『ねぇ、ママ。
 今年のバレンタインデーはこんな程度だったけど、来年はちゃんと日本流でやり遂げてあげるんだから。
 覚えておいてよね、この一年で絶対に彼を私に夢中にさせるの。
 本当の戦いはこれからなのよ!』

 

 


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2006.11.23         ジュン






 アスカは進路に悩んでいた。
 担任教師からいい加減に書類を提出して欲しいと言われたのだ。
 どこの高校に進むのか。
 いやその前に、彼女の場合は進学するのか、それとも帰国するのかという大きな選択肢があるわけだ。
 彼女は言いたかった。
 「アタシの方がさっさと決めてしまいたいのよ!」、と。
 何故かというと、改めて書くまでもないだろう。
 彼女の進路を決定するための最重要項目がはっきりしないのである。
 しかも、それを彼女からはっきりさせることができない。
 もしそんなことをして、彼との仲がおかしくなってしまっては元も子もないから。

 現状を簡単に説明するとこうだ。
 アスカもシンジも互いの想い人の動向がわからずに、自分の進路を決めかねている。
 ただそれだけのこと。
 いつものようにどちらかが相手に質問すれば終わり。
 それなのに行動を起こすことができずにうじうじとその場で立ち止まってしまっている。
 ただし、この場合は彼の方が明らかに深刻な悩みである。
 もし変な質問をしてアスカが「ドイツに帰る!」などと言い出したらどうなるのか。
 その先は彼にとってとんでもない修羅場が待っている。
 ドイツに追いかけて行くか?
 そのような行動力が自分にあれば、もっと早く彼女に意思表示できているではないか。
 となれば、彼女との思い出に縋りついて学校にも行かず、この部屋でただ膝を抱えて生きていく方が自分には似合っている。
 いや、生きて…いけるか?
 シンジの背中にぞぞぞっと寒気が走った。
 首吊り、手首切り、投身……?
 無残な姿の自分をイメージして、彼は頭を抱えた。

 どうしてこんなマイナスイメージはいとも簡単に想像できるのだろう。
 アスカとの楽しい毎日…恋人としての…など、まったく妄想できないというのに。
 ああ、どうして僕はこんなに暗いのだろう。
 
 シンジの心はとめどなく沈んでいった。

 ドンドンドンッ!

「うわっ!」

 目の前で起きた物凄い音に彼は腰を浮かし悲鳴を上げた。

「何変な声出してんのよ」

 アスカの低い声。
 明らかに怒っている。
 シンジは先ほどの悪い想像に拍車がかかるような気がした。

「な、何?」

「はあ?」

 シンジは扉の向こうを…そこにいるはずのアスカに問うた。

「えっと、何なの?」

「アンタ…それってしらばっくれてるの?それとも…」

 何を怒っているのだろうか。
 シンジは今日の自分を思い返した。
 とりたてて喧嘩などしていないはずなのだが。

「ご、ごめん。わからないんだ。何なの?」

 しばしの沈黙が訪れた。
 そして、アスカの低い声がさらにトーンを落として彼の耳に突き刺さってきた。

「アンタねぇ。女の子にこんなこと言わせるわけぇ?アンタ、もしかしてとんでもない変質者だったの?
 もうっ、信じらんないっ。変態シンジっ!」

 馬鹿ならともかく変態とはどういうことか。
 変態だなど思われれば、彼女に嫌われてしまうではないか。
 かなり差し迫った調子で彼は自分を見直した。
 確かにズボンと下着を半分降ろした状態だから、見たところ変態と言われても仕方がない。
 
 あれ?
 どうしてこんな格好を…。

 ようやく状況を思い出した。
 最近、便秘がちでもう20分以上、彼はトイレに立て篭もっていたのだ。
 で、ぼんやりと進路のことを考えているうちに頭を抱えてしまっていたわけ。

