− 42 − 「天使の微笑と死神の誘惑は こめどころ 2005.5.8(発表) |
朝起きると、既に父さんは部屋におらず、時計は8時半を指していた。
急いで服を着替え、一階の食堂に下りた。そこで父さんは朝食を前にし、新聞を見ていた。
ひときわ目立つその容貌と体躯。アジア人としては身体が大きいというだけではない。
周囲の人がみな避けたいと思うような、そういう迫力、雰囲気があるんだ。
草食動物が肉食獣に近づかないのと同じように、本能的な畏怖感を憶えさせるタイプなんだ。
だが、そこに近づくと僕は少しほっとした。珍しくサングラスをしていない。
それだけでもいつもの10倍はましだった。
「おはようございます、父さん。だいぶ寝坊しちゃった。」
「やっと起きてきたか。もうすぐ朝食の終る時間だ。」
ボーイが近づいてきて何か言う。父さんが応える。ああ、きっと朝食のメニューを決めたんだ。
「何を頼んだの。」
「お前の好みどおりだ。食パン3枚、スクランブルドエッグ、ベーコン2枚、ソーセージ5本。
プレーンヨーグルト、ボイルドエッグ、パンケーキ、アイスミルクティー、トマトジュース、
グレープフルーツジュース。
ポテトと焼いたチキンの薄切り。グリーンサラダ。コーンポタージュかミネストローネ。」
「品数随分多くない?それって2人分くらいあるんじゃ…」
「自分でわかっていないのか。お前は2人前以上毎朝食べてるだろう。」
「そんなに食べてないよ。ご飯だって2杯くらい――確かに多いかも。丼でだもんね。」
父さんは薄笑いを浮かべて、わしもお前の頃は鬼のようによく食った、なんて言い出した。
こんな話、日本では交わしたことはなかった。こうしてサングラスをしていない父さんは、
意外と優しい目をしている。アスカみたいにカワイイとまでは、僕には言えないけどね。
「高校生か。すっかり大きくなったな。」
それでもまだ長身の父さんには届かない。父さんは180cm少しあると思う。
僕の亡くなった母さんはあまり大きい人ではなかった気がするけど僕自身から見れば大きかった
訳だからそのせいかどうかはよく分からない。
でも、柔道の腕前が、今のところ父さんには遥かに及ばないのは事実だ。
もし――もしだよ、僕とアスカが結婚するような事があったら、その時は大柄で柔道の得意な
息子が出来るかもしれないとは思うけどさ。
「どうした、顔が赤いぞ。」
突然突っ込まれてはっとした。なんてこと考えてんだろ!
「えっ、そうかな。そんな事ないと思うけど。」
どきんとした挙句、口から気になっていた事がうまい具合に飛び出した。
「あっ、そういえば、惣流の大会出場辞退の件はどうなったの。」
「心配しなくていい。経営会の方は何も言って来ていない。市や県の委員会の方は大会
当日まで待つと言ってくれている。つまり事前に届けずにいて、当日不戦敗という形をとる。
もちろん同窓会は承知の上だ。リハビリも続けさせる。葛城も承知している。」
大会は来週の日曜だから間に合う可能性もある。でもそれはあいつの足の回復と、そして
お祖母さんの、その、状況に掛かっている訳で。
「どうやってそんな根回しができるのさ。こんな短い時間で。」
あんなに混沌としていたのに、いつのまにか全部の足並みが揃っているなんて信じられないよ!
