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創設者の経歴



ムテャバ・モーゼスの壮絶な人生

SAVOの創設者、ムテャバ・モーゼスは3歳のときに親に見捨てられました。それからは親戚の家を転々とし、その中で虐待を受け、さらには路上で暮らすことを余儀なくされたという壮絶な人生を送ってきました。そんな彼が、自分と同じ境遇の子どものために活動を始めるまでに至った経緯について書いた文章です。

 モーゼス(左)と子ども



SAVO代表 ムテャバ・モーゼス


 私の名前はムテャバ・モーゼスです。私は父が死んだ2ヵ月後に生まれました。父は母との結婚式のために服などを用意しにタンザニアに行こうとして、ビクトリア湖を横断しているときに、溺死したと聞きました。私は父に会う機会はありませんでしたし、私に残された写真すらありません。それにより母は17歳で学校を中退しました。父は一人で死んだのではなく、母を道連れにしたのだと思います。なぜなら、父の死後母は普通の人間には見えませんでした。母は重度に精神を病んでしまったようです。


 私は村から遠く離れた家で生まれました。近所の人が子育てを手伝ってくれました。家には、母、近所の人、年齢が3歳半の小さな女の子の3人しかいませんでした。母の出産後、私はこの女の子がいた前室に連れて行かれました。女の子は私の泣き声を聞き、私を抱っこしたがりました。近所の女性は、この女の子に、脚を伸ばして座り、私をひざの上に乗せ腕で抱きかかえるように言いました。すると突然彼女は私のことをモーゼスと呼んだのです。そのとき、近所の女性はどのように女の子がその名前を知ったのだろうかと思いましたが、後でその名前が私の名前になりました。そのため私の名前は3歳半の女の子に名づけられたのです。時々私は、女の子は私の名前を名づける使命を受けていたのではないかと感じます。なぜなら、私の父は水死し、そしておそらく神がこの名前を私に選んだのではないかと思うためです。私は水の息子なのでしょうか?それとも私は水から生まれたのでしょうか。私は時々、私の名前が意味することは何なのだろうかと思うのです。


 私は生まれた日付を知りません。ですが、私の本当の年齢は27歳前後かと思います。しかし、人々の前では年上でありたいと思い、人々には30歳と言っています。私は自分で生年月日をつくりました。これは、私が路上で生活していたときに、他のストリートチルドレンに自分をいじめるのではなく敬うようにするためにやったことです。私はこのことでいじめられずに済んだと思っていますが、これは自分に嘘をついていることにもなります。私はこのような嘘を申し訳なく思います。私は1982年11月22日を自分の誕生日にしました。しかしこれは正しい誕生日ではなく、私はそれを祝ったりしません。でも誰もこのことを知りません。


 母は私が3歳のときに私を放棄し、私は母方の祖母によって育てられました。しかし、母が去った6ヵ月後、年老いた祖母は、私の世話をするのが非常に重荷になり、私を父方の祖母のところに送りました。そこで私は叔母の多くの子どもに会いました。そこの祖母は母方の祖母とはとても違い、残酷でした。彼女は毎日私をたたきました。私はおねしょをする子どもでした。そして毎日祖母は私がおしっこをした箇所を洗うのですが、祖母は私にそれを飲むように言うのです。私はこの新しい場所で、重い作業とともに、とてもきつい虐待を受け、生活は非常につらいものでした。


 ある日祖母は私に、ベッドを洗うために缶に入れた水を持ってくるように言い、私は缶に半分水を入れ持って行きました。彼女はそれを取り上げ、それで私を強くぶったのです。突然彼女はナイフを取り、私の頭を2度切り、十字の傷をつくりました。そしてこれは父の墓に置かれた十字架だと付け加えました。「私の息子は死に、もうひとつの死を置いていった」と彼女は私に言いました。私は鼻、口そして耳から血を流しました。私は家の中にやつれるまで放置されました。なぜなら彼らは私に何が起こったのかを聞かれるので、病院に連れて行くのを恐れたからです。彼らは地域の薬草を使いましたが、神の慈悲により私は回復しました。私は痛みに苦しみ、今もその傷は私の頭の中央に残っています。


