− 41 −

「天使の微笑と死神の誘惑は 
どちらが男の子にとって魅力的か」

(前)


こめどころ       2005.5.1(発表)



 




 三浦半島と房総半島中間の海上にある、東京湾海上国際空港まで、うちから約2時間。
そこから真っ白な氷の平原を越え、北極圏を見下ろしながらミュンヘンに直行した。
到着は10時間後。さらにそこから陸路で1時間。初めての外国の旅。朝の光の中を、
僕はラングレー家の人たちに3日遅れてウルムへと向かう列車に乗っている。
見渡す限りの小麦畑と牧草地、丘陵を覆うブドウ畑や波打つライ麦の畑。
その彼方に、アスカのお祖母さんの住む、高い尖塔のある街、ウルムがあった。

ゆっくりと列車が古風なたたずまいの駅舎に到着した。一緒に来るはずだった父さんは
あれから飛び込みの仕事の日程に縛られ、明日到着するとのことになっていた。

ウルムの古い町並みの外側を近代的な新開発住宅地が取り巻くようにして広がっている。
若い人たちはこの密集した石造りの、アゴラを中心とした街の渋滞や細い街路を避け、
郊外の広々とした住宅街に住んでいるのだ。菩提樹の並木。郊外を取り巻く小麦畑。
ドナウ川に面した旧市街は、その昔は黒海へと続く南部ドイツの大動脈を支えた中核都市。

僕は、最初アスカが主張していたお祖母さんの自宅に泊まるのではなく、中央広場に面した
3階建ての古風な旅館を取って、そこで父さんの到着を待つことにした。
石畳と噴水、無数の運河と記念館、街のシンボルである水鳥の人形などを、借りた部屋から
見る事ができた。同じ色の屋根と、通り毎に揃った破風は、まるで兵隊が整列している様に
見える。いかにもドイツらしい整然とした街並みの中心に広場があるんだ。
広場からは有名な尖塔が見えた。とにかく頭の芯がくらくらするほど眠くてしょうがない。
じっとしたままでいた反動の疲れもひどい。電波時計を組み込んである腕時計は自動的に
ドイツ時間を射しているけど、身体はそうは行かないみたい。
飛行機の中でも全然眠れなかったしこれが時差ぼけとかエコノミー症候群とかって奴か。
とにかくまず寝よう。寝て起きて、それからアスカに連絡しよう。
僕は早々にベッドにもぐりこんだ。



階段を誰かが上ってくる音で目を醒ました。一瞬自分がどこにどういう状況でいるのか混乱。
そういえば、とアスカに夕方5時頃電話で起こされたのをやっと思い出した。
後で行くって言ってたけど、半分寝ぼけていたからすぐに思い出せなかったんだ。
ああ、そうだ。その階段からの足音は少しびっこを引いている。
つい3日前、僕の家に来たときには松葉杖に頼ってやっと小走りくらいできる程度だったのに。
まだ激しい運動は無理だけど歩く分には全然支障ないって、あいつ電話で言っていたけれど、
こんなに回復するなんて信じられない。

ノック。日本語で応える。


「どうぞ、開いてるよ。」


乱暴に開かれたドア。入ってきたのはやっぱりアスカだった。
にぱっと笑って、僕に向かって立て続けに言い放つ。


「お久しぶり!シンジ、調子はどう。時差ぼけは治った?なかなか綺麗な町でしょ。」


おいおい、まだ夜の7時前だし僕はずっと寝てたんだよ。
といっても8時間も寝たんだ。睡眠は十分なはずなんだけどまだ眠い。あー眠い。
思わず出てしまった大あくびを見られてしまった。