「わわわっ!で、出るよっ!今すぐ!」

「ば、ば、馬鹿っ!すぐ出てこなくていいわよ!ちゃんと……ああっ、こんなこと言わせるな!馬鹿、エッチ、変態っ!」

 ばたばたと足音がリビングの方へと去った。
 何の処理もせずにトイレから出そうになっていたシンジは青ざめる。
 尾篭な話ながら、大きい方は何も出てなかったのだが。



 その数分後である。
 自己嫌悪で自室のベッドで見慣れた天井を眺めているシンジはふと思った。

 よく考えれば、これはとんでもないことなのではないか、と。
 自分のトイレの後に平気な顔でアスカは用を足している。
 これは、自分のことを家族のように…。
 ああ、違う、違うっ!
 逆なんだ。
 僕のことを異性として見て、少しでも好意を持っていたら、トイレなんて…。
 やっぱり、僕は…。

 トイレに座っているアスカは真っ赤に頬を染め、シンジの部屋の物音を窺っている。
 ここから出るところを彼に見られたくないからだ。
 同じ家に住んでいることはこれ以上になく幸福なのだが、トイレという分野においてだけは違う。
 できるだけ学校で用を済ませようとしている彼女だったが、土日だけはそうはいかない。
 デート(彼女視点。但し、彼視点でもある。因みに世間でもそう見られている)に出ている時は、
 恥ずかしいのではあるがしばしばトイレに向う。
 そうすれば帰宅してから、彼の前でトイレの扉から出てくるという世にも恥ずかしい行為を見せなくとも済む。
 アスカは溜息を吐いた。
 それにしても、どうしてシンジはああも平気な顔でトイレに入れるのだろうか。
 彼女は無意識に消臭スプレーのボタンを押す。
 因みにこれは無臭タイプ。
 ラベンダーやキンモクセイの香りはいかにもトイレの臭い消しだということを誇張しているように思えるからだ。
 何度も何度も消臭するためにスプレーの寿命は物凄く短い。
 しかし彼女はここにまで考えは至っていなかった。
 シンジもまた大量にスプレーを消費しているということを。
 だからこそこの家の消臭スプレーはすぐなくなってしまうのである。
 アスカはまた消臭スプレーのボタンを押した。
 この個室に入ってから6度目。
 但し、彼女は大にあらず、念のため。



 ママ。
 凄く訊きにくいことなんだけど、やっぱり訊きます。
 変な子だって思わないでね。
 あのね、つまり、ママはパパのいる前で平気でトイレに入る?
 冗談とかじゃないのよ。
 本当に困ってるの。

 


 アスカったら!
 返事に困るような質問をしないでくれる?
 でも、仕方がないわね。
 母親として娘に女性の心得を伝授するのは当然。
 但し、これはハインツには内緒よ。
 私にだって恥ずかしいって気持があるんですからね。
 
 

 
 この二人のやり取りはいささか露骨な部分があるので転載は控えよう。
 ただ、この他人には訊けない事を教えてもらいアスカはかなり勇気づけられた。
 それだけは間違いない。
 といっても、そこは惣流・アスカ・ラングレー。
 プライドの固まりの彼女がシンジの目前で気軽にトイレに入れるわけがないのだ。
 
 その頃、ここ碇家では夫婦がひしと睨み合っていた。
 碇ゲンドウはテーブルに肘をつき、組んだ指越しにまっすぐ見つめるおなじみのポーズ。
 碇リツコは椅子に背中を預け腕組みをし、冷たい眼差しを愛する夫へと向けている。
 但し、ぽってりと膨らんだお腹をかばうためにゆったりと座っているのだが。