 今まで、なぜ私の父方の祖母がこのように私を憎悪したのかわかりませんでした。もしくはそれは私の母に対するものであり、それを私が払わなければならなかったのでしょうか?私にはまったくわかりません。私がしなければならなかった仕事には、いつも病気で家の中にいた叔母の世話も含まれていました。そのとき私は彼女が何に苦しんでいたのかわかりませんでしたが、今はわかります。彼女はエイズにかかっていたのです。いつも私は彼女の使用後の洗面器を外に出し、彼女の服を洗わなければなりませんでした。


 ある日、叔母が私を部屋の中に呼び、こう言いました。「私の息子よ、あなたをとても愛しているわ。でもあなたのここでの暮らしをとても申し訳なく思う。あなたは幼いのに、とても重い負担がかかっている。誰も病気の私を世話してくれない代わりに、私はあなたにそれをさせている。私は、自分の命が死に向かっていると感じている。あなたが私を看取ったら、私の遺体は私たちの家族の墓がある別の村に持っていかれると思う。家族と一緒に車で私の遺体を持っていくと、そこにはあなたのお父さんの墓があるわ。あなたはそれを見つけたら、その上で眠りなさい。」


 彼女が私にこう言った数分後、私はみなが泣いて彼女が死んだと言っているのを聞きました。本当のことは知ることができませんが、彼女は命を絶つために薬を過剰摂取し、毎日彼女を世話する痛みから私を解放しようとしたのだと推測します。私はこのようなことが起きたことをとても悲しく思います。私は他の人が死んだかわりに今日自分が生きていると感じるのです。でもなぜ神はそのようなことをしたのでしょうか?私は残念に思うし、いつも私には答えが見つかりません。私は幼かったので、叔母が言ったようにはしませんでした。墓は私にとって怖いものでした。その後誰も私の世話をしませんでした。私は学校にも行かせてもらえず、他の子どもたちが学校に行っている間に家の仕事をしていました。私は他の子のように学校に行くのが好きでしたが、誰もそれを認めてくれずその代わりに私を痛めつけたので、私は学校に行く他の子たちについて逃げようとしました。私は愛されていなかったのです!!


しかし私が6歳くらいになったある日、母方の祖母が人を私のところによこしました。祖母は私に会いたかったのです。最初、父方の祖母たちは私を母方の祖母のところに行かせるのを嫌がりましたが、ついにそれを受け入れ、短期間母方の祖母のところに滞在することになりました。母方の祖母が私を見たとき、彼女は泣きました。私は彼女が泣いているのを悲しく思いましたが、そのとき、彼女が私のみじめな姿を見て泣いているとは想像できませんでした。祖母は私を帰さず、その代わりに私を学校に連れて行きました。私は学び始めましたが、最初の学校の成績はとても悪いものでした。クラスの中で最下位だったのです。


 学校の年長の生徒が、年下のクラスの生徒に学期の終わりに成績表を見せるように言うのは、学校の習慣となっていました。年長の生徒は私に成績表を見せるように言い、私はそれを渡しました。彼らはそれを見て、私に君は一番だと言いました。私はとても興奮し、それを他の人に見せることができませんでした。私は心底喜んで家にとても急いで走って帰りました。そのとき祖母は近所に出かけていたので、私は早くそこに行き、祖母を呼びました。「僕はクラスで一番だ!」私が彼女に近づいたとき、彼女は温かく微笑んでいました。私の小さな叔父は、興奮した笑顔で、成績表を見るために、私からそれを取り上げました。突然、目をまばたきさせ、叔父は強く私をたたき、私はパンツの中におしっこを大量に漏らしてしまいました。みななぜだろうと思いました。


