように笑った。
「レイちゃんも結構食べるのよ。10kgのお米が20日持たないんですから。」
「まぁ、わしも若い頃はそうだったからな。当時は菜があまり無かったからコロッケ1個で飯を4杯も5杯も。」
「あら、あきれた。よく糖尿病にならなかったわね。」
「あの頃寮ではよく食う奴ほど尊敬されたものだ。ラングレーとわしが双璧で、純とか鵜府とかもよく食ったな。
飯も豪快だったぞ。キャベツにざくざく包丁突っ込んでな、そこにベーコンを差し込んで煮汁をたっぷりかけて
鍋でぐつぐつ煮込んで出来上がりだった。それでまた食う食う。寮母が休みの日なんかはそれでかっ喰らったもんだ。」
「あらあら。凄い料理ね。」
昨日だったらうえっとなったかもしれないけど、今朝はそのむちゃくちゃな料理が食欲をそそった。
今度是非作ってもらおうと思いながら、僕は柔道着を引っつかんで庭から飛び出して学校に向かった。
放課後、再び武道場に集まった。昨日と同じように検査が繰り返される。
柔道を始めてから普段あまり病気をしなくなったから、注射器で血を取られたりするのは苦手なんだよね。
多分昔ッから健康優良児だっただろうアスカは僕以上に注射は苦手らしく、思いっきり顔をそむけて針が刺さった
途端に、むっと言う顔になってぎゅっと目をつぶってる。あんまり固くつぶるから目元が赤くなってまるでべそを
かいたみたいに見える。いや、意外とほんとにべそかいてたのかもね。
続けて心電図をとる。アクティブの心電図用の無線式の端子を素肌のあちこちに貼り付けていく。
「なんなのよぅ。これって鬱陶しくて仕方ないわっ!」
「ごめんなさい、ちょっとだけ我慢して。もう何枚か貼らせてね。」
「うう、そのぬるぬるが気持ち悪いィッ。」
端子をつけたりとったり、位置を変えたりする度、例によって惣流は文句ばっかり言ってたけれど、彼女にしては
いつになく素直に従ってたみたい。そのことも僕からみると神妙にしてるのがわかってちょっと可愛い感じだ。
やっぱり最初にミサト先生にやられちゃったって言うのがいい薬になってるのかも。(これは内緒だよ)
「通常ラインまで回復してますねっ。それどころかリバウンド効果で血算、生化学値もかなり良好ですよ。」
昨日と違って明るい声で伊吹さんはミサト先生に報告した。
「結構結構。本来身についていた筋力とスタミナが戻ってきたようね。3人ともどう?まだ身体が痛い?」
「いえ、もう全然。」
「こんなに身体の調子がいいなんて、久しぶりって感じよ。ほーら。」
アスカが畳の上でピョンピョンご機嫌で跳ねながら言った。僕も万全って感じたし、尾鷲さんもこっくり頷いた。
伊吹さんが嬉しそうにデータファイルを抱きしめながら笑う。
「やっぱり若い人の身体って回復力凄いですねえ。期待数値以上です。葛城さんっ。」
「じゃあ、今日からちいっと練習も解禁しちゃおうかな。本格的なのは明日からよ。」
「わあっ!」
僕ら3人は飛び上がって喜んだ。練習が出来る、練習が。それがこんなに嬉しいなんて自分でもちょっと
意外なほどだった。いつの間に僕はこんなに柔道というスポーツにこんなにものめり込んでいたんだろう。
さっそく集められた柔道部員たちを相手に軽く打ち込みや掛かり稽古を流す。その後は試合形式で数人の
相手をし、最後は相互に練習。アスカと向かい合った。
「じゃ、始めましょ。礼っ!――始めッ!」
ツツツ――っと滑るような澱みの無い動きが美しいくらいだ。心持低く構えたままアスカは僕の袖口を取った。
と思った瞬間、袖釣り込みが僕の身体を引き寄せていた。僅か開始から2秒で僕は宙を舞って一本とられていた。
目にも留まらぬスピードとはこの事だ。技の切れが休み前とは段違い。ダーンと畳に叩きつけられて、僕の方も
始動した。
「まだまだっ!」
僕はしゃにむにアスカに飛び掛って行った。やっぱり本調子のアスカはとてつもなく強い。
でも僕だっていつまでもアスカにかなわないままでなんかいないぞ。全国大会に行くんだ。
そしていつかはアスカに勝ってみせるんだ。
X X
ここ数日お兄ちゃんは練習を休んでいたみたいだったし、どこか痛めたのか苦しそうな顔して階段上り下りして、
御飯も進まなかったみたい。息も荒かった。トイレも多くて夜中もバタバタしていたし、ちょっと心配しちゃった。
でも、今朝はたたんだ柔道着を腕に嵌め、元気いっぱい早くから走って出かけていった。
