『ねぇ、ママ。
今年のバレンタインデーはこんな程度だったけど、来年はちゃんと日本流でやり遂げてあげるんだから。
覚えておいてよね、この一年で絶対に彼を私に夢中にさせるの。
本当の戦いはこれからなのよ!』
2月のお話(FEBRUAR 2016)
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2006.07.07 ジュン |
「なんだ、これは!」
「ママ、これは何なの?僕、見たことないよ」
「うう〜ん、竹かしら?自信ないわ」
「ああ、なるほど。竹の一種なのか」
「ねぇ、竹ってなに?ドイツにはないの?めずらしいからお姉ちゃんが送ってきたの?ねぇねぇ!」
蒼い瞳をくりくりさせて、疑問を連発するシュレーダー・ラングレー。
ここミュンヘンはやや郊外のラングレー家には、時折珍妙な届け物がある。
無論、発送元は遥か極東の地日本の、惣流・アスカ・ラングレー。
何が入っているのか送ってくるたびに皆興味津々なのだ。
しかも今回はその梱包からして驚かされた。
中に冷蔵庫でも入っているのかと思ったが、意外と軽いようで運送業者は一人で玄関まで運び入れた。
その箱にはアスカの字でドイツ語の注意書きが書き殴られている。
どうやら書いているうちに気持ちが入っていったようだ。
『こわれもの』『慎重にお願い』『大事なもの』『他のものを上に乗せないで』
『こっちが上!』『横にするな!』『つぶすな!』『投げるな!』『上に乗るな!』
『ちゃんと届けないと地獄に落ちるわよ!』
この最後の一文はご丁寧にもドイツ語以外に英語と日本語でも書かれている。
「ちゃんと届けましたよ。地獄には落ちたくないですからね」と配送業者のおじさんはおかしそうに笑い、
苦笑するマリアはいつもの倍以上のチップを彼に渡した。
『地獄』云々とはキリスト教圏では気軽に書くものではない。
それほどの気合を入れて送ってきたものは何かと中を見れば、
プラスチックのケースに入った植物だったのだ。
さて、その頃日本では。
7月7日木曜日午前3時。
リビングの電話が鳴り響く…その前にアスカが受話器をとった。
ずっと電話の前で待機していたのだ。
時ならぬ電話の音にシンジを起こしてはならない。
そんな可愛らしい乙女心ではあったのだが、その実彼女には大切な用件があったためでもある。
そうなのだ。
まず、肝心の7月7日にドイツへ笹飾りが届いてないとどうにもならない。
ここのところは配送業者に何度も念を押して確認した。
確実にその日に届けられることと笹が目茶苦茶になってしまわないこと。
笹についてはリツコが全面的に協力してくれた。
湿度を維持し笹を枯らさないようにするなど、彼女にしてみれば子供騙しのような装置だ。
その代償はアスカが碇リツコの料理の試食をすること。
肉嫌いの綾波(本姓:碇)レイでは味覚の判定がやや困難な部分があったのだ。
アスカは覚悟を決めてリツコの条件を飲み、先週の土曜日に碇家に赴いたのだ。
この部分は語れば長くなるので割愛。
少なくとも料理が不味くはなかったことだけはリツコの栄誉のために明言しておこう。
ともあれ笹飾りはそのようにして、無事ドイツへ送られることははっきりした。
少しばかり高くついた送料の方は素知らぬ顔でリツコが払っていたのである。
これにはアスカはただ感謝するしかなかった。
何しろ現在の彼女は働いているわけではない。
ただの学生である。
彼女には収入はないのだ。
そんな彼女がどうやって暮らしているかというと、過去の資産に他ならない。
使徒戦を展開していた時の給与に相当するもの。
もっともゼーレもネルフも企業ではなく一種の法人にすぎない。
命がけの任務ではあったものの目の玉が飛び出るような保証があったわけもなく、
彼女たちが一生を遊んで暮らせる金額を手にしたのではなかった。
ただ、シンジとアスカが住んでいるマンションは賃貸ではない。
碇ゲンドウが所有している部屋にその子供が別居しているという状況にある。
もっともその環境化においてはアスカがそこに住む謂れは何もないわけだが…。
その点については誰も何も言わない。
まさに暗黙の了解である。
誰もがそのことを突っ込んだ時のアスカの自爆を恐れていたのだ。
素直に真実を言うことができずに、逆に『ドイツに帰ればいいんでしょうが!』と発作的に叫んでしまう。
いかにも彼女にありがちのシチュエーションだけにみんな口をつぐんでしまったのだ。
当事者であるシンジでさえも。
さてさて、電話の相手はもちろんマリア。
笹飾りの箱に入っていた手紙にすぐ電話してくれと書かれていたからだ。
こっちの時間は気にしなくていいから、とにかく電話してくれと。