しかし後で私は、自分がクラスで最下位だったことを知りました。年長の生徒は私が最後から一番だということを言ったのです。彼らは冗談を言ったのです。私はそんな冗談が好きではありませんでした。そして次の年、私は成績をよくしたいと思いました。それは私の大きな目標になりました。そして幸運なことに、私はそれを達成することができました。次の年の最後に、私は一番になったのです。私は勉強し、そしていつも私はクラスで上位10人の中に入っていました。しかし小学校の3年生のとき、私は学校が嫌いになり始めました。先生がとても厳しく、いつも私たちを打ちのめしたからです。私は学校に行くのがとても怖くなり、私の成績はとても下がりました。しかしその後別の学校に移り、私の成績は再び向上しました。


 私が13歳のとき、愛する祖母(母方)が死に、それが私の人生の岐路となりました。私の悲運な日々は私の目に焼きついています。私には世話をしてくれる人がいませんでした。生活は再び苦しくなりました。私は路上に出て、学校はやめました。路上では異なった年齢の多くの子どもに会いましたが、私の中ではとても幼い子どものことが心から心配でした。私の心は彼らに対して弱かったのです。私は彼らの中に入りましたが、私たちはよい兄弟にはなれませんでした。なぜなら、私たちはみな同じ問題を抱えているように見えるのに、年上の子が私たちをいじめるからです。路上での生活はとてもきつく、新顔で弱ければ弱いほど、それはきつくなります。路上に出た最初のころは、年上の子どもたちに乱暴をされ、いじめられるのです。


 私は最初のころ、路上で暮らす年上の少年たちに、毎日300シリング持ってくるように言われました。それは私にとってはとてもきついものでした。私はこのお金をどこからも得ることができなかったので、罰を受けねばならかったからです。私は何も着ずにすっぽんぽんで寝なければならず、それは寒い夜にはきついものでした。他の若い子どもたちや弱い少年たちは、同じようなことをするように言われていましたが、時々私たちはより大きなことをするように言われました。しばしば子どもたちは、お金を得るための仕事を見つけることができなかったため、盗みをすることを強いられました。私たちは年長のストリートチルドレン、街の人々、そして警察の犠牲となったのです。人々は決して私たちを好まず、私たちはいつも社会で悪の源のように見られました。しかし事実は、私たちが路上で学んだ生活もまた耐え難いものであるということです。


 私の弱い少年としての路上での時間は、恐怖で満ちていました。病気になっても誰も薬をくれませんし、食べ物については、街の人々が捨てた新しいゴミをあさりました。路上で暮らす私たちのほとんどは、家庭内暴力、家族による虐待、両親の喪失の犠牲者であり、私たちは最後には家を失うのです。私たちの何人かはいつも家を持つことを望んでいましたが、だれもそれを与えてくれず、だれも私たちを愛さず、だれも私たちを気にかけませんでした。路上で長く暮らせば暮らすほど、私たちは荒れていきます。私たちの心は常に愛を感じず誰からも好かれないからです。そして多くが家で暮らしている他の子どもや親への嫉妬心を大きくするのです。路上にいるとき私は2つの世界を見たものです。私たちが暮らす世界と、家を持つ者の世界です。そして私たちは彼らに対して情けの心はまったく感じませんでした。


 路上には少女もいます。多くがストリートマザーとなり、そして粗野な路上生まれの娘や息子をつくります。多くの場合、彼女らは自分の赤ちゃんの父親が誰か知りません。しかし少し異なるのは、路上で暮らす少女は映画館の周りに暮らすことができ、もし知らなければ人は彼女らがストリートチルドレンだということが簡単にはわからないということです。彼女らもまたとても生き残るのが大変で、この状況で多くがエイズに感染しています。


