『ねぇ、ママ。
 今年のバレンタインデーはこんな程度だったけど、来年はちゃんと日本流でやり遂げてあげるんだから。
 覚えておいてよね、この一年で絶対に彼を私に夢中にさせるの。
 本当の戦いはこれからなのよ!』

 

 


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5月のお話(MAI 2016)

 


2006.06.18         ジュン





 マリアはくすりと笑った。
 いかにもアスカらしいやり方だ。
 ひねくれてて、わけがわからない。
 しかしその理由を知ってしまうと何とも愛らしくてたまらないのだ。
 彼女は読んでいた便箋を封筒に入れると、窓の近くにあるサイドテーブルに引き出しにそっとしまいこんだ。
 誰にも読まれないように。

「カール。パパやお兄ちゃんに言っちゃだめよ」

 ベビーベッドの赤ん坊は母親に呼びかけられて、きゃっきゃっと笑った。
 相手をしてもらったのが嬉しかったのか。
 何しろ二人きりですぐ近くにいたというのに、マリアは日本からの手紙に夢中になって今の今まで知らぬ顔だったのだから。

「あなたにはちょっと早いわね。プディングは」

 次男のつややかな頬を指でちょんと突付き、マリアは微笑んだ。
 必要なものは全部揃っていたかしら、と冷蔵庫の中を思い起こしながら。
 ああ、そうだ。
 プディングプルファーが要る!
 ドイツ風のプディングではアスカの書いた様にはできないだろう。
 マリアは外出の準備を始めた。
 Tengelmann(ミュンヘンのスーパーマーケット:作者註)に行けば絶対に置いてあるはずだ。
 あそこならカールをおぶってほんの10分で到着する。
 いい天気だからカールも喜ぶだろう。
 彼女は弾む心を抑えようとせず、いささか音の外れ気味の鼻歌を伴奏に準備を始めたのだ。
 その準備というのは小さなカップでコーヒーを飲むこととビスケットを2枚胃袋に収めること。
 空腹でズーパーマルクトに行くような愚かさをドイツ女性であるマリアは持ち合わせていなかったからだ。
 不要なものは買わない様にという習慣だが、プディングプルファーは何箱か買わねばならないだろう。
 上手く作られるように練習が必要だから。
 アスカがシンジに食べさせたように。



 話は今月の初めに遡る。
 惣流・アスカ・ラングレーは2月からずっと悩み続けていた。
 彼女の悩みはことすべて碇シンジに関わることなのだが、今回のそれはかなり重要度の高いものだった。
 シンジの誕生日。
 ここでポイントを上げれば、自分のことを好きになってくれるかもしれない。
 そう考えるとおろそかには絶対にできないイベントである。
 去年の誕生日はその存在すら知らなかった。
 いや、彼の誕生日のことなど聞かされても記憶しなかっただろう。
 しかし今年は違う。
 ずっとこの日の来るのを待ちかねてきたのだ。
 待ちかねすぎて、その日をどう過ごすのか、また何を贈るのか、考えすぎてしまった。
 彼女お得意の堂々巡りである。
 こと勉学や体技については的確な判断とその本能でピンポイントを突くように正鵠を射てきた彼女だ。
 ところが、それがシンジにまつわる事になっては逆に的を外しまくっている。
 咄嗟の判断で大はずれする事もあれば、考え抜いて出した結論が大間違いの事も多い。
 要はその考え方のベースが根本的に間違っているのが問題だ。
 彼女はその愛する人に好意は持たれているが愛情は持たれていないと頑強に思い込んでいる。
 その好意も例えば肉親に対するものであり、他人の異性へのそれではない。
 断じてない。
 思い込みというものは怖い。
 周囲からどんなに言われても、自分のその感覚を信じている。
 いや、信じているのではなく、希望を恐れているのだといった方が正しい。
 みんなから大丈夫だと言われれば言われるほど膨らんでいく希望。
 もしその希望に裏切られれば?
 もう生きていく気力はない。
 そこの部分は二人ともがまったく同じだった。
 アスカもシンジも愛するものに拒否されたくはない。
 その可能性を考えると無理に告白などできない。
 でも彼氏彼女の関係になりたい気持ちも抑えられない。
 だからこそ、数々の珍騒動を起こすのである。

 さて、誕生日だ。
 先ほど彼女が2月からずっと考え続けていたと述べた。
 つまり、バレンタインデーイベントに失敗してからだ。
 マリアには来年のバレンタインをと宣言したものの、もちろん1年もの長い間ぼけっとしているつもりはない。
 何かしらのイベントがあれば、それを機会に好感度をアップさせて彼の愛情を勝ち取りたい。
 アスカは燃えていた。
 
 燃えすぎた彼女は考え付いたあらゆる方策をすべて灰にしてしまった。
 どれもこれも一長一短がある。
 当然なことだ。
 完璧な方法などあるわけがないから。
 しかし、彼女はそれを追い求める。
 追い求めすぎた。
 気が付くとカレンダーは6月にめくられている。
 雨に濡れる古寺の佇まいの写真だった。
 アスカは盛大な溜息を吐いた。
 四季が戻った日本には梅雨も戻ってくるのだろうか。
 