彼女がそう言うからにはそれなりの理由があるのだとマリアは躊躇なく受話器を取ったのだ。
当然、二人の会話はドイツ語。
実は狸寝入りのシンジ君はアスカのドイツ語を聴いて苦笑した。
何のために起きているのかわからなかったが、どうやらドイツの実家との電話のようだ。
どんな話をしているのか物凄く興味があったが、何しろ会話はドイツ語だ。
部分的にも何もまったくわからない。
しばらくしてアスカの声音を子守唄に彼は眠ってしまった。
聴き慣れない言葉で喋る彼女の声もまた魅力的だと思いながら。
恋する少年は幸福に夢路を辿る。
但し、この夜の夢は愛しいアスカの喋る言葉がすべてドイツ語らしき意味不明の言葉であり、彼はパニックに陥るといういささか悪夢に近いものであったが。
もちろん、その夢のドイツ語はアスカが聞いてもやはり意味不明だっただろう。
夢の主にドイツ語の理解能力が皆無なのだから。
夜が明けた。
7月7日、七夕の日。
織姫と牽牛の一年に一度の逢瀬といっても、政府や教育委員会には何の効力もない。
従って、本日はカレンダー通りに中学校では木曜日の授業が淡々と進んでいた。
これが幼稚園であれば楽しく七夕の飾りをわいわいとしていることであろうが、数学英語音楽理科お昼体育社会。
放課後になっても誰も七夕のことは話題にしない。
中学生にもなって七夕の祭でもなかろうということだろうか。
ただ一人。
アスカだけは間違いなく今夜を楽しみにしていた。
表面上は別として。
ドイツは日本より8時間遅れ。
ミュンヘンのラングレー家で執り行われる異国の祭り。
彼女はその祭りに賭けていたのだ。
彼も期待していた。
いや、好奇心で一杯だったと言い換えた方がいいだろう。
まさかアスカが『馬鹿シンジと恋仲になれますように』などと書くわけがない。
いや、彼女は書きたくて仕方がないが、書けないだけなのだ。
何しろ願い事を書いて笹に飾るとそれは神様だけでなくシンジの目にも触れてしまうのだから。
従ってアスカは当たり障りのないことを書かざるを得ない。
そんな事情があることなどシンジは想像すらしていなかった。
だがしかし、彼女が何を書くのか、興味を持つのは恋する少年としては普通のことである。
もしその願いのどこかに自分への思いの欠片でも発見できたなら…。
自爆覚悟で告白するか?
そんなことができるわけがない。
自爆して彼女を失うなど考えただけでも背筋が凍る。
というわけで、彼はほんの少しの期待と、そして大きな楽しみを持って今宵の七夕に望もうとしていた。
数時間後である。
彼の楽しみは充足されたが、期待の方はまるで見受けられなかった。
アスカはにこやかに次々と短冊を書いていった。
あの独特の筆跡で。
“世界平和”、“料理が上手になりますように”、“みんなが幸せになりますように”、
“夏休みに海に行きたい”、“夢月庵の抹茶ソフトが食べたい”……などなど。
シンジは苦笑し、そして首を傾げた。
これらの願いがアスカらしいというからしくないというか。
微妙にずれているような気がする。
正解である。
日頃の鈍感さはどこへやら。
だが、そこからさらに一歩進んで考えるまでに到らない。
まあ仕方がないとも言えよう。
シンジもアスカも親の愛に育まれた子供時代は送っていない。
その中で方向性はいささか違うが二人共に自己中心的な性格になってしまったのだ。
だからこそ知らないうちに相手を傷つける言葉を発してしまったり、逆に優しい言葉のかけ方がわからなかったり。
徐々にだが、そんな二人が前進している。
そのきっかけと目的はまぎれもなく“愛”である。
アスカはシンジの。
シンジはアスカの。
相手の“愛”が欲しい。
だが、しかし。
欲しいが、失くす方が怖い。
すこぶる怖い。
恐ろしい。
考えるだけでも背筋が凍りそうだ。
だから脅える。
うかつなことをして、相手から嫌われることを。
そしてそのために目が曇る。
見え見えの(無器用な)愛情表現をそれとわからない。
近い線まで見えても、それは自分の希望が見せている幻影だと思ってしまう。
この時もそうだった。
シンジはかなり近いラインまでアスカの気持ちを読み取ったのに、最後の部分で読み違え失敗してしまった。
「はは、変だよ、これ。アスカらしくないよ、この短冊」
ベランダからのその言葉を聞いた時、アスカの胸は大きく跳ね上がった。
無論、精神的にだが。
「な、な、な、なにがよ!」
「だって、ほら」
ごくん。
渇ききった喉を潤す唾は彼女の口中のどこにもない。
そこで、ごくんではなく、うっくっむぅっという珍妙な音をさせただけ。
「世界平和じゃなくて、世界征服とかの方がアスカらしいよ」
そこか!