「大人は、子供を守るためにいる。
それに物事には、大人同士でしかわからぬ交渉の要(かなめ)というものがある。」
そう、父さんは切り出した。
だから大人にはたいした事ではなくとも、子供や女性には難しい事だってある、と。
そのことを教師に代わって交渉し、後輩選手の便宜を図るのはOBとして当然の事だ。
教師というのは学校という世界の外では意外と世間知らずなものだったりするからな。
交渉ごとはわしらにとっては毎日のルチーンワークだ。たいして負担ではない。
そんな事を話した。
「だから任せておけることは任せておけばいい。そのための親だ。」
父さんの口の重さは今に始ったことではないけれど、父さんがこの事で結構苦労した事を
僕はその雰囲気から感じとった。
別に何か裏づけがあるわけじゃないし、僕には分からないことだらけだ。
それでも、父さんはできる限りの事をして、アスカを守ってくれたんだという確信があった。
胸が一杯になったけど、僕も礼をうまく表現するのが苦手な人間だった。相手が自分の親なら
なおの事で。
「ありがとう、父さん。」
それだけ言うのがやっと。
「ああ。」
父さんは、軽くそう答えただけで、顔の前に新聞を広げた。
僕は苦笑した。照れてる、父さん。父さんと僕、やっぱり少し似ているのかもしれない。
朝食が運ばれてきて、僕はそれを食べつくした。うーん、少し足りないかな、と思う。
「足りないか。」
「いや、いいよ。あとでまた何か買って食べる。」
このところ運動不足だ。腹八分目がいい。明日の朝からは少し走ろうかな。
その時、父さんが不意に今日の予定を伝えた。
「今日は、昼からラングレーのところに見舞いに行くぞ。ブレザーを出しておけ。」
見舞いに行くって?アスカのお祖母さんはかなりまずい状態じゃなかったのか。
もちろん、見舞いをするためにドイツまでやってきたんだけれど。
アスカは僕を病院に呼びたくないようだったから。いいんだろうか、と少し気になった。
だが、父さんが行くという事はラングレーさんとも話がついているんだろう。
「わかった。準備しておくよ。」
昨日とは打って変わって、空は快晴だった。
僕と父さんは、ドナウ川近くの森にある病院を訪問した。かなり大きな病院だった。
病室に通される。靴をスリッパに履き替え、背広の上から白衣を羽織る。エアシャワーを通り抜けて
家族の為のベッドが二つある部屋に。エアコンの音が静かに唸っている。
さらにその奥に静かな病室があった。
窓が開け放たれ、この病院を取り巻く、色づき始めた広葉樹の天辺が目の下に広がっていた。
「婆さん、俺だ。ゲンドウだよ。」
父さんは目を瞑って横たわっている人に顔を寄せ、声を掛けた。
「ゲンドウ?」
思ったよりしっかりした声で、返事が返ってきて、その人はゆっくり目を開いた。
「おやまぁ、久しぶりでお会いしたわね。」
「鬼の霍乱という奴かい。寝込んだと聞いてな、見舞いに来てやったぞ。」
「まぁ、情け無いことになったもんだよ。お爺さんの墓参りにも行けやしない。」
ああ、この喋り方。アスカのパパであるラングレーさんの喋り方にそっくりだ。
そして、彼女の表情といったらアスカにそっくりじゃないか。眉の動かし方、笑いの浮かべ方、
ジェスチャーまで。
考えてみたら、この人はアスカのお母さんのお母さんなんだよね。
だから、アスカやラングレーさんの日本語はこのお祖母さんに似ていて当たり前なんだ。
もし、アスカのママが生きていてここにいたら、と想像してしまう。
あいつと、このお祖母さんの間のMissinglink。
「おや、そちらの若い方はどなたかしら。」
「これが私の息子だ。シンジという。」
「おやまぁ、ゲンドウさん、あんたにそっくりの息子さんだね。」
「俺に似ていると言われるのは珍しいよ。大抵はユイに似ていると言われるんだがな。」