 雨ばっかりなんて、霧のロンドンじゃあるまいし…。
 あ、でも、雨が多いんなら相合傘のチャンス!
 はっ、馬鹿アスカ。
 雨が多いんなら、いつも傘を持ってるってことじゃない。
 傘を忘れてきちゃったなんて言い訳できないわよね。
 あああっ、プレゼント!
 相合傘用の傘っていうのもあったわよね。
 Gute Idee!
 って、馬鹿。
 そ〜ゆ〜のは、相思相愛のカップルじゃないとダメじゃない。
 こっちはそれをまず目指さないといけないっていうのに。
 ああ、でもいいだろうなぁ。
 濡れるからもっとこっちに寄りなよ、なんてシンジが言ってさ。
 うん、ありがとう…ってアタシがそっと寄り添って。
 ……。
 ま、アタシのことだから、ど〜せ、仕方がないわねって言いながらだろうけど。
 あっ、プレゼント!
 もうっ、どうしてこう横道にそれちゃうんだろ。

 これは一例に過ぎない。
 このように彼女の考えは一向にまとまらず、最上の贈り物を求めて右往左往しているのである。

 だが、考えるには、時は今。
 今が一番なのである。
 何故かというと、現在碇シンジは外出中。
 週に二度のチェロの手習いの日なのだ。
 これを勧めたのは誰あろう、アスカである。
 第3新東京にやってきてからはシンジは先生に附いて習うということをしなかった。
 すべてが終ってからもそうである。
 何もチェロで身を立てようという思いで習っていたわけではなかったからだ。
 ところがこの5月の半ば、その話題になった時にアスカは怒りだした。
 趣味というものはそういうものではなかろう。
 例え楽しみで習っているものであろうと、途中で止めてしまうのは間違いだ。
 正論である。
 そのアスカ本人が無趣味な人間にしか見えないことは棚に置いておこう。
 もちろん、彼女曰く…ドイツのマリアにしか告げてないが…、彼女の唯一無二の趣味は“シンジ”だそうだ。
 まったく、熱いと言うべきか、一歩間違うと危ない人間だ。
 その提案にシンジはいささか腰を引きながら受諾した。
 巧く弾きたいとは思うものの、彼にとってもアスカといる時間の方が大切だったからだ。
 しかし、泣く子と地頭の方がアスカよりも遥かに処しやすいだろう。
 ましてシンジにとってはなおさらだ。
 彼は泣く泣く彼女に従った。
 実はその後、彼女も泣いた。
 週に二度もシンジと長時間離れることになる。
 無論そのことを承知でシンジに勧めたのだが、いざ了承されてしまうと実感を伴ってきた。
 ひとしきり泣いた後、彼女は決意した。

「えっ、アスカが先生を選ぶの?どうしてだよ」

「どうしてって、どうしてもよ」

 いかにも真っ当な質問だ。
 当然、アスカは目を合わせられない。

「でも、アスカは楽器は…」

「弾けないわよ!悪い?聴く方専門。聴くのが好きなのっ。アタシはそうなのっ」

 叫ぶように言ってしまってから、頬が赤くなった。
 別にシンジのことが好きだとは言ってないが、彼女的には言ったも同然なのだ。
 (シンジのチェロを)聴くのが好きなのだから。
 バツの悪さにひしと睨みつけるアスカだった。
 その迫力に抗えることができるようなシンジではない。
 かくして、チェロの先生選びはアスカが決定権を持つ事になったのである。
 
 まずインターネットで第3新東京市で音楽教室を開いていて、チェロを教えているところをピックアップ。
 一人目の候補はシンジがその名前も知っていたチェロの世界ではかなり有名な人間だった。
 ところが門外漢であるアスカが瞬時に却下した。
 彼女が美人だったから。
 もう40歳前後の筈だが、ホームページの画像を見て、背後に立っていたアスカは即座に“X”ボタンをクリックした。
 どうして?と振り返るシンジに、屁理屈を並び立てる。
 アンタは男だから女の弾くチェロとチェロが違うのだなどエトセトラエトセトラ。
 二番目は壮齢の男性。
 だが、アスカは教室紹介の小さな画像にぴくっと来た。
 生徒に女性が多い。
 そして、また屁理屈。
 1対1でないと効果がない、学習が散漫化するエトセトラエトセトラ。
 ようやく彼女が実際に見に行こうと折れたのは最後の候補だった。
 教室のホームページはなく、登録されているだけの個人教室だった。
 行ってみないと何もわからない。
 どう見ても中年以上の男の名前だったので、アスカもそこに赴いてみることに同意したのだ。

 第3新東京市の郊外。
 ニュータウンのこの町なのにもう何十年もそこにあるかのような閑静な佇まい。
 話を聞いてみると元々このあたりは小さな別荘地で周りが開発されてしまったということらしい。
 その話を聞かせてくれたのは先生の奥さん。
 しかし、彼女にアスカは嫉妬心を抱くことはなかった。
 二人が孫と同じくらいの年頃だと美味しい日本茶を出してくれた上品な老女に、さすがのアスカもそういう気持ちにはなりはしない。
 先生は痩身で背が高く、「こういう年寄りだから生徒さんが少なくてね」と笑うのを見て、
 まるで計ったかのようにシンジとアスカが頭を下げた。
 
