『ねぇ、ママ。
今年のバレンタインデーはこんな程度だったけど、来年はちゃんと日本流でやり遂げてあげるんだから。
覚えておいてよね、この一年で絶対に彼を私に夢中にさせるの。
本当の戦いはこれからなのよ!』
2006.05.28 ジュン |
ママ、母の日、おめでとう。
間に合ったかしら。お店は大丈夫って言ってたけどね。
こういうのに遅れるのってイヤでしょう?でも、早すぎても感じが出ないし。
もし、遅れてたらごめんなさい。
ええっと、花は贈ってません。造花は気分が出ないし、生きてるのは難しいでしょ。
だから、絵で我慢してね。3種類あるけど、誰が描いたかわかる?
私と、シンジと、レイの3人で描いたのよ。全問正解なら賞品をあげる。
アスカ、ありがとう。間に合ったわよ。金曜日の夜に届いたからぴったりのタイミングだったわ。
でも、変なデザインのエプロンね。日本の母親はこういうのをみんな着るの?
割烹着って漢字で書かれてもねぇ。発音すらできないわ。
ハインツは珍妙な顔で見るし、シュレーダーは大笑いしてくれるの。
だからハインツが彼の頭をごつんと叩いたわ。
お姉さんがせっかく日本の文化を教えてくれてるのに笑うとは何事だって。
自分だって笑いたいくせにね。あ、一緒に入っていた櫛と手鏡はいかにも日本って感じね。
本当にありがとう。嬉しかったわ。
わあ、ごめんなさい。メインのプレゼントは櫛と手鏡なのよ!
それだけで送ったら鏡が割れそうな気がしたから、冗談半分で詰め物感覚で入れたの。
レイが真顔で割烹着は日本の文化の象徴だって言ったから。
あいつを信じた私が馬鹿だったわ。本当にごめんなさい。
当然、私は烈火のごとく怒ったわ。
マリアからの手紙が届くかなり前。
母の日の前日である土曜日のお昼の3時。
そろそろシンジと楽しいおやつでも楽しもうかとあれこれと作戦を練っていたアスカである。
その時、電話が鳴った。
ドイツ時間の朝の7時に電話をしてきたのはマリアだった。
電話で話をするのならわざわざ手紙をしたためる事などないではないかという考えは寂しい。
手紙は後々まで残る素晴らしいコミュニケーションの方法なのだ。
アスカはその時点で割烹着の件を知った。
その45分後、アスカはいつものように仁王立ちしていた。
その前には正座をしているシンジとレイ。
レイは碇家から緊急招集されたのである。
これがシンジだけならまだわかる。
週に一度くらいはそんな情景がこの家では見られるからだ。
ところが今回はレイまでがシンジの隣にちょこんと座っている。
何しろ今回の事件の実行犯は彼女なのだから仕方がないことともいえるのだが。
「あのねっ!悪戯にも程があるわよ!しかも、お祝いの席に悪戯なんてど〜ゆ〜ことよ!
そんなの目茶苦茶失礼じゃない!人間のすることじゃないわ!
それに、アタシならともかくママにってどういうことよ!」
「あ、あのさ、レイは悪戯のつもりじゃなかったんだと思うよ」
よく考えてみると、この裁きの場にシンジが座る謂れはまったくなかった。
シンジはアスカのドイツ行きの荷物に何が入っていたのか全然知らなかったのだから。
彼が手伝ったのは家から郵便局までの荷物運びだけである。
では、どうして白州に座らされているかというと、連座である。
妹となったレイの罪は兄であるシンジの罪でもあるという論理なのだ。
このアスカの告発にシンジ本人は唯々諾々と従ったが、レイは不満でいっぱいだった。
その理由は、自分はともかくシンジには告発される理由がないからだ。
だからこそ彼女は不満顔で座っているのだ。
しかももともと悪戯したという意識がまるでないということも大きな不満に繋がっている。
実は割烹着を贈り物にとレイにこっそり耳打ちしたのは、誰あろうお腹の大きな葛城ミサトである。
海外の女性に、しかも奥さんであれば、日本の女性が台所で使う“ジャパニーズエプロン”を贈ると喜ばれる。
ただしアスカにこのことを伝えてはならない。
何故なら彼女は日本古来の風習に通じていないから反対するかもしれない。
こっそりと詰め物のような形で荷物に入れておけばいい。
レイはすこぶる素直な娘だ。
元上司に真顔で言われれば即座に「了解」と返してしまう。
新聞をとっていないから詰め物に困っていたアスカは、大きな紙袋にクッションになるようなものを入れて現れたレイを歓迎したのだ。
元作戦部長の計算どおりである。
平和は何ものにも変えがたいのではあるが、その才能を悪戯には使ってほしくはないものである。
したがってこの場合、罪に問われるのは葛城ミサトであるべきだ。
ところがアスカはミサトには電話で「いい加減にしてよ!」と悪態をついただけなのだ。