「調子って、まだ着いたばかりだしね。広場と、みんなお揃いの屋根と壁の色が綺麗って位で。」


アスカはうんうんと肯いてまたにこやかに笑った。日本を発つ時の悲壮な様子とは大違いだ。
よく見るといつもと違って、お化粧までしている。赤い口紅のせいでいつもと感じが随分違うんだ。
アイラインも入れて薄くシャドウも入れてる。くっきりとした顔立ちがさらに引き締まっている。
華やかでまるでこれから踊りにでも行くような感じだった。それに着ている物もいつものシャツと
ジーンズではなく、裾の広いたっぷりとしたワンピースとカーディガンだ。素敵だよ。と心で言って
一人で照れてしまった。僕って馬鹿だな。


「あ、足。だいぶ良くなったみたいだね。」

「あ、これにはちょっと秘密があってね。」


そういうとちょっと腰を捻ってワンピースの裾をたくし上げて見せた。


「ほらね。」

「え、なんだよそれ。」


足の外側に沿って、細い金属棒2本で繋がった昔のロボットマンガみたいな装着器具。
膝とくるぶしを取り巻くように取り付けてあった。彼女は得意そうに説明を始めた


「うん、これは足を支えてくれる補助器具。こっちではこういうものが普及してんのよ。
杖よりずっと便利でしょ。補助関節で体重を支えて、曲げたり立ったりもかなり自由に出来んの。
さすがに精密機械の国よね。」

「へえ、ちょっとかっこいいね。」

「でしょ。久しぶりに手が自由になって気分いいわ。」


そう言って僕のベッドにポンと弾むように腰を降ろした。へえ、ちゃんと自然に膝が曲がるんだ。


「ねえ、まだ御飯食べてないなら、3番街のレストランに行こうよ。」


何だか甘えた声で話しかけてくる。なんだかどきどきしちゃうのも事実。おいおい。


「この辺はポテトとかサラダとかソーセージがとてもおいしいんだよ。甘いケーキもあるし。」


叩き起こしといて、御飯まだならって事があるかよってわざわざ悪態ついても仕方ない。
苦笑いをしながら頭をかいた。アスカにこんな調子で頼まれて抵抗なんかできるわけない。
まだ意識が半ばぼうっとしてるけど、お腹の方が悲鳴を上げてるのも事実。
元気なもんだと我ながら思う。
それになんといってもアスカのお誘いを断りたくなかったというのが最大の理由。


「え、うん。それでいいよ。」

「決まり!」


手を打って、笑いながら立ち上がった。
僕の手を引っ張りながら早く着替えなさい!と命令する。
着替えてる間も待ちきれなくてコツコツ音を立てて部屋の中を歩き回る。

一体彼女はどうしてこんなにテンションが高いんだろう。これも時差ぼけの一種なんだろうか。
髪も結ってなくて、ストレートに長く降ろしてるし、私服だから随分大人っぽい感じがする。
ドイツの女子高校生は大人のお化粧してるって聞いたけど、まるでどこか他所の女の子みたいだ。

石畳の街。観光用のガス灯が鋭い光を放って、その陰影と石畳が異国の街並みを僕に印象付ける。
向かった先はゴッホの絵みたいな、店の外に日よけが張り出し座席が並ぶ街角のレストランだった。
さすがにもう冷えてきたから、外にはほとんど人はいなかったけど、中は満席だった。

この辺りの名物、太くて白いソーセージにかぶりつく。ぽたぽたと肉汁が垂れるほどジューシーで
本当に肉が詰まっている感じがする。腸詰って言った方がぴったりと言う感じ。
日本で言えばお菓子の肉まんと、本格的な中華饅頭を食べ比べたほど違うんだ。
ザワークラウトとベーコンポテトオニオン。さらに周りの人たちはビールを飲んでいる。
日本で見かける大ジョッキのビアマグの倍はあろうかというもので、文字通り浴びるほど。
ドイツの人たちは大きい。身体も、ビアマグも、笑い声も。
巨漢であるアスカのパパも、ここに混じったら普通の人だよ。

僕らがそこで飲み食いしていると、彼女の携帯の着信音が鳴った。
アスカは跳ねあがるように立ち上がると店の外に出て行った。この場ではとても聞き取れない。
ガラス扉の向こう側で真剣な面持ちで会話を交わし肯いてるアスカ。一体どんな電話なんだろう。


「ごめんね、あたし行かなくちゃ。」


戻ってきたアスカは、僕の耳元でそう囁くと急いでカーディガンを羽織った。


「お祖母さんの具合が悪いの?」

「ううん、そういうわけじゃないんだけどね。お医者様が親族を呼んでって言ってるんだって。」


それって、危篤ってことじゃないの?


