『ねぇ、ママ。
 今年のバレンタインデーはこんな程度だったけど、来年はちゃんと日本流でやり遂げてあげるんだから。
 覚えておいてよね、この一年で絶対に彼を私に夢中にさせるの。
 本当の戦いはこれからなのよ!』

 

 


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2006.09.13         ジュン





 ママ、日本人って不思議。
 月を見て楽しむんですって。
 “Otukimi”って言うの。
 意味は“Die Mondlicht-Gesellschaft”。
 わかる?ちょっと意訳しちゃった。
 つまりね、何をするかというと…。
  


 
愛するアスカ。
 日本人って本当に不思議。
 月を見て楽しむのですって?
 私には理解できません。
 それに月の模様が“Reiskuchen stampfende Hasen”ですって?
 ウサギはわかるけど、“餅”ってよくわからないわ。
 ライスを団子にした、あの“おにぎり”という代物とも違うのでしょう?
 インターネットでの画像を見るとマシュマロのように見えるけど…。
 ごめんなさい。食べてみたいとも思えないの。
 なんでもチャレンジしたがるシュレーダーは食べてみたいって言ってたけどね。
 そうそう、月の模様についても調べてみました。
 本当に模様が違うのね。
 びっくりしました。
 早速、シュレーダーは自由研究の題材にするって目を輝かせていたわ。
 最近のあの子は“東洋の神秘”って題目の自由課題ばっかり。
 まあ、向学心の役には立っているみたいね。
 もっとも、あの子の本心は愛するお姉さまの住む日本のことをもっと知りたいってだけかもしれないけど。
 やっぱり、そのお餅というものを送ってもらえるかしら?
 
 親バカのマリアより
 
   





 その手紙を読んだとき、アスカはすぐさまお餅の発送について取り掛かった。
 正直言って食べたことはあるが…、いや、けっこう彼女はお餅が好きだ。
 ことに焦げる寸前までかりかりに焼いた餅を砂糖醤油で食べるのが…。
 いや、ぷにゅっと柔らかになった餅をぜんざいに入れて…。
 しやそれよりも…。
 ともかくお餅はアスカの好物となった。
 
「あまり食べ過ぎるとお餅みたいになっちゃうよ」

 などとシンジに言われてもどこ吹く風。
 いや、言われたその場は。
 シンジの目が届かない場所に移動した途端に、アスカは大騒ぎを始めた。
 洗面所に入るとまず扉に突っ支い棒をする。
 そして洗面台の横にさりげなく置いている体重計を床にでんと据える。
 その後、大きく深呼吸を二度三度。
 そろりと左足を体重計の上に置く。
 続いて右足をその横にそろえた。
 次に顔を俯かせる。
 もう一度深呼吸。
 そしてようやく薄目を開ける。
 当然、薄目でメーターは確認できない。
 再度、深呼吸。
 くわっと目を開いた。
 声なき絶叫がぴしぴしとバスルームのくもりガラスを震わせた。
 まずいまずいまずい、これはまずい。
 ルパン三世も顔負けのスピードでアスカは真っ裸になる。
 そしてもう一度、体重計に乗った。
 息をも忘れてデジタルの数字を確認する。
 5秒後、彼女はオールヌードのままで体重計に腰を降ろしていた。
 頭を抱えて。
 そうよ!アタシは成長期なのよ!
 喜色を浮かべ拳を天井に突き上げる。
 だが、アスカは唇を尖らせて自分の胸を見下ろした。
 穢れを知らぬ純白の山の頂に(以下略)。
 その乳房を両の掌で押さえてみる。
 アスカゴッドハンドセンサーはここ数日の数値に増減がないことを確認。
 このセンサーは超アナログではあるが、かなり精度がいい。
 そのセンサーの数値と体重計の増減した値を(減ってはいないことは確かだ)比較してみる…までもない。
 ゆっくりと立ち上がった彼女はアスカゴッドハンドセンサーを恐る恐る腰に。
 再び、声なき絶叫。
 太った。
 間違いない。
 成長して欲しい部分ではなく、逆に引き締めたい部分に肉がつく。
 最低…。
 絶望と悔恨の最中、最悪のタイミングでのほほんとした声。

「アスカ、お風呂まだ上がってない?」

 般若の如き形相で扉を睨みつけ、呪詛の言葉をなげかける。
 こういう時のボキャブラリーはまだ日本語では物足りないのか。
 心の中の叫びは全てドイツ語であった。
 そう、いまだアスカは声を出していない。
 これが無声映画であったなら、画面いっぱいに読みきれないほどの分量で悪罵が書き連ねられていただろう。
 彼女は音をさせないようにバスルームにそろりと裸身を移動させる。
 慎重に蓋を開け、慎重に湯を桶にすくい、慎重に床にぶちまける。
 白い湯気が浴室に少しずつ湧き上がり、アスカはほっと溜息を吐く。
 そして、シャワーを勢いよく迸らせた。
 当然、水温はまだ水に近いからその飛沫には身を任せたりしない。
 バスタブに腰を下ろして、アスカゴッドハンドセンサーで腰の辺りや太腿をチェックしている。
 ぶつぶつとひとりごとを言いながら。
 内容的には成長期なのだから許容範囲内だとかそういった類のこと。

「おお〜い、アスカぁ。手を洗いたいんだけど…」

 アスカは眉を顰めた。
 口実にしても馬鹿らしすぎる。
 手なら台所でも洗えるではないか。
 
「お〜い、いませんかぁ?眠ってるのかなぁ。入るよ。覗いたりしないから…。あれ?」

 突っ支い棒のおかげで扉はガタガタと音を立てるだけ。
 アスカはすぅっと息を吸い込む。
 何故かわからないが、シンジを相手にするならばハイテンションでなければならない。
 それが自然なのだ。
 彼女は自分とシンジを隔てている2枚の扉も砕けよとばかりに大声を張り上げた。

「アンタ馬鹿ぁ?!洗うんだったら台所ですればいいでしょっ!それとも覗きが目的ぃ?
 えっち!すけべ!ちかん!へんたいっ!」

「ち、違うよ。そんなんじゃないってば…」

 ばたばたばたと足音が遠ざかっていく。
 もちろん、シンジに風呂覗きをするという勇気はなかった。
 ただし、はっきり言おう。
 覗きはしないものの裸のアスカの少しでも近くに行きたかったという意志は絶対に否定できない。
 だからこそアスカの罵声を背に慌てて逃げていったのである。
 彼女は別の種類の溜息を吐いた。
 そして、ドイツ語で呟いたのであった。

