『ねぇ、ママ。
 今年のバレンタインデーはこんな程度だったけど、来年はちゃんと日本流でやり遂げてあげるんだから。
 覚えておいてよね、この一年で絶対に彼を私に夢中にさせるの。
 本当の戦いはこれからなのよ!』

 

 


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2007.01.31         ジュン



 親愛なるママへ。
 クリスマスイヴに計画していた告白作戦は見事に失敗しちゃった。
 だって、あの馬鹿ったら、本物のシャンパンを一気飲みしちゃったのよ。
 で、酔っ払っちゃってダウン。
 タクシーでマンションまで運んでもらって、引きずるようにして家まで連行して。
 ベッドに叩き込んだらそのまま翌朝までぐっすりと眠っちゃったのよ。
 せっかくとっておきのドレスでディナーに行ったっていうのに、
 後で見てみたらあちこち汚れてるし、破けた場所だってあったわ。
 もう、最低!
 まあ、翌朝にしっかり約束させたからいいんだけどさ。
 来年のクリスマスイヴはディナーとドレスをシンジが驕るってことで。
 ということは、私たちには来年もあるってことなの。



 
お馬鹿なアスカへ。
 本当にお馬鹿さんね。
 あなたたちには来年も再来年もずっとあるじゃない。
 どうしてもっと勇気を出さないの?
 彼の告白を待つの?
 自分から言ってしまいなさい。
 絶対に大丈夫ですから。
 と、いくらお説教しても駄目なんでしょうねぇ。
 言葉を尽くしてどうなるものなら、とっくの昔に彼と恋人同士になっているはずだから。
 ということで、ママはあることを考えました。
 それは何かって訊かれても教えてあげません。
 
 
 

 
この月曜日に届けられたドイツからの手紙にアスカは仰天しただろうか?
 いや、実は彼女はそれどころじゃなかったのである。
 マリアからの手紙を受け取った時も、心ここにあらずといった状態で封を開け、
 そして文面を読んで、「どうせアタシは馬鹿なのよ」と叫びベッドにダイブしたのだ。
 彼女はさらに布団の中で丸くなって、所謂アスカ反省モードに入ってしまった。
 したがって、彼女は手紙を最後まで読んでいなかったのである。
 それがどういう結果を生んだかは最後まで取っておくとして、
 まずは何故アスカが心ここにあらずといった心理状態になってしまったかである。

 話の元を辿れば、オーバー・ザ・レインボーの甲板まで遡ってしまうので割愛する。
 要は二人とも破局を恐れて何も言えないでいるということだ。
 彼ら二人以外の者は、すべてアスカとシンジを夫婦認定しているにも関わらずである。
 元より二人が現状で満足しているわけがない。
 事あるごとに告白の機会を窺っているのである。
 それが一方通行であると思い込んでしまっているところにも問題がある。
 さらに踏ん切りがなかなかつかないため、自分を鼓舞するために何かしらのイベントを活用する。
 それもまた二人が二人共に同じなのだから拙い結果を生んでしまうのだ。
 二人とも綿密に練った(つもりの)計画を立てている。
 だから相手は自分のシナリオ通りに動いてもらわないと困るのだ。
 二人で顔をつき合わせて共作しているのならばいい。
 しかし、アスカもシンジも相手がそんな自分勝手なシナリオを組み立てているなど想像だにしていない。
 そのために大抵はその綿密且つ完璧な(つもりの)シナリオは最初の段階で崩壊するのが常だった。

 クリスマスのディナーの時もそうだった。
 ミサト夫婦に貰ったディナー券を手に、二人はそれぞれ壮大な計画を胸にホテルに向った。
 いつものように綿密且つ完璧で、今回はさらに魅惑的なシナリオが用意されている。
 何しろクリスマスイヴなのだ。
 舞台演出はできすぎるくらいにできている。
 そう、その舞台演出があまりによかったことが間違いだったのである。
 それぞれが野心を胸に味もよくわからずに、素晴らしい食事を味わった。
 デザートも食べ終え、テーブルの上からは食器が消え去り、
 残されたのはグラスが二個だけ。
 もちろん、そこに注がれているのはジンジャーエールでシャンパンではない。
 アルコールは飲めないけれども、せめて雰囲気だけはとこの色の液体を注文したことが悪かった。
 普通にコーヒーか紅茶にしておけば良かったのである。
 シンジは指輪が入った小箱をポケットに忍ばせていた。
 アスカの誕生日でペンダントをプレゼントした勢いで、今度は指輪で彼女にプロポーズまでしてしまおうと考えたのだ。
 まず、交際からはじめようという考えは彼にはなかった。
 そんな余裕はまったくなく、オール・オワ・ナッシングだったのだ。
 そこまで思いつめていれば、喉も渇くといったものだ。
 それはテーブルで対面している女性も同様だった。
 彼女の計画は……割愛する。
 とにかく、彼女もオール・オワ・ナッシングでシンジを獲得しようとしていた。
 だから、喉が渇き、頻繁にジンジャーエールを飲み干してもう4杯目。
 シンジにいたっては6杯目である。
 当然、生理現象が発生する。
 アスカは困り果てていた。
 こういう状況で「トイレ!」とは言えない。
 シナリオ進行よりもまずはそちらを優先し機会を窺っていたのだが、格好のチャンスが訪れた。
 