アスカの眉がぐいっと上がった。
あっという間に喉が潤ってくる。
世界が平和で二人の未来もバラ色って言う意味なのにぃっ!
さあ、襲撃の雄叫びを上げようとした時だ。
「でも、料理が上手になりたいって言うのはアスカらしくないなぁ。
はは、馬鹿シンジがもっと料理が上手くなるようにって書いた方が…」
かちん!
アスカの眉間にくっきりと皺が入った。
耳の奥で神経がぴきぴきと音を立てている。
アンタに美味しい手料理を食べさせてあげたいって言う乙女心なのにぃっ!
さあ、悪罵の機関銃を乱射しようとした時だ。
「あっ、明日の放課後に寄ろうか、夢月庵。抹茶のソフトクリーム食べに」
ぎぎぎぃぃぃっ!
急ブレーキ。
アスカは全ての攻撃的因子を抑えこんだ。
そして、仁王立ちしたまま、短く答える。
「驕ってくれるなら」
「うん。でも、ソフトクリームだけだよ、驕るのは。他のわらび餅とかみたらし団子とか…えっと…」
「ケチ。男の癖に」
「だって、この前みたいにレイのお土産まで驕らされるのってたまらないよ」
「はんっ、兄弟愛のないやつ。じゃ、アタシの可愛い弟たちにもお土産はないのよね」
「だ、だ、だって、ドイツだろ。届けられないじゃないか」
と、言い返してみたものの、シンジはすこぶる後悔した。
点数を稼ぐチャンスだったのに。
これも懐具合を気にして妹のことを蔑ろに考えた報いに違いない。
彼は深く自分を戒めた。
もっと度量の大きな人間にならねば。
さて、アスカはどうしたのだろうか。
外見上は唇を尖らせて、眉間に皺を寄せ、そして腕組みをして、
自分は今不満この上ない状態だと精一杯のパフォーマンスをしている。
精一杯、というのは彼女の機嫌が180度変わってしまったということだ。
ここで彼女の名誉のためにはっきりしておこう。
アスカが食いしん坊で食べ物に釣られたわけではない。
願い事が叶ったからだ。
些細な願いである。
正直に言って、彼女は適当に書いたのだった。
夢月庵の抹茶アイスでなくてもよかった。
別にシャルロッテのチーズケーキでもよかったし、來來軒のとんこつ味ねぎ大盛りチャーシューメンにんにく抜きでもよかったのだ。
短冊の数は30枚あったので半分に分けたのだが、やがてネタには詰まる。
そこで適当に書いた、最後の方の一枚だったのだ。
我ながら馬鹿げた願い事だとは思ったが、とにもかくにもその願い事は叶うのだ。
こんなに目出度いことはないではないか。
アスカは嬉しさを抑えるのに必死だった。
何しろ彼女は幼児期を日本で送ってはいない。
したがって家庭や幼稚園などで七夕を祝った経験はない。
今夜が初めてなのだ。
だからこそ、彼女のワクワク度はシンジの想像の域を遥かに超えている。
異国の地の異教の祭り。
一年に一度恋人同士が再会するという、とんでもなくロマンチックなシチュエーションの元での祭りの上に、
なんと短冊に願いを書けばその願いが叶うという。
恋する乙女真っ盛りのアスカとしては胸のドキドキが収まらないのである。
さて、家庭的には恵まれてはいなかったが、その成長に応じて七夕を幾度も経験してきたシンジは?