「じゃあ、僕も宿に戻ってるよ。父さんから連絡あるかも知れないし。」

「ごめんね、また電話入れるから。」


彼女は店の前で別れると、タクシー乗り場の方へ足早に向かっていった。
僕はアスカが角を曲がるまで見送り、それから広場に向かって歩き出した。
そういえばあいつ、お祖母さんの事一言も口にしなかったな。

ホテルに着くまでの間に雨が降り始めた。すぐに結構激しい雨になった。
あきらめて濡れながら歩いた。アスカ、大丈夫だったかな。濡れなかったかな。
そう思いながら、ずぶ濡れで宿の扉を開いた。
入ってすぐの壁に立っている大時計が、9時半を指している。大きな音が一回鳴った。
フロントで、濡れたコートのまま何か書き込んでいた客が顔を上げた。


「父さん!」

「む、シンジか。飯を食ってきたのか。」

「うん、今着いたの?」

「ああ、ちょうど雨にぶつかってしまった。思ったより時間が掛かった。」


宿の人が何か言った。


「何だって?」

「ツインの部屋に変えた。鍵を返してお前の部屋を引き払い、302に移動しろ。」


ツインの部屋といっても、僕の泊まっていた2階のシングルルーム二つ分の、
さらに2倍ほどもある広い部屋だった。寝室も別れている。父さんのベッドはかなりでかい。


「随分贅沢な部屋だね。ベッドもふかふかだ。」

「ドイツ人は無駄遣いをしないからな。どう見ても学生のお前には格安の部屋を回したわけだ。
お前がデラックスシングルを借りようとしたらもっと安い部屋があると言われただろうよ。」

「じゃあ、父さんは。」

「ふん、見るからに立派な紳士に見えたんだろうよ。」


ネクタイを外しながらにやりと笑った。
それでそんな笑い方さえしなければね、と心の中で言い返す。


「さっきまで惣流といたんだけど、病院から戻って来いって電話があって帰ったよ。」

「婆さん、いよいよ危ないのか。」

「そんなことはないって言ってたけど。婆さんって、そんな言い方失礼じゃないの?」

「古い付き合いだ。学生の頃からのな。まぁ許された愛称と思えばいい。」

「学生の頃って、父さんとアスカの父さんとお祖母さんて、結婚前からの知り合いなの?」

「まあな。」


大学時代を卒業後、ラングレーさんは会社の都合でドイツにさらに留学していた時期があり、
そこで知り合ったアスカのママと結婚したらしい。


「そこに我々もお世話になっていた事があるというわけだ。」

「え、我々って?」

「ユイと俺の事だ。それに、ラングレーの細君はユイとも以前から友人だったからな。」


知らなかった。ラングレー一家と碇家は、僕が知っている以上に色々なつながりがあったんだ。
考えればいくら友人と言っても、亡くなった奥さんのお母さんが危篤だ、といって駆けつける
のは、相当特殊な事だと思う。父さん自身がそのお祖母さんと相当濃い関係があるんだ。

僕がアスカと一緒にドイツに来たのだって、只の友人関係というだけじゃないからだもの。

そうか、元々そういう事があったから父さん達を通じてうちのジュウシマツが貰われていったのか。

父さんは海外を飛び回っているから、時差ぼけなんていつものことらしく、着替えるとすぐに
どこかに出かけていった。病院にいくのかと尋ねたのだけど別件だと言っていた為、僕は残った。
アスカから電話があるかと思っていたんだけど、その夜はとうとう掛かってこなかった。
僕は日本に電話を入れた。レイが出たけれどむこうはもう学校へ行く時間で忙しそうだった。