Du Angsthase. Du kannst mich fangen. Ich wuerde mich nicht allzu stark erwehren. Idiot...
  いくじなし。      襲ってもいいのに。       必要以上の抵抗はしないわよ、馬鹿。


 シャワーを止め、その場でアスカは力なく仁王立ちした。
 さて、改めてシャワーを浴びるべきか、それとも湯船に身体を沈めるべきか。
 しばらくその姿勢でいると、アスカゴッドハンドセンサーが機能し始める。
 センサーが位置するのは腰。
 ぷにょぷにょぷにょ。
 微妙に分厚くなっている…ように感じる。
 さらに、ぷにょぷにょぷにょ。
 そこでアスカはふと考えた。
 どうして人に触られるとこそばゆいのに、自分で触るとまったくどうってことがない。
 不思議なものだ。
 その時、何か遠い記憶がふいに甦ってくる。
 胸の奥が温かくなるような感覚。
 同時に男の声が。
 おそらくつい先日、数年ぶりに会話をしたからだろ。
 サードインパクトまではその声音は冷たく、彼女にとっては思い出したくもない声だった。
 だが、今は違う。
 双方ともにぎこちなくはあるが、誤解は解け、実の父と娘としての関係を修復中なのだ。
 その父の声が甦ってきたのである。

Asuka. Du liebst das huh?

 父はいつもそう彼女に言っていた。
 Asuka. Du liebst das huh? アスカはこれが好きだなぁ。
 そうだった。
 アスカはこれを父にしてもらうのが大好きだったのだ。
 180cmを優に越える身長の父に持ち上げてもらう。
 するとその父の頭を越えて、その向こうに知らない景色が広がる。
 いつもの自分の目の高さとはまったく違う景色がそこにはあった。
 まるで赤ちゃんねと母は笑っていたことも思い出した。
 その頃のキョウコはまだ余裕があったのだろう。
 常冬の国ドイツでもたまに陽がさんさんと降り注ぐ日もあった。
 そんな時、近くの公園に親子でピクニックに赴いた。
 まだ3つにもならないアスカは芝の上を走り回り、そして両親にじゃれついた。
 
Kannst Du bitte mich hochheben?
   たかいたかいして!


Asuka. Du liebst das huh?
   アスカはこれが好きだなぁ


Ja,ich liebe es total!!
   アタシ、たかいたかいだ〜いすきっ!


 何よ…。
 アスカはぐっと天井を見上げた。

 幸せを絵に描いたような家族だったんじゃないさ。
 馬鹿…、馬鹿アスカ。
 こんな素晴らしい思い出を忘れちゃって。
 ホントに馬鹿。
 
 彼女の頬を一筋の雫が伝った。
 それがアスカには不服だった。
 自分は泣き虫ではない。
 決して、ない。
 だから、この涙を隠そう。
 彼女はシャワーのコックを捻った。





 翌日。
 アスカとシンジはドイツに送るお餅のことで喧々囂々。
 クール特急便はドイツまで何日かかるか。
 いや、そもそもクールにしたらいけないのではないか?
 ではどんな餅を選べばいいのか。
 真空パック?それとも搗きたて?

「アンタ日本人なんだからちゃんと知っていなさいよ!」

「そ、そんなぁ、そんなの無茶だよ。アスカだってソーセージのつくりかたとか知らないだろ」

「はっ、甘いわね、馬鹿シンジ。い〜い?ソーセージと言ってもね、その種類は…」

 ソーセージで切り返えした自分が浅はかだった。
 アスカは実に碩学である。
 シンジはそう信じた。
 何しろアスカは大学を卒業しているのだから。
 だが彼は知らなかった。
 大学では何から何まで、すべてを学ぶものではないということを。
 工学部とか経済学部といった名前は知ってはいたのだが、漠然と中学の延長線上でしか考えてなかったのだ。
 現在家事について猛勉強中のアスカが自国の代名詞の一つであるソーセージについて学習していたのは当然だろう。
 そして、覚えたことを自慢したかった、それも当然。
 その薀蓄を碩学と誤解したわけだが、アスカは珍しく彼の間違いを正した。
 いつもならシンジに褒め称えられたことでいい気持になるだけで済ましている。
 それが何故?
 彼女には目論見があったのだ。

「そうなんだ。大学ってあれこれ勉強するんじゃないんだ」

「あったり前じゃない。専門的なことだけ。広く浅くじゃ意味ないのよ」

「ふぅ〜ん、じゃ、アスカってどんな勉強を…」

 違う違う違う。そっちじゃないわよ、馬鹿。

「聞きたいの?絶対に眠くなるわよ。それでもいい?」

「あは、じゃ止めとく。でも、本当に凄いんだなぁ、アスカは」

 むずむずむず。
 天狗の鼻がどんどん伸びていきそうになるのを彼女は必死で押し止めた。
 アタシはピノキオなんかじゃないわよっ!
 
「はっ、何を今さら。でも、案外専門的な事の方が簡単な場合もあんのよ」

「えっと…。どういう意味?」

 無理矢理に話を自分の望む方向に捻じ曲げる。
 何しろ彼女には大いなる目的があったのだから。

「そうねぇ、例えば語学なんてどおっ?」

 さりげなく喋ったつもりだったが、語尾に力が入ってしまったのはご愛嬌。
 だが、問われた方のシンジもあの父と母の間に生まれた子供にしては面の皮が薄い。

「え、え、えっ、語学ってドイツ語?」

 そこまではアスカは突っ込んでいない。
 無論、彼女の目的はそこに話を展開していくことにあったのだから、彼の返答は渡りに舟。
 だから、シンジがいきなりドイツ語かと先走ってしまった理由について考えることはなかった。

「そ、そうね、ドイツ語の会話を例にしても全然問題ないわっ」

 今回は思いのほかスムーズに話が進んでいる。
 いつも、いつも、いつも、予想外の方向に話が展開していき、期待通りの終結にはなっていないのだ。
 だが今日はどうも巧くいきそうな予感がする。

