『ねぇ、ママ。
 今年のバレンタインデーはこんな程度だったけど、来年はちゃんと日本流でやり遂げてあげるんだから。
 覚えておいてよね、この一年で絶対に彼を私に夢中にさせるの。
 本当の戦いはこれからなのよ!』

 

 


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2006.08.12         ジュン





 
「海っ!」

 車の窓からその光景を見たアスカは心からの叫びを発した。
 この日のために一生懸命に選んだ水着。
 シンジはきれいだと思ってくれるだろうか。
 だが、その日は雨だった。



 ママ、私って運が悪いの?
 せっかくの海が…。
 ずっと雨。雨。雨。雨。雨!
 しかも集中豪雨。
 こんなことは何十年かぶりだって民宿のおばさんが私たちを慰めてくれたわ。
 夏期休暇をとって私たちを海に連れて行ってくれた、青葉さんとマヤさんも苦笑するしかなかったの。
 二人も独身最後のバカンスを楽しむつもりだったんだもんね。
 海水浴場の周りに室内プールなんてあるわけないし。
 せっかくこの日のために新しい水着を買ってきたっていうのに。
 シンジなんか頭にきちゃって、どうせ濡れるんだから一緒だと大雨の中を海に出ようとして。
 私は必死になって止めたわよ。
 死んだらどうするの?危ないから止めなさいって。
 ごめんなさい。
 止めたのはシンジの方。
  


 
アスカったら。
 まるで子供ね。
 でも、まだ15歳になってないのだから、子供でもいいのかしら。
 あなたは一生懸命にがんばってきたのですからね。
 私はそんなあなたを見てみたい。
 大人の真似をしていない本当のあなたを。
 ドイツでの日々とは違うあなたを。
 で、次は山なんですって?
 可哀相なあなたたちのためにネルフの方が準備してくださったんですから、
 よくお礼を申し上げるんですよ。
 それからご迷惑をかけない様に。
 ホームステイになるのでしょう?ホテルではなく。
 楽しさのあまり暴れまわっちゃダメよ。
   





 さて、その山である。
 長野と岐阜との県境にある温泉地だ。
 今回の引率者は日向マコトだった。
 そして彼らの宿泊先は、マコトの伯父さんの家。
 遥かドイツからマリアに言われるまでもなく、子供たちは緊張この上なかった。
 何しろ家庭的な雰囲気には無縁に暮らしてきた三人だ。
 ところがこの日向家にはとてつもなく家庭的な雰囲気が漂いに漂っていた。
 まず、曽祖父に曾祖母、祖父に祖母、父親に母親、息子二人に娘が一人。
 上が78歳で一番下がまだ2歳。
 因みにマコトの伯父さんは、このまるで見本のような続柄リストの中で祖父に当たる。
 父親というのは彼の一人息子。
 幸いにも78歳の曽祖父はボケも知らず、矍鑠たるもので毎日畑に出ているほどだ。
 従って、家族の見本市のようなこの一家には、さすがのレイでさえ唖然としたくらいだ。
 その上、家が広い。
 元は旧本陣の屋敷だとか。
 但し、子供たち三人は浅学にして本陣という意味がわからない。
 参勤交代と言われても時代劇など殆ど見てこなかった彼らだ。
 ましてドイツで教育を受けてきたアスカにはまったくわけがわからない。
 マコトが説明することを神妙に聴いていた三人だったが、まずアスカが脱落した。
 正座をしていたのが拙かった。
 日頃は畳の部屋では生活しておらず、海の民宿では人目がないときは胡坐をかいていた彼女だ。
 無論その人目の中にシンジが含まれていないというのはいかばかりの事か。
 本来なら恋しい人の目こそ気にするものではないだろうか。
 それなのに、彼の目の前では彼女はあまりに無防備。
 しかしながら、あの日の頃のように、挑発的な態度と服装はさすがに控えている。
 彼女の恋心はそういう方面の恥じらいは覚えたようだ。
 少し脱線した。
 彼らが通されたのは、その旧本陣のお屋敷。
 そこを旅館にせずに温泉地の中心で、日向本家は別の建物で旅館を経営している。
 旧街道から少し外れた場所に鉄道の駅ができ、そこが温泉街の中心となったからだ。
 しかも由緒ある建物だけに商売に利用しようという発想が日向家の先祖にはでてこなかったらしい。
 話は戦国時代から始まり、マコトの伯父さんと伯母さん、それに小さな孫たちが同席しているのだから、当然子供たちはかしこまる。
 アスカの限界は8分30秒足らずだった。
 
「ごめんなさい!」

 謝罪の言葉がすぐに出てきたのはアスカにしては殊勝であろう。
 しかし、脚を崩そうとした途端に体勢が崩れた。
 崩れた先は彼女の右隣で涼しい顔をして正座しているレイの肩先。
 その肩にすがったアスカだったが、すがった先は堅固ではなかった。
 レイは小さな悲鳴を上げた。
 そして、彼女の身体もまた右に傾く。
 レイの右隣には何もなし。
 本間の畳が一帖分。
 我慢強いレイは正座開始3分過ぎから必死に脚の痺れと闘ってきたのだ。
 二人の少女がすってんこ。
 因みにシンジは松代での生活で正座には慣れていた。
 アスカもすがるなら左隣にすればよかった。
 そうすればシンジの頼れる姿を見ることができたのだが、生憎と痺れたのは右足。
 彼女とすればみっともない姿をシンジに見せただけの結果となった。
 
