『ねぇ、ママ。
 今年のバレンタインデーはこんな程度だったけど、来年はちゃんと日本流でやり遂げてあげるんだから。
 覚えておいてよね、この一年で絶対に彼を私に夢中にさせるの。
 本当の戦いはこれからなのよ!』

 

 


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2007.02.14         ジュン



 親愛なるママへ。
 バレンタインのチョコレートはまだ何を作るのか決めていません。
 あれやこれや考えては迷ってしまって。
 あんなに素材が一杯あるからって別に超大作にする気はないの。
 私の心が上手く込められたらいいなって、ただそれだけ。
 ああっ、でもでも、何を作ればいいんだろ。
 



 
愛するアスカへ。
 私も楽しみよ。
 貴方が何を作るのか。
 シンジ君の気持ちがわかっているのだから安心して作りなさい。
 まあ、と言っても私はずっと安心して告白しなさいって言い続けてきたような気がするんだけど?
 

 
 
 

 
シンジはふて腐れていた。
 頬をいくらか膨らませ、下唇を微かに出し気味で、ソファーに深く腰掛けている。
 そしてその視線はリビングの天井をじっと睨みつけていた。
 まるでそこに誰かさんの顔が見えるかのように。
 もっとも本当にアスカの顔がそこにあったならば、そんな表情はできないと自分でも思っていたのだが。
 
 そんな息子の姿をほんの少しばかり離れた場所から微笑ましく見ている男がいた。
 微笑ましくといっても、彼の様子を見てそう見抜ける人間は世界中でそう何人もいないはずだ。
 
「あなた?」

「うむ…」

「ユイさんのこと、思い出していたのでしょう?」

 その問いかけにおっかなびっくりでゲンドウは首をゆっくりと前に向けた。
 そこには身重の妻がにっこりと笑っている。
 最初は違うとしらばくれようとも思ったが何分相手が悪い。

「何故、わかった」

「さあ、どうしてかしら」

 逆に惚けられてしまい、ゲンドウは不快感を示そうとしたのだが、どうやらそれはリツコには別のものに見えるようだ。

「あら、やっぱり親子ね。シンジ君そっくり」

「何っ」

「怒ってるんだぞと一生懸命にアピールしてるのだけど、どちらというと寂しい感じ」

「む…、そうなのか」

「ええ、可愛い」

 顔から火が出る思い。
 ゲンドウが“可愛い”となど言われたのは、彼の生涯でたった二人の女性からだけだ。
 その二人が共に妻になってくれているのだから、ある意味幸せな男とも言えよう。
 
「その、なんだ…つまり」

「素直じゃないのね。嬉しいなら嬉しい。恥ずかしいなら恥ずかしいと言ったらどう?」

「リツコ。その、あれだ。最近、ユイに似てきたような…」

「あら、そう?でも、二人とも女だから」

「当たり前だ。わしには男になど興味はない」

 見当外れの感想をきっぱりと言い切る夫にリツコは苦笑した。
 確かにその風貌とは裏腹に純情一直線で…そのために地球規模でとんでもない行動を起こすが…、
 二人の女性を同時に精神的に愛することができなかった。
 ゲンドウがユイの亡霊を吹っ切ったのはいつだったのか。
 リツコはその第一歩になったのが自分を撃った時ではなかったかと思っている。
 あの時、彼女はその心も身体も完全にゲンドウに支配された。
 “死”という、暗く不吉で圧倒的な名の下に。
 もちろん、そんな考えは間違っているとは思う。
 暴力では何も解決できないからだ。
 それにリツコが彼の感情を自分に向いたと考えたのは“死”によって支配されたという事ではなく、
 彼女を死に至らしめなければならないとゲンドウが結論付けたことだ。
 リツコがこの世に存在する限り、ユイを迎えに行けない。
 それがわかったからこそ、リツコは何の抵抗もしなければ逃げもしなかったのだ。
 ただ従容として撃たれた。
 撃たれた瞬間、彼女は笑ったのだ。
 自分の勝利に酔いしれて。
 その代償が自分の生命だったのだが。
 そして彼女は結局、愛する男を手に入れている。
 今、こうして。

「リツコ、その…どうだ?」

「陣痛?まだよ」

 そっけなく言う妻にゲンドウは「そうか」と呟いた。
 
「ずいぶん、遅いな」

「さあ。ユイさんは予定日より早かったのかしら」

「3日遅れた」

「あら、じゃまだ2日負けてるのね」

「む…、そんなことには勝たんでもいい」

 あら、本気で怒ってる。
 リツコは少し挑発しすぎたかと後悔したが、まあいいだろうと思い直した。
 
「随分と居心地がよかったのかしら。それとも世間に出てくるのが怖かったのか」

「さあな、わしにはわからん」

 まだ腹立ちが収まらないのか吐き捨てるように言う彼だったが、
 サングラス越しにちらりとソファーのシンジを見た彼の目は優しげにリツコには感じた。
 
「さあ、そろそろ晩御飯の用意をしましょうか」

 椅子から立とうとするリツコにゲンドウは慌てた。
 
「お、おいっ。シンジ、何をしておる。リツコに家事をさせる気か」

 父親のうろたえ気味の怒鳴り声にシンジは反発しただろうか。
 いや、ここは素直に彼は飛び上がった。

「ご、ごめん!気がつかなくて!」

「あら、いいのよ。あなたはお客様だから」

「で、でもっ。赤ちゃんが」

「そ、そうだ。シンジの言うとおりだ」

「陣痛が来ていないからいいの」

「だ、駄目だよ。座ってないと。何かあったらどうするんだよ」

「そうだ。急に陣痛が来たらどうする」

「お医者さんに行くわ」

 それはもっともだと頷いてしまったゲンドウはごほんと咳払いをしてから力説した。
 元からシンジに晩御飯を用意してもらうつもりだったリツコは、
 そんなことはおくびにも出さずに神妙な顔で拝聴し椅子に座りなおす。
 その夜の晩餐は、冷蔵庫の中の準備物に従い湯豆腐となった。
 若い子には物足りないでしょうねと謝るリツコだったが、シンジはとんでもないと首を振った。
 会話もほとんどない食事だったが、シンジは嬉しくて仕方がなかった。
 アスカやミサトとわいわい言いながら食べるのももちろんいいのだが、
 ゲンドウやリツコと静かに食するのはまた別の感慨がある。
 こういうのが家族というものではないか。
 一緒にいて落ち着く。
 彼は見た目にも嬉しげに給仕に務めた。
 その気持ちがわかるだけに、ゲンドウはいつもよりも余計にご飯をおかわりし、お茶を三杯も飲むことになる。
 シンジは暫し忘れることができた。