「知らない語学の勉強をするのって大変なのよ。
 電子物理学とか量子構造学とかそんなのの方がよっぽど簡単なのよ!」

「えっ、そんなに難しいのっ」

 シンジの顔色が変わった。
 
「ま、バームクーヘン程度のアンタにはわかりにくいかもしれないけどさ」

「酷いや、そんなの。ずっと前の話じゃないか」

「ふぅ〜ん、じゃ、今は?」

 シンジは慌てて口をつぐんだ。
 真っ先に飛び出してきそうになったのが、“Ich liebe dich.”。
 毎日毎晩アスカの部屋に向かって囁いているのだ。
 彼としてはバームクーヘン以上の大事なドイツ語なのである。
 危うく誘導尋問にのせられて口走りそうになった。

 ダメだ。まだ、早い。
 こんなことを口にして嫌われたら大変だ。
 アスカは僕のことなんてどうせ兄弟か何かみたいにしか考えていないんだから。

「え、えっと、ぐーてん・たぁく」

 “こんにちは”程度でシンジは胸を張った。
 『猿でもわかるドイツ語会話辞典』の1ページ目に書かれている言葉である。
 
「変な発音。Guten Tagじゃない。それにそれはバイエルンじゃ通じないわよ」

「えっ、そんな!」

 シンジは『お猿でもわかるドイツ語会話辞典』を取りにいこうとし、何とか思いとどまった。
 あんな本で勉強してるだなんてアスカに知られたくない。
 何しろイラスト満載、それにドイツ語にはすべてカタカナでルビを振られているのだ。
 アクセントも発音もあったものではない。
 まずは片言でもいいから、そこからはじめようというシンジらしいその場しのぎのような考え方である。
 因みにアスカは英語の時も日本語の時も、読み書き聞き取り発音、きちんと学習している。
 完璧主義者の彼女らしいやり方だ。
 但し、その会話の先生にしたのがいささかがらっぱち気味のおじさんだったのが、今となっては後悔して余りある。
 周囲からしてみると、アスカの性格にとてもよく似合った喋り言葉なのだが、
 さすがに花も恥じらう14歳、もっと美しい日本語が自分には似合うのだと確信している。
 もっともおしとやかだと、そこまでは思っていない。
 あくまで内心では、だが。
 
「バ、バイエルンって、アスカが住んでいたところだよね。えっと、ほら、あそこ。ええっと、スイスに近いところ」

「くわっ、スイスがバイエルンに近いのっ!逆さまっ!」

 郷里のことを変に言われると何故か腹がたつ。
 これはアスカに限ったことではない。
 誰しもがそうだ。

「あ、そうなんだ。ご、ごめん」

 雲行きが怪しくなってきた。
 慌ててシンジは場を取り繕おうとした。

「で、でもさ、バイエルンってドイツ語じゃなかったんだね。知らなかった」

 1,2,3,4…。
 アスカはわざと日本語でカウントをとった。
 次に、英語で10まで。
 そして、ドイツ語で50まで数えた。
 
 こいつは馬鹿シンジなのだ。
 こっちを怒らせようとして、こんな馬鹿げたことを喋っているんじゃない。
 その証拠にこの思い切りおろおろしている様子を見ればいい。
 落ち着くのよ、アスカ。

 シンジは黙り込んで自分を睨みつけているアスカに戦々恐々だった。
 おそらく自分はとんでもないミスをしたに違いない。
 バイエルンはドイツ語ではないという一言。
 でもドイツ語の“ぐうてん・たぁく”が通じないって言うんだから…。

「あのね、馬鹿シンジ」

「は、はいっ」

 ようやく出てきたその言葉が物凄い低音。
 シンジが姿勢を正したのは当然だった。

「鈴原のヤツが礼を言う時何て言う?」

「お、おおきに…?」

 恐る恐る言った答にアスカは何の反応も示さない。
 ただじっとシンジを見つめるだけ。
 その視線にたじたじとなりながらも、シンジは考えた。
 答自体は間違っていないはず。
 ということは…。

「あ、わかった。方言なんだねっ」

 その瞬間、アスカの眉がくいっと上がった。
 これがシンジの悪いところだ。
 素直というか、考えなしに言葉を発する。
 しかし、この答は間違ってはいない。
 言い方が悪いだけだ。
 アスカは露骨に盛大な溜息を吐いた。

「正解。けっ、ど〜せ、方言よ、ふんっ」

 悪態付きのジャッジにシンジはまたもやしまったという顔になる。

 そう言えば、トウジは「関西弁がほんまの標準語やんけ」と言っていた。
 ああ、しまった。
 ど、ど、どうしよう。

「あ、あのさ、つまり…」

「もういいわよ、間違いじゃないんだし。腹立つけど」

 一言多いのはアスカの証し。
 その一言でシンジがさらに沈む。
 落ち込んだときの癖で顔を俯けてしまう。
 
 あちゃぁ、またやっちゃった。
 でもさ、シンジが悪いんだもん。
 それにアタシはそもそも方言だなんて思ってないのよっ。
 それをアンタのために折れてやってんじゃないっ。
 で、でも、ダメよね。このままじゃ。
 
「え、えっとね、バイエルンじゃGuten Tagでなくて、Gruess Gottって言うのよ」

「そうなんだ」

 答えながらも視線はまだテーブルの上。
 アスカはもう一押しすることにした。

「ほら、言って御覧なさいよ」

「う、うん。ぐる…ごっ…?」

「Gruess Gottよ。ぐりゅぅすごっとぅ」

 シンジが発音しやすいように、ゆっくりと、そして少しシンジ風に日本語っぽく口にした。

 こいつは無器用なんだから、徐々に慣らしていくしかないのよ、うん。

「ぐ、ぐ?」

「ぐりゅぅす」

「ぐりゅ〜す?」

「ごっとぅ」

「ごっと?」

「続けて。ぐりゅぅすごっとぅ」

「ぐりゅ〜すごっと」

 嬉しいことにシンジは真剣に応じてくれた。
 しばらくすると、Gruess Gottとまではいかぬまでも、グリュゥスゴットゥくらいまでは進んだ。
 内心、アスカはガッツポーズ。
 計画の進展とは異なったが、目的以上の結果ではないか。
 もともとは、シンジにドイツ語を学ぶ気があるのかどうかを確かめたかっただけだ。
 もしその気がないのなら、アスカのこともそれくらいにしか考えていないということになる。