抹茶ソフトは軽い気持ちだった。
願い事を叶えるとかそういう優しさで申し出たのではない。
まさに、なんとなく言ってみただけなのだ。
これが第3新東京グランドホテルのディナーとでも書かれていれば、当然知らぬ顔を決め込んでいただろう。
お金もない上にマナーも知らないのだから、好きな女の子の前でわざわざ恥をかきたいと思うわけがない。
また、これがシャルロッテというメルヘンチックなお店に入っていく勇気はない。
しかもアスカと二人連れで。
來來軒もまたシンジは訪れる気はなかった。
休みの日のお昼ご飯に外食というのなら別だが、この年頃の男子としてはかなりささやかな胃袋を持ち合わしている彼だ。
トウジやケンスケのように学校帰りにラーメンやお好み焼きという重量級の買い食いはできない。
そんな彼としては学校からの帰り道にソフトクリームを食べる程度なら何の問題もない。
つまり、今回はただ単に運がよかっただけだったのだ。
ただし、もしアスカがこの事実を知ったとしても平然と言ってのけただろう。
『運も実力のうち』だと。
そして、七夕の効力を実感したアスカは次の攻撃に出た。
「馬鹿シンジ!じゃ、海はっ!」
「えっ、海?」
その時、シンジの頭の中にあるイメージが鮮烈に蘇った。
赤と白の横縞の水着を着た少女の姿が。
ああ、もっとよく見ておくんだった!
「ええっと、どこの海?」
「どこだっていいわよ!海であればそれでいいのよ!」
「で、でも、泳げないといけないよね。うん。泳げる海で」
もはや下心全開である。
だが、願い事の二つ目が叶いそうな感触を得ているアスカは少しもそれに気がついていなかった。
この日のシンジは運が良かった。
「どこだっていいって言ってんじゃない!で、連れてってくれんの?くれないの?」
詰め寄るアスカに「ダメだ」と言えるわけがない。
もとよりシンジも海には行きたいのだから。
かなり不純な理由で。
「だ、誰かに頼めば行けるかも。ほ、ほら、お金の問題とかあるから」
一瞬、アスカは音無しの舌打ちをする。
二人きりではないのか。
もっとも、二人きりというのは無理な注文だろう。
まず、先立つものがない。
それに子供だけでは宿も取れないだろう。
日頃の鈍さはどこへやら。
どうやらマイナス方向への心配の方にはいとも容易く気が回るようだ。
「で、どうすんのよ。ミサトやリツコは頼りにならないわよ。妊娠中なんだから。加持さん、じゃない、ミサトの旦那さんも。
自分だけ夏の海に行くなんて聞いたらミサトが怒り狂うわ。で、誰に頼むのよ」
「ぼ、僕、電話してくる!」
逃げた。
テラス窓に立ちはだかるアスカの脇をすり抜けて、シンジは這う這うの体でリビングから廊下へ。
あの様子では彼女が紙一重で避けてくれたことなど気がつかなかっただろう。
「電話って誰にすんのよ、馬鹿」
憎まれ口を叩きながらも、彼女の顔はほがらかだった。
この分では何と二つも願い事が叶いそうだ。
いいや、料理については自分が頑張ればいいことである。
アスカは小さくガッツポーズをとった。
そして、少し考えておそらくその方向だろうと見当をつけた暗闇に、ぽんぽんと小さく拍手を打って拝む。
「本命はそっちなんだからね。お願いします!」
拝むアスカから遥か…9395キロとちょっと西方。
ラングレー家ではシュレーダーが目をくりくりさせながら小学校から帰ってきた。
地軸が戻ったばかりなので、サマータイムは今年は見送られている。
日本との時差は8時間。
まだお昼の3時前だ。
「ママ!勝手につくってないでしょ!」
「こら、静かにしなさい。カールが眠ってるのよ」
「あ、ごめんなさい」
彼もまた姉アスカと同様にわくわくしている。
友達を振り切って全速力で学校から駆けてきたのだ。
はあはあと息を弾ませて、彼はリビングの中央に立っている笹を確認した。
まだ何の飾りもついていない。
シュレーダーはニヤリと笑った。
その表情がどことなく姉と似ていることを彼は知らない。
姉もまた知らない。
「シュレーダー、おやつは?」
「いらない!ねっ、つくっていい?」
「あなたの大好きなプディングよ。アスカ式の」
