日産セントラ(その10)


◆卒業時に譲渡◆
1994年6月、私自身が卒業する時になると、購入した時と同じく、大学内で広告を出して、買ってくれる人を探すことにしました。車の写真を撮って紙に貼り付け、横に手書きで値段と仕様を書いたものを原稿とし、それを何枚か拡大コピーし広告を作りました。この広告を図書館や食堂の共用掲示スペースに貼って、電話を待ちます。原稿は日本に持ち帰ったので、その写真を載せます。↓↓

学内には、引っ越しする学生が家電品や自動車を売るために、このような広告を自分で作り、いろいろな場所に貼ります。私もすでに、机、本箱、ソファ、トースター、アイロンなど、家財も同じ方法で売却しておりました。買ってくれた人は留学生が多かったです。
オクラホマでは、最後の最後に空港に行く時まで車が要るので、あまり早く売却すると、残りの期間のレンタカー代がかさみまます。かといって、ぎりぎりの日程で交渉とかしていると、うまく売れるかどうかわかりませんし、引き渡し日を限定すると、こちらの条件が不利になるうえ、直前になってやっぱりやめた、とかいわれる不安もあります。
帰国の一週間くらい前に、売却して、現金を手に入れられたら理想だと思っておりました。とりあえず、広告では、値段は2300ドルとしてみました。外観は、どこもぶつけていませんし、事故もしていませんでしたが、すでに10万マイル近く走行しておりましたし、塗装も痛んでいましたので、1700ドルくらいまでは下げてもいい、と思いました。
広告を出してしばらくすると、反応がありました。大学の駐車場で会う約束をして行ってみると、以前、数学系の何かの科目で一緒だった中国人(大陸)学生でありました。会うなり、お互い、なんだ、君か!と、この偶然に驚き、同時に、私は、相当安心しました。彼も安心したような感じでありました。
(留学生は、呼ばれ易いようにニックネームを名乗るのが常です。日本人は姓または名の一部を省略して愛称とするのに対して、中国人(大陸も台湾も)は、欧米風のニックネームを名乗ることが多いです。彼はゴードンと称してました。ゴードンです…と電話できいても、彼とはわからなかったのです。)
いかに米国で、しかも安い中古車の売買といえども、やはり、大金(私にとっては)が絡みますので、うまく売却できるかどうか非常に不安でした。
彼には、何度か宿題を教えてあげたことがあり、また、人柄もわかっていました。まずは、試運転ということで、私自身が2年前にしたのと同じように、彼と一緒に試運転にでかけました。今度は私が助手席であります。
オクラホマ市内を運転しながら、彼は、加速したりブレーキを踏んだりして、いろいろ試しているようでした。途中、彼のアパートに寄って、奥さんをピックアップして、奥さんの勤務先である中華料理店まで送りました。私は後席に移りました。彼は、グリーンカード(永住許可証)も持っており、CPA(公認会計士)の試験を受けるためにもうしばらくオクラホマで勉強するとのことでした。
車の値段の方は、最終的に1700ドルになったと記憶しています。買った値段のちょうど半額ですが、妥当な値段だと思います。 引き渡しの日、二人でTag Agencyに行き、書類上の手続を行いました。書類手続と同時に、その場で現金を彼から受け取りました。滞米中、あまり見なかった100ドル札だったことを覚えています。(米国では、「偽造の心配があって受け取りを拒否されることもあり、主に流通しているのは20ドル札まで」と本で読んでいましたが、そのとおりで、普通の場面では、一般的に20ドル札が上限で、めったに100ドル札は見かけない;当時)
その後、私はレンタカーを借りるため、売ったばかりのセントラで彼に空港まで送ってもらいました(町中にレンタカー会社はなく、また、空港は市の中心部からすぐの所)。空港で新しい所有者に運転されて去っていくセントラを見送りました。
タイヤ交換用のレンチ、予備のガソリンタンク、ロールカーテンのような助手席用の日除け、フロアマット・・・が私が二年間所有している間に追加された品々です。レンタカーのカウンターで、残り一週間の足となるシボレ−コルシカを借りて、それを運転してアパートに戻りました。


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