「ねえ、アスカちゃんは大丈夫なの。落ち込んでない?」

「いや、夕方食事を一緒に取ったきり連絡がないんだ。」

「待ってるだけじゃなくて、こっちからも連絡取らないとだめ。お父さんどこ行ったんだろうね。」

「さぁ、割と秘密主義の人だから。携帯も繋がらないし。」

「お兄ちゃん、これから責任重大だよ。アスカちゃんもお父さんと同じで肝心な事なかなか言わない
タイプみたいだし。ああ、もう行かないと。」

「大丈夫だよ。任せておけって。」

「お兄は天然な所があるから。よく周囲を見て、敏感に反応しなさい。」

「天然はお前だろ!どっちが歳上だかわからないな、まったく。」

「とにかく、自分だけの感覚で動いちゃダメ。女の子って色々難しい事考えるんだから。」

「男だって色々考えるよ。」

「晩御飯、トンカツがいいか餃子がいいか凄く悩むくらいはね。」

「それってお前のことだろ!
アイスクリームのバニラとチョコとどっちがいいかとか10分も迷うくせに!」


電話の向こうでレイが苦笑している顔が見えた気がした。確かに僕の方からも積極的に動かないとな。
僕は少なくとも父さんが帰ってくるまで起きていようと思い、電話を切ると持ってきた本を読み始めた。

テレビを見ようと思ったんだけど全然言葉がわからない。それにほとんどの(BBCとかCNN以外の)
放送は11時でお終いになってしまった。日本みたいに深夜放送ってやらないみたいだった。
本を読み終わってしまうと何もする事がない。何も。

しょうがないから、僕は窓を開いてライトアップされた中央広場を見下ろした。
いつの間にか雨は上がって、ごく薄い霧が街を漂い、街路灯が滲んで見えた。
噴水の音だけが、静かになった広場全体に響いている。


「あれ?」


あの、噴水の縁に腰掛けているのは、もしかしたら。


「あれ、アスカじゃないか。」


この時間になるとウルムの街はシンと静まり返って、街路灯の灯りが明るい分、寂しい景色だ。
その噴水の縁石に腰を降ろしているのは、赤いレインコートに薄手のマフラーを巻いたアスカだった。
ドイツは地図を見るとわかるけど樺太より北にある国だ。日本より寒いのはいうまでもない。
さっき別れた時より、気温もさらにぐっと下がっている。

「あのバカッ、この寒いのに何してるんだよっ。」


僕は部屋を走り出て、噴水に向かって走っていた。


「アスカッ。」

「あ、シンジ。」

「この寒いのに何してるんだ。とにかく僕の部屋にはいりなよ。」

「部屋の灯りが付いてなかったから、どこかに出かけてるんだと思って待ってた。」


あっ、そうか。それで外で待ってたのか。


「ごめん、連絡しとけばよかったね。父さんが来たんで3階に移ったんだ。」


フロントの人が気がかりな様子でアスカと僕をじろじろ見比べている。どう見たって僕らは
兄妹には見えないし、そうなると、深夜に連れてきた女は娼婦か何かに決まってる、と思っているんだ。
早口でなにか言っている。多分この人を連れて入る事はできないとか言っているんだ。多分。
困ったな。わたしの友人ですってなんていうんだっけ。
フロントの人はますます怪しげな目で僕を見る。きっと父親の目を盗んで女を連れこもうとしている
不良少年に見えてるんだろう。アスカもアスカだよ。今日に限ってどうしてそんなに濃い化粧をして
いるんだよ。