「よろしくお願いします」

 声までピタリと合わせた二人は「綺麗にユニゾンしたね」と言われて、さっと頬を染める。
 そこを辞去した後のアスカは饒舌だった。
 
「なかなか、いい先生じゃない。ほら、MJ交響楽団のメンバーだったっていうしさ。
 ま、まあ、どんな交響楽団かアタシは知らないけど。アンタ、知ってる?
 何だ、知らないの?だめねぇ、アンタは。そうそう、最初に行く時に何かお土産持っていきなさいよ。
 アタシが出してあげるからさ。うっさいわね、アタシが出すって言ってんでしょうが。アタシが出すのっ。出させなさいっ。
 で、何がいいと思う?ああ、ダメダメっ。おまんじゅうなんて、どうせ向こうの方がよくわかってんだから、洋菓子よ、洋菓子……」

 ユニゾンという言葉が嬉しかったのだろう。
 アスカは胸の奥が温かく、じっとしていられない。
 喋りながらシンジの周りをぐるっと一回転したり、手にしたバッグを振り回したり。
 それはシンジにとっても楽しい時間だった。
 どちらが言うともなくバスを使わずに夕焼けの街を並んで歩いた。
 そう、結構長い距離を。
 
 水曜日の放課後と土曜日の昼下がりはシンジのチェロの手習いの日になった。
 最初はアスカも一緒に行こうかとも思った。
 建前ならある。
 チェロは大きい。
 あれをシンジ一人に運ばせるのは可哀相だとか何とか。
 それに手習いの間、あの奥さんと喋っているのもいいだろう。
 シンジが頑張っている間、彼の音色をBGMにして。
 だが、彼女はそれを断念した。
 何故ならば、水曜日の晩御飯の準備があったから。
 チェロの練習を終えてシンジが帰ってくるのは午後8時。
 いくらなんでもそれから彼に晩御飯を準備させるのは酷というもの。
 だから彼女は言ってしまった。

「インスタントや出来合いのものでよければ、このアタシが用意したげるわよ」

 シンジは驚いた。
 そして、内心の喜びを必死に抑えたのだ。
 例えインスタントであってもアスカの手料理が食べられる。
 抑えたあまり少しつっけんどんになってしまったかもしれない。

「うん、わかったよ。じゃ、お願いしようかな。い、インスタントでも出来合いでも。うん」

 少し、むっ。
 何よ、変な声で。
 こうなったら、やってやるから!

 アスカの目標ができた。
 水曜日の晩御飯は、インスタントに見せかけた極上の手料理を食べさせること。

 これは難しい。
 極上の手料理なら何とかする自信はあった。
 とりあえず自信だけだったが。
 しかし、問題はそれをインスタント食品に見せかけねばならない。
 何もそこまでしなくてもいいものだが、シンジの一言がアスカを燃え上がらせた。
 ただこの目標を達成するためには時間が足りない。
 練習をする時間がないのだ。
 その水曜日と土曜日のシンジが出かけている時間しかない。
 しかし、もう後には退けない。
 彼女は綿密な計画を立てた。
 ある夜に徹夜して。
 翌日の授業で睡眠不足はちゃんと解消したが。
 因みに土曜日の晩御飯についてはシンジが自分がすると宣言していた。
 もちろん、初心者のアスカに週に二度は苦しいだろうという愛情からだったが、
 彼女は馬鹿にされたように感じ、余計にファイトを燃やしたわけだ。
 
 さて、この状況は彼女の能力を飛躍的に向上させた。
 家事に関しては世界に冠たるドイツ女性であり、ずっとドイツで暮らしてきたアスカではあったが、
 幼いときからチルドレンとしての教育と鍛錬の毎日だった。
 家事に対する科目などその中にあるわけがない。
 彼女としてはその身体の中に流れる3/4のドイツ人の血液、素質に頼らざるを得なかった。
 
 素質は幸いにもあったようだ。
 まずシンジの最初の手習いになる土曜日の前日。
 先生のところに持っていく洋菓子を買いに駅前へと二人は赴いた。
 そして、シンジに候補を見繕わせている間に、アスカは走った。
 恥ずかしいが手洗いに行くと称して書店に。
 15分後に戻ってきた時には背中のバッグの中に数冊の本が。
 『ドイツ婦人の家事』、『ドイツ料理』、その他。
 彼女はその夜、全冊読みきった。
 そして、まず自分に課したのは家事の基本。
 整理整頓である。
 いくらインスタントや出来合いに見せかけても調理の痕跡を台所に残してはならない。
 ドイツの女性は調理しながら片付けていくという。
 さすがは我が母国!
 アスカは何度も大きく頷いた。
 5月の第3土曜日。
 シンジが「いってきます」と玄関から姿を消した瞬間、アスカの奮闘は始まった。
 まずは台所の用具の位置や確認。
 どんなにシンジが家事を一生懸命にしているとはいえ、いろいろチェックしていくと粗が見えてくる。
 アスカは考えた。
 もし、将来、ドイツの家族たちがこの部屋にきた場合のことを。
 絶対に自分たちの家の状態と比較するに決まっている。
 本に寄れば、シンクに自分の顔が映るくらいに磨きたてているとか。
 今のシンクは黒っぽい影が映るだけだ。
 もともとの素材もあるだろうが、これには彼女はショックを受けた。
 これでは世界中から賞賛を受けているドイツ女性の面汚しになってしまうではないか。