「これ、マコト。お前の話が長いのだ」

「そうよ。可哀相に」

 年寄り二人は庇ってくれるが、幼児たちは容赦がない。
 正座に慣れているから二人の惨状にくすくすあははは。
 もっとも痺れに苦しむアスカの耳には笑い声は入ってこない。
 
「大丈夫、アスカ?」

「何よっ、ど〜してアンタだけっ、あつつつっ!」

「ごめん」

 アスカに絡まれるのは日常茶飯事だが、レイにまで睨まれるのは慣れてない。
 シンジはいささか居心地の悪さを感じながら、頭を掻いた。
 もう一人、マコトも頭を掻いていた。
 痺れる足をさする少女二人。
 外から蝉の声が聴こえてきた。



 私も一度日本風の旅館に泊まった事があったの。
 秘守義務ってヤツだから、詳しいことは言っちゃダメなの。
 でも、これくらいいいよね。うん、言っちゃう。
 別に読後焼却なんかしなくていいわ。
 つまりね。あのね。ああ、恥ずかしい!
 その日、私はシンジに命を救われたの。
 詳しいことは言えないけど、灼熱の地獄から助けてくれたのよ。
 ああ、全部喋ってしまいたい。
 今度確かめておくわ。どこまでなら喋っていいか。
 で、和室の雰囲気は知っていたつもりだったけど、
 この家の様子は、本当に“日本!”って感じ。
 まあ写真を送るね。
 ママたちが日本に遊びに来た時は、日本情緒たっぷりの場所を用意してあげる。

 


 ありがとう、アスカ。
 私達が日本に行くときはあなたの結婚式?
 相手はもちろん彼よね。
 そしてハネムーンはドイツ。
 お願いだからそうして頂戴。
 こっちでも盛大にお祝いしたいの。
 ああ、ここに泊まれだなんて野暮なことは言わないから安心してね。



 ママの意地悪!

 (註)アスカはこの一言だけを書いてポストカードをドイツに送っている。
    因みにその写真には、浴衣を着てにっこり笑っているアスカと照れ笑いを浮かべる日本人の少年が並んで写っていた。


 
 マコトは今回の旅行の日程を現地の夏祭りに合わせていた。
 そして、アスカとレイには黙って、二人の浴衣を用意していたのである。
 サービス満点だ。
 もちろん、彼の背後には碇ゲンドウという不気味な影(ビジュアル的に)があったのは間違いない。
 ゲンドウはマコトにこっそりと頼んでいる。
 喜ぶレイの写真を撮ってきてくれと。
 ただし、用意したのが誰かは絶対に黙っておく様にと釘を刺したのである。

 だが、アスカが釘抜きを持っていた。

 真新しい浴衣をマコトの伯母さんが二人の少女に着せていく。
 彼女たちに任せていたら、きちんと着ることなどできるはずがない。
 一人は外国育ちで和服など着たこともない。
 もう一人は日本で育ったが、使徒戦の間はプラグスーツと制服で通した猛者だ。
 アスカの方はおしゃれは好きだし、着物に対して憧れを持っている。
 そしてレイの方もほんの少しずつではあるが、ファッションに興味…、
 とまではいかないまでも翌日の服装を考えるくらいには成長しているのだ。
 マコトの伯母さんとしてもこの二人に着付けをするのは楽しい。
 素材がいいからだ。
 
「まあ、こっちのお嬢ちゃんはさすがに外人さん…あら、ごめんなさい、外国人さんね。
 すらっとしててきれいなスタイルだこと」

「ありがとっ!」

「あら、でも少し丈が短いわね。脚が長いのと、お尻がきゅっと持ち上がってる所為ね、きっと。
 これは日本人には真似できないわ。羨ましい。」

 そう言われると嬉しいものだ。
 日本人になりたい…理由は明記しなくてもいいだろう…アスカだから外国人扱いされるといささか気分を害するのが普通だったが、
 この場合は笑顔を隠せずに、心うきうき。

「まあ、このお嬢ちゃんの方はまるであつらえたみたいにピッタリだわ」

 丈だけではない。
 襟元から袖、裾、すべてにわたってレイの身体にフィットしている。
 百合の花をあしらった紺の浴衣に濃い桃色の帯。
 アスカは自分の浴衣と見比べた。
 彼女の柄は桃色の地に紫色のヤグルマソウ。
 嬉しいことに、ドイツの国花である。
 そのことから考えてもアスカのためにしつらえたことは明らかだ。
 だが、マコトの伯母さんが指摘したようにレイに比べて自分の脚の方が7〜8cm剥き出しになっている。
 もちろんアスカに和服の裾の適正などわかるはずもないが、着付けができる人間が言っているのだから間違いはなかろう。
 アスカの灰色の脳細胞はあっさりと正解を導いたのである。

「レイ?アンタ、最近採寸されたことあるんじゃないの?」

「ないわ」

「あ、そっか。採寸じゃなくて、身体検査。リツコにチェックされなかった?」

 レイはこくんと頷く。
 1ヶ月ほど前に微に入り細にわたるがごとき、綿密な身体測定をされた。
 相手がリツコなだけに素直なレイは何の疑問も持たずに、
 バストウエストヒップ股上肩首周りその他モロモロの寸法を取られたのだ。
 さすがは鉄仮面リツコ。
 何のための採寸かをまったく気取られずに情報を入手したようだ。
 きっとわざわざ白衣を着たに違いない。そうアスカは想像した。
 となれば、黒幕はまさに黒幕がお似合いの彼しかいない。
 着付けが終わり男性陣にお披露目した後、アスカはレイの携帯電話を借りた。