「ぼ、ぼ、僕、ちょっと、あの……行ってくるね」

 少し顔を赤らめたシンジが手洗いに消えた瞬間、アスカはダッシュした。
 彼女の計算では何事にもスローモーなシンジよりも早くことを済まし元のテーブルに戻れるはずだった。
 アスカは計算間違いをした。
 何よりも生理的欲求が彼女の目を曇らせてしまったのだろう。
 男よりも女の方が準備と後始末に時間がかかるのは当たり前だ。
 しかもアスカが素早く個室から飛び出してきた時、シンクの前は化粧直しの女性で一杯だった。
 最初は強引に間に入っていって手を洗おうとも思ったのだが、彼女も乙女のはしくれである。
 手を洗うだけでは駄目だ。
 化粧をしているわけではないが、勝負顔になっているか髪は乱れていないか、チェックはしないといけない。
 アスカは隙間を見つけて洗面台に向かい鏡に写った自分を入念に確認したのだ。
 そして、満足一杯の面持ちで化粧室から出てくると、何とシンジは沈没していた。
 しかも隣のテーブルで。
 緊張しきっていた彼はアスカという目標物がいなかったために、運悪く席を外していた隣のテーブルにどすんと座り、
 ウェイターたちが注意する前に目の前のグラスを一気に飲み干したのだ。
 彼らと同様に化粧室に行っていた妙齢のカップルは花も盛りの20代半ば。
 当然、この後はこのホテルに部屋を取っていて、グラスの中身はジンジャーエールではなくシャンパンである。
 そのシャンパンを味もわからずにシンジは一気飲みをしたのだ。
 生まれて初めてのアルコール摂取は彼を酔いの世界へと誘った。
 顔を赤くし、気分をよくして、そして彼はテーブルに突っ伏した。
 ウェイター達はあまりに素早い酔いっぷりにしばし呆然。
 アスカが期待に胸を膨らませて化粧室から再登場したのはその時だった。
 肩を叩き、背中を叩き、頭を小突き、頬を引っ叩いたが、彼は幸せな寝顔のまま。
 もっとも昨晩から緊張とシナリオの反復練習のためにほとんど眠っていなかったのだから無理もなかった。
 結局、彼はウェイター達やホテルマン、そしてタクシーの運転手に多大な迷惑をかけて帰宅することになった。
 アスカはここでいいですと、マンションの玄関でシンジを降ろしてもらった。
 微笑む運転手に最敬礼した彼女はドレスアップしたその身なりでいつもの仁王立ち。
 見下ろすのは玄関から入ったところの壁に寄りかかって眠る最愛の男。
 彼女は盛大な溜息を吐いた。
 あまりの情けなさにこのまま放置しておこうかとも思ったが、そんなことをすれば風邪くらいで済めばいい方で凍死する可能性もある。
 昨年のような中途半端な冬ではなく、10数年ぶりの本格的な冬なのだ。
 常夏で慣れてしまった日本人は先を争って冬物衣料や暖房用品を買いあさり、
 その頃の日本は突発的な景気に賑わっているところだ。
 極寒のドイツで育ったアスカにとってはちゃんちゃらおかしいくらいの寒さだが、逆にそれだからこそ冬の怖さも知っている。
 シンジへの折檻は後回しにして、彼女はひとまず彼を部屋まで収容することに決めた。
 
「ほら!立ちなさいよっ、馬鹿シンジ!」

 当然、返事もない上に、彼は魅惑的な世界に没入しているまま微笑を浮かべている。
 こうなれば、シンジに肩を貸して部屋まで歩くしかない。
 まさか、彼を担いだりおんぶなどできるわけがないからだ。
 しかし、結局アスカはシンジをおんぶした。
 宥めてもすかしても肩を貸しても歩いてくれないのだ。
 放って行くわよとエレベーターに乗り、大きな声で「ホントに行っちゃうわよ」と叫んでフロアの数字を押す。
 そして扉が開くと、二人の部屋までダッシュし素早く鍵を開ける。
 リビングの照明を点けて、横目で壁のパネルを睨みつけ溜息を連発させながら自分の部屋に突進。
 「もう、サイテー!」などと連呼しながら、ドレスアップした衣装をぱっぱと脱いでさっさと普段着に着替える。
 ヒールの高い靴は脇に除けて、いつもの運動靴をきちんと履く。
 さらにもう一度盛大な溜息を玄関に残して、アスカはエレベーターホールに駆け戻った。
 一階に戻るとシンジは先ほどとまったく同じ姿勢のまま。
 
「この馬鹿っ。風邪ひくわよ!」

 ぴしりと鼻先に指を突きつけたが、彼はすぅすぅと安らかな寝息を返すだけ。
 その寝顔を見てアスカは怒ったのだろうか。
 いや、違う。
 彼女は優しく微笑んだ。
 もしかするとシンジが一度も見たことのないくらいのものであったかもしれない。
 もちろん、周囲に誰もいなく、さらにシンジも眠りの世界に没入中。
 だからアスカはもう一歩、踏み出した。
 きょろきょろとあたりを見渡し、誰もいないことを確認し、そして彼女はそぅっと顔をシンジに近づける。
 こんなチャンスは滅多にないのだ。
 もちろん四六時中一緒にいるのだから、シンジが無防備でいる時はよく見受けられる。
 だが、それはあくまで眠っているのであって、目を覚ます可能性はいくらでもある。
 決して意識不明状態ではないのだ。
 しかし今はどうだろう。
 酔っ払ってしまって、言わば意識不明も同様ではないか。
 これは、チャンス。
 大チャンスではないか。
 と、言っても、彼女はかの時の様に邪悪な笑みを浮かべたわけがない。
 その頬に恥じらいの朱をさっと散らし、その瞳は微かに揺れている。
 しかし、彼女はこのチャンスをものにしてシンジの唇を奪うなどという大それたことは考えていない。
 ただ、あの大好きな頬にチュッと軽く口付けるだけだ。
 それだけのことだが、彼女にとっては断崖絶壁から飛び降りるようなものである。
 アスカは大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
 一度では足らず、5回深呼吸を繰り返した。
 そして、シンジを見下ろす。
 彼は相も変わらずすやすやと寝息を漏らすだけ。
 
「いっくわよぉ」

 小さな声で自分を励ましたつもりだったが、深夜のマンションの玄関ホールは意外と声が響く。
 自分の声にアスカは思わずびくんと背中を震わす。
 再びシンジの様子を恐る恐る窺うが、彼にはまったく変化はない。
 アスカはもう一度、もっと声を落として「行くわよ、アスカ」と我が身を勇気づける。
 彼女はそっとその場に蹲った。
 無防備にこちらに向けている右頬にターゲットをロックオンする。
 鼻息も荒くいきなり顔を近づけようとして慌てて思いとどまる。
 急いで舌をぺろりと出して唇を湿らせる。
 リップが剥げ乾燥し、緊張も加わってすっかりかさかさになってしまっていたのだ。
 よし、これでいい。
 これならば、変な感触を相手に、そして自分にもたらせる事もない。
 いくらシンジに記憶が残るということがなくても、やはり気持ちのいい結果で終わりたい。
 そんな彼女の乙女心を笑うことはできまい。
 
 ちゅっ。

 時間にしてほんの2秒程度。
 その2秒が短くもあり長くもあり。
 シンジの頬から唇を離した瞬間に、アスカはさっと飛び退りくるりと背中を向けた。

 やった、やった、やっちゃったっ。

 ガッツポーズも勝利の踊りもなかった。
 アスカはただ頬を真っ赤に染めて、そして高鳴る鼓動を抑えようと両手で胸にそっと添えている。
 頬へのキスの余韻を楽しんでいたのか、それともあまりの幸福感に思考が飛んでいってしまっていたのか。
 もっともそれも数秒のこと。
 彼女は大きく頷くと、まだ火照っている顔をシンジの方に向けた。
 さっきと同様に眠りこけている彼を優しく見下ろし、それからにっこりと微笑んだ。

「さぁて、運動会の続きと行きましょうか」

 先ほど部屋に飛び込んでいった時に横目で見たパネル。
 相田ケンスケが撮影し、誕生日プレゼントとして贈ってくれたものだ。
 運動会の障害物競走でアスカがシンジを背負って疾走しているところを見事に捉えた写真。
 消極的ではあったがシンジの反対を押し切って、リビングの壁に飾っているのだ。
 その“おんぶ”をアスカは再現しようとしていた。
 幸福感一杯の微笑みと共に。