 この瞬間である。
 アスカがゆくゆくは碇家の家事…ああ、なんと芳しい響きだろうか…を取り仕切ろうと決意したのは。

 しかし、何事にも始まりがある。
 アスカの最初の第一歩はおやつ作りだった。
 昨夜その第一歩に選んだのはインスタントのプリンだった。
 牛乳ならいつも冷蔵庫にあるし、これならインスタントに間違いはない。
 それでも鍋は使うことになる上に、片付けの練習にもなるではないか。
 ひとしきり自画自賛した後に彼女は近くのスーパーに疾走した。
 10箱もインスタントプリンを購入し、家から持ってきた袋に入れてビニール袋は断った。
 読んだ本の中にドイツ女性のリサイクルへの心がけが書かれていたからだ。
 何事も完璧を目指さずにはいられない性格なのである。
 さて、最初の一箱は食品としては成功したが、コンロの周辺は大惨事となった。
 吹き零れたプリンの素でべたべた。
 本にあったようにすぐ拭こうとしてその熱さに飛び上がったりして、見る見るうちに汚れてしまった。
 これでは拙い。
 アスカはプリンを冷蔵庫に収納する一方で、次の箱を開封していた。

 やはり慣れや修練というものは大切なのだろう。
 5箱目くらいには手早く片づけをしながらプリンを作ることができるようになっていた。
 アスカは大きく頷いた。
 さすがはアタシ。
 やればできるじゃない。
 そう、やればできた。
 だが、問題があった。
 冷蔵庫の中にずらりと並ぶプリンの群れ。
 容器が統一されてないから余計に圧迫感が強い。
 中には湯飲みや吸い物用の茶碗にまで入っているものもある。
 こんなに作ってしまっているところをシンジに見られたくはない。
 台所は午前中よりも綺麗になっているという自信はあった。
 だが、アスカには見栄がある。
 誰よりもシンジにはブザマなところを見せたくはない。
 あれだけのプリンを作ってようやく得心の行くものになったとは思われたくないのだ。
 初めての料理だから尚更だろう。
 しかし、問題はこのプリンの大群だ。

 アスカはとっておきの手を打った。



「来たわ。ご馳走してくれるって本当?」

「ええ、美味しいわよぉ。プリン」

 綾波(本姓:碇)レイが部屋に現れたのは電話をしてから15分後。
 歩いて20分の距離をやってきたというのに、汗もかかず息も切らしていないというのはさすが神秘の女。
 アスカはそう思ったが真実を明かせば、買い物に行くリツコに送ってもらったそうだ。
 
「美味しい。さすが、お兄ちゃん」

 レイの感想を聞いて、アスカの笑みが広がった。
 作ったのは彼女だと聞いて、レイは眉を顰めた。

「アスカにできるの?冗談。私をからかってる」

「はんっ、アタシは天才だから何でもできんのよっ。ま、証明してあげるわ。見てらっしゃい!」

 アスカは手馴れた手つきで料理を開始した。
 一度綺麗に片付けたのだが苦にはならない。
 要領を覚えたから簡単に元の状態に戻す自信があったからだ。
 事実、彼女は素早く調理し、汚れた鍋もコンロの汚れも素早く掃除した。
 ついでにレイと二人で食べたプリンの容器も洗ってしまった。
 どうよ、とばかりにレイに向って顎を上げてみせるアスカである。
 そんな彼女にレイは惜しみなく拍手を送った。
 パチパチパチ。
 たった3発だけ小さな音がした。
 彼女の性格を知らない者にとっては気のない讃辞にしか見えないが、戦友であるアスカにはそれが本気であることはよくわかった。
 
「アリガト、レイ。じゃ、あとこれだけ持って帰ってくれる?」

 アスカは冷蔵庫を開き、残った10個余りのプリンを指さした。
 どうして?ときょとんとするレイに、アスカは本当のことを告げた。

「あのさ、シンジに知られたくないのよね。アタシがいろいろしてることを」

「喜ぶと思う。お兄ちゃんは」

「だめだってば。あ、そうだ。これから毎週、アンタにご馳走してあげるから来なさいよ」

「口止め。いいわ。美味しいのなら口止めされても」

「もっちろん、このアタシに失敗はないんだからっ」

 かくして、レイは毎週土曜日に人体実験ならぬお呼ばれに来訪することが決まったのである。
 


 アスカは盛大な溜息を吐いた。
 これではバレンタインデーの時と同じだ。
 悩みすぎて何もできなくなってしまう。
 アスカは唇を噛みしめた。
 よし、決めた。
 これで行こう。



 6月6日は月曜日。
 残念ながら手習いのある水曜日ではない。
 従って、アスカの動きは完全にシンジに監視されている。
 もちろん、そんなことは彼女は百も承知。
 すべては土曜日の段階に整えてしまっている。
 バースデイパーティーのご馳走をまさかシンジ本人に作らせるわけにいかない。
 放っておけば、自分ですると言い出しそうだから土曜日にデパートに行って料理とケーキを予約してきたのだ。
 それをレイとシンジに取りに行かせる。
 本当ならシンジに行かせるのも変な話だが、彼女にはある準備をする時間が必要だったのだ。
 往復に45分。
 それだけあれば充分だ。
 アスカには勝算があった。

 参加者はアスカとシンジ、それにレイ。
 だけではなかった。
 シンジの友人である鈴原トウジと相田ケンスケも参加を表明すれば、アスカとしても洞木ヒカリを呼ばざるをえない。
 さらに予想していたことだが葛城ミサトと碇リツコも顔を出すという。
 まさに千客万来。
 平日の夜だけに碇ゲンドウも定時で抜けて息子の誕生日に…とはどういう顔をして言えばいいのか困った挙句断念している。
 もっとも彼はお祝いに現金一封とそれにカードを添えてきた。
 それには…やはり散々悩んだのだろう…大きく、“祝”とだけ筆で書かれていたのだ。
 その一文字を書くのに10枚以上のカードを反古にしたことは、あっさりとレイにばらされてしまっていた。
 相変わらず無器用で微笑ましい男である。
 平和な世の中では。