アスカのお祖母さんは、こっちに来い、と言うように僕を手招いた。
「なるほど、あんたがシンジ君か。確かにまだ細いからユイに似てると言われるだろうね。」
じっと見つめられ、差し出された彼女の手。
その手を握った。冷たい手だった。
「窪んだ眼窩、優しいが強い瞳、意志の堅そうな唇、控えめな笑顔、額と毛の生え際、
そしてあんた(父さんのことだ)にそっくりの長い指、大きな手。」
うんうん、とお祖母さんは肯いた。
「ユイさんは、いい息子さんをあんたに残してくれたもんだね。」
「どうしようもない豚児ではあるが、――婆さんの眼鏡には適ったようだな。シンジ。」
「ゲンドウさん、喉が乾いた。済まないが一階のロビーに行って、グレープジュースを
買ってきてくださるかね。」
「お安い御用だ。」
「さて、シンジ君。あんた、うちのアスカと付き合ってるんだってね。」
父さんが出て行った途端にこれだ。さすがアスカのお祖母さんだけの事はある。
「アスカの話すことっていったら半分はあんたの事だからね、是非お会いしたかったのさ。
アスカ、もういいよ、出ておいで。」
クローゼットががたがたいったかと思うと、中からアスカが出てきた。いささか驚いた。
「そ、そんなところで何してたのさ。」
「あははは、7匹の仔山羊ごっこ。」
同じ笑顔が二人並んだ。うわー、ほんとにこの二人って良く似てるんだ。
アスカもおばあちゃんになったらこんな感じになるのか、ふーん。
「ほら、二人で並んで見せておくれ。おや、本当に可愛らしい。お雛さんのようだね。」
並んだ僕らの姿を見て、お祖母さんはとても満足したように笑顔を浮かべた。
ああ、この柔らかな笑顔もアスカの笑顔と同じだ。桜を見上げたりする時のあの笑顔だ。
「アスカや。わたしが死んだら、家にしまってあるお雛さんはお前にあげるからね。
ほら、この前お前が遊びに来てくれたときに飾ったあのお雛さんだよ。
二人に女の子が生まれたら、またその子に。」
「お祖母ちゃん、すぐそんなことばかり言うんだから。あたし達が結婚するかどうか、
まだ、わからないじゃな…」
「お祖母さん、そのこと僕が約束します。途中で振られなかったら。」
「ばっバカッ。シンジっ!」
悲鳴のような声を上げるアスカ。
僕らの掛け合い漫才を見て、お祖母さんは相変わらずニコニコしている。
「いい天気だねえ。こんな日にお前たちが尋ねて来てくれたのが嬉しいよ。
今朝までは、ずっと意識がなかったらしいからねぇ。
今日はできれば起き上がって散歩でもしたいくらいなんだけど。ちょっと動けないようね。」
「またという機会があるでしょお祖母ちゃん。
すぐに自分で歩けるようになるわ。あたしの足と一緒よ。」
「そうだねぇ。それまで神様がちょっとばかり見逃してくださるといいんだけど。」
老婦人は静かに笑ったので、僕は何も言えなくなってしまった。
「本当にいい天気。日本人にとっては、こんな青空はどこで見ても日本晴れなんだねぇ。
今でも、日本晴れなんていう言葉を日本では使うのかしら?」
「時々、ニュースなんかでそう言ってるのを聞きますよ。」
「青空を見ていると、死んだ兄の事を思い出すわ。鯉のぼりが大好きで、いつも5月になると
屋根の上によじ登って近所の鯉のぼりを眺めていたわ。それで私はそこまで粽や柏餅を届ける係
なのよ。今考えるとひどい話よね。でもその時はとても重要な任務を任されたように思えて、
一生懸命屋根まで上っていったものよ。おかしいわねえ。それが日本の思い出で一番古い記憶。」
なんていう透明感のある笑顔だろう。その笑顔は人には出来ないような不思議なもので。
「そのあとはもう、ずっと地の塩での思い出ばかり。キョウコ、今でも学校はあのままなのかしら。」
お祖母さんも地の塩学園の出身なんだ。そしてキョウコさん、アスカのママもそうなの?