「む…、その、なんだ。やはりここはわしが」

「駄目です」

「いや、わしはシンジの父なのだ」

「私は母親です」

「む、しかし、お前は…」

 義理ではないかという言葉は必死に飲み込んだもののもう遅い。
 リツコの眼が数倍増しになったような気がして、ゲンドウは心拍数が上がった。

「あなたを前にして先生が普通にいられると思って?馬鹿ね」

 ゲンドウは首を捻った。
 確かに相手を威圧するために彼はいろいろ工夫をした。
 何しろ中学高校時代は自らの熱い思いとは裏腹に周りの誰も説得できないという暗い時代を過ごしてきた彼だ。
 服装や風貌、そして言動に工夫を凝らし、今のスタイルを編み出した。
 それを見抜いたからこそ、あの若き日々に碇ユイは彼のことを「可愛い」と言ってのけたのである。
 そしてこの眼前で対峙している女性もそうだった。
 自分の野望と肉体的な欲望のために彼女を強引に抱いた。
 最初は道具として彼女を見ていたのだが、次第に自分の気持ちに変化が訪れてきたことがわかった。
 道具が人間に見えてきた。
 その変化に気づいた時、彼は恐れ慄いたのである。
 人の心は何と脆いものなのか。
 妻のことをこの世で唯一人の女性として愛しぬいていたはずの自分だ。
 彼はそれからリツコに対してことさらに冷たく当たった。
 それが度を越してしまったのが、彼女の査問会への身代わり出席と射殺という結末。
 そんな仕打ちを受けながら、サードインパクトを経て自分を殺したその男と結婚するなどとんでもないことだ。
 人間はロジックではないと身をもって知り、ただ苦笑するだけで彼女は己の復讐心や虚栄心を封じ込めた。
 そして自分の仕出かした行為に彼女と話をするどころか顔を合わせることすら恐怖していた男は、
 赤木リツコの開口一番の言葉に唯首肯することしかできなかったのである。

「結婚してもらうわ。物凄く痛かったのですから」

 このことがあろうがなかろうが、碇ゲンドウは尻に敷かれる男のようだ。
 それを歓んでいるのかどうかは筆者は知らない。
 ともあれ、そんな内面を持つ男は、あのような外面を世間に晒している。
 彼の内なる心を知らない者は二歩三歩後退したくなるような容姿である。
 普通の人間である、学校の教師ならばどうだろうか。
 リツコの指摘はまこと的の中心を射ていた。



 
 
 翌日。
 場所は第壱中学校の3年A組の教室前。
 窓側に置かれたパイプ椅子にはアスカとシンジが並んで座っていた。
 二人とも互いに相手を強烈に意識しているのだが、もちろんそんな隣の様子には全然気付きはしない。
 自分のことで手一杯なのだ。
 本日は三者懇談なのである。
 碇(旧姓綾波)レイ、碇シンジ、そして惣流・アスカ・ラングレーの順番で面談は行われる。
 その面談に望む役回りを決めるために、昨夜緊急夫婦会議が催されたわけだ。
 そして今、教室の中では担任教師の向かい側に、レイとリツコが座っている。

 哀れゲンドウはこの時刻は執務室であたかも彫像のように姿勢を崩さない。
 明らかに機嫌が悪そうで冬月でさえ会話しようとしない。
 何しろぶつぶつと口の中で何か言いながら、何かを鉛筆で書き込んでいる。
 書いては消し書いては消しでなかなか進まないクロスワードパズルを。

 さて、保護者として出席しているリツコは鼻高々だった。
 レイの成績は申し分なく、志望する高校への進学は間違いなく大丈夫だろう、と断言されたからだ。
 彼女は不思議だった。
 自分が学生の時、同じような言葉を教師から聞かされても内心鼻で笑っていたのである。
 当たり前のことを何をことさらに言っているのだ、と。
 そんな彼女の三者懇談は常に教師とマンツーマンだった。
 母親はいつも彼女に任せたと仕事に専念していたためだ。
 それをリツコは寂しいとも哀しいとも思わなかった。
 三者懇談など時間の無駄だと馬鹿にしていたのだった。
 それが今はどうだろう。
 自然に口元が緩んでくる。
 血の繋がらない娘というばかりか、彼女に嫉妬や憎しみすら覚えていた自分だ。
 母と娘というよりも年の離れた姉妹という方が似つかわしい。
 それなのにリツコはレイのことを寧ろシンジよりもわが子供のように感じている。
 その理由はいくら考えてもわからない。
 だから考えることを止めた。
 とにかくレイのことが可愛くて仕方がないのだ。
 あのボタンを押したのが自分であり、そのことをレイに許しを請うた。
 いや許しがなくともその事実を黙っていることができなかったのである。
 だが、レイは簡単に許した。