レイが不満たらたらになるのは仕方がない。
「うっさいわねっ、ど〜してアンタが弁護人役になんのよ!アンタは告訴されてんの。犯罪者なのっ」
アスカはつま先に体重をずぃっとかけてシンジに食ってかかる。
彼は苦笑して頭を掻いた。
「ええっと、じゃ、僕が悪いってことでいいよ」
「何よ、それっ!いいよって、ど〜ゆ〜ことよっ!まるで、無実の罪をひっかぶっているみたいじゃない!」
「あはは、そうだね」
あはは、ではなかろう。
まさに無実の罪なのだから。
レイがいささか冷ややかな目付きで隣のシンジを見やった。
「何、笑ってんのよ!罪びとの癖にっ。ああっ、どうしてくれようかしら!」
「どうしてくれてもいいよ。えっと、自己申告していい?」
アスカは眉を顰めた。
この要望は想定外だ。
だが、聞いてみたい。
是非、何を言い出すのか聞いてみたい。
そこで彼女はわくわくする気持ちを必死で抑えて、努めて非情に言葉を発したのである。
「そ、そうね。ま、まあ、聞いてあげてもいいけど?」
「あのさ、まず、今晩のおかずなんだけど、煮込みハンバーグにしようかなって思うんだけどそれでいい?」
「いいわっ」
即答で答えてしまい、内心焦ったアスカである。
やるわね、シンジ。アタシの好物でジャブを打ってくるなんてさ。危うくKOされるとこだったじゃないよ。
ジャブでノックアウトとはなかなかに打たれ弱いアスカであった。
「あわ、で、でもさ、それのどこが贖罪になるのよ」
「うん。アスカのは二個にしようかって。
それと上手く作れるかどうかわからないけど、マッシュポテトっていうのも挑戦してみようかと思ってるんだ」
「Ganz gut!(とってもいいわ!)」
思わず、ドイツ語で叫びガッツポーズ。
動いてしまってから、またしまったと思う。
叫んだのはドイツ語だからまだよかったとして、問題は振り上げたその拳を振り下ろす場所だ。
しかし上げっぱなしではいけない。
仕方なしにその拳をぐるぐると振り回す。
「はんっ!ザウワークラウトもつけなさいよ!マッシュポテトごときで騙されやしないんだからっ」
「えっ、ど、どうやって作るの、それって?」
「アンタ馬鹿ぁ?あんな一般的な食べ物を知らないなんてっ」
「ごめん」
「知らない。ザウワークラウトって何?」
「まったく、どいつもこいつもダメねぇ。って、よく考えたら、あれってすぐできないじゃない!
ちょっと馬鹿シンジ!どうしてくれんのよ!」
「ご、ごめん。ダメなの?簡単にできないような凝った料理なの?」
碇シンジは不正解。
手間はかからないが日数がかかるのである。
世界に冠たるドイツ人の常食的付合なのだが、名前で言われては日本人にわかるわけがない。
アスカが作り方を教えるとシンジはなるほどと頷いた。
「ああ、簡単なんだ。でも、今日は食べられないんだね」
「あったり前よっ。乳酸醗酵させないといけないんだもん。アンタ、わかる?乳酸醗酵」
照れ笑いで首を横に振るシンジ。
その隣のレイが乳酸醗酵とは何であるかを発言しようかと口を開きかけた時、
アスカが慌てて口を挟んだ。
己の幸福を最優先したのである。
「仕方がないわね。乳酸醗酵が何か、このアスカ様が直々に教えてあげるわよ。
煮込みハンバーグを作るときに、キッチンでね」
「うん、ありがとう、アスカ」
「はっ、使えない同居人を持つと苦労するわ。あ、食材を買いに行くときに、ディルとベイリーフを買ってくんのよ。
唐辛子はあるわよね、確か」
「あるよ。ディルってのと、ベイリーフだよね」
「ちょっと馬鹿シンジ。アンタ、その二つが何だかわかってんでしょうね」
彼女の内心に満ち溢れた期待に応えて、シンジはまたもや照れ笑いで知らないと答えたのである。
「しっかたないわねぇ。じゃ、アスカ様がついて行ってあげるわよ。
あ、もちろん、アンタのためにわざわざ言ってあげるんですからね。当然、アンタが運転手するのよ!」
「え、二人乗りは捕まっちゃうよ」
「うっさいわね。捕まらなきゃいいのよ、捕まらなきゃ」
「三人乗りは無理?」
すかさず口を挟んだレイにアスカは顎をつんと上げた。
「馬鹿ね。捕まったらどうすんのよ。却下」
実に理不尽である。
「そう、ダメなのね。もう」
ここで明らかにしておくが、レイに二人についていく気はさらさらない。
近頃頓に感情の起伏が大きくなった…と言っても普通の女の子に比べるとまだまだ起伏は平坦だが…そのレイだ。
この場合も冗談なのである。
ただし、わかりにくい。非常にわかりにくい。
だから、この時も哀しげな微笑を浮かべた…もちろん演技…レイにアスカは少し後悔したのである。
少し邪険にしすぎたのではないかと。
「そ、そうね。もし、よければ、ここで待っとけば?