「あ、アスカ、何とか言ってよ。」

「あたしドイツ語わかんないもん。」

「な、なんだってぇ?そんなの詐欺じゃないか。君ドイツ人なんだろ。」

「失礼ねえ、あたしの国籍は日本、その前はアメリカッ。ちゃんと憶えときなさいよ。
昔はともかく今のママと結婚したときにパパは日本に帰化したの。だからあたしも日本人!」

「あー、肝心なときに役に立たないんだから。」

「な、なんですってぇ〜、あんたあたしの事を侮辱するわけっ。」


立ち締めで釣り上げられる。げほげほっ。
そのおかげで一夜漬けで憶えたドイツ語携帯用例集の一節が頭に浮かんだ。漠然と。


「W- Wir sind jetzt endlich verheiratet!」

「へ?」


アスカは真っ赤になって僕の首から手を離した。
フロントの人は『おー』とか何とか言ってキーを渡してくれた。
アスカはそのキーを引っつかむと


「や、やだっ。」


と言いながらエレベーターに駆け込んだ。
僕一人がぽつんと残された形になって、ポケットから出した旅行用携帯用例語句集のボタンを押した。

『Wir sind jetzt endlich verheiratet!(私達、ついに結婚しました!)』

とんでもない文章を引用しちゃった。階段を駆け上りながら思ったがもう遅かった。


「全く何てこと言うのよ。心臓が止まるかと思ったじゃないっ!」


後ろ手にドアを閉めて溜息をついた途端、アスカに怒鳴られた。


「ご、ごめん。ちょっと待てよ――どういうことさ。君、ドイツ語はわかんないんじゃなかった?」

「あー、ちょっと。ちょっとだけわかるのよ。」


アスカは、一瞬しまったという顔をして、赤い顔のまま後ろを向いてしまった。
ここまでくれば僕がいくら鈍くたってわかる。
きみ、僕のこと騙したわけだね。このっ!


「嘘だ。」

「う、嘘じゃないもん。」

「じゃあ、なんでさっきのが間違いだってわかるわけっ? どうして赤くなってるわけ?」

「そ、それは・・・」

「それは・・・?」

「あーもうわかったわよ。はいはい、さっきは困ってるの見て面白がってました。これでいい?」


そう言うと、さも楽しそうにベッドに飛び込むみたいに腰掛けてけらけら笑い出した。
あ、やっぱり。全くもう適わないなっ。
それにまたハイテンションに戻ってる。今日のアスカはやっぱりおかしいよ。
大体、こんな真っ赤なコートあんまり見かけないよね、同じ赤でも毒々しくなくて綺麗な色だけど。


「だいたい、外国ではこんな深夜に出かけるのって凄く危ない事なんだろ。気をつけろよ。」

「大丈夫よ、こんな田舎町で。」

「そうでもないだろ、あの大尖塔は世界一の高さだから結構観光客が多いって聞いたけど。」

「馬鹿ねっ、お寺の屋根なんて見に来るのは老い先短い爺さん婆さんに決まってるじゃん。
さっきのレストランだって壁際の方はみんなお年寄りばっかだったでしょ。」


夜空にそびえているライトアップされたゴチック様式の尖塔。
天国にたった一歩でも近づきたいという願いが込められてるそうだ。



「まったく。人間の魂って電波みたいにあの天辺から発信されるとでも思っていたのかしらね。
昔の人は何考えてたんだか。ハッ。そんなに天国に行きたかったら教会建てるよりもっと大事な
事がいっぱいあったでしょうに。皆が笑って、明るく暮らせるような工夫に使えばよかったのよ。」


無宗教だと常々言ってるアスカらしい発言ではあるけど、この場所でそれを言う?
有名なケルンの大聖堂より高いと言うこの尖塔は、完成寸前にケルンの聖堂の方が高いという
情報が入って、対抗上急遽高くしたんだことを観光案内で読んだ。
聖なる尖塔でさえ、民衆の他愛ない競争心や見得の張り合いなんてものがその動機にある。
神様を尊ぶ気持ちなんて、彼らには二の次だったことだろう。
そこにあるのは、陽気な民衆の明るいエネルギーの発露。
奇しくもアスカの言った事は、歴史の中では実際にあったことでもあったんだ。だけど。