「だって、私は生きているもの」

 その言葉が全てだった。
 レイ自身自分がどのレイなのかまったくわからない。
 全ての記憶はあるのだ。
 赤木ナオコに絞殺された記憶でさえ。
 もちろんそんなことは彼女ひとりの胸の中に収めておくつもりだった。
 母の心を乱したくない。
 彼女にとって初めてできた母親がリツコである。
 その存在を大事にしたい。
 そんなことを思っているからこそ、これまでの経緯には知らぬ顔をして親子として暮らしているのだ。
 こうしてリツコもレイも互いを大切に思い、だからこそ教師の褒め言葉に相好を崩していたのである。
 娘は母親が喜ぶと思い微かに微笑み、母親は娘が誇らしく目尻を下げる。
 実の母親にしては若すぎる女性は時々膨らんだお腹を無意識に撫でていた。
 家庭調査票は何故か白紙の碇レイ。
 どう見ても実の母子ではなさそうな二人だ。
 それでもこんな反応を眼前にすると担任として嬉しくなってくる。
 そして、彼はついつい褒めちぎってしまった。

 そんなこんなで碇レイの懇談時間は予定よりも10分ほど超過してしまった。
 その間、廊下では沈黙が二人を支配している。
 二人ともこれから始まる懇談の内容をどうするか、それで頭が一杯だった。
 自分の進路は相手に合わせる。
 それはアスカもシンジも同様だった。
 だが肝心の相手の進路がさっぱりわからない。
 一言どちらかが問いかければそれで万事が解決するのだが、それができない二人なのだ。
 もし、それで相手が怒ってしまいとんでもないことを言い出したりすれば身の破滅だ。
 周囲の者は大丈夫だから確かめてみればと助言してくれるのだが、どうもその背中の押し方が悪いようで。
 この期に及んでも煮え切らない状況が続いているのであった。

 アスカは下っ腹が重たくて仕方がなかった。
 元来短気な彼女がこの間際まで自分の進路を決めることができない。
 それというのも隣にいる少年に確かめることができないからだ。
 ちらりと隣を見る。
 俯いた彼は学生ズボンの膝のところを皺になるくらいの力で握り締めていた。
 何か言おうとしたが何を言えばいいのかわからず、結局力なく溜息を漏らすと彼女は目を閉じた。
 その溜息を聞きつけて、シンジは自分の情けなさにさらに首の角度が傾く。
 まさに悪循環。
 もっとも彼の場合は生来の性格がそうなのであるからまだ仕方がないとも言えよう。
 問題はアスカの方だ。
 一見彼女にそんな弱々しい部分があるとは誰も信じられないかもしれない。
 特に同世代には。
 ミサトたちはそんなアスカの弱さを見抜いていったのだが、
 サードインパクトで彼女の心と触れ合ったはずのシンジは未だにその部分を埋めることができない。
 それが彼のジレンマだった。
 もっと大人にならないと駄目なのだと思い込んでいるのだ。
 今の彼で充分なのだとは想像もつかない。
 「好きだ」という一言で、彼のみならず彼女も幸福の頂点に駆け上れるなど思いもよらない。
 好意を持たれているのは間違いないが、それが恋愛感情という類のものであるとは信じられないのだ。
 だから、言えない。
 言えずに怏怏鬱鬱として黙り込むしかない彼である。
 今もそうだ。
 どうしようかと悩みながらもまったく結論を出すことができない。

「待たせたわね、あなたの番よ」

 扉の音すら耳に入っておらず、目の前でしたリツコの声に二人とも顔を上げる。
 彼女の言う“あなた”とはシンジのことだった。
 彼はアスカの顔も見ることができず、まるで処刑場に引かれていく死刑囚のごとき重い足取りで教室に向った。
  