今日から練習再開なのかな。
「レイちゃん、あなたも朝御飯早く済ませて頂戴。ゲンドウさんもテレビをボーっと見てないで。」
既に食卓にはお父さんもいてパンをかじっている。
昔から朝は和食っていうのがお父さんの好みで、お母さんもそれに従ってたんだけど、最近は午前中もたれるとか
お父さんが言うので交互に和食と洋食がでる。
ミルクティーと、ミモザサラダ。蚕豆かコーン、パンプキンのスープ。卵はその日によってスクランブルか目玉焼き。
わたしとお兄ちゃんはベーコンエッグかハムエッグになる。お兄ちゃんはパンじゃなくて大概御飯を丼で食べていく。
パンだとお昼までお腹が持たないんだって。最近のお兄の食欲は凄い。お弁当を2つクーラーに詰め込んで持っていく。
一つは放課後に食べるんだって。身体も大きくなってめきめきと音を立てて育っている感じなの。
もしかしてお兄ちゃんの部屋には脱皮した皮かなんか残ってるんじゃないかと思っちゃうくらい。
わたしもひょろっと背が伸びたところに筋肉とか脂肪がついてきた感じがする。胸もお尻も大きくなったみたい。
幸いお母さんがスレンダーな人だったおかげで、お菓子も結構食べてばっかりいる割には重くなった感じはしない。
安定感が増して、弓が引き易くなった感じ。
「レイちゃんは得な体質ねぇ。」
リツコ母さんがそう言って溜息をつくのできっとお得なんだと思ってる。
昔は近所の男の子達にやせっぽちやせっぽちってからかわれてたから、ボリュームがつくのはちょっと嬉しい。
母さんやアスカちゃんが太った太ったっていうのはよく分からない感覚。アスカちゃんだってお兄と並んでると
ちゃんと細く見えるよ。お兄ちゃんは分厚さを感じる男らしい身体になってきたし、アスカちゃんだっていかにも
スポーツマンていう立派な筋肉質の逞しい身体。同じような背丈の人に比べて、背筋が真っ直ぐで、しなやかで
パンと張り切った皮膚の輝きが本当に綺麗だと思う。ちょうどアフリカのトムソンガゼルとかそんな感じの肩や肢。
それに痩せたら自慢の胸だってきっと萎んじゃうんじゃない?
なんて言ったら殺されちゃうかな。その時のアスカちゃんの顔が浮かんで思わずほくそ笑んでしまう。
「土曜日はシンジの試合だったな。なるべく早く仕事を切り上げられるといいのだが。」
「あら、わたしはもう金曜土曜と休暇をとらせていただきましたわ。」
研究職でもあるお母さんは土曜も出て行く事が多いから、絶対休日を2日も組み込むのは大変リキが入ってるって事。
「今日の会食は重要な案件で避けるわけにいかんのだ。こちらへ向かうのは土曜の早朝便になるな。」
「試合開始は11時ですから。シンジは前泊。会場割りはわかり次第あなたの留守電に入れておきます。」
「レイはどうするのだ? シンジにとっては初めての県大会だから皆で応援してやりたい。」
いつもは男の子なんて華が無くて詰まらんもんだとか言ってるくせに、いざお兄が県大会に出るとなればこの騒ぎ。
飛行機とリニアを乗り継いで、全速力で帰ってくるって言うんだから。
お父さん、ちょっと拗ねちゃいたくなるぞ、わたし。
「学校はお休みだけど午前中は神社の弓道場に行くから、そこから真っ直ぐ会場に行く。11時には間に合うよ。」
「迎えに行きましょうか。弓を持って歩くのも大変でしょう?」
「大丈夫。神社のおじいちゃんたちも県大会応援に行くって言ってたから。一緒にマイクロバスで行く。」
「あらそうなの。じゃあ、レイも向こうで合流ね。」
神社脇の弓道場には、若い頃から弓をたしなんでいた年配者や社会人が集まっている。
わたしは小学校まではそこで弓を引いていたの。だからたまにわたしが顔を出すととても喜んでくれる。
ちょっとみんなの孫代わり娘代わりってところかな。
だからこの時間だけは一度約束したら行かないって言うわけには行かないの。みんな朝早くから来るから、
土曜はジュウシマツの世話が終り次第神社に出かける予定。
和弓って言うのは道具があれば直ぐやれるわけじゃない。
引けるようにするまでに結構時間がかかるものなの。弦を張ってから馴染ませるまで時間が掛かったりする。
冬なんか温めたりして結構大変。実戦じゃなくて精密射の競技だから。1時間も馴染ませてからじゃないと射ないと
言う人もいるくらい。気楽な仲間同士だからその待ってる間にいろんなことを話すの。学校で困ってる事。