 アスカから家を追い出されてしまった事を。



 2017年2月11日、土曜日、夜。
 とあるマンションの一室は少女たちの嬌声で満ち溢れていた。

「ちょっと、レイ!アンタ、どれだけ使うつもりなのよ!」

「義理なの。義理は多いものなの」

「もう、レイったらぁ。大量生産なんてしたら女子から恨まれるわよ」

「学校の男子に義理はないわ。ネルフの人に配るの」

「あ、そうなんだ。だったら、いいか」

「ちょっと待ったっ。レイ、ひょっとして、見返りが狙いじゃないのっ」

「ホワイトデーはうはうはものなの」

「うっ、その表現からすると、ははぁ〜ん、ミサトね。アンタに知恵をつけたのはっ」

「あっ、それで学校じゃなくて、ネルフなのね。大人の方がお返しが期待できるから」

「アンタ、どこの商人なのよ!」

「近江商人の知恵だってミサトさんが言っていたわ」

「何よ!それ」

「わからない」

「あのね、近江商人っていうのは……あっ、アスカ、火が強すぎる!」

「きゃっ」

 黙って作業はできないものか。
 あのレイまでが積極的に喋っているのだから、かなりのボルテージが彼女たちを支配しているようである。
 アスカがドイツから送ってもらった大量のチョコレートを材料にして、
 手作りのバレンタインチョコの製造という一大イベントが開始されているのだ。
 レイとヒカリは土曜日のお昼前にやってきてその日は泊り込みで、日曜日の夕方までこの神聖な作業に没頭するつもりだ。
 そこで、邪魔なシンジが追い出されたわけである。
 渡す相手には見られたくないのが当然だ。
 アスカは彼の前に仁王立ちして碇家へのお泊りを命令した。
 その意図はわかるのだが、シンジとしては一時も彼女と離れたくないので不満な表情となったのだ。

 さて、洞木ヒカリが作るのは本命チョコである鈴原トウジへのものと、自分の父親へのささやかな義理チョコのふたつ。
 レイは個数は80個というとんでもない量だったが、実際に作るのはチロ●チョコより小さい一口サイズ。
 しかもそれをレイとリツコの連名にするというのはどうだろうか。
 対外的にはリツコが産み月であるためということだが、贈られる方はたまらない。
 お返しを二人連名にするわけにはいかないからだ。
 アスカもヒカリもネルフの男性職員のために哀悼の意を表した。
 それほほんの数秒に過ぎなかったが。
 最後となったが、アスカはもちろんシンジ相手の超大作と、ドイツへ送る義理チョコ3つ。
 ラングレー家には男が3人だが、
 一番年少のカールはまだ乳児だからマリアに食べてもらって母の肉体を経由しようという名案をアスカは思いついた。
 そしてそちらに到着するのは20日頃になってしまうけどごめんねと電話で謝罪しておいた。
 シュレーダーは膨れたが、父親は感極まってしまい「Selbstverstaendlich(もちろん)」とも言えず「Ja」としか返せない始末。
 マリアには「必ず送ってきなさい、そうしないとハインツが狂い死ぬかもしれないから」と脅されてしまった。
 だから、アスカはまずドイツ向けの3個から製作に入り、これは3時までに完成させた。
 そして、部屋で待機させておいたシンジに碇家に赴く前に発送してもらうようにお願いをしたのである。
 こうして、彼は土曜日の夕方に碇家のリビングでふて腐れていたというわけだ。

 個数は多いものの、作る作業は簡単極まりないレイは真っ先にチョコ作りを完了させた。
 彼女の場合寧ろそこからの方が長い。
 80個分のラッピングをしないといけないからだ。
 レイはリビングのソファーテーブルをラッピング作業場として確保し…。
 そして、ソファーで眠ってしまった。
 アスカは苦笑しながらも毛布を持ってきて彼女をくるんであげる。
 その感触にレイは少し嬉しげな表情を浮かべた。
 続いて日付が変わる頃にヒカリもすべての工程を終了させた。
 彼女もまたそこからラッピング完了までに2時間を要したのである。
 そのうちの95%の時間は同封するカードに何というメッセージを書くかという事に費やされていたのだが。
 そんな彼女をアスカがにやにやとからかっていたのだろうか。
 いや、そんな余裕はアスカにはなかった。
 彼女は大きさよりも精密さを選んだのだ。
 
 アスカは慎重にパーツを組み立てていった。
 それぞれチョコで作られたパーツを溶かしたチョコレートを接着剤代わりにして組み合わせる。
 その接着チョコが熱すぎてパーツの一部を溶かしてしまい、呪詛の言葉を上げることも数知れず。
 ヒカリが見かねて、そこまで精密に作らなくてもいいんじゃないのと声をかけたがアスカが聞く耳を持つわけがない。
 逆に依怙地になって作業に没頭していったのだ。
 3時まではヒカリも付き合って起きていたが、さすがに瞼が重たくなり彼女はアスカのベッドに退散した。
 そのアスカは寝る気はさらさらないようで、きっぱりと「おやすみっ」と言っただけで振り返りもしなかった。
 
 彼女が組み立てていたのは大阪城でもなければエッフェル塔でもない。
 アスカが作っていたのはチェロだった。
 昨年のシンジの誕生日にチェロのキーホルダーを贈ったことを覚えておいでだろうか。
 シンジの気持ちがわかった今、お揃いで購入していたアスカ用のキーホルダーを隠しておく必要はない。
 彼女は恥ずかしがりながらも、そっと学生鞄の取っ手にそのキーホルダーを取り付けた。
 シンジがそれに気がつくまでの2日間の長かったこと。
 目の前でこれみよがしに鞄を見せびらかせても、鈍感な彼は気がついてくれないのだ。
 見かねたヒカリがトウジ経由で小芝居を打たせてようやくシンジはびっくり驚き。
 「すぐに気がつかなくてごめん」と謝ったので、少しばかり拗ねて見せ帰宅時にぜんざいを奢らせたのだが、
 アスカはその時に決意したのだ。
 チェロの仕返しはチェロでする、と。
 当初は実物大のチェロを製作してやろうと思っていたのだが、
 どう計算してもチョコレートが足りそうもない。
 しかも例え素材を買い足して実際に作ったとしても、そんなに大きなチョコレートを食べることは不可能だ。
 彼女は当初計画を縮小し、1/8計画に振り替えたのである。
 シンジがお風呂に入っている間にチェロを採寸し、設計図をしたためる。
 必要なパーツを計算し、イメージトレーニングに勤しんだ。
 こうしてこの土曜日に挑んだのだが、チェロチョコは彼女の想像以上に難物だったのである。
 小さなパーツを作ることはそれほど難しくはなかった。
 一番の問題はいかに曲面を滑らかに作成するかにあった。
 チェロのサイドの曲面はアスカの思い通りにはなかなか作れない。
 中を空洞にせずに固まりから削っていく方がいいとヒカリが助言したが、自分の設計図に拘るアスカはやはり聞く耳を持たない。
 大きなパーツにせずに何個かのパーツを組み合わせてサイドの曲面を作ることに変更したのはレイが眠ってしまってからのことだった。
 そしてヒカリに「おやすみ」を言った時もまだ曲面の製作中だったのだ。
 くじけそうになった時は「ドイツのマイスター魂を見せてやる」などとぶつぶつ呟き自分を叱咤激励した。
 曲面を完成させたのは既に明け方。
 この季節の太陽のお出ましは7時を僅かに切った刻限だから、完徹をしてようやく土台を仕上げたことになる。
 アスカはまるで美術工芸品を鑑定するかのように、その土台をあらゆる角度から検討し、そして納得した。
 ここで仮眠を取るかどうか一瞬悩んだアスカは2時間だけ眠ることに決めた。
 土台の周りに厳重なバリケードを築き、寝ぼけた友人に壊されぬように注意書きを山のようにバリケードに貼り付け、
 そしてどこで眠ろうかと思案した。
 ソファーはレイ、アスカのベッドはヒカリが占拠している。
 完徹状態の彼女はナチュラルハイになっていた。
 普段の彼女なら恥ずかしくて絶対にしなかっただろうが、この時のアスカはそれしか方法がないから仕方がないのだと決め込んでいたのだ。
 アスカはシンジの部屋の扉を開けた。
 目標は彼のベッドである。
 彼女はつかつかとベッドに歩み寄るとごく自然な様子で布団の中に潜り込んだのだ。
 シンジの匂いがするとかそういう考えは少しも持たず、アスカは10秒も経たないうちに寝息をたてていた。