 パーティーは盛り上がった。
 時々シンジが泣き出しそうにしていたことをアスカはしっかりと確認している。
 おそらく彼はその誕生日でこんなにお祝いをしてもらったことがなかったのだろう。
 アスカは心の中で「よかったね、シンジ」と何度呟いたことだろうか。

 さて、親友であるヒカリはアスカの豹変振りに驚いていたことも付け加えておこう。
 シンジをはじめ男連中たちは気がつかなかったようだが、汚れた食器や飲み物のグラスを手際よく片付けていたのはアスカその人だった。
 実はその方面に頼りになりそうなメンバーがいないと考え、自分がその役をしようと意気込んでいたヒカリだった。
 
「ねぇ、アスカ。悪いけど正直言ってびっくりした」

「ふふ、でしょっ。実はアタシも自分で驚いてんの。やっぱりドイツ人の血ってヤツかしら?」

 嬉しげに笑うアスカにヒカリは声に出さずに言った。
 さすがにこんな台詞は中学生には似合わないかと思って。

 それは愛の力よ、アスカ……。



 アスカの仕掛けた事件は9時を過ぎた頃に炸裂した。
 そろそろお開きという前にアスカが冷蔵庫からプリンを出してきたのだ。
 努めて平静な表情を崩さずに彼女は各々にプリンの容器とお皿、それにスプーンを渡していく。
 
「なんや、プリンか。こんなんわざわざ皿に移さんでもええやんか」

「だな。面倒くさいぜ」

 トウジとケンスケがそのままプリンを食べようとした。
 このままでは二人に挟まれたシンジまで同じように食べるだろう。
 それではアスカの計画…いや、悪戯だが…は失敗に終わってしまう。
 しかしアスカはここでまったく焦らず騒がず、ただヒカリに目配せをしただけだった。

「鈴原ぁ。こういう席なんだから行儀よくして。お願いだから」

 お願いというには凄みがある声だ。
 もっともそれほど凄まなくてもヒカリの“お願い”はトウジにはかなり有効だ。
 この時も少しばかり耳を赤くさせながら、「しゃあないな」と呟いて容器を逆さにして皿に移そうとする。
 もちろん逆様にしただけでプリンが落ちてくるわけがない。
 その動きを見てケンスケは鼻で笑った。

「馬鹿だな。こうやるんだ。空気を入れたら簡単だ」

 彼は容器の隙間にスプーンの先を少し滑らせて、プリンをぷるんとお皿に着地させた。

「わかっとるわい、それくらい」

「へぇ、カラメルもちゃんと入れてたのか。シンジ、お前が作ったのか?」

「えっ、いや、僕じゃないよ、うん」

 言いながらアスカを見ると、彼女はどんなもんよと顎を上げる。
 この場合恥じらいや照れよりも悪戯の結果の方が楽しみでならないのだ。
 
「へえ、アスカがつくったの、これ。あんたって家事できたっけか?」

「うっさいわね、少なくともミサト。アンタよりはできるわよ」

「あっ、最近の私を知らないわね。最近は…」

「悪阻が酷いからって、旦那さんに全部押し付けてるって聞いてるけど」

 すかさず突っ込みを入れる呼吸の良さはさすがリツコというべきか。
 事実を言われ言葉を失ったミサトは素知らぬ顔でプリンをお皿に。

「わおっ、綺麗に茶色いのがついてるじゃない」

「カラメル。本当にあなた、主婦してる?生まれてくる子供が可哀相よ」

「ふふ〜ん、最近急に主婦らしくなったリツコさんには負けますけどね」

 少し目立ち始めたお腹をさすりながらミサトは茶化すように言う。
 しかしリツコはいちいち彼女の売り言葉を買う気はないようだ。

「あら、本当。ねぇ、アスカ。これは…ああ、そうね。プリンの素よりもカラメルの方が比重が…」

「当たり。あったかいうちにカラメルを落としたら底に溜まるの。私も知らなかったんだけどね。箱に書いてあったのよ」

 そんな会話をしながらもアスカの目はシンジの挙動に釘付け。
 彼はようやくプリンをお皿にあけようとしていた。
 そして、ぷるるんと着地したそのクリーム色の山の頂は、やはり同じクリーム色だった。
 
「あれ?」

 みんなのプリンと違うその様子にシンジは途惑った。
 
「なんやセンセ。なんでのってへんねん。センセのだけ」

「不良品じゃないのか?」

「失礼ねっ!でも、おかしいわねぇ、一緒に作ったのにさ」

「どうせアスカのことだからひとつだけ入れるの忘れたんでしょ」

 ミサトがにやにや笑いながら言う。
 いかにもこういう風に突っ込んで欲しいんでしょうと言いたげに。
 
「そうかもね。ま、そ〜ゆ〜のに当たるのが馬鹿シンジらしいってことかも」

「はは、僕、運が悪いから」

 シンジは左手で頬を掻いた。
 まずは、悪戯の第一段階は成功。
 アスカはさらに彼が第二段階に進むのが待ち遠しくてならない。
 別にサディストというわけではない。
 もしシンジが悲しくて泣き出すような展開になるのなら絶対にそんな悪戯はしないだろう。
 そして、シンジは彼女の望み通りにスプーンをプリンに押し当てた。
 彼のプリンの食べ方をアスカは熟知している。
 この間もそれをじっくり観察していたのだ。
 上の方から均等に食べていく。
 まるで山崩れが起きはしないかと恐れるかのように。