「も、もしさ、あのさ、えっとね、アンタが…その、何よ、ほら、わかるでしょ」

 残念ながらそこまでの洞察力がシンジにあるわけがない。
 身体もすっかり馴染んだ夫婦ではないのだから。
 ツーといえばカー、などという芸当は不可能だ。

「ご、ごめん。何?」

「そ、その、つまり、ドイツ語を…」

 ごくりと飲み込んだシンジの喉の音は緊張するアスカの耳には届いていない。

「教えてあげてもいいわよっ。一日ひとつくらいなら、アンタみたいなど〜しようもないヤツにもなんとかなるんじゃないの?」

 どうしてこういう感じに悪態つきならすらすら出てくるんだろうか?
 アスカは自分の日本語能力を呪った。

「え。ど、どうしようかなぁ?」

 シンジは途惑った、ふりをした。
 心の中では、躍り上がって、創作ダンスでも披露したいほどの感激を受けている。
 しかし、その思いを隠さなければという気持と照れが彼を芝居に誘った。
 その反応を見てアスカがかなりがっかりしたことなど彼は知る由もない。
 
「一日一個くらいだったら、ぼ、僕でも大丈夫だよね」

「だ、大丈夫じゃないの。で、するの?しないの?どっち?アタシはこう見えても忙しいんだからっ」

 つい凄んでしまうアスカに、シンジは慌てて返事をする。
 それがまるで脅されて賛成したかのように見えることなど気づかずに。

「あ、う、うん。する、するよ」

 結果の割りにアスカの心は晴れない。
 これでは、シンジに強要しているのではないか。
 本当はシンジの気持ちを知りたかっただけなのに。

「OK。じゃ、挨拶とかそういうのを教えてあげるわ」

 アスカの落胆はシンジには見えない。
 もっともそんなものが洞察できる二人ならとっくの昔に恋人同士へとステップを踏んでいただろう。
 自分のことで手一杯なのである。
 だから、シンジはさらに駄目押しをしてしまった。
 あくまで自分の照れを隠すためにだ。

「ほ、ほら、アスカの家からかかってきた電話とかで困るじゃないか。だから覚えてもいいかなって」

 照れ笑いの彼に、アスカはさらに落胆する。
 それだけのことかと。
 だが、やはり少しは嬉しい。
 彼との距離がちょっとは縮まったような気がするから。

 アホか、お前らそれ以上どうやって縮まろ言うんや。

 鈴原トウジがナレーションを担当していれば、必ずそうぼやいたことだろう。
 周囲の目の方が正しい評価。
 ただし、本人たちがそう感じない限り、二人の仲は進まない。
 むしろ、逆に一気に破局へと向ってしまう可能性も否定できない。
 男女の仲はシナリオ通りにはいかないものだ。



 さて、お餅の件。
 結果的に言うと、アスカは忘れ去ってしまったのだ。
 何故なら、とんでもないことがおこったからだ。

 ハインツ・ラングレー、来日。

 その知らせがもたらされたのは、碇ゲンドウ宅から帰宅したときだった。
 レイはもとより、ゲンドウやリツコともども晩餐を楽しんだ。
 リツコとレイの手料理を。
 凄く旨いとは言えないものの、間違いなく上手になってきている。
 その料理を食べながら、いつしか話題はドイツに送るお餅のことに。
 何を送るか、どうやって送るか。
 リツコがミニ餅搗きロボットを送ればいいと提案し、みんなが賛同したところで完成は来年になるがと冗談を言う。
 あのゲンドウやレイまでが「ふっ」と声に出して笑った。
 それからシンジがドイツ語の会話を少しずつ学ぶことも話題になった。
 やはり親子というべきか、ゲンドウも外国語が苦手なこともリツコに暴露される。
 会議の場でも通訳がいなくても平然と日本語で押し通すらしい。
 彼は鼻で笑っていつものように「問題ない」と嘯く。
 「僕はちゃんと勉強するよ」と真っ赤な顔で息子の方は決意表明した。
 そんな彼を横目で見て、アスカはいい気分になる。
 結局そんなこんなで、お餅の件については結論が出ないままに、アスカとシンジは碇家を退去したのだ。
 胃袋と心を満腹にして。

 留守番電話機にはメッセージが入っていた。
 ドイツのマリアから。
 急いで連絡が欲しいとのことで、アスカは少し不安な気持で短縮ボタンを押した。
 するとどうだろう。
 ハインツが日本に行くとのことなのだ。
 あまりのことにアスカは声を失った。
 黙り込んでしまった彼女を見てシンジは怪訝な顔。
 しかもその耳から離れた受話器からドイツ語が聞こえてくる。
 もしかすると悪い知らせかと彼は気もそぞろで。そして大きく頷いた。
 彼女を支えるのは自分だ。
 あの時と同じ間違いはおかさない。
 シンジは意を決して歩み出た。
 彼は気がついていないが、いつもの“逃げちゃダメだ”も“掌にぎにぎ”もなかった。
 それが彼の成長を物語っていたのだが、本人の自覚もない上に今回は肩透かしに終わってしまったのである。

「アスカ?」

 声をかけられて、彼女は息をすぅっと吸い込んだ。
 それまで呼吸も忘れていたのである。

「何かあったの?ねぇ、アスカ」

 重ねて問いかけるシンジにアスカはうんうんと大きく頷く。
 そして、手にした受話器からマリアの声が漏れていることに気づいた。
 驚きの声を上げ、慌てて持ち直しまるでマシンガンのようにドイツ語を喋りだす。
 その表情に切迫感がなかったために、シンジはひとまず安心した。
 だから元の席に戻って彼女を見守った。
 よくもまああんなに表情豊かに、そして息継ぎなしで喋れるものだと彼は感心していたのである。
 しばらくしてアスカは受話器を置いた。
 その後、彼女はシンジに状況を説明した。

 父親が日本を訪れるということを。
 しかも2日後に。

 香港で開かれる新規プロジェクトの会議に急遽ハインツの参加が決まった。
 当初は開発部長が出席するはずだったが、持病のために緊急入院することになった。
 そのためピンチヒッターとしてプロジェクトの骨子の一つである新エンジンの設計者である彼に白羽の矢が立ったのだ。
 ハインツはドイツと香港を往復するだけのつもりだった。
 もちろん、それはまだぎこちない娘との関係がそうさせていたのだが、
 その予定を変えさせたのがマリアとシュレーダーだった。
 会いたいのか会いたくないのかという二者選択の答を迫られ、無論会いたいと答えさせられてしまう。
 しかし、こちらでの予定も向こうでの予定も一杯で、とてもではないが日本に寄るなど不可能だとハインツは主張する。
 だがその主張もマリアが覆した。
 夫のスケジュールと飛行機の時刻表を照らし合わせ、行きの行程ならば何とかなると結論を出した。
 ミュンヘンから第3新東京国際空港への直行便に乗り、そこから香港へ飛ぶ。
 そのインターバルは6時間。
 それならば食事をして話も充分できる。
 照れまくる夫を叱咤激励し、交通費の差額を自己負担することで会社とも話をつけた。
 その上でアスカに連絡をとったのである。
 
Kannst Du sicher Heinz erkennen?
 ハインツの顔わかる?