 朝食を食べたいレイはアスカを起こそうとしたが、ここはヒカリが優しさを見せた。
 親友の性格をよく了解しているヒカリは朝食のための準備物を持ち込んでいたのだ。
 サンドイッチを食べながら幸せそうな微笑を漏らすレイを横目に、ヒカリはアスカのチェロチョコを離れた場所から眺めた。
 うかつに近寄って壊しでもすれば、己の生命が危ないからだ。
 午前10時になった途端にアスカはむっくりと身体を起こした。
 そして、無言でバスルームに突入するとシャワーを浴びる。
 そのきびきびした姿はまさに軍人のような気配が漂っている。
 まさしくアスカは起床時間とシャワーを浴びるという命令を自分の身体に叩き込んで仮眠を取っていたのだ。
 いつものアスカとして完全に目覚めたのはシャワーを浴びている最中である。
 彼女は思った。
 軍事教練も役に立ったってことよ、と。
 使徒との戦いよりも、チョコレート作りのために役立った方が今の彼女には嬉しいようだ。
 元より、彼女は15歳の少女なのだから、その方が絶対にいいのだが。

 バスルームを飛び出してきたアスカはバスタオルを身体に巻きつけて、まずはチェロチョコの安否を確認するためにリビングに走った。
 バリケードは健在。
 当然、それに守られているチョコレート細工も無事である。
 彼女はうんと大きく頷くと、自分の部屋に突進した。
 1分以内に普段着に着替えてきたアスカは髪の毛を高く結い上げてそこでくくる。
 乾かしている時間が惜しいのだ。
 
「アスカ、朝ごはんは?」 
 
「パス」
  
 即答だった。
 予期していた返事だったが、それでも苦笑せずにはいられない。
 ヒカリはソファーでコーヒータイムとなっているレイに声をかけた。
  
「レイ?台所の片付けとアスカの髪の毛を乾かすのとどっちがいい?」

 レイはきょとんとした表情になり、しばし考えていたようだ。
 そしてアスカの髪の毛を見てきっぱりと言い切った。

「片付け。人の髪の毛を乾かしたことはないから」

「わかったわ。じゃ、お願いね」

「了解。なるべくお皿を割らないようにする」

 コーヒーカップを手にしたまま、レイは台所に消える。
 いささかの不安はあったものの、ヒカリは黙ってその背中を見送った。
 そして一旦バスルームに赴いてから、紅茶色の髪の親友の背後に立つ。
  
「アスカ、髪下ろすわよ。乾かさないと駄目じゃない」

「ごめん。アリガト」

 一瞬だけ笑顔でヒカリを振り向き、次の瞬間にはまた作業に戻った。
 バスタオルで髪の水分を取り延長コンセントを引っ張ってきてドライヤーの温風を髪に向ける。
 もちろん、チョコにあたらないように注意してだ。
 ヒカリは思った。
 2回目かしら。アスカの髪を乾かしてあげるのは…。
 しかし、あの時とは物凄く違いがある。
 精神崩壊寸前の魂の抜け殻に近かったアスカはただ髪をセットされても何の反応も示さず、まさに人形のようであった。
 今は愛する彼のために一心不乱に手作りチョコを製作中だ。
 この差は大きすぎる。
 あれからまだ2年も経たないというのに。
 あの時のアスカは虚ろな目をしていたかと思えば、何かを睨みつけているかのように厳しい眼差しを虚空へと向けていた。
 今もまた厳しい視線を投げかけているが、その厳しさの中にはまぎれもなく愛がある。
 大きな違いがそこにはあった。
 あの時、ヒカリの部屋で髪の毛をセットしてあげた時はいささか恐怖にも似た感情を親友に抱いてしまっていた。
 だが、今は違う。
 アスカのことが可愛らしく見えて仕方がない。
 もっともそれはトウジと交際することになった自分の気持ちの余裕かもしれない。
 そう思うと、ヒカリはくすくすと笑ってしまった。

「えっ、どこか変?アタシ、失敗してる?」

「ああっ、ごめんっ。違うの。思い出し笑い」

「なんだ、びっくりした」

 心底ほっとした感じでアスカは言い、すぐに作業に戻る。
 やがて髪は程よく乾き、ヒカリは彼女の髪を束ねようとした。
 作業の邪魔にならないようにと、アスカにそれでいいかと訊ねたらただ「よろしくっ」とだけ返ってきた。
 ヒカリはちょっとだけ考えた後に、ポニーテールまではせずに耳の高さで一つに括る。
 そして彼女は少し離れて自分の仕事の出来映えをしげしげと眺めてみた。
 ちょっとお姉さんっぽい…というか、大人っぽいような感じ…。
 いいなぁ、私も大人っぽくなりたい。
 腕組みをしたヒカリは何となくそう思った。
 その当の本人であるアスカに、彼女みたいな女の子だったらよかったのにと思われていることなど知らずに。

 レイはお皿を一枚も割らず、ヒカリは部屋の掃除も終え、そしてアスカはチェロチョコを完成させた。
 箱の中に入れたカードには、「全部食べないとコロスわよ」という物騒な愛の言葉を添えて。
 それだけの言葉を書くのに30分ほどかかってしまったのは、レイとヒカリだけの秘密だ。
 3人でお昼を食べ、仮眠しかとっていないアスカの目がとろんとしてきたのに気がついたヒカリがそろそろと腰を上げる。
 それぞれのチョコを胸に…レイは大量の義理チョコが入った紙袋を両手に、二人は部屋を出た。
 
 午後5時前に帰宅したシンジはリビングボードにまるで祭られているかのようなラッピングした箱にすぐに目がいった。
 あれは間違いなく自分へのバレンタインのプレゼント。
 手に取ると消えてしまうのではないかと彼は離れた場所からしげしげとそれを眺めた。
 自分のベッドでぐっすりと眠ってしまっているアスカはその時の彼の表情を見てみたかったことだろう。
 嬉しさと照れがないまぜになったシンジの顔を。
 彼は今日は腕によりをかけて作ろうと、買い物袋を手に台所に向った。
 焦ることはない。
 バレンタインデーまであと2日もないのだ。

 

 その時から48時間後。
 すなわち、2月14日午後5時。
 碇シンジは未だに惣流・アスカ・ラングレーからチョコレートを貰えずにいた。

 別にアスカが焦らしていたわけではない。
 アスカも、そしてシンジも忘れてしまっていたのである。
 因みにレイもネルフへ赴くことができなかった。
 3人は6時間目が終ると同時に学校を飛び出してここへやって来たのである。
 