いじめられたり、仲間はずれになったりした時。友達と喧嘩しちゃった時。ずっと年上の人たちが、みんな真顔で
話を聞いてくれて、慰めたり、アドバイスしてくれたりした。わたしと弓を結び付けていたのは、ほんとうはこの
神社脇の小さな古い弓道場だったのかもしれない。そこに集まる人たちだったのかもしれない。
そんな皆が、お兄が県大会に進んだ事を知って応援に駆けつけてくれるというの。横断幕まで作ってくれたらしい。
学校の弓道部の皆や剣道部も。男女の応援部もやってくることになっている。
お兄ちゃんなんかチアの娘に目を奪われたらアスカちゃんにひっぱたかれちゃうんだから。
アスカちゃんの焼きもちってホント際限ないの知ってるんでしょ。
もちろんわたしだって断然面白くないわ。左右クロスカウンター炸裂ね。
そんな事を取り留めなく考えているうちに、いつの間にか学校に着いていた。
席に座ると、珍しいことに、何人かが遠巻きにしてたと思ったらそろそろと近寄って来た。
「ねぇねぇ、碇さん。お兄さん県大会に出場するんだって?あの惣流先輩と一緒に。」
「うん、そうみたい。」
キャーッという悲鳴の様な歓声。何なの?みんな柔道になんか興味を持ってなんかいなかったでしょ。
「それで、碇さんはお兄さんの応援にいくの?」
「ええ、行くつもりだけど。」
再び上がる歓声。そんな近くで叫ばないで欲しい。なに?お兄ちゃん狙いなの?
「あ、あのさ、わたし達も応援に一緒にいっていい?」
「別に構わないわ。11時から始まるそうだからそれまでに県武道館に行けばいい。入場無料、お菓子の持ち込み禁止。」
もう一度上がる歓声。もう勘弁して欲しい。耳が変になりそう。なんで急にこんな事になったわけ?
「ほら、地区予選で勝ったとき、テレビが来てなかった?あの中継でお兄さんのこと初めて見たのよ。優しそうで、
甘いマスクで、それでいて試合のときの厳しい表情。あのストイックな感じがいいのよねー。」
「もうわたしなんかいっぺんにファンになっちゃったー。ああ、シンジさまー。」
『あなた頭腐ってんじゃないの?』と言いかけて、言葉をグッと噛み締め「あらありがとう。」とにっこり微笑む。
微笑むからさぁ、シンジ様はやめてよ『様』は。第一、ス、ストイックって。エロ本読んだりアスカちゃんがどう
言ったこう言ったって色香に思いっきり迷っているのよ、うちのお兄は。それがどうしてストイックになるわけ。
ことほど左様に映像情報は真実を伝えないってことか。ついプッと吹き出しちゃった。
「え〜、うちの兄貴なんかほんっとにどこがいいのよ。弱虫だし根気ないし、てんで弱っちいし小鳥オタクだし、
女の子にも負けてるし、度胸ないし足短いし決断力ないし、男の癖にあんこ好きだし、成績だってぜんぜんなんだよ。」
実際はここまではひどくない・・と思う。思いつく限りの煙幕を張るけどただの一言で片付けられてしまう。
「珍しい〜、碇さんが笑ってる。」
「そりゃあ、妹の目から見たら上げ足取る所はいっぱいあるでしょうけど。」
「碇さんは身近にいすぎてシンジさんの良さがわからないのよ。」
何言ってるのよ、自分たちだってTV中継前は存在を知りもしなかったんでしょ。あんた達にそんな事言われたく
無いわよっ。シンジさんなんて気安く呼ばないでよ。こちとらお兄の妹やって長いんだからね。
アスカちゃんにだってそう簡単には渡したくないんだから。
そう思いながら、わたし、笑ってる。なんだか笑いが止まらなくて涙が出ちゃうほど。お、お腹痛いぃ。
「くっ。くくくくく。ううう、くくくく。」
「意外。笑い上戸だったの碇さんて。」
「うん、今まで笑わない人なのかと思ってた。」
「あ、涙流して笑ってるよ。可愛い〜。」
「あ、あなた達、人が、苦しがってるのにぃ〜。」
わたし、笑い慣れて無いから。誰かが背中をさすってくれた。「声出して笑ったほうが楽だよ」って。
X X
ベッドの上で胡坐をかく。窓に向かって。そうすると窓に映ってる自分の姿が見える。
やっと巡ってきたチャンス。何が何でもものにしたいと思っている自分がいる。やるぞ、やるぞ、やるぞ。
暗がりの中に透明に浮かび上がっているあたしの姿。エネルギー満タン。意欲十分。気迫満々。
前日宿泊って事になっていたけれど、あたしは自分の部屋の方が落ち着くからって言って自宅から当日直行
という事にしてもらった。うん、やっぱりこのほうがよかったな。