アンタもシンジの料理を食べてけばいいじゃない」
「了解。待ってる」
レイからすれば、まさに棚から牡丹餅。
冗談は言ってみるものだ、と彼女は認識した。
さて、アスカの方は楽しいシンジとの食事の時間を闖入者とともにしないとならないことに臍をかんだ。
だが、その分を買出しの間に楽しめばいいではないかと気持ちを切り替えた。
何しろレイは特別なのだ。
シンジの妹なのだから。
心の中で“妹”の部分に大きくアクセントをつけながらアスカは自分を納得させたのである。
実はシンジも同様だった。
急にできた妹ではあるが彼の求めて已まなかった家族の一人なのである。
食事の一度くらい一緒にしてもいいではないか。
買出しと、そして調理の時間を精一杯楽しめばいい。
彼もそう自分を納得させたのである。
方向性と目的はまったく同じなのに、二人の心は肝心なところで大きく食い違っている。
楽しむという行為が己の独りよがりだと思い込んでいるために。
ねぇ、ママ。
私は最近レイに甘いのかもしれない。
シンジの妹だから…(妹になったのは極最近だけどね!)…かな?
それもあるとは思うけど、やっぱり彼女は特別なのよ。
言うなれば、友人よりももっと深い部分で繋がっている。
そうね、戦友ってヤツなのかも。
生死をともにしたから、平和になった今、レイといがみ合う必要がなくなったんだと思うわ。
なるほどね。
でも、ママは思うの。
やっぱりアスカが彼女に甘くなったのはシンジ君の恋愛対象ではなくなったからじゃない?
あなたの性格なら例え戦友であっても彼を奪う人間なら全身で戦うと思うわ。
ごめんなさい。今のは3%くらいは冗談。
よかったわね、彼女が恋愛対象でなくなって。
あなたにとっても、そしてシンジ君にとっても。
どうして?どうして私だけじゃなくて、シンジにもなの?
わからないわ。まあ、私があいつにとって唯一無二の女性であることは確か…って言いたいわよね。
そんなことを明言できる日が来ないかなぁ。
碇シンジは特に家事のエキスパートというわけではない。
その年頃の男子としては少しばかり家事ができるわけで、
万人の舌を唸らせるほどの料理の腕を持っているわけでも、熟練した家政婦のようにてきぱきと家事をこなしているのでもなかった。
おそらくはアスカの方が家事については彼よりも上手くなるだろう。
だろう、ということは現時点においてはアスカには能力がないということになる。
それはそうだろう。
幼少から調練や勉学に明け暮れてきて、誰も家事など教えてくれなかったのだから。
しかし、彼女本人は自負があった。
世界に冠たるドイツ人の血をその身体に3/4も受け継いでいるのだ。
家事能力については世界に誇るドイツ女性の。
間違えないでいただきたい。
ドイツ料理が世界一美味いとかそういう意味ではない。
家事を如何に合理的に無駄なくこなし、そして自他共に満足のいく結果を残すこと。
そういう意味である。
で、その意味においてアスカはどうなのであろう。
アスカは家事をシンジに任せている。
掃除や洗濯でさえも。
部屋の中は散らかっているし、食べた後の食器もそのままだ。
実にいい加減であり、シンジも溜息一杯なのだ。
だが、もしその彼がもっと人生経験が豊富ならばどうだろう。
例えば、加持…もとい、葛城リョウジならばアスカのことをどう評価しているだろうか?