 シンジの表情は教室の中でも冴えなかった。
 成績は中の上。
 得意科目もなければ苦手科目も特に見受けられない。
 公立高校への進学ならまず問題はなさそうだが、こういうパターンは教師としては実に喋りにくい成績であろう。
 成績優秀ならば褒めることもでき、悪ければ助言することができる。
 アスカのような自称天才の場合でも、日本文の読解力を話題にできるのだ。
 だが、シンジは実につかみどころがない。
 クラスでトップクラスなのは音楽と家庭科だけなのだから。
 したがって話題はいまだ未提出の進路に絞られる。
 先生とすれば彼の成績では高校進学以外は考えておらず、問題はどこに行くのかという点だけと思っている。
 公立か私立かで悩んでいるのだと決めこんでいたのだ。
 だが教師からの質問にシンジは答えられない。
 アスカの進むところに行きます、と心は決しているのだが口に出せるわけもなく、なおも彼は俯くばかり。
 先生はリツコに救いを求めたが、「我が家では子供たちの自主性を重んじてます」ときっぱりと言い切られ取り付く島もなかった。
 
 この時シンジが喋ったのは「ごめんなさい」「まだ決まってません」「もう少し待ってください」だけ。
 その3つを繰り返していただけだった。
 結果から言うと、シンジの進路は決まらなかった。
 しかしながら、まるでこの語の展開を完璧に予想しているかのようにリツコは薄く微笑んでいたのである。
 


「はっ、誰がどこに行こうか別にいいじゃない」

「アスカ。そんな言い方するんじゃありません」

 と、窘めながらもリツコは内心笑っていた。
 学生時代の彼女が言いたくても言えなかった言葉だったからである。

 まったくこの娘は…。
 こんなにハッキリとした性格をしているというのに、どうして肝心のことは言えないんでしょうね。
 ま、それが恋愛ってものの威力ってことでしょうけど。

 その恋愛の行く末を察知しているリツコにはそのような余裕があるわけだが、隣席のアスカには余裕どころではない。
 
 アタシの進路が一番知りたいのはアタシなんだってばっ!

 歯軋りしたくなるほどの焦燥感。
 貧乏揺すりしたくなる足を気力で押さえ込みながら、アスカは時の過ぎるのをひたすら待った。
 彼女にはそれしかなかったのだ。
 


 その頃、廊下では。
 アスカの面談が終わるのを待っている、戸籍上の兄と妹がいた。

「私、第壱高校に行くの」

「そうなんだ」

「先生、大丈夫だって」

「そうなんだ」

「アスカもそこに行くの」

「そうなんだ…」

 レイは口の中で「きっと」という部分だけ飲み込んだ。
 彼女の計算ではそれで全てが巧く行くはずだった。
 ところが想定外の反応だった。
 兄が自分の言葉すべてに生返事なのである。
 世にも重要な嘘をついているというのにまったく気がついてくれないのだ。
 現在、応用力というものを学びつつあるレイにとって、ここは正念場であった。

「お兄ちゃん。聞いて」

「うん、聞いてるよ」

「アスカは第壱高校に行くの」

「そうか…そうなんだ」

「だから、第壱高校なの」

 いつもとは違うレイのしつこさにシンジはようやく顔を上げた。

「えっと、レイが?」

 この時、彼女は新たな感情を覚えた。
 関西弁で言うなら、「あんなぁさっきからゆうとるやんけなにきいとったんやわれええかげんにせえや」といった具合か。
 ただ感情表現に乏しいレイは眉を顰めたに過ぎない。
 
「違う。ううん、私は第壱高校だけど、私だけじゃないの」

「僕は…まだ決めてないんだ」

 レイは今度舌打ちのやり方を義母に習おうと決めた。
 おそらくこういう時に使えるに違いないと思ったわけだ。
 その昔、金髪黒眉毛の白衣の女が時々舌を鳴らしていたのを記憶していたからだ。
 そんな妹の苛立ちをさらに酷くさせようというのか、シンジはぼけっとした顔で頭を掻いた。