 甘かった。
 運動会の時と違って、今のシンジは眠っているのだ。
 自分の意思でおぶさってくれないから、まず背中に乗せる時点で彼女の甘美な計画は頓挫したと言ってよい。
 さっきは意識が無いことを喜んだのだが、今はそんな悠長なことを言ってはおられない。
 なんとか彼の身体の下にもぐりこんでようやく背中に寄りかかってくるようにはできたものの、
 今度はその体勢からよいしょと立ち上がることができない。
 あの時はあんなに簡単におんぶできたというのに。
 アスカは奇妙な屈辱感に苛まれていた。
 このあたりはやはりセカンドチルドレンとして誇り一杯にがんばってきた名残だろう。
 彼女にとって“できない”と投げ出してしまうことはプライドに関わるのだ。
 特にこの場合、周囲に誰もいないからこそ、アスカは投げることが出来ない。
 シンジを部屋に運ぶことができるのは自分ひとりなのだ。
 しかもこのままここに放置していては彼が凍死してしまう、と
 彼女はあらゆる神や家族友人知人その他諸々の助けを口走りながら、よろよろと何とか前進し始めた。
 身体中汗一杯、頭の血管が切れそうなくらいに全身の力を振り絞って。
 さらに、耳元ですうすうと安らかな寝息を伴奏曲にして。
 


 翌日、シンジはホテルにいたはずなのにどうしてリビングの真ん中で毛布に包まっているのかわけがわからず。
 その時お風呂でシャワーを浴びていたアスカは二三日筋肉痛に悩まされた。
 そして、例によってタイミングを外してしまったシンジは、クリスマスプレゼントを渡せずに机の中に仕舞い込む。
 その存在をアスカはあの夜リビングに彼をすっ転がしたときに知ったが、敢えて何も言わなかった。
 自分に渡すつもりであったことは間違いないのだから。

 結局、お正月にも初詣や年始周りというイベントはしっかりとこなしたものの二人の関係には何の進展もなかった。
 進展があったのは、一月の下旬にさしかかった時のことだ。

 そう、ドイツからの手紙が届く一日前、2017年1月22日のことである。
 アスカの作戦が失敗したのは二人の温度差だったのだろう。
 彼女はクリスマスの折に大胆にも頬にキスをして中身は知らないがプレゼントもあったことを確認している。
 しかしシンジの方は頬のキスは知らない上に、
 酔っ払って眠ってしまったという不祥事を起こしてしまったという焦りが大いに心を占めている状態だ。
 その上、アスカからのクリスマスプレゼントは彼と一緒に毛布に包まっていて、
 アスカは心が満タンだったから彼にプレゼントを要求しなかった。
 しかもその後のイベントがすべて空回りに終わっている。
 焦れば焦るほど失敗してしまうのだ。
 このままでは来月のバレンタインデーが惨めな結果に終わってしまう。
 その思いが主というわけではなかったが、何度も頭を掠めたことは事実。
 何しろ昨年のバレンタインデーはアスカから何ももらえなかったのだから。

 お忘れの方もいらっしゃると思うので改めて明記しておくが、
 昨年のアスカは彼にチョコレートを渡すことができず、強引に学校を休ませて“隔離作戦”を決行した。
 そして、シンジにはまったくわからない伝言メモを“愛の手紙”として渡しただけの自己満足でその日を終えたのだ。
 シンジから見ると完全にスルーされたバレンタインイベントと言える。

 これが去年であれば、まだよかったのかもしれない。
 しかしこの一年、傍目から見ると彼ら二人は充分に愛を育んできている。
 本人たちに自覚がないだけで、まったくもって幸福なカップルにしか見えないのだ。
 事実、告白していないという一点だけが問題で、日々の暮らしには二人とも何の不満もない。
 そういう時間を過ごしてきただけに、シンジとしては今さら“義理”では駄目だという潜在意識があったのだろう。
 そこへもってきての年末年始の不祥事(彼視点の)である。
 アスカの計画が根本から崩れたのはそんな理由があったのだ。



「はんっ、まあ、あれよ。うん、そうね、アタシとアンタの仲だからさ、そのつまり…」

 アスカはやはりシンジの顔を見て言えなかった。
 もっと真剣に言った方がいいとは思ったものの、冗談めかしく喋れば言葉が出やすい。
 それでもこんなにぶつ切りの前置きを並べ立てないといけなかったのだが。
 だがシンジはしっかり焦らされていた。
 彼女はまったく意図していなかったが、恥ずかしさのあまりなかなか本題に進めなかったことで彼の意識を揺さぶってしまっていたのだ。
 これは、もしかして…とシンジが期待を抱いたのは仕方がなかろう。
 あのアスカが、あんなに照れているのだ。
 鈍感な彼でもわかるほどに。
 しかし、そんな思いが強くなったがために、アスカの言葉はシンジの心に打撃を与えてしまったのだ。

「あのさ、だから…、そう」

 アスカは斜め45度上、天井を睨みつけた。
 日曜の朝だ。
 もしこの作戦が成功すれば、このまま町に出かけてラブラブデートとしゃれこんでもいいではないか。
 彼女は覚悟を固めた。
 言うのよっ。

「義理チョコでよければあげるわっ!」

「ぎ…り…?」

 その声がこわばっている事にアスカは気づかない。
 だからこそ彼女はさらに声を励ました。

「そうよっ!義理よ、義理っ!義理に決まってんじゃない!」

 照れも手伝い、アスカは“義理”をオンパレードした。
 ましてシンジの顔を見ていないだけに、彼の顔色がどんどん青ざめていくこともわからなかった。
 そして、駄目押しするかのように彼女は言い放とうとした。
 これでシンジからあの返事が戻ってくると期待して。
 但し、さすがにそれまでの勢いがなく、その言葉は恐々と小さくなったことが、さらに彼の誤解を膨らませたのである。

「そ、そのかわりさ、ほ、本命は…」

「誰かにあげるんだねっ!いらないよっ!義理なんて欲しくないっ!」

 叫ぶか早いか、シンジはリビングを飛び出していった。
 アスカが予想外の反応にぎくしゃくと顔を戻したときには、すでに扉が閉まる音がしている。

「ち、違う…。そんな……」

 呟きが漏れると共に、彼女は床にぺたんとお尻をついた。



 涙の源泉も枯れ果てたかと思う頃、ようやくアスカは友人たちに発見された。
 成功したかどうかの連絡もなく、携帯へのメールにも反応がなく、やっとのことで出た電話には無言だった。
 やっとのことで家にいることだけ聞き出したヒカリはレイを緊急招集してマンションに駆けつけたのだ。