ここにも僕を取り巻く人のつながりがある。だからアスカは地の塩に転学してきた。
アスカは気も止めない様子で話を続けた。
「今はもう、移転したから校舎も新しくなってしまったの。でも校庭の隅にあった、あの木造の
立派な図書館だけは、そのまま今でも新しい校舎の脇に建っている。
高い天窓の吹き抜けのある、ほんとに美しい建物よね。」
「ああ、あの図書館はあのままなの。当時はとにかくみんな本が大好きで、小等部から高等部まで
日を分ける程だった。図書館委員になるのは一種のステータスみたいなものだったのよ。
天窓から差し込む木漏れ日、エントランスロビーの吹き抜けを囲む2階のテラス。
さらにそれを取り囲む閲覧棚と読書席。学校より図書館に通ってたみたい。」
僕も知っている、女子部校舎の脇に林に囲まれたように建っている瀟洒な木造2階建ての図書館。
わざわざ、マロニエを周囲に移植し、芝を張り、旧地の塩学園にあった時と全く同じように再建された。
そこは男子生徒は立ち入り禁止の女子部聖域だ。
もともと修道院立の地の塩学園の発祥はこの今は図書館になっている校舎だったと聞いている。
古くからの先生方や同窓生の思い入れは特別なものがあるんじゃないかな。
「そうよ、わたし何でこんな所で寝ているのかしら。明日の宿題まだやってないんじゃないかしら。」
「え?」
「大丈夫。もう全部終らせてさっき鞄の中に入れたじゃない。」
「そうだったかな。ああ、そうよね。ヒロコ。」
ヒロコって誰の事だろう?
そこに、父さんが戻って、ラングレーさんと一緒に部屋に入って来た。手にジュースの小さなボトル。
何も言わないまま、吸い口にジュースを注いだ。
「あら、ラングレーさんお久しぶりですこと。」
「ご無沙汰いたしてしております。」
ご無沙汰って、ここ何日か毎日会ってるんじゃないの?僕はアスカを見る、アスカは唇に指を立てて
何も言うなと言う合図を送ってきた。
「キョウコはどこに行ったのかしら。せっかく彼氏が遊びに来てくださったのにね。」
そう言ってお祖母さんは楽しそうに笑った。
――ああ、そうなのか。
僕は急に何もかもが分かった。アスカは僕の傍に来ると、外に出よう、というように手を引いた。
父さんたちと話しているお祖母さん。
やってきた医師とナースとに入れ替わるようにして僕らは部屋を出た。
外はからんと晴れ上がった空が続いていた。大勢の人々が日光浴をするために外に出ている。
真っ青な空は、それがどこまでも高く続いている事を感じさせる。
丸いドームがかぶさっている、そんな事を思う。
もしかしたら、皆が天と呼んでいる場所が実際に存在するのかもしれないと思わせてくれる。
アスカは僕の手を引っ張って病院を出た。そして病院を包む森の中までやって来た。
どんどん、森の奥に入っていく。
でもその歩調は一定じゃなく、まるで彷徨ってでもいるかのようだ。
紅葉の始った幾重にも重なった森が日差しを遮り、大地を落ち葉が黄色く覆っている。
所々、木々の葉が空まで抜けていて、そこから陽射しが差し込んでいる。
リスが木の実を咥えてすばやく走り抜ける。青いラインのヨーロッパカケスが甲高く叫ぶ。
「アスカ、どこまで行くの。」
そう、声を掛けると、アスカは僕の手を離して立ち止まった。そのままうなだれた。
「驚いたでしょ。お祖母ちゃん、もう長いことは正気でいられないの。経験した時間や記憶の中を
言ったり来たりしてるだけなの。そして午後には眠ってしまって、ひどく熱を出すの。
それでどんどん体力もなくなって、意識もなくなって、からだも動かなくなっちゃう。」
「そうなんだ。」
「それだけじゃないのよ。窓開けといたからシンジは気が付かなかった?