「ああ、アスカかい?
あの娘はねぇ、そうだなぁ、言うなれば仮面を被りたがる女って感じかな。
まあ、女って生き物は多かれ少なかれそういうところがあるからね。
うちのアレのことだって知ってるだろう?
ちゃらんぽらんのように見えてかなり複雑な性格してるからなぁ。
暗い部分はとんでもなく暗いんだぜ。
もっとも部屋の片づけができないっていうのは基本スペックだったようだ。
ああ、大丈夫だ。
わかってて一緒になったんだから、俺が頑張るしかないことは承知してるよ。
生まれてくる子にはそのあたりはちゃんと躾けないといけないよな。
おおっと、アスカの話だっけ。
葛城…って、俺も葛城か。いかんな、癖が抜けないぜ。
あいつからアスカの部屋が目茶苦茶に散らかっているって聞いてびっくりしたんだ。
俺は知ってるからな。
オーバー・ザ・レインボーのアスカの部屋がそれは見事なほどに整頓されていたのを。
何かと理由をつけては俺を部屋に招待してくれていたからな、あの時のアスカは。
つくづく思うよ。据え膳食わなくてよかったってね。
まあ、子供には興味ない…なんて言ったら殴られるか。
俺はどちらかというと年上の…って、そういう話じゃなかったな。
つまりこういうことだ。
アスカは気に入った人間にかまってほしい。
それはこの俺であったり、シンジ君だったわけだが。
で、思ったんだろうなぁ。
あのマンションの状況でシンジ君があいつの世話をしているのは何故か。
答はシンジ君がいささか優柔不断で揉め事になるよりは自分が我慢すればいいという性格だったから、
ずるずると家事をしていただけのことだったんだが、そいつをアスカは誤解したってこった。
だらしなくすれば、面倒を見てくれる、と。
それに自分が楽だしね。
ああ、つまるところ、アスカはやる気になればいい主婦になると思うぜ。
あいつとは比べ物にならないくらいにね。
聞けば、あのりっちゃんがちゃんと主婦してるそうだ。
ああっと、早くスーパーに行かないとな。もうすぐタイムサービスなんだ。
とある情報源から今日は鰹のたたきが半額で……(略)」
簡単に言うと、アスカは猫を被っている。
いや、能ある鷹が爪を隠していると表現した方がいいかもしれない。
これもまた、彼女の考えすぎで、いまさら家事をするようになればシンジに嫌われるかもしれない。
そんなことまで考えているのだ。
何故嫌われると思うのか彼女に問えば、
おそらく惚気の混じった、そして一見論理的に見えながらその実大間違いの演説を聴かされるだけだから省略する。
しかし、アスカは世界に冠たるドイツ婦人を目指して、日夜学習中なのだ。
もちろん、四六時中シンジの目が光っているので…もっともアスカが彼の傍を離れないためだが…、
実地研修をする機会がなく、イメージトレーニングしかすることができなかった彼女である。
因みに部屋の片付けについては、シンジに愛情のこもった「おやすみ」を言って…言葉上は「はっ、アタシは寝るからねっ」だが…、
部屋の扉をしっかりと閉めてから徹底的に行われる。
何しろ日中はシンジにいつ部屋の中を見られるかわかったものではないのだ。
だから、部屋の中は乱雑を極めている。
ベッドから半分床に垂れ下がっている掛け布団。
床に飛び散る下着類。制服はベッドの上に投げ出されたまま。
机の上も乱雑を極めている。
シンジがちらりと部屋の中を見ればいつも「少しは片付けなよ、ミサトさんみたいになるよ」と苦言を漏らす。
その時、アスカは少しも慌てず、「うっさいわねっ、ほっといてよ!」という返事を投げつける。
内心、ああ今日もかまってもらえたという喜びに震えながら。
彼女を批判することは容易だろう。
間違っていることは確かなのだから。
だが当事者である彼女は現状で満足…というよりも現状から悪化することを恐れているのだから、
整理整頓のできる姿を見せられないのだ。
もしそれを彼に見せたならばどんなに喜び、そして惚れ直すだろうか。
当然、そんな結果をアスカが承知していたなら、家の隅々まで掃除をし、さらに料理にも挑戦していたのだが、
両人にとって不幸なことに現状はこの通り。
ところが今回アスカは口を滑らせた。
ドイツ料理のことが話題になったので、勉強中のことを喋ってしまったのである。
お国自慢をしたくなるのは人としておかしいことではない。
愛国心とかそういう類の大仰なものではなく、単純に自分の身の周りのものを褒めてもらいたい。
彼女とても例外ではなかったわけだ。
アスカは「ちょっと着替えてくるから待ってなさいよっ」と捨て台詞を吐いて自室に飛び込んだ。
残された二人は顔を見合わせたが、すぐにシンジは立ち上がった。