「あとでいいっ!ねぇ!お願いだよ、ママ!」
「もう…騒がないで。わかったわ」
この展開は充分読めていた。
それがわかった上でマリアは息子との会話を楽しんでいるのだ。
シュレーダーはハインツに似ていささか単純である。
因みにアスカのそんな部分も父親似なのだろう。
「どれどれ?」
わざとらしくアスカ手製のマニュアルを手にするとシュレーダーが慌てて奪い取る。
「僕が読むっ」
「きゃっ」
わざと大仰な悲鳴を上げてマリアは愛する息子に紙を奪われてあげた。
「えっと、うぅ〜ん、ママ、これって“竹”のこと?」
いきなり最初の文章で躓いている。
「辞書で調べなさい。自分でしたいんでしょう」
マリアはちゃんと用意していた国語辞典(当然独独辞書)を差し出す。
済ました顔でそれを受けとると、シュレーダーは急いでページをめくる。
わからない文字のスペルを辿り、彼は彼なりに大人ぶった口調のつもりで母親に言い返した。
「意地悪ママ!いいよ、一人で調べるから。あとになって飾りたいって言ってもダメだよ」
「ふふ、がんばって」
「うんっ、がんばる!ええっと、お姉ちゃんの字読めないよ。僕の方がきれいな字を書くよ、絶対」
ぶつぶつ言いながらも彼は楽しげだ。
そんな息子の姿が愛らしくてたまらない。
親バカというのはこういうことなのだろうとマリアは苦笑した。
「タンザク…って、この色紙のことかな?」
「たぶん、ね」
「あっ、ママ、先に読んだなぁっ」
「読んだだけよ。飾りの方には手をつけてないわ」
「くそぉ、大人だと思って。負けないからねっ。ああ、またわからない字だ」
カールは寝付いたばかり。
あと2時間くらいは眠ったままだろう。
今夜のミニパーティーの準備も万全だ。
しばらくの間、マリアは息子との時間を楽しむことにしていた。
「じゃ、僕の言う通りにしてよ!いい?」
「了解、隊長殿」
おどけて敬礼する母親の前でシュレーダーは胸を張った。
その手には書き込みだらけのマニュアルが。
「まずね、タンザクってのに願い事を書くんだよ」
「全部で何枚あるの?」
「待ってて」
彼はテーブルの上の短冊を手にした。
「23枚。あ、でも、1、2…、3枚はもう何か書かれてるよ。読めない字で、ほら」
息子に手渡された短冊には確かに日本語の文字が。
もっともそのことをマリアはよく知っている。
荷物が届いたら電話をして欲しいというアスカの頼みがそれだから。
彼女の書いた見本の短冊もちゃんと飾って欲しいということだ。
「きっと日本語だよ。変な字」
「お姉ちゃんの願い事だからきちんと特等席に飾ってあげないとね」
「うんっ、一番いい場所をお姉ちゃんのにしてあげるよ」
マリアはしげしげと読めない文字を眺めた。
ここには明らかに大事なことが書かれている。
そうでなければ、わざわざ電話連絡をして欲しいとは言ってこないだろう。
どうせ、叶わぬ恋を成就させて欲しいといった内容だろうが…。
日本語なら読めないと思って…。
「ねぇ、シュレーダー。もう少し一人でできる?」
「うん、大丈夫!」
「パパとママにもタンザク、残しといてね」
「じゃ、カールの分、僕が書いていい?ちゃんと赤ちゃんのお願いで書いておくからさ」
「うふ、お願いするわ、お兄ちゃん」
「任せて!」
もう彼は一心不乱に短冊を見つめている。
何を願うか。
微笑むマリアはソファーから腰を上げた。
向うは、パソコンの前。
彼女には予感があった。
3枚もあるのだから、きっとその中に…。
日付が変わった。
草木も眠る丑三つ時からさらに半時。
アスカももう眠っていた。
すやすやと。
その時、電話が鳴った。
「……はい、もしもし…」
たった一回のコールで電話をとるとはさすがアスカ。
幼少から軍事教練を受けていただけのことはある。
しかし、この場合は違っていた。
彼女は受話器を枕元に置いていたのだ。
2時近くまでもしかしたらマリアから電話があるかもしれないと待機していたのである。
だから反応が早かったのだ。
「……」
ところが、受話器の向こうに反応がない。
寝転がったままでアスカは時計を見、眉を顰めた。
「間違い電話?こんな時間に…あのねっ」