「シンジのパパの直通は?」

「これ」

 極秘のはずのゲンドウの携帯番号をレイはあっさりと曝露した。
 「ありがと」とその番号をプッシュするアスカの表情に、あの邪悪な笑みが広がっていく。
 ああ、こういう時はアスカはすぐに子供みたいになっちゃうな。
 シンジは苦笑し、それでも誰に電話をしているかは気付かない。
 そこのところは相も変わらずのシンジである。

「うむ、私だ」

 威厳たっぷりの言葉が聞こえてきた。
 当然であろう。
 ディスプレイに出た通知番号はレイのもの。
 ほとんどかけてくることがない彼女からの電話だけに、内心の嬉しさを一生懸命に抑えての威厳である。

「アスカです!こんにちは!浴衣、ありがとうございました!物凄く嬉しいです!」

 実に普通の日本語である。
 だからこそ違和感たっぷり。
 
「レイも嬉しいって言ってます。シンジは…」

 彼はジーパンのままであった。

「あっ、ごめんなさい!間に合わなかったんですね!」

 間に合うも何も、ゲンドウの感覚では男に浴衣をしつらえるなど論外である。
 当然、シンジには何も準備されていなかった。

「う…、あ、そ、むぅ…」

 油汗がぽたりぽたり。
 アスカにはその音が聞こえるような気がした。
 相手はシンジのお父さんなのだ。
 苛めるのはこれくらいにしておこう。
 
「来年はよろしくお願いしますっ!シンジは全然っ、拗ねてなんかいませんから」

 最後も明るく言い放った。
 
「う、うむ、問題ない。来年は、あいつのも、その、なんだ、任せておけ」

「はいっ、ありがとうございます!」

 心の中で大きくガッツポーズ。
 シンジの浴衣ゲット!
 アタシが頑張ったんだからねっ。
 本当はシンジに褒めてもらいたいものだが、今の状況ではそこまで自己主張できない。
 わがままについては充分自己主張できるのだが。
 彼のために何かをするということが恥ずかしくてたまらない。
 だから、今回も浴衣の件は秘密にしておくつもりだ。

「はい、レイ。パパにお礼を言いなさいよ」

 にっこり笑って、アスカは携帯電話を差し出す。
 手の中の電話がゲンドウの動揺でぶるぶる震えているような気がした。

 ゲンドウは息子のことを邪険に思っていたわけではなかった。
 ただ浴衣を用意する気にならなかっただけ。
 彼はマコトに言いつけていた。
 息子を祭奉行にするようにと。

  

 
 
 その夜は、夏祭りだった。
 山腹にある神社の長い緩やかな石段にぎっしりと屋台が並んでいる。
 アスカはもちろんそんな光景は初体験だった。
 計画都市である第3新東京市にはお寺や神社といった類のものは中心地にはまるでなく、
 盆踊りや祭りといった伝統行事も見受けられなかったのである。
 もっとも平時ではなく、使徒戦途上であったことも大きな要因であったのは事実だが。
 ともあれ、アスカにとってお祭りは初めてであることは確かだ。
 念のために付け加えておくと、レイも同様である。
 無表情であるかのように見えるが、レイもアスカと同じく心躍らせている。
 そんな二人の少女を監督するのが祭奉行であるシンジの役目だった。

 シンジは松代にいた時にお祭りに行ったことが何度もある。
 あの引っ込み思案の彼をしても、美味しそうなものを食べ、面白そうなものを買ってしまう。
 そんな誘蛾灯のような魅惑の屋台を彼は知っているのだ。
 レイはともかく、あのアスカが屋台に魅了されないわけがない。
 彼は確信していた。

 確信は現実へと変化した。
 石段の一番下。
 つまり、最初の屋台。
 ただ、団扇を売っているだけの屋台に、もうアスカは引っかかってしまった。
 因みにレイも。

「シンジっ、これ欲しいっ!」

 早速来たかと祭奉行は苦笑する。
 まだ一段も上がっていないというのに…。
 これでは先が思いやられる。
 ただ、これが欲しいと叫んだ金髪の浴衣娘はまだ目当ての団扇がないようだ。
 子供向けの団扇であろうがなかろうがまったく頓着せずに上から順番に見ていっている。
 片やレイはといえば、もうすでに一本の団扇をしっかりと握りしめている。

「レイはそれにするの?」

 いつものこくんではなく、大きく頷く妹が微笑ましい。
 シンジは財布から300円を出した。
 さて、アスカは。
 未だに検討中だった。
 シンジは、はぁと溜息一つ。
 アスカがこれをはじめるととんでもなく時間がかかるのだ。
 決めるときには瞬時に決めてしまうのに、悩みだすと止まらない。
 それはショッピングの荷物持ちにつき合わされてるから彼はよく知っている。
 余談ではあるが、その買い物のことを彼らはそれぞれ自分の頭の中ではデートという魅惑的な言葉に変換している。
 傍目から見てもそれはデートに他ならないのだが。
 
「アスカ、まだ?」

「まだまだ」

 レイは既に自分の所有物になったうさぎの団扇を嬉しそうに眺めている。
 言い忘れたが、祭奉行の一行は計3人。
 助けはいない。
 シンジが一人で解決しないといけないのだ。
 時間はまだ5時30分を過ぎたばかりだが、最初の第一歩で躓いてるようで何とも嘆かわしい。
 そんなシンジの苛立ちにアスカはまったく無頓着だ。
 その時、彼はマコトの言葉を思い出した。
 祭奉行ってどういうことをすればいいのかと質問した時のことだ。
 鍋奉行と同じでスムーズに物事が運ぶように、あるときは命令したり決定権を行使したりすることが必要だと。
 シンジは大きく頷いた。
 僕は祭奉行なんだ。
 僕がやらないといけないんだ。
 彼は手を何度も握りしめて、そしてついに言葉を発した。