「うん、美味しいわねっ。インスタントの割には」

「くっ!うっさいわね!ミサトは作れないでしょ。例えインスタントでも」

「作れなくてもいいのン。出来合いの買ってくるから」

「子供が可哀相ね」

 またまた見事な突っ込み。
 妊娠してからのリツコはさらに家庭婦人への道を突き進んでいるようだ。
 もちろん、それでいて研究開発の方も手を抜いていないところが彼女らしいのだが。
 そんなやり取りをしながらシンジのチェックも欠かさない。
 もうすぐ、もうすぐで…。

「あれっ」

 来たっ!
 小さいながらも素っ頓狂な声を上げたシンジにみんなが注目した。
 そのスプーンの先を見ると、プリンの中に茶色の塊が。
 
「どうして、真ん中にあるの?」

 ああ、だめだ。
 笑いを抑えられない。
 あの変な顔といったら…。
 アスカが笑い転げようとした時だった。

「おおっ。シンちゃんラッキーじゃない!」

 ミサトが大声を上げた。
 
「え…」

「アスカ、あんたなかなか粋なことするわねぇっ。お姉さん、見直しちゃったわン」

「もう、おばさんね」

「うるさいわねっ、まだ産まれてないんだからおね〜さんでいいのっ」

 素早い突込みへ素早く返し、ミサトは身を乗り出して怪訝な顔のアスカの額をちょんと突いた。
 怪訝なのは仕方なかろう。
 何しろこれはただの悪戯で粋も何もないからだ。

「ミサト、何が粋なの?わからないわ」

「もう、リツコったら。家事の方はそれなりにこなしてるみたいだけど、相変わらず一般知識には疎いわね」

「悪かったわね。で、何なの?教えて頂戴」

「ヨーロッパではね、ほらクリスマスなんかのケーキの中にちょっとした贈り物を仕掛けたりするのよ。
 中には、婚約指輪を入れておいてプロポーズがわりにしたりして」

「わっ、ロマンチック!」

 この場で一番乙女チックな少女が合いの手を思わず入れてしまった。
 それが誰かということは書くまでもないだろう。
 レイはきょとんとした表情のままで、アスカは次第に頬を赤くさせている。

「ちょっと、シンちゃん。中に指輪とか入ってない?」

「は、入ってないっ!か、か、カラメルだけよっ!」

「あらン、そりゃ残念ねぇ。じゃ、幸運の方か」

「わかるように説明してくれる?」

「まったく…。あのね……」

 大袈裟に肩をすくめてミサトは話し始めた。
 たくさんのケーキの中にひとつだけ胡桃とかを仕掛けておいて、そのケーキに当たった人が幸運の持ち主だという遊びである。
 その人に素敵なプレゼントを上げるというイベントをしたり、ゲームの勝者にするという場合もある。
 
「ふふん、アスカも本当に粋なことするわね。でもプリンの中に仕掛けるのって難しくなかった?」

「ああ、それは簡単よ。先に…」

「こら、リツコっ。種明かしするんじゃないの。気が利かないんだから」

「悪かったわね。気が利かなくて」

 二人のやり取りがおかしくて、レイでさえ声に出して笑い出した。
 シンジも嬉しそうに笑って、そして彼はこの場でただ一人頬を緩めていない少女を見た。
 彼女は頬を染め唇を尖らせて、その蒼い瞳はじっと自分のプリンを見ている。

「じ、じゃ、いただきます!」

 シンジは声を励まして、少し流れ出し始めているカラメルをスプーンで掬った。

「あ、わしにも幸運ちょっとわけてぇな」

「ごめんよ」

 シンジは慌ててぱくぱくと食べだした。
 もちろん、トウジが本気で言うはずもなくそんな彼を温かい目でみんなが見ていた。
 蒼い瞳を除いて。



 さてさて、アスカがマリアに書いた手紙を披露する前に、
 その誕生日の夜のとある車の中のことを書かねばなるまい。
 
「ああっ、こういう日にはぷぁ〜っとビールを飲みたいわねぇ」

「静かにして。レイが眠ってるの」

「あ、ごみん。そっか、もう11時だもんね。レイちゃんは早寝早起きだし」

「早寝遅起きよ、この子は」

 助手席で微かに寝息をたてているレイをリツコはちらりと見た。
 確かによく眠る娘だ。
 もしかすると大勢の人の中に入ると何もしなくても気疲れしてしまうのかもしれない。
 それはそのうち慣れていくだろうが。