 シンジはいても立ってもいられない模様で廊下をうろうろと歩いている。
 アスカはそんなシンジに声をかけてあげたいところなのだが、レイの傍を離れられない。
 小刻みに震えていた彼女の肩を優しく抱いて、「大丈夫だからね」と時々声をかける。
 するとうんうんとレイは頷くのだが、いつものような超然とした表情には戻れない。
 そして、その場にいた一番年かさの男は長椅子に深く腰をかけて、背を丸め、膝の少し上あたりに肘をついている。
 要は執務室の姿勢とまったく同じ格好をしているわけだ。
 しかし、今の碇ゲンドウは「問題ない」とは決して口走らないだろう。
 本当ならシンジのようにうろうろ歩き回っていたいところなのだが、親子してそんな真似はできるわけがない。
 そこで不安な感情を押し殺して、黙って座り込んでいるわけだ。

 陣痛が始まったリツコが分娩室に入ってからもう2時間になる。
 ずいぶんと難産のようで、一度看護士がその旨を説明に現れた。
 ゲンドウはただ頭を下げて「よろしく頼む」と言っただけだ。
 それにつられるかのようにシンジとレイも慌てて頭を下げる。
 もっと詳しく状況を知りたかったアスカだったが、
 当の家族たちがそういう態度なのに自分だけがエキサイトするわけにもいかず口をつぐんでいるしかない。
 そして彼女はレイを慰めることによって自分の不安を打ち消そうとしていた。

 ミサトのヤツは簡単に出てきたって言ってたのに…。
 もうっ、早く出てこないと怒るわよ。
 うそうそっ、怒るだなんてうそ!
 怒ったりしないからさっさと出てきなさいよぉ。
 みんな心配してるんだからさ。
 
 アスカは碇家の3人を見渡した。
 わかりやすいシンジはともかくとして、何を考えているのか表情の読めないゲンドウとレイが明らかに不安げである。
 表情は特に変わらないように見えるのだが、身体中から心配でたまらないという空気がにじみ出ているのだ。
 結局、リツコは3時間かけて初めての子を出産した。
 男の子だった。
 3100gで、母子共に健康。
 看護士からその嬉しい知らせを聞いたゲンドウは大きく息を吐き出し、「ありがとうございます」と深く頭を下げた。
 もちろん、アスカたち3人もそれに習う。
 担当した医師が出てきた時はゲンドウは握手を求め、彼が「痛い」と言うほどに強く握りしめたのである。

「まったく、強情なお子さん…いや、お母さんの方でしょうか」

 帝王切開を主張した医師に対して、リツコは自然分娩を主張したそうだ。
 子供はたくさん産みたいからと言ったと聞かされて、ゲンドウは明らかに照れていた。
 そしてタイムリミットの寸前に、シンジとレイの弟はそれまでの苦労などまったく感じさせずにするっと出てきたそうだ。
 
「では、失礼して、私は煙草を。奥さんの一言で無性に吸いたくなりましてね」

 生まれた我が子の状態を確かめて、医師や看護士達に礼を言った後、リツコはぼそっと呟いたらしい。
 ああ、一服したいわね…。禁煙なんかするんじゃなかった、と。
 それを聞いて愛煙家の医師はたまらなく紫煙が恋しくなったのだ。
 この建物の中じゃ吸えないので大変ですよ、と苦笑いして医師は早足で去っていった。
 その背中に向けて、4人はもう一度頭を下げたのである。
 その後、赤ちゃんと対面し、リツコを褒め称え、ふと気がつくともう8時を過ぎていた。
 帰る前にどこかのファミリーレストランで晩御飯を食べて帰ろうかと子供たちが喋っていた時に、
 リツコがにこやかな顔でさりげなく言ったのだ。

「でも、この子、将来困るでしょうね」

「む、何故だ」

「だって、男の子でしょう。誕生日とバレンタインデーが同じっていうのは…」

 同じというのはどうなのか、リツコはその後の言葉を出せなかった。
 アスカの叫び声が病室に響き渡ったのである。
 
「しまったぁっ!」
  
「忘れてた」
  
 小さく呟いたレイもがっくりときている。
 
「で、でも、ま、まだ14日だから」 
  
 大丈夫だよねと言いたげなシンジは、アスカを見ることができない。
 
「あら。まだ渡してなかったの?」

 うんうんと大きく頷くアスカに、うんと小さく頷くレイ。

「レイは明日でもいいわ。どうせ義理だし」

「わしは今日貰うから問題ない」

「はいはい。よかったわね」

 じろりと睨みつけられて、ゲンドウは慌ててそっぽを向いた。

「アスカは…」

 リツコは優しく微笑み、言いなおした。

「アスカとシンジは、まだ3時間あるわ。今から家に帰れば、それこそ、問題ない、でしょ」

「ああ、問題ない」

 いつになく嬉しげにゲンドウが応じた。
 その言い様がおかしく、アスカたちは笑い合った。
 そう、まだその時点では3時間余裕があったのだ。

 ところが病室を出ようとした時である。  
 看護士が顔を覗かせた。
 事故で急患が3人搬送されてきた。
 その全員がA型の血液型で、もし誰かA型ならば輸血してもらえないかと彼女は慌しく言った。
 出産したばかりのリツコは論外でしかも彼女はB型だった。
 レイはといえば、リツコの顔を窺った。
 自分の血液型を覚えていない彼女に、リツコは優しく告げる。
   
「あなたはO型。輸血できなくはないけど、あなたは血が足りない方だから駄目」

「はいはい、どうせアタシは血が有り余ってますよぉ〜だっ」 
 
 楽しげに言うアスカは看護士にどこに行けばいいのかと問う。 
 ゲンドウとシンジのA型親子も頷き合って、部屋を出るアスカに続いた。  
  
「間に合ってくれればいいけどね」
  
「バレンタインに?」 

「両方よ。輸血も、チョコもね」

 母の言葉にレイはなるほどそうかと頷く。
 詳しくは言わなかったがどうやらわかってもらえたようだと、リツコは一安心した。
 只今、碇家ではレイの情操教育が静かに長く進行中だ。
 今のままのキャラクターではいけないのではないか。
 親としてはそう思ってしまうのは当然だろう。
 彼女の未来のために。
 そこで折に触れて、他人への思いやりや優しさという気持ちを彼女に植え付けようとしたのだ。
 もっともその教育も大変なのである。
 何と言っても、その父も母も唯我独尊型なのだ。
 彼らは自分たちも変わろうとしているのかもしれない。
 実際、3人とも変化を見せている。
 ある時など、ゲンドウとリツコが顔を見合わせて自分たちも変わったものだと苦笑していたほどだ。
 己の野望や欲望のために他人を踏みつけにしてもいいと真剣に考えていた。
 今にして思うとそんな自分が恥ずかしく、また贖罪の気持ちに駆られてしまう。
 何故この気持ちにあの時に気がつかなかったのか。
 サードインパクトの所為だと言われても釈然としない。
 何しろ彼ら二人にはあの時の記憶が欠落しているのだ。
 瀕死だった葛城ミサトはしっかりと隠棲していた加持(旧姓)リョウジの心に飛んでいっている。
 では、あの時二人とも死んでいたのか?
 それならば何故今こうして生きているのか?
 いくら考えてもわからない。
 わからないから、リツコは勝手に結論付けた。
 きっとあの世のユイが三角関係はイヤだと二人の昇天を拒んだからだ、と。
 その冗談が正解の一部だったなど、この世の誰にもわかるはずがない。
 もっとも一番大きな理由は、子供たちには親が必要だという事なのだが。
 ユイはシンジを…子供たちをゲンドウとリツコに託したのだ。
 そのために二人を生かせた。
 “神”という名の存在に比すべき力をあの時に持った彼女は。
 別にユイに諭されたわけでもないのに、ゲンドウもリツコもその役目を充分に果たしている。
 それはミサトたちも同様だった。
 サードインパクトを経て、少し優しくなった世界、いや、大人になった世界が訪れたのかもしれない。
 