「アスカ。どうかしたの?」

「な、なにもないわよっ。」

「ならどうして、そんなに濃いお化粧したり、派手な服を着てるのさ。」


暫く、アスカは外を見たまま黙り込んだ。でも、その背中は僕の事を求めている背中じゃなかった。
たしかに、頼りなげな印象を受けたけど、肩を怒らせ、僕の助けなんか要らないって拒絶してた。

僕らはそれきり黙りこんだ。
アスカは沈黙に耐えられなくなったように窓を開けた。
その時、街路灯が節約のためか一つおきに消えた。
尖塔や、広塲をライトアップしていた灯りも消えた。噴水も止まった。
噴水のたてていた水音が消えると、静寂が辺りを支配した。本当の夜が街を包んだ。
これが、本当のこの街の夜の姿なんだ。
後に残ったのは運河の側溝を流れるせせらぎの音。僅かな音は街の気配をさらに静かに感じさせる。

暫く、その静かになった町を眺めていたアスカは。破風の雨戸を閉め、また窓をしっかり閉めたあと
カーテンを引いた。
まるで暗闇がこの部屋に入り込むのを警戒してでもいるように、慎重に、厳重に。


「せっかく、来て貰ったけど。」


アスカはやっと、みたいな声で言った。


「来て貰わない方が良かったかも。」


そう言って、振り返るとカツカツと靴音を響かせて、ドアノブに手を掛けた。


「待てよ、君が来てくれって言ったんだよ。何も僕に隠す事なんか無いじゃないか。」

「何も隠してなんか無いわよ。変なこと言わないでくれる。」

「お祖母さんの調子がよくないんだろ。大好きなお祖母さんの命が少しづつ細くなっていくのを
見守り続けていくのって、確かに辛いと思うんだ。」


細くなっていく命の輝き。
祈りの声。
そこにいた、その人の思い出と、彼女から与えられた思い。
繰り返し思い出す、セピア色の想い出。
皆が息を潜めて、最後の瞬間を待ち続けてる。
人間の最後の炎の輝きを見守る。


「お祖母さんは、唯一の血縁である君に、側にいて欲しがってる、きっと。」


僕は、一生懸命アスカに語りかけた。
頑張れって。お祖母さんは君が来てくれてきっと喜んでるよって。

アスカは死んでいくお祖母さんを見て、きっと心を痛めてるんだ。
優しい気持ちが辛さを増してしまうんだ。可哀そうなアスカ。
僕が支えてやらなくちゃ。

アスカが、顔を持ち上げて、僕を見た。


「違うの。」

「え?」

「そんな、シンジが思ってくれてるようなことじゃないの。」

「じゃあ、一体どうしたって言うの?」

「そんな気持ちで悲しんでいるんじゃないのよ。…自分で嫌になっちゃってるの。」

「どういうことさ。」

「最低ってこと。」


アスカはぼんやりと中空を見つめた。
僕を見てるんじゃないんだ。僕がいないみたいにその向こうを見てるんだ。


「何て言えばいいのかな、死ぬってさ、そういう事じゃないってこと。」

「アスカ。」

「ううん。やっぱり言えない。」

「なんだよそれって。」


ぼんやりと焦点のない目で、アスカは僕の顔を見ていた。
しっかり僕を見て、アスカ。
濡れたような唇が少し開いている。その唇の形を僕の脳に焼き付けるオレンジレッド。
明るい赤のぽってりとした唇は、オスである僕を吸い寄せるためにあるに違いない。
唇と潤んだ目元は僕の感情を強烈に揺すぶった。