Natuerlich. Ich hab das Bild geschickt bekommen. Er hat sich nicht so viel geaendert.
 写真、送ってもらってるから。昔と変わっていないみたい。

Das ist nicht wahr. Er hat schon viel mehr Falten und auch einen dicken Bauch.
 そんなことないわ。皺が増えたし、お腹も出てきてるわよ。

Denkst Du wirklich, dass ich ihn nicht erkennen kann? Hat er sich so viel geaendert?
 わからない?そんなにかわったの?

Das war ein Scherz. Keine Sorge, Ihr seid doch Familie.
 冗談よ。大丈夫、あなたたちは親子なのだから。

Du! Scherzkeks!!
 ママったら、酷い。

Ansonsten bitte pass auf ihn auf. Er wird sich bestimmt ausflippen.
 それよりあの人をお願いね。舞い上がっちゃうでしょうから。

Du sagst das noch!! Ich weiss selber nicht, aber ich wuerde auch....
 もうっ!私だって、きっと…。

 



 
 エンジントラブルだった。
 新ミュンヘン国際空港を飛び立ったのが定刻より5時間遅れた。
 その悪い知らせはアスカにも伝えられている。
 
「ふんっ、大丈夫!アタシは運がいいんだから!」

 鈍感なシンジにもそれが彼女の強がりだとわかった。
 リビングにいたたまれずに部屋に引っ込んでしまったからだ。
 彼は気が気でなかった。
 部屋の中でアスカが何をしているか、いや、どんなに悲しんでいるかがわかる。
 ベッドでうつ伏せになっているのか、膝を抱えているのか。
 気休めなど言えるわけがない。
 そんな言葉が返って彼女を傷つけてしまうことは、サードインパクトの時に身に沁みて了解している。
 自分が“よかったね”などと言ったがために、彼女の苦しみをさらに増してしまったのだ。
 アスカは何も口にはしていない。
 心を触れ合わしたことでシンジに知られたことがわかっている上に、そのことで彼が反省していることも知ったから。
 さらに言葉で彼を追い込めば逆にシンジ自身が壊れてしまう。
 サードインパクトは彼女を少し大人にしている。
 そして、シンジも。
 いや、もしかすると、ゲンドウたちをも大人にしたのかもしれない。
 本当の意味の大人に。

 アスカはひたすら待った。
 見慣れた天井を見つめながら。
 こういう時に悪い想像ばかりしてしまうのはやむをえないことだ。
 だが、彼女には救いがあった。
 それは、シンジの声だった。
 但しその声は彼女に向けられたものではない。
 10分に一度、空港に電話している声だ。
 ミュンヘンを飛び立ったルフトハンザ航空の飛行機は今どこを飛んでいるのか。
 何度も電話をかけるうちにシンジの声は恐縮度をどんどん増していく。
 おそらくは彼の性格からすれば、電話など一度でもしたくないはずだ。
 それが明らかに迷惑電話に近いことを繰り返しているのは何故か。
 それは、自分のことを…。
 アスカは違う違うと首を振り、大きく息を吐き出した。
 あれは単に自分が不機嫌なのがいやなだけだ。
 だから仕方なしにああしているだけなのだ。
 アスカは溜息を吐いた。
 こういう状況だったので余計にそんな風に思い込んでしまうのだろう。
 
 本来の到着時刻の午後3時になった。
 もちろん、飛行機はまだ空の上だ。
 
「アスカ。到着予定は7時45分頃だって」

 扉の向こうからシンジの声がした。
 
「そう。じゃ、ちょっとは早くなったのね」

 もう少し明るく言うつもりだったが、しばらく喋ってなかったためにこわばった口調になってしまった。
 これではシンジにもっと心配をさせてしまう。
 アスカは軽く舌打ちをしてベッドから起き上がった。
 鏡で顔を確認する。
 憂いのある表情をその中に見て、い〜だっと顔を思い切り歪めた。
 
 この馬鹿アスカ。
 さあ、行くわよっ!

「馬鹿シンジっ、着いてらっしゃいっ!特別にお供を許してあげるわっ」

 電灯に慣れた目にリビングに差し込む陽射しが眩しい。
 目を細めて、いつものポーズ。
 足を踏ん張り腰に手をやって、多分シンジがいるだろうリビングを見やる。

「あ、え、も、もう、行くの?1時間もあれば着くよ」

「アンタ馬鹿ぁ?レディには準備が必要なの!まずお風呂に入って…」

「わかった!準備してくる!」

 ばたばたとバスルームへ駆けていくシンジ。
 その背中を見つめ、アスカはちょっぴりぎこちなく微笑んだ。
 今日ほどシンジが一緒にいてくれることを嬉しく思えた事はないかもしれない。
 もし一人でいたならば、虚勢や見栄を張ることもなく、ただ心のままに打ちひしがれていただろう。
 彼がいるから、彼にそんな姿を見せたくないから、強気に出ることができる。
 それが元気の素になるのだ。

「1分以内にしなさいよっ!でないと、ただじゃおかないからっ!」

 アスカの叫びにバスルームから「ええ〜っ!」と悲痛な返答が。
 その声に彼女は微笑んだ。

「馬鹿シンジ。無理に決まってるでしょ。……ごめんね」



 午後7時には二人は空港に着いていた。
 もしかすると飛行機の到着が早くなるという期待も手伝って。
 淡い期待はものの見事に打ち砕かれ、到着予定は午後8時と訂正されていた。
 乗り換える香港行きの出発時間は午後9時。
 