「ふふん、それはそうと、リツコ」

「なぁに?」

「ナイスぼけ。ご苦労様」

「何のことかしら?」

「もうっ、すっとぼけちゃって。幸運のプリンのことよ」

「ああ、あれ。シンジ君よりもアスカの方がびっくりしてたわね」

「へっへっへ、どうせあの子のことだから、あんな習慣のことを忘れてただの悪戯でしたんでしょうけど」

「ドイツにもあったのかしら?イギリスの風習だと思ったけど」

「さあね、あるんじゃないの。同じヨーロッパなんだしさ」

「いい加減ね」

「うふ、そうよ。いい加減だから、私は。だから、随分あの子達を苦しめちゃったと思ってさ」

「あら、罪滅ぼし?」

「みたいなものかもね。あんな子供たちを戦わせてたんだもん。しかも最後には自分のことで手一杯になっちゃって放り出した」

「あなただけの責任じゃないわ。私も…うちの人もね」

「うちの人かぁ。まあね、みんな自分のことしか考えてなかったのよ。
 未来を…子供たちのことを考えていたのはコアの中の母親だけだったってことかも」

「今は?」

「今?と〜ぜん、バラ色の未来をつくらなきゃね。この子たちの為に」

 ミサトは優しくお腹を撫でた。

「変わったわね、あなた」

「へっへっへ!でしょ!あれからビールとかまったく飲んでないのよ!うちのなんていつまで続くかなんて言ってくれてるけどさ」

「酔っ払いの赤ちゃんが産まれてきたら大変だものね」

「哺乳瓶にビール入れろって泣き喚くの?あはは、そりゃやばいわね」

 車がゆっくりと左に曲がった。
 制限時速通りに進む車にミサトはいらだちもしない。
 変われば変わるものである。
 彼女は優しげに言葉を漏らした。

「あんただって…変わったわよ」

「そうかしら?」

「そうよ。冷酷非情のマッドサイエンティストが血の繋がらない子供に無器用な愛情を注いでるじゃない」

「無器用だけ余計よ」

「ふふ。お腹の子のこと調べた?男か女か」

「いいえ」

「へぇ、リツコならすぐに調べるかと思ったわ」

「どっちでもいいじゃない。ただ健康に産まれてきてくれればそれでいいの」
 
「そうね。それが一番」

 そんな温かい会話が聞こえているのか、レイは微かに微笑みを浮かべて少しだけ身じろぎした。
 その笑みは未来のためにその身を捧げた碇ユイのものにそっくりだった。



 ねぇ、ママ。
 聞いてよ。どうしてこうなっちゃたんだろ。
 ただの悪戯だったのにさ。
 おかげでその日はシンジの顔が見られなくなっちゃたの。
 本当にあの年増の二人は…。
 うん、感謝してる。
 
感謝はしてるんだけどね。
 それで困っちゃったのよ。
 たいしたプレゼントじゃないんだけどさ、彼に渡しにくくなっちゃって。
 だってね、シンジったらあの悪戯にすごく感謝しちゃって。
 何度もお礼言うのよ。
 でも、何とか間に合わせたわ。
 その日のうちに渡すことができたの。
 誕生日プレゼントを。
 あ、渡すって言葉は間違ってるかも…。



 
午後11時にはアスカはすっかり焦っていた。
 あと1時間で6月7日になってしまう。
 せっかく準備したプレゼントを渡せずに終わってしまうではないか。
 しかし面と向って「おめでとう」と手渡しできる状況ではない。
 もっとも碇シンジ的にはまったく問題はないのだが、アスカ自身が自主規制をかけてしまっているのだ。
 ここに彼女の弱さがあった。
 自分で立てた計画に狂いが生じると…という意味ではない。
 照れてしまったのだ。
 あの悪戯の時に「ありがとう」を言われ、ちらりと彼を見てしまった。
 その瞬間、背筋にびゅんと快感というか感動というか、呼吸を止めてしまうような何かが全速力で走った。
 アスカはシンジの笑顔にすこぶる弱いのである。
 しかも今回は明らかに自分に向けられたもので、その上何かわけのわからないものが加わっていた。
 ずばり、愛情である。
 もし彼女たちが恋人同士なら、シンジの笑顔に思い切り愛情が込められているのがわかっただろう。
 しかし、今現在はアスカには察しがつかない。
 残念ながら。
 従って、彼女はシンジを早く眠らそうと努めていた。
 顔を見ずに渡すには暗闇しかない。
 そこでアスカは彼女の持てる最大の能力を発揮して、後片付けに専念した。
 手伝おうかと言うシンジをバスルームに追いやり、とっとと風呂に入って寝なさいと喚きたてた。
 その言動で彼の評価がどう下がろうがかまわない。
 今は危急存亡の危機なのだ。
 だが、実は評価はまるで下がっていなかったのである。
 逆に上がっていた。
 誕生日に家事をさせないという気配りだと誤解したのである。
 まあ、痘痕も靨と言うではないか。
 恋は盲目なのである。

 シンジが自室に入ったのは11時48分。
 早く寝ろと何度も言ったのだが、彼はぐずぐずしていたのでアスカは無理矢理に部屋に押し込んだ。
 可哀相だが、アスカはこれでシンジの一世一代の勇気をくじいたことになる。
 そうなのだ。
 彼はアスカに告白しようとしていたのだ。
 誕生日パーティーの歓びの勢いで、好きだと言おうとお風呂の中で決意していたのである。
 それがそんなこととは露知らず、彼女はシンジを「この愚図!」と罵って部屋へと追い立てたのだ。
 この事実を知ったならアスカは血の涙を滝のように流しただろうが、幸いにもこのことはシンジの胸ひとつに収められた。
 僕ってやっぱりダメだなぁと苦笑しながら、彼は素直にベッドに向ったのである。