「お兄ちゃんは…違うの。つまり、アスカが第壱高校を志望して…」

 その時、歴史は動いた。
 取るに足らない少年の歴史だが。

 シンジの目がかっと開いた。



「もういいじゃない。どっちにしてもアタシはもう大学を…」

 がらっと勢いよく扉が開いた音に反応して、肩越しに振り返ったアスカは息を飲んだ。
 滅多に見られない、凛々しげなシンジの顔がそこに見えた。
 彼はつかつかと歩いてくると、担任教師をじっと見つめてはっきりと言い切ったのである。

「僕は第壱高校を受験します。そして絶対に合格します!」

 かくも凛々しげな表情ができるのに、それが発動するのは彼の人生において片手の指の数を超えることができるのか否か。
 もっともこの一番重要な局面において立派に言ってのけたのは拍手喝さいを受けるべきところだろう。
 事実、廊下でパイプ椅子に座っているレイはぱちぱちと手を叩いていた。
 さらにリツコも微笑みを浮かべながら、「ついに言ったわね」とゆっくりと頷いたのである。
 反応が遅れたのは先生だった。
 
「そ、そうか。まあ、それはよかった。だがな…」

 こういう時の先生というものは必ずマイナス面も喋るものだ。
 彼はシンジの成績の凸凹が少ないことに苦しみながらも、全体的にもっと学力を上げることと理科を特にがんばるようにとアドバイスした。
 わずかながらも理科のテストの点が悪かったからだ。
 それに対してシンジは大きく頷き、「がんばります!では、失礼します!」と最敬礼して教室から出て行ったのだ。

 さて、アスカ。
 彼女は肩越しの振り返り姿勢で固まったままだった。
 それはそうだろう。
 好きで好きでたまらない男性の実に颯爽とした言動を至近距離で見せられたのだから。
 これは彼女にとって大いなる衝撃であったわけだ。

 シンジ、かっこいい……。

 他人から見れば失笑もの。
 アスカ本人でさえ、他の人間がこんな想いを抱いて異性を見つめていれば「バカらしい」と一刀両断していることだろう。
 ところが、夢見る乙女の如く潤んだ眼で、唇は僅かに開き、頬を微かに赤らめて。
 そんなアスカの表情をシンジはどう思ったのだろうか。
 その答は、ない。
 何故なら彼は教室に入ってから一度もアスカを見ることができなかったからだ。
 自分が彼女と同じ高校を志望することで、もしアスカが怒っているような表情をしていたら…。
 そう思うと絶対に彼女の表情を窺うことなどできはしない。
 だからシンジは、自分を見て蕩けるような顔つきのアスカを見ていないのだ。
 実に残念なことである。
 しかもこれはリツコのみならず第三者の先生までいる席での出来事なのだ。
 結果から言うと、アスカがこんな表情でシンジを見ることは二度となかったのである。
 訂正。
 二人きりのとき、もう少し突き詰めると…。あとは読者諸君の想像通りのシチュエーションだ。
 筆者はそこまで書かない。

 さてさて、蕩けるチーズの如きアスカ。
 今や彼女には時間の概念も何もなかった。
 ただ雲の上で漂うようにぽうっとなっていただけ。
 そんな彼女が下界に引き戻されたのは隣に座るリツコの咳払いだった。
 しかもかなり大きめの。
 びくりと顔を小さく振った時、リツコがさらに見事な後押しをしてくれた。

「さあ、アスカ。いい加減に冗談は止めて、さっさと進路を言いなさい。とっくの昔に決めていたのでしょう?」

 さすがはリツコである。
 これがミサトならば含み笑いの一つも漏らしたであろうに、彼女と来たら眉一つ動かさずにしゃあしゃあと言ってのけた。
 こんな援護射撃を無駄にするようなアスカではない。
 彼女は顎を上げて椅子から立ち上がると腰に手をやった。