「ねぇ、シンジ」

「何?」

「アンタ、ちょっと暴れてよ。それで、香港行きの最終便を遅らせてくんない?」

「えっ、あ、あのさ、僕が暴れてもせいぜい3秒くらいじゃないのかなぁ、遅れさせるのは」

「じゃ、電話。爆弾仕掛けたとかどぉ?」

「お父さんの飛行機がさらに遅れると思うけど」

「アンタね、こういう時だけ頭の回りが速いのね」

 その通りだった。
 自分に危難が及ぶ時、つまりマイナス的な発想はかなり早い。
 そんな自分をシンジは恨めしかった。
 大好きなアスカに情けない男だと思われるに違いないと。
 だが、今のアスカは落ち着かないままにシンジと馬鹿話をして気を紛らせるしかないのだ。
 
「どうせ、出張だからエコノミーよね。ってことは、ロビーに出てくるのは最初の方じゃないわけか」

 フライトスケジュールの掲示板を見上げてアスカは溜息を吐いた。
 
「食事どころか、お茶も無理ね。もしかしたら、入出国の手続きとチェックインだけでタイムアウトじゃないの?」

 シンジは何も言えなかった。
 彼女が気休めを求めているのではないことは承知していたからだ。
 彼は拳をギュッと握り締め、そして祈った。

 少しでも早く着いてください。
 場所だけでなく心も離れていた二人がやっと会えるのですから。

 それから二人は国際線の到着口に移動した。
 平日の夜である。
 それほどの人ごみはない。
 アスカは到着口の真ん前に立った。
 そして、そのままじっと待ち続けたのである。
 アスカはあの黄色のワンピースを着ていた。
 その姿を見て、シンジは精一杯の勇気を振り絞って尋ねてみた。
 どうしてその服なのか、と。
 すると、アスカはそっぽを向いて吐き捨てるように言ったのだ。

「この服は運のいい服なのよっ」

 当然、シンジは気分がよくなる。
 二人が出逢った時にアスカが着ていた服なのだから。
 だが照れが手伝って一言多くなるのが彼女である。

「ただ唯一の例外がアンタなのよねぇ。あれでケチついちゃったんだけどなぁ」

「はは、そうなの?」

「あったり前じゃない。ま、厄落としで着るって意味もあるかも」

 大嘘もいいところ。
 験かつぎの意味で大事にしまっていた黄色のワンピースを引っ張り出したのだ。
 少し裾が短くなってさらにミニになってしまったことは気になったが。

 

 午後7時58分。
 ようやくルフトハンザ航空の飛行機が到着する。
 その時、アスカは震えた声でシンジに願った。

「お願い。手を握って」

「う、うん」

 ジーパンの太腿でごしごしと掌を擦ってから、彼はアスカの手を握った。
 彼女の手は汗びっしょりになっていた。
 そして、精一杯の力で握り締めてくる。
 どうすれば彼女の気持ちを落ち着かせることができるのかと考えながら、彼は渾身の優しさを自分の掌に込めた。
 
「たぶん…20分。ううん、30分くらいかかるよね。アンタ、海外に行ったことある?」

「ないよ。パスポートも持ってないもん」

「そうね。そうよね。ああ、早く来て、パパ」

 ついに本音が出た。
 少し力の弱まったアスカの手をシンジはぐっと握る。
 すると、彼女も握り返してきた。
 何だか心が通じたような気がし、少し嬉しくなったその気持ちがシンジにはやるせなかった。
 その時である。

「え…」

 アスカが呟いた。
 靴音高く響かせて到着口に向って全力疾走をしてくる男性が見えた。

「嘘。早すぎる…」

「お、お父さん?」

「多分。きっと…。ううん、パパ。絶対にパパっ」

 すっと二人の手が離れた。
 一瞬の喪失感に襲われたシンジは、しかし明るく笑った。
 その時、アスカは既に駆け出していた。

Vater!

 到着口のすぐ前で父と娘は向かい合った。
 その姿を見て、シンジは自分の予想が外れてぽりぽりと頭をかいた。
 映画みたいに抱き合うのかと思っていたのだ。
 実はアスカも、そしてハインツの方もそのつもりだったのである。
 だが、いざ手の届く距離になってみると足が止まってしまったのだ。
 ほんの数十センチほどの距離が最後に残ったわだかまりなのかもしれない。

Asuka?

 父の声は少しかすれていた。
 アスカの方は声が出なかった。
 だから頷くだけしかできなかったのである。
 彼女は笑おうとした。
 でも、まるで泣き笑いのようにしかなっていない。
 しっかりしなさいよと自分を励ましても駄目だった。
 そして、彼女の頬に一筋の涙が流れた。
 その娘の涙を見て、不思議なほど自然にハインツの手が伸びたのである。
 大きな手がアスカの頬を撫でる。
 彼女はその懐かしい掌に頬を預けた。
 すると何故かすっと笑顔がこぼれたのである。
 目の下の辺りを父の親指が優しく擦る。
 そうしているうちにハインツはようやく言葉が出るようになった。
 何と言おうかと考えに考え抜いたはずなのに、出てきたのは普通の挨拶だったが。
 
Lang haben wir uns nicht gesehen, Asuka.
 久しぶりだな、アスカ。
 
Stimmt, Vater. Wie geht's Dir, und alle andere?"
 うん、パパ。元気?みんなは。
 
Uns geht es allen gut. Und Dir?
 ああ、元気だ。お前は?
 
Mir ist auch ok.
 うん、私も大丈夫。
 
 本当に普通の会話だったが、このやり取りで気持はほぐれた。
 ハインツの掌が離れていっても、アスカはまだ父の温かみが頬に残っているような気がしている。
 父の手はこんなに温かく、そして優しかったのか。
 失われた時間がとてつもなく惜しく感じられた。

Es tut mir Leid. Ich wollte eigentlich zusammen mit Dir essen gehen."
 すまない。一緒に食事でもと思っていたのだが。
 
Das macht nichts. Das war der Flug, der Verspaetung gehabt hat.
 飛行機が遅れたんだから仕方ないわよ。
 
Und? Wo ist Dein Freund? Bist Du nicht zusammen mit ihm gekommen?
 ところで、お前の彼はどこだ?一緒に来たんじゃないのか?
 