 路上でもっとも悲しい瞬間は、人が病気になり、夜から目覚めることができないときです。治療もないし、誰も食べ物を与えてくれません。しかし路上で生活しているみなが生きるべきです!夜はとても寒く、この夜の状況が路上で暮らす私たちの心をつらいものにします。路上で暮らすことは忌まわしいことです。子どもとして愛されずケアされないことは、つらすぎることです。そしてもっとも悪いことは、家なしで暮らすことです。路上では、私は心の奥底に大きな問題を抱え、いつも私は次に何をすればよいのかわかりませんでした。しかし毎日私は路上で暮らすことへの憎悪を感じていました。私は他の子どもに、誰に少なくとも戻る家族がいるのかを聞き、またお互いに助け合うため、自分たちのための1つの家族をつくるよう働きかけようとしたりしました。しかししばしば、年長の子がそれを聞くと、私たちは罰を受けました。路上にはリーダーがおり、そこにはあらゆる種類の苦痛があるのです。


 私たちは誰の子どもでもなく、誰も私たちを愛しません。私は路上では生き残れないと感じ、店のベランダや未完成の建物、施錠されない教会、コンテナキオスクの下で眠りました。一方で街のゴミをあさって食べ、同時にストリートのメンバーからいじめを受けました。私は路上で暮らした2年間泣くことをやめることができませんでした。


 ある日、私は最愛の祖母が暮らしていた村の周辺に戻りました。私は茂みの中で眠り、木の枝の下で起きていました。私は人々に見られるのが好きではありませんでした。しかし私が戻った約2日後、一人の男が私のところに来て、私にいくらかのお金をくれました。私はうれしく思い、そして彼は私に話し始めました。彼は私の叔父で、私の父の兄弟だと言いました。私はこれまで被ってきたことを考えると、いい気はしませんでした。私の心の中では、私が路上で暮らしていた間彼はどこにいたのだ!と思い、理解ができませんでした。しかし彼が町に住んでいると言ったので、私は彼とともに町に住むことにしました。


 私が彼の家に行ったとき、私は一人の女性に会いました。しかし最初私は彼女が私を歓迎していないように感じました。彼女には私よりも年上の息子がいました。それからの日々は私にとってよいものではありませんでした。彼女はすべてにおいて私をいじめました。私は、自分が悪い息子だと思い始めました。しかしいつも私はこのことを叔父に言うことを恐れました。私は叔父が私の言うことを聞かないのではないか、そして/または私は家族から追い出されるのではないかと思ったのです。路上に戻りたいとは心の底から思いませんでした。私はこの家で生き残ることにしました。私は今この日まで生き残っており、今も私はこう言えます。私は苦しみがまだ私の生活の一部を占めているという事実にかかわらず、自分はまだ生き残っていると。


 私は再び学校に行きました。学校は好きでしたが、このとき私は子どものときの興味とは違う目標を持ちました。私の人生では、子どものときは、私は成長して結婚したいと思っていました。私は嫁をもらいいつもひとつのベッドで彼女と眠り子どもをつくりたいと思っていました。それがすべてでした!しかしこのとき、私は路上での子どもたちの暮らしに変化をもたらすという目標を代わりに持ったのです。授業を受けたとき、私は政策も生活に変化をもたらす強力な道具になるということに気づき始めました。そして私はそれを中学校の2年生で始めました。私は生徒会長に立候補しました。しかし生徒たちは私を選ばず、代わりに私を会長補佐にしました。私はこの役割を1年間して、その後会長になりました。その後私はディベートオルガナイザーに任命され、それから少しして、私はディベートの議長になりました。このときまでに私は学校で多くの友人を持ち、友人たちは私をいつも愛してくれました。彼らとともにいることで、私の苦しみは消えていきました。


 ここで私はパスター・ポールと彼の妻アマンダ(アメリカ人)と友達になりました。私は子どものときから、私の心は「ムズング」(※注:現地の言葉で白人)に好意を持っており、いつも私の英語を彼らに試したいと思っていました。同級生が私の英語はとてもよいという一方で、私はムズングに英語を試す機会がないということに対して、心に多くの痛みを感じていました。しかしパスター・ポールとその妻に対して、私はその機会を持つことができました。私は朝、店に塩を買いに行かされたとして、もし道でムズングと会うことができたら、ムズングがそこを去らなければ、感嘆の気持ちで夜までムズングを見ていて、夜遅くに帰ってくるような少年でした。しかし悲しいことに、私はいつも彼らと話をするために対面することができませんでした。私は人と会話を始めることが苦手で、どこから会話を始めてよいのかがわからないのです。私はとても恥ずかしがりやなのです!