「アスカが悪い。ややこしいことをするから」

 レイにきっぱりと言い切られて、アスカはまたも顔をゆがめ、隣で彼女を慰めていたヒカリもまた身体を小さくした。
 その理由はこうだ。
 
 数日前、ヒカリとトウジはついに交際関係に突入したのだ。
 それはヒカリからの一言がきっかけだった。
 彼女は勇を鼓して、トウジに告げた。

「あ、あの…義理チョコでも、もらってくれる?」

「あ、あ、当たり前や。い、いいんちょから貰えるんやったら」

「あ、あ、ありがとう。で、でも、他には誰にもあげないから」

「ほ、ほんまか」

 それから先はとんとん拍子だった。
 結局、その場の雰囲気で告白しあった二人である。
 その嬉しさのあまり、ヒカリはアスカに事の成り行きを「秘密だ」と喋ってしまったのである。

 そして、アスカが親友の真似をしたわけだ。
 ところが結果は見事に失敗。
 アスカとシンジではそう簡単に話が進むわけがなかったのである。
 
「そう。私にも秘密だったのね。しくしく」

 声だけで泣かれて、思わずレイの視線から目を伏せてしまったヒカリである。

「でもいいの。秘密なら私にもあるから。お兄ちゃんはアスカのことが大好きなの」

 泣きすぎて目が真っ赤になっているアスカがびっくりして顔を上げる。
 
「い、いつ、聞いたのよ」

「聞いたのじゃないの。知ったの。サードインパクトの時に」

「うそ」

「本当。だからおにいちゃんのことをあきらめたの。絆だから」

 レイの言葉は少ない。
 だから聞く者が補完しないといけないのだ。
 つまり、彼女が碇シンジのことをあきらめて妹に徹したのは、その生い立ちや戸籍などの問題ではなく、
 シンジの心がアスカに向いていることを知ったからだということだった。
 アスカはまじまじとレイを見つめた。
 ということは、もしシンジが誰のことも気にとめていなければ
 彼女は何の気後れもなく彼を獲得しようとしていたということか。
 それを問うわけにもいかず、アスカは涼しい顔で座っているレイから目をそむけた。
 何はともあれ、このとんでもない女がシンジをあきらめてくれてよかった。
 心の底からそう思ったアスカである。
 さらにそんな二人を横目に自分達は平和でよかったと思わずにはいられないヒカリであった。
 三角関係とかでどろどろしていなくて。
 
「これまでもアスカに話したでしょう。でも信じてくれなかった」

「だ、だって、シンジの心を知ったなんて言ってなかったじゃない」

「結果がすべて。私は間違いないことだって何度も言ったわ」

 それは確かだ。
 だが、アスカはその言葉をレイの推論だと思っていたのである。
 そうだとわかっていれば…。
 アスカはもう平静に戻っていた。
 時間が解決したわけではない。
 レイの言葉の所為である。
 シンジが自分のことを好きだとはっきりわかったのだから、もう苦しむことはないではないか。
 あとはそれをお互いにはっきりさせればいいことなのだ。

「わかった。シンジが怒るのも当然ってことね。アタシが小細工しすぎってわけ」

 反省したアスカは苦笑した。
 そんな親友の姿にヒカリは思わず吹き出しそうになってしまった。
 何と立ち直りの早いことか。
 もっとも、大好きな相手の気持ちがわかったのだから当然とも言える。
 もともと彼女は前に向ってひた走る気性なのだから。

「アリガトね、レイ。アタシ、ちょっと、顔洗ってくる」

「あ、じゃ、シャワー浴びてきた方がいいかも。髪の毛も凄いことになってるし」

 ヒカリのアドバイスに、ざんばら髪になっている状況を横目で見るとアスカは悲鳴を上げた。
 そしてバスルームの扉が閉まる音を聞いてから、ヒカリはレイに語りかけた。
 
「レイって、偉いのね。よくそれであきらめたと思うわ」
 
 自分ならばそれでもあきらめずに片想いを続けるに決まっている。
 それなのにこのレイはよくもあっさりとあきらめたものだ。
 ところが、友人の賞賛にレイは顔を赤らめもせず、けろりとした顔で呟いた。

「今のは、嘘」

「ええっ」

 思わず叫んだヒカリはシャワーの音に安心した。

「嘘って、本当?」

「そう。私は妹だから。お兄ちゃんはお兄ちゃんなの。でもお兄ちゃんの心なんか知らない」

「ど、どうするの。アスカ、信じちゃってるわよ、完璧に」

「嘘も方便」

 レイはふっと笑った。
 彼女の微笑みはほんの少しだけ大人っぽく見え、ああ綺麗だとヒカリは思う。
 その生誕の謂れなど知らぬ者であっても、この時のレイの笑みはまるで慈母の如く感じただろう。



 シンジの居場所は簡単にわかった。
 ケンスケの家だった。
 そこにはトウジも現れて、すぐにその情報はヒカリにメールされたのだ。
 だから湯上りのアスカは安心し、友人二人とお喋りに興じた。
 
 だが、こちらの友人二人は左右からシンジを攻撃をし続けたのである。
 それはもう、ぐうの音も出ないほどに。
 まず、ケンスケの部屋に直行したところはシンジも昔の彼ではないと言える。
 かつての少年ならばあてもなく電車に乗って彷徨ったりどこかしらで膝を抱えて蹲っているところだ。
 それがこうして友人を訪ねていったのだから、この一年で彼は大いに成長したわけだ。
 だが愚痴を零そうとしたところ、ちょっと待てとケンスケに制止された。
 そして少し席を外した間にケンスケはトウジに連絡したのだ。
 トウジの顔を見た途端にシンジは少し顔を歪め目をそらしてしまった。
 彼はトウジに会いたくなかったのである。
 何故ならこの関西弁の少年が今幸せ真っ盛りだという事をシンジは知っていたからだ。
 数日前に真っ赤な顔で事の成り行きを省いて結果だけを聞き、ケンスケと二人で祝福したところだった。
 その時もっといろいろと聞き出していれば、今日のようなことにはならなかったに違いない。
 しかしそういうことにずけずけと首を突っ込める彼ではない上に、
 トリオの中で事実独り身となってしまったケンスケとしても友人として祝福はするが惚気話など聞きたくもなかった。
 だからトウジの幸福の詳細はシンジには伝わっていなかったのである。
 したがって、不幸のどん底にいると自負している彼にとって、トウジには話をしたくないと思っても不思議はない。
 またアスカに占有状態となっているシンジとトウジが話をするのはほとんど学校の中に限られる。
 自らの幸福を喋りたくて仕方がないトウジが無理矢理にケンスケにだけは内容を話した。
 聞きたくもなかったが、結果的にはその馴れ初めを知っていたケンスケはシンジの話を聞きすぐにピンと来たのだ。
 アスカがヒカリの例に倣おうとしたのだと。
 そして、シンジがとんでもない反応を示したと聞き、トウジを呼び出して説諭しようと思ったわけだ。