 わざと大仰にハインツは言った。
 どことなくからかうような調子で。
 問われたアスカはいつになく女の子らしく頬を赤らめ、シンジを紹介しようと振り返った。
 しかし、そこに彼はいない。

eh? 'r ist verschwunden. Wo ist er gegangen?
 あれ?いない…。どこいったんだろう。
 
Vielleicht hat er uns Zeit geschenkt. Netter Kerl.
 気を利かせてくれたのかな。いい子じゃないか。
 
 アスカは肩をすくめた。
 父の言うとおりだと思うが、素直に認めたくない気持ちは何故だろう。

Er koennte einfach vor Dir erschreckt sein.
 パパに驚いたのかもよ。
 
Das kann nicht sein. Er ist wohl ein Mann, den Du verliebt hast.
 そんなことはないだろう。アスカが好きになった子なのだから。
 
Du! Bitte kein Scherz!
 からかわないでよ。
 
 シンジがその場にいないことがはっきりしているためか、彼女は心置きなく照れた。
 顔を赤らめ、視線を逸らし、そしてあろうことかもじもじと肩をすぼめたのである。
 ネルフ関係者、そして学校の友達でさえ見たことのないアスカがそこにいた。
 14歳の等身大の少女が。
 父の前だから子供に戻れたのか、甘えなのか、それは彼女自身にもわからない。
 しかし、逸らした視線の先に大きな時計があった。
 ほとんど会話していないように思えたが、時間は刻々と経過していた。
 20:35。
 アスカは唇を噛みしめた。
 娘のそんな表情の変化にハインツは視線の先を追う。
 彼もまた一瞬、無念さを顔に浮かべたが、すぐに穏やかな表情に戻した。 

Oops, ich muss schon gehen. Tut mir wirklich Leid. Ich werde es nachholen.
 ああ、もう行かないと。本当にすまない。この埋め合わせはいつか。
 
Natuerlich. Versprochen?
 きっとよ。約束。
 
Ja, versprochen. Bring ihn auch nach Deutschland. 
 Ihr seid immer herzlich willkommen.

 おお、約束する。彼を連れてドイツへ来なさい。みんなで歓迎するぞ。
 
Schoen!
 ステキ!
 
 アスカは大きく頷いた。
 まるで小さな子供のように。
 そして、思いついた。

Vater? Ich habe noch eine Bitte."
 ねぇ、パパ。お願いがあるの。
 
Ja? Sag mal.
 なんだい?言ってごらん。
 
Kannst Du mir bitte hochheben, wie einst?"
 高い高いしてくれる?昔みたいに。
 
Hier? Jetzt?
 ここでか?今?
 
Geht es nicht?
 だめ?
 
hmmm, ich bin etwas verwirrt. Aber es ist trotzdem Deine Bitte. Hoppla!
 少し恥ずかしいな。いや、お前の望みだ。よしっ。
 
Wow!
 きゃっ。
 
 腋のところをぐいっと持ち上げられる。
 ああ、この感覚だ…。
 ふわっと身体が浮き上がる。
 “Asuka. Du liebst das huh?
 
Ja,ich liebe es total!! 
 もう幼い頃のような会話にはならない。
 だが、アスカの心の中で優しい父の声は何度もリフレインされた。
 ほんの数秒のことだったが、彼女はたっぷりと堪能した。
 長い間の空白がこれで埋まったような気がしたのだ。
 だから、その後の彼女の言葉にはぎこちなさはすっかりととれていたのである。

Vielen Dank, Vater.
 ありがとう、パパ。
 
Du bist ja wirklich gross geworden. Und auch schwerer.
 大きくなったなぁ。それに重い。
 
Um Gottes Willen! Du, Du, Du!!
 酷い!パパったら、もうっ!

 アスカは唇を尖らせ、その表情にハインツは楽しげに笑った。
 そんな彼の肩を叩いて笑いながら去っていく、外国人がたくさんいた。
 中にはアスカの頭に手を置いて「よかったね」とか「いいお父さんだね」などと声をかけていく人もいた。
 おそらく飛行機で一緒だった人たちだと思い、アスカはシンジを見て覚えた愛想笑いで応えた。
 もっとも愛想ではなく、本当に嬉しかったのも事実だが。
 しかしハインツの方はうんうんと頷くのが精一杯のようだ。
 そんな対応でもその人たちはいい印象を受けるようでそれがアスカには不思議だった。
 
 パパって、どれだけの人にアタシと会うことを話したんだろ…。

 アスカがそんなことを思った時が、ちょうど幕切れの時となったのである。
 そして、唐突に時間のことを思い出し、彼は大慌て。
 スーツのポケットからチケットを出して、アスカの手に握らせた。
 
Oops, ich werde den Flugzeug verpassen. Das ist Gutschein fuer Geschenktasche.
 Ich habe unterschiedlichen Sachen reingepackt. Tut mir wirklich Leid, aber ich muss schon los.
 Tschuess, Asuka. Treffen wir uns zum naechsten mal in Deutschland. 
 Danke noch mal!
 Mach's gut!!
 あああっ、乗り遅れる!これがお土産のバックの引き換え券だ。
 いろいろ入っている。本当にすまなかった。
 でももう行かなきゃ。じゃあな。今度はドイツで会おう。アスカ、ありがとう!元気でがんばれ!

 
 その勢いにアスカはただうんうんと頷くだけ。
 そして、他の人たちと同じようにアスカの頭をぽんぽんと父は叩いた。
 お別れの挨拶をしようとしたが、娘にそれを言わさぬうちに彼は背を向けてあたふたと走っていった。
 父の威厳も何もあったものではない。
 その背中が到着口に飛び込もうとし、ガードマンにここではないと指さされ、離れた出発口へ全力疾走していく。
 その間彼は一度もアスカを見ようとしなかった。
 
Tja, er ist fort...
 行っちゃった…。
 
 しかし、アスカはそれを酷いとは少しも思わなかった。
 絶対に父は照れてしまったのだと確信していたのだ。
 
Du, Idiot und Klumpen!! Aber ich liebe Dich!!
 馬鹿でドジなパパ!でも、大好き!
 