でもあんまり興奮して眠れなくなると拙いわよね。
少し落ち着いて、安らかな心で眠れるように座禅をしましょう。
――瞑想。
明日の相手はまだわからないけれど、全県12ブロックから勝ち上がってきたあたし以外の11人の選手と
シードの4人のうち誰かと当たるわけだ。一体どんな人と当たるんだろう。
ミサトが入手して来てくれた15人のデータファイルと過去の試合ビデオを昨夜じっくり見てきた。
14人は男子、あたしの他に1人だけ女子がいる。あの子も初出場だって書いてあったな。
いずれも混合無差別級の猛者ばかり。但し階級無差別と違って体重が重ければ有利になるというわけじゃない。
このクラスは柔道ではないという意見があるくらい、技も動きも多彩なんだから。
むしろ昔の柔術に近いといえる。そんな人達相手にノンシードのあたしは3回勝たないと決勝に出られない。
4回勝ってやっと全国に進めることになる。
通常反則技とされている蹴りも逆関節も打撃もあり。武器を持たないということだけがルールだからね。
県大会レベルでは、競技場内に眼科、口腔外科も含む5人の医師が待機し、ドクターカーも外に控えている。
そういうシビアな大会なのよねっ。
「怖いの?アスカ。」
――怖いわよ。初めて当たる見知らぬ強豪達。警察で、当たりそうな選手のOBから聞いた情報なんかとビデオを
併せると、みんな凄く強そうに思えてくる。
「一緒に全国に行こう!」
突然シンジが瞑想に登場。何よ。こんな所で急に出てこないで。依頼心が一番いけないんだからね。嬉しいけど。
硬くなっていた筋肉が一度にふわっと解ける。そうそう、これでいいんだ。シンジがいてよかった。
昔は男にうつつを抜かしてるから負けたなんて言われたかもしれないけど、今は優勝して旦那さんや彼とキスして
見せたりするのが、全然問題ないんだもん。それどころか、そういういいパートナーに恵まれてるから勝てたって
いうのが当たり前みたいになってるんだから。
男の子にもてるような魅力的な女の子じゃないと勝てないってことよ、ふふっ。
そうだ、県大会で勝ったらテレビカメラの前でシンジにキスしてやるっていうのはどうかな。
県大会くらいじゃもったいないか。そうだ、全国で勝った時にしよう。
そう思うと、なんか負ける気がしなくなってきた。あたしって男で人生決まっちゃうってタイプなのかな―
高校一年でこれじゃ、我ながら先が思いやられちゃう。
座禅中止! あたしは座禅より楽しい妄想のほうが精神集中出来ちゃうみたい。へへっ。
ボンとベッドの上で跳ねる。びっくりして机の上のカゴで一斉にジュウシマツが鳴き声をあげた。
「ごめん、ちょっとはしゃぎ過ぎ? ツィッ!」
「ツィッ!」
声を合わせてさえずる小鳥たち。そうだよっ!って言われたみたい。
サプリを部屋の小さな冷蔵庫から出して一気に飲み干す。ああ、よく冷えてておいしいっ。
さぁ、このまま眠ってシンジとダブル優勝した夢を見よっ。それが一番明日の試合にいいってことよねっ。
ばったりベッドに倒れこむと目元まで毛布を引っ張り上げる。
それからもう一度跳ね起きて、手を合わせお祈りをする。
「ママ。あたしを応援してね。」
ここ一番の母頼み。もう神様か仏様になってるだろうママ。このお願いは結構効くって信じてる。
「シンジの事もお願いね。」
えへへっ。ガラスに映ったあたし、なかなかいい笑顔じゃない。
それからもう一度毛布の中に潜り込む。リモコンのスイッチを押すとカシャッと音がしてブラインドが閉まった。
それからゆっくり照明が落ちていく。エアコンの音だけが静かにうなっている。
眠気があたしを包む。意識が無くなる最後の瞬間に大事な事に気づいた。
「しまったぁ…シンジに携帯かけてやればよかった。きっと不安…がってる…かも。」
作者のこめどころ様に感想メールをどうぞ メールはこちらへ |
待ってましたっ。
こめどころ様のジュウシマツの32話。
いよいよ県大会の前日。
この私だって、緊張するのよっ。
でも結局一番の薬はシンジなわけか。
う〜ん、許す!許すに決まってんじゃんっ。
どこの世界でも私の特効薬はシンジなんだからねっ。
でも、眠りに負けてシンジに電話しなかったジュウシマツアスカちゃん?
後悔しないでよ……って、よく考えたら、馬鹿シンジ!
どうしてアンタから電話してこないのよっ、ふんっ!
ホントに素晴らしい作品をありがとうございました、こめどころ様。