 まだ大人ではない、少年少女たちも同様だった。 
 もし使徒戦の頃のあすかであれば、自ら輸血など申し出なかっただろう。
 シンジにしても誰かに指示されない限り、自分の血を分けようという発想がなかったかもしれない。
 まして、あと3時間で幕を下ろしてしまう、バレンタインデーのことを忘れてまで。



 ドイツでは、まだ午後4時。
 もちろん、ハインツはまだ就業中でシュレーダーは遊びに行ったきり帰ってきていない。
 マリアはリビングでチョコレートをラッピングしていた。
 アスカに感化されて日本流のバレンタインデーを夫と息子に提供しようと考えていたのだ。  
 そして、この日もう十数度目の電話が鳴った。

「はい。あなた?いいえ。アスカからの電話はありません。荷物も届いてません。仕事をちゃんとしなさい。切るわよ」

 一方的に喋るとマリアはうんざりした表情で受話器を戻した。
 どうやら暇ができると電話をかけてくるようだ。
 アスカからのバレンタインデーの荷物は届いていないか。
 彼にちゃんとプレゼントを渡せたのかどうか。
 荷物は数日後だ、プレゼントを渡しても渡せなくても電話にまで気が回るはずがない、
 と何度言っても繰り返し電話のコール音が鳴る。
 父親として心配なのかどうか。
 マリアはベビーベッドの中で笑い声を上げているカールを首を伸ばして見やった。
 受話器に向って怒った調子でものを言った母親の声がおもしろかったのだろうか。
 カール・ラングレーはよく笑う赤ん坊だった。
 人の声や音楽、犬や鳥の鳴き声にでも反応してきゃっきゃっと笑う。
 もうそろそろ自力で歩く頃だとマリアは思っていた。
 シュレーダーの時はわけがわからず、危うくベビーベッドから身投げをされてしまう寸前だったこともある。
 その経験はしっかり生きていて、カールの成長に合わしてベビーベッドの柵の高さを調整していた。
 二人目は楽だという事はこういうことなのだろうと彼女は次男に微笑みかけた。
 そして、思った。
 次は女の子が欲しい、と。
 誰かその秘訣を教えてくれないものか。
 と、そろそろ4人目の子供を考えているマリアは、そのことをアスカへの手紙に書こうと決めた。
 もしかすると東洋の神秘で女の子を産み分ける方法を知らせてくれるかもしれない。
 アスカに対して引け目に思うからという気持はなかった。
 アスカは紛れもなく彼女の子供。
 ただお腹を痛めたかどうかの違いがあるだけである。
 それは大きな違いなのか否か。
 最初のうちはそれはどうしようもない差であるとマリアは思っていた。
 だからアスカは心を開いてくれないのだと。
 しかしやがてそれは間違いだと気づいたのだ。
 但し気づいたのはマリアの側だけで、アスカは少しも心を開こうとはしない。
 それを少しずつ、そう根気強く接していったのが功を奏した。
 アスカが日本へと旅立った頃には、いささかのぎこちなさはあったが義母と娘という関係には仕上がっていた。
 一種脆さの残る親子関係が磐石なものに変貌したのはサードインパクトの際に知った、マリアの穢れなき気持ちをアスカが知ったからだ。
 それからの二人は知らない者から見ると紛れもなく実の親子にしか見えない。
 だから4人目。
 長女がアスカ。二番目と三番目が男の子で、四番目の子供で子作りは終えようと思っている。
 その時だった。
 玄関の扉が勢いよく開いた。
 あの物音は間違いなくシュレーダーだが、それにしても元気がよすぎるような気がする。
 マリアは怪訝な表情で長男が現れるのを待った。





 愛するアスカへ。
 バレンタインは上手くいったのかしら?
 あなたの報告を待っていられなくて、先に手紙を書くことにしました。
 何故なら、こっちでおもしろいこと…なんて書いたらシュレーダーに失礼ね。
 でも、正直言って私は笑いを抑えるのに必死だったのよ。
 真剣に悩んでいる彼に対して笑っちゃいけないから。
 実はね、シュレーダーがチョコレートを貰ったの。
 あの子の一番大好きな女の子から。
 ほら、シャルロッテって子の話をしたことがあるでしょう?
 あなたに似た感じで気の強い女の子。
 お姉さんにはほとんど会った事もないのに、シュレーダーはシスターコンプレックスになっているのじゃないかってね。
 でも、可愛い子なのよ。
 その子にね、シュレーダーは日本では2月14日に好きな男の子へチョコレートを贈る習慣があるって教えたらしいの。
 すると今日、彼女にチョコレートを突きつけられたんだって。
 笑いを抑えて「よかったじゃない」って言ったの。
 すると何て返事したと思う?
 「でもね、アイツったらこんな事言ったんだよ。これ嫌いなチョコだからアンタが食べなさいよ」って膨れっ面で。
 それを聞いて私は見えないようにして自分の太腿を抓ったの。
 しかもシュレーダーは真剣に悩んでいるのよ。
 おまけにこんなことまで訊いてくるの。
 「ママ。いくつになったら結婚できるの?」だって。
 アスカ、先を越されないようにしないといけないかもしれないわよ。



 私のママへ。
 ごめんなさい、報告しなくて。
 バレンタインのチェロチョコレートはちゃんと渡しました。
 彼は物凄く喜んでくれて。
 食べるのが惜しい位だって言ってくれたから、私はぴしりと言ってやったの。
 3分時間をあげる。
 その間に全部食べてよねって。
 するともったいなくて食べられないなんて言うものだから、
 問答無用でカウントダウンを始めたの。
 彼ったらびっくりしちゃって一生懸命になって食べたのよ。
 口の周りと指をチョコだらけにしてね。
 で、どうだった?3分以内に食べられた?って聞いてきたから、私は言ってやったわ。
 計ってないってね。
 彼、怒ったわ。ううん、怒ったっていうより、膨れたって感じ。
 だって、仕方がないじゃない。
 私、嬉しくて、嬉しくて、カウントのことなんか忘れてしまってたの。
 私の作ったチョコレートを一心不乱に食べてる姿を見ていたら、なんだか胸の奥が熱くなっちゃって。
 だけど、当然私は胸を張って言ったの。
 そんなにちゃんとカウントして欲しいなら、来年は原寸大のチェロチョコを作ってあげるからそれを3分以内に食べて頂戴って。
 絶対に無理だって泣き言を返してくるから、私は拗ねて見せたの。
 昨日のあの告白は嘘だったのねって。
 そうなの、チェロチョコレートを渡したのは日本時間の2月15日。
 しかも学校から帰ってきてからだから、もう夕方だったのよ。
 どうしてそんなことになったか。
 これは長い長い話になるのよ。
 2月14日の午後のことなの。彼のお父さんから学校に連絡が入って、お母さんが産気づいたと……。

 