彼が向ったのは洗面所。
櫛で髪を梳き、ごしごしと歯磨き。
そんなシンジの様子に何を思うかレイは無表情。
小さく欠伸をすると彼女も立ち上がり、そしてよろよろよろめいた。
足が痺れたのだ。
アスカは隠し持っているノートを調べていた。
ドイツ語で書いているから、例えシンジが読んでも意味不明だろう。
そこにびっしりと書かれているのは料理や家事のあれこれ。
但し彼女が聞くことができるのは遥か彼方のマリアだけ。
親友のヒカリに問えばよいとは思うのだが、彼女の口からトウジに漏れ、そしてそれがシンジに伝わることを恐れた。
もし彼に何故そういうことをするのかと質問されれば答に窮する。
まさか彼の嫉妬心や対抗心を煽るために、他の架空の男のために精進しているのだなどという馬鹿げたことなど言えやしない。
鈍感この上ないシンジなら文字通りに受け取ってしまうのは間違いないからだ。
したがって、物語にありがちなそんな展開にアスカが向うわけがなかった。
ともかく、今は秘密にする。それしかなかった。
シンジに料理を教えるという重大イベント。
そのためにアスカは密かに携帯電話を取り出した。
ドイツが深夜でなくてよかった。
ひそひそ声でザウワークラウトのレシピやコツを真剣に質問するアスカが、マリアにはこよなく愛らしかったのである。
二人のデート…もとい、買出しについては略す。
いつもと同様に互いの言動に内心一喜一憂し、表立っては何の進展もなかった。
問題は、その買出しが終わり、料理が終わり、晩餐が終わり、片付けが終わったあとだった。
アスカの1/3サイズのミニハンバーグを何とか食べることに成功したレイは、ことのほかマッシュポテトが気に召したようだ。
お土産用にタッパーに詰めてもらいにこにことソファーで寛いでいる。
9時頃には彼女も帰宅するので、用心棒としてシンジがレイを送る。
その彼の用心棒として、アスカもくっついてくるのがいつものパターンだ。
おっと、事件はその暗い夜道で起こったのではない。
煌煌と照明が輝くリビングで、だ。
アスカがニヤリと笑った。
その笑みを見て、シンジは思った。
お願いだから、あの笑い方だけはやめてほしい。
あの人生最大の記念日である、オーバー・ザ・レインボーでアスカと初めて出逢った日。
その甲板で彼女が見せた笑み。
第6使徒ガギエルを目視した時に「ちゃ〜んす」と笑った。
あの時、まだ恋心を抱いていなかった彼は精神的に3mは退却したかった。
彼は命名している。
“アスカ、邪悪の笑み”。
彼の心が120%アスカに支配されている今でも、やはりあの邪悪な笑みだけは勘弁してほしいのだ。
痘痕も靨とは言うが、あの笑みだけは恋する者のエフェクトアイでもどうにもならない。
「いいこと思いついた。明日の母の日は、ぱああああ〜っと盛大に祝うわよっ!」
反応なし。
それはそうだろう。
この家には母と言う存在がない。
惣流アスカ。実母死亡、義母はドイツ在住。
碇シンジ。実母死亡。義母はまだ新婦。
碇(綾波)レイ。実母…説明不能。義母はシンジと同一。
「ええっと、つまり、ドイツにいるアスカのお母さんのお祝いを日本でするってこと?」
ああ、なるほど、そういう意味かと兄の聡明さに軽く頷くレイ。
しかし、アスカの眉はきりりと上がった。
「はぁ?アンタ馬鹿ぁ?何言ってんのよ。そんなややこしいことをど〜してしないといけないわけぇ?」
「あれ、違うの?じゃ…」
アスカは再びニヤリと笑った。
「母の日、おめでと〜ございます!リツコっ」
「あの、おめでとうございます」
「おめでとう。母だから母の日。論理的には正しいわ」
アスカは天使の微笑み風(もちろん演技)。
シンジはばつの悪そうな引き攣った笑顔。
レイはいつものアルカイックスマイル。
三人三様の笑顔を前に碇リツコは明らかに途惑っていた。
アスカは赤いカーネーション。
シンジは白いカーネーション。
レイはピンクのカーネーション。
それぞれ数本の花束が差し出されている。
「困ったわ」
リツコの言葉にアスカはさらに笑みを深くした。
三十路とはいえ、彼女はまだ初婚の新婦。
義理ではあるが確かにシンジとレイは彼女の子供となる。
だから、レイが言ったように母の日を祝ってもおかしくはない。
おかしくはないが、気持はいいものではないだろう。
「悪趣味だよ」となんとか搾り出したシンジの意見具申はあっさりと却下され、
その彼もこの悪戯に巻き込まれた。
ドイツのマリアへの割烹着の件で、祝いの日に悪戯なんて人間のすることじゃないと叫んだのはさて誰だったか。
ふっふっふっ。困ってる、困ってるっ。
鉄の女が怒るべきか悲しむべきか、どうするか困ってる。
悪戯成功!