「はっ、アタシは第壱高校に入ってあげんのっ。受験なんか馬鹿らしいから黙ってただけ」

 アスカはいともくだらないことを言うかのように振舞った。
 仁王立ちしてまで、それに気合を入れまくっての発言だから、リツコは笑いを堪えるのが大変だったという。





「レイ。よくやったわ」

「大変だった。お兄ちゃんを相手にしてると疲れる」

「ふふふ。あのぼけっとしたところがいいのかしら?アスカは」

 帰宅したレイとリツコはコーヒーで乾杯した。
 本気でげんなりとした様子のレイを見て、リツコはふと思った。
 まるでふがいない息子を嘆く母親のようにも見える。
 その点、自分よりもレイの方がよりシンジに近いのかもしれない。
 そのことに少しばかりの嫉妬心も起きたのは否定できない。
 これは碇ユイの遺伝子の力か、それとも…。
 と、その時点でこの問題について考えることをやめた。
 遺伝子も血もどうでもいい。
 今の家族、レイやシンジだけでなく、お腹の中の赤ん坊や将来義理の娘となるであろうアスカも含めて、
 愛する人々が幸せであればいいではないか。

「あら、動いた」

「赤ちゃん?動くの?」

「当たり前じゃない。生きてるのだもの」

 レイはきょとんとした顔でリツコの膨らんだお腹を見つめる。
 もう8ヶ月だ。
 人は母の胎内にいた時の記憶をとどめているという。
 胎教というものはそのためにあるのだ。
 とすれば、レイはどうなるのだろう。
 母の胎内を知らない子供。

「さわってみなさい」

「いいの?壊れない?」

 リツコは微笑んだ。
 冗談で言っていることではない。
 レイは冗談など言わないし、この真剣そのものの表情が物語っている。
 
「大丈夫よ。あ、でもそっと触ってね。赤ちゃんをびっくりさせないように」

「了解」

 この癖はまだ抜けない。
 リツコに何か言われるとつい「了解」と返してしまう。
 レイはおずおずと手を伸ばした。
 まるで熱いものに触るかのように義母のお腹に掌を置いた。

「動いてない」

「うふふ、ずっと動き続けているわけじゃないわ」

「アスカみたいに?」

「そうね、彼女ならお腹の中でもずっと動いていそうな気がする」

 自分の思いつきに同意してもらいレイは嬉しくなって、そしてそっと掌を移動させた。
 別の場所なら動くのではないかと
 その動きを見ていると、リツコはお腹の中の子供が動いてくれないことが口惜しくて仕方がない。
 人間らしい、子供らしい感情を抱きはじめているレイに新たな生命の感触を実感してもらいたかった。
 しかし胎児は眠っているのかおとなしいものである。
 リツコはこの時間をできるだけ引き伸ばそうと考えた。
 レイの情操教育のために。

「レイ?どっちがいい?弟と妹と」

「今から決められるの?私が」

 リツコは吹き出した。
 その後で「ごめんね」と謝り、レイの頭を撫でる。

「赤ちゃんの性別はもう決まってるの。ごめんね」

「そうなの。じゃどっちなの?」

「さあ、どっちかしら。調べてないからわからないわ」

「どうして調べないの?」

「そうね。きっと、楽しみは先に取っておきたいから…かしら」

「楽しみ?」

「ええ、男の子か女の子か、直前までわからない方が…いろいろと楽しめるから」

「わかっている方がちゃんと準備できる」

「あは、そうよね。これって非合理的ね」

 うんとばかりに頷くレイだが、何となくリツコの言いたいこともわかりそうでわからずもどかしげな表情だ。
 まだまだたくさん教えないといけない。
 そんなことをリツコが思っていると、突然レイが予想外の行動に出た。

「訊いてみる。あなたは女の子?」

 掌を置いたまま、彼女は膨らんだお腹に問いかけた。
 真剣な眼差しのレイが可愛い。
 リツコが微笑みかけた、その時だった。

「それとも、男の子?」

 とくん。

「動いた」

 びっくりして掌を離してしまったレイが呟く。

「返事…したのかしら。今のは」

 独り言のようなリツコの言葉に、再びレイは母のお腹に手を伸ばす。

「もう一度、訊いてみる。あなたは男の子?」

 とくん。
 
「動いた」

 レイとリツコは顔を見合わせ、そして微笑みあった。
 この日から、レイには未来の弟に話しかけるという日課が増えたのである。
 それは彼女にとって、より効果的な情操教育となっていくのであった。