 シンジは愕然とした。
 部屋から飛び出した時よりもさらに青ざめた表情で顔を俯かせる。

「まあ、センセの気持ちもわかるけどなぁ。せやけど、こう…なんかピンとこうへんかったか?」

「仕方ないぜ。こういうヤツなんだから」

「そうだよ、僕はどうしようもないんだ…」

 何を言っても前向きにどうこうという発言のないシンジに、二人の友人は溜息交じりに顔を見合す。
 この件に関しては、アスカに合わす顔がないとぶつくさ言い続けるシンジを半ば強引にマンションまで連行することで終った。
 ただし、義理チョコをどうするという具体的な話し合いももたれずに、二人の関係はその日の朝のままとなる。
 友人たちが部屋から姿を消した後も、アスカもシンジも互いの気持ちについては確かめることができなかったのだ。
 しかしこの事件でこれまでよりは幾分相手の気持ちを知ったことになる。
 特にアスカにおいてはレイの“嘘”のおかげで、まず安心だと思うようになった。
 ただシンジについては、やはりこれはアスカの悪戯かもしれないという疑惑が心の中に巣くっている。
 そのためにさらにもう一歩踏み込むことができなかったのだろう。



 月曜日の朝。
 それぞれの友人たちは二人の関係がまったく進展していないことに憤慨した。
 昨日の騒動はいったいなんだったのか、と。
 特に日曜の昼下がりを初デートと企画していたトウジとヒカリは憤懣やるかたない。
 そこでトウジは密かにある計画を立案したのだ。
 正確に言うと、トウジが「どうにかならんか」と言い、ケンスケがプランを立てたのだが。
 その計画はヒカリたちにも伝えられ、早速翌日に実行へと移されることになった。

 火曜日の放課後、シンジは友人たちに視聴覚室に連れ込まれた。
 しっかりと鍵を掛け、カーテンを締め切り、一部だけ電灯を点ける。
 まさに秘密の集会そのものの雰囲気だ。
 当然、シンジは何事かと不安で一杯になる。
 箸が転んでも何か不吉なことがあるのではと思ってしまう彼なのだ。
 余談だが、彼のこの不安については何か心に暗雲があるときに限る。
 それ以外の時は箸が転ぼうが何も考えずに箸を元の位置に戻すだけで済ませるシンジなのだから。

「なんだよ。昨日の続き?また?」

「ああ、まあ、そういうこっちゃ」

「も、もういいだろ。僕が悪かったんだって認めてるじゃないか」

「まあそれはそれ、これはこれってこっちゃな」

「わからないよ、全然」

「待てよ、トウジ。そう焦るな。ここはゆっくり責めつけようぜ」

 計画の一旦とはいえ、少し本気モードかも知れぬとケンスケは内心自嘲していた。
 この作戦が成功に終わると、晴れて俺一人だけが相手がいないわけだ。
 まあ、綾波もそうだけど…あいつはちょっと違うような気がするしなぁ。
 ううむ、まあいい。残り物には福があるって言うじゃないか。
 あるよな、福。
 俺にも、どっかにさ。

「責めつけるって何さ。僕たち、友達だろ」

 こういう時、シンジの表情はとてつもなく暗くなる。
 信じていた者に裏切られた気分。
 怒るより先に陰鬱な気持ちになってしまう。

 怒るということならば、当然彼女の方だ。

 シンジからほんの数メートル離れた場所で、アスカは友人二人に羽交い絞めにされていた。
 ヒカリに背中から抱きとめられて、レイに口をしっかりと蓋をされている。
 「離しなさいよっ」と叫び暴れるのだが、「ふがふががぁ!」と身もだえするに留まった。
 
「静かにして、アスカ」

「そう。おとなしくしていればいいことが聞けるから」

「うがっ。ごぉじでぎょ!」

 シンジのピンチが目の前にあるだけに暴れるなという方が無理な話なのだが、
 ここはヒカリの言葉が彼女をぴたりと静止させた。

「アスカ。碇君があなたのことを好きだって言うから暴れないで」

 アスカの目がぐわっと見開かれる。
 そしてマジックミラーの中でうな垂れているシンジの姿を睨みつけた。

「そうよ。黙って見ていればいいの。うふふ」

 レイはそう言うとそっとアスカの口から掌を外した。
 微笑んでいた彼女だが、掌にべったりとついてしまったアスカの唾液の感触に顔をしかめる。
 さすがにスカートの裾で拭くのも躊躇われ、ポケットから出したハンカチでごしごしと拭う。
 彼女がハンカチを持ち歩くようになったのはリツコと生活するようになったからで、
 それまではまるで男子のように濡れた手を適当に振って乾かしていただけだったなどということは余談。

「どういうことよ、これは」

 これは何かの策略だと高ぶる気持ちを必死に落ち着かせたアスカは低い声で問うた。
 
「あのね、これマジックミラーなの。向こうからは見えないのよ」

「そんなのわかるわよ。で、どういうことなのかって訊いてるの」

 その質問を聞いて、レイとヒカリは思わず顔を見合わせ白い歯を見せた。
 第壱中学の視聴覚室には準備室から教室の様子を覗くことができるマジックミラーが備え付けられている。
 何のために存在するのかはわからないが、
 掃除中にそれを発見したケンスケとトウジはいつの日にかの悪戯のネタとして記憶しておいたのだ。
 それを今回の作戦で使用したわけである。
 二人のどちらかを教室に連れ込み同居人のことを好きだと言わせる。
 その言動を準備室からカップルの片割れに見せ付ける。
 そうすればさすがに素直な気持ちに気がつくだろうという単純且つ効果的(ケンスケ談)な作戦だ。
 そしてどちらを問いつめるかと4人で考えたところ、2秒後には満場一致でシンジが採択された。
 アスカならば教室に連れ込まれた時点で何かあると勘ぐって作戦の進行が順調に行かない可能性が高いからだ。
 その点、シンジならば鈍感というか素直というか、まず露見する心配はないだろう。
 4人の選択はまさに正しかった。
 現在、シンジは友人の言葉に落ち込んでしまい、アスカはカラクリ自体は見破りその真意を尋ねてきている。
 ヒカリは手短に作戦のあらましを説明した。
 それを聞いてアスカはにっこり笑って、小さく「アリガト」と漏らし、じっとマジックミラーの中のシンジを見やった。
 なるほど、トウジやケンスケ相手にはっきりと「アスカが好きだ」とでも言うところを聞いたならば何も疑うところがない。
 「今の聞いたわよ」とでも言いながら出て行けば、シンジも腹をくくるだろうし、
 この自分も言いたいことをいえる気がする、とアスカは胸をドキドキさせながらじっと教室の様子を窺った。
 ヒカリとレイも向こうの様子に興味はあるのだが、この状況でアスカと顔を並べるような真似ができるわけがない。
 ここは好奇心を抑えて、親友の人生における最大の喜びの瞬間を1mほど下がって見守ることにした。
 しかしながらやはり他人の色恋沙汰というものは気になるものだ。
 レイでさえ、兄とアスカの問題ということも手伝って無表情ながらも興味津々なのだから。