 私が学校生活を送っていたある日、家で1つの問題が起こりました。私が17歳のときでした。義理の母が来て私を呼びました。彼女は私に、叔父のお金がなくなったと告げ、私がそれを盗んだのだと付け加えました。実際、私はやっていません。私は盗んでいないと彼女に言いましたが、彼女は聞きませんでした。叔父が家に帰ってきて、彼女は叔父に私がお金を盗んだと言いました。彼らは私を持ち上げ、私の部屋で私を縛り上げました。私は2日間、セメントの床の上で寝なければなりませんでした。そして彼らは私に何も食べ物を与えませんでした。私は人生は進んでいると感じました。そしてもはやこの痛みには耐えられませんでした。私は自殺することを決意しました。その夜、私はほどかれました。私は部屋でナイフを探しましたが、見つかりませんでした。おそらくどこかに言ってしまったのでしょう。でも私は自分が腕時計を持っていることを覚えていました。私は腕時計の電池を見て、それを2つ取り出しました。私はその1つを壊し、もう1つはそのままにして、その夜それらを飲み込みました。


 私は死ぬことを期待しましたが、胃にわずかな痛みすら感じることなく、次の朝生きて目覚めました。私は再び生きてしまったと感じました。叔父は私と叔父が出会った村に私を連れて行きました。そこには私が知っている人はだれもいませんでしたが、彼はわずかなお金を渡すことも無く、私を置き去りにしました。そして私は人生がそこで終わったと思いました。深い悲しみを感じながら、私はターマックロードまで15kmの道のりを歩き始め、それからさらに25kmの道のりを歩いて町まで帰ってきました。そこが私に知り合いがいる唯一の場所でした。私はこの道を8時間かけて歩き、私はついに友人がいる町に近い場所に着きました。私は状況を彼に説明し、彼は一緒に家に住むことを許してくれました。しかしいつも私は自分の教育について心配していました。私は地域の議長のところに行き、奨学金がもらえないかと頼みましたが、彼はやってくれませんでした。私は役場の書記官のところに行きましたが、彼は私をあちこちに行かせるだけで、次の日に訪問をしても、「ああ、ごめんなさい!明日来て」の繰り返しでした。私は大胆にも海軍防備隊(RDC)の事務所に行き、そこで後でRDCの代理と知ることになるひとりの女性に会いました。このとき私は軍隊に入りに行ったのです。私が彼女に説明をしたとき、その女性は「私の息子よ、あなたは軍隊には入れないわ。とても残念だけど、あなたは学校に戻りなさい」と言いました。またもや手詰まりになってしまいました。


 私は以前に行っていた学校に行き、今の問題について説明しました。彼らは居候として学校で勉強することを承諾しました。私の成績は再び低くなりましたが、学校に行けるのが幸せでした。しばらくして私の叔父が私を見つけ、戻ってくるように言いました。そのとき彼は私に別の場所に小さな部屋を用意してくれていました。私は学校で勉強を続けるには住む場所が必要と思い、その申し出を受け入れました。しかし食べ物を自分で見つけて、毎日学校に行く生活はとてもきついものでした。家に一人でいるとき、私は毎日泣いていました。しかし学校では、私は決して他の子よりも低い成績にはなりたくありませんでした。なぜなら私は以前にそれを経験し、からかわれたからです。見せ掛けのあわれな少年よ!


