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ヴァイオラからの手紙



つらかった過去、そして将来の夢

現在SAVOのホームで暮らしているヴァイオラは、かつてアルコール依存の父親から暴力を振るわれ、食べるものもない生活を強いられていました。そんなヴィオラが自分の生い立ちを振り返ります。


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 私の名前はヴァイオラ、17歳(注:当時)です。ヌマサ中学校という学校に通っており、4年生です。私は毎日8km以上の道のりを歩いて学校に行っています。それはとても大変で、いつも遅刻をしてしまうし、ホームに戻るのも遅くなります。学校への道は安全ではなく、なにがしかの危険にいつもさらされています。成長した女性として、危険なことや必要なものは多くあります。でも必要なものは手に入りません。

 私にはいつも必要なものがありません。私は5人の子どもと、私が小学校6年生の時(2011年)に亡くなった最愛の祖母がいる家庭に生まれました。物心ついたときから私は祖母と一緒にいました。私は母親を知りません。母親を一度も見たことがないのです。私には彼女が生きているのかどうかもわかりません。時々祖母にそのことについて聞きましたが、祖母は教えてくれませんでした。

 私は兄弟と一緒に苦しんできました。私たちは時々、学費を払えなかったため学校に行くことができませんでした。時には昼ご飯や夕ご飯を食べられない日もありました。祖母の体が弱り何もできなくなったとき、私たちは学校をやめました。祖母はお金のためにコーヒーを売る仕事をしていましたが、それができなくなってからは、私たちは学費や食費を得るためにお金を探し始めました。

 私には父がいますが、父は飲んだくれで、これまで一度も学費を払ってくれたことはありません。1学期分さえもです。そのうえお金がある限り、酒を飲んでいます。私たちはそんな状況下で長い間暮らしていました。

 祖母がマラリアにかかったとき、私たちには薬を買うお金がなく、不幸なことに3日後祖母は亡くなりました。私は自分自身に、何で私は・・・何で私たちは・・・と泣きました。なぜならその時、私は兄弟とともに行く場所もなく、そして私は兄弟の中で一番年上でした。しかし兄弟たちはまだラッキーでした。彼らには貧しいながらも母親がおり、面倒が見られる人に引き取られていったからです。

 私は父と暮らしました。それは非常にたいへんなもので、昼ご飯や夕ご飯を食べることもできませんでした。私は学校に行かず家にいました。父は1日中外で飲み歩いて、真夜中私を家の外に放り出すのです。だから私は外で寝ていました。しかしある日、一人の女性が家にやってきました。父は私に彼女が私の母親だと言いました。私は母に会えたことがとても嬉しく、母は私を学校に戻してくれました。母は1学期分の学費を払ってくれ、私は学校に戻れたのです。しかし不幸にもその後母はどこかに去ってしまい、別の男性と結婚してとても遠いところに行ってしまいました。母もまたお金がなかったのです。次の学期には学費がなく、私は2学期全部学校に行けませんでした。

 しかし、3学期になったとき、一人の見たことのない男性がやってきました。彼がモーゼス(SAVO代表)でした。彼は私をSAVOワンファミリーハウスに連れていき、学費を払い、私を学校に戻してくれました。しかし問題は、時々モーゼスにもお金がなく、そうした時は家に戻されてしまうことです。モーゼスは2011年から今まで、積極的に私の面倒を見てくれました。

 私は、モーゼスに神のご加護があり、モーゼスがこのホームで私や他の多くの子どもたちの面倒を見るためにやっているすべてのことを、神様が祝福されるよう祈ります。私たちはここでは家族であり、モーゼスは私たちのために様々なことをしてくれます。時々、毎日のようにポショ(スワヒリ語でウガリと言われている、トウモロコシ粉を練った東アフリカの主食)の食事に飽きることはありますが。ポショはモーゼスが買える唯一の安い食べ物なのです。彼もお金をたくさん持っているわけではありません。そして私たちは今ではそれを理解しています。

 私は将来のためにとても一生懸命勉強しています。将来は医者になり、SAVOの人や他の人々の病気を治したいと思っています。将来、貧しい人々を助けたいとも思っています。それが私の夢です。