その本人は、はぁと溜息まで吐いたリツコの反応に大喜びだった。
まだまだ、子供である。
しかし、リツコの悩みはそこではなかったようだ。
「こういう場合、誰から先に受け取ればいいのかしら?」
その真剣な声音にシンジがぷっと吹き出した。
意気込んでいたアスカががくんとなるのが面白い。
恋する感情とこんな感情は別物だ。
ただし、次の瞬間、彼の横っ腹にアスカの肘がめり込み、彼の足の甲にアスカの踵が叩き込まれた。
「痛いっ!」
「って、言ったシンジからでいいんじゃないの?長男なんだしさ」
楽しみをそがれたアスカがつまらなさそうに言う。
そして横目でシンジを睨みつける。
「そうね、じゃ、ありがとう」
「あ、ど、どうも、おめでとうございます」
花束を渡しながら、「おめでとう」と言ってもよかったかなと思うシンジだった。
「次はアスカね。ありがとう」
「え…」
自分は最後だと思っていたアスカは怪訝な顔で花束をおずおずと差し出す。
「最後はレイね。あなたもありがとう」
「はい。おめでとう、お母さん」
さらっとリツコに言葉を発するレイである。
その時、シンジが小さな、本当に小さな溜息を吐いたことに傍らのアスカだけが気づいた。
そうか、まだ言えないんだ。リツコのことをママって。
だったら、このアスカ様が…。
今度のアスカの笑みには邪悪さはまるでなかった。
「なぁんだ。レイはリツコのことをお母さんって呼んでるんだ」
レイはこくんと頷いた。
当たり前ではないか、自分は彼女の娘になったのだから。
できればそれを口にして欲しいものだが、そこまで無口なレイに求めるのは酷というもの。
アスカは饒舌モードに入ることにした。
「で、馬鹿シンジは何て言うの?リツコのことをさ。
まさか、ママ?ママはやめてよね、まるでマザコンみたいだから。
あ、でも、アンタって、ちょっとなよってしてるから、やっぱりママ?
まあ、海外じゃママでもな〜んにも問題ないんだけどね。
このアタシもママのことをママって言ってるんだし。
で、アンタはどうなのよ?ママ?それとも、お母さん?どっち?さあさあさあさあっ!」
すぐ隣でべらべら喋られるのは、それが愛しのアスカであってもシンジには苦痛であった。
しかも今回の場合はアスカが意図してシンジを苛立たせているのだから尚のことだ。
「お、おか…」
それでもなかなか口にできない。
もう一押しだとアスカはさらに口撃を続ける。
「お母様ぁ?アンタ、何様のつもり?それじゃ、このアタシはアンタのことをシンジ様とでも呼ばないといけないわけぇ?