「こ、これにすれば?」

 指差したのは花火の絵の団扇。
 別にそれが素晴らしいと思ったわけでもなく、指差しやすい場所にあっただけのこと。
 ところがそんないい加減な提案があっさりと可決されたのだ。

「OK。お奉行様には逆らえないわよねぇ。じゃ、それにしたげる」

「え、いいの?」

 お奉行ともあろうものがかなりの弱腰である。
 その上、すっと差し出された白い手にどきりと驚いていては世話がない。
 
「お金。300円だって」

「あ、うん。ちょっと待って」

 慌ててアスカの掌に銀貨を3枚載せる。

「どうも、お奉行様」

 嫌味たらしく言うアスカだったが、内心はうきうきが止まらない。
 この祭奉行システムは素晴らしいではないか。
 こういう風にシンジに決めさせていけば、アスカの宝物がどんどん増えていく。
 お金はシンジの手元から出て、決めるのもシンジ。
 となれば、これは彼からのプレゼントだと認識してもいいではないか。
 これは凄い。
 アスカは決意した。
 碇ゲンドウにお土産を買って帰る。
 さすがは司令官だ。
 シンジのパパは素晴らしい男だったのだ。



 アスカは夏祭りを堪能していた。
 浴衣という着物に不自由さは感じていたが、何も格闘をするわけではない。
 先走る気持ちを少し抑えないといけないだけだ。
 シンジからのプレゼントゲットで宝物うはうは大作戦。
 食べ物だと胃袋に消えてしまう。
 あれもこれもというわけにはいかず、アスカは物に執着せざるを得なかった。
 
「次はあれっ」

「あれって、お面だよ。アスカ、あんなのがいるの?」

「はっ、日本の文化研究よ。ドイツにはあんなのないもんね」

 特撮やアニメの主人公のお面が、遥かドイツにあるわけがない。
 シンジはアスカがまるで子供みたいだと苦笑する。
 まるで自分がずいぶん大人になったような錯覚さえしてくるぐらいだ。
 その余裕が慢心を産む。
 
「じゃあさ、あれは?」

 指差したのは、昔に流行った怪獣のお面。
 その名がバルタン星人というなどとは、ドイツの大学卒業生にもわからない。
 流石にアスカは眉をひそめた。
 こいつ、アタシを女だと思ってない?
 
「いいわっ。おじさん、これ頂戴!」

 ニンマリ笑ってシンジに言われたとおりのお面を手にしたのは、思惑があってのこと。
 そして数分後、いやがる祭奉行の頭の上にバルタン星人の顔が乗っかった。
 
「勘弁してよ、アスカ。こんなのいやだよ」

 お奉行の威厳は台無しだ。
 しかも面白がった屋台のおじさんがバルタン星人の泣き声を伝授したものだからたまらない。
 アスカだけでなくレイまでが、シンジに向って「ふぉっふぉっ」とからかう。
 おまけに通りすがりの少年にスペシュム光線を発射されてしまった。
 もちろん、アスカの指示で「やられた〜」と演技までせざるをえない始末。
 その演技があまりにぎこちないが故に笑いを誘う。
 あげくの果てに少年に教えられたアスカがウルトラマンのお面を追加購入した。
 第3新東京市に戻っても、しばらくはこれで遊ばれてしまう。
 お奉行様は暗鬱たる気分で空を仰いだ。
 
 

 境内にようやくたどり着いたときには、お奉行様は風呂敷包みを両手に持っていた。
 何のために風呂敷を持たされたのか、その謎は解けた。
 まさかお土産を持って帰れという意味ではなかろうと思っていたが。
 もちろん風呂敷包みの中はアスカの宝物がいっぱいに入っている。
 シンジが選んでシンジのお金で買った、楽しい夏のお祭りの思い出の品。
 その中身が、他の者の目から見ればくだらぬおもちゃとかであっても。
 お面にメンコ、びっくり箱に、金魚の形の如雨露、音の出る光線銃、その他モロモロ。
 だが、それらの持ち主となった桃色の浴衣の少女は幸福感に包まれて、見るからに舞い上がっていた。
 お祭り、最高!と。
 そのアスカは神社の実物を見たのは初めてだった。
 第3新東京市には公園はあっても神社仏閣らしきものはない。
 鉄筋コンクリ造りの寺や宗教施設はあるにはあるのだが、想像していた京都奈良のイメージの建物などまるでない。
 使徒と戦っている時には周囲をゆっくりと見る余裕など欠片もなかった。
 あの、放心状態で彷徨していた時に実は彼女はお寺や神社のそばを通りかかっている。
 思い出したくもない状況だったが、本当にどこをどう歩いたのかまるで覚えていなかったのである。
 従って、ゆっくりと見ることができたのはこの神社が初めてというわけだ。
 だが、彼女にとってはお寺と神社の違いはよくわからない。
 超然としているレイにもその答は用意できない。
 そして問われた祭奉行も当惑顔。
 自分は管轄外でお寺や神社は寺社奉行の仕事だなどと、ウィットの効いた返事などシンジには不可能である。
 どちらもお賽銭をあげてお祈りするのだから始末に悪い。
 確か神社の方が拍手を打つんだよなと、シンジは必死に思い出していた。
 しかし、明確な回答は結局不要だったのである。

 がらんがらんがらんがらん!