 アスカはようやく思い出した。
 自分の血が吸い上げられている途中で、肝心のバレンタインデーがもうすぐ終わってしまうことを。
 部屋の中の時計を探すと、壁のデジタル時計はもう11時を過ぎていた。
 彼女は小さく溜息を吐いた。
 これではもう無理だ。
 アスカは恐る恐る隣のベッドに寝ているシンジの方を見た。
 彼の視線もまた時計に向っている。
 
「シンジ…?」

 囁くような声で彼女は呼びかけた。
 こちらを向いた彼から本当は目を逸らしたいところだが、ここは勇気を出してアスカはシンジの目を見て、そして片手でごめんと合図する。
 シンジはいいよとばかりに微笑んだ。
 その微笑みがもし達観したようなものであったらどうだっただろうか。
 アスカは逆に大変なことをしてしまったのではないかと後悔していたかもしれない。
 ところが、この時の彼の微笑みはいかにも無理矢理笑ってみましたと言わんばかりのものだったのである。
 こういう場合はこんな顔をしないといけないんだろ?と、まさにその顔に書いてある。
 そのぎこちない笑顔を見た瞬間、アスカは心の中の闇がぱあっと拡散したような気がした。

 ああ、アタシはコイツを愛してる。
 こんな情けないところもみんな。
 
 “好き”から“愛している”へ。
 まさかこんな背伸びに失敗した珍妙な表情がアスカの感情に更なる飛躍を与えたなど露ほども知らず。
 シンジはアスカの澄んだ微笑みを見て、“ああ綺麗だ”とただひたすらに思っていた。
 物凄く大人びたような感じに見えたのである。
 いつも自分より大人びているとは感じていたのだが、この時は特にそう思ってしまった。
 こんなに素晴らしい女の子が自分のことを好きでいてくれる。
 信じられないけど!
 そこにまで思考が到った時、シンジは身体中の血が沸騰するのではないかと慌てた。
 もし今輸血中でなかったら、廊下に飛び出して大声で叫びながら走り回ってしまいそうだ。
 
 見つめ合う若い二人の傍らのベッドでゲンドウは必死になって顔を捻じ曲げていた。
 こんなに恥ずかしいものを視界に入れたくはない。
 この二人はよくも照れもせず、あんなに見つめ合っていられるものだ。

 ふむ、やはりあれだ。シンジはユイに似たのだ。間違いない。

 そう結論付けて、ゲンドウは目を瞑った。

 シンジよ…。
 アスカ君を絶対に離すな。
 お前の未来はそこにある。

 絶対に口にはできない、歯の浮くような台詞を頭の中で喋り、彼はにやりと笑った。



 まだ子供だからとアスカとシンジは1回だけの輸血で終わった。
 だがゲンドウが追加の輸血をしているところを見ると、手術の内容次第ではもう一度輸血を申し出た方がいいかもしれない。
 そう話をして待機していた二人だったが、もう大丈夫だからと看護士に礼を言われて処置室から出た。
 時計を見るともう11時30分である。
 タクシーを飛ばしても間に合うかどうかという時間だ。

「ごめんね、シンジ。ちゃんと用意してあったのよ」

「う、うん。大丈夫だよ。わかってるから、うん」

 どうして気の利いた言葉が言えないのかとシンジは自分を責めた。
 
「帰ったら…、もう15日だから、渡すのは明日学校から帰ってからにしよっか」

「え、帰ってすぐに貰えないの?」

「だって、渡したらすぐに食べて欲しいもん。それに、ほら宿題が…」

「うわっ、そうだった。数学の問題集……、アスカ、お願いっ」

 手を合わせるシンジに、アスカはにっこり微笑んだ。

「しっかたないわねぇっ。ま、あれくらいこの天才アスカ様にかかっちゃちょちょいのちょいだから、写させてあげるわよ」

「ありがとう!あ、そうか。それにレイもいるんだ」

「ああ、そうよね。ここに泊まらせておけないし、アタシたちと一緒に帰るわけか」

「たぶん」

「ふふ、そりゃあやっぱり明日よね」

「だよね、レイに見られてるなんて恥ずかしいもん」

「アタシもっ」

 二人は楽しげに笑い合った。
 チョコを渡すという儀式がなくとも、二人の心は通い合っている。
 どちらからともなく、手をしっかりと握り合い、アスカとシンジはリツコの病室の方へと歩き出した。

 産婦人科の病棟への廊下に差し掛かると、白い肌の少女がぽつねんと立っていた。
 以前の彼女なら場所が場所だけに幽霊と誤解されそうな雰囲気であったが、
 今のレイは存在感がしっかりとある。
 この時も二人の姿を見かけると二歩三歩と歩み寄ってきた。

「ごくろうさま」

「あれ?」

「何?」

 こちらから話しかける前に、状況に応じた挨拶をされてシンジが戸惑ってしまった。
 こういう場合ストレートに突っ込みを入れられる様な彼ではない。
 逆にレイに聞き返されてどぎまぎしている。
 それがおかしくてアスカは笑いながら、レイに問いかけた。
 今の挨拶はリツコに教えてもらったのかと。
 レイはあっさりと頷いて、「ご苦労様とありがとうは魔法の言葉」と付け加えた。
 
「そっか。確かにそうね」

 アスカはその言葉を自分にも刻み込もうとした。
 他人を思いやる言葉がすぐに出てこないのはレイだけではない。
 自分も、シンジだってそうだ。
 それぞれ家族と共に過ごした時間が短いからだろうか。
 ヒカリやトウジたちに比べて、どうも感情の表現方法が乏しいような気がする。

 まっ、これから育んでいけばいいのよっ。

 アスカはぽんとシンジの肩を叩いた。
 その意味がよくわからず、彼は怪訝な表情になる。
 
「何よ、その顔は。アタシに文句でもあるって言うわけぇ?」

「だ、だって、いきなり肩を叩くんだもん」

「まっ、アンタもがんばんなさいって、そういうことよ」

「わけわかんないよ。アスカもレイも」

 ぶつくさ言うシンジは放っておいて、アスカはレイに待っていてくれたのかと声をかけた。
 彼女はこくんと頷くと、こっちに来いとばかりに歩き出した。
 病室とは違う方向なので、アスカとシンジは顔を見合わせ、それでもレイの背中を追う。
 レイはつかつかと足を進め、暗がりの待合室に入っていく。
 そこはリツコの出産を待っていた場所ではなく、別の待合室で主照明は落とされ予備電灯と自動販売機の灯りだけしか見えない。
 さすがのアスカも少しばかり不気味な感覚を持ってしまった。
 
「何?ここに何があるの?」

「アスカ、100円」

 振り返ったレイは短く言った。
 その言葉を聞いて、アスカはほっとした。

「なんだ、喉が渇いてたのか」

「じゃ、僕が…」

 学生ズボンのポケットに手を突っ込んだシンジだったが、レイは素早く口を挟んだ。

「駄目。アスカじゃないと駄目」

「え?どうしてだよ」

「ふふ、まあいいじゃない。お兄ちゃんとしては100円ぽっちでいいとこ見せようと思ったわけでしょうけどね」

「違うよ」

 また、シンジが膨れた。
 アスカの気持ちを知って以来、彼の喜怒哀楽の感情表現はかなり豊かになってきている。
 もっとも“怒”と“哀”に関しては明らかに“甘え”の要素が濃厚であることは事実だが。
 そんなシンジの様子を見てアスカは頬が緩み、ポケットの中の小銭入れを取り出した。