はっ、アンタもいつからそんなに偉くなったのかしら?お母様だってさ。おっかしいったらありゃしない。
ど〜して、普通にお母さんって言えないの?ほら、言ってみなさいよっ」
「お、おかあ…さ…ん」
最後は殆ど聞こえなかった。
だが、リツコは軽く息を飲んで、そして優しく微笑んだ。
この場に夫もいればさぞ喜んだ事だろう。
生憎、明日はパリで会合がある。
昨日から留守にしているのだ。
しかし三時間ごとに電話が入るから、その時に驚かせてやろう。
リツコは息子に引け目を感じているゲンドウがどんな表情をするのか確かめたく、その時はテレビ電話に切り替えさせようと決心した。
「はぁ?何ですって?何言ったの?ぜんぜ〜ん、聞こえなかったわよ。ほら、馬鹿シンジ!さっさと、はっきり言えっ!」
「お母さん!」
明らかにアスカに背中を押してもらった。
シンジは顔を上げられなかった。
リツコの顔を見るのが恥ずかしい。
「どう?これでいい、リツコ?」
「ふふふ、どうもありがとう、アスカ。
レイで慣れていてよかったわ。いきなり、シンジ君のような男の子にお母さんって呼ばれたらねぇ」
「シンジ君じゃなくて、シンジでしょ。ミサトじゃあるまいし」
「うふ、そうね。ごめんなさい」
そんな3人のやりとりをレイは少し首を傾げて聞いていた。
何をわけのわからない会話をしているのだろうか。
母親のリツコを呼ぶのに“お母さん”を意味する言葉以外に何があるのだ。
ねぇ、ママ。
私、驚いちゃった。
悪戯のつもりで、義理の子供ばっかりのリツコに母の日のお祝いをしようって思ってたのよ。
それがどう?
シンジが“お母さん”って初めて言ったものだから、その話題ですっかり忘れてたの。
リツコがみんなに母の日のお祝いをされて、全然びっくりもしなければ怒りもしなかったことに。
その謎が判明したのは私とシンジが帰る時だったの。
晩御飯もご馳走になって……、私、自信が出てきた。
リツコは結婚してから家事をするようになったんだって。
それまでは研究研究ばかりで、ご飯も炊いたことがなかったそうよ。
最初は凄かったんだって。
レイったら『私は実験体だったの』なんて真顔で言うし。
正直言ってその頃にお邪魔してなくてよかったって思っちゃった。
やっぱりわが身は可愛いものなのよ。
でも、今は美味しいのよ。
食卓に並んだのは全部手作り。
『のめりこむタイプだから』って言ってたけど、それなら私だって負けないんだから。
惣流・アスカ・ラングレーは熱しやすくて冷めにくいの。
私にだって充分美味しい料理が作れるって自信がモリモリわいてきたわ。
あ、脱線しちゃった。
リツコの話だった。
玄関のところで私たちに訊いたの。
どうして知ったのかって。
意味がわからなくて、当然聞き返したわ。
そうしたらね、もうびっくり。
リツコに赤ちゃんができてたんだって。
それがわかったのが前日で、まだミサトにしか言ってなかったの。
シンジのパパにだって帰国してから直接言おうとしてたみたい。
だから、私たちの悪戯がものの見事に的を射てしまったってこと。
それがわかってみんなで大笑い。
その後で改めてお祝いを言って。
シンジもレイも弟だか妹だかができるって喜んだりして。
ああ、私も会いたくなった。
シュレーダーは大きくなったでしょうね。
カールにいたっては写真でしか会ったことないし。
今年は無理かもしれないけど、来年の夏は絶対にドイツに帰るわ。
ごめんなさい。
もしも、夏までにシンジと…恋人になれたら、一緒に帰る。
たぶん、無理。
頑張ってはみるけどね。
あ、それからね………
今回はかなり長文の手紙を最後まで読んで、マリアはくすりと笑った。
そして、ベビーベッドですやすや眠る赤ん坊に唇だけを動かしてキスを投げ、手紙を手にリビングを横切る。
フランス窓を開けるとさわやかな5月の風が吹き込んできた。
その風とともに長男のはしゃぐ声も。
午前中に刈ったばかりの芝生の上で、ドイツでは珍しい光景が見えた。
これがアメリカではどこででも見られるのだが、欧州でキャッチボールはあまり見られない。
アスカからグローブとボールが贈られてきてから、シュレーダーは野球に夢中だった。
もちろん野球といっても一人ではできない。
ここミュンヘンに少年野球チームはないために、誰かが相手をしないといけない。
当然、一緒に送られた大人用のグローブがハインツ・ラングレーに差し出されることになる。
人生初めての野球道具との対面に笑顔が引き攣る彼だったが、マリアにぴしりと言われてしまった。
「アスカがあなたの分も送ってきたことの意味も考えて。親子の絆を深めろってことよ」
不幸な出来事が重なり親子の間がギクシャクとしてしまったアスカだ。