「なんか、暑い。」


レインコートを脱ぎ捨てて脇に置いた。その下はラフなシャツとミニのスカートだった。
アスカの匂いが部屋の中に充満してるように思えた。君は、いつもと少し違う。
シャツのボタンの間から、僅かに素肌が覗いている。僕は相当な努力をして目を背けた。
アスカの馬鹿っ。僕の身体は物凄く正直なんだぞ。

何でこんな扇情的な格好をしてる?
僕が一人きりでいると思って尋ねてくるときの格好じゃないだろう?
上ずりそうな声を押さえつけ、何気ない風を装って尋ねた。


「明日は何時に来る?」

「まだ、わからない。でも、また必ず来る。」


僕は、その言葉に、曖昧に肯くしかなかった。


「必ず来てよ。僕は君の傍にいたい。君だって、僕の傍にいなくちゃダメだ。」


部屋の電話が鳴った。その電話をアスカが取り上げた。


「パパが迎えに来てくれたみたい。あたし、帰るね。」

「うん。また明日。」

「うん、きっと。シンジのお父様も一緒よ。」

「父さん、君のパパと一緒だったんだ。」

「親友だからね。いろいろ話があったみたい。」


父さんたちは一体何を話したんだろう。人が死ぬという事は悲しい事だし、その人と
想い出を共有してる人ほど辛いものだと思う。
アスカのように、その人が掛け替えのない思い出と結びついているならもっとその
悲しみは深いだろう。

でも、アスカと僕は、多分今全然別の事を考えているんだ。アスカの心が震えているのは
確かだけど、僕はその思いに全く共感できていない。そこにある、虚ろな笑み。
アスカと僕の間に理解しあえていない、共感しあえない、薄くて強靭な膜があるようだ。
どんな手段をとってもアスカをここから帰しちゃいけないんじゃないか。そう思った。
でも、それを実行する事なんか、今の僕には出来ないわけで。


「じゃあ。」


そう言って、アスカは僕の横をかすめるようにドアから出て行った。


「アスカ。」


やっぱりいつものアスカの香りじゃない。振り返った。大人の香水と石鹸の匂い。
ちょっと病院に集まって、そのあとわざわざ家に帰って、シャワーを浴びて身体を洗ってから
香水を纏い、僕のところに来たんだ。


「なに。」


君は何故、そんな忙しいことを? しかもこんな遅くに僕を待ってた。


「いや、なんでもないんだ。」


アスカは廊下に出ると、エレベーターじゃなくて階段から降りていった。
足が悪いのに、下りは危険だと思ったけど僕は何も言えないまま部屋の中で立ち尽くしていた。
そこに入れ替わるように父さんが入ってきた。


「随分遅くまで部屋に女の子を入れていたのだな。少し注意しろ。この街は結構煩いぞ。」

「う、煩いって何が。」

「その種の女だと誤解されると拘束される場合もあるということだ。
まして――俺たちはここでは外国からの入国者だ。手加減はない。」

「う、うん。」

「わかればいい。寝るぞ。」


父さんは自分の寝室に入っていった。ドアが開け放しだったので背広やワイシャツを脱ぎ、
クローゼットに掛け、靴に靴下を放り込んで、そのままベッドに転がったのが見えた。
僕も、シャツにジャージのズボンだけをはき、毛布にもぐりこんだ。
どうしたんだろう。その日に限って僕はなかなか寝付けなかった。アスカの様子がちょっと
おかしかったのが気にかかったのかもしれない。
それとも、僕が初めて向かい合う事になる人の死と言う事に意識しない怖れを感じていたのか。