物凄い悪臭が身体から出てくるの。本当に耐えられないほど。手術出来ない大きな癌があって、もう
助からないの。そこに巣くってる癌で身体はもうぼろぼろで、その為に悪臭の出る菌が増えてしまうの。」
アスカはまるで僕のほうを見ないで、次第に肩を落とし俯いていく。
「あたし、お祖母ちゃんがどんな事になっていても、ずっと付いていてあげようと思ってたの。
でもね、だめなの。できないの。匂いだけなら次第に慣れるのよ。でもそれだけじゃないの。
例えば、もうトイレなんかだって一人じゃ行けない。何回も取り替えてあげた。でもお祖母ちゃんに
笑いかけてあげる事ができないの。綺麗に拭いて上げなきゃいけないのに、おろそかになっちゃうの。
お祖母ちゃんは、あたし達が来るまで、病院の看護婦さんたちの看護をいやだって言って暴れてたの。
あたし達が変えてあげるときは素直にするの。あたし達をこんなに頼ってるのに。」
そんなのしかたないじゃないか。そう僕は心の中で思った。
でも、それを言いだす事ができなかった。僕はもし父さんがそうなったら、しょうがないと言うだろうか。
死んだ母さんは若いままだ。だからそういう場面を思い描く事は出来なかった。でも、考えたくなかった。
それはまだずっと先の話だと思いたかった。
「知らなかったけれど、お祖母ちゃんは学校の先生なんかもやってた事があるらしいの。
お祖母ちゃんの家にはいっぱい本があって、いろんな標本や資料があって、モニターが何台も並んでいる。
近所の人も長い付き合いだし、先生先生って呼んで大事にしてくれてるの。バラの綺麗な素敵なうちなのよ。
そんな人のところにでも、どんな人のところにだって平等にやって来るのね。」
アスカのきれいなワンピース。アスカが身体を動かすたびにその裾が美しく翻る。
「仕方ないの。仕方ないってわかってる。身体より先に、もっと惨い死がやってくることもある。
愛したり、受け入れるって事は、そういうことも一緒に受け入れるって事なんだって分かってるの。
だけど、あたしは何度も何度も手を洗って、シャワーを浴びて、香水を付けないでいられない。明るい色の
服を着て、思い切り明るくしないでいられないの。汚いって、お祖母ちゃんを汚いって思っちゃうのよ。」
アスカはそうせずにいられない自分がお祖母さんを否定してるみたいに感じてるんだ。
「もうすぐ、もう何日もしないうちにお祖母ちゃんは死んじゃうのに。
あたし、あたし何のためにここに来たんだろう!」
「アスカ、そんなに自分を責め…」
僕はそう言おうと思って口を開いたけど、途中で声が出せなくなって、代わりに涙が溢れてしまった。
何だ、情け無い。こんなことで僕は泣くのか。アスカは、僕よりもっともっと、ずっと辛いんだぞ。
僕は後ろを向いたままのアスカの肩をやっと掴んだ。アスカの強張った肩。俯いてた顔が少し上を向いた。
「あたし、汚いよね。心が、汚いよね。」
「そんな…こと、ない。君がもっと辛いんじゃないか。」
そういったつもりだけど、どのくらい声になったのかもわからない。
多分、アスカは僕が掠れた声で何か言ったのしかわからなかっただろうと思う。
アスカの、肩が揺れた。それから、静かに、アスカの小さな泣き声が聞こえてきた。
しゃくりあげ、鼻を啜って「お祖母ちゃん、お祖母ちゃん。」と、ほんとに小さな声で、君は泣いてたよね。
その身体を、後ろから覆いかぶさるように抱きしめた。僕は必死に冷静になろうとした。
僕がしっかりしなくちゃ、アスカが安心して泣けないじゃないか。僕まで一緒になって泣いてどうするんだ。
そう思った。しっかりしなくちゃ、と心の中で何回も思った。
この腕の中で泣いている君。どんなにかアスカは辛かっただろう、誰にも言えない程辛かったんだ。
それを思うと僕はまた涙が出そうだった。いや、止まらなかったんだ。
こんな時に、彼女をしっかり守ってやれなくて、一緒に泣いてるだけだなんて。
僕は最低だ。そう思った。
「二人はどこへ行ったんだ?」
