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「泣きべそアスカ、手を振る」


こめどころ       2005.4.21(発表)



 





アスカと別れたあと、僕は洞木と一緒に車で学園に戻った。


「碇、ちょっと遠回りして帰ろうか。」

「いいのか?」

「うん。――どうせ6時間目までに戻ればいいんだしね。」


屋根だけが白い、シスターの黄色のミニクーパは、僕らの住居区をぐるっと回りこんで住宅地縁の林道を走り始めた。
下生えの柔らかそうな草地が続く気持ちのいい道だったが、僕の心は沈みがちだった。
これから先にアスカや僕らを取り巻くだろう問題を予想すると気が重かったんだ。
車中で洞木はこれから起こるであろう色々な事を僕に話してくれた。ほんとにこいつは色々な事を
よく知っていて、さすがは委員長、なんて軽口を叩く気にもならないほど、色々知っていて。
実際、僕のような世間知らずの子供には信じられないようなことだったんだ。

学校に戻り、授業が終った後、まっすぐ向かったのはミサト先生のところだった。
全部事情を話した。ミサト先生はただ黙って聞いていた。


「事情はわかったわ。お祖母様がそういう状態で全国大会に出られない。それは当たり前のこと。だけど――」


言い澱んだ。それは洞木の言っていた通り、ある意味当たり前の事だった。

県大会の優勝者が棄権して全国大会に出ない。そのこと自体を正面切って非難することは誰にもできないだろう。
祖母が危篤。だけど、それだけでは済まないというのも事実なんだ。
県の代表が出場放棄という事態は、いくらおかしいといってもどこかで誰かが責任を取らなければならないという事だ。
まず、私立学校としてはせっかくの学校の名誉を高める機会を失うことになる。
何故引き止められなかったか、という事はきっと学園経営会議などで問題になるだろう。
それは議題に書き込まれることはないが、緊急動議として必ず責任の追求があるに違いない。

県の体育部会でも問題追及があるだろう。
出られる全国大会になぜ出せなかったか。一個人と県の実績とどちらが重要と思っているのか、説得の努力はしたのか。
体育連盟の支部会でも取り上げられるに違いない。僕らは完全に孤立する。

怪我ではない。病気でもない。
ただ遠いドイツにいるお祖母さんを看取りたいというアスカの想いがそこでは次第に踏みにじられていくことになる。


「棄権した場合、繰上げで2位が出場するということであれば何の問題もないのに。」


付いて来ていた洞木が呟いた。
だが、その事はずっと前から決まっているルールなのだ。そうしないと決勝で不利な側が非常に危険な業をかけて、
負けても優勝者が出場できない怪我を負わせる事があるから。実際昔、過熱のあまりそういう事があったらしい。
それも、県大会優勝者が棄権する事を何とか許すまいとする責任の追求という鞭と、同様のいやらしい根っこから
出ている事じゃないか。そう思った。
たかがスポーツじゃないか、そう言いきれない、スポーツに絡む色々な思惑というものがあるんだということ。

やりきれない思いだった。


「とにかく、」


ミサト先生は決心したように笑いかけながら言った。


「シンジ君はアスカについて行ってあげられることだけを考えなさい。後の事は大人の仕事よ、私に任せて。」

「先生。」

「何よ、その辛気臭い顔は。男の子は元気が一番、決心した事には振り返らないでいいわ。」


そう言って、ミサト先生は自分に言い聞かせるかのように肯き、唇を噛み締めた。










「そうなの、惣流さんのとこも大変ね。」


うちに帰り、レイとリツコ母さんが揃った所で僕はドイツ行きの話を切り出した。


「それで、お兄ちゃんはどうするの?アスカちゃんの頼み通りするの。」

「リツコさん、どうしようか。」


リツコさんは目を瞬(しばたた)かせると、少し考えてからこう言った。


「あなたの答えはもう出ているわけね。問題はゲンドウさんがどういうかって事だけど。」


レイがすぐに口を挟んだ。


「でも、お父さんはまた出張に行ってるし、ロサンゼルスに連絡はつくの?」

「付く事は付くけどゲンドウさんはゲンドウさんなりの考えもあるでしょうし。」

「お母さんはどう思うかって事を聞いてるのよ。」


僕はちょっと嬉しくなってレイを見る。僕の応援に回ってくれているように思えたからだ。
リツコさんはまだ煮え切らないというか、決断をすべきではないって思ってるみたいだ。