文句を言って叩き切ろうとした彼女の耳に、微かに息遣いが聴こえた。
それだけで相手がわかったのは偶然なのかどうか。
だが、アスカは確信していた。
電話の相手はドイツにいる。
パパ、だ。
アスカは声を失った。
何か言わないといけない。
そう思うのだが、声にならない。
いや、声にしようにも何を言えばいいのかわからない。
実はハインツもそうだった。
マリアに脅されて仕方なしに受話器を持たされた。
なかなかボタンを押さない彼に痺れを切らし、その妻は覚えてしまっている遥か日本への電話番号をさっさと押す。
心の準備も何もできなかった。
深夜だからしばらくは出ない。
もしかすると眠ってしまっていて電話をとらないかもしれない。
そんな逃げ道を考える暇もなかった。
あっさりと電話は繋がり、そこから流れてきたのは少女の声。
日本語だったが、すぐにアスカだとわかった。
わかった瞬間に胸が一杯になってしまった。
もう、何も言えない。
父と娘は微かに聴こえてくる、互いの息遣いに耳を顰めるだけ。
懐かしさや愛しさやその他諸々の感情が心を支配している。
もう憎しみなど微塵もない。
ただこれまで相手を傷つけてきたという、その自責の念が言葉を失くさせているのだ。
これはだめかも知れない。
これを機会に父娘の間を取り持とうとしたマリアは唇を噛んだ。
まだ早いのか?
こんなに二人とも苦しんでいるのに。
神様、まだ試練を与えようと仰るのでしょうか。
だが、神様はその時天使を遣わせたのである。
「もうっ!パパったら、何か言いなよ。お姉ちゃんが困ってるよ、それじゃ」
その少し甲高いボーイソプラノは日本まで届いた。
そして、思わずアスカは喋った。
「シュレーダー?」
「…Ja.Ihr Bruder.,Asuka」
「Papa…」
それだけだった。
それ以上はまた言葉にならなかった。
しかし今度は胸が詰まったのだ。
アスカは嗚咽を漏らした。
するとハインツは慌ててしまった。
長い間言葉も交わしていなかった娘に泣き出されてしまったのだ。
彼は言葉を尽くしてアスカを慰めた。
まるで彼女が幼女であるかのように。
だがそれがよかったのだろう。
30分ほど後のことだ。
まだ真っ暗な空の下、アスカはベランダに出ていた。
手摺に肘をつき、形のいい顎を上げて夜空を見上げる。
大都市ではあるが、もともとは自然の中にできた街だ。
工業地区も周囲にない。
だから意外に星はよく見える。
時間も遅い所為か、うっすらと天の川も見えていた。
アスカは織姫と牽牛の星も探したが、残念ながら星座の知識はない。
パソコンで調べようかとも思ったけれども、何だかそれでは雰囲気が壊れてしまうような気がする。
「ま、いっか。きっと逢えてるわよ。こんなにお星様がキレイなんだもん」
アスカは優しく微笑んだ。
何年ぶりかの父の声。
しかもそれは幼児の頃に耳にしていた、彼女をあやすような声音だった。
まるでその当時の様に父親に抱かれているみたいな感触。
あの時の父はとても大きかった。
今はどうなんだろう。
逢いたい。
父に会って、ちゃんと詫びたい。
「ふふ、ごめんねってあれじゃダメよね」
電話を切る間際に慌てて言った一言。
「Entschuldigung…」
その一言にハインツは慌てた。
こっちこそ悪かったと言ったものの、また最初に戻って二人ともだんまり状態。
見るに見かねたのか向こうでシュレーダーが受話器を奪い取ったようだった。
結局はしんみりとした電話は明るい感じで終わったのである。
そして、アスカはもう眠れなかった。
嬉しくて、嬉しくて。
「七夕って、最高よね。ホント…」
もう何度目だろうか。
同じ内容の独り言を呟くのは。
アスカは大きく息を吸い込んだ。
そして、目を閉じて、手摺に置いた掌をしっかりと握り合わせた。
神様に感謝するかのようなその姿は闇夜にいと美しく…。
いや、微かに手が震えている。
「ああっ、もうダメ!我慢できっこない!」
アスカは鼻息も荒く目を開けると、くるりと背を向けて部屋の中に突入した。
そして大股で向うは、同居人の部屋。
何と彼女は彼の部屋の扉を蹴ったのである。
ごん!ごん!ごん!