 この晴れやかな音にアスカは吸い寄せられた。
 
「シンジっ、あれ、何っ?」

「えっ、えっと、名前はなんていうんだろ。あの、とにかく、お参りするときに…お賽銭をあげてから…だったよね?」

 訊いているのはアスカの方である。
 だが、彼女はそんなシンジに文句を言わなかった。
 お参りをする人の動きをじっと見ていたからだ。
 見るからに頼りになりそうでない祭奉行を見限って、己の眼力で真実を見極めようとしたのだ。
 その隣に同じように目を凝らしている色白の少女が立っている。

「レイ、わかった?」

「多分。でもお金がいるわ」

「そうね。ってことで、くださいな」

 お奉行様の前に突き出される白い手が二本。
 一本の掌はじっと動かず、もう一本は早くよこせとばかりにひらひらと動いている。

「ちょっと待って。5円玉がなくて…」

「はぁ?何けち臭いこと言ってんのよ。500円玉っ、よこしなさいよ!」

「そう。お兄ちゃんはケチ」

「ち、違うってば。こういうのってご縁がありますようにって」

「ご縁っ」

 縁という言葉にすかさず反応したのはもちろんアスカ。
 シンジとの縁。
 なるほど、言葉遊びか。
 しかし、それで願いが叶うならば素晴らしいではないか。

「じゃっ、5円玉。早く出しなさいよっ」

「そ、それが、ほら、みんな100円とか50円で5円って半端なかっただろ。だから…」

「アンタ、祭奉行なんでしょ!5円玉くらい用意しておきなさいよ!」

「職務怠慢」

 レイにまで睨まれれば、シンジは走るしかなかった。
 血相を変えた少年に両替を頼まれた社務所の巫女さんは笑いを堪えるのに必死だったとだけ付け加えておこう。

 がらんがらんがらん!

 やがて順番は回ってきた。
 
「私が先。だって、ファーストだもの」

「わっ、ずるい!」

 くすくすと笑いながらレイは見よう見まねで賽銭箱に5円玉を投げる。
 こういうときのしぐさと言うのはやはり血なのだろうか。
 今日はじめて浴衣を着たというのに、所作振舞に違和感がない。
 アスカとは大違いである。
 そのアスカはレイを見て羨ましくて仕方がなかった。
 つい大仰な動きになってしまい、裾が乱れたり、足を取られたり。
 草履が脱げてしまったことも二度三度。
 おしとやかな女の子になれたら、シンジも見直してくれるかな?
 そんなことを考えていると、いつの間にかレイはお参りを終えていた。
 「アスカの番よ」とせつかれて、急いで5円玉を賽銭箱に投げる。
 がらんがらんがらんがらん。もうひとつおまけに、がらんがらん。
 そして、ぽんぽんと拍手を打つ。
 
 彼女は何を願ったのだろうか。
 言わずと知れたことではあるが。



 ママ、聞いてよ。
 私が神様にお願いしたのは…もうわかってるわよね。
 でね、寝る前にレイに訊いてみたの。
 一心不乱に何をお願いしてたのかって。
 そうしたら、何て言ったと思う?
 世界平和。
 まったく、あの娘はつかみどころが難しいわ。
 でも、並べたお布団の上でね、さらっと言うのよ。
 お兄ちゃんとアスカが幸せになりますようにともお願いしたわ、って。
 で、ありがとうって言ってあげたら、でも二人が恋人になることが幸せに繋がらないかもしれない。
 その場合は、二人は別れる運命になるのねって、真顔で言ってくれるのよ。
 私、思わず枕をレイの顔に投げたわ。
 彼女も私に投げ返して。
 当然、私はさっと避けてレイを後から羽交い絞めにしたの。
 それから腋の下とか腰とかをくすぐってやったわ。
 声に出さずに爆笑するって、レイは器用な女。
 逆襲された私はそんな真似できっこないから、大声で笑ってじたばた暴れたの。
 ああ、何だか私たち子供みたい。
 あ、念のため言っておくわ。
 私もちゃんと祈ったわよ。
 みんなが幸せでありますようにって。



 貴女は小さいときから戦う訓練とかばかりで子供らしい生活をしていなかったでしょう?
 その分、今を楽しめばいいと思う。
 日本ではドイツみたいに将来をこの頃に決めてしまわないのよね。
 小さい頃の時間を取り戻す意味もあるから、存分に楽しみなさい。
 悔いを残さないようにね。
 そうそう。
 その“ジンジャ”というのは当然キリスト教じゃないわよね。
 いいのかしら。異教の神にお祈りするのは。
 もっとも、みんな観光で京都や奈良に行ってるか。
 私って堅苦しく考えすぎ?
 あ、そうそう。
 シンジ君ってクリスチャンなのかしら?
 二人の間で宗教戦争が勃発したりしない?
 日本人って仏教徒でも平気でクリスマスを祝ったり、ジンジャにお参りするのね。
 不思議だわ。
 まさに東洋の神秘。
 シンジ君と顔を合わしたら、そこのところをしっかりと問いつめたい気分。
 アスカ、通訳してね。