「まあ、こないだのあれもそやけどな、ええ加減にここではっきりしてもらお、思うてな」

「どういうことだよ」

 芝居気たっぷりのトウジだが、シンジはやはりまったく気付きもしない。
 それを鏡越しに見てアスカは何とも言えないような気持ちになっていた。
 この場で彼の気持ちがはっきりされるということはとにかく素晴らしいことだ。
 それにこうやってみんなが自分たちのことを心配してくれていることも嬉しい。
 こんな風にマジックミラー越しに彼らの様子を覗いているというのも楽しかった。
 しかし、何かが彼女の心に引っ掛かっていた。
 あのシンジの暗い表情がその大きな理由ではないかとアスカは密かに思った。
 彼はお芝居とは知らずに、友人に責められて苦悩しているのだ。
 アスカは唇を噛んだ。
 やめさせた方がいいかもしれない。
 シンジのあんな顔を見るのは嫌だから。

「ヒカリ、あのね…」

 肩越しにアスカは声をかけた。
 だが、その時教室の方ではすでにシナリオがクライマックスに差し掛かるところだったのである。

「つまりだ。お前が惣流を好きなのかどうか、はっきりしろってことだよ」

「そ、それは」

「あんなぁ、あれで惣流は人気あるんやで。わしらにもよう訊かれるんや。
 碇シンジと惣流はつきあっているのかどうかってってな」

「つきあってないのなら、交際を申し込むってな。
 今までは俺たちは、あの二人は結婚の約束までしているって大げさに言ってやってたんだぜ」

「せや。そやけどな、肝心のお前らがはっきりせぇへんからなぁ。わしら困っとんねん」

「だから、俺たちにだけははっきり教えてくれよ」

「惣流のことを好きなんかどうかや。わしらにやったら言えるやろ。ホンマのとこ」

「そ、そうだったんだ」

 どうやらつるし上げられるということではないのだと、幾分シンジの表情が明るくなった。
 それを見てアスカはひとまずホッとする。
 しかし、まだ彼女の心は晴れていなかった。

「ここには俺たちしかいないからな。言ってしまえよ」

「楽なるでぇ。正直に言うたらすっとするわ」

「そうだな。トウジだってそうだったんだから」

「わ、わ、わしは…まあ、せやけど」

 シナリオ外のツッコミを入れられて、さすがのトウジも首筋を赤くした。
 因みに準備室のヒカリの方は真っ赤に頬を染めている。
 しかしトウジはおほんと大きな咳払いをして、胸を張った。

「まあ、あれや。わしはそのつまり…」

 ああ、しっかりせい!と彼は心の中で自分を叱咤激励した。

「わしは、いいんちょのことが好きやさかいなっ。はっきり言うたるわいっ!」

 彼は目の前のシンジにではなく、明らかに別の人間に向って叫んでいた。
 鏡を覗いていたアスカはニンマリと笑って振り返る。
 そこにはまさに顔を真っ赤にして硬直した少女がいて、その頬をレイがつんつんと突付いていた。
 その様子を見て、からかうよりもいいなぁと和んでしまうアスカだった。
 そして、シンジは。
 彼は感動していた。
 目の前でヒカリのことを好きだと宣言した友人の姿に、彼は優柔不断な自分が恥ずかしくなったのだ。
 シンジは唇を噛みしめた。
 掌を何度も握り締めては開く。
 言うんだ、はっきりと。
 ここでちゃんと言えば、アスカにもきちんと告白できるような気がする。
 彼は顔を上げた。

 その顔をアスカは息を呑んで見つめてしまった。
 あの笑顔と同じくらい大好きな表情。
 滅多に見られない上に、一度もそんな表情で自分を見てくれた事がない。
 それは主にチェロを弾いているときに見られた。
 真剣でありながらも温かく、優しく、それでいて厳しさも垣間見える。
 そのような表情で彼が紡ぐ言葉とは…。
 彼女の胸の高鳴りはとめどなく早くなっていく。
 そして、シンジの唇が開きそうになった時、アスカの心の中で火花が散った。

「僕は…」

 シンジは言おうとした。
 友人たちに自分の思いを。
 そして、今日中にアスカに告げるのだ。
 大好きだ、と。

 その時だった。

 がんがんがんっ!

「馬鹿シンジっ!何も言うなぁっ!」

 何かを叩く音と共に、アスカの叫び声が聞こえた。
 このお芝居をまったく知らないシンジは彼女がどこにいるのかと文字通り飛び上がった。
 そして周囲をおっかなびっくりで見渡すが、もちろんアスカの姿は見えない。

「絶対に喋るんじゃないわよ!」

 念押しの叫びにトウジとケンスケはしまったぁという表情でマジックミラーを見る。
 理由はわからないが、とにかくこの作戦は失敗だ。
 準備室の扉ががちゃがちゃと乱暴に開かれ、続いて紅茶色の髪の少女が一目散に飛び出してくる。

「あ、あ、アスカ…」

 まだ口にはしていなかったもののシンジとしては喋ってしまったも同然の気持ちだった。
 わなわなと震えようとする間もなく、彼の手はアスカにしっかりと握られてしまった。

「行くわよっ、馬鹿シンジ!」

 どこへ、などと訊く暇もなかった。
 シンジの手をぐいっと引っ張るとそのままアスカは教室の扉へ。
 鍵を開けて廊下へと飛び出していった。
 残された二人は扉が自然に閉まるのをぼけっと眺めていただけだった。





 ママ、聞いて!
 もう絶対に大丈夫よ!
 シンジは私のことが好き!
 まだ言葉では聞いていないけどね。
 ううん、私の勝手な思い込みじゃないのよ。
 シンジは今すぐに言ってくれそうだったんだけど、私がお願いしたの。
 ああ、最初から話すわ。
 それはね、日曜日に喧嘩をして、その翌日だったの。
 もう、駄目ね、私って。喧嘩のことから書かないといけないのに。
 何を書いたらいいのか、もう頭の中がお花畑って感じ。
 幸福で幸福で!
 喧嘩の理由はね、やっぱりバレンタインデーのことで……。



 愛するアスカへ。
 あらあら、可愛いアスカは幸福すぎて狂ってしまったのかしら。
 あんなに分厚い手紙を貰っても読むのに困ってしまうわ。
 しかもまるで前衛的。時間があっちに行ったりこっちに行ったり。
 私はもっとオーソドックスな小説が好きなのよ。
 ああ、そうだ。
 もうそっちに届いたかしら。
 上手に使うのよ。
 長い手紙にしてもちゃんと読んでくれないでしょうから、今日はこのくらいにします。
 じゃあね。