3発蹴ると、「入るわよ!」と声高に宣言し扉を勢いよく開けた。
愛しき人はベッドの中。
完璧に熟睡していた。
「こらぁっ!起きろぉぉぉぉ〜っ!」
叫ぶが早いか、アスカは眠れるシンジのパジャマの胸倉を掴み上下に揺さぶった。
ここまでされて起きないはずがない。
「え、あに…?」
かろうじて瞼は上げたものの、身体はまたその瞼を下げようと強制する。
シンジもまたその身体の意見に賛成のようだ。
微かに愛想笑いをして再び夢の世界に逃避しようとする。
「寝るなぁ!アタシの話を聞くのよっ!」
「き、きけばいいんらね。きくろ…」
「よしっ、よぉ〜く、聞きなさいよ!」
アスカはシンジから手を離し、その場に仁王立ち。
電話が鳴ってからのことを話し始めた。
「アタシはすぐに受話器を取ったわ。相手は誰だと思う?」
シンジを見下ろすともはや愛想笑いのままに寝息をたてていた。
「1番、レイ。2番、ヒカリ。3番、パパ。さ、答えないさいよ」
その時シンジは軽く息を吐き出した。
「残念、1番ははずれ!やっぱ、アンタは馬鹿シンジよね!
正解は3番!パパだったのよ!」
アスカはとにかく誰かに早く話したかったのだ。
この嬉しさを訴えたかった。
「どぉ〜お?信じらんないでしょ!
アタシ、パパと喋ったのよ。何年ぶりだと思う?
ああっ、嬉しいよぉ!ねっ、アンタも嬉しいでしょ」
再び夢の世界の住人となった彼は返事を返さない。
それでも彼女は話を続けた。
ここ最近の父親とのいきさつを喋る。
嬉しげに、優しげに。
いつの間にかその口調は柔らかいものになっていた。
ずっと喋り続けていたアスカは一息つき、楽しそうに笑う。
「気の利いたことのひとつくらい言いなさいよ。ほら、よかったねって言って御覧なさいよ。
今度は素直に“アリガト”って言ってあげるからさ」
アスカはベッドサイドに膝をついた。
交差させた指を支えに顎を乗せ、少し首を傾げる。
そしてじっとシンジの寝顔を見つめ、囁くような声を出した。
「ホントに無警戒な顔しちゃってさ。ああ…ねっ、起きてる?」
返事なし。
むにゃむにゃとも言わず、微かに寝息をたてるだけ。
アスカは疑わしそうに彼の顔をしげしげと見る。
「起きてるんでしょ、ホントは。ね、タヌキ寝入りってヤツ。違うの?」
少し顔を近づける。
こんなに顔を接近させたのは、あの後悔たっぷりのファーストキス以来。
彼女はさっと頬を赤らめ、元の位置に顔を戻す。
「ふぅ…、危ない。危ない。ちょっと、アンタ。誘惑しないでくれる?」
彼は眠っているだけ。
誘惑も何もないものだ。
「キス…しちゃおうかな。これってチャンスよね」
アスカはじっとシンジの唇を見つめた。
知らず知らずのうちに彼女は舌の先で己の唇を湿らせていた。
そのことに気づいて、顔をさらに赤らめそして苦笑する。
「やめた。二回目はアンタから。
それに変なことして七夕の神様を怒らせたりしたら大変だもん」
明日…いや、今日の夕方にはシンジと抹茶ソフトを食べに行く。
海に遊びに行くことも一応決まった。
そして、父親との何年ぶりかの会話。
願い事が一気に3つも叶ったのだ。
この調子なら他の願い事も叶うかもしれない。
「あ〜あ、こんなことなら書いときゃよかった」
じっと、見つめる。
起きているのかどうか。
これでタヌキ寝入りならば、碇シンジはかなりの役者だ。
100%眠っているとアスカは確信していた。
「ねぇ、寝てる?眠ってるんなら“寝てる”って言いなさいよ」
アスカはさらに声を潜めた。
目線はシンジの顔から少し上げて壁を眺める。
「短冊に、あ、アンタと、き、キスできますようにってさ」
ちらりとシンジを確認。
もちろん、ぐっすりと眠っている。
「言っちゃった、言っちゃった」
暴れだしたいがシンジを起こしたくない。
仕方がないので彼女は宙で拳を何度も上下させた。
「もうっ、せっかく言ったのに反応しないなんて酷いわよ、馬鹿シンジ」