 いや。
 通訳してあげない。
 ふんだっ。





「何だ、これは。これだけか、アスカが書いてきたのは」

「ええ、そうよ。それだけ」

「私のことは何もなしか?」

 たった3行だけ書かれたポストカードを眺め、見るからにがっくりした顔のハインツである。
 先日、七夕の夜に数年振りに娘と言葉を交わしたのだ。
 わだかまりはほとんどなくなっている…と、思う。
 だが、それ以降、娘からは何も言ってこない。
 だったら自分からコンタクトをとりなさいとマリアに言われるのだが、その勇気はない。
 臆病者と言われても言い返せないのだ。
 ポストカードの娘はそんな父の思いを知ってか知らずか、晴れやかな笑顔である。
 今度の写真は浴衣姿ではない。
 ホットパンツにタンクトップで、頭にはお祭りで買ったウルトラマンのお面が乗っかっている。
 その隣にいる少年はおそらくシンジだろうとマリアたちは判断した。
 何故なら、彼の顔は得体の知れない怪物のお面で隠されていたからだ。
 それがバルタン星人であるなど、普通のドイツ人である彼らにはわかりようもなかった。



 その二日後、日本から荷物が届く。
 帰宅してきたハインツを待ち受けていたのはわくわく顔のシュレーダーだった。

「パパ、遅いよ!待ちくたびれちゃった」

「何だ。どうして私を待っていたんだ。ああ、キャッチボールの相手か?」

「違う違うっ。お姉ちゃんからの荷物!早く開けてよ」

「ん?マリアはいないのか?何故先に開けないんだ」

「ママはカールの相手。眠らせてるんだよ。ほら、パパ、早くっ」

「わからんな。いつもマリアが…」

「だって、パパの名前になってるから、開けちゃダメなんだって。僕、怒られちゃった」

 学校から帰り、荷物を見つけて、鋏を振りかざしているところを母親に止められたらしい。
 ハインツは恐る恐る荷物の伝票を見た。
 確かに、ハインツ・ラングレーが受取人になっている。
 こんなことはこれまでなかった。
 宛名はすべてマリアの名前になっていたからだ。
 心拍数が上がる。
 この歳になってこんなに緊張することが連続するとは想像もしなかった。
 その緊張を生んでいるのはすべてアスカが原因である。
 あの七夕の電話の時も心臓が爆発してしまうのではないかと思った。
 ハインツはじっと荷物を睨みつけた。
 新しいエンジンが出来上がったときでもここまでの緊張はもたらしてくれなかった。
 彼の描いた設計図どおりに仕上げてくれれば、問題はまったくないと自信を持っているからだ。
 だが、こと娘のことになると彼の自信など霧散してしまう。
 その時、妻の声が聞こえた。
 
「ほら、ハインツ。さっさと開けないとシュレーダーがおかしくなっちゃうわよ」

「うんっ、僕、おかしくなって、お皿ごとカツレツ食べちゃうかも」

 どうやら今宵のラングレー家の晩餐はカツレツのようだ。
 カールはちゃんと眠ったのだろう。
 マリアは腕組みをしてリビングの入り口で佇んでいる。
 救いを求めるような眼差しを送ってきた夫に、マリアはつんと尖った顎を向けた。
 
「孤立無援か。まさか、爆発なんかしないだろうね」

 冗談のつもりだろうが、少し声が震えている夫が可笑しい。
 ハインツは箱の前に蹲った。
 みかん箱くらいの大きさだが、ここはドイツ。
 ドイツでは何と表現したものか。
 とりあえず、じゃがいも箱とさせていただこう。
 そのじゃがいも箱はガムテープで封じられ、さらに紐掛けされている。
 
「はい、パパ。鋏」

「う、うむ、そうだな、鋏がいるな」

「シュレーダー、ママのところにいらっしゃい。危険かもしれないから」

 びくんとハインツの背中が動く。
 そして、酷い冗談だといわんばかりに肩越しにマリアを睨みつける。
 マリアは肩をすくめて、素知らぬ顔。

「大丈夫さ、パパ。この間、仲直りしたじゃないか」

「そ、そうだな。仲直りしたものな、アスカとは」

 男らしく笑ったつもりだが、その笑顔が微かにひきつっていることをマリアは見逃さない。
 やっぱりこれを用意していてよかったと、彼女は隠し持っているあるものをしっかりと握りしめた。
 
「よし、切ったぞ。シュレーダー」

「やったね、じゃ次はテープだよ」

「よし、任せておけ」

 これでは親子の次元が同じではないか。
 しかも息子の方に。
 マリアはおかしくて仕方がない。
 こういう性格だからこの人は可愛いのだ。
 さて、では場所を移動して箱を開けるときの表情が見えるように…。

「よぉし、開けるぞ、シュレーダー」

「わくわくするね、パパ」

 じゃがいも箱の蓋を開けると、そこにはまた箱があった。
 但し、その箱の天面は固く紐で縛られている。

「なんだ?これも切らないといけないな」

 ハインツは鋏を手にした。
 そして、箱に食い込まんばかりに緊縛されている紐を切った。
 その瞬間である。
 勢いよく箱が開いたかと思うと、中なら何かが飛び出してきた。
 言葉では表現できない奇声を上げて。

「うわっ」「ふへぇっ」

 ドイツ、ミュンヘン、その郊外に住まうラングレー家の父と子が揃って尻餅をついた。
 あまりの驚きにマリアがコンパクトカメラのシャッターを押したことに気付きもしていない。

 中から飛び出してきたのは、蛸のお面をつけた人形だった。
 びっくり箱の応用で蓋を開けると飛び出してくるように仕掛けたのだ。
 もちろん、その悪戯が浮かんだのは、夏祭りの屋台で買ってもらったびっくり箱に相違なかった。 