「シンジがドイツについて行きたいのは分かるけど、忙しい所に他所の子が付いていくのは
親として許可できないという部分もあるでしょ、レイ。」


確かにアスカにこのままついていくって事は、ラングレー家の世話になるってことになる。
目の前の事しか考えていなかった僕は、単純にホテル代と旅費さえあればいいと思っていたんだ。
そういわれて考えればたしかに非常識な行動といえない事もない。


「そうか、付いてきて欲しいって言ってるのはアスカちゃんだけだもんね。」


応援しようとしていたレイも椅子からお尻を半分ずり落として沈み込んだ。
要は父さん待ちか。だがこうしている間にもラングレー一家はドイツに行く準備を進めているはずだ。
アスカも行く事を決めた以上、おそらく僕が一緒でもそうでなくても、明日の午後には4人とも日本を発つ。


「でも、惣流が付いてきて欲しいって言ってるんだ。それが一番大事なことだよ。」

「落ち着きなさい。あなた方がいくらお付き合いしてるからって、お互い未だ高校1年生なのよ。
もう成人してて、しっかり将来の約束もできてるような関係とは違う。それはわかるわね。」


所詮僕らはまだ世間の常識と親の判断に従わなくちゃならない子供という立場。
歯がゆい。一足飛びに大人になれたら。自分だけの判断で自由に動ける大人だったら。
テーブルの上で拳を握り締める。


「お母さん、お願い。お兄を行かしてあげられる様にお父さんに頼んであげて。」

「レイ・・・」


日頃あまり親に物を頼む事をしないレイの言葉にリツコさんは困惑してる。


「アスカちゃんは、私達にとってもう他所のうちの人じゃない。大人の中でたった一人じゃ
アスカちゃんが可哀そうだよ。きっと凄く不安で、引き裂かれそうな思いをしてると思う。」


リツコさんは暫く腕組みをして俯いて考えていたけど、立ち上がって電話を取り上げようとした。
僕とレイは息を詰めてその手を見つめた。


その時、電話がいきなり鳴った。


「はい、碇でございます。あ、ゲンドウさん。」


咄嗟にレイがスピーカーフォンに切り替えたので、父さんの声が聞こえた。


「聞いているか。」

「ラングレーさんのお母様の件ですか。はい。」

「こっちにも連絡が入った。明後日の朝までには、LAからそのままドイツに入る。」

「は、はいっ。」

「シンジをこっちに送れ。後はメールだ。」

「はい。わかりました。」


電話はあっけなく切れた。と同時に僕とレイは喚声を上げた。最高だよ、父さん。


「でも、もう一つ問題がある。同窓会や県の運動部会、総体連にはどう申し開きするの。」


レイの危惧はもっともだった。それこそがアスカが心配していた事でもある。
だけどそのことは今は考えるべきではないと思い、彼女にドイツに行けって勧めたのは僕だ。
だけど、その事が一体どんな事態を引き起こすのか。
結局僕はアスカを支える事なんかできやしない只の子供だ。


「大丈夫。」


えっ、と僕らは母さんを見た。


「ゲンドウさんがシンジをこっちに送れって言った以上はもう全て片付いているってことよ。
シンジ君、あなたはもう少し自分の父親を信じていいと思うわよ。」


さっきまでとは打って変わったリツコさんの輝くような笑顔に圧倒される。
いくらなんでもここまで父さんの事を信じ切れるもんなんだろうか。
いや、だから夫婦をしてるんだろうけど。


「あなたはとにかくアスカちゃんに一緒にいけることになったって知らせてあげなさい。
こうなったらあなたの仕事はアスカちゃんを支えて、あの子が辛い思いをしないように気遣ってあげること。
それが女の子を守ってあげるということよ。お父さんを信じて、集中しなさいっ。」


レイも笑顔で僕を見つめ、こっくりと肯いた。


「僕、そうするよ。母さん、レイ。」


とにかく、アスカに会いに行こう。僕は部屋着のままの格好で、玄関に走っていくとスニーカーをつっかけて
外に走り出した。庭を斜めに突っ切り、生垣の切れ目から歩道に飛び出し、アスカの家に向かって坂を駆け下りた。
夜の11時を過ぎていた。
すっかり道は人通りが絶え、しんとした歩道の上を街路樹の影が時たま通る車のライトで移動していく。
向こうから誰かが駆け上がってくるのに気づいた。カーディガンの裾が揺れてる、ツインテールの人影。