 追伸

 おめでとう。よかったわね。



 マリアからの短い手紙が届いた翌日。
 ドイツから荷物が届いた。
 中に入っていたのはとんでもない量の生チョコレートである。
 そしてカードにはこう書かれていた。

 シンジ君にチョコレートを渡すことができないのなら、これを全部一人で食べなさい、と。

 シンジに渡すチョコレートをどうしようかと悩み続けていたアスカは包みの中身を見て小躍りして喜んだのである。
 しばらくするとどんな手作りチョコにするかという次の悩みが到来したのだが。
 


 さて、あの日。
 視聴覚教室から飛び出して行った後に何があったのか。
 
 何もなかった。
 告白もなければ、ましてやキスなどもない。
 二人がしたのは、約束だけだった。
 
 

 アスカはシンジの手を掴んだまま廊下を突っ走った。
 目的地はなかった。
 人気のない場所を探すというよりも、高ぶる心を落ち着かせるために走っていたのかもしれない。
 もちろん、アスカの意思だけで走ることはできない。
 シンジもまたアスカに負けまいと、だが彼女とペースを合わせて、
 いや合わせるまでもなく二人の走るペースは計ったようにピタリと一致していた。
 まるで運動会の二人三脚の時のように。
 途中ですれ違った教師から「馬鹿者!」と叫ばれたが、それも遥か遠くに置き去りにした。
 二人が足を止めたのは体育館の裏手。
 別にそこを選んだのに意味はない。
 上靴で動ける場所の限界がそこまでだからというだけだったのかもしれない。
 はぁはぁと息も荒い二人は互いの顔を一度も見ずに、しかし手は握り合ったまま離そうとしなかった。
 どちらからともなく、コンクリートに腰を下ろす。
 だが、しばらくは会話はなかった。
 競うように口から白い息を吐き、視界に相手の顔が入らぬように斜め横を必死に見やる。
 そして、握り合った手に二人同時に力が込められ、そのタイミングに二人は思わず顔を見合わせた。
 笑顔もなくただじっと見つめあう。
 やがて、ぷっと吹き出したのはアスカだった。

「みんなに悪いことしちゃった」

「え、みんなって、トウジとケンスケ?」

「そうね。それに、レイとヒカリも」

「レイ?」

「ふふ、アンタ、知らないでしょ。あの教室は隣からマジックミラーで見えるのよ」

「ええっ!」

 たまげるシンジにアスカは面白おかしく彼らの作戦を説明した。
 その目的が何であるかまで。
 さすがに“好き”という言葉は使わなかったが、二人のことを心配してという説明で十分シンジには伝わる。
 昨日の一件があるからなおさらだろう。
 シンジはまた唇を噛みしめた。

「アスカは…どうして出てきたの?」

「わかんない」

 アスカは即答した。
 確かにわからないのだ。
 彼女はシンジの顔から目を逸らし、だが手は握ったままに冬の空を見上げた。

「もしかして…」

「何よ」

「あ、うん、やっぱりいいよ」

「こら、言いかけた言葉は引っ込めんじゃないわよ」

「でも、ちょっと恥ずかしいから」

「うっさい。言いなさいよ。恥ずかしいんなら、そっち向かないから」

「言わなきゃ駄目?……痛いっ!」

 骨も砕けよとばかりアスカはぐっとシンジの手を握り締めた。

「わ、わかったよ。言うからやめてよ!」

「はんっ、さっさと言わないからよ、馬鹿」

 アスカは待った。
 自分でも驚くほどゆったりとした気分で。
 そして、シンジは自信なさげにぽつりぽつりと喋りだした。

「えっと、僕が今思ってるのは…あそこでアスカが聞いてるのを知ってたら、
 自分の気持ちは言わなかったんじゃないかってことなんだ」

 アスカはごくりと唾を飲み込んだ。
 悪い結果が待っているのではないと思うのだが、こういう場合どうしても悪い方に考えがちである。

「つまりね、ああ、恥ずかしいなぁ。だから…、そういうことはやっぱり本人に向って言わないと…」

「そっか!」

「痛いっ!」

「ごめんっ」

 自分の気持ちに気づいた瞬間、シンジの手をまた強烈に握ってしまい、この勢いで二人の手は離れてしまった。
 ずっと掌が繋がりあっていたためか、急に物寂しくなってしまった二人である。
 だが、今の二人はもう一度手を繋ごうとはどちらからも言うことなどできない。
 触れ合うかどうかという微妙な距離がそこにあった。
 接してはいないのにお互いの体温が小指の辺りに感じられる。
 
「わかった。アンタと一緒だったのよ、きっと」

 アスカは乾いた空を愛しげに見上げた。

「どうせ言葉にしてもらえるのだったら、知るんじゃなくて、聞きたかった。そ〜ゆ〜ことよね、たぶん」

 最後は少しおどけた感じにしてしまった。
 やはり恥ずかしい。
 だがここから逃げ出さずにシンジと会話をしている自分がアスカは不思議だった。
 とはいえ、事ここに到って逃げ出すなど言語道断だ。
 彼女は自分の手がシンジと手錠で繋がれているのだと思おうとした。
 愛の手錠ってヤツよっ。
 アスカはそんな陳腐なネーミングに内心苦笑するのだった。

 シンジは一生懸命に自分に言い聞かせていた。
 逃げちゃ駄目だ、と。
 そして彼もまたアスカと手錠でつながれているのだとも思おうとしている。
 絶対に言うんだ、今ここで、アスカに。
 さっきトウジとケンスケには言うつもりだったじゃないか。
 アスカのことが大好きだ、と。
 彼は覚悟を決めた。

 何かを振り切るようにさっと腰を上げたシンジはアスカの前に立った。
 空で一杯だった彼女の視界にいきなりシンジの顔が飛び込んでくる。
 それは先ほどのあの凛々しげな表情であった。
 
 わっ、来るっ!