喫煙ルームで2人の男が煙草をふかしている。一人は俺、もう一人はラングレーだ。
「先に出て行ったが、多分一緒だろう。」
日はもう翳リ出している時間だ。婆さんも疲れたのか深い眠りに落ちてしまった。
これから夜半に掛けて、彼女を熱発が襲う。そしてそのたびに彼女の命が削り落とされていくのだ。
「すまんな、こんな所にまで。」
「別にお前のために来たわけではない。ユイと俺にとってもあの人は特別な人だ。」
ラングレーは背中を丸めてつぶやいた。
「俺自身にとってもな。あの人がいなかったら、キョウコの死に耐えられなかったろうよ。」
そして、幾分憔悴した表情で俺に向かい小声で言った。
「アスカは、もう限界だった。シンジが来てくれて、少し楽になったようだ。」
「そうか。子供達にはまだきつかったかな。」
「俺はいい息子とは言えなかった。キョウコを死なせ、アスカの顔を見せに来るのも怠った。
時間はまだタップリある様な気がしてたんだ。年寄りの時間は我々よりずっと早く流れる事を
忘れていたんだ。いや、この街にあるキョウコとの想い出に触れるのが怖かったのかもしれん。
子供だけではなく、俺自身が老いという形で義母の死に向かい合うのを避けていたんだ。」
「そうでもなかろう。誰でも人の死を本当に冷静になど見ていられるものではない。
俺たちくらいの齢になってもな。昔は家で死ぬものだったというが、俺たちでさえ親は病院で死んで、
末期(まつご)に間に合わないのが普通だ。完全看護ということは子供すら近くにはいないという事だ。
大抵の人間はたった一人で死を迎える。子や孫に看取ってもらえる人間は幸せな例外に過ぎない。」
「あの人にとっては、日本で死ななかった方が幸せだったということか。」
「この国の医療制度は個人の希望に沿う事を優先するからな。」
片手に持っていたブラックコーヒーの缶を同時に飲み干した。
「これは苦いな。」
「ひどい味だ。」
病院敷地内でだけ使えるコールフォンが、静かなメロディーを流し、呼び出しの点滅を始めた。
もう一度ジュウシマツを(42)天使の微笑と死神の誘惑はどちらが男の子にとって魅力的か(中) 2005-05-08 komedokoro
アスカが前のお話のような行動をしたのはこういうわけだったのですね。
祖母の死の匂いを断ち切りたかったため。
しかも何となくという雰囲気の匂いではなく、
直接的な死に繋がる悪臭を。
ここで悪臭という悪い言葉を使ったのはアスカの意識を前提にしたためです。
当然、ああいった匂いが芳しいわけはなく、間違いなく悪臭と言い切れます。
でも私たちはそれを悪臭とは言いません。
死に逝く者へ、または死と戦う者たちへの敬意をこめてあえて何も言わないのです。
でも、アスカはその匂いが気になってたまりません。
それは何故でしょうか?
ひとつには死を予告されている祖母の意識があること。
さらに悪いことにはその意識が混乱しているのです。
時には亡き母キョウコに間違われる。
母親が死んだことをそしてその母の元に祖母もすぐに向うことを見せ付けられているのです。
それを直接アスカの意識に結び付けているのが、匂い。
その匂いにアスカが我慢できなくなってしまうのも無理はないでしょう。
そしてその匂いを消すための行為を彼女自身が責めてしまうことも。
この地にシンジがいなければどうなってしまうか。
明らかにシンジが自分の最後の頼りだということも彼女は自覚しているのです。
ところがその意識さえも彼女は責めようとしている。
すべてを聞いた今、シンジの肩には全国ウン千万のLAS読者の期待がのしかかっていることでしょう。
がんばりなさいよ、ゲンドウとユイの息子。私の孫娘のために。
彼女が正常な意識を取り戻した時には、きっとそう願っていることでしょう。
言葉にはせずに。
ご投稿、ありがとうございました、こめどころ様。
(文責:ジュン)
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