「はい、100円」

 銀貨をつまみ掌に載せレイに差し出すが、彼女はさっと自動販売機を指さすだけで受け取ろうとはしない。

「ちっ、アンタ何様ぁ?」

 悪態は吐くものの、アスカは素直に自動販売機に歩み寄った。
 以前の二人の関係なら大喧嘩に…もっともアスカの一方的な攻撃だが…なっているところだ。
 しかし、今のアスカはこれくらいのレイの我儘には到って寛容である。
 だが、これは我儘ではなかったのだ。

「はい、100円入れたわよ。何飲むの?炭酸系は駄目なんでしょ、アンタ」

「右から2列目。上から4つ目」

「はいはい、2列目で4つ…目……って、レイっ」

 ボタンの場所を確認して、アスカは驚いた表情で振り返った。
 ところがその時にはレイはすたすたと扉へと向っていた。

「お母さんのところで待ってる」

「え?どうしたのさ、レイ。飲まないの?」

 扉のところに立っていたシンジが問いただすと、彼女は薄く微笑んだ。

「飲むのはお兄ちゃん。時間がないから大変ね」

 くすりと笑うとレイはそのまま廊下へ出て行った。

「何だよ、いったい」

 首を捻るシンジの背中にアスカの叫びが突き刺さる。

「シンジ!早く!」

「ど、どうしたのっ」

 振り返ると、アスカは自動販売機から紙コップを両手で取り出していた。
 
「レイ、出て行ったよ。追いかけるの?」

「とにかく早くこっちに来なさいよ、馬鹿シンジっ!」

 回数はかなり減ったが、馬鹿シンジは未だ健在である。
 彼はふっと笑って従順にアスカの近くへと歩み寄った。

「なに?」

「これっ」

 アスカはまるで宝物のように紙コップを両手で捧げた。
 暗い中でもコップから白い湯気が上がるのがよくわかる。
 いや、その湯気に気を取られたのは一瞬だった。
 紙コップの中の液体の匂いがシンジの鼻に達したからだ。
 彼は目を大きく開けた。

「こ、これはっ」

「ほらっ、早く飲んでよ!まだ、あと…5分あるからっ!」

 アスカの手の中の紙コップの中に入っているのは紛れもなくチョコレートだ。
 ちらりと自動販売機の表示を見ると、レイが指示した場所には“甘くて美味しいホットチョコレート”とある。
 シンジはコップを持つアスカの手を包むように横から覆った。

「えっと、アスカから、僕にだよね」

 確かめるような言葉にアスカは逸る気持ちを落ち着けた。
 そうだ、ただチョコを食べさせるだけでは駄目ではないか。
 しかしさんざん練習してきた文章が出てこず、彼女は思いつくままに言葉を綴った。

「そ、そうよっ。ええっと、つまり、義理とか本命とかそういうのじゃなくて、だからっ」

 アスカはシンジをまっすぐに見つめた。

「死ぬまで一緒に…ああっ、死んでも同じお墓にっ!ずっと、ずぅっと一緒にいてっ!」

 言ってしまってから、アスカは愕然とした。
 確かに毎日のように思い描く未来図がそれだ。
 しかし、この日の言葉はそこまでの未来絵図ではなく、恋人宣言止まりのはずだった。
 ここまで思い切ったことを言ってしまえば、シンジが怯んでしまうのではないか。
 彼の気持ちはわかっているが、そこまでの覚悟があるのかどうか。
 先走った思いが二人の関係を崩してしまうのではないだろうか。
 一瞬の間に暗い闇で自分が包み込まれるように感じた。

 だが、それはほんの一瞬のことだった。
 シンジは暗がりでもわかるほど真っ赤な顔で「ありがとう」と呟いた。
 そして、アスカの手から紙コップを引き取ると唇に持ってくる。
 その動きを見て、アスカはごくりと唾を飲み込んだ。
 シンジはコップを傾ける。

「あちっ」

 予想より熱かったので、コップを口から離し唇を舌でそっと舐める。
 そんな彼の姿を見て「馬鹿ね」と言おうとしたが、アスカの唇は動いてくれなかった。
 彼女ができるのは、ただ彼の動きを見守ることだけ。
 シンジはふぅぅっと息をホットチョコレートに吹きかけながら、もう一度コップを唇に当てた。
 徐々に液体を吸う音が微かに唇から漏れてくる。
 無意識のうちにアスカはまるで自分が飲んでいるかのように喉や唇を動かしていた。
 ゆっくりと、ゆっくりと、彼はホットチョコレートを飲んだ。
 猫舌ではないが、さすがにこの暑さの液体をごくごくとは飲めないから…とばかりではない。
 アスカからの心がこもったチョコレートなのだ。
 一生の思い出にできるように味わって飲みたい。
 そんな気持ちだったが、所詮小さな紙コップ。
 はしたなくも、ずずずと音を立てて最期の一滴まで彼は飲みきった。
 その瞬間、アスカははぁっと大きく息を吐いた。
 呼吸を忘れて見入っていたのかもしれない。
 そして、彼女はシンジに微笑みかけた。
 上唇が褐色に濡れている彼も微笑み返す。
 微妙に離れていた二人の距離が一気に縮まる。
 その瞬間、壁のデジタル時計の数字がすべて0に変わった。











 まあ、そういうことで来月にはドイツに帰るわ。
 もちろん、その時には私の未来の旦那様を連れて行くからね。
 シンジにパスポートを取れって言ったら大慌てしたわ。
 ドイツ語の会話辞典を暇があれば一生懸命に読んでいるから、帰ったときにはこってりと絞ってあげて。
 でも、苛めたりしたら怒るからね。
 その時にはシュレーダーの可愛い恋人にも会わせてもらうわ。
 私に似ているって、当然可愛いんでしょうね!

 


「ええええっ!」

 そこまで読むとシュレーダーが腰を抜かさんばかりに驚いた。

「どうした?お前はアスカに会いたかったんだろう?嬉しすぎてびっくりしたのか?」

「ち、違うよ!ロッテと喧嘩したらどうしよう!」

「馬鹿ね。喧嘩するわけないでしょう?アスカはお姉さんなのよ」

「違うってば!ロッテの方が馬鹿なこと言うんだよ!あいつ、とんでもなく喧嘩っ早いんだから」

「あらら、そうは見えないけど?遊びに来たときはちゃんと挨拶とかしてるじゃない」

「えっと、その、なんだっけ。あ、猫をがぶりと噛むって、たぶんあれだよ」

「猫を被る、でしょう?」

「あっ、それ!その猫なんだよ、ロッテは」

「まあ、可愛い」

「可愛くなんかないよ」

「本当に?」

 母にからかわれ、少年は白い頬を真っ赤に染めた。

「ち、ちょっとは可愛いけどさ。うん」

「そうかっ、やっぱり可愛いのか。ぐふふ…痛いっ!」

 笑いを堪えられない夫の脇腹をマリアは肘で小突く。
 よく似た親子なのに、自分を棚に上げるとは何事だろうか。

「あなたも注意してくださいよ。シンジ君を睨んだり、意地悪しないように」

「俺はそんなことはしない」

 胸を張って言い切るハインツを横目に見て、マリアはそれは100%ありえないと思う。
 ネチネチとした陰湿な意地悪はしないが、それなりに彼に辛く当たることだろう。
 それが娘を持つ男親というものではないだろうか。
 きっと両親が存命であれば、あの父親なら再婚で子持ちのハインツにいろいろときついことを言ったであろう。
 だからアスカが怒ってしまわないように巧くハインツをコントロールしないといけない。
 マリアはそんなことを思う反面、思春期になったシュレーダーからその恋人を紹介されれば
 今度はハインツではなく自分が何やかやと嫌味を言うに違いないとも考えをめぐらせた。
 おそらくそれが親というものなのだろう。
 実はマリアはアスカが寄こした手紙の一部をそっと隠していた。
 ハインツの目に触れないように、と。
 そこにはこんなことが書かれていたのだ。