 さて、この三者面談の日の終幕はやはりあの二人に引いてもらうことにしよう。

「ちょっと馬鹿シンジ。アンタ、全然わかってないじゃないっ」

「だ、だってさ、アスカの喋ってること難しすぎて覚えられないよ」

「はぁ?簡単なことじゃない。CuSO4とBaCl2のそれぞれの水溶液の反応は…」

「ま、待ってよ。最初のは硫酸銅なんだろ。そんな記号で言われたらわかんないよ」

「何言ってんのよ。硫酸銅ってわかってるじゃない」

「違うよ。それは問題に書かれていた順番でそうじゃないかって…」

「アンタねぇ。外国に行って“硫酸銅”なんて言っても全然通用しないわよ。
 化学式は万国共通なのよっ。だからそれで覚えたら将来困らないじゃない」

「将来困らなくても、試験に困るよっ」

「なによその態度!この天才アスカ様がアンタ如きに深遠なる知識を伝授してあげようって言うのに文句あんのっ!」

「深遠なんかじゃなくていいってば。高校に受かればいいんだって」

「アンタ馬鹿ぁ?受かるだけの勉強なんてナンセンス!高校に入って困るのが目に見えてるわよっ!」

 食堂のテーブルでノートを広げるシンジの周りをアスカは腰に手をやりながらゆっくりと歩く。
 例によって口汚く聞こえるが、鈍感なはずのシンジにも何となく嬉しげな響きに思えていた。
 それはそうだろう。
 ずっと気になっていた将来の…差し迫って来年の進路が定まったのだから。
 アスカも嬉しいが、シンジの方ももちろんうきうきしている。
 だからこそ、いつになくアスカに口答えをしているのだ。

「そ、それは…。その時はまたアスカに教えてもらうよ」

 一瞬、アスカは言葉を失った。
 そして、それもいいかなと微笑んだ。
 タイミングの悪いことにその笑顔は彼の背後だったがために、シンジの視界にはまったく入らなかったのだが。

「う、うっさいわね!そうやってすぐに逃げるのがアンタの…」

「逃げてなんかないよ!」

「黙れ、黙れ!先生に向ってその口の聞き方は…」





 親愛なるママ。

 嬉しいことに進路が決まりました。
 ううん、ドイツ流に言うと何も決まってないのかな?
 将来のことは先延ばしになって、まずは同じ高校に入ることだけが決まったの。
 それから、私は彼の家庭教師になったの。
 リツコがシンジの苦手な教科を教えてあげてって言ってくれたから。
 だから、毎日私は彼に理科とか数学を教えてあげるの。
 でも難しいのよ。
 初歩的なことを教えるのは…って、これは有頂天になってる所為なの。
 リツコは言ったの。
 私の苦手なのは日本語での問題文の読解と回答なのだから、
 シンジに教えることによってそれも解消できるって。
 確かにその通りみたい。
 彼に理解できるように、まるで子供騙しみたいな教科書を読んで教え方を考えるのよ。
 それが凄く楽しいの。
 ドイツにいた時、眼を血走らせて一人で勉強していた頃の私が見たらなんていうのかしらね。
 ただね、時間がないの。
 一日が48時間だったらなぁ。
 




 かわいそうだけど、一日は24時間。
 誰にもどうしようもできないわ。
 だから、その貴重な時間を無駄にしないために頑張って。
 私からはそうとしか言えません。
 ハインツは「私の休みの日の時間を分けてあげられるなら日本に送りたい」なんてこと言ったから、
 頬を思い切りつねってあげました。
 だってそうでしょう?
 仕事の時間ならともかく、休みなのよ。
 家族と一緒に過ごす時間は、例えアスカにでも分けてあげません。
 冷たいようですが、自分で何とかしなさい。
 がんばってね。

 愛するアスカへ。

<おわり>


 

12月のおはなしへ

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<あとがき>

 

  11月のお話でした。
  今月はかなり難産でした。
  と書いた間もなくアスカの誕生日の話を考えないと!
  そんなわけであとがきはこれくらいで。


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