「はい、アスカ。ドイツからみたいだよ」

「はぁ?みたいって何よ、みたいって」

 ソファーに沈没していたアスカがまるでバネ仕掛けの人形のようにぴょんと飛び上がるや否や、早速シンジに絡みつく。
 部屋の中はエアコンをぎんぎんに利かせておらず、若干涼しいかと感じる程度。
 
「だって、僕には英語とドイツ語の見分けつかないから…」

 頭を掻きながらエアメールを差し出す。
 
「勉強しなさいよ、そんなんだったらドイ…海外に行った時に困るでしょうが」

 そう言いながらずんずんと迫ってくるのは、もちろんエアメールを入手せんがため。
 因みにシンジの秘密を教えよう。
 彼はこっそりドイツ語を勉強中だ。
 当然であろう。
 愛する女性の母国の言葉なのだ。
 いつまでも、バームクーヘンのシンジではない。
 もうひとつ因むと、彼が真っ先に覚えたのは“Ich liebe Dich.”である。
 毎日毎夜、アスカの部屋に向かって鸚鵡のように繰り返していることを彼女は当然知らない。
 もし知っていれば、“Ich Dich viel mehr!!”と叫んでいただろうから。

 
「はは、でも僕パスポート持ってないし」

 アスカはエアメールをつまみあげた。

「アンタ馬鹿ぁ?アタシたちみたいな未成年者は身分証明書の代わりになるからパスポートくらい持っとくのがふつ〜よ」

 普通は学生証でことは足りる。
 だが、アスカの真意はドイツにシンジを連れて行きお披露目することにあり、それが故にパスポートは絶対必需品となる。

「そうかぁ、じゃ、ぼ、僕もパスポートを持っておかないといけないよね」

 シンジの真意も同じだ。
 もしアスカがドイツへ帰ってしまったら追いかけていかないといけない。
 そうなると、パスポートは絶対必需品だ。

「なぁんだ。今日のはえらく可愛げのない封筒つかっちゃって…」

 アスカの言葉が止まった。
 差出人の名前を見たから。
 ハインツ・ラングレー。
 
「どうしたの?」

「シンジ、アンタが開けてよ」

「へ?」

 こんなことは初めてである。
 よく見るとアスカの表情が強張っている。
 シンジはサードインパクトのおかげで彼女と父親との確執を知っていた。
 だからこそ、鈍感な彼でも察しがついたのだ。

「もしかして、お父さんから?」

 いつになく素直なアスカはこくんと頷く。

「いいの?僕が開けて」

「ど、どうせ、中は読めないでしょ」

 その通りである。

「読めないけどさ、でも…」

「べ、別に、怖いとかそういうのじゃないわよ。ほ、ほら、びっくり箱を仕掛けたでしょ」

 『止めようよ』というシンジを脅して仕掛け作りに協力させたのである。
 だからシンジもそのことはよく承知していた。

「それの仕返しだったらどうするのよ。よくあるじゃない。カミソリを仕掛けてるとか」

「ええっ、じゃ僕にやられろってことなの!」

「ば、馬鹿ね。そんなのパパが仕掛けてるわけないじゃない!
 それとも封を開けたら白い粉が舞い散って、あっという間に血を吐いて倒れるとか」

「ちょっと待ってよ。アスカのお父さんってそんなことするの?」

「馬鹿っ!するわけないでしょ!」

 いったいどっちなのだ。
 シンジはいい加減阿呆らしくなってきた。
 忍耐強く見られる彼だが、意外と気は短い。

「開ければいいんだろ、わかったよっ」

 開けた。
 びりっと破って。
 あっさりと。
 開けた瞬間にアスカは思わず一歩進んで二歩下がる。
 まさか本当に何かの嫌がらせがされているとは思いもしないが。
 シンジは封筒に指を入れ、中身を引っ張り出した。

「はい。中に入ってたのは、手紙と…写真?」

「写真?」

 ずずいっとアスカが迫り来る。
 そしてシンジに並ぶようにして、その手の中の写真を覗きこんだ。
 そこに写っているのは、すってんころりと尻餅をついているハインツとシュレーダー。
 その姿勢から表情までもそっくりだ。

「えっと、お父さんと弟さん?」

「うんっ。可愛いでしょ、シュレーダー」

「これって、びっくり箱を開けたときかな?誰が撮ったんだろ」

「ママに決まってんじゃん。でも、上手く撮ったわねぇ。悪戯のこと教えてなかったのに。さすがは、ママねっ」

 その時、アスカは今の状況に気づいた。
 二人で顔をくっつけるようにして一枚の写真を見ている。
 急に恥ずかしくなった。

「アタシへの手紙なのっ」

 それだけ言うと、封筒ごと引っ掴んで自分の部屋に退場した。
 取り残されたシンジは少し呆気にとられ、そして破顔する。
 とにもかくにも、アスカの機嫌がいいという事は素晴らしい。
 おそらくはあの機嫌は持続するだろう。
 シンジはよしっと自分に気合を入れて、食堂に向った。
 今宵はいつもより美味しい晩御飯にしてあげようと誓いながら。