 午後11時55分。

「寝た?」

「あ、うん。寝てるよ」

「……起きてるじゃない」

「ベッドに寝てるって意味だよ」

 がつん!
 アスカは扉を蹴飛ばした。

「アンタ、アタシを舐めてんの!早く寝ろって何べん言ったら気が済むのよっ。明日も学校があるのよ!」

「ご、ごめん。寝るからそんなに怒らないでよ」

「はんっ、あと30秒以内に寝なさいよ!」

 午後11時58分。
 もう、待てない。

「寝た?」

「ご、ごめん」

 アスカは天を仰いだ。
 彼女は大きく溜息を吐くと、先程からずっと握り締めていた小さな袋を顔の高さに持ち上げる。
 土曜日に町中を駆け巡ってようやく探し当てたものだ。
 値段は高くはなかったが、その姿形は彼女にとってはまさに宝物そのもの。
 アスカの望み通りにその店のお姉さんは可愛くラッピングしてくれた。
 もう一度、溜息を。
 そして、次に深呼吸をする。
 時計を見るともう59分になっていた。

 いきなり扉ががばっと開いた。
 シンジは暗闇の中でじっと天井を見ていたから、廊下からの明るさに目が眩んでしまった。
 もちろん、扉のところで仁王立ちしている人間も逆光で表情も何もわからない。
 彼としては当然寝てないことを叱られるものだと思っても仕方がない。

「ごめん!すぐ寝るから…」

「ふん!ありがたく受け取んなさいよ!」

 声とともに飛んできたものが胸の辺りで小さく弾んだ。

「えっ」

「おやすみ!馬鹿シンジ!」

 言うが早いか、扉が閉ざされた。
 一瞬の光芒に本来の暗闇がより深くなる。
 シンジは身体を起こすと照明を灯すよりも先に、何が投げられたのかベッドの上を手探りする。
 指が触れて、がさごそと袋の音。
 その小さな袋を掴み上げ、暗闇にかざす。
 そして立ち上がると照明のスイッチを押そうと足を踏み出した。

 アスカはシンジの反応を待たなかった。
 扉を閉めると同時に彼女は自分の部屋に飛び込んだ。
 照明を暗くすると着ていたワンピースをさっと脱ぐ。
 そのまま脱ぎ散らかすかと思えば軽く畳んで、ベッドにきちんと置かれているパジャマを素早く着る。
 読者サービスも対応できないほどのスピードだ。
 そして、ベッドにダイビング。
 受け取ったシンジがどんなリアクションをしたのか当然興味はある。
 できれば喜んでくれた方がいいに決まっているが。
 だが、今はそれどころではない。
 プレゼントを渡したという行為だけでもう胸が一杯なのだ。
 結果を確認する余裕などありはしない。
 ひとしきりベッドの上を左右にごろごろ転がった後、うつ伏せになった彼女は枕の下に右手を差し入れた。
 そこにあったものを摘み上げ、ごろんと仰向けになる。
 室内は薄暗かった。
 月はなくとも、何かしらの灯りがレースのカーテン越しに差し込んでいる。
 アスカの指からぶら下がっているのは小さなキーホルダーだった。
 チェロの形をした。

「お揃い…、うふっ」

 溢れ出した幸福感に耐え切れず、アスカはまるで胎児のように身体を丸めた。
 そして、シンジとお揃いになるキーホルダーを胸にぐっと抱きしめたのである。



 彼の誕生日の話はこれでおしまい。
 でも、翌朝の私は緊張で喉がからからだったわ。
 シンジが何て言ってくれるのか気になって。
 もちろん、アイツは「ありがとう。大切にするよ」って言ってくれた。
 それからキーホルダーをチェロのケースにつけてくれたの。
 うん、まあまあの選択よね。
 以上、報告は終わり。
 幸せ一杯のアスカから。

 みんなにも幸福が一杯訪れますように。 

 
 

 よかったわね、アスカ。
 こうなるとあなたの誕生日が楽しみね。
 そうそう、あなたに触発されて私も作ってみたわ。
 幸福のプリン。
 こつをつかむまでにかなり作りすぎちゃったけど、
 我が家にはあなたのレイちゃんがいないから少し困ったわ。
 そして土曜日に、ハインツとシュレーダーに食べさせたの。
 もちろん、私のカラメルが上に乗った見本を先に見せてね。
 なかなかの見ものだったわよ。
 しゅんとなったり、びっくりしたり。
 で、アスカが教えてくれたって言ったら二人とも騒いじゃって。
 悪戯にも程があるって。
 男の人って単純ね。
 あ、ハインツが最後に言ってたわ。
 アスカの手料理を食べてみたいってね。
 もしよければ、彼の好きなもののレシピを送るけど?




 さらに数日後、アスカの手紙が日本から届いた。
 マリアの問いかけに対する返事はその末尾にさりげなく書かれていた。
 『レシピ、よろしく』と。

<おわり>


 

 

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<あとがき>

 あああああっ、書いてしまいました。
 勉強しないといけないのに。
 しかも15kb程度にする予定が…。
 まあ、いつものことですが。
 来月もまだ勉強が続くのですが、月一シリーズだけは止めたくないのです。
 そう、早く受かればそれでいいのですが…。
 テストがLAS創作ならばどんなによかったか(笑)。
 あ、でも“イタモノ”がお題だったら間違いなく落ちるな、こりゃ。
 とにかく、がんばるしかありません。


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