もし起きていれば彼女が望むような反応を示していたことだろう。
しかし、今は彼は夢の世界の住人。
そして、アスカもやがて夢の世界へと旅立った。
残念ながら、同じ夢とはいかなかったが。
その朝、いつもの時間に目覚められなかった二人は大慌て。
学校に着いたのは9時前。
もちろん、仲良く遅刻だった。
……
ママ、聞いて。
私、踏みつけられたの。
気持ちよく眠っていたら、いきなり肩の辺りをぎゅって。
眠っているシンジにパパとのことを報告して、そのまま眠っちゃったのよ。
ベッドの下で丸くなって寝ていたらしいの。
シンジもたぶん夜中に叩き起こされていつものリズムが狂ったみたい。
で、目を覚ましたら8時になっていたから大慌てでベッドから飛び降りたの。
着地したところにあったのが私の身体。
私もびっくりしたけど、シンジも大驚き。
まあ、顔とかお腹じゃなくてよかったわ。
実は今でも少し痛いの、右肩の辺りが。
ちょっとした打ち身って感じ。
でも、痛いって顔はしないの。するもんですか。
だけどね、シンジったら何も覚えてないのよ。
だから教えてあげないことにしたの。
どうして私があそこに眠っていたのか。
おかげで彼の珍妙な表情を堪能できたわ。
まあ、いつか教えてあげる。
最大の願い事が叶ったら、ね。
あ、それから最後にもう一度。
本当にありがとう、ママ。
ママの能力を見くびってたわ。
まさか、日本語を解読されるなんて。
……
愛するアスカ。
願い事を見ちゃってごめんなさいね。
でも、タナバタというお祭りはみんなの前で願い事を宣言するみたいだし。
言い訳みたいだけど、そういうことで許してね。
アスカの三つの願い。
一つ目は任せて。
『ドイツのみんなが幸せで暮らせますように』
ありがとう。嬉しいわ。
この願い事は私たちがそれぞれの立場で頑張る。
だから、絶対に叶うに決まっている。
ハインツもシュレーダーもやる気満々だから。
二つ目は、どうかしら?
とりあえず、最初の一歩は踏み出せたでしょう?
ハインツは最初は怖がって拒否したのよ。
でも、私は言ってやったの。
「あなたはアスカの願い事を踏みにじるつもりですか?」って。
それでやっと電話をしてくれることになったの。
『パパと仲直りできますように』
あとは、二人でなんとかしなさい。
そして、最後の願い事。
これがアスカの最大の願いよね。
『シンジと結婚できますように』
日本の法律はわからないけど、まだ結婚はできないのでしょう?
何年後になるか楽しみね。
結婚式には私たち家族が揃って出席させてもらうわ。
カールがシュレーダーくらいの歳になるのかしら?
さあ、がんばって。
この願いが叶うかどうかは、あなたと彼次第。
私たちにはどうすることもできないわ。
でも、ひとつだけ。
私もあのタンザクにドイツ語で書いたの。
アスカとシンジ君がずっとずっと一緒にいられますようにって。
アスカに教えてもらった、タナバタの話みたいに二人が引き裂かれないように。
追伸。
同じ願い事をハインツとシュレーダーも書きました。
きっと神様は叶えてくれるに違いないわ。
何教の神様か全然わからないけどね。
追伸の2
さて、この飾りはどうすればいいの?
枯れる前に教えて頂戴ね。
<おわり>
<あとがき>
7月といえば、やっぱり七夕のお話です。
7月7日は円谷英二の誕生日。そして北斗星司と南夕子の誕生日でもあります。
試験勉強で書き物どころではないのですが、やはり気晴らしも必要なのです。
予定ではもっと短くできるはずなのでしたが、まあいつものようにこの長さで。
来月は…海の話ではありません(きっぱり)。
だって、アニメや漫画じゃないから読者サービスにならないもの。
やはり夏といえば怪談でしょう!ま、幽霊は出ないですが。きもだめしか何かで。
その頃には試験に合格していればいいのですが。
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