「シンジっ!」

「アスカッ。」


どん、と音を立てて身体がぶつかり、僕らは向かい合った。
手を伸ばし、互いを支えあう。


「パパから、シンジ君も一緒にくることになったって言われて。」

「全く情報早いな。僕だってたった今、電話で聞いたばかりなのに。」

「部屋から出てきたパパが急に。どうやらゲンドウおじ様と話がついたらしいの。」


父さん、こんなことまで手を回してくれたんだ。適わない。父さんに僕はまだまだ全然適わない。
アスカも部屋着のままだった。その上にカーディガンを羽織って飛び出してきたんだ。
見慣れないツインテールを揺らしながら、僕を見ているアスカの息が白く見える。


「全く父さんと君のパパは、不良中年って言うか、出来ないことは何もないって人たちだね。」

「ほんと。見直しちゃった。」


彼女はそう言って笑った。


「これで、一緒に行ける。ドイツまで。」

「よかった。もしダメだったらどうしようかってずっと考えてた。」


色々難しい事がいっぱいある。でも今は僕はアスカが不安にならないことだけを考えよう。
リツコさんが言ってたように。
それが、今僕に出来ること。今僕がアスカのためにしてあげなければならないこと。
アスカのお祖母さんへの想い。それを守るんだって事だけ考えよう。
それがまだ子供の僕にとっての全てだから。

アスカの手が僕の腕を強く握った。僕も彼女の肩を支えた。
僕らはまだ子供かもしれない。だけどまた一歩。二人で歩き続ける道。
アスカの駆け上ってきた道をメゾネットに向かって送っていきながら、その後の事を聞いた。

お祖母さんは一旦持ち直しかけたけれど、夜になってからまた意識が戻らない状態になったこと。
心臓の病気と、肺炎を併発していること。ドイツに着いたら、病院に詰めきりになるかもしれないこと。
だから僕はお祖母さんのうちで待っていて欲しい事。
向こうの遠い親戚たちともパソコンの画像を通じて話したこと。顔も知らない人たちと大勢挨拶した事。
みんな一様に自分を励ましてくれた事。お祖母さんは大丈夫だと言ってくれた事。


「でもね。わかるの。」


アスカは息を詰めたように小さな声で言う。


「みんな、待ってるの。息を潜めて、その時を待ってるの。お祖母ちゃんの呼吸が止まるのを待っているの。
何とか助けようとしてるんじゃなくて。泣きながら、悲しみながら、それでも死ぬ事を受け入れようとして、
息を潜めているの。」


アスカの表情には恐怖のような物が張り付いている。彼女は一体何を感じ取ったんだろう。
女の子の手が一層強く僕の腕をつかんだ。アスカの横顔を見る。瞳が潤んで口元が震えてる。


「僕が、いるよ。」


うん、と言うように彼女はもう少し寄り添い、僕らは互いを感じながら歩き続けた。
街路樹の陰が再び通り過ぎた車のライトで一斉に動いた。
夜の闇が、蠢いているようだった。


「おやすみ。」

「おやすみなさい。」


別れの挨拶をしたのに、二人は立ち去りづらくて、そこに少し離れて佇んだままでいた。
アスカの、その迷子の小さな女の子のような様子に、もう一度近づいた。
エントランス前で、女の子は僕の胸の中にもたれかかるように体を倒し、頭を僕の頬に押し付けた。


「死ぬのって、こわい。」


僕は少し迷った後、そっと背中に手を回した。


「人は、死んじゃうのね。死んだ後は、どこにも存在しなくなってしまう。」


そうだろうか。僕の母さんも君を生んだお母さんも、もうどこにもいないんだろうか。


「どうして、そう思うの?」

「だって。」

「僕の死んだ母さんは、今でも僕の中で、父さんの中で存在してるよ。
存在してるってそう感じるのは、僕が何回でも母さんを思い出すからだよ。」


アスカは応えなかったけれど、耳をそばだてているのを感じた。


「思い出すたびに、僕は母さんが何か僕に指し示している事を感じるんだ。
それは、レイのことだったり、父さんやリツコさんのことだったり、君の事だったりする。
困ってるときや、嬉しい事があったとき。
僕が今感じている事に母さんの意識が入り込んでいるようなそんな感じがするんだよ。」


そうだ。父さんも母さんのお墓に時々出向いているのを知っている。
リツコさんは母さんを知っているわけじゃない。なのに何故お墓参りに行ったりするんだろう。
アスカのお祖母さんは、どうしてお祖父さんのお墓から離れないんだろう。