 私とシンジが病室に戻ったら、リツコは眠っていたわ。
 そりゃあそうよね。
 あんなに大変な思いをしたんだもの。
 ねぇ、ママ。赤ちゃんを産むって凄いことなのね。
 私にもいつかそんな時が来るのかしら。
 私みたいな我慢強くない女でも大丈夫かな?ちょっと、ううん、凄く不安。
 そう、話を戻すわ。
 部屋に戻ったらすやすやと眠っているリツコの横でレイがじっとその寝顔を見ていたの。
 その情景がなんだか絵画を見ているような感じだった。
 私たちに気がついたレイがそっとこっちに来たから、「帰ろうか」って言ったのよ。
 そうしたらレイはこくんと頷いて黙って外に出て行くの。
 私はリツコに「おやすみなさい」って囁いてから廊下に出たわ。
 シンジはなにやら「おやすみ」以外にも言いたいことがあったみたいだから放っておいたの。
 たぶん、「弟をありがとうございます」なんて事じゃないかと思う。
 リツコが目を覚ましていたら、恥ずかしがって絶対に言えそうもないからね、アイツは。
 ちょっと和んだ気分で廊下に出たら、いきなりだった。
 廊下で待ち構えていたレイが突然私の顔に手を伸ばしたのよ。
 身をかわす暇もなかったわ。
 唇のところをごしごしとティッシュで拭かれた。
 しまったと思った時にはもう遅かったの。
 レイはそのティッシュをしげしげと見て、私ににっこりと微笑んだ。
 私はその顔を多分一生忘れないと思う。
 だって、おそらく彼女が初めて見せた表情だったから。
 からかいと、意地悪と、おかしみと、そういった類のものが混じって、それでも友愛の情が満ちた微笑み。
 物凄く人間らしくて、とてもじゃないけどロボットやアンドロイドや3DCGじゃ出せない表情。
 そんな顔でレイは言ったの。
 「変ね。チョコレートを飲んだのはお兄ちゃんなのに。どうしてアスカの唇に?不思議」
 言葉はいつものように平坦だったけど、あのニンマリと笑った顔っていったら!
 思わず私は叫んじゃったの。「馬鹿ぁっ!」って。
 そして笑って逃げるレイを追いかけて私は夜の病院を駆けていったわ。
 走っちゃいけないと思ったけど、腹が立つやら恥ずかしいやらで。
 後から出てきたシンジはびっくりしたでしょうね。
 廊下には誰もいないのだから。
 ああっ、ママにも喋っちゃった。
 でもね、これは本当の意味でのファーストキスなのよ。
 じつはね、その昔、私たちは……。

 


 ハインツには刺激が強すぎる手紙だ。
 娘のキスの話題なんて。
 それこそ表面では平静を装って、内心でぎりぎりと歯噛みをすることだろう。
 くわばらくわばら。
 これは私と…そうね、カールになら話してもいいわね。
 シュレーダーは駄目。あの子はすぐに誰かに喋ってしまうから。

 まだ言い合いを続けている親子をマリアはにこやかに眺めた。
 そんな家族の姿を穢れなき瞳で見上げながら、カールはリビングの床を這い回っている。
 伝い歩きよりもはいはいの方が彼は好きなのだ。

 ファーストキスか…。
 あの彼、元気かな?
 って、彼のどこがよかったのかしら?
 まだ20年も経ってないのに、もう呆けちゃったのかな、私…。

 今が幸せだから、過去の記憶が曖昧になっているのか。
 マリアは微笑んだ。
 そんなことはどうでもいい。
 今現在の、いや子供たちの未来が素晴らしいものであればそれで良いのだ。
 マリアは再び、日本からの手紙へと思いを移した。
 彼女曰く本当の意味でのファーストキスの興奮を書き連ねている手紙に。



 でも、こんなことをママに書くものじゃないんでしょうね。
 私って変な娘?
 でも誰かに話したいの。
 この胸の高鳴りを。
 実は友達二人にもう話したんだけど、どうも言い足りなくて。
 ねぇ、親子ってこういうことを話したりするものなの?
 よくわからないけど、きっとこういう話ができるのはいい事なんだと思うの。
 いつか私も母親になったら、自分の子供たちとこうしていろいろな話ができるようになりたい。
 もちろん、父親は彼よ!
 その時にはママはおばあちゃんってことね。
 当然、まだまだずぅっと先のことだけど。
 そこのところは安心して。
 私みたいな美少女を彼女にできたっていうのに、シンジったら学校でね……。


 

 その後は彼の不満を書き連ねてはいるものの,とどのつまりは惚気のオンパレードだ。
 こんなものは絶対にハインツへは見せられない。
 マリアは頭の中の便箋に返信の文章を書き綴った。
 今回は追伸の部分が先に浮かんだのだ。
 きっとこれを読んだらアスカは顔を真っ赤にするでしょうね。

 追伸。私は3人目を産む予定。今度は女の子を希望。当分は祖母役を辞退。

 さらにもうひとつ追伸が浮かんだ。

 追伸その2。本当の意味でのセカンドキスは彼からしてもらいなさい。

 “本当の意味”のところに赤でアンダーラインを引かないといけないわね。
 きっとあの二人ならあれから何も進展していないはず。
 一気に関係が進むような二人だったら、とっくの昔に私はおばあちゃん。

 マリアは心の中のペンを置き、足元ではいはいに余念がない次男を抱き上げた。
 そして、母の笑顔を見てきゃっきゃっと笑うカールの鼻にちゅっとキスする。

「あなたの物理的な意味でのファーストキスの相手はママよ。
 本当の意味でのファーストキスの相手は自分で探しなさい。
 自分の力でね。
 あなたのお姉ちゃんはその相手を遥か彼方の日本で見つけたのよ。
 がんばって探しなさい、カール。
 その子はきっとあなたのことを待っているのだから。
 まだこの世に生まれてきていないかもしれないけどね…」

 母の言葉の意味がわかっているのか、幼子は天使の如き微笑を浮かべた。



<おわり>


 

3月(最終回)のおはなしへ

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<あとがき>

 

   なんとか、バレンタインデーに間に合いました。
   待合室でのキスはアスカから仕掛けた模様です。
   おそらくシンジ君は彼女を抱きとめることもできず呆然と立ち尽くしていたことでしょう。
   彼のことですから、その夜はアスカの顔も見ることができず、さりとてレイと顔を合わすのも恥ずかしく。
   早々にベッドへと退散して眠れぬ夜を過ごすことでしょうね。
   さて、アスカとシンジの物語はもう終わりに近づいてます。
   来月の話は…さあ、どうしましょう(笑)。


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