 親愛なるアスカ。
 こうしてお前に手紙を書く日が来るとは思いもしなかった。
 私はそれを嬉しく思う。
 ああ、最初に告げておかねばならない。
 私は手紙が苦手だ。
 いや、うまく書けないのだ。
 しかも私信など何年も書いていないので、なにやらビジネス文書にしか見えないような気がする。
 初めての手紙がこんな乱文乱筆のもので、本当に済まないと思う。
 だが、あれには驚いた。
 爆弾が入っているのではないかと冗談を言っていたので、余計に驚いたのだ。
 おお、邪推しないで貰いたい。
 お前を疑ったり、変な目で見たわけではないのだ。
 つまり、何と言うか…、ああ、上手く文章にならない。
 マリアなら上手く書いていると思う。
 私はダメだ。思っていることを表現できない。
 あの、びっくり箱のオバケはシュレーダーに取り上げられてしまった。
 あいつはお前から送ってきたものは全部宝物のようにしている。
 みんなお前のことが大好きなのだ。
 そうだ。贈り物をありがとう。感謝する。
 フウリンと呼ぶと書いていたな。
 風の鈴。
 なるほど確かにいい音がする。
 私はあれをオフィスに持っていった。
 だが、エアコンの風でフウリンは鳴りっぱなし。
 周りから文句が来て、すまないが私は負けてしまった。
 仕方がないので、風の通らないパソコンの脇に小さなスタンドを作って飾っている。
 時々、自分の息でちりんと鳴らしているのだ。
 これには誰も文句を言わさない。
 遥か彼方の地にいる娘からのプレゼントなのだ。
 愛する娘からの。

 心からありがとう。

 お前の父、ハインツより



 追伸

 あの写真は情けなく、恥ずかしいのだが、マリアはお前に送れと言って聞かない。
 仕方なく同封した。
 できれば、捨ててしまってくれないか。
 
 最後にお願いがある。
 お前の写真を送って欲しい。
 デスクに飾りたいのだ。周りの連中に自慢をしたい。
 できれば、あのキモノを着ているのがいい。
 すまないが、お前ひとりで写っている写真がいい。
 別に彼に含むところはない。
 誓って言う。そんな気持はないのだが、できればお前一人の写真でお願いしたい。
 
 変な手紙で申し訳ない。
 我ながら下手な手紙だ。

 アスカと、お前の友達たちに幸福を。




 アスカは、丁寧に手紙を封筒に戻した。
 そして捨てて欲しいといわれた写真を机の真正面に置く。

「誰が捨てるもんですか」

 写真を見て微笑む彼女は引き出しを開けた。
 そこに入っているのは温泉地で撮った写真である。
 シンジが相田ケンスケから借りたカメラで撮ったものだ。
 アスカ一人で写っているものは結構な数がある。
 その数の多さがシンジの愛情を示しているのだが、そこの部分にはアスカの気は回っていない。
 もとより、同じ数の写真がシンジの部屋に隠匿されていることも知るわけがない。
 
「ホントに酷いわよね、シンジと一緒の写真がダメだなんてさ。パパってすっごくエゴイストでサディストかも」

 確かに父が自嘲しているように物凄く堅苦しい手紙だ。
 だが、アスカにはそのことでさえ嬉しかった。
 苦手な手紙を自分に書いてくれた。
 よし、すぐに写真を送ろう。
 彼女は引き出しの中の写真を見つめ、そしてニヤリと笑い立ち上がった。



 愛するパパ。
 写真を送ります。
 残念ですがパパの要求通りに、一人で写っている写真にしました。
 でも、選んでくれたのはシンジなの。
 パパに送るから一番いい写真を選んで頂戴って頼んだら、なんと3時間よ。
 部屋に篭って3時間もかけて選んでくれたの。
 いいえ、眠ってたんじゃないわ。
 私は廊下で立ち聞きしてたもの。
 写真を選っている音や、ぶつぶつ独り言を言っている声が聞こえたの。
 そして、選んでくれた写真には私も大納得。
 お願い。
 ちゃんとデスクに飾ってね。

 パパとみんなに素晴らしい明日が来るように。

 追伸
 
 その写真の私が何を思っているかわかる?
 あの時、シンジがシャッターを押した時、私はちょうど彼のことを思ってたの。
 大好きよって。ああ、恥ずかしい。
 ということは写真の私が微笑んでいるのは、シンジに向ってってことになるの。
 もし、そんな写真がいやなら別のを送ります。
 ただし、その写真は浴衣でもなく、あっかんべ〜と顔を歪めているものになるはずです。
 でもそれはまぎれもなく、パパに向けられているのよ。
 こっちにする?
 どうする、パパ?

 あなたのアスカより



 

<おわり>


 

 

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<あとがき>

 

  8月のお話でした。
  まずはごめんなさい。
  前のお話のあとがきで怪談モノという予告をしていましたが、そこまで話を広げられませんでした。
  夏祭りの次の夜にきもだめしをしたという設定だったのですが。
  これは来年回しかな?(おい)
  今回の手紙は難しかったですね。
  ビジネス文書臭いハインツのと、フランクに書こうとするけどところどころで堅苦しくなるアスカの手紙。
  もっと文章修行しないといけないと気を引き締めさせられました。
  因みにラングレー家へのお土産とゲンドウへのお土産は、アスカとレイが次の日に買いに行きました。
  今度は私服で、もちろん自分のお金でです。
  本文中に書けなかったのですが、ゲンドウは唖然としました。
  まず、アスカからのお土産が何の変哲もないご当地名産の温泉饅頭の詰め合わせだったから。
  何か仕掛けているのではないかと疑ったわけです。
  そして、レイのお土産は…。
  ピグモン(ガラモンでもいいけど)のお面です。
  これで俺に何をしろというのだと瞑目したことでしょう。
  さあ、来月は…。どうしましょう?(笑)


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