「母さんを思い出すと、母さんは僕に答えを与えてくれるときもある。何も言わないときもある。
でもそんなときは、自分で答えを見つけなくちゃいけないと思えるんだ。
つまりそれは、この世に母さんが例え生きていたとしても同じ事なんだ。
君が僕に関わって、色々な影響を僕に与えてくれるのと同じように、母さんは僕に影響を与えてる。
それは、例え君がそこにいなくても僕に答えをくれるのと同じ事なんだ。」

「シンジの中のあたし?」

「そうだよ、君は僕の中にも住んでるんだ。生きてるんだ。」

「例え、あたしが今死んでしまったとしてもシンジの中でずっと生き続けているって事?」


僕は肯いた。
そうしながら僕の中のアスカは僕と少しずつ一つのものになっていくんじゃないだろうか。


「それは、シンジもあたしの中に住んでいるってことだよね。」


それは、生物として近しい因子が色々な染色糸に姿を変えて存在し、受け継がれていく事とはまた別の
言わば、精神とか心が受け継がれていくって言うこと。僕はアスカにそう言いながら、自分自身の中で
ずっと感じていた事が言葉に組み立てられていく事を不思議に感じていた。
受け入れられた僕、僕が受け入れた彼女。
アスカに語ることで、自分の内面が初めて一つに形を取る。これはアスカが僕に強く影響を与えているってこと。


「そうだよね… たしかにあたしの中には何時でもシンジがいるって感じてると思うもの。
おやすみって言うとあたしの中のシンジが応えてくれるし、考え事をしてるとシンジが教えてくれることがある。
どうかすると、あたしの中でひょっこり顔を出して励ましてくれることさえある。
そうか、ママも同じように、きっとずっとあたしの中にいて、あたしを見続けていてくれるんだ。そうだよね。」


アスカの身体がぶるっと震えたのが、胸に伝わってきた。彼女はそれから少し、泣いていたのかもしれない。
それきり僕らは黙ったまま触れ合っていたんだ。生垣のあるメゾネット。そのエントランスの庇の下で。
アスカの身体から腕を放したのは多分30分くらい経ってからだっただろう。


「さぁ、もう寒くなってきたよ。部屋に戻ったほうがいい。」

「うん。」


慌てたように、目をこすって僕から離れた。ちょっと俯いたまま僕の頬に手を当てる。


「ごめんね、こんなに冷たくなるまで引き止めちゃって。」

「こんなこと、なんでもないんだ。」


そう僕が言うとアスカは身を翻した。
前髪を急いで目の前に掛かるようにして――僕から顔が見えないように――階段を半分駆け上がってまた振り返った。


「シンジ、あんたちょっとかっこつけすぎっ。」


って叫んだんだ。
僕は苦笑し、そうかも、と思いながら手を振った。


「じゃ、また。おやすみ。」

「おやすみなさい。」


僕は歩道に飛び出すと、街路樹まで走り出て、上を見上げた。2階のバルコンから、アスカが覗いていた。
僕らが別れるとき、いつもそこからまるでお姫様みたいに手を振って見送ってくれるんだ。

今日もアスカはそこにいて、さっきまでと全然違う子みたいに笑って手を振った。
僕もつられたみたいに笑って手を振り、そして坂を駆け上がっていく。

エントランスが見える最後の街路樹の陰から振り帰ると、そこから身を乗り出して、子供みたいに
手を振ってる彼女が小さく見えた。
















第41話へつづく

『もう一度ジュウシマツを』専用ページ

 

もう一度ジュウシマツを(40)泣きべそアスカ、手を振る 2005-04-21 komedokoro






「もう一度ジュウシマツを」第40話です。
いや、いい題名です。
泣きべそだっていっても、アスカが泣いているという直接の描写はこれひとつもありません。
シンジの想いに大きな声で泣きたいのに、彼の前では涙を見せたくない。
ただの強がりではありません。あまりに彼への気持が強すぎたからです。
だからこそ涙に濡れたぐしゃぐしゃの顔を見られないとなれば、いつまでもいつまでも手を振り続けているわけです。
きっとシンジの姿が見えなくなっても彼女は手を振っていたことでしょう。
母親にいい加減にしなさいと微笑みながら肩を叩かれるまで。
おそらくすべてがうまくいく様にゲンドウたちが取り計らってくれるに違いない。
何故ならそれが大人である彼らの務めだから。
アスカたちを追い込もうとしている仕組みをつくったのも、
実際に追い込もうとするのも大人たちなのですから。
ご投稿、ありがとうございました、こめどころ様。
(文責:ジュン)

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