「父さん。」


わざわざ、顔が見えないように壁に向かって寝たのに、父さんを小さな声で呼んでしまった。


「なんだ。」


返事があるとは思っていなかった。だからつい本当の事が口から出てしまった。


「人が死ぬって、どういうことなんだろ。」


おまけにとんでもない事を尋ねてる。こんな事に寡黙な父さんが答えるはずないのに。


「それはお前にとって、どういう意味を持つのか、ということか。」

「ううん。万人にとってということ。」

「そんなものに一般論は無い。死を物理的に語るのならそれは無に帰るという一元論だ。
形而上的に語るなら至高の存在への道筋とも言えるだろう。」


溜息が一つ。それがひどく僕の記憶に残っている。


「結局答えは人の数だけあるということかも知れん。死ぬという事は個人的なことだが、
それだけには留(とど)まらないという事も事実だからな。」


いつになく、父さんは饒舌だった。
死は、父さんにとっては語るべきものが多いのかもしれない。
ただ、その事を僕に直接語ってくれることは、決してないだろうとも思う。


「じゃあ、母さんの死は、どういう意味があったと思う。」


応えはなかった。僕はもしかして父さんを怒らせてしまったのかと思い、寝返りを打って
父さんのベッドを見た。
身じろぎ一つせず、父さんは最初の格好のまま、仰向けでベッドに転がっていた。


「ユイは。」


父さんは口を開きかけて、また暫く黙り込んだ。そしてそれきりいつまでも応えは無かった。


「父さん?」

「もう寝ろ。」


そう言って、父さんは壁の方を向いてしまった。
父さんの中では、もうずっと前に死んでしまった母さんの事が未だに消化しきれていないんだ。
そのことだけは僕も感じていた。若かった父さんは母さんの死から逃げた。
父さんが僕らの元に戻ってきたのは、リツコさんが必死で父さんを立ち直らせたためだ。
そうでなかったら僕らはもっとずっと打ち捨てられた子供時代を送ったことだろう。

あの時、父さんは自分がまだ生きているという事を忘れてしまっていた。
その炎は消えかけていた。リツコさんはその父さんの閉ざされた心を開く事に成功したんだ。
リツコさんと、死んでしまった僕の母さんは、力を合わせて父さんを立ち直らせた。


死んでいくお祖母さんを見て、アスカは自分の中にある命の炎を余計に意識してるんだ。
生きるということはどういうことだろう。
死と並んでいれば、その輝きが死の闇に吸い込まれていきそうに思えるだろうか。
ずっとお祖母さんの傍にいて、アスカはお祖母さんへの愛情と自分を脅かす死の影の
両方に挟まれてもまれ続けているんだ。
アスカ自身のお母さんの事だって。僕は良く知らないけれど。
僕はリツコさんのように、死とすれ違って磨耗してしまったアスカの心を元に戻させないと。


その事を、どうアスカに話せばいいのだろう。どう接すればいいんだろうか。
















第42話へつづく

『もう一度ジュウシマツを』専用ページ

 

もう一度ジュウシマツを(41)天使の微笑と死神の誘惑はどちらが男の子にとって魅力的か(前)  2005-05-01 komedokoro






「もう一度ジュウシマツを」第41話です。
題名が長いです(笑)。専用ページのリスト枠にようやく収まりました。
これ以上長いのは禁止しないと(冗談)。
さて、いよいよ話はドイツが舞台です。
ドイツの町は特にバイエルン州の田舎の夜は静からしいですね。
喧騒の都会から静寂の町に。
それだけにアスカの心中はいかがなものでしょうか。
いくら父親やシンジからあとのこと(大会欠場)を心配しなくてもいいと言われても
アスカは当人です。その心中は察しても余りあります。
その上唯一の血縁者として死に逝く祖母のそば近くにいる。
精神的に不安定というよりも安定したままひとつの方向にだけ思考が向いている。
その安定したまっすぐな思考が間違っているものだとしても。
そのアスカの間違いにシンジが気付いています。
彼も色々な経験を受けて成長したものです。
がんばれ、シンジ。そう彼を応援せずにはいられません。
ご投稿、ありがとうございました、こめどころ様。
(文責:ジュン)

 作者のこめどころ様に感想メールをどうぞ  メールはこちら

SSメニューへ