  アスカはそう呟くと、くるりと振り返った。
 そこに彼がいるような気がして。
 




 ママ、聞いてよ!
 パパったら本当に間抜けなんだから!
 香港行きの飛行機をロビーからガラス越しに見送って、凄くいい気持で到着口に戻ったのよ。
 そうしたらね、確かに荷物はあったわ。
 全部。
 そうなの!ノートパソコンから着替えまで全部よ!
 パパは身体一つで飛行機に乗っちゃったの。
 まあ、チケットを財布の中に入れていたから乗ることができたから、余計に荷物を忘れたみたい。
 おかげでそれから大騒ぎ。
 会議とかにいる書類とかがあったら大変じゃない?
 パパがくびになったら困るもの。
 だけど、データとかは持ち歩いてないから当座で困るものは衣類くらいだってわかったの。
 ということで、パパには香港で何とかしてもらうことにして、この荷物は全部そちらに送ります。
 当然、お土産を抜いてね。
 以上、緊急連絡のエアメールでした。



 
本当にドジでしょう?
 あなたのお父さんは。
 まず届いたのが、あなたからの特別速達航空便。
 高かったでしょう?これ。
 その翌日に彼が帰ってきたの。
 荷物を忘れたことなど素知らぬ顔をしてね。
 当然、あなたから電話があっておかしくないのに、言い逃れができるって考えてたの。
 航空会社の手違いだとか何とか。
 馬鹿ね、男の人って。
 素直に非を認めればいいのにね。
 そうそう、ところでアスカ?
 お餅はどうなったのかしら?
 というのは冗談。
 ちゃんと届きました。

 
お餅って変な食感ね。
 ぷにゃってなったり、ぱりぱりになったり。
 お月様を見ながらこれを食べてどうなるのかしら?
 東洋の人って不思議なものの考え方をするのね。
 そうそう、運んでくれた人が保存方法とかレシピの書いた書類を渡してくれたんだけど、
 アスカ、どこの配送業者を使ったの?
 ずいぶんと無愛想でサングラスまでかけてたわ。
 間違いなく東洋人でしかもドイツ語が通じないの。
 紙に書いてある通りに滅茶苦茶な発音で喋るのよ。
 わからないからその紙を見せてもらったの。
 人手不足なのかしらね。
 それともまさか日本から受け付けた人が直接持ってきたとか?



 
ママ!
 その人、シンジのパパ!
 絶対にそうだと思って、シンジに確認したの。
 でも彼はぜんぜん知らなくて。
 実家の方に電話をしたらやっぱりそうだったの。
 ちょうどスウェーデンで会議があったからついでに寄ったんですって。
 ついでって、どれだけ離れてるのよ!
 会議はしばらく続くそうだから、帰国したら丁重にお礼を言います。
 国際電話でお礼をって言ったんだけど、そんなことをすれば会議が目茶苦茶になるんだって。
 どうもその程度であの人がハイテンションになるって想像も出来ないんだけど、
 奥様がそう仰ってるんですからそうなんでしょうね。
 ねぇ、ママ。
 シンジのパパに変なこと言ってないでしょうね?
 もし何か妙なことをしてそれが原因で私のことなど認めないなんて言い出された日には…。
 って、まずシンジに認めてもらわないといけないのよね。
 あ、ごめんなさい。
 お餅のことはすっかり忘れてました。
 パパのことで頭が一杯になっちゃって。
 多分私のそんな様子を見て、シンジのパパとママが気を利かせてくれたんだと思う。
 それでいて私やシンジに何も言わないのは、まあそういう人たちなのよ。
 ちょっと…いいえ、けっこう変わった人たちだけど、根はいい人たちなの。
 それからもう一つ大事なことを。
 パパのこと。
 飛行機から一番に降りてきたのが不思議だったのよ。
 するとね、香港行きの飛行機を見送って、前に書いたように荷物のことで大騒ぎしていたときに、
 ルフトハンザのスチュワーデスさんが通りかかって、その謎を教えてくれたの。
 なんと、パパは飛行機の中でスチュワーデスさんからマイクを借りて、もしかしたら奪い取ってかもしれないけど、
 それで、演説をしたらしいわ。
 愛する娘と10年ぶりに…って少し四捨五入したみたいね…再会するが、すぐに香港行きに乗り換えないといけない。
 お願いだから一番に降ろさせてくれないか、と。
 私、見てみたかったなぁ。
 スチュワーデスさんによると汗びっしょりで熱弁していたそうよ。
 そして、そのお願いは満場一致で受け入れられたの。
 着陸して、すぐに機長がアナウンスしたんだって。
 『大変お待たせいたしました。ハインツ・ラングレー様、娘様がお待ちかねですから、どうぞお急ぎください』って。
 ウィットの利いた人ね。
 それからパパは拍手と歓声の中を最初は歩いて、だんだん早足になって出て行ったんだって。
 到着口のところじゃ全力疾走してたわ。
 あんな感じで突っ走ってたらアメリカじゃ問答無用で射たれてるわよ。
 でも、嬉しかった。
 物凄く嬉しかったの。
 ああ、書き足りない。
 今日は超大作になりそうよ。
 覚悟して読んでね、ママ。

 




「リツコ。その、なんだ…」

「何?今、こっちは夜中なんだけど?用があるなら手短にお願い」

「うむ、こっちも会議中だ。忙しい」

「あら、電話していていいの?今日はEUのお偉いさんと楽しい会議でしょう」

「ふん、待たせておけばいい。それよりわしは気になってたまらぬのだ」

「はぁ。何が?」

「どうして餅なのだ。団子ではないのか。正月ではなく、月見なのだぞ」

「あ…」




<おわり>


 

 

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<あとがき>

 

  9月のお話でした。
  餅つきをするうさぎさんの話で団子のことをすっかり忘れてしまった皆さんのお話です。
  今回はAdler様に甚大なるご協力を頂戴いたしました。
  私の日本語の会話をドイツ語に翻訳していただいたのです。
  しかも直訳ではなく、生きた会話文として。
  こんなに恵まれた二次作家は滅多にいないと断言できます。
  本当にありがとうございます、Adler様。
  「酷い!パパったら、もうっ」が「Um Gottes Willen! Du, Du, Du!!」ですよ。
  アスカが唇を尖らせながら…ああ、駄目、語学力のない私には発音できません(笑)。
  空港での高い高いの光景は実は来月の冒頭に続きます。
  できますれば、来月まで覚えていてくださいね。


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