そんなことは可愛い弟に体験してもらいたくない。
そういう意味だと聞かされると、ハインツもチャレンジせずにはいられない。
ただし、すっかり大人になってから初めて野球道具に接した彼と、子供のシュレーダーでは馴染んでいくスピードが違う。
情けないことに今ではシュレーダーに相手をしてもらってるようにしか見えない。
「ああ!パパ、ちゃんと投げてよ。どうして、僕の胸にめがけて投げられないの?」
「すまん!この…なんというか、加減が難しいんだ。なあ、サッカーにしないか?」
「だめ!お姉ちゃんが僕とパパにってくれたんだよ!ほら、もっとパパも練習しないと!」
「おお、練習なら会社の昼休みにもしてるんだぞ。アメリカから来た若いのにな、まるであれでは特訓だ。
きっとパパには素質がないんだ。な、わかってくれよ、シュレーダー」
「じゃ、パパは僕にひとりぼっちでキャッチボールをしろって言うの?」
はい、今日もまたハインツの完敗。
フランス窓から出たところで腕組みをして親子のやりとりを眺めていたマリアは楽しそうに笑った。
「ああ、わかった。よし、行くぞぉ」
いささかぎこちないフォームで投じられた白球は珍しくシュレーダーの胸元へ。
「おおっ!」と三方から歓声が一斉に上がる。
「やればできるじゃないか、パパ!」
「お、おお!」
「あなた、がんばって!」
「おおっ!」
「あ、それからアスカからの手紙に…」
タイミングが悪かった。
アスカという単語に気をそらしたハインツの頭に目がけて、勢い込んで投げられた息子のボールが一直線。
幸いなことに日本から送られたボールは軟球だった。
こ〜ん。
頭の真ん中に当たってボールは大きく弾む。
「ごめんなさい!大丈夫?」
すかさず走ってきた息子にハインツは明るく笑った。
「大丈夫だ。パパは強いからな。痛っ!」
「こぶになりそう。冷やしておきましょう」
さすがは元医師。
夫のおでこを触るとマリアは冷静に判断した。
「大丈夫だ、これくらい。で、アスカはなんだって?」
「もう…、パパってお姉ちゃんのことになるとこれだからなぁ」
「こら、シュレーダー。お前だって気になるだろう?」
「まあね。じゃ、キャッチボールは休憩」
「休憩ということは…またするのか?」
さっさと手からはずしたグローブを掲げてみせる父親は苦笑い。
当然といった感じで息子は大きく頷いた。
ハインツは首を振り振り仕方がないなぁと頭を掻き、その指が盛り上がりはじめたこぶに当たって顔をしかめた。
「二人とも手を洗って。大切なアスカの手紙でしょう。汚れた手では読めないわ」
「Jawohl!」と一声。二人は洗面所に駆け出した。
その親子の後姿を見送って、マリアは手紙を広げる。
そして、最後の方ももう一度読み返した。
つい笑顔になってしまう。
「アスカ。私もその人に賛成よ。あら、じゃ、そのリツコさんとやらと親戚になるんだ」
マリアは楽しそうに笑った。
あ、それからね、どうしてリツコが私の花束を二番目に受け取ったかってこと。
これを書くのは凄く恥ずかしいわ。
でも、誰かに言いふらしたいの。
自分ひとりでしまっておいたら、幸せで胸がパンクしてしまいそうなの。
だから、書いちゃう。
玄関を出るとき、シンジが先に出たの。
するとレイがその背中について行って。
あ、ただの「おやすみ」の挨拶。
日本式だからキスもしないので私は安心なの。
その隙にリツコがね、私に言ったの。
「ありがとう。悪戯が本当のお祝いになったわね」って。
で、私は訊いたのよ。ずっと気になっていたから。
どうしてレイを最後にしたのかってね。
彼女はシンジの妹なのに。もしかして二人の間がぎくしゃくしてるのかもって気になったのよ。
そうしたらね。ああ、恥ずかしいよぉ!
リツコはクスリと笑って、私の耳元に囁いたの。
「シンジと結婚したら、あなたも私の娘になるじゃない」……だってさ!
だめ!もう書けない!
じゃあね!ママ、愛してる!
パパと、シュレーダーと、カールによろしく!
みんなにも愛してるって伝えて。
ああ!世界がバラ色って感じ!
<おわり>
<あとがき>
ああ!何とか、5月。
大変でした、今回は。
一日に5行も書けない日が続出で。
しかも難しい試験が6月末にあるんです。
SSも書けないくらい時間がないのに、いつ勉強すればいいんだ?
おまけにこっちは脳髄がすっかり硬くなってるっていうのに…。
ということで、次回のお話は短くなる予定。
せっかくのイベント月だっていうのに、ごめんね、シンジ君。
2月のお話(FEBRUAR 2016)
3月のお話(MAERZ 2016)
4月のお話(APRIL 2016)
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