 そう思った瞬間、アスカは咄嗟に叫んでしまった。

「待ってっ、シンジ!言葉にするのは!」

「えっ!」

 人生最大の告白をしようとしたところに、その相手から制止されシンジは目を白黒させた。
 アスカはニンマリと笑いながら…少しばかりぎこちない笑みだったが…、ゆっくりと立ち上がった。
 そして、同じ背格好の少年に向って右手をまっすぐに差し出した。
 それは握手を求めているのではなく、何故か人差し指が一本拳から突き出ている。
 鼻先を指差されたシンジは若干目を真ん中に寄せて、何が起こるのかどきどきしながらアスカの出方を待った。
 彼女は指を彼のおでこの上に移動させてちょんと突付く。
 すっかり身体を硬直させていたシンジは少しばかりの力で情けなくもよろよろよろめいた。

「何するんだよ」

「さあね、アタシにもよくわかんないの」

 しゃあしゃあと言ってのけたアスカはシンジの背中の方に回りこみ、
 そして大胆にも彼の背中に寄りかかった。
 背中が熱い。
 冬服の学生服を通してだから彼の体温が伝わってくるはずがない。
 だが、アスカはしっかりと感じていた。
 シンジの熱い思いが背中から伝わってくるのだと。
 それはアスカ自身の身体の火照りだというツッコミは野暮というもの。
 シンジの方もまた背中のぬくもりに頭が蕩けてしまいそうだったのだから。

「あのさ、お願いがあるの」

「う、うん」

 しっかりしろ、シンジ!
 自分を叱咤するものの、言葉はやはりすっと出てこない。
 
「チョコ、もらってくれる?あっ、ぎ、ぎ、ぎ…」

 昨日の失敗を思い出し、慌てて“義理”じゃないと付け加えようとしたアスカだが、
 昨日はあんなに簡単に言えた“義理”という言葉がすっと出てこない。

 しっかりしなさいよっ、馬鹿アスカ!

「つ、つまり、あれよ。ぎ、ぎ」

「えっと、義理?」

「そう!それよ!」

 アンタ、やればできるじゃない!
 もしかすれば彼の人生で最高のタイミングで発した言葉ではないだろうか。
 そう思ったアスカだったが、ふと自分の発言に気がついて冷や汗をどっと噴出した。

「ち、ち、ちがうわよ!馬鹿!あ、馬鹿はアタシ!義理じゃなくて、本命なのっ!」

 言ってしまってから、アスカは口を掌で押さえた。
 しかし、溢れ出た言葉は明朗な叫びとなってシンジにしっかりと届いてしまっている。
 もしシンジがアスカの顔を覗くことができたなら、彼はそこに白人ではなく赤色人の少女を見ることになっただろう。
 アスカは知らずのうちに目が潤むのを感じていた。
 周囲の景色がぼやけて見える。
 ついに言っちゃったんだ、アタシ。

「ありがとう、アスカ。あのさ、ぼ、ぼ、僕も…」

 この姿勢なら言える。
 僕にだって言える。
 はっきりと言える。
 そう思ったシンジは自分も告白しようと決意した。
 ところが、その瞬間、またもやアスカが邪魔をしたのだ。

「ち、ち、ちょっと待った。まだ言っちゃ駄目っ」

「ええっ」

 アスカは本当にわからない。
 本命チョコをくれるって言うのに、どういう意味なんだよ。
 困り果ててしまったシンジに、アスカはぼそりぼそりと説明を始めた。
 彼女にしては小さすぎる声音で、シンジは一生懸命にその言葉を聞き取る。
 つまりこういうことだ。
 去年のバレンタインデーのリベンジをしたいということ。
 あの時、本命チョコを渡したかったのだが恥ずかしくてどうすることもできず、
 逆にシンジを学校に行かさずに隔離作戦を実行した。
 さすがにあの時渡した“愛の手紙”は恥ずかしすぎて、
 それにあまりに小細工しすぎていたような気がして、口にはしなかったアスカである。
 それでも、彼女の言いたいことはシンジにはよくわかった。
 
 アスカらしいや。
 屈辱は100倍にして返す、だっけ。
 いや、100万倍だっけ?
 まあ、いいや。
 それでアスカの気が済むのなら、それで。

 もうすっかりと安心したシンジは余裕の固まりであった。
 それにその方がバレンタインデーが楽しみだ。
 もうあと3週間足らずでその日はやってくるのだから。

 アスカはぐっと体重を背中にかけた。
 それに気付いたシンジは歯を食いしばって、それを受け止める。
 しかしアスカはそれで納得しなかったようだ。
 さらに足を踏ん張って力を加えてくる。
 負けるものかとシンジも足を突っ張る。
 
「おい、お前ら。押しくら饅頭じゃなくて、キスはしないのか?」

 天からの声。
 びっくりした二人がその方角を見ると、
 体育館の横扉がいつの間にか開いていて、そこから覗いているのはたくさんの顔、顔、顔。
 バレー部、体操部、卓球部…。
 体育館を使っていた部活動の生徒達である。

「こらっ、黙ってたら、したかもしれないでしょ。キス」

 体操部の女の子が声をかけたバレー部の男子を責める。

「馬鹿言え。この雰囲気でするか」

「でもびっくりしたわ。この二人ってまだ告白してなかったのね」

「まあ、どっちにしても誰にもどうにもできないけどな」

「そうそう、蟻一匹入り込めないわよ」

「蟻じゃなくて、絶世の美女ならどうだ?」

「そうだな、誰か試してみるか?」

「あのねぇ、それって私たちに喧嘩売ってるわけ?」

「おっ、てことは認めてるんだな。惣流には負けるって」

「この馬鹿!あんたなんか、一生ピンポン玉とつきあっていればいいのよ!」

 こんなかしましいやり取りが続く中、アスカとシンジはじっと耐えていたのだろうか?
 答はノーだ。
 最初に彼らの存在を確認した時点で、二人は手に手を取って雲を霞と逃げ去ってしまったのだから。

 
 
 これらがあの事件の結末だった。
 もちろん、アスカとシンジはそれぞれの友人たちに連絡を取り、
 女性陣は甘味処、男性陣はお好み焼き屋へご馳走することで感謝の意を表したのである。
 彼らはわざわざバレンタインデーまで告白を先送りにした二人に呆れ果てたのだが、
 それでもそこまで発展したのは自分たちの崇高な献身のおかげであると恋人候補生二人へ恩を着せた。
 無論、それに対してアスカもシンジも友人たちにお代わりを厭わなかったのである。
 二人とも、まだ冬最中であるのに心は春爛漫だったのだから。






 アスカは布団の中に潜りこんで考えていた。
 どんなチョコレートをシンジに贈ろうか。
 何しろ素材はたっぷりある。
 そして、ふと考えた。
 あれだけあれば、己が全身にチョコレートコーティングすることも可能ではないだろうか。
 時計は午前一時を示している。
 ベッドの上でこんもりと丸みを帯びた山のようになっている布団は微動だにしない。
 30秒ほど経過して、真っ暗な部屋に掛け布団と毛布ががばっと舞い上がった。
 ベッドの上に立ち上がったパジャマ姿のアスカは、それはそれは真っ赤な顔で叫んだのである。

「この馬鹿シンジ!エッチ!スケベ!変態!」

 

 

<おわり>


 

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<あとがき>

 

   やっとこさで滑り込みの1月掲載です(大汗)。正直無理かと思いました。
   時間がないので、あとがきはこれくらいで2月の話にかかります。
   あ、最後に1月の話の書かれざるラストシーンを(おい)。

   しんと静まり返ったマンションに彼女の叫びが響き渡った時、シンジの部屋で慌てた様子の物音がしたことをアスカは知らない。

   すみません(滝汗)。


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