 私が学校に戻ったとき、友達は私を見て喜んでくれました。しかし彼らが私に笑顔を向ける強い理由が、私の背景にありました。私たちは先生に内緒で秘密を抱えていました。私には約300人の少年たち仲間がいましたが、私たちは軍隊に入りたかったのです。私たちはこの国の政治がとても貧弱であることを非常に感じていました。私たちは国の北部で殺人を行っている戦争権力者コニーにうんざりしていました。私たちはそれにもうたくさんで、そんな状況を変えたいと思っていました。しかし、2002年に軍隊の高官に対する大きな粛清がありました。私たちの心にはすべての死が1つの民族から来ているのだという思いがあり、これは私たちを大いに怖がらせました。これが私たちが軍隊に入るという考えを捨てたときでした。私たちは国の歴史に続いたのです。


 学校では私の成績は振るいませんでしたが、ノエリーンとサラという私をいつも金銭的に支援してくれる2人の友達ができました。ノエリーンは十分な小遣いを持っており、彼女はいつもそれを私に分けてくれました。サラは家が店をやっており、毎日学校の後、家で店を手伝って次の日の朝、5000シリングかそれ以上を持ってきて、私にこのお金について報告をしてくれました。私はそれをもらうことはありませんでしたが、いつも私は彼女とそれをどのように使うかを決めることができました。昼食では、私はサラのために500シリングかそれ以下のランチを買い、残りのお金は昼食なしで来ているほかの生徒たちと分け合いました。私はサラの家族のお金をこっそりと使ったことをとても申し訳なく思います。


 私は一度近所から食べ物を盗んだことがあります。このことについて、私は自分自身を許すことができません。私は2日間空腹が続き、何も食べるものがなく、誰も私に食べ物をくれませんでした。私は近所の家の台所に行き、食べ物を盗みました。時々私は神に許しを請いますが、私は私のやったことに対する因果に耐えようと思います。私は時々おそらく神は私を決して許さないのではないかと思い怖くなるのです。


 学校にいたこのときから、私の心の中では、他人を助けたいという思いがすでに強くなっていました。私は子どもを助けるのが好きでした。20歳のとき、私は孤児たちのためのある学校で教えることができないかと頼みました。私はまだ少年でしたが、いつも路上生活の時には自分の歳を実際よりも上にしていましたし、そのときもどうしても学校で教えたかったので、歳を聞かれたとき、自分の年を上にさば読みました。私は受け入れてもらえました。しかし私が学校で教えるということをどのようにやったのかというのはうまく言えません。あえて言うならば私の子どもたちに対する愛情が非常に強く、それゆえ学校の子どもたちや支援者が私のことをとても愛してくれました。代表の先生は私が育ってきた状況は好ましくないと思っていました。彼は、私が近い将来彼の職を継ぐようにと考えていましたが、私の心は平穏を求めたので、私は5か月でその学校をやめました。それは年の終わりであり、次の年に私は別の学校に教えに行くことができました。しかし私はその学校に満足できませんでした。


 学校の教師として働き始めてから5年がたったとき、私は以前の地区の議長に出会いました。それは2009年の総選挙が差し迫っていたときでした。彼に会ったとき、以前私が奨学金をお願いしたが、出してくれなかった男であることを私は覚えていました。しかし私は彼を無視することはできませんでした。私は彼を支援し、幸運なことに2011年、彼は議長に選ばれました。私は事務所で行政補佐として彼の仕事を手伝いました。そしてこのとき、私は困窮している子どもたちの支援について彼に話す機会を得ました。彼の事務所の支援を通じて多くの子どもたちが教育を受けることができました。彼は本当にやったのです。(※注:議長は2014年に病死しました。)


 私はまたもや止まりませんでした。私はスビ・リァバト・ボランタリー・オーガニゼーション(SAVO)という活動を始めました。スビ・リァバトとは「子どもたちに希望を」をいう意味です。今私は20人の私たちの子どもたちを新しい孤児院で保護しています。さまざまな挑戦に関わらず、活動はまだ私の人生の中で途上です。日々子どもたちの新たなニーズに出会っています。


2014年12月